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Boy's Emotion

  Taika Yamani. 

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  第二話 「地に足の着いた生活」
   一 「学校」


 九月も半ばを過ぎると、夏と秋との勢力争いが激しくなる。
 涼しい日があったかと思えば、夏に逆戻りしたような天気が続いたり、秋を象徴するかのようなさわやかな日や、しとしととした雨の日があったりする。もう少し時が進めば、楓や銀杏も赤や黄色に染まって秋が当たり前になり、少しずつ冬を思わせるような日も混じるようになって、やがて本格的な冬がやってくるのだろう。
 そんな九月の二十日、連休明けの火曜日。
 真新しい女子の夏の制服に身を包み、一年半使い古した学校標準指定のスクールバッグを右手に持ち、同じく標準指定のバックパックを左肩にかけた穂積貴子は、普段より早い時間に学校に到着した。
 最近朝晩は徐々に涼しくなってきていたが、この日は今年何号目かの台風が北上中らしく、少し風の強い、蒸し暑い朝だった。日差しはあるが、空に見える雲の流れは速い。テレビの天気予報によると、都内も夜には雨になるというし、進路次第では暴風警戒域にも入るらしい。時々雲が太陽を隠し、貴子の身体を大きな影で包み込んでいた。
 徐々に生徒たちが増え始めている時間帯、女になって初めて学校にやってきた貴子は、人目を意識しつつ校門を通り抜けた。穿き慣れないスカートと短い髪とを風に揺らしながら歩いて、約二ヶ月ぶりの校舎へと近付く。
 よくスカートは足がスースーして涼しいといったことを聞くが、風が強いせいか、皮膚感覚が過敏になっているせいか、または単に慣れないせいか、今の貴子も、少しくすぐったく感じていた。
 が、冬場ならともかく、まだ暑い日もある季節、理屈の上では、男の短パン着用時とさほど変わりがないはずだった。スカートの中にしっかりとショートパンツを穿いている貴子にとってはなおさらで、意識して深く気にしないようにしていた。
 男だった時はスカートなんて穿いたことがなかったから、スカートの着用自体全然慣れない。平均より長めのプリーツスカートが脚にまとわりつく感覚も、まだ嫌でも意識してしまう。中学以降は短パン姿を外でさらすのは学校の体操服くらいだったから、太ももや膝やふくらはぎが常に大気に触れている感覚も落ち着かない。ふくらはぎの半分ほどを覆う靴下も、新品のせいもあるのか、柔らかい締め付けが妙に気になる。無駄にすべすべした太ももと太ももが時々ショートパンツ越しに擦れ合って、その近くの男の身体とは大きく違う部分も、その感触も変に意識させられている。
 万事がそんな調子だから、意識しすぎるとところかまわず性的な欲望もくすぶりだして、どうしても無視できずにいたが、だとしても、今の自分の女の身体のことも立場のことも、気にしすぎても無駄に神経を消耗するだけだった。
 何より、今の貴子が一番気になってしまうのは、少し角度の違った別のことだった。
 貴子は表面上は平然とした自然体で動いていたが、昨夜お風呂に入っている時も、眠る前も、朝起きた後も朝食の最中も、家を出て電車で移動して学校へと来る間も、ずっと一人の少女のことばかり意識していた。友人には恋愛どころではないと言っておきながら、いざ登校するとなると、考えるのは好きな女の子のことばかりだった。
 貴子の片想いの相手、脇坂ほのか。
 貴子より九ヶ月ほど年上の、十七歳の同級生。
 彼女のことを考えると、貴子の感情は昂ぶり、同時に、苦しくなる。一度告白してふられてしまっている相手。なのにそれでも、どうしようもないのに、諦めきれない相手。
 これまでずっと異性だったのに、貴子は彼女と同じ女になってしまった。
 いっそ同性になったことをきっかけにして吹っ切れればよかったのかもしれないが、身体が女になったからといって、貴子の気持ちはそう簡単には変わらなかった。好きだという気持ちは何も変わっていない。
 だからこそ、苦しい。
 もともと、脇坂ほのかは「貴之」を特別意識していなかっただろうから、性別が変わったからといって、今の自分の姿を見られたからといって、何かが変わるとは貴子には思えない。学校が毎年企画している海外サマーキャンプに、ほのかは今年も参加しなかったようだが、その気になれば夏のイベントは多い。そんな高校二年の夏休みを過ごして、もう彼女に恋人ができてしまっているという、考えたくない可能性だってある。
 それでも、男から女になってしまった今の自分の姿を、好きな女の子に見られることに、貴子は冷静ではいられなかった。今の変わり果てた女の姿で好きな女の子に会うということに、恥辱を感じると共に、重苦しく暗い気持ちになる。会いたいけれど会いたくない。今の自分を見られたくない。逃げ出したくなる。自分が女になってしまったという事実にまた落ち込みたくなる。考えれば考えるだけ、気持ちが揺れる。
 だから、貴子はできるだけほのかのことも意識しまいとしながら校舎に入った。
 が、校舎に入るなり、貴子は彼女のことを強く意識させられた。靴箱の脇に、今週の木曜日に控えた生徒会役員選挙のポスターが貼られているのが目に入ったのだ。
 三頭身にデフォルメされた女子生徒の絵と、「より楽しく!」という非常にシンプルなスローガン。
 貴子はちょっとだけ驚き、ちょっとだけその絵が欲しくなり、ちょっどだけ胸が痛んだ。
 前評判どおり、脇坂ほのかは、生徒会長候補に擁立されていた。後日貴子が耳にする話によると、本人は積極的に立候補するつもりはなかったらしいが、女子の副会長候補と会計候補を中心とした友人たちに強く推されて立候補したらしい。
 マンガ絵が得意な友人にでも頼んだのか、そのポスターの絵はほのかの特徴をよくあらわしていた。デフォルメされている分、かなり幼い印象だが、凜としてきれいで可愛いほのかの魅力を損なっていない。
 そのほのかに、もうすぐ今の自分の姿を見られると思うと、貴子はやはりいてもたってもいられなくなる。四月には同じクラスになった時は喜びつつも苦しかったものだが、今はなおさら、同じクラスであることが辛く思えてしまう。
 そんな気持ちを押し殺すように、貴子は風に乱れた髪を手で簡単に整えて歩き、サイズの小さなスニーカーを脱いだ。緊張に高まる鼓動を耐えながら、バックパックから新品の薄緑色の上履きを取り出して履き替え、脱いだ靴は事前の担任教師の指示通りに、二年二組の女子の十七番の靴箱に放り込む。
 他の学校がどうなのか貴子は知らないが、男子の「貴之」の出席番号の十二番は欠番になって、貴子は女子の最後の番号、女子の十七番、全体で三十三番をもらうことになっている。まるで転校生扱いだが、その方が名簿の扱いが楽だという、事務的な理由があるのかもしれない。お役所的と言えるが、貴子以外の生徒の出席番号が変化しないのだから、生徒たちとしては気楽とも言える。
 『でもそれって、女子が男子になった場合はどういう扱いになるのかな?』
 今の三年生の中に、春に女子から男子になったものがいたが、転校していったらしいし、さほど興味がなく気にしていなかったから、実際どうなのか貴子は知らない。そんなどうでもいいようなことをわざと考えたりしながら、貴子はまっすぐ一階の職員室へと向かった。
 職員室に着くと、二年二組の担任教師に挨拶をして、先日撮ったばかりの証明写真を手渡す。学校に早く登校したのはこのためで、貴子としては「わざわざ早く来なくとも、生徒手帳用の写真なんて後で教室で渡してもいいだろうに」と思うのだが、他の教師たちへの、ちょっとした顔見せ目的も含まれていたらしい。スクールカウンセラーに引き合わせれたのはいいとして、他の教師たちにじろじろ見られたのは、少し不快感をかきたてられてしまった。
 「あら、写真、夏服で撮ってきたのね」
 「……問題があるなら、撮り直してきます」
 「ああ、いえ、かまわないわ、わざわざそこまでしなくても夏服で」
 二児の母でもある三十代後半の担任教師は、病院のお見舞いで顔を合わせた時は少し戸惑ったような態度だったが、この時は心理的再建を果たしていたようで、もうすっかり普段の様子だった。もしかしたら貴子のことを、初対面の転校生と同レベルとみなしたのかもしれない。
 放課後には新しい生徒手帳ができるというような話、事前に聞かされていた出席番号や教室後方の荷物置き場の話、九月の席替え後の貴子の席の位置などなどの話をしてから、彼女は最後にやんわりと付け加えた。
 「困ったことがあったら、いつでも遠慮なく相談してね。女同士になったことだし、その方面のこともなんでもね」
 ありふれた発言だが、教師としての自負が感じられる態度だった。一歩間違うと「女子になっただけの男子生徒」にセクハラ発言をされるかもしれないのに、彼女はその台詞を言う時、まっすぐに貴子を見つめていた。男子から女子になった受け持ちの生徒に対して、彼女も色々思うところもあるのだろうが、大人の貫禄を見せつけてくれた。
 そんな担任教師とカウンセラーに儀礼的に謝意を伝えて職員室を出ると、予鈴までもう少しだけ余裕があるという時間。
 樟栄高校の校舎はいくつかの建物からなり、最も大きい一号館が主校舎で、一階に保健室や職員室などがあり、二階に一年生の普通教室、三階に二年生、四階に三年生となっている。上に行くほど見晴らしはよくなるが、階段の移動距離も増える。これは一部の上級生には不満の種らしいが、教師たちは「三年は二学期までには部活も引退するし受験勉強もあるし、ちょっとでも運動不足の解消になる」と、ありがちな反論をしている。
 南北――正確にはやや北東からやや南西――に縦長い一号館は、一階の中央に昇降口があり、北側は東の三号館へ、南側は体育館に繋がっていて、中央と南側には各種特別教室がある二号館への連絡通路も延びている。
 徐々に人が増えてくるこの時間、貴子は人の流れに混じって、南側の中央階段を使って三階に上がった。三階に上がると、二年の五組と六組の間にでて、貴子は無表情で五組と四組の前を通り過ぎ、北側の中央階段の前も抜ける。
 途中途中、妙にじろじろと見られたような気がするが、病院でのリハビリ中や母親と買い物にでかけた時にも、この手の視線はあった。特に男子の視線には「男に女として値踏みされている感覚」を感じてしまい、緊張を上回る不快感が込み上げて内心身構えてしまうが――男とはそういうものだとわかっていても、むしろ身をもってわかっている分だけ、自分がそういう目で見られるのははっきり言って気色悪い――、自意識過剰になっているだけだという思いもあるから、いちいち顔には出さない。
 貴子は以前通り、肩の力を抜いてしゃんと胸を張って背筋を伸ばし、まっすぐに前を向いて一歩ずつしっかりと歩く。
 すぐに三組の前も通り過ぎて、二年二組に到着した。
 二組の教室には、すでに半分ほどの生徒がやってきていた。朝から机に顔を伏せて眠そうにしているも生徒いるが、賑やかに雑談している生徒も多い。
 後方のドアから教室に入った貴子は、さっと視線を走らせ、そして一瞬で片想いの女の子がまだいないことを見てとって、無意識に気を抜いた。
 友人の恋人である松任谷千秋も、まだ来ていないらしい。それを視界の隅で確認しながら、貴子はゆっくりと、担任教師に教えてもらった自分の席に向かった。
 貴子の席は、教室の黒板に向かって左側、ベランダ側の二列目の、前から二番目。男女入り混じりの席順で、一人の男子生徒が貴子の席に座って、後ろの男子たちと笑って話をしていた。
 「わ、あれだれ?」
 貴子が教室を歩くと、朝の賑やかさに包まれていた室内が、いつもと違った形でざわついた。
 「なにあの子、一年?」「なんの用だろ。誰か知り合い?」「うわ、めっちゃ可愛い子だね」「一年にあんな子いた?」「あ、でも上履き緑だよ」「え、二年? もしかして転校生?」「あ、もしかして……!」「え、まさか……!」「でも今日からって……」
 貴子の席に座っていた男子も、その広がるざわめきに気付く。彼は何事かと言うふうに教室を見回して、みなの視線の先、貴子の姿に目をとめた。
 「…………」
 貴子と目が合い、なぜか息を呑んで口を閉ざすその男子の前では、先に貴子に気付いていた後ろの男子が「お、おい、こっちくるぞ」と少し慌てたような様子になる。
 顔なじみのクラスメートたちの反応に、貴子は鬱屈した心理を抱いたが、表面上は冷静さを崩さなかった。自分の席の前で足を止め、無造作に声を出す。
 「どいてくれないかな」
 男のままなら、低く響く、多少そっけない声だったのだろうが、今となってはあまりにも違っていた。
 細く高域に響く、透明感のある澄んだ少女の声音。
 「え?」
 男子生徒はなぜそんなことを言われたのかわからないようで、少し情けない間抜け面をさらす。貴子はゆっくりと言葉を重ねた。
 「おれの席はここだって聞いたけど?」
 なまじ繊細で愛らしい声と容姿なだけに、初めて聞く者にはどうしても違和感が強烈な物言い。
 「え……」
 また呆けたような声を出す男子をよそに、反応したのは外野にいた生徒たちだった。
 「や、やっぱり穂積くんなの!?」
 どっと、教室中がどよめいた。
 「え〜〜!?」「げ!?」「え、ほんとに穂積くん?」「穂積!?」「お、おいおいマジかよ……!?」「あ、あの子があの穂積……?」「うわぁ、信じらんない……!」「か、かわりすぎ!」「じょ、女子にしか見えねー!」「ばかね! もう女子なんでしょ!」「い、いいなぁ……」「あ、あんなに可愛くなるならもっと仲良くしとけばよかった!」
 みなが公式に「貴之」の発病を知ったのは九月に入ってからだが、一部の生徒はクラスメートの松任谷千秋から情報を得ていたし、先週末にも担任教師からの事前通達があった。だからすでにみな冗談めかして色々と噂をしあっていたのだが、それでも、「貴之」の変化はみなの想像を越えていたらしい。
 「ご、ごめん!」
 貴子の席に座っていた男子生徒も、慌てたように立ち上がる。貴子は何も言わずに動き、スカートが乱れないようにちょっとだけ気にしながら椅子に座って、スクールバッグとバックパックを机の上に乗せた。
 なんだかお尻の座り心地が以前と違うように感じるのは、気のせいなのか、確実に貴子の身体が変わってしまっているからなのか。
 貴子が余計なことを感じながら机の中を確認し始めると、おずおずと、後ろの席の男子が声をかけてきた。
 「ほ、ほんとに、穂積……サン、なんですか?」
 なぜかサン付けで丁寧語だ。貴子はちらりをその男子を見やって、「ああ、そうだよ」とだけ短く答えて、すぐに視線を戻した。やはり見た目や声に対する言葉遣いのギャップは激しく、その男子は怯んだようにもごもご言う。
 その男子たちはたまには話をする相手だったから、何事もなく夏休みを過ごしていたら、「久しぶり」とでも応じて当り障りなく会話は進んだかもしれない。が、これまで「穂積」と呼び捨てしていた相手の露骨に身構えた態度に、貴子はそれ以上言葉を重ねる気になれなかった。
 ありきたりな表現だが、しょせん自分は自分で、他人は他人だ。貴子は他人の理解や同意や共感など期待していないし、必要ともしていない。彼らがこの先貴子にどう接しようとするかは、彼ら自身が決めることだった。よほど特別な相手ならともかく、そうでない以上、いちいち貴子の方から会話を弾ませる気にはならない。
 まわりの反応をよそに、貴子は机の中から欠席中のプリントを取り出し、スクールバッグの中の教科書やノートを机の中に移した。
 座った状態で身体を少し倒して机の中を漁ると、腕が胸のふくらみにあたって意識させられるが、乳房がじゃまだと感じるのはもうしょっちゅうだから、意識して心を落ち着かせる。ただでさえ常時変な重みが存在するし、腕を動かすだけでふくらみも揺らぐし、華奢な腕自体の感覚も以前とは違う。まだ慣れない下着の締め付けもわずらわしいし、歩いたりするだけでもお尻や腰まわりの感覚も男だった時とは全然違うし、声も未だに自分の声とは思えないが、時間をかけて少しずつ慣れていくしかない。あまりにも身近にありすぎる「女性の身体」に、男の欲望もどうしてもくすぶって、鬱っぽい心理にもなるが、いちいち深く気にしたら生きていくのも辛くなる。
 教室のざわめきは、すぐにひそひそ声へと変化した。みなの視線はちらちらと貴子に向かい、感嘆と興奮の声が飛び交う。貴子は微かに聞こえてくる言葉に落ち着かない気分を味わいつつも、表面上は以前とまったく同じように振る舞った。
 とりあえず欠席中のプリントを広げ、ざっと目を通す。
 プリントは授業で使ったらしいものがほとんどだった。中には十一月上旬の樟栄祭関連のアンケートなどもあったが、特にすぐ提出するようなものはない。貴子は一通り目を通すと、机とバッグに放り込んだ。
 そのまま、貴子はスクールバッグを机の横にかけ、バックパックを持って立ち上がった。
 貴子のその動きに、まわりはやや過敏に反応したが、貴子としてはいちいち気にしたくない。人目を黙殺しながら無造作に教室後方の棚に歩き、出席番号順の荷物置き場の男子の十二番の場所から、置きっ放しの書道の道具――芸術の選択授業の道具――を回収して、女子の十七番の場所に移した。バックパックからも指定の体育館シューズの入ったシューズ袋を取り出して、バックパックごと放り込む。
 放り込むと席に戻り、家から持ってきた文庫本を手に取って、半袖のブラウスから伸びる腕を机の上に置いて本を広げる。
 が、貴子は本気で読書をするつもりだったが、自分でもポーズにしかならないということがよくわかった。気にしないようにしても、まわりの視線や声が気になって、それ以上に、これからやってくるであろう片想いの相手のことが気になって、文章など全然頭に入ってこない。
 クラスメートたちの方も、貴子に声をかけてみたいと思ったものもいたようだが、何事もないかのように落ち着いたしぐさで読書を始めた貴子に、近付いてくる人間はいなかった。これが本当に初対面の謎の転校生であれば質問攻めにもなるのだろうが、初対面としか思えないのに初対面ではない貴子に、クラスメートたちはどう声をかけていいのかわからないらしい。
 もともと、ほとんどのクラスメートにとって、「貴之」は単に「クラスの男子の一人」というだけでしかなかった。一年の時の槙原護ように「貴之」と比較的波長が合う人間もいず、他人に簡単には打ち解けない「貴之」に積極的に関わっていた人間もいない。深く親しければ、顔を合わせる前から覚悟を決めて、相手を尊重して受け入れようともするのだろうが、中途半端にしか見知っていないから、かえって対応に苦しむらしい。
 その「見慣れぬ大人しげな可憐な女子生徒」が、ついこの間まで「同じクラスの男子生徒」だったと、頭ではわかっても、あまりのギャップの激しさに、その二人が同一人物だと認識することがどうしてもできない。病院にお見舞いにきた槙原護のように笑い飛ばせるものもいず、以前と同じように普通に話しかけることができるほど大胆になれるものもいなかった。
 そんなざわざわした教室に、どんどん後続の生徒たちがやってくる。
 後からやってきた生徒たちは、教室の異様な雰囲気に何事かという顔をするが、すぐに貴子を見て事情を聞くと、また驚きの声をあげたりして、クラスの動揺と興奮を加熱させた。
 状況が動いたのは、前後して二人の女子生徒がやってきてからだった。
 先にやってきたのは、すでに今の貴子との対面を済ませている、貴子の友人の恋人の松任谷千秋だ。
 千秋の席は廊下側の後ろの方で、貴子は千秋の登校にすぐには気付かなかったが、千秋の周りには何人かの友達が集まっていた。
 「千秋、負けたよ。ホントにあんたの言ったとおりだった」
 「だから言ったじゃない。絶対見惚れるって」
 「女子の制服も、似合いすぎてすごいよね〜。あれで男子だったとか言われても信じられないっ」
 「千秋さ、先陣切って話しに行ってみない?」
 「え。この雰囲気で行くのはなんかヤなんだけど。志穂も一緒に来る?」
 「あ、わたしも行きたい!」
 「ん、まあ、付き合えって言うなら、行くよ」
 あれこれ友達と言い合いながら、先週末にとっておいたコピーの束を持って、千秋は動く。
 千秋がすでに今の貴子と顔なじみということはみなに広まっていて、その動向は注目されていた。そのせいで千秋まで緊張させられたようだが、彼女は一度動き始めると足を止めなかった。人と机をひょいひょいと避けて、友達二人と一緒に貴子に近付く。
 「お、おはよう、穂積さん」
 「穂積さん、おはよう〜!」
 千秋が挨拶で口火を切り、一緒にいたうちの一人も、明るい笑顔で貴子に挨拶をする。教室中が聞き耳を立てるかのように静かになったからか、ちょっと千秋の顔は紅潮していた。
 人の気配に敏感になって、挨拶をされる前から千秋の接近に気付いていた貴子は、本から顔を上げて、同じ言葉だけを千秋たちに返した。
 「おはよう」
 千秋の一緒にいる二人の女子にも、貴子はちらりと視線を向ける。
 二人とも記憶にある顔だった。千秋と一緒に元気よく挨拶をした子は、宮村静香という名前で、貴子の記憶では多少のんきで明るいタイプという印象の女子だった。それでいて、家が病院で医者を目指しているというだけあって成績はよく、いつも三十番前後をふらふらしている貴子と違い、常に十番内をキープしている。試験後に廊下に張り出される順位表の記憶から、貴子は静香のフルネームも知っていた。
 もう一人は藍川志穂という名前で、多少気の強い印象の女子だ。体育の時間などは、貴子の片想いの相手である脇坂ほのかと、いい勝負をして盛り上がったりしているらしい。が、一年の時もほのかと同じクラスだったらしいが、志穂がほのかと教室で話している姿は、貴子の印象にはあまり残っていない。派閥というほどではなくとも、女子も女子で、よく話すグループとそうでないグループがあるということなのだろう。
 貴子は後日知るのだが、藍川志穂は千秋と同じ女子ソフトボール部所属で、千秋や槙原護と同じ樟栄中学出身だった。中学が別の宮村静香は、一年の時に千秋と同じクラスで、そこで知り合って仲良くなったらしい。
 「え、えっと、久しぶりね。調子はどう?」
 まずは千秋が穏便に話をふってくる。外野の視線のせいもあれば、貴子とそう親しくないせいもあるのだろうか、どこか緊張を含んだ声だった。
 さすがに、貴子は本を閉じることにした。ほっといて欲しい気分も強いのだが、この先ずっとそれですますのかと考えれば、そうもいかない部分もある。
 この貴子の考え方は、去年の入学式に槙原護に話しかけられた時とほどんど変わっていないと言える。小学生の頃は学校での人間関係なんてわずらわしいとしか思っていなかったが、高校に上がる頃には少しは大人になっていた。自分から積極的になることは滅多にないが、男であれ女であれ、「同性」の知人友人がいた方が何かと都合がいい場合は多い。貴子にとって、女子はいまだに異性のままだったが、かといって、男が今の自分を見る目を想像してしまえば、男子ももう同性ではありえない。千秋は先日病院でも善意を向けてくれていたし、せっかく友好的に声をかけてきてくれた千秋と適度な関係を作っておくのは、貴子にとっても打算的に言って不都合なことではなかった。
 「もう普通かな。体育は見学ですませるけど、体調は悪くないよ」
 さらりとした口調で貴子は言うが、あまり大きくならない声の響きはやはり繊細で、本人の気持ちに関わりなく可憐な甘い印象が漂う。すぐに宮村静香が口を挟んだ。
 「あ、体育まだダメなんだ〜?」
 貴子はちらりと静香を見て、「今週いっぱいはね」と、短く返事をした。
 静香はふむふむと頷き、貴子の続きの言葉を待ったようだが、以前も今も、そう親しくない相手に対する貴子の口数は少ない。数秒間が空き、千秋が慌てたように話題を探した。
 「え、えっと、髪! 似合ってたのに、短くしたのね」
 「……長いと邪魔だから」
 「わ、穂積さんって、前は髪長かったの〜?」
 また横から、宮村静香が言う。これはどちらかと言うと千秋に向けられた発言で、千秋は貴子を少しうかがってから、静香の問いに答えた。
 「うん。セミロングくらいかな? でも、穂積さん、短いのも似合ってるよね」
 「千秋ちゃんだけずるいっ。わたしも見てみたかったなぁ」
 「はは、でも、制服は結局女子のを選んだのね」
 「この間まで男だったんでしょ? よく女子の制服なんて着れるね。恥ずかしくないの?」
 ここで藍川志穂も口を挟んできたが、初めての言葉としては多少過激だった。少し慌てる千秋をよそに、貴子は一瞬視線を少し鋭くしたが、ここでも表面上は冷静さを崩さなかった。
 「いちいち人目を気にしたらやってられないから。この方が目立たないだろうし」
 「え、そ、それはどうかな? 似合いすぎてかえって目立ってる気もするけど……」
 「うん、穂積さんが穂積くんだったって思えばなおさらそうかも〜?」
 「そうよ、どうせ目立つんだし、別に男の制服でもよかったんじゃない? あんたが男だったって思えばなんか気持ち悪いかも」
 「志穂!」
 「あ、ごめん、言いすぎた?」
 「…………」
 この手の発言は覚悟していたから、貴子は傷ついたりしないが、やはりこういう問題は小さくはない。千秋のように善意や中立的立場から言うのならまだしも、藍川志穂と同じような発言を、もっと悪意や嘲笑を持ってあしざまにするものもでてくるだろう。貴子が地味な女になっていればまだ問題も少なかったのだろうが、今の貴子の容姿は目立ちすぎだった。
 また後日の話になるが、融通のきかない倫理意識から来る軽蔑心や見た目に対する嫉妬心などから、「前からそういう趣味があったんじゃないの?」などと、一部悪意を持って噂されることになる。本人は冷然と無視しまくることになるのだが、貴子が予測していたとおり、目立つということのデメリットは小さくはなかった。
 「おっはよ〜」
 突然、貴子と千秋たちの会話に聞き耳を立てていた静かな室内に、透き通るような明るい声が響いた。教室が妙に静かになっていた分、そのきれいな声はやけに大きく広がった。
 千秋も志穂も静香もとっさに前方の入り口に視線を向けたが、貴子はそちらに視線を向ける勇気はなかった。心に刻み込まれているその少女の声に、貴子の心臓は跳ねて、活発に暴れす。
 「やけに静かだね。何かあったの?」
 いつも通り元気な声で挨拶をした脇坂ほのかは、中に入る前から二組の異様な雰囲気に気付いていたのだろう。笑顔で歩きながら、やんわりと近くのクラスメートに問いかける。
 「脇坂さん、穂積くんが……!」
 「あ、ずっと休んでた人? そっか、女子になったんだもんね」
 ほのかはみなの騒ぎを納得しつつ、二学期になってから毎日空席だった貴子の席に、無造作に視線を向ける。
 そして、ほのかの動きが止まった。
 ――後に脇坂ほのかは、この瞬間のことを、「頭の中でチャペルの鐘の音が鳴り響いた」と述懐する。
 実際に鳴り響いたのは、朝のホームルーム五分前を示す学校の予鈴だった。
 足を止めたほのかは、千秋たちに囲まれている貴子に視線を固定させていた。普段は凜とした瞳を丸くして、少し惚けたように貴子を見つめる。
 貴子がそんなほのかの表情を直視していれば、恋は盲目とでもいうべき感情で可愛らしさを感じたかもしれないが、今の貴子にそんな余裕はなかった。
 「ね! びっくりするでしょ!」
 クラスメートたちに話しかけられて、ほのかはすぐに我に返って返事をしていたが、予鈴に混じって意味のある言葉は貴子までは届かない。教室がまたざわめきを取り戻す中、ちょっと気まずそうな顔をしていた藍川志穂に、千秋がさっきの続きで少し怒る言葉を口にし、宮村静香も「志穂ちゃん、気持ち悪いとか言っちゃ駄目だよっ」としかめっつらで注意をする。
 貴子の頭の中には、そんな千秋たちのことは、もうほとんど残っていなかった。何か話をしているにはっきりとは聞こえないほのかの声に、貴子は衝動に負けてつい顔を向けてしまった。
 そして貴子の時間も、その瞬間に止まった。
 ほのかはまださっきの場所からほとんど動かずに、じっと貴子のことを見つめていた。
 すでに惚けたような表情でもなければ、いつもの明るい笑顔でもない。
 まっすぐに、凜としたきれいな真剣な、ほのかの表情。
 貴子の視線がほのかの視線とぶつかったが、ほのかは友達と何か話しながらも、貴子から視線を逸らさない。
 貴子も、怯むより先に、感情が溢れ出していた。
 『あぁ……、脇坂さんだ……』
 約二ヶ月ぶりの、好きな女の子の姿。
 ただ立っているだけでも、貴子の目に映る彼女はきれいだった。
 一目見ただけで、心がじんと痺れた。やはり好きだと、強く感じる。自分の身体がどんなに変わっても、この気持ちは少しも色あせない。
 すぐに感情の昂ぶりに耐え切れなくなって、貴子は胸が苦しくなる。
 と同時に、彼女に見られていることを強く意識して、カッと身体が熱くなった。
 他のクラスメートに見られるのとは、段違いの緊張感。
 なんでもないふりをして急いで視線を外したが、思考が暴走しかける。男のままで見つめられても冷静でいられなかったのに、今の女の自分をどう思われるか考えると、さらに冷静になんてなれない。見られたくない、逃げ出したいという衝動も湧き上がる。自意識過剰とわかっているが、彼女の視線が身体中に這っているようにも思えて、身体が震えそうになった。彼女に興味を持たれている、と頭の片隅で思っても、いい意味とは思えず、悪い思考ばかりが渦巻きそうになる。
 「だからさっきもあやまったでしょ。悪かったね、穂積」
 「あ、いいさ、別に」
 藍川志穂に話しかけられて、貴子は話を反射的に理解してとっさにそう答える。
 もしも千秋たちが壁になっていなければ、もしくはみなの視線がさっきまでのように貴子に集中していれば、すぐに貴子の気持ちはみなにバレバレになっていたかもしれない。
 ほんの少し前までは落ち着いた態度だったのに、ほのかを見つめたかと思うと頬を薄桃色に染め、うつむくような仕草を見せた貴子。
 その貴子の動きをはっきりと目撃することができたのは、貴子をずっと見ていたほのかを含む斜め前方にいたわずかな面々と、貴子を囲んでいた千秋たち三人だけだった。が、その三人は貴子の変化の理由をわかっていなかった。貴子の頬が赤くなったのも自分たちのせいで傷ついたのだと勘違いして、志穂はやりにくそうに頬をかき、静香は少し貴子に見惚れ、友達に怒っていた千秋も「ほ、ほんとにごめんね!」と慌てて貴子を慰めにかかる。
 貴子はまだほのかが自分を見ているように感じて、千秋たちの相手をまともにできなかった。
 「ちょっとトイレ行ってくる」
 「あ……」
 急に立ち上がった貴子のその行動は、完全に逃げだった。周囲の視線、特に、気のせいではなくこちらを見ていたほのかの視線を意識しまくりながら、貴子は早足で動き、やや長めのスカートを翻して、後方のドアから教室を出た。
 もう朝のホームルームまで五分をきっているから、一番慌しい時間になっていた。中央階段からの人の流れに逆らって、貴子は三組方向へと廊下を移動したが、ここでも視線が集まっている気がして、貴子の感情はかき乱されっぱなしだった。今の自分が嫌でも人目を惹く容姿をしていることは自覚しているが、いくらなんでも見すぎだろうと貴子は思う。今の貴子は今の自分自身を意識しすぎているため、被害妄想であり自意識過剰なだけだとも思うが、それでも他人に文句を言いたくなる。
 そんな感情がかき乱された状態だからか、貴子は二ヶ月前までの習慣で男子トイレに入りかけてしまい、「え」という顔で見る男子に気付いて、さっと表情を消して女子トイレに方向転換するという、ありがちでかなり情けない行動をとってしまった。
 女子トイレでも、中にいた女子たちになぜかじろじろ見られた気がしたが、ただでさえ緊張でぼろぼろだったから、初めての学校の女子トイレに対する感動も興奮も抵抗もない。むしろ鬱的な自己嫌悪に繋がっただけだった。
 個室に篭ると、「他人を意識しすぎても疲れるだけだ」と、貴子は心の中で自分に言い聞かせる。まずは平穏を取り戻すためにも、いつものように、落ち着いて構えていればいいはずなのだ。他人にとやかく言われる筋合いはないし、自然体で動けばいい。
 「……それがそう簡単にできれば、苦労はしないよな……」
 貴子は小さくため息をついて、ほのかのことを思った。
 どうでもいい他人の視線はともかく、好きな女の子の視線だけは、どうしても意識せずにはいられない。
 ただ見られただけでこれほど緊張して動揺している自分が、なんだか笑える。
 が、笑ってみたが、それでも気持ちは止まらない。
 それだけ好きなんだと、貴子はまた深く自分の気持ちを思い知らされていた。
 「脇坂さん……」
 名前を呟くだけで、胸が苦しかった。





 to be continued. 

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初稿 2008/02/26

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