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Boy's Emotion -AFTER STORY-

  Taika Yamani. 

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  その一 「地に足の着かない生活」-前編-
   一 「新しい日常」


 「おっはよ〜」
 穂積貴子が、同級生の脇坂ほのかと付き合い始めて、二回目の朝の学校。
 ほのかは貴子の手を取ったまま二年二組の教室に入ると、いつも通り元気よくみなに挨拶をする。が、一部の生徒を除いて、みなの返事はぎこちなかった。挨拶は返ってくるが、四年前の夏まで男だったということを昨日暴露したほのかと、どう接すればいいのか、迷うような戸惑いを感じているような、そんな態度。
 そんな周囲の反応を、貴子は少し気にしたが、文字通り少しだけだった。もともと人目に影響されやすい方ではないし、ただでさえ今の優先順位の一番は決まっている。ほのかもそんなまわりを気にすることなく、自分の席に荷物を置くとすぐに貴子の元に戻ってきて、あれやこれやと貴子に構う。
 貴子は貴子なりのペースで振る舞い、ほのかもほのかで、自分なりに動く。昨日のように騒がれたり囲まれたりすることもなく、ほのかは人前でも堂々とイチャイチャし、貴子も、まだ緊張混じりながらも、恋人の接触をこっそり喜んで素直な気持ちで甘受した。
 あまりにも人目を気にしない、二人の付き合い方。
 そんな二人だったから、まわりの反応も結構露骨だった。
 同性愛だし元男同士らしいし、少しは後ろめたそうな様子があってもいいはずなのに、罪なんてどこにもないとばかり、まったくこそこそした様子がない二人。人目をはばからずにイチャイチャする、見目麗しい少女同士のカップル。
 時間が進むにつれて、クラスメートたちはだんだんと『もうこの二人は本当にどうしようもない』という心理になっていったらしい。
 呆れたり、嫉妬にかられたり、見ている方が恥ずかしくなったり、あてられたり、やさぐれたり、羨ましそうに眺めたり。プラスとマイナス両方の様々な視線が織り交ざっていたが、いちゃついているカップルにはただでさえ声がかけづらい。
 他の学年やクラスから覗きに来る生徒もいたようだが、声をかける度胸のあるものは少なかった。貴子は昨日のような騒ぎになることを少し警戒していたが、昨日のようにほのかの知人たちが集まってくることもない。
 貴子は知らないことだが、それにはしっかりと理由が存在した。
 昨日の放課後、部活に出たほのかは、部外者を含む知り合いたちに一度囲まれて、元男だったという件についても一騒動起こっていた。性転換病の経験を隠すのは珍しいことではないとはいえ、ほのかの突然の暴露に、さすがに直接本人に確認したくなったものも多かったらしい。顔を出していた引退済みの女子陸上部の三年生たちが味方してくれたおかげもあって、特にもめたりはしなかったが、貴子が知らないところですでに一山越えていた。
 「ぼくのことはなに言ってもいいけど、貴子と一緒にいる時はそっとしておいてください。貴子って人見知り激しいみたいだし、今大事なところなんです」
 ほのかはその場で正直に、中一の夏に性転換病にかかったことを改めて話し、ずっと隠していたことについては謝ったが、そう言ってしっかりと釘もさしていた。それは純粋にほのかの判断による行動で、貴子が知ればまた一つほのかへの想いを膨らませてただろう。が、「人見知り激しいみたい」という意見や、ほのかの他の発言を知れば、貴子は複雑な思いも抱いたかもしれない。
 現時点では、ほのかもまだみなの反応が読みきれていなかったのだが、結果を先に言えば、貴子との恋人宣言の時も否定的な反応にならなかったように、ほのかが元男と知っても、ほのかの味方でい続ける生徒は多かった。発病前の男だった頃のほのかを知らない分、今のほのかをそのまま受け入れた部分もあるのだろうし、陸上部の先輩たちや、ほのかの姉の後輩にもあたる三年生の生徒会関係者を中心に、上級生がすぐに前向きな態度を取ったのも大きいのだろう。戸惑いも強かったようだから、裏で何か言われている可能性はあるが、表立って手のひらを返す生徒はいなかった。
 「もっと落ち着いたらちゃんと彼女のこと連れてきますからから、みんなにも言っておいてくださいね」
 笑顔で凜と言い切ったほのかの意向は、運動部や生徒会の繋がりから、上意下達とばかり、しっかりとあちこちに広まっていた。
 そんな裏事情もあって、周囲からのちょっかいは少なかった。
 ほのかの前での貴子の態度は、カワイコぶっていると思えたのか、一部の生徒には反感も買ったようだが、ほのかの方が積極的なのも簡単に見て取れるせいか、変に口出しをしてくるものはいない。ほのかが終始貴子の傍を離れなかったせいもあったのだろう、この日のほのかは、トイレにまで一緒にくっついてくる徹底振りだった。
 「女子って、なんでこんなに、群れたがるのかな……」
 「あは、なに? 突然」
 華奢な声で、下手な理屈を持ち出してまでがんばって抵抗しようとした貴子に、ほのかはちょっと笑って逆に問い返した。
 「貴子は、なんで女子は群れたがるんだと思う?」
 「え……、ん、そうしたいから、じゃないの?」
 「そうだね、うん、いつも一緒にいるのが楽しいっていうのもあるね。でももっとおっきな理由は、身を守るため、だよ」
 ほのかは「貴子を逃がさないぞ」とばかり腕をつかんだまま、どこまで本気なのか、大げさな身振りでもっともらしいことを言った。
 「男だって似たようなものでしょ。人が集団を作るのだってそもそもそれが理由なんだから。力がない生き物は数に頼る。一人でできることなんてタカが知れてるんだから、危険を減らしたければ、信頼できる人をたくさん作るのが一番いいんだよ。貴子も、ただでさえ友達作るのへたくそっぽいんだから、いっぱい笑わなきゃだめだよ」
 「……学校で、危険とか言われても……」
 しかも、友達作るのへたくそっぽい、という表現は、否定はしないが、貴子としてもなんだか嫌な表現だった。
 「わかってないなぁ。貴子、ぼくのいない時に菊地さんたちとなにかあったでしょ? 松任谷さんたちが気にしてくれてるみたいだからまだいいけど、菊地さんたちみたいな子も敵に回さない方がいいよ。無理に仲良くしろとは言わないけど、自分から敵を作るのは賢くないよ」
 「…………」
 菊地さんたち、というのは、昨日の昼休みに貴子に話しかけてきて、貴子がそっけなくした同級生の女子たちだ。菊地愛梨はほのかと同じ陸上部だから、昨日部活ででも何か話をしたのだろうか。
 「ただでさえぼくと付き合い始めただけで貴子は敵を作ってるんだから、いつもぼくと一緒にいなきゃだめなの! わかった?」
 なぜそういう結論になるのか、貴子はイマイチ理解できなかったが、しっかりと自分の影響力を認識しているらしいほのかには勝てなかった。
 なんだかんだで、好きな女の子にちやほやされていつも一緒にいるというのは、貴子は基本的に嬉しい。「自分が男としてではなく女として、好きな女の子にちやほやされる」というのは、貴子の理想の恋人関係には程遠いが、今はまだやっと両想いになったばかりだ。贅沢を言うつもりはない。さすがにトイレまではと思いつつも、結局ほのかに逆らわなかった。
 おかげで、トイレでは隣に入ったほのかに聞き耳を立てるどころか、水を流して音がしないように配慮するという、乙女チックな行動を取るはめになってしまったが。
 「貴子の髪って、さらさらで細くてきれいだね。ちょこっとだけ茶系っぽい?」
 手を洗って廊下に出ると、ほのかはそんなことを言い出して、貴子のやや色素の薄いショートな髪を撫でてくる。できたての恋人に甘えているだけなのか、相手のことはなんでも知りたいという心境なのか、それとも単にそれが地なのか。思ったことをなんでも口に出して、即実行に移してくるほのかに、貴子は振り回されっぱなしだった。
 が、あたふたさせられっぱなしの当の貴子本人は、『大好きな女の子に喜んで振り回されるのも男の甲斐性』などと頭の片隅で変な言い訳っぽい理屈を作って、内心嬉しかったりしていたのだから、やはり傍から見れば、もう勝手にやってくれという感じかもしれない。
 「脇坂さんの方が、ずっときれいだよ」
 髪をさわられてゾクゾクっとしたくすぐったさを感じながら、貴子はうつむきがちにされるがままになって、つい本音をこぼしてしまう。
 「あは、ありがと。濡らすと重いし、洗うの手間だし、結構うっとうしいんだけどねー」
 ほのかはそう笑うと、ふと思いついたように、「貴子もさわってみる?」と、自分の長い髪をつまむ。貴子はえっと思ったが、さわっていいのなら正直さわってみたい。ちょっとした問答の後、貴子は素直にお言葉に甘えて、横に回っておずおずと、ガールフレンドのきれいな闇色の髪を手に取って撫でた。
 甘くさわやかなシャンプーらしき香りにドギマギしながら、片方の手の上に彼女の髪を乗せて、もう一方の手は指を通し、手櫛で梳くように、そっと動かす。
 艶やかで柔らかで、極上の白絹よりももっときれいな、ほのかの髪の手触り。
 少しくすぐったそうな、彼女の笑顔も眩しい。
 そのまま髪から、彼女の細く白い首筋や、小さな耳朶、柔らかそうな頬まで撫でたい誘惑にかられたが、貴子はなんとか我慢した。
 『これでおれが男のままなら、かなり男連中から反感買っただろうな……』
 頭の片隅でそう認識している貴子は、元の身体に対する根強い執着と裏腹に、自分が女の立場を利用していることを、薄々自覚していた。男女のカップルなら反感を買いそうなことでも、この年頃の少女同士であれば、多少人前でじゃれついていても、世間はあまりうるさく言わない傾向にある。貴子がほのかとの接触を人前で遠慮なく享受しても、今は女同士になっているし、さほど反感は買いにくい。
 と、貴子は思っていたが、その考えは二つの点で甘かった。
 一つは自分に対する認識で、「反感を買うから、男のままだったらここまで人前ではべたべたできなかった」と貴子は思っているが、貴子の性格を考えた場合、男だった時も今とあまり変わっていなかった可能性はかなり高い。自分からは緊張してしまって付き合い始めは手が出せないだろうが、彼女からイチャイチャしてくる分には、今のように人目を気にせずにこっそり喜んで甘受したと思われる。もちろん、男のままならほのかと恋人になれなかった可能性が高いし、仮に恋人になれていてもほのかの方の態度が違ったかもしれない。男のままであればどう見えたのか、今と比べてどう違ったのか、もう仮定の話でしかありえないが、なかなか興味深いところだ。
 もう一つの甘かった点は、他人に対する認識だ。
 貴子に言わせれば「女の立場を利用して、男ならやりすぎなこともあまり気にしないでやれる」という表現になるのだが、視点を変えれば「元男が女になったことを利用して脇坂さんに近付いている」という風にも解釈できる。すでに充分、生まれつきの女性なら買わないような反感も買っていた。ほのかに恋慕していた男たちにしてみれば、同性愛というだけでも問題なのに、「よりにもよって元男相手なんて!」という反感もあった。
 そんな貴子への反感が表に出て来ないのは、貴子の見た目に騙されているという理由とともに、ほのか自身はまったく意図していなかったことだが、ほのかも元男だったという事実も大きく影響していた。ほのかに対して強い想いを抱いていた生徒ほど貴子に思うところがあったようだが、思い入れが強い分余計に、ほのかの突然の暴露話には戸惑う部分もあるようで、貴子への反感は横にそれていた。ほのかがマイペースだったから、この先みなも自然にほのかを受け入れるようになっていくのだが、貴子とほのかの関係が公然化するだけの隙が生まれていた。
 「貴子って、髪伸ばす気ないの? 最初はセミロングにしてたんだよね?」
 「ん、うん。長くても、邪魔なだけだし」
 「えー、ぼくも見てみたかったなぁ。貴子なら絶対似合うし、また伸ばしてみない? ぼくだけ伸ばしてるのって、なんかずるいよ」
 「ずるいとか、言われても……」
 切りたいなら勝手に切ればいいのに。
 と他人に対してならそう言うところだが、今の貴子にとって、ほのかの問題は半分自分の問題だった。とっさに短い髪のほのかの姿を想像して、激しく見てみたいと思ったが、今の長い髪もきれいで似合っているから、もったいないとも思ってしまう。
 「よし、じゃ、伸ばすので決定だねっ」
 あれこれ妄想をたくましくする貴子に、ほのかは笑ってそう言い切る。
 彼女に言われれば貴子も少しは真剣に考えてみる気になるが、全然何も決まっていない。まだ彼女の髪を手に取ったまま、貴子はちょっと困った顔になった。
 男の時であれば多少情けない印象になったかもしれないが、今の貴子では、どこか甘い、いじらしい印象に見える表情。
 ほのかはそんな貴子を横目で見て、ドキッと心がぐらついたようだが、笑って話を流して貴子に否定をさせなかった。
 「貴子は、ぼくの髪は長いのと短いの、どっちがいい?」
 「え、脇坂さんなら、どっちでも、似合うと思う」
 「こら、また主体性がないぞ。貴子の好みはどっち?」
 「……色々、見てみたい、かな?」
 「あれ、ちょっと予想外。じゃあ切ってもいいの?」
 「ん……、短いのも見てみたいけど、きれいなんだから、切るのはもったいないよ。切らないで、色々やってみて欲しいな」
 「……貴子って、意外にもしかして、ぼくを着せ替え人形にしちゃいたいタイプ?」
 それはいったいどういうタイプなのか。
 またちょっと無駄に悩んだ貴子に、ほのかは笑って身体の向きを変えた。貴子の手の中を、ほのかの艶やかな髪が滑る。
 「ぼくは貴子をおもちゃにしちゃいたいタイプだよ。覚悟しておいてね?」
 ……それもけっこう嫌かも。
 と貴子は思ったが、ほのかのまっすぐな笑顔に何も言えなくなってしまう。さっきからずっと困ったような顔の貴子に、ほのかはくすくす笑うと、無造作に距離を縮めた。貴子の頭を横から抱き込むようにして、貴子の短い髪を、少しつまむように撫でる。
 「貴子って、どこのシャンプー使ってる?」
 急に貴子の髪に顔を近付けて、鼻をくんくんさせるほのか。
 貴子はまた慌ててしまった。やはり貴子は、まだまだ簡単に恋人に振り回されっぱなしだった。
 そんな休み時間がくすぐったく嬉しい分、授業時間は味気なかった。
 貴子は授業に集中しようとしたが、斜め後方の席のほのかの視線を強く意識して、どうしても彼女のことばかり考えてしまう。逆に少し冷静になると、今の自分の身体を思ってネガティブになったり、彼女の前でクールにスマートに振る舞えない自分を改めて自覚してしまって激しい情けなさを感じたり、思考はマイナス方向にも動く。ただでさえ予定していた八月の夏期講習も通えなかったし、九月の前半は休んでいたし、二学期の中間試験はちょっとピンチかもしれない。
 貴子の背中の向こう側では、ほのかもほのかで、授業にあまり集中できていなかった。
 斜め前方の席の貴子を眺めて、前の休み時間を思ってにこにこしたり。次の休み時間を期待して、色々考えてそわそわしたり。授業中の貴子の後ろ姿を観察して、一人頬を緩ませたり。
 四限に関しては、また生徒会の活動がある昼休みを思って不機嫌になったりもしていた。
 その昼休みになると、ほのかは「貴子も一緒に行かない?」と誘ったが、貴子は首を縦には振らない。昨日の放課後の部活もそうだったが、ほのかの公的な対外活動の邪魔はしたくはない。「だったら、執行委員になって手伝ってくれるとか、どう?」ともほのかは口に出したが――生徒会での承認が必要だが、生徒会三役は執行委員を任命できる――、貴子は強い誘惑を感じつつ、それにも乗らなかった。学校全体を考えるべき立場になるなんて柄ではないし、新生徒会長がなんの前触れもなく恋人を執行委員に任命するとなると、公私混同と非難される恐れもある。
 ほのかもわかっていたのか、この日でもう最後ということもあってそれ以上無理は言わなかったが、後半には「明日は絶対一緒に食べるんだからね!」と口に出した。
 が、残念ながらそれも叶わない。明日は貴子の方が図書委員の当番だった。基本的には昼休みが始まってすぐに図書室につめて、昼食は交代で食べることになっている。一緒に食べることは不可能ではないが、中途半端な時間になるし、ゆっくりもできない。貴子は「図書委員なんてちゃんと断っておけばよかった」「せめて最初から放課後担当になってればよかった」と思ったが、その後悔は半年ほど遅すぎだった。
 ほのかは昨日以上にさんざん嘆いたが、貴子のせいではないのにとても沈んだ顔をする貴子に、さすがに強くは言えないのか、「うぅ、明後日までお預け〜?」といじけつつ、時間を気にして出かけていった。
 「穂積さん、ご飯行こ〜」
 名残惜しさをこめて貴子が恋人の背中を見送っていると、すぐにクラスメートの宮村静香が食事に誘ってきた。
 いつもの二人、松任谷千秋と藍川志穂も一緒だ。貴子としては、千秋たちに色々言われるのも充分うんざりするものがあるのだが、地味で目立たなかった以前ならともかく、ほっといても目立ってしまう今、彼女たちがいてくれることで助かることもあった。
 ほのかの言っていた「なぜ女子はいつも群れたがるか」の理論を無条件に信じるつもりはないが、信頼できて助け合える関係の人間が増えるのは、貴子から見ても悪いことではない。最初は挨拶をする程度からでも、ある程度友人を増やすことは、打算的に言っても望ましい。
 と、理屈でわかっていても、実践できるかどうかは、これは各個人の性格にも大きく関わってくる部分だろう。ここでわずらわしさを感じるのが貴子で、自分から積極的に動くことをしない。一年の時には、槙原護というおせっかいで馬の合う人間がいたが――ああ見えて初対面の時の槙原護は、なれなれしさの半歩手前で踏みとどまれるタイプだった――、二年になってからはクラスメートを超える関係の友人がいなかったあたりにも、貴子の性格が表れている。千秋たちの方にその気がなければ、友達にすらなれなかったかもしれない。
 幸い、貴子が多少そっけなくしても、千秋たちは笑って済ませてくれる。貴子もそんな千秋たちを嫌えなかった。今では逆に、千秋たちの負担になることが少し気になるが、千秋たちの方は負担だとかどうとか気にした様子はない。
 貴子は素直に、自分に無理のない範囲で、千秋たちに付き合った。



 日中になって肌寒さは消えているが、今にも雨が降り出しそうな天気だからか、この日の学食は多少混雑していた。貴子たち二年二組の女子の四人は、貴子以外はお弁当で、貴子がカウンターの列に並ぶ間に、他の三人は座席の確保に向かう。
 その途中、三人は千秋の彼氏に遭遇した。特有の喧騒で賑わう学食で、坊主頭の槙原護は自分のクラスの男子たちと一緒にすでに食事中だったが、恋人に気付いて呼びかけてきたのだ。
 「おーい、ちあきー!」
 やや遠方から名前を呼ばれて彼氏に気付いた千秋は、「こんなとこで、やめてよね、そんな大声で名前呼ぶの」と言いたげな、少し嫌そうな恥ずかしそうな顔をしたが、放っておくとさらに厄介になると経験上判断したのか、しぶしぶという態度で彼氏に近付いていく。静香と志穂も後に続いたが、静香は明るく楽しげに、志穂は少しニヤニヤと笑っていた。
 「今日も学食なんだな。もしかして会長も一緒か?」
 護は列に並んでいる貴子にも気付いているようで、ちらりと視線をそちらに投げつつ、陽気に恋人に声を投げる。対する千秋は少しぶっきらぼうだった。
 「脇坂さんは生徒会みたい。穂積さんはあっち並んでるわ」
 「松任谷さんたち、ひるめし一緒にどう?」
 「お、いいね。今ならもれなく護もついてくるぜ?」
 護が千秋に声をかけると、千秋の顔見知りの他の男子生徒たちも口を挟んでくる。彼らは大リーグのプレイオフがどうだこうだと野球の話をしていたようだが、女子が混ざるのは大歓迎であるらしい。中には「貴之」の去年の同級生も混じっていたが、彼らもやはり貴子を「貴之」と簡単には同一視できないようで、列に並んでいる貴子に対して、ちらちらと興味深げな視線が飛んでいた。
 が、人前でべたべたするのを好まない千秋は、からかわれるのを嫌って、恋人と集団で昼食を取るのを避ける。近くの席も空いていなかったから、彼らとはすぐに別れた。
 たまに彼氏と二人きりでお昼を食べている千秋を、志穂と静香がやいのやいの言いつつ、四つ座席を確保する。無数にある八人がけのテーブルの六人分空いていた場所で、テーブルの端に千秋と志穂が向かい合い、志穂の横に静香が座り、日替わりランチを買って合流した貴子は、千秋の横、静香の正面に座った。
 なんの不思議もないことだが、千秋たちも何も義理と人情だけで貴子を昼食に誘ったわけではなかった。新生徒会長の脇坂ほのかに「元男の女」の恋人ができたというニュースと、そのほのかが元男だったというニュースは、昨日から学校中の一番の話題になっていると言っていい。前者の当事者を確保した三人は、昨日はまだ遠慮していた方なのだろう、ご飯を食べながら貴子とほのかのことを肴にして、好き勝手言って盛り上がった。
 「どうせなら、わたしたちの前でも、わたしって言えばいいのにね〜」
 「でも、脇坂さんと一緒にいるとこ見た後だと、オレとか言う穂積さんもなんだか可愛くない?」
 「ああ、それはあるね。こういう時、見た目がいいやつは得よね」
 「穂積さん、声も可愛いもんね〜」
 そんな会話を、本人に聞こえよがしに、だが面と向かわずにし続ける三人。
 ある意味、貴子の性格がわかってきていると言える三人の態度かもしれない。貴子は自分のことについて、直接あれこれ言われれば冷めた反応を見せるが、外野で勝手に言われる分には無視してすませる傾向にある。多少うんざりはするが、今回の件に関しては言われるだけの事をしているという自覚もあるし、三人の姿勢は好意的で悪意を感じないから、一緒にいて不快は感じていなかった。
 確かに、ほのかの前でいつも通りに振る舞えない自分に情けなさや羞恥を感じるが、別に千秋たちに対して恥ずかしいわけではないから、冷静さは崩れない。つまり貴子は、ほのかの前でだけなぜか冷静でいられなくなるわけで、そのあたり、貴子の心理もなかなか複雑だった。
 「隣、いいですか?」
 そんなふうに歓談しながら食事を取っていると、貴子の斜め後ろから、女子生徒の柔らかい声が降ってきた。
 学食のテーブルは貴子の予約席ではない。いちいち問う必要のないことを言ってきた声の主を、貴子はちらりと見やって、無言で「どうぞ」というふうに、手をちょっと動かした。
 ほのかの友人には、積極的でなれなれしいものが多い気がするのは、貴子の被害妄想なのだろうか。知っている顔だがあえて気にしないふりをする貴子の正面では、賑やかに話をしていた静香が「あ、五組の福山さんだ」と小さく声を出した。
 貴子たちと同じ学年の、福山あかり。
 ほのかの従妹で、調理部の部長。
 福山あかりは、彼女の妹のかなえ同様、言われてみればという感じで、ほのかと似ている。が、その方向性は姉妹でだいぶ違っていた。かなえは性格に似て気の強そうな顔立ちだったが、あかりはどちらかというと優しげな顔立ちの子だった。
 ほのかの人気に隠れて目立たないが、男子の中にはあかりの隠れファンが少なくはないことを、貴子はそれとなく知っている。昨夜恋人が電話で暴露してくれたから、あかりに年上の彼氏がいるらしいことも、今の貴子は知っていた。
 「ありがとうございます、穂積貴子さん」
 あかりはにっこり笑って貴子のフルネームを呼んで、貴子の横の席に腰掛ける。食事中だから、食べることに口を使って静かになってもなんら不思議はないが、ちょっと変な沈黙が、そのテーブルに広がった。
 もぐもぐとご飯を食べ続ける貴子と、なぜか会話を止めてしまった千秋たちと、貴子の隣に座ったあかりと。おまけで言えば、全くの部外者なのにどことなく緊張して様子をうかがうような態度になった、あかりの横の二人組の一年生男子と。
 あかりはだれかと一緒に食べにきて、先行して座席の確保にきたらしい。彼女は一人だけで、昼食を持っていなかった。ちらちらと貴子のことも気にしているようだが、背中側のカウンターの方も気にしていた。
 貴子の方も、ほのかと仲がいいらしいあかりに対して色々と思うところはあるが、よく知らない相手に自分から積極的に動くことは滅多にない。あかりが貴子の名前を呼んだということは、しっかりと認識されているということだが、昨日のあかりの妹の件もあるから、警戒感もあった。
 その沈黙を、気まずいと受け取ったのかどうか。宮村静香が明るい声を出した。
 「穂積さん、初デートはどこに行くか、もう決まった〜?」
 貴子は「なんで宮村さんがそれを知ってる?」とは言なかった。冷めた視線を一瞬だけ静香に投げて、無言でご飯を食べ続ける。
 もういつものことだが、以前通りの態度のつもりなのは本人だけで、客観的な印象はまるで違っていた。貴子の母親であれば、「今のタカちゃんって、どんな顔しても、とっても花があるから」と楽しそうに笑うかもしれない。
 しゃんと背筋を伸ばしたきれいな姿勢で椅子に腰掛けて、夏の白い制服から伸びる華奢な右手でお茶碗を支えて左手でお箸を持って、小さな口を動かして黙々とご飯を食べている、十六歳の大人しそうな小柄な女子生徒。
 貴子は今の自分を、わかっているようでいて、まだわかっていないと言える。少なくとも、そんな今の自分がどう見えるか、他人がそんな自分をどう見るかを、貴子は時々想像して鬱になったりしつつも、理解しきってはいなかった。
 そんな貴子だから、静香は冷たい態度とは微塵も受け取らずに、「あれ?」という顔で、貴子を見返した。
 「次のお休みとか、デートじゃないの〜?」
 「え、違うの?」
 「もしかして、まだ話してないとか?」
 千秋と志穂まで、意外そうな顔でそんなことを言う。三人は貴子とほのかの約束を知っているわけではなく、貴子たちの態度から当然そうだろうと推測しただけらしい。貴子は口の中のものを呑み込み、数瞬沈黙を作ってから、一言だけ言い返した。
 「……ノーコメント」
 男の時ならそっけないと受け取られたであろう態度だが、可憐な顔立ちと繊細で澄んだ声では大人しげな印象にしかならないのだから、やはり容姿や声や性別が人に与える影響というのは馬鹿にならない。そして無視したり「宮村さんたちには関係ないよ」と言わなかった分、貴子と三人の距離も確実に縮まっていた。例によってその反応は、三人の問いかけに答えを返しているのと半ば同じだった。
 「おー、なんだ、もう約束はしてるのか」
 「あは、そうよね、脇坂さんの方が積極的だもんね」
 「むー、でもどこに行くのかくらい、教えてくれたっていいのに〜」
 お弁当を食べながら、三人口々に言う。
 「後で脇坂さんに聞けば教えてくれるかなぁ?」
 「脇坂さんなら喜んで教えてくれそうじゃない? むしろ自慢しそう」
 「でも、“ぼくらだけの秘密だよっ”なんて、言っちゃいそうじゃないかな〜?」
 「はは、似てる似てる」
 完全に面白がっている三人だった。「もっと他にまともな話題はないのか?」と貴子はつっこみたくなったが、この様子では、貴子が何か言うたびにいっそう調子に乗られるのは目に見えている。無言でご飯を食べ続けた。
 ここで、どこか笑みを含んだ声で、横から福山あかりが口を挟んだ。
 「初デートは、日曜日に映画に行くみたいですよ」
 顔と名前は知っているとは言え、面識のない部外者の言葉。もしも千秋たちがネガティブな反応を示していたら、あかりはどう動いたのだろう。また、貴子もどう動いたのだろうか。
 そのあたりはなかなか興味深いところだが、新しい沈黙は生まれなかった。「なんでそれを福山さんが知ってる?」と思うがまた口には出さない貴子をよそに、即座に静香が反応していた。
 「わ、そうなの? 脇坂さん情報〜?」
 「ええ、ほのかからの情報です」
 最初からあかりの発言を促す意図があったのなら、静香は第一印象に似合わず計算高いと言えるが、志穂などに言わせれば、静香の態度は単に天然なだけだった。千秋もちょっと笑って、自然に会話を受け繋いだ。
 「初めては映画か。意外に無難な線を選んだのね」
 「映画って無難かな? 今なんか面白いのやってたっけ? つまんなかったら盛り下がらない?」
 「それはそれで、後で一緒にけなすのも楽しいでしょ。最初からつまんないのを見に行くわけでもないでしょうし」
 「つまんない時は、こっそりらぶらぶしてればいいんじゃないかなぁ〜?」
 「はは、脇坂ならやりそうで怖いね」
 面白がる静香と志穂に、千秋も「かなり嫌な客ね」と笑う。そんな三人の会話に、あかりもにこやかにまた口を挟む。
 「ほのかは、暗闇だと緊張してしまいそうですよ」
 「えー、そうは全然見えないよ〜?」
 「そうですか? ほのかって結構ウブですよ」
 あかりは笑顔で静香にそう応じると、横から貴子を見やり、やんわりと、貴子に水を向けた。
 「そんなほのかですから、穂積貴子さん、大事にしてあげてくださいね」
 「……言われるまでもないよ」
 あかりの口調に悪意を感じないから、貴子も繊細な声でやんわりと言葉を返したが、相変わらず口数は少ない。男だった時には「かなり無愛想」と評されていた態度で、その時に比べれば今の容姿では控えめで大人しい印象に見えるが、どちらにせよ言葉が全然足りていない。ほのかが「友達作るのへたくそっぽい」と言いたくなっても無理はない態度かもしれない。
 「大事にされてるのはむしろ穂積の方なんじゃ?」
 「あは、うんうん、脇坂さん積極的だからなぁ。穂積さん、振り回されっぱなしだよね〜」
 「それ、大事にされてるって言っていいの?」
 「案外、脇坂のことだから、なにも考えてなかったりして」
 口数の少ない貴子と対照的に、さっきからやたらと率直な感想ばかりを述べている千秋たちだ。「人の彼女をなんだと思ってるんだ」と思えるほど、貴子とほのかの付き合いはまだ深くはないが、また少し視線が冷たくなった。いっそ最近の映画の話題にでもなってくれれば貴子としては気楽なのだが、そうは問屋が卸してくれないらしい。
 そんな貴子に気付いているのかいないのか、あかりは少し吹き出すように「ほのかは確かに、あまり深くは考えてないかもしれませんね」と笑う。そして笑いながら、貴子にまっすぐに向き直る。このタイミングで、あかりは自己紹介をしてきた。
 「食事中ごめんなさい、穂積貴子さん。ほのかになにか聞いてると思いますが、わたしはほのかの従妹で、二年五組の福山あかりです。初めまして。よろしくお願いします」
 「……よろしく」
 「ごめんなさい、放課後まで待てなくて。みなさんも、お邪魔してしまってごめんなさい」
 「全然ジャマじゃないよ〜。あ、わたしは穂積さんと同じクラスの宮村静香です!」
 「同じく、松任谷千秋です」
 軽く頭を下げたあかりに、静香と千秋も笑顔で口々に名乗る。志穂は小さく肩を竦めて、「同じく藍川志穂よ」とだけ短く名乗った。志穂も初対面の人間には、静香たちほど愛想がよくない。
 「福山さんって、脇坂さんと仲いいんだよね〜? 穂積さんのこといろいろ聞いてるの〜?」
 「いえ、それほどでもないですよ。まだ昨日の夜、ちょっと電話で話をした程度です」
 「脇坂さん、学校では穂積さんにべったりだものね」
 「みたいですね。そんなほのか、珍しいですよね」
 「えー、そうー? 恋人できちゃうと、みんなあんなじゃないかなぁ?」
 「んなわけないって。あそこまで恥ずかしいのはそうそういないっしょ」
 志穂はわざとらしくニヤニヤ笑って、その視線を貴子に向ける。貴子は黙殺したが、千秋と静香も調子に乗って、ほのかと貴子のいちゃつきぶりを口に出す。あかりは笑って聞いていたが、貴子としては、本人の前でその手の発言をするのはやめて欲しかった。
 「昨日なんて、更衣室でいきなりアレだし〜」
 特に昨日の更衣室の件は痛い。他人から聞かされると、自分の言動がいかに恥ずかしいものかいっそう思い知らされて、さすがにちょっと逃げ出したくなる。
 幸い、すぐに場の空気が変わった。
 にこやかに話をしながらもカウンターの方を気にしていたあかりが、立ち上がって手を上げた。両手に一つずつトレイを持ってきょろきょろとしていた一年生の少女に、あかりは手を振る。
 「かなえ、こっちです」
 「う、お姉ちゃん、なんでそんな混んでるとこなの」
 二人なら比較的簡単に席は見付かるから、その発言はもっともだが、その声は貴子たちの席までは届かない。姉よりも背の高い福山かなえは、二つのトレイを水平にするように気をつけながら、気の強そうなポニーテールを揺らして、テクテクとやってくる。
 「あ、福山さん、妹さんと一緒だったのね」
 「妹さんは、かなえちゃんっていうんだ〜?」
 千秋と静香が、あかりの動きに反応してそう言葉を交わす。あかりは、ええ、と微笑しながら、椅子に座りなおす。
 恥ずかしい会話が止まったのはいいものの、かなえの登場に貴子の思考は色々と渦巻いた。
 『ぼくにとって、あかりは口やかましい世話焼きの妹って感じで、カナは手のかかる元気な妹って感じかな?』
 昨日電話でそう言っていた、貴子の恋人。今日の放課後調理部にゲスト参加することになっている貴子は、その時に福山姉妹のことも紹介してもらう予定になっている。ほのかはバドミントン部のかなえもゲスト参加させるつもりらしい。
 『カナ、昔は懐いてくれてたんだけど、その分割り切れないのかなぁ。ぼくが女になったの、ずっと気にしてるみたいでね。今は避けられてばっかりで、ろくに口もきいてくれないんだよねー』
 などなどと、ほのかはちょっと愚痴めいたことを口にした後、『カナはまだ子供で意地っ張りだけど、できれば仲良くしてあげてね』と最後に真面目に付け足した。
 その恋人の言葉に、貴子は控えめに頷いたが、「まだ子供」という内容には内心否定的だった。昨日の放課後の一件を考えると、かなえのほのかへの態度には、彼女なりの「女」としての気持ちがこめられているように、貴子には思える。ただでさえ敵視されているようだし、できれば福山かなえにはあまり近付きたくない貴子だった。
 「かなえちゃん、ここどうぞ〜」
 「あ、すみません」
 かなえが近付いてくると、静香がにこやかに隣の椅子を引く。かなえは「だれこの人」と思ったようだが、姉の友人だと解釈したのか、慌てて礼を言いながら、二つのトレイをテーブルに置いた。
 「重かった! お姉ちゃん、先に行っちゃうなんでひどいよ」
 見た目は気が強そうで大人びているかなえだが、振る舞いにはまだ幼い部分が残っている。トレイの一つを正面の姉の方に差し出すと、かなえは「一仕事しました!」という顔で椅子に手をかけ、何気なく姉の横に座っている女子生徒を見た。
 そして数秒、かなえはフリーズした。
 「ごめんなさい、どうしてもここに座りたくて」という姉の声は、耳に届いたのかどうか。
 かなえの方を見ないようにして、ちょっと下向きに、だがきれいな姿勢で静かにご飯を食べている、大人しそうな二年生の女子生徒。立っているかなえの位置からは、その上級生の短い髪が、艶やかに光を反射して、天使のわっかを作っているのがよく見えた。
 「わあー! なんでここに、ほづみたかこがいるの!」
 かなえは座りかけた椅子から、ばっと立ち上がった。
 気付くのが遅いです、と、あかりは思ったようだが、口に出したのは妹の言葉に対する回答だった。
 「穂積貴子さんも、ご飯を食べてるだけですよ」
 「そ、そんなの見ればわかるよ! なんでここに、ほづみたかこがいるの!」
 ちょっとパニックになっているのか、かなえは同じ言葉を繰り返す。
 立ったまま大声を出すかなえに、ただでさえ視線を集めがちだった貴子の方に、まわりの注目が集まる。名指しされた貴子は、わずらわしさを感じつつ顔を上げたが、言葉を選んでいるうちにあかりが先に動いてくれた。あかりは少し笑うような声で、妹の相手をする。
 「学食だから、なんの不思議はないでしょう?」
 「そ、そんな、でもでも、ちがうー! 信じらんない、お姉ちゃんなんでその人と一緒で平気なの!? わたしこの席やだよ!」
 かなえはきっぱりと言い切る。その腕を、ちょっと驚いていた静香が、笑いながら軽く引っ張った。
 「かなえちゃん、まずは落ち着いて、座ろ〜?」
 「わ! なんですか、あなたは! さわらないで下さい!」
 「あう、ひどい……」
 「そうですよ、かなえ。もっと静かにして、まずは座りなさい」
 「こんな席やだ! わたしあっちで食べる!」
 「かなえ!」
 姉の制止の声を聞かずに、かなえはトレイの一つを両手で持ち上げると、最後に強く貴子を睨んでから――どこか泣きそうな瞳で睨んでから――、その場を離れた。
 騒ぐだけ騒いでいなくなるかなえを、あかりは立ち上がって呼び止めようとしたようだが、すぐに諦めたらしい。しかたなさそうに座りなおす。
 「ごめんなさい、あんな妹で……。えっと、宮村さんも、ごめんなさい」
 「あ、ぜんぜん、気にしないよ〜。かなえちゃんって、元気で可愛い子だね〜」
 「……福山さんが謝ることじゃないよ」
 あかりの謝罪に、静香が明るく言葉を返し、貴子も短く言葉を添える。
 志穂と千秋が「穂積って福山妹に嫌われてるんだ」「みたいね」と言葉を交わすのをよそに、あかりもトレイを持って立ち上がった。
 「穂積貴子さん、放課後はほのかと一緒に調理部に来るんですよね? その時までにかなえのこと、なんとかしてみます。本当にごめんなさい」
 あかりは返事を待たずに、「かなえのところに行きますね」と最後にもう一度頭を下げると、妹を追って立ち去った。
 静香は興味深そうに、志穂も面白そうに、あかりを目で追う。千秋は食事中にそんな態度を取る友人たちを「お行儀が悪いなぁ」という目で見たが、彼女も気になったらしい。千秋や貴子からは背中側になる場所に座った福山姉妹を、一度しっかりと振り返って様子をうかがったのだから、あまり人のことは言えない。
 貴子だけはひたすらもぐもぐとご飯を食べ続けていて、志穂がからかうような笑顔を向けた。
 「なんかナマイキそうな子だったね。いっちょ軽くしめとこうか?」
 「なにバカ言ってるのよ」
 「えー、可愛い子だったよ〜」
 「はは、まあそれは冗談だけどさ、穂積ももっと愛想よくしようって気はないの? カノジョのイトコなわけでしょ」
 「あ、それわたしも思った。少しは自分から仲良くしておいた方がいいんじゃない?」
 「福山さんたちって、きれいで可愛いから、仲良くなると楽しそうだよね〜」
 「あんたは見た目がよければだれでもいいの?」
 静香につっこみを入れる志穂に、千秋も少し笑うが、貴子の横顔から視線をはずさない。「妹さんの方はともかく、福山さんとは仲良くなれそうだったじゃない?」と続ける千秋に、貴子はちょっと手を止めて顔を上げて、いつもの繊細な声で無造作に言葉を紡いだ。
 「松任谷さんは、紹介もされてないのに、槙原の男友達になれなれしくされたらどう思う?」
 「え、んー」
 「えー、今って穂積さん女子だし、みんな女子同士だから、気軽に声かけてくるんじゃないかなぁ? 福山さんもそうだし、菊地さんたちもきっとそうだし、わたしもそうだったしー」
 「おー、静が珍しくまともなこと言ってる」
 「む、志穂ちゃん、珍しくってなによぉ」
 「うん、でもやっぱり、彼氏の友達ともめると、彼氏とも険悪になるかもしれないでしょ。少しは気にならない?」
 「…………」
 この場合だれをだれの彼氏と例えているのか、貴子は自分から言い出しておきながらちょっとずれたことが気になったが、言い返すことをしなかった。「相手の態度によるよ」とか「気にはしてるけど、だからと言ってどうこうする気にならないだけだよ」とも思ったが、口には出さない。
 『自然に仲良くなるのならともかく、積極的に自分から関係を築こうとは考えない。嫌われたいわけではないが、相手の好き嫌いは相手の問題で、自分からどうこうしようとは思わない』
 よほど特別な相手ならともかく、そうでない以上、それが貴子の基本的な対人態度。もともと人付き合いは狭く深くという傾向があるのか、貴子は親しい人間を増やす必要性を感じていない。
 あかりはほのかと特に仲がいいようだから、できれば良好な関係が望ましいとは思うが、福山姉妹を特別扱いする気になるほど、貴子はまだ彼女たちを知らない。ほのかの親しい相手であっても、相手の態度に応じて貴子なりに動く。それが、今の貴子の精一杯だった。
 とは言え、ほのかは貴子に福山姉妹と仲良くなって欲しいようだから、避けて通るわけにいかないのもまた確かだった。理屈で言っても、貴子もそのうち恋人に母親を紹介したいことを考えれば、彼女ががちゃんと紹介してくる相手とは仲良くなる努力をすべきなのかもしれない。厳密には、母親の方が強要しているだけで貴子はまだ恋人と母親とを会わせたくないが、どちらにせよ、相手にだけ一方的に、貴子の身内と仲良くすることを求めるわけにもいかない。
 誰かと親しくなれば、その相手を通じて、良くも悪くも、交友関係が広がる可能性も増す。貴子としてはほのかだけでいいのだが、やはりそうもいかないのが現実なのだろう。貴子は「恋人にとっての特別な相手」を、無条件に「自分の特別」にするつもりはないが、相手に応じて動くという受動的な姿勢では、この先やっていけないのかもしれない。
 「千秋ちゃんって、なんだか、そんな経験あるの〜?」
 「え、あー、中学の時に、ちょっとね」
 「ん? ああ、あれは、千秋と槙原が険悪になったのとは違うじゃない」
 千秋の中学時代を知らない貴子と静香にはわからない話だが、中学時代に千秋は彼氏の男友達となにやらあったらしい。話が微妙にそれかける。が、千秋はそれを嫌ったようで、話はすぐに戻ってきた。千秋はほのかと同じようなことを言う。
 「わたしのことはいいとして、菊地さんたちのことも少しは気にした方がいいよ。脇坂さんがいるから、イジメとかはさすがにないとは思うけど」
 「穂積さんも、人気者の彼女を持っちゃうと大変だね〜」
 「はは、でもさ、男子のやっかみが少ないだけましじゃない? 穂積の見た目がいいせいもあるけど、脇坂が元男だったっていうのもきいてるよね」
 「ああ、みたいよね。男子、穂積さんだけじゃなくて、脇坂さんにも近付きにくくなってるみたいだし」
 「それって、二人がいっつもアツアツでくっついてるからじゃないかなぁ?」
 「それもあるね」
 「むしろそっちが大きい?」
 三人笑って、反応が薄い本人そっちのけで、また言いたい放題言い始める。
 貴子は例によって黙殺しながら、『ここに脇坂さんがいればまた違うんだろうな』と、恋人のことを考えたりしていた。ほのかの傍では貴子は冷静ではいられないから、彼女が貴子をからかう側に回れば、かなり慌てふためくことが自分でも予想できてしまって情けないが、逆に彼女が貴子の味方に回ってくれれば、彼女と三人がやいのやいの言い合うのを、楽しんで眺めることもできるだろう。
 ほのかの知人友人との付き合いに関しても、ほのかが傍にいるといないのとでは、良くも悪くも全然違うのは目に見えている。『早く脇坂さんに会いたいな……』と、なんとなく切ない気分で思いながら、貴子は黙々とご飯を食べ続けた。





 to be continued. 

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初稿 2008/05/06

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