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―〇―


 初めてユウの家に行ったのは、三歳くらいのときだったと思うけれど、はっきりとしない。逆に言えば、物心ついた幼稚園のときくらいからユウの家に行っていた。そして、幼稚園を卒園してからも、ユウの家に遊びに行っていたと思う。
 昔から、体育系の遊びは得意ではなかった。逆に、ユウの家に行って、ピアノで『猫踏んじゃった』を連弾したり、折り紙をしたりするのが好きだった様な気がする。
 少なくとも小学校三年生の七月二十一日まではそうだった。
 あの日もユウの家に遊びに行っていた。
「ねえ、ユイ、わたしの縫いぐるみ、ユイが好きなの、一つあげてもいいよ」
 ユウは、窓辺にずらりと飾ってある色とりどりの縫いぐるみたちを指さした。何度も説明されているから、名前をすべて言うことができる。茶色い熊のブラウに、黄色い狐のイエル、桃色をした兎のモモ、白い犬のホワイトに、黒い猫のクロ、潮吹き怪獣ガマクジラ等々。
 とりあえずガマクジラは除外した。
「クロを、もらってもいい?」
 一番好きな黒猫を見た。
 ユウは、はっと手を口に当てた。
「クロは、だめ。ほら、ガマクジラなんかいいじゃない可愛いよ」
「でも、さっき、好きなのをもらっていいって、言ったじゃないか」
「でも、クロは、だめなの」
「そんなの、ずるいよ」
 そう言って、クロの方に手を伸ばす。
「だめ」
 ユウが目の前で通せんぼをする。
「あ」
 身体が移動していたのに急に止められたから、前に倒れてしまう。ユウの身体ともつれ合いながら一緒に床に転がる格好になる。倒れる瞬間にクロの耳をつかんだ。
 身体の下で、ユウがもがいている。あわてて、片手をついて、身体を起こす。
 ユウも身体を起こす、ユウは顔を真っ赤にして怒っていた。
「クロはわたしのなの」
 そう言って、ユウはぼくが耳をつかんでいたクロを強引に引っ張った。その瞬間、布が裂ける音がして、クロの耳がぼくの手の中に残った。
 あ、とユウが息を止めたのがわかった。
 ユウは自分の手の中にあるクロの身体と、離ればなれになった耳を交互に見た。一回か二回口をぱくぱくとさせた後、思い直すようにして口を大きく開けた。そして、泣いた。
「ご、ごめん」
 あわてて謝ったのだけれども、一度こぼれたミルクは二度と元に戻らないと決まっている。もし独りでに戻るのを見たとしたら、世紀の大発見になってしまう。
 仕方がないので、ユウの脇腹に手を伸ばした。
「あ、あひゅ?」
 くすぐったらユウが反応した。昔からユウの脇腹が弱点だということはわかっている。ユウの目が一瞬丸くなって、それからユウが反撃に出る。
 いままで身体の下にいたユウがばっと立ち上がり、その勢いで逆に床に倒れさせられる。仰向けの胴体に身体を乗せられ、両足をユウにつかまれる。というか、無理矢理、足の裏をユウの方に向けさせられて、股関節が痛い。
「ユイの足の裏が弱点だって、わかっているんだから」
「むう?」
 足の裏の表面でユウの指が踊った。こそばゆい。ここで足をばたばたとさせても良かったのだけれども、そうするとユウの顔を蹴ってしまうことになるので、必死に我慢をする。
 一瞬、足の裏の感覚が止まった。
「ん? 全然くすぐったくないらしいですね。じゃあ、もっとやります」
 再び、足の裏のくすぐりが強化される。
「あ」
 思わずくすぐったさに声が出てしまう。
 その瞬間に、ユウの部屋の扉が開いた。正面にいたのはユウのお父さんだった。天然のバーコードに光り輝く頭、そして貫禄をたたえたちょび髭に、四角い眼鏡が特徴的だった。ちなみにユウのお父さんは大森中学校の校長先生をやっていて、不純異性交遊などに厳しい先生でもあった。
 確かにあの格好では、やましいことをしていたと誤解される可能性は否定できないと言わざるを得なかったけれど、正当な弁明の機会は与えられるべきだったと言明せざるを得ない。
 しかし国の法規で義務づけられた、弁護士を付けて法廷闘争をして最高裁判所までいくということもなく、当事者間の示談交渉の際には発言権を許されず、保護観察の立場から、教育的指導という名目によって、強制送還という手続きを経て、問答無用でその日からユウの家に出入り禁止になった。
 ちなみにその日は、ぼくの誕生日だった。





居候はレヴァの王子様

4.黒猫は胸元で丸くなる


―1―


 その日は、朝から調子が悪かった。そんなわけで三時間目の水泳は見学をした。もっとも、泳ぐのはあまり好きではないから好都合だった。それに水泳パンツ一枚で裸になると、ユウには「ユイって男の子なのに可愛い身体してるね」とか言われて頭と身体をなでられたり、ユキオ君には「軟弱だな。俺を見ろ」とマッスルポーズを取られたりして、あまりいいことはない。
 結局のところ見学をしてプールサイドに体育着姿で座っていても、ユキオ君に「お、あの日か?」とからかわれてしまったのだが。
 複雑な思いをお腹に抱えたまま、四時間目の数学の授業に突入したのだった。
「ううむ」
 やはりお腹に違和感がある。いや背中か。わからない。お腹と背中の間にゆで卵が一つ入っているようで変な気分だ。
「まあ、朝ご飯では目玉焼きを食べたんだけど」
 普段ならば、授業中に色々考えても思ったことは口には出さない。ましては担任の森先生がする数学の授業ではなおさらだった。けれども、今日はまずいことに声に出して言ってしまった。
「ん? なんだね。ユイ君。発言があるなら手を挙げて言いなさい」
 そう言ってから、森先生は首を捻った。
「いや、いまの私の言葉は、真意を表していない。『ユイ君が言いたいことがある、ならば、手を挙げた後に指名されたという手続きが完了した後に言いなさい』。うむ、これで曖昧さはないな」
 森先生の眼鏡が、きらりと光る。
 ここで質問をしなかったら内申書の点数が下がるに違いない。
 仕方がないので、おずおずと手を挙げる。
「うむ。なんだね、ユイ君。質問してみなさい」
 とりあえず黒板を眺める。
 黒板には縦の軸と横の軸が引かれていて、そこに斜めの線が引いてある。ちなみに縦の軸にはYと書いてあって、横の軸にはXと書いてある。黒板には大きな字で『線形な関数』と書いてある。
「あ、えっと。その『線形』って何ですか?」
 森先生は、うんうんと頷いた。
「数の世界で言えば、線形は入力を二倍にすれば出力が二倍になるという至って簡単な話だ。つまり、百円入れてジュースを一本買えるならば、二百円入れればジュースを二本買えるということになる」
「百円は食べられるのか?」
 メイが手を挙げて質問をした。内容がとんちんかんだった。仮にここで『百円』を『ジュース』と読み替えても状況は変わらない。ジュースは飲むものだ。
「うむ。百円は食えん。ひゃあ食えんと言ってな」
 森先生が生徒を見渡す。
 生徒は一様に無視を決め込んだ。
 森先生は、かるく咳払いをすると、再びチョークを手に取って黒板に向かった。
「うむ。このチョークが目に入らないか。ちなみに今の『チョーク』は『ジョーク』とかけていて、すこし名作テレビ番組が混じっているのだが。まあそれはいいとして『人生には楽あれば苦あり』ということで、線形非線形の話だったな。人間の感情が線形だったら世の中は単純だ。相手を好きになれば、相手も好きになってくれる。相手を嫌いになれば相手も嫌ってくれる。ところが」
 そこで森先生のチョークが、原点を中心に右斜め上がりの丸みを帯びた菱形っぽい閉曲線を描いた。
「人間の感情は非線形で、ヒステリックな軌跡を描く。これをヒステリシス曲線という。人間はみんなヒステリーなのだ。簡単に言えば、すこしくらい相手を好きになっても、相手は反応してくれない。そして、逆に、一度好きになった相手のことは、なかなかあきらめられないということだ。これで人間はいつも苦労する」
 そこで黒板を向いていた森先生が生徒の方を向き直った。
「でも、まあ、ずっとつき合っていれば、いつかは落ち着くところに巡り巡って戻ってくる。感情は環状なのだ」
 森先生がチョークをぐっと握りしめる。
「しかし、環状と言ってもいろいろある。例えば高速道路の環状線は有料だが、人間の感情は無料だ。これを感無量という」
 森先生の手の中でポキッとチョークが折れて、教壇の上にパラパラと白い粉が散った。
 これは数学の授業なのだろうか。仮に数学の授業でないとしても、わけがわからない。生徒は一様にため息をついた。
 ちょうどそこで午前中の授業終了のチャイムが鳴って、昼休みになった。


 昼休みには、いつものごとくユウが作ってくれたお弁当を、メイと一緒に食べる。
 結局、ぼくとメイの分のお弁当をユウが作ってくるのが普通になってしまった。ユウに言わせれば、お弁当を一人分作るよりは三人分作った方が美味しいらしい。本当かどうかはわからないけれど。
 毎度の事ながら「いただきます」と手を合わせてから、鶏肉とれんこんのオイスターソース煮に箸を伸ばした。
「今日の森先生の授業は、いつもに増してわかりにくかったね」
 ユウが今日の授業について感想を語った。
「あれは、数学の授業じゃないよ」
「ううむ。ところで、数学とは論理学の一部ではないのか?」
 微妙に論点がずれていたけれど、珍しくメイが真面目な話題を振ってきた。
「いや、その野望は不完全性定理で息の根を止められたとか。正しいとされることでも証明ができないことがあるとかいって」
 記憶が曖昧だ。
「ううん。そうなのですか? 正しいか間違っているかわかることだけについて、言っていれば問題ないんじゃないですか?」
「そうなのか?」
「まあ、そうだね。限られた領域の話について何かを言うことに文句を言う人はいない」
 と答える。
 メイはふんふんと頷いた。
「あ、これはあくまでも、個人的な意見だからね。偉い人がなんて言うかわからないよ。それに、ね、メイみたいな他の星の人がどう考えるかは、ぼくにはわからない」
「宇宙人の、話をしているのかい?」
 ぬっと、横からコンパクト百科事典を片手に持った、丸眼鏡が似合うキイ君が顔を出す。
「あ、UFO研究会で、宇宙人の話をしているといつも首を突っ込むキイ君じゃない。ねえ、かぼちゃとブロッコリーのごまマヨサラダいらない? 今日は特別にわたしが作ったマヨネーズを付けてあげるから」
 そう言ってユウが爪楊枝をキイ君に差し出した。
「うん、じゃあ、いただいておこうか」
 キイ君は遠慮がちに爪楊枝を受け取ると、ブロッコリーを串刺しにしてマヨネーズを付けて口に入れた。
「あ、ちょっと待って」
 そう、キイ君に注意したけれど、既にキイ君はマヨネーズを付けたブロッコリーを飲み込んでしまっていた。
「うっ」
 キイ君が口に手を当てる。
「はいっ、お茶」
 紙コップに入れたハーブティーをキイ君に差し出す。ハーブティーには精神安定作用もあるのだ。キイ君は一気にそれを飲み下すと、ぷはっと一息ついた。
「な、なんなんだ、あのマヨネーズは。まるで硫黄のような匂いがする」
「だから、待ってと言ったのに」
「そんなに、ひどくないと思いますよ。だって、メイはちゃんと食べてくれましたし」
 ユウがぷっとふくれる。
「そうだぞ。美味しいぞ」
 そう言って、メイはブロッコリーとマヨネーズを口に入れて、かくっと首を傾げた。
「メイは特別だよ。だって、一四四光年離れたレヴァから来た宇宙人だから」
「宇宙人?」
 きらりとキイ君の丸眼鏡が光る。
「あ、今のは、冗談だよ」
 あわてて両手を振って打ち消す。
「実は私が一四四光年離れたレヴァという惑星の第五王子で、地球には恒星間戦争を避けるために亡命してきていて、追っ手を巻くために地球人の少女のふりをしているというのは秘密だ」
 とメイ。
 頭を抱える。全然秘密になっていないし。
 キイ君は目をまん丸くして、メイを見つめた。
 メイもキイ君を見つめ返す。
 キイ君の頬が、ぽっと赤くなる。
「こんな、可愛い子が、宇宙人なわけないよ。面白い冗談だね。ひょっとしてイギリスの冗談なのかな」
 キイ君はメイから視線をずらした。
 そういえば、公には、メイはイギリスからの留学生ということになっている。
 メイはきょとんとする。
「可愛いとはなんだ、食べられるのか?」
「それはある意味正しいよ」
 と発言をしておく。
「違います」
 とユウが言う。
「可愛いっていうのはね、思春期の少年少女独特の表現なのです。ある対象に対して特別な好意を持つとき、少年少女は『可愛い』と表現するのです。特に異性に対してその表現が用いられるときは『可愛い』は『大好き』と非常に近いのです」
 ユウがぼくに向かってウインクする。
「ね? そう思うでしょ」
 どきりとする。
「あ、うん。可愛いね」
 は。乗せられた。
 あわてて首をふるふると振る。
「あ、いや。つき合ってるから、可愛いと思うのは当たり前で、いや、その」
 キイ君が再び目を丸くする。
「え? ユウさんとユイ君ってつき合ってたの?」
「あ、う。ま、まあそれは公然の秘密ということで。それはそうと、キイ君。君はブロッコリーとマヨネーズの相性の話でも可愛いと大好きの違いの話でもなく、宇宙人の話につられてこちらにやってきたんじゃないのかな?」
 こういうときは強引に話題を転換するに限る。そろそろ泥沼にはまってきたし。
 キイ君はずれた眼鏡を元に戻して、話し始めた。
「宇宙人の話なんだけどね。ドレイクの方程式のある計算では、地球外文明で通信できる星の数は百万あってもいいはずなんだ。けれど、現在までに宇宙人と通信できたという、公の情報はない。これには理由があると思う」
 何やら唐突な話だった。
「すなわち、宇宙に文明があるとしても、そこの宇宙人が地球人と同じ論理形態で思考するとは限らないということではないかと思うんだ」
「そうなのか?」
 とメイが興味津々な顔をしてくる。
「うん。もし同じ論理形態を持っている星が確率的にあるとしたら、地球より数段進んだ文化を持っている星もあるはずだ。その星が地球と接触を持とうとしないはずがない」
「ううみゅ。そうとも限らないぞ。時が満ちるのを待っているだけかもしれない。たとえば、地球内部で勢力の対立がある状態で外部から接触をした場合に、その対立がよけいに深まるのを憂慮しているのかもしれない。あるいは、地球外文明そのものの内部で紛争があって、地球との交渉ができない可能性もある」
「そうかなあ」
 キイ君が首を捻る。
「ん」
 ユウの視線が横にずれる。何かを見つけたようだった。
「あ」
 とユウが声を出す。
「みゃあ」
 とことこと黒い子猫が歩いてくる。
「クロじゃない。どこ行ってたの?」
 五月の連休明けに拾った子猫のクロは、メイが取った『飼い猫特別持ち込み許可証』のおかげで、学校に来るのを許されているのだった。
 キイ君が、クロを見てふうっとため息をついた。
「こんな風に、宇宙人に出くわす日を夢見てるんだけどね」
「たぶん、いつか叶うよ」
 そう言ってクロを抱き上げる。
 というかもう叶っているのだけれど。
「で、宇宙人にあってどうしたいのですか?」
 ユウがキイ君に尋ねる。
「友達になりたいんだ」
「私ではだめか?」
 メイが手を胸の前でそっと押さえて、キイ君の方を見つめる。
「え、と」
 キイ君は天井を見上げて、頭を掻いて、またメイの方を向いて、右手をメイの方に伸ばした。
「よろしく」
 メイはにこっと笑った。
「よろしく」
 二人が握手を交わす。それから、二人同時に、くすっと笑った。
 胸元で、クロが不思議そうな顔をして「みゃあ」と鳴いた。
「うっ」
 急にキイ君の顔が青くなった。
「あ」
 急にぼくもお腹が痛くなってくる。
「な、なんですか? やっぱり古い卵でマヨネーズを作ったのがいけなかったんですか。わたしは用心して食べなかったんですが」
 くは。
 前を見るとキイ君もお腹を押さえている。
「あ、あのね。自分で食べれないものを人にあげちゃいけないよ」
 そう言うとユウは、ち、ち、ちと指を左右に振った。
「正確には『食べられない』です。もうすこし国語の勉強をしましょう」
 いや、それは問題じゃない。
 そう思ったときには既に視界が崩壊を始めていたのだった。
 遠くからメイの「食べられるぞ」という声が聞こえたような気がした。




―2―


 二十四時間後もお腹には違和感があった。
 学校に行きたくないというとき「お腹が痛い」と言い訳をすることがある。ただこれは、ある意味、正当性を持っていると思う。というのも、お腹と神経系は連続していて、心悩めるときにはお腹も悩める状態になるからだ。よって「お腹が痛い」というのは欠席理由として妥当ではないかと思う。
 まして本当に痛かったならなおさらだ。
 正当な欠席理由において本日学校を休んだ。これは教育を受ける権利を放棄したわけではないと思う。しかし権利は行使しなければ失われる物だ。ゆえに必要な措置を講じて現状の問題に対処しなければならない。
 というわけで、身体を暖かくして二段ベッドの一段目で寝ているわけだった。
 必要な財源は国民健康保険から捻出されるべきだと考えているのだが、あいにく自宅療養に点数がつくかどうかはわからないので微妙なところだ。
 パジャマを着たまま二段ベッドの一段目に横たわり、二段目の床下を眺めていると、どうしようもないことに思考が回ってしまう。
「ううん。昨日食べたユウのお弁当がまずかった」
 どうやら思考は過去への遡航を始めたらしい。
 昨日ユウが作ってくれたお弁当自体は、美味しかった。特に鶏肉とれんこんのオイスターソース煮は、ニンニクの芽が特有の歯ごたえと香りを醸し出していて素晴らしかった。しかし、かぼちゃとブロッコリーのごまマヨサラダのマヨネーズが、ユウの手作りだったというのがよくなかった。しかも古い卵で硫黄の匂いがすこししていたというのが致命的だった。
 色々過去における原因を考えたところで、お腹が痛くなって家に独りという現在の状況に変化はない。もっぱら欠席が珍しい生徒ということで通してきたから、学校を休むというのは落ち着かない。それ以上にお腹の様子も落ち着かない。
「痛いというか、重いというか」
 枕元の時計を見ると、時刻は下校時刻に達していた。今日は一学期の終業式で午前授業なので、下校時刻といってもちょうど正午だ。
 お腹が、くう、と鳴く。お腹が落ち着かないのは、朝食を抜いたせいだけかもしれない。それに朝に比べれば、だいぶお腹の違和感は少なくなってきている。単に慣れたからなのかもしれないけれど。
 寝返りを打って、うつぶせになる。掛け布団の中でパジャマがよれる。それと同時にお腹の中身が、くっと動いた。
「あ」
 お腹の中で動いた物が移動していく。かといってそれが下に落ちていくわけではなく、むしろほわっと上の方に拡散していくようだった。それは気持ち悪いような、気持ちいいような、子猫に耳を嘗められているような感じだった。
 目を閉じて、顔を布団に押しつける。
 ふと何かの気配を感じる。頬に感じる獣の舌。しっとりとしていてざらつくような矛盾した感覚が、頬の下から上へと流れていく。
「ひゃあ」
「みゃあ」
 すぐ脇で鳴き声が聞こえた。それと同時に、もう一度、頬を嘗められた感触がある。目を開けて首を横に向けると、目の前に真っ黒な子猫がいた。
「クロじゃないか。学校に行かなかったの?」
「にゃあ」
 いつもはメイが『飼い猫特別持ち込み許可証』なるものを携えて、クロを学校に連れて行くのだが、今日はその例外らしい。メイは本当は王子様なのだが、毛並みがふわふわとした子猫に興味があるところを見ると、すこし性格に少女っぽさを含んでいるのだと思う。
 というか地球にいるときのメイの姿は、麗しい金髪を備えた、エメラルドグリーンの瞳を持つ少女なのだが。
「みゃあ?」
 顔の横でクロが不思議そうに鳴いた。
 クロも薄緑色のまん丸い目をしている。
 身体を起こし、両手でクロを抱き上げて、お腹を観察する。
「ふむ」
 前々からわかっていたけれど、クロは雄だった。雄を証明する物はちゃんとついている。手足をじたばたさせながら、情けなさそうな顔をして見上げられる。
「まあ、いいや。ぼくは寝るからね。お休み」
 クロを敷き布団に下ろす。
 身体を寝かし、掛け布団を身体に掛けて、再び睡眠と思考実験にふけろうとすると、クロが布団の中に入ってきた。と思ったら、布団はおろかパジャマの中にまで入ってきた。
「おいっ」
 柔らかい獣毛がお腹に当たってくすぐったい。両前足の肉球がちょうど胸の辺りに投げ出される感じになって、髭がつんつんと胸の上部を刺激する。
「ひゃ」
 胸の辺りで顔をこしこしとこすっているのか、猫じゃらしで皮膚の表面をなでられているような感じがする。
 それくらいだったら、昔ユウに受けたくすぐりの数々に比べれば我慢できる範囲だった。しかし、次のクロの攻撃は予測の範囲を超えていた。
「あ、にゅあ」
 ぺろぺろと体の表面を嘗められるに至って、神経系にかつて無いほどの衝撃波が走ることとなった。
「く、クロっ、だめだよ。そこは、弱点なんだから。それにぼくは男の子なんだよ。乳首を嘗めたって、お乳は出ないから」
 しかし、クロは弱点の中心を文字通り嘗めるようにして、もう一つの弱点に進出しようとする。いくら少し大きくなったからといっても子猫は子猫で、その攻撃専門に特化されていて容赦がない。
「あぅ」
 なんだか、気持ちが、いいのかもしれない。しばらく、クロの攻撃に身を任せる。というかクロに侵攻と開発をされるがままで放置する。
 ほんわかとした、暖かい塊が、胸の上に乗っている。そして、静かにそれが、呼吸音に合わせて上下し始めた。クロは満足して眠ったようだった。
 ふっ、と息を吐いて、目を閉じる。
 また、眠ってしまってもいいかもしれない。
「おい」
 どん、と身体を突かれた。
「え?」
 目を開けて前を見ると、正面にメイがいた。濃い紺色のセーラ服を着たままで、ベッドの縁に手を掛けて覗き込んでいる。さらさらとした金髪が、肩から身体の前の方に流れている。
「あ、おはよ」
 手を挙げてメイに挨拶する。
 規則正しい挨拶は中学生の基本だ。けれども、メイは首を傾げた。
「おや『おはよう』は朝の挨拶ではなかったのか? 私の記憶では、正午はお昼だが。それとも、私が間違っているか?」
 メイは左手の人差し指を軽く曲げて口に当てて、困ったような顔をした。
 あわてて言い直す。
「ん。じゃあ、こんばんは。じゃなくて、『おはよう』は、最近、若者の間ではいつでも使うし、寝ていた人が起きるときに使うこともあるんだよ」
 メイはふんふんと頷いた。
「うむ、では、おはよう」
 満足そうな笑顔がぱっとはじける。
「元気そうで何よりだ。ユイのことを心配していたのだぞ、私もユウも。おまけにクラスメートのユキオ氏もユイのことを心配していた。それで、ユイが起きたところで。まじめな話だ」
「な、何かな?」
「一緒にお風呂に入らないか?」
「は?」
 がばっと、上半身を起こす。ささっ、とパジャマの裾からクロが逃げていく。ごつっと、ベッドの床に頭がぶつかる。
「あ、痛っ」
 健全な男子生徒だったら、第二次性徴が先に進行している少女から「お風呂に入ろう」と言われたら、欣喜雀躍をして喜ぶ、じゃなくてどぎまぎするに違いない。
「あ、あの? いっしょにオセロをしよう、って言ったんだよね」
 メイはふるふると首を振った。
「いやちがう。あれだ、一緒に身体洗浄室に入ろうということだ」
「あ、そうだね。お風呂を一緒に洗うのは、いいかもしれない。うん、家事の手伝いはいいことだよ」
「火事の手伝いは放火幇助で良くないことではないのか? それに身体洗浄室で洗うのは、身体だ。昨日、早退して寝込んでそのままだろう。風呂に入っていないのだろう? 私がユイの身体を洗ってあげたいのだがだめか?」
 メイは眉を寄せて、こちらを見つめてくる。既に両手は胸元で軽く組まれていて、もうすこししたら両手握り拳に移りそうな感じだった。
「そうだな。私の頼み方が地球人の礼儀にかなっていなかったのだな。ならば正式に頼もう」
 メイはすっと息をついて、両手を身体の前で合わせ、かしこまって、身体を三〇度前に倒した。
「私にお背中を流させていただけないでしょうか」
 制服姿でそれは反則だった。
 かくしてメイと一緒にお風呂にはいることになった。




―3―


 何も考えずに裸になって、ちゃぷんとお風呂に浸かっていると、メイがお風呂に入ってきた。
 しかもフリルのついたメイド服にカチューシャつき。
「ご主人様、お背中をお流しいたしましょう」
 がばっと、身体を湯船に浸けて隠す。
「あ、あの、さっきも気になっていたけれど、それは絶対に間違っているから」
「うに?」
「それも違う」
 メイがかくっと首を傾げる。
「そうなのか? ちゃんと調べたのだが間違っているのか? このあと服を着たままなのにシャワーを間違ってあびて水浸しになる予定なのだが」
 それはある意味正しい。
 いや違う。
 首を振る。目の前でお湯がぴちゃぴちゃと跳ねる。いい加減、首までお湯に浸かっていると熱い。
「なんとか、ユイを元気にさせてあげたいと思っていたのだが。なんでも年頃の地球人の少年はこういうのに憧れるとかいってだな。『ご主人様願望』というらしい」
「いいよ。もうお腹の調子はほとんどいいから。だから、メイは部屋に帰っていいよ」
 今度はメイが首を振った。
「おかしいな。正常な少年ならば、興奮して『メイドさん萌え萌え』になるはずなのに。ひょっとしたら、命に関わる病気が内臓にあるかもしれない。なんでも地球人は簡単に病気になるらしいではないか。心配だ。私は対象物を走査することにより、中身を調べることができる。一度、私にユイの身体を走査させてくれ」
「走査って?」
「簡単なことだ。ユイの身体を後ろからぎゅっと抱きしめてしばらくそのままでいるだけだ。だめか?」
 そう言って、メイが、一歩、浴槽に近づいてきた。
「あの、ぼくが、服を着ていたらだめなの?」
 いかん、既に後ろ向きだ。
「うむ。全身タイツのような身体に密着した服ならかまわないのだが。なんなら私の服を貸そうか?」
 ふるふると湯船に浸かった首を振る。
「なにを顔を真っ赤にしている。男同士、気にすることではないではないか」
「あ、いやさ、顔が赤いのはお風呂でのぼせたから。それに、今、ぼくはお湯で濡れてるから、メイが着ているひらひらのメイド服が濡れてしまうからだめだよ」
 何だか論点がずれている。頭がぼうっとしているからだ。原因は多分、ずっと熱いお湯に首まで浸かっているからだ。確かのぼせると意識がかすれていくという。
「ああ」
 湯船が上がっていく。というか、頭が湯船に沈んでいく。


 気がつくと、洗い場に引き出されていて、メイに後ろから抱かれていた。
 律儀にも身体の前部にはフェイスタオルが掛けられている。
「これで少年誌にも対応かもしれない」
 最近の少年誌は露出度が高いので無装備でも大丈夫かもしれないけれど。
「頭は、大丈夫か?」
「えっと、ぼくはどうしていたんだっけ」
 後ろを振り返る。
 メイの顔が目の前にあった。金髪がしっとりと湯気で湿っていて、表面で淡く光が散乱している。そして頭頂付近に黒い二つの猫耳がついていた。
「え? あ、あの、その頭の?」
 メイドさんネコミミモード。あ、まだ頭がのぼせている。
「ああ、これか?」
 エメラルドグリーンの瞳に見つめられて、どきりとしてしまう。
「これは、レヴァの王族特有の感覚器だ。波動因子を感じることができる。内緒だぞ。ユイが気を失っている間に、ユイの身体を走査させてもらった」
 ふさふさした黒い猫耳がぴくりと動いた。
「一つの問題を検出した。修正は不可能だ」
 なんだかできの悪いディスクユーティリティーソフトみたいな発言だ。
「最近、ちょっとしたことで感情が高ぶったり、他人の気持ちをよくわかるようになったり、色々味を敏感に感じるようになったりしていないか? あるいは少女の服を着たくなったり、高い声が簡単に出せたりとか」
「え? ま、まあ。思春期だからね」
「いいか落ち着いて聞け」
「えっと、落ち着かないとどうなるのかな」
「落ち着かないでも、聞け。ユイはすこしずつ女性体に変化している」
 一瞬意味がわからなかった。それから言葉の意味することを理解しつつ、それが常識の範囲を超えていることに気づく。
「う、嘘だよ」
「嘘ではない。よく鏡を見ろ」
 正面に曇り防止のヒーターが入った等身大の鏡がある。
 鏡に映っているのは、メイに後ろから抱かれて簀の子に座っているぼくだと思う。あまり最近は自分の身体全体をじっと見たことがなかったから、改めて観察してみる。
 確かに、男の子っぽく、ない、かも。
「男性と女性では骨格が違う。また、乳首の構造も微妙に差異がある。触ってみた感じ、お椀を被せたように乳腺が発達を始めている。まだ、下半身には男性器が残っているが……しかしもう男性としての生殖能力は無い。精神構造も右脳をよく使える創造的な仕事に向いている。音楽なども好きだろう」
 すこし胸がくすぐったかったり、最近太ったかなとか思ったことはあった。けれど、それは成長期だし、第二次性徴でホルモンバランスが変わってきているからだと思っていた。
 水泳の時ユウにぺたぺたと身体を触られるのも、ユキオ君にマッスルポーズを取られるのも、からかわれているだけだと思っていたけれど、もっと別の意味があったのかもしれない。
「さらに、驚くべき事がわかった。ユイの遺伝子には、レヴァ星人、しかも王族の遺伝子が混じっている。それも女性体への変化を容易にさせている要因だ。前に言っただろう、レヴァの王族は波動因子を改変する能力を持っていると」
「それって」
 鏡から視線を外す。
「ぼ、ぼくは、その、お」
 いや動揺はしてはいない。すこし心臓がどきどきしていて、呼吸数が上がっているだけだ。いや、それを動揺しているというのか。そんなことを言ったら、マラソン選手はみんな動揺していることになる。マラソン選手は大変だ。いやちがう。大変なのはぼくだ。
 追いかけるようにして、メイの言葉が耳を打った。
「一年以内に、完全な、女性体に変化する」
「あ、あの」
 どうしてかわからないけれど、身体ががくがくと震えてくる。お腹が重い。
「落ち着け、ぼく」
 自分で自分に言い聞かせる。どんな問題でも解けるはずだから、しっかりと冷静に考えれば一番良い答えが求まる。
 息を吸って、吐く。顔をはたく。それから、考える。思考回路は正常なはずだ。論理的に筋道を立てて、結論を導く。
「あ、あの、一足す一は二だよね。それで、〇を〇乗したら一だよね」
「落ち着け。その命題は必ずしも真ではない」
「落ち着いてる、よ」
 ぱっと、抱きしめられているメイから、離れて立ち上がる。はらり、と身体の前にかけられているタオルが外れる。そういえば下半身は全然元気がない。こんなメイと風呂場で二人きりという状況で、何も起こらないということ自体がおかしい。
 いや、メイは本当は男の子だから問題はないか。
 というか、ぼくは女の子になるからだめか。
「は、は」
 全然、落ち着けていないことが、自分でわかる。
 なんなんだろう。何か言いたいはずなのに、もっと整理して、理路整然とこれからどうしたいとか言いたいはずなのに、なにも言葉が出てこない。どうして、こんなに胸が苦しいんだろう。膨らんでいるからか。
 違う。なんだ、なにかを忘れている。
 そうか、変わるんだった。
「性別が、変わるんだよね」
「そうだ」
 メイが答える。
 世の中に男の子と女の子がいて、ぼくが男の子だということは知っていた。でも、それが生きている途中で変わってしまうものなんて思っていなかった。しかも、あと一年以内に変わってしまうという。
 心が苦しい。変わっていくことが怖いんじゃない。心の隅に引っかかっている、小さな気持ちがあるから、苦しいのだと思う。
「……ユウ」
 小さな、好きだという気持ち。
 心の中にいるユウは斜めに見上げるような視線で、恥ずかしそうに頬を赤らめている。
 そんなユウの顔しか思い出せないという時点で、ユウに対する気持ちはわかっていたはずだった。それは、ユウに出会ったときから変わっていないはずだった。すべての基準はそこから来ていたはずだった。
 まだ、一度も『好き』って言っていない。けれど『大好き』だった。でも、もう、この気持ちをユウに伝えることはできない。ぼくは、遺伝子的に女の子だから。
 だから……。
「ぼくは、ユウと別れなきゃいけない」
 たぶん、世界が百人の村だったとして、八九人は少女と少女が深い仲になるのを嫌うと思う。八九人の人たちは、気持ち悪いとか、最悪だとか、生命倫理に反するとか、人間的に駄目とか、背徳的だとか言うかもしれない。
 だから、いっそのこと別れてしまった方が楽に違いない。
 それがあり得る選択だ。最良の解だ。良識ある行動だ。生産的だ。道徳的だ。倫理的に正しいはずだ。
 一瞬にしてそれだけのことを理解した。
「……くぁ」
 息を吐く。
「メイ、あのさ、父さんと、母さんに、話、しないでね」
 メイはこくりと頷いた。
「はっきりと、身体に現れるまで、内緒にしたいんだ。それに、父さんと母さんのどちらかが、レヴァ星人だなんて信じられない」
「私も戸惑っている。ひょっとしたらユイは……いや、まだ推測で物事を言ってはいけない」
 首を振った。
「いいんだよ。もう、これ以上色々なことを知ったら、ぼくは」
 どうなるのだろう。
 なんなのだろうと思う。昔は新しいことを知ることは楽しいことだった。でも、すこしずつそうでもないこともあることに気がついてきた。嬉しいことの裏には悲しいことがあり、好きという気持ちの裏に嫌いという気持ちがあり、知りたいという気持ちの裏に知りたくないという気持ちがある。
 吸い込んで吐いている息の音が聞こえる。
 心臓がとくりと動いた。
「レヴァに来ないか?」
「え?」
「先日、レヴァに送った通信文の返信が来た。全面戦争が回避できる可能性がある。むろん、相手の条件を見てからだが。だから、ユイ。もし、レヴァとヴァールの恒星間戦争が終わったら、いっしょに、レヴァに来ないか」
 状況が動いている。
 レヴァに行くという可能性を今までに考えたことがなかった。
 地球から離れることもあり得る。
 そう考えるだけで、足ががくがくとする。息が詰まる。理由はわからない。
 自分の身体がこうなるなんて、今までにないことだった。これも、身体が変わりつつあることの証拠なのか。そうなのか。いや、ちがう。今までもその予兆は合ったはずだ。たまたま気づかなかっただけだ。ただ、気づいてしまうとそれがよけいに意識されてしまうということだけだ。
「前に言っただろう。私はユイが好きだ。地球人であれ、レヴァ人であれ、私には関係がない。地球では、ユイのような特殊な者は、差別されるのだろう。それくらいは勉強してある。ならば、ユイは、レヴァに来た方が、幸せではないか? レヴァには、そのような、外見による差別はない」
 クラスの誰かが「急に男の子から女の子に変わりました」といって受け入れてもらえるだろうか。男の子からも、女の子からも敬遠されるだろう。ひょっとしたら、学校を転校しなくてはいけないかもしれない。
「ユイがつらい目に遭うのは嫌だ。私の力でレヴァに国籍をとって永住することも可能だ」
 ユウと一緒に慣れないのならば、地球にいる意味はあるのだろうか。いっそのこと地球から離れてしまった方がすっきりするのかもしれない。
「もう一度言おう。私はユイが好きだ。だから、一緒に、レヴァに行こう」
 正面から、メイに抱きしめられた。やわらかいメイの身体を感じた。多分、メイは本当に誘ってくれているのだと思う。でも、その質問に対する答えは決まっている。
「行きたく、ないよ」
 そう呟いた。
 まだ、もう少しだけ、つき合うことはできないかもしれないけれど、ユウの側にいたかった。
 しばらく、正面からメイに抱かれたままでいる。メイの心臓の鼓動が、胸を通して伝わってくる。メイにも心臓があった。
 たぶん、メイも、地球人と同じ論理形態で思考できるのだと思う。それは広い宇宙でたった一四四光年しか離れていないにしては、偶然すぎると思った。そんなメイの誘いを断ったことに対して罪悪感を感じる。
「ごめんね」
 そうメイに謝った。




―4―


 午後二時過ぎにユウが家にやってきた。夏休みの宿題プリントなどを持ってきてくれたのだった。ユウはいつものように、やっぱり明るい笑顔だった。
 その笑顔に、決めていた言葉を言う。
「もう、こんなことをしなくていいから。もう、つき合うのを、止めたいんだ」
 ユウの笑顔が止まる。
「どうして? どうしてなの。わたしのことが、嫌いになったの?」
 今のまま別れれば、いい思い出のまま別れることができる。
 過去は確定的で、未来は不確定的だ。
「ちがうんだよ。大好きだよ。だから、大好きだから、別れたいんだ」
「わからないよ」
「わからないように言ってるんだよ。わかってしまったら、ユウをもっと傷つけてしまうから」
「理由になってないよ」
 ユウの目に涙が貯まる。
「そんなんじゃ、わたし、納得できないよ」
 納得なんていらない。
 形式的な論理など、感情という公理の元では無力だ。
 人間と、人間の関係なんて、片方が拒絶すれば簡単に壊れてしまう。相手との関係を切りたければ、相手を無視すればいい。相手の気持ちを考えなければいい。欠点のない人間なんていないから、相手の欠点をあげつらうのもいい。つき合うのが苦痛ならば、自然に相手が離れていく。
 なんで、世の中の人は、人とのつき合いで悩むのだろう。
 苦しいことはしなければいい。
 相手を傷つけたくなければ別れてしまえばいい。
 独りでいられるならば独りでいた方がいい。
 人は基本的に自己中心的で、独りよがりだから、どんなに自分が素晴らしいと思った物をあげたって、文句しか言わない。それに、自分にとって最高のものでも、相手にとっては最低のものだったりする。いくら努力したってできないこともある。だったら、なにもあげなければいい。
 本当は、ユウを喜ばせてあげたくて、ユウの笑顔が見たくて、ユウに褒められたいと思っている。でも、ぼくが出せるものは、不格好で気持ち悪いものでしかないし、ぼく自身も不完全で欠点だらけだ。
 期待しないで欲しい。
 ユウにあげられる物なんて何もない。
 だから、ユウとの関係を、今、完全に断ち切る。
 口先だけで、人と人との関係なんて、簡単に壊せる。
「じゃあ、言うよ。ユウなんて嫌いだ。幼なじみってところも嫌いだ。ツーテイルも嫌いだ。星を見るのも嫌いだ。ユウの作るお弁当も嫌いだ。わざわざ朝に遠い家まで来てくれることも嫌いだ。病気のお見舞いをしてくれることも嫌いだ。わざわざ夏休み前だからって学校のプリントとかを持ってきてくれるのも嫌いだ。ユウなんて大嫌いだ」
 ユウの顔色が変わっていく。
 浮かんだ表情は、戸惑いの色を見せて、その後さっと血の気が引いていって、そして逆に上気し始めて、急に表情が乱れて、一気に崩れた。
 細い目でぼくを睨み付けているユウの目の隙間から、涙がこぼれている。
 それは、悲しみの涙でないことを知っている。むしろ訳がわからないことに対する怒りの涙なのだと思う。
 ユウの手が動いた。
 今更ながら、ユウが手に包装紙に包まれた箱を持っていることに気づく。
 それをユウが片手で肩の高さまで持ち上げる。そして投げた。
 宙を舞う箱の回転が見えた。箱には赤いリボンが付けてあって、それがひらひらと揺れている。
 だんだんと箱が大きくなっているように見える。それを避けることなくただ見ている。というより避ける暇など無かった。衝撃とともに箱がおでこにぶつかった。
「じゃあ、誕生日プレゼントも、大嫌いなんでしょ」
 ぽとりと箱が手に落ちる。
「わたしだってユイのこと大嫌いだよ。いつもぼけてる感じをしていて、本当は色々考えているところだって嫌いだし、くすぐりに弱いところだってきらいだし。あやとりと折り紙とピアノが趣味だってところも嫌いだし、人の気持ちに鈍感だって所も嫌い。もう、知らないから」
 ばん、と家の扉が閉じて、ユウは帰った。
 好き合っていればなにもいらない、などと言う人がいるかもしれない。でも、それは、少なくとも、ぼくは違うと思う。形を伴わなければそれは口先だけでしかない。人間は形を持っている。だから、形式的であっても、互いに心地よい、贈られる物、贈る物がなければ『つき合う』という関係は続かない。
 でも、それは、もうどうでもいいことだ。
 手の中に箱がある。箱を持ったまま階段を上がって二階の四畳半に帰る。
 ベッドに腰掛けていたメイが、心配そうな顔をしてこっちを向いた。
「その箱はなんだ?」
「綺麗な緑色の包装紙でつつまれ、十字に赤いリボンが留められ、頂点で蝶結びになっていて、メッセージカードが留められてある箱だよ」
 メッセージカードを開けてみる。そこには可愛らしい丸文字で『七月二十一日 誕生日おめでとう ユウ』と書いてあった。
 箱を開いて開ける。中には黒猫の縫いぐるみが入っていた。空箱をメイに手渡して縫いぐるみを抱き上げた。
 黒猫はやわらかくて、すこしだけ暖かい感じがした。
 あの日の縫いぐるみがそこにあった。
 ユウの家から追い出しを食らった日の縫いぐるみ。
 すこし解れてしまったはずの耳は、新しい黒い糸で縫いつけてあった。多分ユウが自分で縫ったのだろう。まつり縫いが目立っていて、端の処理も不完全に見えた。
 それは、つき合い始めて初めての、そして別れて初めての誕生日にもらうに相応しい贈り物だった。
 それは、わがままだったぼくの思い出で、少年期の始まりの記憶で、そしてユウとつき合うきっかけとなった黒い子猫を表していて、そしてぼくの少年としての生活が終わるときの象徴だった。
 あの時と同じように、ユウの所から追い出しをくらったのだ。
 もう、ユウの心の中にぼくの居場所はない。
 たぶん、将来、ユウから贈り物を贈られることも、ユウに贈り物を贈ることも無いだろう。
 大好きだけど、大好きだから、近くなりすぎないために、傷つかないために、他人という関係以上に、ユウと近づくことができない。
 変化を止めることはできない。ぼくは変わる。ユウも多分、変わっていくだろう。ユウは、将来、きっといい人を見つけてつき合うようになるだろう。そうなったら、ぼくとの思い出は、思春期の淡い記憶となって、いつの間にか忘れ去られてしまうだろう。
 でも、たぶん、ぼくは一生忘れない。
 じわっとしたものが目に貯まりそうになるのを、必死でこらえる。
 忘れてしまうことより、忘れ去られてしまうことがつらい。
 感情はいつも一方通行だ。人に気持ちが伝わる可能性などない。どんなにがんばったところで、がんばったことは誰にも評価されない。評価されるのはいつも結果だ。結果はたいてい、がんばったこととは正反対の結果しか出ない。
 いまさらながら、思ってもいない言葉をユウに言ったことを後悔する。
 やっぱり、ただ、ユウの側にいたいだけだった。それだけなのだけれど、大好きなのだけれど、でも、もう側にいることはできない。別れる事って、どうしてこんなに胸が締め付けられる思いがするんだろう。
 でも、いいと思う。
 ユウさえ、傷つかなければ、ぼくだけが、傷ついて、ぼくだけが落ち込めばいい。
 両手で黒猫の縫いぐるみを抱きしめる。
 涙が黒猫に落ちる。
 黒猫は胸元で丸くなった。




#The black cat rounds by the breast.

―あとがき―

 最近、縦書きテキストブラウザなるものがあることに気がつきました。 Windows ならば「smoopy」あたりがシンプルで使いやすいと思いました。
 読んでくださった方、司書の皆様、お世話になった方に感謝です。

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