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※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等には一切関係ありません。

 朝早くに目が覚めた。
 枕元の目覚まし時計に目をやると、時刻は午前四時十分を回ったところだった。寝返りを打って、顔を起こして、目をしぱしぱとさせる。手を伸ばしてカーテンを少し開けて、カーテンの隙間から早朝の世界をしばし眺める。空の端がぼんやりと赤く色づいてきている。
 足を身体の方に寄せてきて、四つんばいになる。目をつぶって背中をぐっと反らせて、猫の姿勢を取る。
「んー」
 話によるとこの姿勢はヨガにもあるらしくて、腰痛を防止する効能があるらしい。もっともそんなことは関係なくて、とりあえず目が覚めたから身体を起こして、ベッドの上にちょこんと座る。
「さて」
 どうして起きたんだろう。
 頭が起きてきたから、疑問が浮かんできた。普段の起床時間は午前六時すぎと決まっている。なぜかというと、午前六時がラジオ番組『バロックの滝』の開始時刻だからにほかならない。その番組が、母さんの目覚ましになっているのだ。
 毎朝六時になると十六世紀のヨーロッパの宮廷を思わせるバロック音楽が床下からベッドを伝わって流れてくることになる。それが聞こえてくると自動的に身体が寝返りを打ってうつぶせになる。そしてヨガ体操状態に入るのだ。もっともときには全然合わない曲もある。
 たとえば『バッハのトッカータとフーガ・ニ短調』は、いきなり冒頭の『チャラリー、チャラリラリーラ』で地獄に落ちた気分になるのでよくない。かといって『ヴィヴァルディの四季より春』は軽快すぎて背骨が折れてしまう。そうなると『フレスコバルディの二つのヴェルセット』とかが適当になるけれど、そんなマイナーな曲でヨガ体操をやっていると、何なんだろうという気分になってしまう。
 ともかくそれが、いつ始まったかわからない朝の習慣である。
「なー」
 座ったままで、両手を前に伸ばす。
 みしっ、と二段ベッドの上の段が軋(きし)んだ。
 もちろん手を伸ばしたことと、二段ベッドの上の段が軋んだことには、なんの関係もないはずだ。そうなると上の段にいるメイが動いたと結論づけるのが妥当だと思う。
 今度は上の方から、ぶつぶつと呟く声が聞こえてくる。
「……やはりこの口径ではレンジが足りない。トリガも……。安定な足場がないと……。やはりここでは無理か……」
 一瞬、何を言っているのかはよくわからなかった。でも、だいたいのことはわかるような気がする。口径、距離範囲、引き金そして安定な足場といった言葉から、想像できるものを考える。
「まさか、メイの本当の任務って」
 ひょっとして、メイが宇宙人とかいうことはすべて嘘で、メイは日本に侵入してきた諜報員で、誰かを狙撃しようとしているのだろうか。母さんに三億円を渡したのは、口止め料なのだろうか。机を二段ベッドに変化させるのは、ぼくが学校に行っている間に入れ替えればいいだけだ。メイにだまされているのだろうか。
 そこまで考えて、ぶるぶると首を振る。
 いや、来た日の夜の涙は、すくなくとも嘘じゃない。それに、風呂場で見た、猫しっぽと黒い猫耳は、嘘じゃないと思う。
 ひょっとしたら、メイには深い理由があるのかもしれない。だから、何も気づかなかったふりをして、布団を頭からかぶって寝直した。
 その日の朝は寝坊した。


居候はレヴァの王子様

3.カタツムリは天の川に

作:Plantain



 六月の雨は空全体から降る。
 というより、六月は身体全体を、しとしととした雨に包まれているような感じがする。そんな日の授業は、まったりとミルク風呂に浸かっているような感じで、先生の声も心地よく、思わずうとうととしてしまう。もちろん、ミルク風呂なんて入ったことはないから、たとえとしての感覚だけれども。
 チャイムの音で目が覚める。どうやら午前中の授業が終わってしまったようだった。
「どうした? ずっと寝ていたではないか。これは地球人の文化か? 見たところ半分くらいの生徒が寝ていたようだったが、集団行動として何らかの意味があるようにも思えない。論理的に不可解だ」
 頭をぽりぽりと掻いてから、目をつぶって伸びをする。
 ぱっと目を開けると、目の前にユウのツーテールが見えた。ユウは一つ前の席に座っている。
「うーん」
 首を左右に倒してストレッチをしてから、右隣のメイを見る。今朝のことがあるから、すこしメイの様子が気になる。メイは、首を左に傾けて左手の人差し指を頬に立てて、こっちを見つめていた。
 メイのポーズが妙に思わせぶりなので、たずねてみる。
「そのポーズ何?」
「これは、地球人の少女がものをたずねるときの姿勢ではないのか? 間違っているのか?」
 そう言いながら、メイは両手の握りこぶしを軽く会わせて、口元に寄せて、困った表情をした。すこし反則気味だった。
「あ、あのさ。その両手握りこぶしは特別の場合にとっておいた方がいいよ。あまりたくさん使うと、ありがたみがなくなるから」
「特別な場合とは、何だ? 食べられるのか?」
 メイが目をうるうるさせながら質問してくる。
「うんとね、たとえば、好きな人の……」
 顔をメイから逸らすと、ちょうど前の席にいるユウがこちらを振り返ったところで、ばったりと視線が合ってしまった。
「好きな人の?」
 メイに、ちょんちょんと脇を突かれる。
 ユウは両手の握りこぶしを口元によせて、うつむいた。
「こんな、とき、かなあ」
 メイはぼくとユウの顔を交互に見た。
「どうして、二人とも、顔が赤くなっているのだ?」
「なんでもないよ」
 と手をひらひらさせる。
 メイは「ふうん」と言った。
 ぽんぽんと軽く自分の頭を叩き、気を取り直して周りの様子を確認する。すでにお昼休憩に入っていて、周りではみんながお弁当を広げて、仲良しグループを作っている。なかには部室などに出かけて行く人もいる。
 帰宅部歴二年目だったので、いつも一人でお弁当を食べていたのだけれど、最近は居候のメイと幼なじみのユウと、教室でお弁当を食べることが多い。前の机に座っていたユウが、机をひっくり返してくる。
 ぼくは鞄からマスクメロンくらいある包みを取り出した。
「いつも思ってるんだけど、それっておにぎりだよね」
 とうとうユウにつっこまれてしまった。
「うん。おにぎり。中に梅干しと鮭と野沢菜が入っているんだよ。三つ作るのは面倒くさいから一つですませるんだ。メイの分は母さんが気合いを入れて作るんだけど、ぼくの分は自分で作れって言われるから。男女平等参画社会の増進のために必要な措置らしいんだ」
 机の上に出ているメイのお弁当は、ユウのお弁当と同じように小さな二段弁当になっている。一段目にはご飯が入っていて、二段目にはおかずが入っている。野菜とタコさんウインナーなどが入っていて羨ましいことこの上ない。
 三人で「いただきます」と挨拶をしてから、おにぎりにかぶりつく。
 右からメイが口を挟む。
「おにぎりとはなんだ? 食べられるのか?」
 とりあえずかぶりついたおにぎりから口を離す。
「おにぎりとはこれ。食べられるよ」
「でも、なんだか可哀想だね。わたし、今度からお弁当、作ってあげるよ」
「え」
 なんだかユウに同情されてしまった。でもちょっと嬉しかったり。
「お、なんだこの巨大なサッカーボールは、ちょうどいい。俺、弁当忘れたんだ。いただいてやるよ」
 急に左後ろから手が伸ばされてきて、おにぎりがひょいっと奪われた。
 後ろにいたのは、長髪の夢見るギタリスト少年、茶髪でピアスは校則違反のユキオ君。両耳に白いイヤホーンを身につけて、しゃかしゃかと右手に持った携帯音楽プレーヤーの音を聞いている感じだった。
 かっこいいとも形容できるのかもしれないけれど、左手に持ったおにぎりが、かっこよさを乱していた。
「ひょっとして、右手に持っているのは、今流行の白くて小さい携帯音楽プレーヤじゃない?」
 買ったばかりで自慢しに来たのかもしれない。
「まあな」
 そう言って、ユキオ君はおにぎりを返してくれた。
 やっぱり携帯音楽プレーヤを自慢しに来たようだった。
 お弁当を食べている間、得意げにユキオ君はかっこいい携帯音楽プレーヤと、それに入っている音楽について語ってくれた。ユキオ君は、同じ曲でもボーカルなしのギターだけと、ボーカルだけのもの、そしてボーカルとギターを合わせたものの、三種類を入れているという。すべて自分の計算機で合成したという。
 結構マニアックだと感心する。
 さっさと母さん特性のデラックス弁当を食べ終わったメイは、何やら色々と携帯音楽プレーヤについて質問する。
「記録媒体は何なのだ?」
「んー、詳しく知らないけど。なかに堅いお皿が入っていてぐるぐる回っているらしい」
「食べられるのか?」
「いや、食べられないけど。で、ネットワークを介して、色々な曲を入手できるのさ」
「ふーみゅ。単純な構造をしているのだな」
「オプションもつけられるんだ。FMトランスミッタを使えば、ケーブルを使わずにステレオに接続できる」
 メイは白くて小さな携帯音楽プレーヤを手にとって、しげしげと眺めた。それから上目使いにユキオ君を見上げた。
「これを一つくれないか? だめか?」
 ユキオ君が、ぐっと詰まった。
 たぶんぼくだったら迷わずに「いいよ」と言ってしまったところだけれど、さすが茶髪でピアスの長髪系ユキオ君、そこは、ぐっと踏みとどまった。
「……だめだ。これには俺の魂が入っている。てなわけで、メイにあげることはできない」
「そうか。だめか。魂が入っているのではしかたがないな。こんな小さな物に魂を入れることができるとは、進んでいるのだな」
 なんだか変な誤解をしているようだけれど、今、修正するとややこしくなるので、とりあえず放っておく。
 ユキオ君は、メイがしょぼんとしてしまったので、あわててつけ加えて言った。
「ご、ごめんよ。じゃあさ、お詫びに、俺のお気に入りの歌を歌ってやるから」
 そう言ってユキオ君は、ご丁寧にも歌を一曲、歌ってくれた。

 七夕の君に
 届かない思いを
 蝸牛の背に乗せて
 天の川をわたらせる。
  (『スネイルズ カタツムリは天の川に』より)
 ユキオ君お気に入りの曲は、スネイルズの『カタツムリは天の川に』らしかった。スネイルズとは、女子に人気の歌手グループで、グループリーダの『トキオ君』は女子のあこがれの的だった。
 ユウは、ほうっと息を吐いて言った。
「カタツムリの背中に思いを乗せて、天の川を渡らせるなんて、ロマンチックですよ」
「全然意味がわからないよ」
「でもユイって昔、ピアノ習ってたんですよね。音楽のことすこしぐらいわかるはずなんですけど」
 と、ユウ。
「ピアノは初級で終わったよ。手が小さくて和音を押さえられなかった」
 ピアノを習ったことは、幼き日の淡い思い出と化している。でも今になって考えてみると、別に和音が完全に押さえられなくても、ある程度までだったら上達できたのではないかとも思う。なのですこし早まったことをしたかもしれないと、ときどき後悔する。
 そんなことを考えながら、ユキオ君の携帯音楽プレーヤを眺める。
「ん? ひょっとしてユイはスネイルズに興味があるのか? 遠慮するな、いいから聴け聴け」
 差し出されたイヤホーンを耳に装着する。流れてきた曲は、今ユキオ君が歌ってくれた曲だった。曲順が間違ったか、ギター伴奏だけのものだった。
 でも、和音の進行だけで歌詞が頭の中に浮かんでくる。
 目を閉じて進行していく和音に耳を傾ける。初めはそっと、『七夕の君』は基本の三和音で語るように、『届かない思い』は短調の悲しい音に寄せて、『カタツムリ』はのびのびとしたカデンツァ、崩れ落ちる複雑な和音から『天の川』に向かって解決する和音の進行。すべてが完璧で、すべてが調和していた。
「いいね」
 と呟く。
 ユキオ君は、右手の親指を、ぐっとつきだした。
 その瞬間、がらっと教室の引き戸が開いた。
「おお、なんだ?」
 ユキオ君が入り口の方を向く。
「大変だよ。いま部室で見てたんだけど、すごいんだよ。なんか、信じられない」
 そういって、ぱたぱたと駆け足で教室に飛び込んできたのは、陸上部のノンちゃんだった。
「とにかく、テレビをつけてみて。教育だよ。宇宙なんだよ。星なんだよ。NASAなんだよ」
 何なんだ、と思う暇もない。ノンちゃんは飛び込んできた勢いそのままに、教室のテレビをつけた。ぱっと、映されたのは夜の星空だった。どうやら宇宙望遠鏡で撮った写真のようだった。見たところ普通の北斗七星が映っている。
 いや、違う。
 ユウが「あっ」と叫んだ。
「星が八つある」





 雨がしとしとと降っている。
 今日の最後の授業は、体育館でバトミントンだった。体育館は部室棟の脇にあって、部室棟の側に男女の更衣室がある。つまり、体育会系の部活でも更衣室が使いやすくなっているのだった。もっとも部活では、部室で着替える場合が多いらしいけれど。しかしながら、男女混合の陸上部などでは活用しているらしい。
「そうなんだよねー。ときどき、ギター部の人が覗いてくるんだ」
 と陸上部のノンちゃんが語っている。
 折しも、部室棟のほうからギターの演奏が聞こえてくる。あれは体育の授業をさぼっている、ユキオ君に違いない。聴いたところ和音の進行はデモ演奏みたいに完璧だ。
 ちなみにぼくが寄りかかっているのは、女子更衣室の扉だった。上手い具合に、ここは先生から死角になっていて、ひょっとしたら一回もコートに立たないで体育の時間を過ごすことができるかもしれない。
 ノンちゃんの言葉にユウが答える。
「そうなんですよ。ちょうどギター部の方から女子更衣室の窓が見えるんですよ。なので、カーテンは必須です。あ、わたしの番だね」
 そう言って、ユウはバトミントンのラケットをもって、コートに出て行った。
 シャトルが上がる、頂点に達したとき、ユウのラケットが空を切る。相手のコートとユウのコートをシャトルが行ったり来たりする。返すたびに、ユウのツーテールがゆらゆらと揺れて、体育着の脇からちらりと、ユウの素肌が見える。
 とくり。
 ぴと。
「ひゃっ」
 急に誰かに胸を触られた。
「心拍数が、高いな。大丈夫か?」
 メイがぼくの胸を触っていた。
「普段の二割増しだぞ。病院に行かないでいいのか? もう少し詳しく調べる」
 メイの顔が迫ってきて、やわらかい金髪が鼻に触る。透き通った、瞳がこちらを見つめていて、それに魅了されるよう顔を、ほうっと上げる。メイの頭が、すっとぼくの胸に沈む。
 正面に、ラケットを構えたユウ。
 あれ?
「スマッシュ!」
 甲高いユウの声とともに、シャトルが飛んできた。メイに身体を押さえられていたので、回避することも出来なかった。
 衝突。
 そして、意識が飛んだ。


 ひんやりとおでこに冷たい感覚がする。頭の後ろはやわらかい感じがする。うっすらと目を開けると、目の前にメイがいた。
「大丈夫か? とりあえずさっきの運動体は時速二百七十キロメートル近く出ていたからな。生きていて何よりだ」
 そう言えばプロのバトミントン選手のスマッシュは、それくらい速度が出るらしい。
「うん?」
 おでこに手をあてると、ハンカチが濡らしてあって掛けてある。すこしずらしてみると、それが薄桃色をしていることがわかる。目を上に上げる。心配そうなユウがいた。
 あれ? 顔が反対で……。
「よかった」
 後ろからユウに抱きしめられた。
 というか、膝枕をされていたらしい。
 やわらかいユウの身体に包まれる感じで、ほわっといい匂いがして、なんだかこのまま溶けてしまいたい感覚。遠くから聞こえてくるギターの音が、耳の奥で微かな和音を再現する。
「あれ? ユキオ君まだ、ギター弾いてたの?」
 ユウの身体が、ふっと離れた。
 身体を起こして、おでこに掛けられていたハンカチをユウに返す。
「んー。よくわかんないです。でも、ずっとギターの音が聞こえていたような気がするです」
「間違いない。ずっとあの音のパターンは繰り返しつつ、連続している」
 とメイ。
 なんだかよくわからないけれど、ずっとユキオ君はギターを弾いていたと理解する。
「体育の授業をさぼるのはよくないけれど、ユキオ君ってなかなか練習熱心なんだね」
「そうだよー」
「けっこう、かっこいいんだよ」
「うん。ねえ」
 どやどやと、女子が集まってくる。
 なんなんだろうと思っていると、ちょうど授業終了のチャイムがなった。そういえばここは女子更衣室の真ん前だった。頭を掻いて、そそくさとその場を退散する。
「じゃあ、また、後でね」
「うん」
「うむ」
 ユウとメイに手を振って、男子更衣室の方に向かう。
 男子更衣室と女子更衣室の中間くらいにきて、はたと立ち止まる。
「ちょっと待て」
 何の違和感もなく、メイは女子更衣室に入っていったけれど、元はといえばメイは王子様だから男の子ではないだろうか。でも地球人の少女の格好をしているから、いいのか。
「うーむ」
 外面と内面のどちらを優先して男の子と女の子と決めるべきなのだろうか。
 外面と内面が一致している場合は、問題がない。しかし世の中の問題は、すべからく、外に出てくるものと内のものとが一致するとは限らない。
「すると、方向で判断するしかないか」
 おそらくメイは、地球人の少女の思考形態を学ぼうと思っているのではないか、と好意的に解釈してみる。つまり方向として「少女」の方向にあるということになる。しかも外面としてはすでに「少女」という言葉の適用範囲内にある。従って総合としてみれば女子更衣室を使っても問題ないのではないだろうか。
 とそこまで考えて、首を振る。
「まあ、どうでもいいや。みんなが問題ないっていうならば」
 とりあえず日本的な調和でお茶を濁そう、と思うのだった。


 放課後、清掃と、短い学級の時間が終わった後、ユウとメイは天文台の方に行ってしまった。なにやら二人で相談したいことがあるらしい。
 ぼくはといえば、今日は日直だったので、学級日誌を教室に居残って書くはめにあった。
「教室に一人残って物を書くというのは、なかなか風情のあるものである。故人は『つれづれなるままに(中略)』などと、書いていた。思えば、文学とは内面の独白であり(中略)……コペルニクス的転回の末に……ゆえに表層と内面の一致は不可避である。したがって、内面が方向として一致へ向かうならば、外面と内面の不連続性は解消される方向にあるといっていいのではないだろうか」
 とりあえずびっしりと書き込んだ。
「ふむ、これくらい適当なことを書けばいいだろう。引用もちゃんと一割だけにしたし」
 ちょん、ちょんと肩を叩かれた。
「あのー、ちょっと」
「すみませんが、ぼくは『チョット』という名前ではありません。『ユイ』という立派な名前があります」
 振り返ると、目の前に体育着姿をした陸上部のノンちゃんがいた。
 一瞬ノンちゃんは何を言われたのかわからなかったらしく、すこし考えてから「ぷっ」と吹き出した。
「あはは。ユイ君って本当は面白い人だったんだ」
「えっと、今まではどんな人だと思われていたのかな?」
「教室の隅で怖い顔をしながら、難しいことを考えていて、話しかけにくい人」
 がくっと、崩れ落ちる。
 気を取り直して立ち上がり、両手を振って否定する。
「それはひどい誤解だ。確かに、教室の隅で『明日のお弁当どうしようかな。また巨大おにぎりでいいや』とかなんとか考えていたことは事実だけれど。話しかけにくいなんてとんでもない。ぼくは日頃から常に、困った人の助けになりたいと努力しているんだよ。ぼくにできることならなんでも協力するよ」
 ここでぼくのキャラクターを「面白い人」とか「気むずかしい人」と誤解されると、後々まで影響が残ってしまうのでとりあえず、正しいぼくのキャラクター像を確保しておく。
 ノンちゃんは、両手を胸の前で組んで、ぼくの方を見つめてきた。
「じゃ、じゃあ。あたしのキーホルダーどこに行ったか、探してくれる?」
「キーホルダー?」
「カタツムリのキーホルダーなの。バッグにつけてたの。女子更衣室に置いてあったの。でも、体育の時間にどっかにいっちゃったの。たぶん、ユイ君だったら、わかるんじゃない? 言ってたよ、ユウちゃんが。ユイ君だったら、探してくれるって。お願い」
 そう言って、ノンちゃんは両手を合わせて、頼み込みの姿勢に入る。
「いいよ」
 とあっさり頷く。
「で、とりあえず現場を見たいんだけれど」
 と、言ってみて、女子更衣室に入れない現実に気づく。ノンちゃんに顔を向けると、ノンちゃんも困ったような顔をしている。
「そうなの。ユイ君は、このままじゃ女子更衣室に入れないの。困ったり、困らなかったり、ということで」
 ノンちゃんは「じゃあん」と紙袋を取り出した。
「これに着替えてきてください」
 ちょっと待て。話の流れからいってこれは……。
 紙袋を開けて中を見る。
「ひょっとして、これはいわゆるセーラ服とウィッグというものじゃないですか?」
 ノンちゃんはこくこくと頷いた。
「セーラ服はクリーニングしたてだよ。あたし、汚れるかもしれないって、いつも二つ用意してあるんだよ。ウィッグは演劇部の人に借りてきたの。これで大丈夫、だよね?」
「いや、確かに大丈夫かも。変装は探偵の基本。変奏は音楽の基本」
 まずい。心に浮かんだことをそのまま口走っている。
「じゃなくて、ぼくがこれを着たからといって、公衆の目をごまかせるというわけもなく。というか、外面と内面の不一致は、一致への方向としての内面性がある場合のみに認められるというか。だから、ぼくがこれを着るというのは……」
 ノンちゃんは、両手を握り拳にして口元に寄せて、瞳をうるうるさせてこちらを見ている。
 この姿勢を取られると、少年期の発達課題を残したぼくとしては、抵抗が無意味だった。
 かくして最終兵器に屈服し、十分の後に、ぼくは女子更衣室に入ることになったのだった。
 体育館では女子バレーボール部が練習をしていた。
「この視線さえ超えれば、あとは問題ないのになあ」
 こそこそとノンちゃんに話しかける。
「しー。いつ、誰が聞いてるかわからないよ」
 とノンちゃんが答える。
 じゃあ、ということで裏声は使わずに、声の音程を四度上に持っていくことにする。メゾソプラノくらいの声をイメージする。いまだに声変わりをしていないので、まだ楽に声が出せるのだ。
「うん。気をつけるよ」
 ノンちゃんが目を丸くする。
「わーすごい。けっこういけてるんじゃない? それに茶髪でセミロングのウィッグも似合ってるし。ユイ君、あんがい髪の毛、染めたらいいかも」
「そんなことないよ。あー、こういう体験は一度くらいですませたい」
 とりあえずこの格好をしている間は、音程を戻せない。
 女子更衣室の扉を開けて、中に入る。幸いなことに誰もいなかった。
「このね。ロッカーに入れておいたの」
 ノンちゃんが、バッグを置いておいたというロッカーは、窓ぎわにあった。
 窓にはカーテンが掛かっている。
「うーん。体育の時間の前にはあって、体育の時間の後にはなかったんだよね」
「うん。そうだよ。着替えるときにあって、授業のあとでここに来たらなかったんだよ」
 更衣室の周りを見渡す。ロッカーが東西にあって、北側が体育館側にある女子更衣室のドアで、南側が窓という単純な構造。念のためロッカーをひとつひとつ開けてみる。
「ふあ」
 何とも言えない、思春期の少女独特の香りが鼻をくすぐる。
「どうしたの?」
 とりあえず理性を総動員して立ち止まる。
「い、いや、何でもないよ。でさ、ここ以外でキーホルダーをなくした可能性は、ないんだね」
 ノンちゃんはこくこくと頷いた。
「ちゃんと、周りも、更衣室の中も探したんだよ。ユウちゃんとかにも手伝ってもらって……でもなかったんだよ」
 とりあえず信用することにする。
 そうなると、あまり考えたくないけれど、だれかが盗っていったと思いたくなる。入り口は一つで体育館側にある。でも、そこはぼくが体育の時間の間、占領していたわけだから、誰かが入れるというわけでもない。まあ、すこし意識が飛んでいたけれど。
「ぼくが、体育の時間に倒れたとき、だれかが更衣室に入っていった?」
「無理だよ。だってユウちゃんが更衣室の所によりかかって、ユイ君を介抱してたんだから」
 ノンちゃんがぽっと頬を恥ずかしそうに桃色に染めた。
「もう……」
 何が「もう」なのかは放っておいて、とりあえず次の可能性に移る。
 あとは窓だけれど、ここは鍵がかかっているだろうから……。
「ん?」
 窓にかかっているカーテンが、ひらひらと揺れた。
「あれ? 窓が開いているの?」
「あー、そういえばそうなの。誰かが『雨どう?』とか訊いたから、あたし窓から手を出して、雨の様子を調べたの。で、やっぱり、雨がしとしとと降ってたの。その後、窓を閉め忘れちゃったみたい」
 カーテンを、ちらっと開けて窓を見る。ちょうど手が入るくらいの隙間が開いている。もっとも、これが体育の時間からこのくらいの隙間だったかはよくわからない。
 雨は既に止んでいた。
「推理小説だったら、もっと早く証言が欲しいところだけど……」
「はにゃ?」
「いや、独り言」
 ノンちゃんは「くすっ」と笑った。
「やっぱり、ユイ君はおちゃめな人だね」
 そうなのか?
 そうか。
「ひょっとしたら、窓から誰かが入ってきたのかもしれない」
 ノンちゃんは首を振った。
「そんなことはないよ。だって、ユキオ君は、誰かが窓から入ったのを見ていないって言ってるもの」
「そうなの?」
「そうなの」
 そこでどうしてユキオ君の証言がでてくるのだろうか。まあいい。
「ということは、ユキオ君はスキあらば女子更衣室をのぞき見しようというキャラクターなのかい?」
「そうなの。だから、あたしが窓側にいなきゃいけないの」
 そう言って、ノンちゃんはうつむいた。
 そこでどうしてノンちゃんが窓ぎわにならなければならないかは、よくわからない。
 まあ、確かに体育の時間中ずっと部室でギターの練習をしながら、更衣室を覗いていたユキオ君がそう言うのならば、窓からだれも入ってきていないと言っていいのだろうか。
 そもそもユキオ君の言葉を全部信用していいのだろうか……。
 そもそもどうだったっけ?
 体育の時間中聞こえてきた、ユキオ君のギターを思い出す。聞いたところ完璧な和音だった。そして、メイによれば同じパターンが繰り返していたという。
「あー」
「どうしたの」
「やっぱり、わからない。ごめんね」
 ノンちゃんは「ううん」という感じで首を振った。
「いいの。やっぱり、あたしが無くしちゃったんだと思うの。一緒に探してくれて、ありがとね」
 役に立てなかった、無念さをかみしめながら、女子更衣室を後にする。
「あたし、部室に寄って、着替えてから今日は帰るね。たぶん、部室、今、だれも使ってないから」
 そう言って、ノンちゃんはぱたぱたと陸上部の部室の方に駆けていった。
「うん。あれだけ元気ならば心配しなくていいか」
 さて、と。
 体育館の前に置いてある、すのこを渡って、部室棟の方へ足を伸ばす。
 くるりと体育館の周りを回るようにして、ギター部の部室の方に進んでいく。とんとん、とノックをしてギター部室のドアを開ける。
 入り口の所にカラーボックスが置いてあって、そこに雨で濡れたユキオ君の上靴がある。正面には立派なステレオセットがあって、その前に椅子が置いてあり、そこにユキオ君が座っていた。
 とりあえず、ユキオ君に声を掛けてみる。
「あの、スネイルズの『カタツムリは天の川に』を弾いて欲しいんだけど?」
 ユキオ君は目を丸くした。
「おや、見かけないお嬢さん。ひょっとして俺のファン? しかたがないなあ。弾いてあげよう」
 あ。セーラ服を着たままで、しかも音程が四度上の声のままだった。
 まあ、逆に都合がいい。
「そこに座って、座って……」
 ユキオ君は、いそいそとスリッパを出してきて、パイプ椅子を用意してくれた。
 見かけに寄らず、結構、細かいところで気が利いている。こう見てみると、茶髪でピアスの長髪系のユキオ君が、女子にもてるのもわかるような気がする。
 ちょこんとパイプ椅子に腰掛ける。
 ユキオ君のギター演奏が始まる。
「ん」
 聴いていて所々に、デモ演奏を聴いたときには感じられなかった違和感を感じる。マイナー・アドナインス・オーギュメントとかのややこしい和音で、音がすこし間違うのだ。ちらりと部室のステレオ装置を見る。FMチューナーが内装されていて、ダイヤルは放送局がないところに設定されてある。
 なるほど。
 気になっていた点は解消された。
 でも、何かが足りない。
 とりあえず疑問は解決した。けれど、それで、どうなんだろう。
「あ」
 急に耳から、激しく音が入って来た。
 思わず、ぎゅっと目を閉じた。
 光が視界を覆った。光は赤くて、光は繰り返し波打っていた。
 息が詰まるような苦しさがあったけれど、目を開けてその苦しさから逃げようなんて思えなかった。
 心が苦しくなる和音。
 緊張感のあるカデンツァ。
 和音がずれるときもある。音程がすこし間違うときもある。でも、始まりは切なくて、中間部は熱くて、音は迫ってくる。
 その音の並びに、何か特別な何かを見つけたわけじゃない。でも、見つけたかった何かを見つけたような気がした。それは、もって生まれてきた何かかもしれない。そして、大きくなっていくうちに忘れてしまった何かかもしれない。
 何か。
 何かを見つけたくて、いつも何かを求めていた。
 知りたかった。そこにある何かを。忘れてしまった何かを、もう一度だけ取り戻したかった。
 どうしてこんなに、響いてくるんだろう。
 目を開ける。ギターを抱くようにして弾いているユキオ君がいる。ただそれだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
 そこにある物は単純で、そこにある物はわかりやすくて、そこにある物はそこにある物でしかない。空間に響いている音は、ギターからあふれ出してくる和音で、音は単純に外へと広がっていく。
 複雑なビートに、時折現れる分散和音。ユキオ君の左手はコードを押さえ、右手はリズムを刻む。足は時折上下し、首は拍動にあわせて宙を舞う。
 ユキオ君は一生懸命だ。
 何かに向かって努力をしている。ひょっとしたら、その何かに向かう速さは、光の速さと比較したカタツムリの速さくらいかもしれないとも思う。でも方向は同じだ。それが遅くて、それが止まっているように見える物であっても。
 外面と内面の不一致は、内面の向いている方向で解決される。
 ユキオ君は、体育の時間に音楽プレーヤからの音をFMトランスミッタを使ってステレオで流していたのだろう。 ユキオ君は、体育の時間に部室にずっといたわけじゃないと思う。だからといってユキオ君が、カタツムリのキーホルダーを盗んだとかそういうことにはならない。雨で濡れた上靴を含めても、証拠不十分だ。
 だから、ぼくには真実はわからない。
 ごめんねと謝りたい。ぼくがここに来たのは、ユキオ君の音楽が聴きたかったからじゃなくて、自分の疑問を解消するためだけだった。
 ぼくには何もない。何もないんだ。
 ぼくは知りたかった。本当のぼくはどこにいるのかを。
 ぼくは、ぼくが生きている意味を見つけたかった。だから、いつも感じている「 なぜ」を解決したかった。でも、それを解決したからといって、何かが見つかるというわけではなく、つぎの「なぜ」ばかりが頭に浮かんでくるだけだった。
 意味はどこにあるんだろう。
 「なぜ」はどこから湧いてくるんだろう。
 わからないよ。忘れたのかな。生まれたときには知っていたんだろうね。たぶん。
 それでも、そんなぼくに、こんなに、一生懸命に、ユキオ君はユキオ君の音楽を演奏してくれる。
 ユキオ君は十分に努力している。たぶん、必死になっていろいろやっているんだ。ぼくなんかよりずっと一生懸命だ。だから、ぼくは、ぼくは何も言えない。
 進行していく和音。同じ旋律の繰り返し。
 何かに一生懸命になったことがあっただろうか?
 そんなことがあったかもしれない。もっと、精一杯、生きていたときがあったかもしれない。何かを求めていたときがあったかもしれない。
 あることを求めること。
 外で見ると、かっこわるい。
 外で見ると、不完全だ。
 そして、外で見ると、気持ち悪い。
 地面を這っている。どろどろした粘着質の言葉を吐きながら。
 そうだけれど、内に隠されている思いがある。
 中身は、繊細だ。
 中身は、傷つきやすい。
 そして、中身は、美しい。
 それでも、外面の、かっこよさとか、完全さとか、美しさとかを目指して、今日もゆっくりと進んでいく。
 着飾って。背伸びして。とりつくろって。いろいろたくさんの物を、小さな背中に背負っている。でも、本当に残っているのは、小さな身体に含まれた小さな思いでしかない。
 生きていたいよ。
 どうして?
 君がいるから。
 好きだから。
 好き。
 好きだよ。
 大好きなんだよ。
 その思いをカタツムリの背に乗せて、君の心に届けたい。
 切ないセブンスのあとで、すべての解決に向かう基本和音。
 解決する前に、必ず切ない思いがある。でも、それがあるから、すべてが解決して力強くまとまろうとする。
 最後の和音は、大きくて、熱くて、そして完璧に決まっていた。
 一瞬の間。
 そして、ユキオ君に向かって拍手する。
「スネイルズ、って、いいね」
「まあな。今度のスネイルズのライブチケットも、徹夜して並んで二枚買ったし」
 そう言って、ユキオ君はギターケースからチケットを二枚、取り出して見せてくれた。
「でも、残念ながらお嬢さんにはあげられない。一緒に行きたい人がいるからね」
 そこまでユキオ君は言って、すこしだけ涙ぐんでいるぼくに気づいたようだった。
「あ、俺って悪い人?」
 ううん、と首を振る。
「いい人だよ」


 ギター部の部室を出てから、すこし風に当たりたかった。下履きに履き替えて、校庭に出る。雨はすでに止んでいたけれど、校庭には誰もいなかった。校庭の隅を一周するように歩く。
 風が吹いて、スカートのすそがふわっと舞った。あわてて押さえる。
 そうかこれが女の子の感じている頼りなさか。
「って、これは男の子の思いこみだよね」
 そう、たぶん、女の子の気持ちは女の子にしかわからない。男の子の気持ちは男の子にしかわからない。でも、すこしだけでもそれを知りたいような気がした。
 校庭の隅に紫陽花(あじさい)があった。スカートの裾を折るようにして、しゃがみ込んで花を見る。
 淡い青色をした紫陽花の花に顔を近づける。紫陽花の花言葉は「移り気」。頼りなくてすぐに変わってしまう、心。でもその心をもっと大切にしたい。
 緑の葉の上に、カタツムリを一匹見つけた。
「がんばってね」
 と声を掛ける。
 そう言ってから、そう言った自分に苦笑した。
 カタツムリはカタツムリという仕事を、十分にがんばってやっている。だから、ぼくもぼくという仕事を、ぼくなりにやればいいだけなのだ。
 紫陽花の葉を進んでいくカタツムリに、小さく「ばいばい」をしてから、立ち上がってまた歩き始めた。
 校庭を一周して戻ったら、ノンちゃんに体育館のところで声を掛けられた。もうセーラ服に着替えていて、帰るところの様だった。
「あ、カタツムリのキーホルダー見つかったんだよ」
 ノンちゃんは嬉しそうに、鞄を持ち上げた。鞄にはカタツムリのキーホルダーがしっかりとかかっていた。
「あのね、ユキオ君が持ってきてくれたの。それでね、こんどね、スネイルズのライブに連れてってくれるって。ちょうどチケットが二枚あるんだって」
「ユキオ君は?」
「職員室に用事があるって。ユキオ君がキーホルダー盗ったんだって」
「え? ユキオ君が、自分でそう言ったの?」
 ノンちゃんは頷いた。
「ユキオ君、ちゃんと自分で言ってくれたから、あたし、許したの。ユキオ君、こう言ったんだ『好きだから、欲しかったんだ』って」
 ノンちゃんは、ぽっと頬を桃色に染めた。
「それから、もう一つ、告白されちゃった」
「え?」
「ありがとね。ごめんね、迷惑かけて。ユキオ君と校門で待ち合わせてるんだ」
 そう言ってノンちゃんは校門の方に、ぱたぱたと掛けていった。鞄ではカタツムリのキーホルダーが、かぱかぱと揺れていた。





 体育館裏で、元の学生服に着替え直した。セーラ服は、とりあえずクリーニングしてから返そうと、紙袋に入れて持って帰ることにする。
 教室に戻ったら、ユウとメイが待っていた。
「遅いですよ」
「ごめん。ごめん。ちょっと色々あったんだ」
 というか色々ありすぎた。
「あのですね。突然なのですが、一夜をともにしないですか?」
「え?」
 急につき合っている人にこんな事を言われたら、びっくりしないわけがない。
「えっと、その、それはつまり。あのやっぱり、二人きりなの?」
 ユウはふるふると首を振って、メイのほうをちらりと見た。
「メイも一緒に来るんですよ。そっち方面に詳しいので。さっき話したら、いいって言ってくれました」
 メイがこくりと頷く。
「もちろん、それ専用の道具も用意してあるぞ。今日、ユウに相談しようと思っていたのだ」
 とメイ。そう言えば、メイは手に大きな布の袋を持っている。たぶんその中に道具が入っているのだろう。
「道具を使うの?」
「そうですよ。メイが用意してくれる道具の方が、感度がいいのです。それに太いですし」
 すこし冷や汗が出てきた。
「あの、そういうことは、教育上好ましくないのではないでしょうか?」
 ユウとメイは顔を見合わせた。
「ちゃんと、校長先生の許可もとってあるんですよ。わざわざ学校の設備が使えるんですから、こんな機会滅多にないんですよ。夜の学校に泊まり込みできるなんて。どきどきしないですか?」
「いや十分どきどきしているけど」
 いや、ちょっとまて。
「今、学校で、やるっていった?」
 ユウは大きく頷いた。
「そうですよ。学校でやるんですよ。学校の天文台が夜に使えるんです。口径四十一センチメートルの大望遠鏡が使えるのです。昼のニュースを見たでしょう。たぶん、あれは、超新星爆発の瞬間です。こんなものが見られるなんて、めったにないですよ」
「じゃ、じゃあ、メイが持ってくる道具って」
「ふーみゅ。地球人の言葉で言えば分光器に似ているな。分解だけでなく合成できるのも特徴だが。レヴァではこれに付属装置をつけて、送受信機にも使う。今朝も手持ちで試したのだが、いかんせんこれ単体では口径が小さいのと、足場が悪くて性能が十分に発揮できなかった」
 がっくりと両手をついて崩れ落ちる。
 ユウが不思議そうな顔をした。
「どうしたの? 体調でも悪いの? だったら無理は言わないけど。でも、一緒に、星を見たいな」
 とりあえず自分の勘違いに崩れ落ちている場合ではない。ひざを立てて、起きあがる。
「あ、いや。すこし少年期の発達課題を取り違えてしまった感じだよ。自己同一性の確保にはしばらく時間がかかるかもしれない」
 ユウはちょっと、首を傾げてから、嬉しそうに計画を話し始めた。
「まず『北斗八星』を見ます。天文部としてはこれを記録しなくてはいけないです。それから二週間後の来月七月七日に、天文部で、七夕観測会をやるんですよ。だからその予習もやります。夜は短いです。でも、好都合なことに明日は土曜休日です。というわけで、お二人さんには我が家に泊まって頂きます」
「お泊まり?」
 とぼく。
「食べられるのか?」
 とメイ。
 とりあえず「お泊まりは食べられない」ことをメイに説明する。
 そして「お泊まり」に関して、大きな問題に気づく。
「あれ? ユウの家って、男子禁制じゃなかったっけ? お父さんが『変な虫をつれて来ちゃだめ』とかなんとか言って」
 ユウがぴっと人差し指を立てた。
「だから、もう一度ユイが女装すればいいじゃないですか。ノンちゃんから聞きましたよ。けっこうノリノリで女装して、探偵ごっこしてたって。ユイっておちゃめな人属性だったんですね。知りませんでした」
「違うよ」
 と手に持っていた紙袋をささっと後ろに隠す。
「んー? これはなんですか?」
 ユウに紙袋を取り上げられる。
「ほら、ちゃんと用意までしているじゃないですか。というわけで、いけいけゴーゴーです」
 そういうわけで三人でお泊まり計画が実行されることとなった。




 なんなく、ユウのお父さんをやり過ごせたというのは、喜ぶべきなのか悲しむべきなのか。かくして夕食とお風呂をいただいて、学校の天文台にいるのだった。口径四十一センチメートルの天体望遠鏡を操作しているユウに向かって声を掛ける。
「しかし、なんでぼくが織り姫様風のひらひらを着なければいけないんだよ?」
 もっともな疑問だとおもう。
「来月、七夕観測会をやるって言ったでしょ? そのときの説明用の衣装です」
「だからって、ぼくが着なければいけない理由はないと思う」
 ユウはいったんこっちを向いて、ち、ち、ちと人差し指を左右に振った。
「お父さんが来るかもしれないのです。なんたって、校長先生ですから。監督責任があります。そのときユイが男だってばれたら大変です。出入り禁止になります。なのでしかたがない措置なのです
「そうなの?」
「それに、ユイはおちゃめな人属性ですから、いいんです」
 言い切られてしまった。
 というか、ぼくは本当におちゃめなひとだったのか? そうなのか?
 両手を上げて天を仰ぐ。上には望遠鏡のドームしか見えなかった。
「ドーム、ドゥーム。運命っ」
 そんな感じで、ぼくが自己同一性の危機に陥っている間に、再びユウがスイッチを操作した。モータ音がして、ドームと望遠鏡がぐるりと北東の方を向く。天体望遠鏡の台座には世界標準時と日本標準時がディジタル表示されていて、観測時間がすぐにわかるようになっている。
「はい。それでは、夏の大三角形と織り姫星と彦星の予習をしましょう。とりあえず、まずは肉眼で見ますよ」
 ユウは懐中電灯を手に取った。
 三人でドームの外に出て、屋上から裸眼で空を観測する。日本標準時で六月二十五日の午前一時過ぎなので、夏の星座が天頂に上がっている。ここは田舎かつ山の頂上なので、ぼんやりとした天の川が裸眼でも観測できる。
「はい、天頂付近にあるのが、琴座のベガですね。それから東の方に天の川を横切ると、鷲(わし)座のアルタイルが見えます。そして、時計回りに三角形を描くように、白鳥座デネブが見えますね。これが夏の大三角形です」
 メイが呟く。
「地球で、初めて、こんなに澄んだ星空を見上げたような気がする」
「そうですね。梅雨の合間に、こんなきれいな星空が見えるなんて、珍しいです。というか、ありえないです」
「で、織り姫星と、彦星って、どれ?」
 ユウが懐中電灯をこちらに向けた。そして「ぷっ」と吹き出した。
「やっぱり、その衣装、派手すぎます」
 おいおい。
「まあいいです」
 流されてしまった。
「織り姫星が琴座のベガで、彦星が鷲座のアルタイルですよ。二人の距離は、なんと十六光年程度となっているんですね。遠距離恋愛です」
 遠距離恋愛にしても、遠い距離だと思う。
 天の川をまたいで、十六光年離れた二つの星が瞬いている。
 一年に一度どころか、一生に一度も会えない二つの星なのだと思う。
 それは個人的な感傷にすぎないのだと思うけれど、瞬く星に一つの旋律を感じる。
 ぼうっと空の星を眺める。
 ユウが隣にやってくる。
「星って、きれいだね」
 そう呟いた。
「うん。欲しくなっちゃうです」
 とユウ。
 右隣にいる、ユウの左手をそっと触る。
「ねえ」
 とユウの左の耳元でささやいた。
「好きな人のものを欲しくなっちゃう気持ちって、わかる?」
「わからないです」
 ユウは、ほうっと息を吐いた。
「だって、そばに好きな人がいてくれれば、それだけで満足ですから」
 空の星が瞬いた。瞬くのは大気が揺れるからではなくて、心がちょっぴり動くからではないかと錯覚した。
 触っているユウの手のひらが熱かった。ただ、そのままでじっとしていたかった。
「あ」
 メイの事をすっかり忘れていた。というか、今日は全然メイがしゃべっていない。
 メイは何やら神妙な顔でこちらを見つめている。
「あ、あの、メイは? 星が欲しくなったりしない?」
「星を、欲しがるなど、もってのほかだ」
 そう言って、メイは持っていた袋から、丸い筒に握りと引き金がついた物を取り出した。
 がちゃり、と構えてこちらに向ける。
「邪魔だ」
「あ、え?」
 ユウが凍り付いた。
 メイが言う。
「いや、ちょうどユイたちがいる方向が北なのだ。そちら側に照準を合わせないといけない」
「あ、ちょっと怖かったです」
 ユウが、ふっとため息をついた。
 メイは一回だけ引き金を引いた。小さい作動音がしたあと、メイは筒についているモニタを覗き込んだ。
「ふむ。大まかなスペクトルから、ほぼ間違いないことがわかった。時間軸上でも相関は確認されている」
 メイがこちらを向く。
「そろそろ話そうと思っていた。とりあえず、私がこの星に来たときのレヴァの状況を」
 そう言ってメイは話し始めた。
「正確に言えばレヴァのあるテスマート星系は、テスマート連星系という。レヴァがあるのはその片一方の恒星系だ。連星系の片側を【姉】、もう一方を【妹】という。レヴァは【妹】星系にある。そもそも【妹】星系には人の住める惑星はなかった。我々はある事情により、レヴァに避難民として住み着いたのだ」
 メイが南の空の方を向いた。
 メイの後ろ姿が、暗闇に沈んで見える。
 メイの金髪だけが、星の海に浮かんでいる。
「ある事情とはこういう事だ。我々の先祖は、二千年以上も前、すでに恒星間を移動できるだけの技術を持っていた。そして、宇宙には他の知的生命体があるという事実に気づいた。我々の先祖がとった行動は、愚かしかった。強大な兵器を開発し、それらの恒星系を侵略しようとしたのだ」
 南の空に、赤い星が見えた。
 蠍(さそり)座のアンタレス。赤い年老いた恒星。
「結論を言おう。兵器開発の失敗により、惑星全体が恒星化し、恒星系自体を飲み込もうとする結果に至った。最外惑星の植民地に残された僅かな住民が、かろうじて恒星間宇宙船で脱出できただけだった」
 ゆっくりとメイが振り返る。
「そう、今から二千年前のことだ」
 そして、メイの手が北の空を指さした。
 くるりと後ろを振り向く。
 北の空には、新しく現れた青白い星が、不気味な光を放っていた。
「あの星の光は、我々の先祖の、血と肉の光だ。あと一年もすれば消えるだろう。たった一年で、一つの恒星系が燃え尽きたのだ」
 青白い星に、北極星がかすんでみる。
 明るい光の元では、暗い星は見えない。
「脱出した我々の先祖はテスマート連星系の片一方、【姉】星系の第三惑星ヴァールにたどり着いた。そこの星民に助けられ、【姉】星系から一光年離れた【妹】星系の第五惑星レヴァを開拓することにした。それだけの技術をヴァール星系の星民は持っていたのだ。驚くなよ。五千年前に、すでにヴァールの住民は地球に来ていたのだ。さらに言えば、そのときの通信基地が火星にあり、まだ通信可能なのだ。つまり地球の情報はヴァールとレヴァで受信可能なのだ」
 メイの声が、淡々と、言葉をつなげていく。
「レヴァは惑星資源としては整っていたが、【妹】星から離れていた。そのエネルギー不足は、【妹】星周囲に配置されたエネルギー基地によって解消された。エネルギー基地で発生したエネルギーを、亜空間ウェーブレット伝送方式により、レヴァまで伝送したのだ。それから長い間、レヴァとヴァールは仲良くやってきた。しかし、私の父上の代になって、あることがきっかけで関係が悪化した。父上が、ヴァール側を怒らせるようなことをしてしまったのだ。星交が断絶し、ヴァール側から星交を再開するための条件が提示された。父上はこれを拒否し、ヴァール側から宣戦が布告された」
 メイの声が、小さくなる。
「私は第三王子だ。兄上たちのように父上の手伝いもできないし、姉上たちのような特殊能力もない、いても邪魔になるだけだ。だから……」
 メイが天の川の方に向き直った。
 天の川は空で、変わらずぼんやりと光っていた。
「あそこの方だ。レヴァのあるテスマート連星系は」
 メイが両手を胸の前で組む。祈るような形で、メイは天の川を見つめている。
「父上が、謝ればすむことなのだ。先祖が受けた恩を忘れるべきではない。それに、第一、父上は……」
 メイの言葉が止まった。
 メイは下に目を落とした。
 やがて、ためらいがちに、メイが、そっと言う。
「父上は、自分の気持ちに、素直になるべきなのだ。ユウ、さっきの言葉、いいな。できれば、私もそういう者になりたいものだ」
 そう言って、メイはユウの方に視線を向けた。
「え?」
 隣にいるユウの方を見る。
 ユウは、うつむいている。
「大丈夫?」
 ユウは「うん」と言ってから、小さな声でつけ加えた。
「だって、ユイがいるから」
 ユウの両手が、ぼくの右手を包み込んだ。すこしだけユウとの距離が近くなって、ユウの身体の淡い匂いを、感じることができた。
「ありがと」
 小さな声で、ユウに言う。
「うん」
 小さな声でユウが返事をする。
 メイは小さく笑った。
「レヴァに連絡を取りたい。伝えたいことがあるのだ」
 それから、メイは具体的な方法を説明した。
「火星に設置された通信基地を使う。そのほうが宇宙船付属の通信装置を使うよりも、速い」
 火星に向かって亜空間ウェーブを送り、そこから中継するのだという。
 メイが持ってきた通信装置が、望遠鏡の片側に取りつけられる。望遠鏡が東の地平線付近に向けられる。そして登り始めた火星に照準が合わせられた。
 メイが通信装置をいじり、最後に引き金が引かれる。
 空に向かって、まばゆいばかりの光が放たれる。それは真っ直ぐに火星のほうへと突き刺さっていった。一瞬の後に、光が消えた。
 メイはため息をついた。
「百四十四光年進むのに、二週間かかるのだがな」
「二週間後だったら、七夕だね」
 とユウ。
「でも、ずいぶんゆっくりじゃない? 一瞬に比べればまるで、蝸牛(かたつむり)の歩みだよ」
 とぼく。
「でも、いいかもしれません」
「いいの?」
 ユウはウインクをしながら答えた。
「だって、七夕に、蝸牛(かたつむり)が、天の川を渡るんですから」

 七夕の君に
 届かない思いを
 蝸牛の背に乗せて
 天の川をわたらせる。

#The snail in the "Milky Way"......

―あとがき―

 Plantain です。
 おっかなびっくり、詩的な書き方を使いました。読みにくかったら指摘して頂けるとありがたいです。
 読んでくださった方、お世話になった方に感謝です。

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