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前回までのあらすじ


 中学二年男子ことユイの家に居候することになったメイは、地球から一四四光年離れたレヴァという星から亡命してきた王子様で、追っ手の目を欺くために少女の格好をしていた。
 メイとの生活を続ける中で、ユイにレヴァの王族の血が混じっていることが発覚する。レヴァ星人の王族の血が原因で、ユイの身体は段々と女性体に変化しつつあった。
 ユイは幼なじみのユウとつき合い始めていたが、ユウを傷つけることが嫌で、ユウと別れた。

―0―


 鳴るはずのない大きな古時計が真夜中の時を告げる。鳴った回数は十三回だった。昔からの約束で、時計が十三回鳴った時に魔法が解けて、人形たちは動けるようになる。
「わたしはパミーナ。なんだかよくわからないまま、閉じこめられているの」
 パミーナは、赤いドレスに身体をつつまれて白いフリルのついた飾りを被った人形だった。パミーナは悲しそうに歌った。
 パミーナに近づいて跪く。
「おおパミーナ。あなたの姿はあまりにも美しい」
 パミーナの手を取る。そのまま、うやうやしく口付けしようとして、できなかった。
「だめだよ。なんだか恥ずかしくって」
 しっ、とパミーナは人差し指を口に当てた。
「なにを言ってるの? あなたは、タミーノ王子役の人形。わたしを助けにきてくれた王子様なのに」
「って、なんでお人形さんごっこをしなきゃいけないのさ?」
 ユウのお人形さんごっこは、お人形さんみたいな服を自分で着てやるところが普通のお人形さんごっこと違っていた。
「いいから、聞きなさい。わたしのお人形さんごっこのお人形さんたちは、芝居が好きなお爺さんが心を込めて作ったお人形さんたちなの。それで、お爺さんの古時計が十三回鳴ると、お人形さんたちが動き出してお芝居をするの。わかった?」
 けっこう凝った設定で、わけがわからなかった。
「どうでもいいけど。王子様のお人形さん役は嫌」
「そうなの? ユイは小学二年生になって、すこしは男の子っぽくなったと思ったんだけどなあ」
「やっぱり、鳥とか白馬とかユニコーンのお人形さん役のほうがいい。台詞もとくにないし」
 ユウはふるふると首を振った。
「それじゃあ、わたしがつまらないの。王子様が嫌なら、こんどはユイがパミーナ姫やってよ。わたしがタミーノ王子をやる。ちなみにこれが、タミーノ王子と一緒に現れる鳥刺しのパパゲーノ君」
 そういってユウが取り出したのはペンギンの人形だった。
「ユイはわたしが着ている、パミーナ姫の服を着るんだよ」
 そう言うが速いかユウがぽんぽんと服を脱ぎ出す。
 同時に、ユウに服をはぎ取られて、あれよあれよという間にユウは王子様の服を着込んでしまった。
 目の前にはパミーナの服が残された。
「じゃ、これから着るんだよ」
 そう言ってユウは、白くてふわふわした衣類を持ち上げた。
「これって、何?」
「パニエ。スカートをふわふわとさせるの」
 それは今までに身につけたことがない衣類だった。
 下着だけで裸だった身体にパニエをつけると、それだけで逃げ出したくなるくらい恥ずかしかった。でもこのまま外に行くのはもっと恥ずかしかったので逃げられなかった。
 ユウに、ひらひらとした赤い服を着せられていく。ちらりと部屋の隅にある大きな鏡を見ると、お人形さんみたいな目に見つめ返された。恥ずかしくなってうつむいた。
「できた。じゃ、最初からやるよ。わたしはこれからタミーノ王子だからね。はい、パミーナ姫の歌から」
「ぼくは」
 ぺち、とタミーノにほっぺを叩かれる。
「『わたし』だよ」
「わたし」
 言った瞬間に、ほおがぽおっと熱くなってしまう。
「『わたしはパミーナ。なんだかよくわからないけれど、閉じこめられているの』」
 パパゲーノことペンギンの人形を引き連れたタミーノがやってくる。
 すっとタミーノに手を取られる。
「『おおパミーナ。あなたの姿はあまりにも美しい』」
 タミーノことユウにうやうやしく口付けされる。
 手の甲から心臓にかけて電気が走ったみたいで、その後ユウの目を見つめて、そのままユウと抱き合う形になってしまう。
 ユウの身体を抱いた瞬間に、甘酸っぱいユウの匂いをしっかりと吸ってしまった。それが身体の中にしみ込んでいくようで、その匂いで身体が柔らかくなって溶けてしまうのではないかと思った。
 感じた匂いは、子供から女の子にかわりつつあるユウの身体の匂いだった。
 ユウがほうっと息を吐いた。
「なんか、わたしが王子様で、ユイがお姫様の方が、お人形さんごっこやりやすいよ」
 小さく頷くことしかできなかった。
 それは、小学二年生の夏休みのことだった。





居候はレヴァの王子様

5.夏休みには一殻剥ける

作:Plantain


―1―


 我が家の恒例行事である夏のキャンプは、とあるカルデラ湖のほとりにあるキャンプ場で行われることになっていた。
 経費削減のため全行程バスだった。最近、我が家で飼うことになった子猫のクロは、バスの中でおとなしくしてくれなそうだったので、家でお留守番をしてもらうことになった。餌は知り合いにたのんで定期的に与えることになっていた。
 人間にとってもバスは大変だった。山道を普通のバスに毛が生えたような観光バスで行くなど無謀だったと思う。もちろん、バスに獣毛が生えていたわけではない。あくまでも比喩としての表現だった。
 そんな長いバスの旅が終わって、やっとキャンプ場で落ち着いたのだった。
 キャンプ場は森の中にあった。
 夏の午後の日差しが、さんさんと木々の隙間から降り注いでいた。一週間だけの命とあって、アブラゼミがしきりに鳴いていた。
 見上げたら、木々の隙間から空が見えた。なぜか空がすこしくすんで見えた。
 中学二年生の五月の連休明けにユウとつき合い始めて、中学二年生の夏休み前にユウと別れた。
 空の色が気分で変わって見えることを知らなかった。今は、空の青がすこし白っぽく見える。空を見上げたくなるときの気分は、こんな感じなのかもしれない。空に何かを見たいのではなくて、空に何も見たくないから見上げるのかもしれない。
 かんかん、と音が聞こえる。
 いつもは影が薄い父さんが気張ってテントを張っていた。
「テントはキチンと立てんといかん」
 そうぶつぶつと呟きながら、取扱説明書を片手にペグを地面に打ち込んでいく父さんは、ある意味不気味な感じだった。その横の母さんは、寝る場所周辺の小石取りに余念がない。
「でも、お父さん、テントは立てるのではなくて張るものですよ」
「そうかな、お母さん」
 父さんの名前はケイで母さんの名前はノゾミなのだけれど、もっぱら母さんは父さんのことを『お父さん』と呼び、父さんは母さんのことを『お母さん』と呼ぶ。これは日本の文化に即した呼びかけ方かもしれないけれど、よくよく考えてみればおかしいことこの上ない。
「それに、お母さん。毎回言うようだが、私はお母さんのお父さんじゃないぞ。ちゃんとケイという名前がある」
「そうでしたね。計算高いケイさんという名前がありましたね。でもそれだったら、私にもノゾミさんと呼ばれる望みがあってもいいじゃないですか? お父さん」
「それに、お母さん。毎回言うようだが、私はお母さんのお父さんじゃないぞ」
 無限ループに入りそうになってきた。
「テントとはなんだ? 何やらあの中に飲み込まれるようではないか。食べられるのか?」
 つんつん、と後ろからメイに肩をつつかれる。
 くるりと後ろを振り返る。
 メイは首を傾げていて、左人差し指を口元に当てて、右手をこちらに伸ばしてきている。うす水色のストライプが入ったタンクトップから、円い肩が見えている。肌が滑らかで、やわらかそうで、すこしだけ触ってみたい感じだった。
「あ、あのね。テントには食べられないんだよ。テントには入って寝る物なの。わかった? メイ?」
「ふみゅう」
 メイが申し訳なさそうに首を傾げた。
 視線が下に行く。
 ふわっと広がる白いスカートの下から、すっとメイの足が出ていて、素足にサンダルを履いていた。
「湖に行くぞ」
 唐突だった。
「うん」
 でも反対できなかった。
 メイが身体をひらりとひるがえして、湖の方に駆け出した。
 メイが眩しかった。
 それは、さわやかな太陽の光のせいだったと思う。
 テントを張る場所から湖までの道は森の間を通るようになっていて、平たい石を敷き詰めた小道になっていた。
 先に走っていくメイのスカートの裾がひらひらと揺れている。道が曲がっているので、木々の間でメイの姿が見え隠れする。蝉の声がうるさいけれど、湖に近づくにつれて、風で揺れる湖の音が僅かに聞こえてくる。海と比べて小さいけれど、湖にも波があった。
 すこし立ち止まって耳を澄ます。蝉の声に混じった波の音は、夏という季節を演出していた。
「おーい。遅いぞー」
 湖の方からメイの声が聞こえる。
 メイの声も夏らしくてさわやかだった。
「今、行くよー」
 いつもより、ずっと高い声が出たのでびっくりした。やはり温度の高い夏だから、声も高く出るのかもしれない。
 二、三回、自分に向かって頷いて納得してから駆け出した。
 森が開け、草地に出て、湖が視界いっぱいに広がる。
 湖面にせり出すようにして木製の桟橋があり、そこに大人が二人くらい乗れるボートが繋留してあった。メイは桟橋の端に立って、岸の方を向いていた。
 桟橋をメイの方に向かって進む。足を踏み出すたびに、桟橋が揺れた。
「これは、なんだ。食べられるのか?」
 メイは麦わら帽子を持っていた。小さくて赤いリボンが可愛らしかった。
「どうしたの? それ」
「落ちていた」
 メイはボートの中を指さした。
「あ、あのね。それは、落ちてたんじゃないよ。置いてあったの」
 メイがかくっと首を傾げる。
「いまいち違いが判別できないぞ。足元に物があったら、それを落ちていると言うのではないのか?」
 ふうっとため息をつく。
「このボートは、人の物だよ。車と同じなんだよ。ほら、ここに来るとき乗ったじゃん。人の物の中にある物は、人の物なんだよ。ちゃんと所有者が判別できて、それが人の物の中にある場合には、それを落ちているとは言わないんだよ」
 メイが首を振る。
「それはおかしいぞ。だとすると、人の物であるバスという車に乗った我々は、地方公共交通機関の物になってしまう」
 だんだん頭がこんがらがってきた。
「こら、ボートにいたずらするな」
「わ」
 急に後ろから声をかけられたので驚いた。
 振り返ると、ハーフパンツのような半ズボンのようなものを履いて、白いTシャツに腹掛けをしたボート屋らしきおじさんが怖い顔をしていた。
「ご、ごめんなさい」
 あわてて深く四十五度のお辞儀をして謝る。
「ほら、メイ、その麦わら帽子をそこのお兄さんに返して」
 どう見ても中年のおじさんに「お兄さん」はおかしいけれど、ここは意識的に言葉を調整した方がいいだろう。
 メイは麦わら帽子を抱えたまま、かくりと首を傾げた。
「やはり、論理的におかしいぞ。ある人の物の中にある物はその人の物ということだったな。地球は、銀河連盟管轄の惑星ということになっている。そうするとこの地球にあるものは全て、銀河連盟のものということになる。であるから銀河連盟に属する者は、地球にある物をすべて使ってよいことになるのではないか?」
 またメイがわけのわからないことを言い出した。
 メイから奪うようにして麦わら帽子を取り返し、ボート屋のおじさんに返す。
「すみません」
 ボート屋のおじさんは、両手でしっかりと麦わら帽子を受け取ると、頷いた。
「お嬢さんがた、人の物を取っちゃあ、いかん」
「へ?」
 くるりとメイを振り返る。
 メイは左手の人差し指を曲げて口元に添えたままで、意味ありげな視線を返してくる。何か言いたそうな雰囲気だった。
 再びボート屋のおじさんに視線を戻す。その後ろに人影が見えた。
 おじさんはその気配に気づかずに、かくかくと首を縦に振っていた。
「ところでどうかな。お嬢さんがた、一緒にボートに乗って、湖上散歩でも」
 どうやらボート屋のおじさんに「お嬢さんがた」と思われているらしい。それは大きな誤解だった。
「あ、あの、ですね。ぼくはその」
 ボート屋のおじさんの視線は何かを期待しているようだった。
 その視線にさらされて、肌が敏感になったようで変な気分だった。素肌の上に一枚だけ着ているTシャツがくすぐったい。今まで意識したことがなかった服が胸に触れる感触がして、ぴくりと身体が震えてしまう。
 まるで猫に背中を嘗められているような感じで、ぞくぞくして、溶けてしまいそうで身体を動かすことができなくなった。
「あ」
 ボート屋のおじさんの後ろに立っていたおばさんが、ボート屋のおじさんの頭をはたいた。
「こら、あんた。また年頃の可愛いお嬢さんたちに声をかけて。怖がってるじゃないかい。ちゃんと売店の仕事もしなさい。ほれ、荷物が届いたよ。搬入手伝って」
 おばさんは頭を軽く下げた。
「ごめんね。家の人はこんなんだから。もし良かったら、あとで売店に来てね。麦茶でもあげるからね。ほら、あんた行くよ」
「あい」
 ボート屋のおじさんは、おばさんに耳をつままれて、情けない声を上げた。
「時にお嬢さん?」
「は、はい?」
 思わず返事をしてしまう。
「お嬢さんなのに『ぼく』って可愛いわね」
 恰幅のいいおばさんは、ボート屋のおじさんの耳をつまんだままで、売店の方へ引っ張っていった。
 桟橋にはボートが残された。
 メイと二人で顔を見合わす。
 メイはくすりと笑った。
「いや、さっき、あの大柄な女性がいたのが見えていて面白かった。ユイに視線で意志を送ったのだが、わかったか?」
「あ、いや、なんとなくメイが何かを言いたいことはわかったけど」
 メイはかくかくと頷く。
「ふーみゅ。すこしずつ感じられるようになっているのだな」
 つ、とメイに胸を突かれる。
 ふっと何かが押される感じがして、すこし遅れてくすぐったさが伝わってくる。
 ちょっとメイに触られたところが気持ちよかった。
「あ、あの。何が、何が感じられるのかなあ。あ」
 あわてて口を押さえる。
 何を言っているんだろう。
「何を感じるかといったら、物体を構成する大本である波動因子に決まっているだろう。ところでユイ」
「ん?」
 メイが視線をボートに移す。
「ユイ、あれはボートと言ったな。乗ってみたいのだが駄目か?」
 さっきメイに突かれたところがまだ、じんじんしているような感じで変だったけれど、それに耐えつつメイに答える。
「あ、あれは人の物だから駄目だよ」
 お腹にに力が入らないみたいで、力が抜けた可愛らしい声が出てしまう。
 息を大きく吸って、もう一度、吐く。
「それに、お金、払っていないし」
 今度はちゃんとお腹から声が出せた。
 メイはスカートのポケットから福沢諭吉を取り出した。
「ここにお金があるのだが、駄目か? 念のため地球のお金を持ってきた」
「それだけあれば十分だと思うけど」
 ボート小屋にお金を置いてから、桟橋に結わえ付けてあるロープを外す。
 一瞬、本当にいいのかなと思ったけれど、少年が持つ冒険心が多少の罪悪感を押さえつけた。
「ぼくは、男の子だし」
 自分に言い聞かせるようにしてそう言った。
 メイと一緒にボートに乗り、櫓を操って、沖にこぎ出す。


 ボートを漕ぐ時は後ろ向きになるので、舳先にいるメイの姿を見ることができない。
 メイは後ろでもぞもぞと動いている。
 メイに声を掛ける。
「あのね、メイそんなに動いちゃ駄目だよ。それにね、絶対に立っては駄目だよ。ボートがひっくり返るから」
「立つとはこういう事か?」
 後ろを振り返った瞬間、すっくと立ち上がったメイの姿が視界に入り、ぐらっと揺れる感覚がして、そのまま視界が回転した。
 激しい水音がして、そのまま湖に投げ出される。
 ボートに手を伸ばそうとしたけれど、あと五十センチ届かなかった。足に力を入れて、そして気づいた。
「あ、足が着かない」
 水深が一・五メートルのプール以外で泳いだことが無い。
 その事実に気づいた瞬間、口のなかに水が入り、息を吸うこともできなくなった。だんだんと頭が水に浸かっていく感覚があり、頭の上にきらりと光る水面が見え、落ちていく身体の感覚を最後に、意識が遠のいていった。


 抽象的に言えば、生きている状態は水の中にいるようなものだと思う。理科的な話をすれば、人間は細胞液という形で身体の中に水を蓄えている。水は常温で液体で、金属などに比べて温度を一定に保つことができて、色々な物質を溶かし込むこともできる。人間は生まれる時、水の中から上がるようにして生まれる。それは海から陸に上がったという、大昔の進化の歴史をたどっているようにも思われる。
 それだから、人間は水に親しみを感じるのかもしれない。
 苦労した時は汗水流し、悲しい時は涙を流す。
 水の中に帰りたいのかもしれない。
 身体を水の中にとけ込ませたいのかもしれない。
 だから乾ききった地上に生まれたときに、大きな声で泣くのかもしれない。
 そういえば、最近、泣いた記憶がある。
 忘れていた。いや忘れようとしていた。
 何度も忘れようとして、忘れられない顔があった。
 ユウ。
 初めてつき合って、そして初めて別れたユウ。
 幼なじみのユウ。小学校の時はユウの家に行って遊んだ。ユウに頼まれてお人形さんごっこもした。持っているアルバムの中には、ひらひらした、お人形さんみたいな服に包まれて二人で並んだ写真もある。
 本当は、あんな別れ方なんてしたくなかった。
 あのとき嘘をついた。
 ユウなんて嫌いだなんて言ってしまった。
 あのときの言葉は、湿り気がなくて乾ききっていた。
 あのとき流した涙は、その乾ききっていた言葉を湿らすための涙だったのかもしれない。
 じゃあ、今、流している涙は、何の涙なのだろう。
『わたしだってユイのこと大嫌いだよ。いつもぼけてる感じをしていて、本当は色々考えているところだって嫌いだし、くすぐりに弱いところだって嫌いだし。あやとりと折り紙とピアノが趣味だってところも嫌いだし、人の気持ちに鈍感だって所も嫌い。もう、知らないから』
 幻のようなユウの姿が目の前を通り過ぎていく。
 手を伸ばしてその身体に触れる。
 その身体は水のように透き通っていた。
 口を開く。
 そして叫んだ。


「ユウっ!」
 目が開いた。
 伸ばした手は木目のある天井に向かって伸びていた。その手は小さくてすこししっとりとしていて女の子の手みたいに丸っこくて、ユウの手に似ていた。
 薄い布団の上に寝ていて、お腹にタオルケットが掛けられてあった。
 上半身を起こして、タオルケットを握りしめる。
 真っ直ぐ前にすだれがあって、すだれの外に縁側があった。縁側に見覚えのある金髪が見えたから、そこにメイが座っていることがわかった。
 和風の平屋のようで、襖を外せば全ての部屋が繋がるようにできていた。左の方にある襖の隙間から台所らしき場所もちらりと見えた。
 人差し指で目尻をなぞる。そしてその指を口に入れて嘗めた。指はくすぐったさを感じて、舌はしょっぱさを感じた。
 右を見る。
 小さな仏壇が一つあった。そこには見た感じで十歳前後の少女の写真が載っていた。ユウに似ているような顔だと思ったけれど、細かいところは違っていた。
「起きたかい?」
 左から声を掛けられて、そちらを向いた。台所のほうの襖が開かれていた。
 売店のおばさんがそこにいた。恰幅がよくて、エプロンをしていて、髪の毛は団子でまとめられていた。
「あなたはね、チイにそっくりなんだよ」
 そう言っておばさんがしゃがみ込んできて、そして正座した。
「チイ?」
「初めての子供でね、それは大切に育てたんだよ。去年の夏にね、湖で溺れて」
 おばさんの目が涙目になる。
「だめだね。不憫でねあの子がね。今年の盆がね、初盆なんだよ」
 もう一度、小さな仏壇に目を移した。
 そこにはボート屋のおじさんとおばさんがいて、その真ん中に赤いリボンの麦わら帽子を被った少女がいた。黒いくりくりとした瞳が赤いリボンで映えて見えた。写真の背景は湖で桟橋もわかった。
「チイはね、夏になると赤いリボンのついた麦わら帽子を被ってね、そこら辺を駆け回っていたんだよ。おてんばでね、男の子みたいだった。チイがいなくなってね、あたしより、家の人の落ち込みがはげしくてね。一人娘でね、それは可愛がっていたからね」
 おばさんがふうと息を吐いた音が聞こえた。
「すこしゆっくりしていったらどうだい? なんせ湖で溺れてたんだからね。たっぷり水も飲んだだろうけど、水よりは麦茶がいいだろう。用意するから、えっと」
「ユイです」
「あ、ユイちゃんね。あたしはトメって言うんだよ。古めかしい名前だけどね。まだ若いからね。三十五だよ」
 そういっておばさんは立ち上がった。
「溺れているところ、助けて頂いてありがとうございます」
「あいよ。お礼は家の人に言っとくれ。それからね。ユイちゃん」
 びしっと、人差し指を立てられる。
「危ないから勝手にボート使っちゃだめだからね」
 そう言うと、おばさんは台所の方に麦茶の用意をしに行った。
 布団の上で座ったままでタオルケットをそっと抱きしめる。
 そのタオルケットも、写真に写っている少女が使っていた物だろう、ということはよくわかる。匂いを嗅ぐと少女のような香りがする。
 胸の奥にその香りを吸い込む。
 身体の中へ、その香りがしみ込んでいくように錯覚する。
 お腹の奥で何かが動いた。お腹が重い気がした。
 ほうっと息を吐いた息を両手で受け止めて、もう一度それを吸ってみた。身体の中から出てきた息もタオルケットの匂いに似ていて、甘くて酸っぱくて鼻にくすぐったくて、小さなくしゃみが出そうだった。
 タオルケットを身体から放した。
 肌の上の服に気づく。
 それは薄い青のワンピースで、肩の布はほっそりとなっていて白いフリルと青いリボンの装飾もついており、胸元はシャーリング編上げになっていて、下半身はレースのフリルがついたスカートになっていた。後ろを振り返ってみると、大きな青いリボンが見えた。服の下で肌に接している下着は、服に相応しい物になっていて、そっと胸を押さえるとそれらしい感触も感じられた。剥き出しにされた肩は円みを帯びていて、首を曲げて頬で肩をこすると柔らかい肌が触れあった。
「えっと」
 すっと立ち上がる。
 そっとしゃがむ。
 ふわりとスカートの中に空気が入り、上に抜けていく感じがあって、身体の表面がくすぐったかった。
「じゃなくて。この格好は?」
「はい麦茶」
 ちょうどおばさんが麦茶を持ってきた所だった。
「いやさ。あなたの服が乾くまでは、それを着ていなさいな。いやいや、あなた、男の子だったんだね。服をぬがして気がついたんだけど。最近あたしは男の子の身体見たことがないけれど、ユイちゃんぐらいの年齢だとあまり女の子と変わらないんだね。どう見たってユイちゃんはチイにそっくりでね。我慢できなくてね。可愛い服を着せちゃった。ゆっくりしていってね」
 とりあえずおばさんから麦茶をもらって一気飲みする。
「あ、美味しい」
「そうだろう。鳩麦茶だからね。お肌にいいんだよ」
「あ、それで」
 いや違う。
「じゃなくて、あの、なんでぼくの下着まで替えちゃったんですか?」
「なんだって、湖で溺れていたんだからね。下着までびしょぬれだよ。家には女の子の下着しか無いからねえ。いいじゃない。一日くらい。そんなに可愛いんだから罰なんか当たらないし」
「そうだぞユイ、似合っているぞ。なんでも男女共同参画社会というものを地球人は推進しているというではないか。だとすると男女で服装に差別があるのはよくないのではないか」
 いつの間にか縁側に座っていたメイまでやってきて、おばさんの側に回っている。
「えと、男女の差別はいけないと思うよ。でも、男と女の間にはれっきとした身体の差というものはあるわけで、その、男の人が妊娠することはできないし、女の人が」
 そこまで言ってから、あわてて両手を身体の前でひらひらとさせて打ち消す。
「なんでぼくが国会議員みたいな答弁をしなくちゃいけないのさ」
 すくっと立ち上がってメイに抗議する。
 そしてメイの服装に気づいてしまった。
 上半身は黒を基調として、長袖と肩から胸にかけてのラインは白いフリルで強調されている。布製の髪飾りも、これまた黒地に白のフリルでできており、首元に黒いリボンで結ばれている。
 下半身はと言えば、ふわふわと見えるように何重にも重ねられたスカートで、表面には過多とも思われるリボンの装飾が施されてあり、水平のフリルのラインが際だっている。多分、スカートの下にはしっかりとパニエが仕込まれているに違いない。
 全体を見ると、胸元にある大きな黒いリボンが人形のような可愛らしさを演出しており、金髪の髪の毛がツインテールにまとめられている事実に至って、その装いの意味が明らかになった。
 いわゆるゴシックロリータという部類のファッションだった。
 夏にしては暑苦しそうなものだったが、メイは涼しげな表情だった。
「ひらひらな服が趣味でねえ。可愛い子を見ると着せたくなっちゃうんだよ。チイがいなくなってからこういった服を着てくれる子がいなくってねえ。親戚に中学二年生のノンっていう姪がいるんだけどね、あまりひらひらした服を自分で着るのは好きじゃないんだよ。欲求不満がたまっていたから、つい」
 そうおばさんはしれっと言った。



 メイと縁側に座っている。
 夏にあのゴシックロリータファッションは暑すぎることにおばさんは気づいたのか、メイはスパイスデビルワンピースに着替えさせられていた。確かに剥き出しの肩は涼しげだったけれど、黒いハイソックスはまだ暑そうな感じだった。
 おばさんに勧められるままに、鳩麦茶とおやつをご馳走になった。
 おばさんは売店の仕事があるからと、出かけていった。
「自分の家だと思って、好きにしていていいからね。服が乾くまではゆっくりしていきなさい」
 そんなおばさんの好意に甘えて、メイとゆっくりしていた。というより、このひらひらな服で外を歩くことなどできなかったというのが事実だった。
 お腹がすこし重かった。
「ん、メイちょっと行ってくるね」
「どこへ?」
「どこへって、お手洗い」
「そうか、しっかり手を洗ってくるのだぞ」
 メイは相変わらず変な受け答えをする。
 それはともかくお腹に違和感があるので、お手洗いを貸して頂くことにした。
 平屋の北の奥にあるお手洗いは、珍しいボットン便所だった。
 そっとスカートの裾を上げ、そして小さな用事を足そうとして、一つの事に気づいた。
「え、と」
 大切な物が無いような気がした。
 上を見て、下を見て、右を見て、左を見て、誰もいないことを確認した。
 そっと布の上から触れる。
「あ、あった」
 中を確かめる。でもそれは小さかった。
「あ」
 急にお腹の痛みが増してきた。
 思わずお腹を抱えて、しゃがみ込む。その瞬間、我慢が限界に達したので、やむを得ずそのままで用を足すことを決意した。
 そして知った。


 縁側に戻ってメイの横に座る。
「ねえ、メイ。あの」
 メイの肩をつんつんと突く。
 はたから見たら、縁側に座っている青い服を着たお人形さんが、黒い服を着たお人形さんに話しかけているように見えるのかもしれない。
 そんな事実に気づいて、力が抜けた。
「なくなっちゃった」
 口から出た声は、小さかった。
「何がだ?」
「何がって」
「赤い顔でもじもじしていても、わからないぞ。主語と動詞と目的語がなければ文章が完結しない。これは日本語の基本ではないのか? それとも日本語独特の表現で、主語を省略をしているのか?」
 メイが、かくり、と首を右に傾げる。しかも、右の頬に右の人差し指を添える自然な動作を体得していた。
 メイに向かって小さく頷く。
「あ、あのね。メイ、耳をかしてくれないかな」
「こっちの耳か?」
 メイの耳がすすっと立って黒い猫耳に変化する。
 メイの猫耳にそっと触れる。
「うみゅ」
 メイが甘い声を出した。
「みゅう。それで、なんだ? 何がないのだ」
 口をメイの耳に近づけて、小さな声でささやく。
「ふーみゅ」
 メイの耳がぴくぴくと動いた。
「触らせてくれないか?」
「え、あの、恥ずかしいし。なくなったところは一部で、その本体の方はちっちゃくなっただけで。ほかは触ってないからわからない。それとね。用を足したはずなのに、痛いんだ。お腹が」
「我慢できないくらい痛いのか?」
「んとね、まだ我慢できるけど。でも段々痛くなる感じで」
「どちらにしろ、触らせてくれなければ話にならない。恥ずかしがることなど何もない。もとより男同士ではないか」
 メイは両手握り拳でおねだりポーズに入る。こうなったら断り切れないのだけれど、今回ばかりは断ることに決め込んだ。
「いいよ」
「そうか、触らせてくれるのか」
「え? え? あ」
 反射的に両手で前を隠す。
「あ、あのね、『いいよ』っていうのはね、『別に触ってくれなくてもいいよ』という意味で、『触っていいよ』という意味じゃないんだよ」
 あ。
「痛い」
 ちょうど押さえていた下腹部の辺りに、疼痛が感じられる。心臓の鼓動に合わせるようにして痛みは段々と強くなる。
「あう。メイ」
 左手で下腹部を押さえたまま、右手でメイの肩につかまるようにして、メイの胸に頭を押しつける。
「ユイ、服の上から触るだけなら、いいか?」
 メイの胸の中で頷く。頷いた拍子に柔らかいメイの胸の感触が頬に伝わって、甘い香りが鼻をくすぐった。
 メイの手が動くのがわかる。そしてメイの手のひらを感じた。
「あ」
 すぐにメイの手は離れた。
「ふーみゅ。別に私が説明しなくても、ユイが自分でちゃんと触って確かめてみれば状態がわかることではないか。自分の身体のことだぞ。ユイが触らないでどうする」
「嫌だよ。だって」
 メイの身体をぐっとつかむ。
「だって、触ったら。触ったら、わかっちゃうよ」
 何かが怖い。怖くて血が頭の方に逆流してくるような気がする。視界が揺れて、メイの顔が揺れて、耳がぼうっと鳴っているような感じで、メイの声が遠い。
「思ったより、変化が速かったのだ。すまんな。ユイの潜在能力を見誤っていた。思いの外、ユイに含まれるレヴァの血は濃いらしい。この前は一年以内といったが、もうすでにここまで形成が進んでいるとは。ちょうど、新しい器官ができて活動を始めた所だから、辛いのかもしれないな」
「新しい器官って?」
「そうだな。地球人の女性体のみに含まれる器官だな」
 下腹部が、しくっと鳴った。
「ユイ、もうすぐだ。だから今すぐ用意しなくては」
 メイに押されるようにして、立ち上がる。
「ユイ、私もついていくか?」
「独りで、行くから」
「大丈夫か?」
「独りで、やるからっ!」
 ぱっと、メイの手を振り払って手洗いに走る。
 何に怒っているのかがわからなかった。何が起こっているのかがわからなかった。
 お腹の中が激しく動いていて、痛くて、走っているつもりなのに、お手洗いまでが長かった。
 先ほどと同じようにしゃがみ込んだ。
 身体の内側から下の方へ熱い物が落ちていく感覚があった。今までに感じたことのない所から何かが外へ出て行くのがはっきりとわかった。それは熱く流れる物で、それが外へ出た瞬間に、立ちのぼる甘酸っぱい匂いを感じた。
 胸が締め付けられるように苦しくなって、それでいて心臓はどきどきと波打っていて、頬が熱くなるのを感じた。
 その意味を理解した。




 男女共同参画社会の実現に向けた政策の一環として、義務教育における性教育の平等が徹底された。その知識を生かす結果となった。 とりあえずの応急処置を終え、メイのところにとぼとぼと帰った。
「ふーみゅ」
 メイは優しく笑った。
「おめでとう。ユイ」
「ありがとう、なのかなあ」
 世間一般では赤飯でお祝いするという。だから嬉しいことなのかもしれない。
 あれ?
 嬉しいことなの?
 嬉しいのかなあ?
 嬉しくないかも。
 嬉しくないよ。
 喪失感があった。
 何かを失ってしまった瞬間だった。
 悲しいのかな。
 悲しいかも。
 悲しい。
 やはり、なんだか、訳もなく、とめどなく、ただむやみに、しみじみ、うっすらと、悲しかった。
 そう思ったら、心が揺さぶられるような気がして、胸がどうしようもなく苦しくなって、涙が出てしまいそうになった。それをこらえるのに全力を注いだけれど、どうにも我慢できそうになかった。
 我慢が限界に達した瞬間、堰が切れたようにボロボロと涙がこぼれ始めて止まらなくなり、耐えきれずに泣いた。
 わあっと泣いた。
 大声を出して泣いた。
 何も見えなくなるほど泣いた。
 両手で顔を覆って、しゃくり上げの声を漏らし、すすり泣いた。
 恥ずかしいほどに涙は流れ続け、瞼を焼くような熱い涙がただひたすらに頬を伝った。
 どん底からこみ上げて来るような悲哀が胸の内を流れ、泣いても泣ききれない悲しみが心を支配した。
 胸の中に痛みがあった。けれどその痛みがどういう痛みかわからなかった。
 下腹部に痛みがあった。その痛みの意味は知っていた。
 明日から世界が消えてしまうような悲しみだった。けれど明日から世界が無くならないことを知っていた。
 湧き水のように止めどなく感情が流れ出した。水に包まれていたかった。浄化されたかった。綺麗になりたかった。綺麗に生きたかった。
 身体が重かった。重い身体の意味を知っていた。
 けれど大切な物が取り去られた喪失感の方が強かった。二度と大切な物を取り返せないという事実の方が重かった。
「ぼくは、ぼくは、ぼくはぼくでぼくでしかなくて、でもぼくは、おとこのこじゃなくなって、ふえ」
 どこかへ消えてしまいたかった。どこかに落ちてしまいたかった。水底に沈んでしまいたかった。身体を水に溶かしてしまいたかった。
「ぼくは、ぼくは、お、おんなのこ?」
 身の置きどころの無い恥ずかしさだった。やりどころのない羞恥だった。身体がほてり、恥辱に耐えた。屈辱的だった。無理矢理、裸にされて、鏡の前に立たされているような気分だった。
 似ているのかもしれない。
 似ているの、かな。
 小学二年生の時の、お人形さんごっこに。
 あのときのお人形さんみたいに、ひらひらな服を着て、鏡の向こうにいる自分を、ただ見つめていることしかできない。
 男の子なのに女の子の格好なんかしていたから、罰が当たったのかな。
 ごめんなさい。
 でも、謝っても手遅れだよね。
 もう、だめだよね。
 おかしいよね。
 あれ?

 男の子が一人いて、幼なじみに恋心を打ち明けて、両思いでつき合って、そして別れて、男の子はお人形さんみたいな女の子になりました。
 お人形さんの呪いは夜十三時に解けることになっていました。でも絶対に夜の十三時は来ないので男の子はずっと女の子でいなければなりませんでした。

「ふええ」
 子供のように泣いた。いや、実際に子供だった。
 手に入らない物を欲しがって泣いている子供だった。亡くしてしまった物を取り返そうとして泣いている子供だった。自分の姿を認めない子供だった。
 端から見ると滑稽で、気持ち悪くて、最悪で、単なる夢物語のようで、笑い飛ばされて、軽蔑されて、誰も振り返ってくれなくて、最後に捨てられて、忘れ去られて、消えていくようなお話だった。それでいて当事者にとって見れば、真実で、本物で、いつも一人称で、忘れることはできずに、ずっと残っていくようなお話だった。
 一人称でしか語れなかった。
 一人称だから語り尽くせなかった。
 一人称だから惨めだった。
 だから泣いた。
 泣いても解決しないことを知っていた。
 それでも、泣くことしかできなかった。泣くことに専念した。
 一途に泣いた。懸命に泣いた。運命に泣いた。泣くことが運命だった。
 この世に生を受けたことに泣いた。
 真実を受け入れがたくて泣いた。
 青臭い気取った感傷はいらなかった。
 泥臭い赤裸々な感情が必要だった。
 だからただひたすらに情動に任せて、みっともなく泣いた。
 声がかれるまで叫び、泣いた。
 涙がかれるまで泣いた。
 泣き疲れるまで泣いた。


 目を覚ますとメイに膝枕をされていた。
 心配そうなメイの顔が見えた。
 多分、メイの瞳には赤い目をして泣きはらした少女の姿が映っている、と自虐的に考えた。
 そうしたら余計に悲しくなった。
 心に空白ができたようで、身体に重い物ができてしまったようで、悲しかった。
「ユイ? 今のユイの状態は『悲しい』という状態なのか」
「見たら、わかるじゃん」
 鈴のような少女の声でメイに答える。意識して低い声を作るのは、もう疲れた。自分の出した声が、大好きなユウの声に似ていたから、気恥ずかった。
「すまんな。私は、宇宙人だから、地球人の泣くという感情が十分に理解できていないのだ。嬉しいことなのだろう、新しい身体ができたということは。だから、地球人は母なる女性体から産まれた時、泣くのだろう。だから、今のユイの状態は『嬉しい』ということなのではないか?」
「うまく、言えないけど」
 身体を起こし、メイの首に手を巻き付ける。
「メイ、ぼくを抱いて」
「そうか、誰かに抱きしめて欲しい。というのが『悲しい』なのか?」
 小さく首を振る。
「それだけじゃないよ。でも」
「でも?」
「ちょっと当たっているかも」




―2―


 売店で必要な物を購入した。
 状況に流されるのは慣れていたけれど、体中が真っ赤になるような恥ずかしさで、小さな声で目的の品を言うのがやっとだった。こういった品物も置いてあるのはキャンプ場の売店として当然だとおばさんは言った。「男の子だと思っていたけど、やっぱりちゃんと女の子だったんじゃん」と付け加えられて顔から火が出る思いだった。

 木炭から火が出ている。
 夕ご飯はキャンプ場の一角にある場所を使って、バーベキューだった。
 ちらちらと揺れる火をみると、なぜかいつもと違った気分になる。肉が焼ける匂いで、本来ならば食欲が増進させられるはずだった。けれど今日はお腹がいっぱいな気分で、何も食べる気がしなかった。
 当然の事ながら、ひらひらな服ではなくて、元の服に戻っていた。けれどすこしウエストが余ったり、胸の辺りがきつかったりするのはどうしようもなかった。朝と比べて、周りの物もすこし高く見えるので、身長も縮んでしまったようだった。
 メイに「おいしいぞ」と言われて、殻つきエスカルゴを差し出されたけれど断った。もっとも食欲がある時にもエスカルゴは食べられないと思ったけれど。それになぜキャンプ場にエスカルゴがあるのかが疑問だった。
「メイ、その殻つきエスカルゴ、どうしたの?」
「そこで拾った」
 それ以上、聞かないのが精神衛生上好ましいと思った。
「ユイ、なんか元気がないぞ。何か隠しているな」
 眼鏡を掛けた父さんに、不信の目を向けられる。
 小さい頃、万年筆を壊した時「ぼくは父さんの万年筆を分解して壊したりしないよ」と言った時、父さんが見せた表情に似ている。
「な、なんでもないよ。別に身体がおかしいとかそんなことないよ」
 エスカルゴをほおばっているメイの方に、ちらりと視線を送る。
 視線でメイに「話すな」という意志を送った。メイは大きく頷いた。
「ユイの身体が女性体に変化していて、じつは今日、正式に女の子になったということは内緒だ。男の約束だからな」
 父さんは、目を丸くした。
「ものがものだけに、たまげたな」
 ふっと力が抜けて、そばにあった石のベンチにへたり込んでしまう。その瞬間に下半身に感じる重さを思い出してしまった。
 そして父さんを見上げて、身体に起こっていることを話した。
「こんな、話、信じられないよね」
「信じた」
「え?」
「これから言う話は実話だから、よく聞け」
 父さんは息を吸った。
「じつは」
 一瞬、父さんは黙った。そして言った。
「ユイは父さんがお腹を痛めて産んだ子じゃないんだ」
 父さんの頭を、母さんがはたく。
「ユイは私がお腹を痛めて産んだ子です。それで思い出しましたけど、ユイが生まれたとき父さんは生ガキに当たってお腹を痛めていたでしょう」
「いや、あれは、スーパーのタイムセールでカキを売っていたから。確かあれは夏だった。夏期のカキセールとか。なんちゃって」
 父さんが訳のわからない言い訳をするのを、母さんが遮る。
「カキの旬は冬です。ユイが生まれたのは七月二十一日でしょう。忘れたんですか? そんな暑いときに生ものを買ってそのまま食べるなんて、常識はずれも甚だしいですよ」
「生ものはうまいぞ」
 メイがエスカルゴを生で殻ごと食べている。
 母さんはそれにはかまわず話を続けた。
「青い顔をして病院に来てくれたときは心配してくれたのかと思ったんですけど、後で真相を知って日本海溝の底に落ちたくらい落胆しました」
 メイにつんつんと肩を突かれる。
「カキは日本海溝の底に住んでいるのか?」
「ううん。主に沿岸沿いの浅いところに住んでいるんだよ」
 問題がずれてきているような気がしてきた。
「えっと、父さんに、母さん、問題は生ガキじゃないと思うんだけど」
「なんだっけ?」
 父さんが頭を掻く。
「スーパーのタイムセールでしょう」
 母さんが変な答えをする。
「時間量子を切り売りしているのか?」
 メイが突っ込む。
「ああ、話がまとまらない」
 父さんがうんうんと頷いた。
「うむ。そろそろまとめようではないか」
「まとまるの?」
「今までのは冗談だ。つまりこういう訳だった。私が母さんにプロポーズしたとき、母さんは既に身ごもっていた。話を聞くと、宇宙人と日本海溝より深い恋に落ちて関係におよんだ。しかしその宇宙人は宇宙船に乗ってもとの恒星に帰ってしまったという。とんでもない話だ。私は母さんのことが好きだったし、母さんの子供ならば自分の子供と同じだし、生まれてきたユイとともに清く正しく明るい家庭を築こうと堅く心に誓ったのだった」
 なんとなく父さんの中で何倍か美化されている様な気がする。
「えっと、その、ということは、ぼくは」
「うむ、半分は母さんの血を引いていて、半分はその宇宙人の血を引いている。冗談のセンスは私が小さい頃から仕込んだ。だからユイの身体に何が起こっても父さんも母さんも驚かないぞ」
「その宇宙人って」
「母さん、いいのかなもう言ってしまって」
 母さんが頷く。
 父さんがメイの方を向いた。
「その宇宙人は、お忍びで地球に来ていたレヴァという星の王様だったという」
 メイが神妙に頷いた。
「ちなみにこういう耳が出ていなかったか? 黒ならば、間違いなく私の父上だ」
 メイが頭をかくっと前に傾けると、黒い猫耳がひょこりと出た。メイの猫耳がぴくりと動く。
 母さんはすっと目を閉じた。
「気づいていました。メイがレヴァからきた宇宙人だと知った時から、メイがあの人の子じゃないかって思ってました。目がそっくりですから。でも、私は、私を捨てたあの人をずっと許せなかったんですよ。だから、あえてあの人とつき合っていた事実をメイに言わなかったんです」
 母さんは目を開いた。
「前にもらった三億円はまだ手をつけずに押し入れに置いてあります。メイがレヴァに帰る時に、持っていってあの人に返してください。でも、メイ、あなたを憎んでいる訳じゃないんですよ。結局、私はあの人が好きだったから、あの人を許せないんです。だからあの人の息子であるあなたのことは大好きですよ」
 母さんが、メイに近づく。そしてそのままメイを抱きしめて、メイの猫耳の後ろを優しく触った。
「う、うみゅ。この耳はレヴァの王族の感覚器とだけあって、敏感なのだ」
 メイの目が半分閉じられて、恍惚としたメイの表情が幸せそうだった。
「その耳の後ろをなでるということは、親しい人への正式な挨拶なのだ」
 小さな声で母さんがメイに向かってささやく。
「あの人は、まだ元気ですか? 多分、まだ元気で、色々な恒星に出かけていることでしょうね。だからメイがここに来たのでしょう」
「うみゅ。まあ、そんな感じだな」
 珍しく、メイが言葉を濁した。
 それからしばらく、メイは母さんに猫耳をなでられるがままにされていた。
 義理の母と子がお互いを認識しあった瞬間だった。メイは一四四光年向こうから来ている。光の速さでも一四四年の距離だ。親戚がこんな辺境の惑星に住んでいることを、メイが意識したことはなかったと思う。
 ぐっと胸が締め付けられる感覚がある。
「ねえ、父さん」
 後ろに顔を向ける。
「なんで、父さんがぼくを後ろから抱きしめているの?」
「いや、ユイ。ユイは何か大切な事を忘れていないかな? そもそも、問題はユイの身体のことだっただろう」
「えっと」
 少年にしては膨らみすぎている胸ごと、父さんにしっかりと抱きしめられている。
 その。あの。なりたてとはいえ、やっぱり恥ずかしかったり。
「あー」
 父さんの抱きしめが強化された。
「父さんは、昔から娘が欲し」
 肘をあげて、父さんの顎をついて、脱出する。
「うぐ」
 致命的な台詞は危機一髪で回避された。



―3―


 キャンプ場での一週間の間に、売店のトメおばさんと仲良くなった。
 三時のおやつでスイカをトメさんにご馳走になって、それからずっと、トメさんの家でくつろいでいた。
 そろそろ夕方になろうかという時刻で日はすこし傾いていた。縁側がある方の窓がすっかり開いていて、床と縁側が繋がっていた。窓枠に掛けてあるすだれが、夏風ですこし内側に押されている。
 メイは西瓜を食べ過ぎて畳の上で寝ていた。ベビードール姿で、タオルケットをお腹に掛けて、幸せそうに寝ていた。メイを見ていると、メイには悩みというものがないのではないかと思ってしまう。時折、すだれの隙間から流れ込んでくる夏風を敏感に感じているのか、メイの猫耳がぴくぴくと動く。
 メイとトメさんのところに来るたびに、一緒に色々な服を着せられた。
 今は、すっきりとした純白のワンピースだった。
 半分やけになっていたのかもしれないけれど、色々な服を着ること自体は辛いというより、昔、ユウの家で着せ替え人形にされた思い出に通じていて楽しかった。
「そうなのかな」
 楽しいと思いこんでいるのかもしれない。
 そんなことを考えていたらトメさんに声を掛けられた。
「前にね、チイに買った服があるんだけどね。この服を来て、家の人に見せてやってくれないかい?」
 またゴシックロリータですか、という疑問はチイという子のために飲み込んだ。
 出された服は予想していたものとは違い、赤を基調として桃色の秋桜があしらわれた浴衣だった。トメさんに浴衣を着せてもらってから、独りで縁側から外に出た。トメさんに一つだけお願いをされた。
 椿の生け垣の間を抜けて小道に出る。
 売店兼キャンプ場の管理人であるトメさんの家は、森の外れに位置していた。そこからボート屋のある桟橋までは、ちょうどキャンプ場の森を突っ切る形になっていた。
 森のはずれから桟橋に至る、平たい石を敷き詰めた小道を歩く。
 草履の裏から伝わってくる道の凸凹を、足の裏で敏感に感じた。すこし痛いような、くすぐったいような感じだった。
 桟橋にボート屋のおじさんはいた。
 舫綱を桟橋に巻き付けていたおじさんの顔がふと上がる。
「チイ?」
 今はいないはずの少女の名を、おじさんは呼んだ。
 一握りの勇気を出して、先ほどトメさんに言われたとおりの言葉で呼びかける。
「『お父さん』」
 すっとおじさんに近づいて、おじさんの胴を両手で抱きしめて、おじさんの胸に顔を埋めた。
 大きな手が、頭に触れるのを感じた。
 その手で優しく頭を撫でられた。
「昨日溺れていたお嬢さんだね。ありがとよ。溺れていたお嬢さんを、助けたかいがあったってもんだ。は、は」
 おじさんの手が背中に回されるのを感じた。そのままおじさんに抱きしめられていた。


 もう夕方だった。
 湖の岸に大きな岩があった。おじさんの話によると、その岩は火山が活発だった頃に吹き飛んで来た岩だということだった。そしてこの湖も、火山の後にできたカルデラ湖だということだった。
 おじさんと一緒に大きな岩に並んで座っていた。
 おじさんは、手に、赤いリボンのついた麦わら帽子を持っていた。
 チイという子の麦わら帽子だった。
 湖を眺めていた。
 湖面すれすれを水鳥が飛んでいく。つう、と円錐形状に波が立ち、水鳥は空に急上昇する。空は橙色の光で満ちていて雲が色づいて見える。空の端にはカルデラ湖を囲む山の連なりがあり、山際にある木々の葉の表面で光が踊っている。
 木の葉、一枚一枚を例にとっても、全く同じ色の葉は存在しない。
 湖の向こうに広がる森と山は命の集まりを連想させる。
「なんとなくさ、あの湖の向こうにチイがいるような気がしてさ」
 ぽつり、とおじさんが話し始める。
「お嬢さんとおなじくらいなんだよな。チイは」
 麦わら帽子を握りしめたまま、ぽつりとボート屋のおじさんが呟く。
「お嬢さん。勝手にボートを使っちゃいかんよ。特に小さな子供だけでは駄目だ。大人、あるいは責任のとれる大きな子の目の見えるところで水遊びはするんだよ。チイは、勝手にボートで遊んで」
 おじさんの肩が震えている。
「俺に言えば、いくらでも、こぎ出してやったのに。ばかやろう。畜生め。女の子はもっとおしとやかでよかったんだ」
 風が吹いた。
 背中の方から風に押されて、湖に落ちてしまいそうで怖かった。
 おじさんは、ふうっと息を吐いた。
「すまんな。お嬢さんの前で、汚い言葉吐いて。なんだっけかな、男女共同参画社会に反する発言だっけ、は、は。知るかってんだ。俺はチイが大好きだったんだ」
「うん」
 そう頷いた。
「わかるよ」
 そう言った。
 おじさんは小さく笑った。
「お嬢さんに、この麦わら帽子あげるよ。やっぱさ、赤いリボンのついた麦わら帽子はさ、おじさんよりお嬢さんに似合うよな」
「いいん、ですか?」
「いいって。いいって。きっとさ、チイもさ、喜ぶよ」
「ありがとうございます。大切に、します」
 そう言って、麦わら帽子を受け取った。
「お嬢さん、その麦わら帽子、被って見せてくれないかな」
「はい。でも『お嬢さん』じゃなくて『ユイ』っていう名前がちゃんとあります」
 そう言って麦わら帽子を被って見せた。
「ありがとよ。ユイちゃん」
 そう言っておじさんは顔をうつむけた。
 ボート屋のおじさんが麦わら帽子を託してくれた気持は、なんとなくわかるような気がした。
 おじさんが立ち去ってからも、しばらく岩の上に座っていた。すこし考えたかった。
 すこしずつ日が傾いていくのを眺めていた。
 空の色が橙から赤に変わっていく。
 風が吹く。
 湖面が揺れる。
 光が踊る。
 湖の向こうに夕焼けが現れ始めていた。
 辛いことは避けたら無くなるのではなくて、向き合ってつき合うものだと気づく。
 悲しそうな顔をしていた幼なじみのユウを思い出す。あのとき、本当はユウのことが大好きだったのに「ユウなんて大嫌いだ」と言ってしまった。酷いことを言って別れてしまったことを後悔した。
 ユウと少年と少女の特別な関係になることはできなくても、大切な友達としてつき合うことはできるかもしれなかった。ユウと一緒にいられるだけで幸せだという気持に気づいた。
 自分の気持に気づくか、気づかないか。
 辛さと幸せは、たった一つの線でわけられていると思った。
 あのときそこまで考えることはできなかった。
「やけに、なっていたのかなあ」
 ひょっとしたら今もやけになっているのかもしれない。
「ぼくは、駄目だね」
 夕焼けの中で呟く。
 まったく考えることをしないで、無計画で、感情的だった。
 だからいつも失敗しているのだと思った。
「そんなことは無いぞ」
 振り返るとメイがいた。手を岩に掛けて、軽い身のこなしで、すっとメイは岩に上がった。
 上半身は袂のあるサーモンピンクの浴衣風の上着で、下半身はひらひらが重ねられたスカートといった出で立ちだった。腰がくっと赤紫の太い帯で締められていて、後ろには大きな蝶結びがあった。白いハイソックスに白い厚底の靴が特徴的で、薔薇の似合う少女を意識した、和洋折衷の装いだった。
 メイの金髪は、漆黒のリボンを使って、ゴールデンポイントにおいてポニーテールでまとめられていた。
 あっけに取られて息を飲む。
「そ、その服装は?」
「うーみゅ。トメさんに着せてもらったのだが変か? トメさんは似合うと言ってくれたのに」
 そう言ってメイが隣に座る。
 メイはぷうと頬を膨らませた。
「地球人の少女は、こういう時は機嫌を悪くして頬を膨らませるらしいな。というわけで、今、私は機嫌が悪いぞ」
 そう言いながら、メイはつんと首を斜め上に向けて静止していたけれど、すぐに疲れてしまったのか元の表情に戻った。
「いまいちわからんな。最近ツンデレというものを学習しているのだが。そもそもツンとは何だ? こういうふうにすることなのか?」
 メイに脇腹をつん、と突かれる。
「ひゃ」
 くすぐったくて声を出した。
「にゃは」
 メイが声を出して笑った。
「とりあえずツンデレの半分が終わったぞ」
 何が半分なのかが、わからなかった。
「メイとぼくって、兄弟だったんだね」
「異母兄弟というな。ところで、地球の言葉では、兄弟というよりはむしろ姉妹というのではないか。違うか?」
 メイが首を傾げる。
「そうだね」
 そうなのかもしれない。
「ユイ、今、私は『悲しい』ぞ」
「へ?」
「なんだ? ユイに抱いて欲しいと思ったのに。ツンデレの半分は『デレ』なのだろう。『デレ』は『抱いて欲しい』ということだな。学習した本では最終的にそうなっていた。そして『抱いて欲しい』は『悲しい』と同じではないのか?」
 メイに両肩を掴まれて、がくがくと首を前後に振られる。
「あ、いや、『悲しい』とき『抱いて欲しい』かもしれないけれど、『抱いて欲しい』から『悲しい』とは限らないんだ」
 メイの動きが止まった。
 メイは首をがくっと下げる。
「ふーみゅ。地球の表現は難しいな。それなら複雑な表現を使わないで単純に言おう。ユイ、私を抱いてくれ」
 そう言ってメイが身体を任せてくる。
 そのままメイを抱きしめた。
「ねえ、メイ」
「なんだ? ユイ」
 胸の中でメイが答える。
「ぼくの耳は、猫の耳みたいになるの?」
 メイが顔を上げた。目の前にメイの瞳と、黒い猫耳が見える。
 メイの猫耳がぴくぴくと動いた。
「うーみゅ、おおむねそうなる予想だな。ユイの身体には半分地球人の血が混じっているから、どんな耳になるか楽しみだな。ちなみにこの猫耳は物質の構成因子たる波動因子を制御する機関でもある。色によって機能が違う。一般に黒が王族だな。ちなみに猫耳ができていないユイは自分の身体の変化を上手く制御できない。もっとも猫耳ができても訓練しなければ、任意に制御することは不可能だがな」
「どうやって、訓練するの?」
「そうだな。主に精神力だな。こうありたい、あってほしい、と強く意識する必要がある。ユイのように流れやすいと問題だな。自立心が重要だ」
 メイはうんうんと頷いている。
「そっか」
 すこしは希望があるのかもしれない。
「ねえ、猫耳ができたら、ぼくは男の子に戻れるかな」
「訓練すればな。新しい身体に慣れて、レヴァ星人特有のこの器官を使いこなせるようにしなければならない」
 そう言ってメイは猫耳を指さした。
「流されやすいユイの性格は障害になるかもしれないな。でも、そんなユイの性格は悪い性格ではないぞ。ユイは素直だから流されやすいのだ。私はそんな素直なユイが好きだ」
 こつんとメイの頭が肩に当たる。
 伸ばされたままのユイの猫耳が首筋をかする。皮膚の表面で獣毛が動いてくすぐったかった。
「人間として一皮剥けないといけないな、て思った」
「よかったな。ユイ。夏休みに大切なところが剥けて」
 両腕の中にいたメイが、ぐっと身体を倒してくる。ちょうどメイの頭を膝枕する形になる。メイが何のことを言ったのかはよくわからなかったけれど、こういう感じで誰かを膝枕するのもいいかもしれないと思った。
「正式な挨拶をしてくれないか?」
 メイが目を細めてお願いしてきた。
 メイの猫耳の後ろをなでてみる。やわらかい感触が気持ちよかった。
 顔を上げる。湖の向こうに太陽が沈むところだった。
 一瞬、赤い空に緑色の光が走り、そして消えた。
 すっと辺りが夕闇に包まれる。
「ユイ」
 メイが呼びかけてくる。
「もし、私がだな、その、恒星間戦争における政治的裏工作のためにユイたちに接触していたことを打ち明けたら、ユイは私のことを嫌いになってしまうか?」
 首を振る。
「もう、だれかを嫌いになることはないよ。それに、メイのことはずっと大好きだよ」
 メイは懐から、鎖がついた小さな卵のようなものを取り出した。
「お礼だ。特別な笛だ。いざというときに吹けば、何らかの物理的効果がある」
 笛を受け取る。夕闇の中ではっきりとは見えなかったけれど、表面は黒っぽくてつるつるしていて、小さな穴が入り口と出口に開いていた。
 受け取った笛の鎖を首に掛ける。
「ありがとね」
 お礼にもう一度、メイの耳の後ろをそっと撫でた。
 メイは、物欲しそうに「うみゅう」と言った。
「ん? 何?」
「ユイのほっぺを嘗めては駄目か」
 その後のことはよく覚えていない。




―4―



 家族旅行から帰って一日目のことだった。メイにタンスの下着を波動因子レベルで改変してもらった。そうでないと肌と胸がこすれて痛くてくすぐったくて、どうしようもなかった。
 家族旅行から帰って二日目のことだった。母さんにタンスの中身を入れ替えられた。服の半分以上が母さんが購入したものに置き換わった。
 家族旅行から帰って三日目のことだった。
「え? ぼくに電話?」
「そう。ユキオ君とかいう男の子から。ふふふ」
 母さんは思わせぶりな含み笑いをした。
「ほら、すぐに電話に出なさい」
「あ、あのさ。母さん、変な誤解しないでね。ユキオ君にはノンちゃんという恋人がいるんだからね。それにぼくは」
 続けて変なことを口走りそうになったのであわてて両手で口を押さえた。いくら身体が変化してしまったのが本当だといっても、それを口に出すと気恥ずかしくて妙な心持ちになってしまう。
 すこしきついけれど男子の制服は着られるし、まだ心は健全な少年だ、多分。下着と身体の中身は別かもしれないけれど。
「ほらほら、青春を頑張りなさい」
 そう言って母さんは受話器を持ち上げる。
 走っていって受話器を受け取る。
「イフイフ」
 と言って電話口に出る。母さんに聞かれていて緊張しているせいもあるけれど、どうしても声が前より子供っぽくて高い感じになってしまう。
「え? 『イフイフ』って英語で『もしもし』だけど? あ、『ハロー』が正解なんだ。声が可愛くなったって? 気のせいだよ。え、学校に、今すぐ。はい」
 夏服の半袖ワイシャツの上から下が透けて見えないように、薄いTシャツを重ね着した。首にはメイからもらった笛をぶら下げた。出かけることを母さんに告げ、「いいねえ、青春って」という声を背中に受けて学校に向かった。

 汗をタオルハンカチで拭きつつ、呼び出されたギター部室前に行くと、ユキオ君とノンちゃんがいた。
「俺を見ろ」
 ユキオ君はギターを構えてポーズを取っていた。左手はコードを押さえ、右手は弦をかき鳴らす位置に固定されていて、心なしか指の筋肉がもりもりといった感じだった。長髪はバンダナでまとめられていて、金髪が背中に流れている。
「ユキオ君。その意味不明なポーズは一体なに?」
「ふ、ふ、ふ。俺は『スネイルズ』に対抗して『ナメクジーズ』を結成することにした。というわけで、ユイには『ナメクジーズ』のボーカリストとして頑張ってもらうことになった。もちろんパートはソプラノだ。その男にしてはもったいない美しく高い声で老若男女を問わずに魅了してくれたまえ」
「そうなんだよ。いいでしょ? あたしは陸上部だけど、本番の衣装とかお手伝いするから。親戚のおばさんに、そういうのが好きな人がいるんだ。もちろんひらひらで可愛いのを手に入れておくからね。九月には文化祭があって女装コンテストもあるし、楽しみだね」
 ノンちゃんも何やら乗り気らしい。全然そんなことは聞いていなかったのだけれど。まあ家族旅行で出かけていたから知らないのも当然だった。いやそれは本質的な問題ではない。
「ちょっと待ってよ。ぼくは何の相談も受けていないし、了解とは一言も言っていないよ」
「ドラフト会議で一位指名になっている。抵抗は無意味だ」
「ドラフト会議っていつやったのさ」
「今やっているじゃないか」
 がくっと、崩れ落ちる。
「いいじゃん。ユイってお茶目な人だし。もし駄目だって言うんだったら、この前のこと、ばらしちゃっていいの ? ノリノリで女装し」
「あー」
 あわてて、ノンちゃんの口を手で押さえようとしたけれど、崩れ落ちていたから初動が遅れた。結果、すでに発音がなされた後で、因果律に反することはできなかった。したがって、誤った情報がユキオ君に伝わってしまったのだった。
「それに、ユイったら、夏休みの間に、またすこし可愛くなったし。身長も見た感じ縮んだような感じだし。黒くて可愛らしいペンダントを首に下げてるし。いいじゃん」
「そうだよな。よかったよかった」
「よくないよ」
 両手をひらひらと振っての抗議行動は、二人にまったく効果を示さなかった。
「え? だってユイは『日頃から常に、困った人の助けになりたいと努力している』んでしょ?」
「そんな連載小説で言ったら二つくらい前の話なんて、誰も覚えていないよ」
「あたしは覚えてるよ。それにいいじゃん。だってユイって」
 そこでユキオ君とノンちゃんが顔を見合わせた。
 そして二人一緒にこっちを向いて、二人一緒にはっきりと言った。
「お茶目な人だから」
 見事に三度のハーモニーになっていた。
 その響きに圧倒されてたじたじとなりつつ、一応つっこみどころはつっこんでみる。
「あ、あのさ、ところで『ナメクジーズ』ってどうして『ナメクジーズ』なの?」
 すでに台詞が半分あきらめモードに入っている。ちょっとだけ、周りの人が幸せならば『お茶目な人』でもいいとも思ったり。
「ふ、ふ、ふ。『ナメクジーズ』は『スネイルズ』にインスピレーションを得たのだ。あるいは『スネイルズ』をレスペクト、オマージュ、インスパイアと言ってもいい」
「わざわざ横文字を使わない方がいいよ。微妙に用法が間違っているような気もするし、嘘くさくなってくるから。単純に尊敬しているってことでいいじゃん」
 ユキオ君はふるふると首を振った。
「いや『ナメクジーズ』は『スネイルズ』を超えた新たな音楽を開拓する、一皮剥けたバンドとしてだな」
 ふうっとため息をつく。
「それを言うなら」
「それを言うなら?」
「一殻剥けたバンドだよ」



#The shell was peeled in the summer vacation......


―あとがき―

 お久しぶりです。または初めまして、よろしくお願いします。
 残り三話ですが最後の落ちまでおつきあい頂ければ幸いです。
 読んでくださった皆様、お世話になった司書の方々に感謝です。

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