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エムフ

1.間違い

作:Plantain


読者の皆様へ


 この話はワンパターンな小話が繰り返す形式となっております。従って、全部を連続でお読みになられると飽きてしまう可能性があります。一日一つずつお読みになることをおすすめいたします。
 なお、『間違い』は第二掲示板のものと、ほぼ同じですのでお読みになった方は飛ばす事を推奨します。




間違い

「あなたは間違っています」
 面と向かってこう言われたら、誰だって衝撃を受けるに違いない。嘘だと思うのなら、知り合いに頼んで言ってもらうといい。そうしたら、僕の状態がもっとよく理解されるに違いない。
 中学2年であり、大海望(おおうみのぞむ)という名を持つ僕は、街を歩いていた。街を歩く人間は、二通りに分類される。目的を持って歩く人と、それ以外。僕は、その時後者に属していた。そういうわけだから、車が一台も通らないような細い道の赤信号を、生真面目に守って停止状態にあったとしても、何の罪もないはずだった。いや、むしろ交通道徳をわきまえた模範的な少年として、交通安全協会の表彰を受けていいくらいだった。
 そんな時、ぼんやりと信号の向かい側を見ると、いつの間にか一人の少女が立っていた。身長150±5cm。この距離だから、目測にはこれ位の誤差を見積もっておけば大丈夫だろう。髪の毛は、後ろの方で二つにまとめられていて、前髪が多少目にかかりそうだ。あれは、ちらつき現象で視力低下の原因になるそうだ。ただ外見という見方からすれば、印象が僕にとって正の方向に補正される。
 服装は、薄い緑のワンピースで目に優しい。あまり、派手すぎないひらひらも清楚な感覚を呼び起こす。憂いを含んだ瞳は、僕好みだし、思春期独特な二つある花のつぼみもいい。などと、服装や格好について考察を始めたとき、急に少女がこっちへ向かってきた。ちなみに、歩行者用の信号は赤である。赤信号は、侵攻禁止、いや進行禁止である。従って、その少女は道路交通法違反という事になる。交通道徳をわきまえた模範的な少年としては、この少女を止めるべきだろう。などど思っていたら、もう既に彼女は、僕の目の前に来ていた。
 彼女は言った。
「あなたは間違っています」
 赤は止まれ。僕の時間が止まった。
「は?」
 時は動き出す。その時、僕は相当間抜けな顔をしていたに違いない。
 もう一度、彼女は言った。
「あなたは間違っています」
 取り敢えず周囲を見渡してみる。半径5m以内に、残念な事に人はいない。この時間で、こういう事はあまり無いのだけど。運が悪いと言うしかない。したがって、彼女の言う『あなた』は、僕以外にあり得ない。いや、彼女が空気に向かって『あなた』と言っているのなら別の話だが、残念ながら彼女の視線は僕の方に向かっている。まあ、一応確認しておかないと。未確認の情報に基づいて判断を下すのは、よくない事だ。
「えっと。君は僕に向かって発言しているんですか?」
「わたしはあなたです」
「へ?」
 全く、訳が分からない。
「あのお、話が見えてこないんですが」
「話は目で見えません」
 そりゃあ、そうだ。いや、そういう問題ではない。
「時間がありません、すぐに実行に移します」
 少女は持っていたポシェットから、長さが30cm直径が3cm位の木の棒を取り出した。片方の先が少し丸くなっている。彼女はそれを高く掲げると、目をつぶって何やら唱え始めた。
「ロト・ロト・アー、グラ・ディブ・アーアー・ムー・ラプ・アー」
 とたんにわき上がる、奇妙な感覚。身体の中をぐるぐると回転させて、更に身体全体が渦を巻いているような感じ。それに加えて、何かが身体の中心から湧き上がるようでもあり、くすぐったいような、気持ち悪いような、気持ちいいような不思議な感覚が僕を覆った。
 更に、視界が乱れた。ぐねぐねした水面がうねっているような、変な感覚。
 とたんに、それが終わった。
「ふわあ」
 口から出た言葉は、意味不明。意味が分かった人は、教えて欲しいくらいだ。
「はれ?」
 なんか、声が違いますよ。これこそ間違い、とか。取り敢えず現状を確認。未確認の情報に基づいて判断を下すのは、よくない事だ。
 ふんふん。目の前にいるのは、見慣れた僕の顔だから、いつも通り。あれ?
「どうやら間に合ったようね、大山望(おおやまのぞむ)さん」
「あれ、どうしてボクが勝手にしゃべっているのかな。それに、ボクは大海望(おおうみのぞむ)だけど」
「へ?」
 彼女の目が、点になった。いや、物理的に点になるのはおかしい。点とは、面積を持たない場所のみの情報のはずだ。したがって、目は点にはならない。
「ひょっとして、間違い?」
 彼女が指さしたのは、ボク。ボクの状況を確認する。髪の毛は、後ろの方で二つにまとめられていて、前髪が多少目にかかりそうだ。服装は、薄い緑のワンピースで目に優しい。あまり派手すぎないひらひらも、僕好みだし、思春期独特な二つある花のつぼみもいい。いや、そうじゃなくて、これは絶対……。
「間違ってるよ」
 そう言ったボクの声も間違っていた。
 ふわっ。


「あのお」
 はっと、気づくと商店街の中心部にある、公園のベンチに寝かされていた。
「わたし間違ってました」
「は?」
 身を起こして、聞き返す。
 急にそんな事を、言われても何にも理解できないに違いない。嘘だと思うのなら、知り合いに頼んで言ってもらうといい。そうすれば、ボクの気持ちがもっと理解されるに違いない。
「わたし、エムフなんです」
「エルフ?」
 声はやっぱり間違っている。しかも、口を押さえた手は、触った感じがなめらかで、ややふくらみを帯びて柔らかな感触は、ボク好み。いや、そんな事はどうでもいい。
「エルフとは、違います。英語のエ、留守居のル、富士山のフ。エ・ル・フです」
「混乱してますね」
「あれ? 今わたし何て言いました?」
「エ・ル・フってしっかりと」
 エムフは顔を覆って、きゃー、と言った。いや、ボクの格好でそんな事言われると周りの視線が気になる。
「訂正します。英語のエ、無線のム、富士山のフ。エ・ム・フです」
 与えた情報に誤りがあった場合は、すぐに訂正しなくてはいけない。いや、それが問題じゃなくて、問題は中身だ。
「あのお、エムフって名前ですか。変な名前ですね」
 とたんに、エムフはぷーっとふくれてしまった。ボクの顔でそんな事しないでくれ。やっぱり、未確認の情報に基づいて判断を下すのは、よくない事だ。
「ごめん、ゆるしてよ、どうか機嫌を直して……」
 取り敢えず、現状は非常にまずい。機嫌を悪くした少年とそれにすがる少女の図、というものは一般大衆にとって、好奇心の対象以外の何者でもない。うう、やっぱり間違っている。
「分かりました」
 とエムフは言った。
「今日からあなたはエムフです」
「は?」
 出会ったばっかりの人にそんな事を言われたら、誰だってびっくりするに違いない。嘘だと思うのなら、出会ったばっかりの人に頼んでみるといい。そうすれば、ボクの気持ちがもっと理解されるに違いない。
「そうですね、そろそろ混乱するのはやめます」
 エムフはこくこくと頷いた。うう、だからボクの身体でそんな仕草はやめてくれ。それに、そんな簡単に落ち着けるものなのだろうか。
「それでは、説明します」
 見事に落ち着かれてしまった。
「問題は因果律なのです」
「へ?」
 思わず、人差し指を頭にあてて、はてなの格好。いや、そんな事をやっている場合じゃない。エムフは構わずに続ける。
「人間が時間という尺度でものを測るようになったときから、エムフは存在するのです。簡単に言えば、因果律の自動調整装置とでも言うべきものでしょうか。たとえば、絨毯にしわが寄ったとき、それを端に寄せる役目がエムフの役目というべきでしょうか。ともかくエムフはエムフからエムフへとその役目を引き継ぐのです。エムフはエムフになったときその役目を自動的に知るはずなのです」
「でもボクは分からないよ」
「ですから、間違ってしまったのです」
 エムフは、ふう、とため息をついた。
「仕方がありません。多少因果律を歪めましょう。原因と結果を交換します。あなたは引き継いだ結果エムフになったのではなく、エムフになった結果引き継いだのです」
「なんか、話が矛盾しているような気がするのだけど」
「矛盾が無ければこの世は回っていかないものです。多少の因果律の乱れはあなたが直しておいてください。それでは」
 なんと、声にエコーがかかり、そのまま、エムフは消えてしまった。
「うわああ」
 思わず、叫んだ。
 なんだか、周りの声が聞こえるような気がする。
「かわいそうに、あのお嬢さん彼氏に捨てられてしまったのね」


 絶対に間違ってるよ。


付き合い


「つき合ってくれませんか」
 面と向かってこう言われたら、誰だって衝撃を受けるに違いない。嘘だと思うのならば、知り合いに頼んで言ってもらうといい。そうしたら、ボクの状態がもっとよく理解されるに違いない。
 ボクは、エムフに置いてけぼりにされていた。今いるのは、商店街の中心にある公園。座っているのは、そのベンチ。周りの視線が気になって、ボクは立ち上がってそそくさとその場から逃げ出そうとした。
 普段通り、大股で歩き出そうとして気が付いた。目に優しい緑色をしていて、ボク好みのワンピース。しかも着ているのは、ボク。
「ひゃあ」
 急に力が抜けた。着ているだけでも間違っているのに、これで街を大股で闊歩したら二重の間違いを犯す事になる。間違いの間違いは、正しいのではなく大間違いだ。公衆道徳をわきまえた模範的な少女としては、そんな事ができる訳がない。あれ? いつの間に、少女になっているんだ。あくまでも、一般論、一般論。
 そんな時だった。
「つき合ってくれませんか」
「は?」
 ボクは、目の前に立ったおじさんを見つめた。
「お嬢さん、お小遣いをあげるから、つき合ってくれませんか」
 その時のボクは、相当目が丸くなっていたに違いない。取り敢えず情報を整理する。不正確な情報に基づいて判断を下すのは、よくない事だ。
 今の状況は、『お小遣いをあげるから、つき合って欲しい』と要求されている。しかも、年上の男性から年下の少女。いや、少女というのはあくまでも状況を一般化した上でだ。つまり、これを受けたら援助交際。公衆道徳をわきまえた模範的な少女としては、そんな事ができる訳がない。ただし、少女というのはあくまでも一般論。
 それに、これは明らかに原因と結果が入れ替わっている。『物をあげた結果つき合う』のではなく、『つき合った結果物をあげたくなる』のが、正しい原因と結果ではないか。となれば、総合的に判断して、断るのが、公衆道徳をわきまえた模範的な少女の結論だろう。ただし、少女というのはあくまでも一般論。なんだか、いちいち訂正するのが面倒くさくなってきた。
「お断りします」
 演出効果も考えて、目をつぶって、首をぷいと振る。わ、恥ずかしい。顔に血液が上がってくるのが分かる。
「つれないところもかわいいですね。仕方がありません、実力行使に移ります」
「え?」
 そのおじさんの、両の手が迫ってくる。
 ひょっとして、あんなに苦労したのに逆効果だったのか? しかも、半径5メートル以内に人影はない。この時間帯では、あり得ない事なのだけど。これを人生最大の危機と言わずして、なんと言うべきだろうか。知っている人がいたら、教えて欲しいくらいだ。
 何かないか、手をのばすと、ポシェットに入っている木の棒に手が触れた。必死でそれを取り出すと、目の前にかざした。
 ぼこ。
 巨視的な人間の頭と木の棒では、量子トンネル効果が起こる確率は無限小。したがって、木の棒が頭を貫通するわけはなく。おじさんの頭に、ぶつかった。直感的に、あの呪文を唱える。
「ロト・ロト・アー、グラ・ディブ・アーアー・ムー・ラプ・アー」
 おじさんの身体が光に包まれた。光は渦を巻き、それが螺旋状に身体を走査していく。何やら身体の表面が波打って、更に収縮していく。やがて光が発散し、後に残ったのは、気絶した一人の少女だった。
「ほへ?」
 思わずボクの口から出たのは、意味不明な言葉だった。
 誰だってこんな状況に陥ったら、意味不明な言葉を発するに違いない。嘘だと思うなら、木の棒を持って呪文を唱えてみるといい。そうすれば、ボクの状況がもっとよく理解されるに違いない。
 取り敢えず、ボクはその少女を公園のベンチに、寝かせた。


「あのお」
 ぺち、ぺち、と少女の顔をたたきながら、少女を観察する。前髪は、ちらつき効果が起こるぎりぎり直前で眉毛の上。髪型は、ポニーテール。眼は閉じていて、頬にほんのりと赤みがある。服装は、この近くの中学校の制服で、セーラー服。この付近にある中学の制服は、高名なデザイナーが造ったらしい。落ち着いていてかつ大胆という矛盾する要求を満たし、ボク好み。いや、そんな事はどうでもいい。問題は中身だ。
 ぱち、と眼が開いた。
「あ、あの」
 と彼女はとまどっている。
 ううん。どうやって、説明した物だろう。しかし、人間が時間軸に沿って認識する以上、最初から順番に説明するのが妥当だろう。でも、時間軸の逆順に説明して混乱させるのも面白いかも。などと思っていたら、急に抱きつかれた。
「へ?」
 この状況は非常にまずい。少女が、同年代の少女に抱きつかれているという図は、一般大衆にとって好奇心の対象に違いない。取りあえず、抱きつくのをやめてもらおう。
「あの、申し訳ないんだけど……」
 とたんに、少女は抱きつくのをやめてすっくと立った。
「そうですよね、まずは自己紹介ですよね」
 そうそう、それが公衆道徳をわきまえた模範的な少女の結論だろう。いや、なんか大切な事を忘れているような気がする。そんな、ボクに気づくわけもなく、彼女は話を進める。
「わたしは、浅間翼(あさまつばさ)といいます。倒れていたところを、助けて頂いて、ありがとうございました」
「いえ、いえ」
 まさか、気絶させた本人がボクだなんて言えるわけがない。
「あの、つ・ば・さ・さん、ですか?」
「うに?」
 そういって、小首をかしげて、人差し指を頬に当てる彼女の仕草は、ボク好み。いや、問題は中身だ。
「えっと、身体で不思議なところはありませんか」
 我ながら、なんと回りくどい言い方。
 彼女は、すっと立って、くるりと一回転した。スカートのひらひらが、ふわっと舞う。うわあ、危険だ。公衆道徳をわきまえた模範的な少女としてはそういう危険なことは避けた方がいい、などとボクが考えていることに気づくわけもなく彼女は言った。
「ありませんよ」
「はい?」
 ううん。取り敢えず情報を整理する。不正確な情報に基づいて判断を下すのは、よくない事だ。彼女は、少なくとも今の状態に疑問を抱いていない。だとすると、それが彼女にとって正当な結論であるからだ。うん、結果良ければ全てよし、ということにしておこう。
「それじゃあ、ボクはこれで」
 当初の目的、この場から逃れる、を実行に移そうとした。
「あ、あの」
 彼女が、もじもじと話しかけた。
「お姉様って、呼んでいいですか?」
 人の呼び名を決めるときは、相手の同意を取る。それが公衆道徳をわきまえた模範的な少女の結論だろう。いや、そうじゃなくて……。


 絶対に間違ってるよ。


かわいい


「あなたって本当にかわいいんだから」
 面と向かってこう言われたら、誰だって衝撃を受けるに違いない。嘘だと思うのならば、知り合いに頼んで言ってもらうといい。そうしたら、ボクの状態がもっとよく理解されるに違いない。
 そのときボクは、浅間翼(あさまつばさ)さんを巻いた後、取りあえず家の前に立っていた。日が傾き、そろそろ夕方になろうかという時間。ボクは、家の前で停止していた。いや、別に家の玄関に信号機があるわけではない。もしあるとしたら、その人は自動車が大好きな人か、鉄道が大好きな人に違いない。
 ただ単に、入り辛かったのだ。
「うう」
 そのときだった。
「あら、のぞみちゃん。お帰り」
 後ろにいたのは、母さん。正式名称、大海渚(おおうみなぎさ)。年齢は秘密らしい。
「あ、あの、ただいま?」
「あら、あら、どうしたの照れちゃって」
 渚母さんは、ボクの頭をなでなでして、面と向かってこういった。
「あなたって本当にかわいいんだから」
 ふしゅう。顔から、急に水蒸気があがった。いや、水蒸気はいつも少しずつあがっている。訂正、顔の表面温度が上昇した結果、普段より多くの水蒸気が空気中に逃げ出した。
 逃げるようにして、玄関に駆け込み、靴をきちんと揃えて脱いで、二階にある自分の部屋に駆け込んだ。靴を揃えて脱ぐのは、一般常識を備えた少女として当然のことだ。いや、少女というのは一般論。はあ、以下少女という単語が出てきたら無意識のうちに、一般論と付け加えるようにしよう。 頭が疲れて良くない。
 ともかく、部屋のベッドに座った。
「はれ?」
 部屋の型紙は、薄桃色をしていて、暖かい感じがする。いや、昨日までは目に優しい薄緑色だったはずだ。となると、ボクが出かけているうちに誰かが張り替えた、というのが一般的な結論に違いない。でも、多分それが正解ではないだろう。
 なんか嫌な予感がして、机の方に移動した。机の上に、おいてある筆箱は、いつもの通りアルミ製で、角が丸い直方体。いや、直方体は角が丸くない。訂正、直方体の角を丸くした形。中身を確認する。
「ん?」
 入れた覚えのない、色とりどりのボールペン。普段なら、ボールペンは三色ボールペン一本しか入れないはずだ。しかも、消しゴムはなんだかキャラクターもの。これも普段は、3個セットで安売りしている、無地のものを使っている。製図用シャーペン(¥1000+税)はいつもの通りだったのが、救いだ。
「ううん」
 ボクは普段、5冊セットの安売り再生紙ノートを使う。机の上のノートを一冊手に取る。予想に反して、そこにあったのは一冊ずつばら売りしていて高い物だ。けれどリングノートで開きやすく、表紙がきれいでボク好み。いやそんなことはどうでもいい。表紙を見て脱力した。
「わざ、わざ、レタリングをするなよ」
 しかも、丸ゴシックでイタリックがかかっている。そして『大海のぞみ』と書かれていた。二重に脱力な名前だ。これも、それもあの変な木の棒を持っていた、エムフのせいだ。いや、いまボクがエムフなのだから、ボクのせいだ。は? 何か結論がおかしい。結論がおかしい場合は、仮定が間違っているか、推論過程が間違っているかのどちらかだ。いまボクがエムフであることは、疑いがない、従ってボクの考え方が間違っている。
「やっぱり、間違ってるよ」
 ため息をついて、ふとポシェットの中身を確認していない事に気が付いた。ポシェットをもって、ベッドに座り、ベッドに中身をあけてみる。
「ふあ」
 一般的な少女が持っているポシェットの中身は、健全な少年の精神には負担が多すぎる。あえて有意識下に持ってこないのが、健全な少年の精神がだす結論だろう。しかし、ボクの精神は健全な少年の精神ではなかったらしい。ポシェットの中身を完全に有意識下に納めた結果、ボクの精神は飽和した。
「ううん」
 ぱたん。


 ぺち、ぺち。
 何かに、たたかれているような感じがして、目を覚ました。
「やあ」
 目の前にいたのは、真っ黒い猫。起きあがって正面で向き合う。
「初めまして、多分ボクは、大海のぞみです」
 多分、というところが、ちょっと悲しい。
「あれ? 君はエムフなんだから私の事、知っている筈なんだけどなあ。私はプランク」
 プランクは、まじまじとボクの顔を見つめた。つやつやした毛並みは、健康そうで、さわり心地が良さそうだ。その瞳は薄い黄緑色で透き通っていて、ぴんと立った耳も、格好良くてボク好み。
「あの、どうやらボクは間違ってエムフになってしまったみたいなんです」
「ってことは、初めっから説明しなくてはいけないって事か。どうりで、だいぶ時空の乱れが激しいはずだ」
 プランクは、耳をぴくぴくとさせて言った。
「あの、エムフってなんですか? 何でも因果律の調整役だとか」
 プランクは、ボクの膝にぽんと前足を置いて言った。
「君は、電波って知っているかい? まあ、正式には電磁波(Electro Magnetic Wave)の一部分なのだけどね。電磁波は、電磁場(Electro Magnetic Field)の波なのさ」
「は?」
 誰だって、いきなり面と向かって電波系の話をされれば、こんな反応をするに違いない。嘘だと思うなら、知り合いに頼んで言ってもらうといい。そうすればボクの気持ちがもっとよく理解されるはずだ。
「失礼、もっと柔らかい話にしよう」
 そういうボクを見て、プランクは言い直した。
「君はこんにゃくを知っているか?」
「ええ、まあ」
 なんか、急に話が軟らかくなった。しかし、何でこんにゃくなんだ?
「それなら話が早い。こんにゃくは色々使い甲斐があるのだ。例えば『こんにゃくを婚約者と今夜食う』とか」
 ……。
「おっと、話がそれた。つまり、電磁場はこんにゃくのような物なのさ。それで、こんにゃくを歪めると、ぷるぷると震えるね。それが電磁波なのさ。それで、物質はこんにゃくの粒々のようなものなのさ。電磁波によって色々と影響を受ける」
「じゃあ、こんにゃくを食べちゃったらどうするの?」
 プランクは、がくり、と首を落とした。
「それはあまり重要ではない。むしろ、こんにゃくはどんどん大きくなっていっているらしい」
「へえ、減らないこんにゃくなんだ」
「うむ、なにやら、ビッグバンとかいうものがあって、その時には途轍(とてつ)もなく小さなこんにゃくだったが、それがどんどん大きくなっていって、今のこんにゃくになっているらしい」
 どうやら、途轍もなく大きいこんにゃくがあるらしい。一度見てみたいものだ。おでんが何人分作れるのだろう。
「で、そのこんにゃくはどこにあるの?」
「ここにある」
 ボクは、周りを見渡した。けれどこんにゃくは無かった。
「触れないし、見えないよ?」
「うむ、昔のひとはそれをエーテルといって、触れると思っていたらしい。けれど、今は触れないのだ」
「ふうん」
 どうやら、目に見えないし触れない、こんにゃくのような電磁場があるらしく、それのぷるぷるが、電磁波というらしい。
「さて、電磁波というものを分かってもらえたかい?」
「うん」
 プランクは、疑わしそうに首をかしげながら、続けた。
「というわけで、君はそのこんにゃくのぷるぷるしすぎた部分を、ちょいと叩いて直すためにいるのさ」
「別に直さなくてもいいんじゃない?」
 プランクは両手をあげて、とんでもないという仕草。まったく、器用な猫だ。そもそも、猫が喋(しゃべ)っているのが間違いだ。
「わああ」
 遅ればせながら、ボクは驚いた。
「おや、どうしたんだい?」
「だって、猫なのに喋っているから」
 プランクは、鼻をふん、とならして言った。
「猫が喋っていけない理由があったら、400字詰め原稿用紙10枚以内で説明して欲しいね。それに、シャベルがしゃべるより、いいと思わないか?」
 たしかに、シャベルがしゃべったら洒落にならないだろう。ちょっと想像する。『新発売、しゃべるシャベル。文脈に応じた突っ込み機能内蔵。物がシャベルだけに深く掘り下げた突っ込みをします』。やっぱり駄目だ。
 プランクは、えっへん、と威張っている。なんか、腹が立って頬をぷーっと膨らます。
「ん?」
 プランクが、じーっとボクを見つめている。
「どうしたの?」
 プランクは言った。
「かわいいっ」
 おいっ。
 人間ならまだしも、猫にまでそんな事言われるなんて……。


 絶対に間違ってるよ。


あまい


「あまいっ」
 面と向かってこう言われたら、誰だって衝撃を受けるに違いない。嘘だと思うのならば、知り合いに頼んで言ってもらうといい。そうしたら、ボクの状態がもっとよく理解されるに違いない。
 その時ボクは、プランクと一緒に晩ご飯を食べているところだった。いや、猫はテーブルの脇だ。訂正、プランクより多少高いところで、晩ご飯を食べているところだった。
 ちなみに、プランクはテーブルの脇で高級猫まんまを食べていた。そう、母さんは、ボクとプランクが階段から下りてくると、何を不思議がる事もなく猫まんまを用意し始めた。
 高級猫まんま。すなわち、十分に冷ましたご飯の上に鰺(あじ)の尾頭付きを乗せ、さらに高級猫缶を開けた物。猫缶は高いので半分ずつ使う。いくらしゃべる猫だと言っても、所詮は猫。猫まんまを美味しそうに食べている。しかし、なんだか鰺が羨ましかった。
 猫まんまから、少し視線をずらしてテーブルの上を見ると。我が家の人間用夕食が現れる。ご飯とみそ汁は普通だ。しかし、おかずがお浸しと鰯(いわし)の缶詰。おかずの数では猫に勝っているが、おかずの質で猫に負けている。
 とりあえず現実逃避。おかずから目を離す。テーブルに座っているのは、ボクと母さん。父さんは出張中。以上。なんだか現実逃避にすらならなかった。これも、我が国の少子高齢化及び核家族化の弊害によるものだ、などと考えていたら、食卓の上のおかずがどんどん減っている事に気が付いた。
「母さん!」
「あら、のぞみがぼーっとしているからよ」
 そうだ、それに母さんはボクがエムフになっている事に気が付かないのか? 全く、うちの家族は、揃いも揃って浮き世離れしたシーラカンスのような家族なのだから。ちょっと待て、うちの家族にはボクも含まれる。よって、ボクは浮世離れしたシーラカンスのような存在だ。あれ?
「ボクのイワシ缶は?」
 いつの間にか鰯の缶詰が消えていた。いや、缶詰は食卓にはなかった。訂正、缶詰の中身が無くなっていた。訂正している間に、母さんは台所に移動していた。
「母さんったら」
 母さんは、後ろを向いたままこう言った。
「あまいっ」
「は?」
 一喝されてしまった。
 いくらぼーっとしていたからといっても、鰯を食べ損なった事が、あまい、と言われるほどの事なのだろうか。いや、そうなのかもしれない。食料は貴重だ。過酷な生存競争に勝ち残るためには、食料を確保する事が大前提である。従って、ボクは今日の夕食に於ける生存競争で、猫にすら負けてしまったという事になる。くう。プランクはもう食べ終わって、顔を洗っている。
「あれ、どうしたの、のぞみ? そんなに落ち込んだ顔をして。せっかく、あなたの大好物のパンプキンケーキを買ってきてあげたのに」
「へ?」
 なんと、母さんは切ったパンプキンケーキを持ってきた。
「じゃあ、あまいって」
「ケーキ以外になにがあるの?」
 まじめな顔で聞き返された。
「いやべつに」
 母さんは、くすくすと笑っていった。
「まったく、のぞみは昔っから面白い娘なんだから」
 『娘……』。なんと頭の中でエコーがかかった。ぐらぐら。例えるなら、耐震基準を満たしていない五重塔に東海大地震が来て、でも倒れなかったときの衝撃だろうか。身体の骨までその震動がぷるぷるときて、それが何とか収まった。取り敢えず現実逃避。目の前のご飯を栄養として吸収し、デザートのケーキに手を付ける。
「むう」
 舌に残るこの味。例えるならば、耐震基準を満たしている超高層ビルに東海大地震が来て、しかも倒れてしまったときの衝撃だろうか。ボクの味覚は、そのぷるぷるに白旗を揚げた。思わず一声。
「あまいっ」


 食事の後、食器を洗って、拭いて、仕舞って自分の部屋に戻った。後片づけを手伝うのは、浮き世離れしたシーラカンスのような家族の一員としては、当然の事だろう。
 部屋に戻ったボクは、衣装ダンスの前で停止状態にあった。いや、別に衣装ダンスに信号が付いている訳ではない。もしあるとしたら、その人は単に信号が大好きな人に違いない。ただ単に、何か嫌な予感がしたので、中身を見たくなかったのだ。取り敢えず、叩いてみる。
 こんこん。
「入ってます」
 誰だって、こんな事があったらびっくりするに違いない。嘘だと思うならば、衣装ダンスを叩いてみるといい。そうすれば、ボクの気持ちがもっとよく理解されるに違いない。だから、ボクはびっくりした。
「わあっ」
 ばたん、と扉が開いて、出てきたのはプランクだった。
「プランクっ、どうしてそんなところにいるんだよ」
 プランクはすました顔をして言った。
「君が、パンプキンケーキに占領されているときに、私は衣装ダンスを制服していたのだ」
「征服?」
 ボクは、プランクに尋ねた。
「いや、制服だ。うむ、説明しよう。世の中の服には二種類ある。制服とそれ以外だ。ちなみに、今君が着ているのはそれ以外だ。私は君のために制服を用意してあげたのだ」
 そう言って、プランクは、えっへんと胸を張った。やっぱり、猫のくせに偉そうだ。
「制服ってまさか……」
「まあ、自分で見るがいい」
 ボクは、中の制服を見た。それは、この近くの中学校の制服で、セーラー服。高名なデザイナーが造ったらしく、落ち着いていてかつ大胆という矛盾する要求を満たし、ボク好み。いや、そんな事はどうでもいい。
「まさか、これをボクが着るの?」
「ふうむ、まさか私が着るわけにはいかないしな。残りは、君か、君の母上様だな」
 むう。母さんが着るのは、絶対に間違っている。消去法で思考すると、結局ボクが着るしかない。あれ?
「でも、なんだか恥ずかしくて」
 プランクは、じろりと睨みつけた。
「君はエムフだ。つまり、エムフにはエムフ業務をする責任がある。業務に従事するときは、目立ってはいけないのだ。学校へ行ったとき、君が制服を着ていないと君だけ浮いてしまう。 それでは、エムフ業務を遂行できないのだ。因果の調整役が、表舞台に立ってはいかん。表舞台に立つのは、魔法少女や正義の味方なのだ」
「は?」
 なんか、今、専門的な単語が出てきたような気がする。まあ、流しておこう。
「まあ、そういう訳で、試しに着てみてくれ」
「でも」
 そう、抵抗するボクに向かってプランクは叫んだ。
「この期に及んで、あまいっ」
 くう。ボクは、制服を手に取った。
「あのお、着方が分からないんですが」
 猫に尋ねる自分が情けない。プランクは説明を始めた。
 健全な少年の精神にとって、女子中学生の制服を着る事は刺激が強すぎる。従って、あえて有意識下に持ってこないのが、一般的な反応だろう。しかし、有意識下に持ってこないと着る事は不可能である。従って、有意識下に持ってくる事になる。当然の事ながら刺激が強すぎる。
「おい。目をつぶっていたら、着にくいじゃないか」
 プランクにはそう言われるけれど、そんな事は3歳のころから知っている。やっとのことで着終わった。そっと目を開いて、鏡に映った自分の姿を確認する。
「これがボク?」
 どっかの小説で見たような、お決まりの台詞を言うなんて……。


 絶対に間違ってるよ。

えらい


「あんたはえらい」
 面と向かってこう言われたら、誰だって衝撃を受けるに違いない。嘘だと思うのならば、知り合いに頼んで言ってもらうといい。そうしたら、ボクの状態がもっとよく理解されるに違いない。
 その時ボクは、プランクと一緒に部屋でファッションショーをやっていた。いや、やっていたというのは適切な表現ではない。訂正、着せ替え人形と化していた。
「ねえ、プランク、ボクで遊んでいない?」
 プランクは、大まじめな顔で言った。
「よく分かったな」
 おいっ。
「さっきから怪しいと思っていたんだよ。なんで、猫耳とかしっぽとか付けなくちゃいけないのさ。ぜったいおかしいよ」
 うう、ひらひらプラス猫耳(しっぽつき)というのは、一般大衆にとって好奇心の対象以外の何者でもない。一般大衆でなければ、更に悪い。もっと早く気が付くべきだった。
「それに、全然おかしい事ではない。背理法で証明しよう。猫耳としっぽがおかしいと仮定する。すると、この世界に存在する猫はおかしい事になる。これは猫がおかしくない事に矛盾する。従って、猫耳としっぽはおかしくない」
 ううん、そう考えればおかしい事はないか。元々、猫は大好きだし。
「どうだね、納得してもらえたかね」
「でも、ねこがおかしくないという保証はないよ。喋るし……」
 ぱたん、と扉が開いた。入ってきたのは、母さん。
 ……。
 しばしの停止。ふあ。これはまずいですよ。下手すると感動ものだ。訂正、勘当もの。くう、これを一生の不覚といわずしてなんと言おう。知っている人がいたら、教えてもらいたい物だ。そんな事を0.1秒でボクが考えた事に母さんが気づくわけもなく、2.0秒後に母さんは言った。
「あんたは偉い!」
「はい?」
 あっけにとられているボクを放っておいて、母さんは喋り出した。
「一度でいいから、あなたがそういう格好をしているのを見たかったのよ。母さん、感動しちゃった」
 再度訂正、やはり感動ものだった。ちらりと、プランクの方を見る。プランクは、猫のふりをして、顔を洗っている。明日は雨だ。いや、そんな事はどうでもいい。問題は別の所にある。ボクは母さんに尋ねた。
「どうして?」
「かわいいじゃん」
 そういって、母さんはぱたぱたと、部屋を出て行った。きっと、カメラを取りに行くのだろう。がくり。とうとう、日本語の単純化による語彙の低下も我が母にまで及んだのか。脱力。いやいや、日本語の将来について憂慮している暇はない。
「プランクっ、プランクのせいでこんな格好の写真を撮られる事になっちゃうよ」
 プランクはボクの方をじろりと睨んだ。
「君、君、それは猫に対する侮辱以外の何物でもないぞ。下手をすると、動物愛護協会に訴えられるか、全日本猫耳愛好者協会に文句を付けられるかもしれない。あるいは、日本エムフ連盟から不的確との通知が来るかもしれないし、世界エムフ連合日本支部に始末書を提出しなくてはいけないかもしれない」
「んん? なんか知らない団体が色々と在るんだけど」
 ぽんっ、とプランクが手を打った。
「おお、そうだった君にまだ説明していなかった。取り敢えずこれを」
 といって、プランクはごそごそとボクのポシェットから、カードを3枚取り出した。
「まずは……」
 と言い終わらない内に、プランクはそれをすぐポシェットに再びしまった。
 ぱたん、とまた扉が開いた。危機一髪。さすが、普通の猫ではない。
「あら、プランクと遊んでいたの? 丁度いいわね。さあ、撮りましょう」
 プランクはこそこそと、逃げたそうな雰囲気。ボクはがしっと捕まえて、抱きしめた。プランクは観念したのか、力を抜いた。そっとプランクにささやく。
「えらいっ」
 パシャリ。

「さて、気を取り直して説明するか」
 何やら、プランクは疲れた様子で、再びカードを3枚取り出した。
「これが、エムフ業務従事者免許証。これが、エムフ業務許可証。これが日本エムフ連盟会員証」
「なんで、こんなにカードがいるの?」
「うむ、君がエムフである事を他の人に示すためのエムフ業務従事者免許証。君がいまこの世界でエムフ業務をしていいことを証明する、エムフ業務許可証。そして、入っていると何かと便利な日本エムフ連盟の会員証だ。そして、全てのエムフに対して免許を与えるのが世界エムフ連合なのだ」
 プランクは、えっへんと胸を張った。
 ぱたん。
 しかし、その反動で転んでしまった。やっぱり、疲れているらしい。
「はあ、私はもう疲れた。ちょっと休む」
 そう言って、プランクはベッドに飛び乗ると足下で丸くなって寝てしまった。
「え?」
 こんな中途半端なところで説明を終えるなんて間違っている。
 ぺち、ぺち。
 ボクは、プランクをひっぱたいた。あんな所で説明を終えられたら何にもわかりはしない。プランクは不機嫌そうに起きあがった。
「くう、後で動物愛護協会に訴えてやる。こんな虐待を受けたのは、これまでで299792458回目だ」
 なんと多くの虐待を受けてきた猫だろう。日本エムフ連盟所属の模範的なエムフとしては、素直に謝るべきだろう。
「ごめんね、そんなこと知らなかったんだよ」
 プランクはふん、と鼻を鳴らしていった。
「まあ、66260755回目にツュレディソガーさんから受けたものよりはいい」
 まったく、何でこんな事を事細かに覚えているのだろう。ボクは、プランクの事を見くびっていた。でも、やっぱり中身が気になる。
「どうされたの?」
 プランクは身体をぷるぷると震わせていった。
「半殺しにされたのさ」
「半殺し? ずいぶんひどいことをされたんだね」
「ああ、思い出すだけでも震えが来る。そのぷるぷるで、落ち着いたと思っても、微妙に身体が震えるのさ」
 なんだか、落ち着けない身体にされてしまったらしく本当に可哀想だ。
 なでなで。
「あ、こら撫でるな。撫でると、身体が励起してもっと落ち着かなくなる」
 やるなと言われると、やりたくなる。いままでいいようにからかわれてきたお返しをしてあげなくてはいけない。日本エムフ連盟所属の模範的なエムフとしては、何かをしてもらったらお返しをするのは一般的な結論だろう。
 ボクは、なでなでを強化した。
「にゃああ」
 いくら喋ると言ったところで、所詮は猫。この攻撃には耐えられまい。プランクは妖しい悲鳴を放出して、そのまま布団に寝ころんで夢の世界へ行ってしまった。合掌。
 あれ? 当初の目的、詳しい話を聞く、が達成されていない。


 絶対に間違ってるよ。

くらい


「くらい」
 面と向かってこう言われたら、誰だって衝撃を受けるに違いない。嘘だと思うのならば、知り合いに頼んで言ってもらうといい。そうしたら、ボクの状態がもっとよく理解されるに違いない。
 その時ボクは部屋の電気を消して黄昏れていた。時刻は午後6時。秋も深まる夕べ。お月様がまん丸かった。いや、ちょっと待て。もう黄昏なんて時刻じゃない。訂正、単に窓から外を眺めていた。
 なんだか、風情も何もなくなってしまった。ちなみに、プランクはボクがいる、ベッドの足下の方で、ぐっすりと眠っている。はあ。ここで一句でも出れば、平安時代でもやっていけるかな、などと考えていたら、急に後ろの扉が開いた。
 ばたん。
「くらい」
 ぼそっと、一言言ったのは母さんだった。ボクは振り向いて言った。
「そうだね、電気を消しているから」  待っていたように母さんは言った。
「そうじゃなくて、あなたの今の状態がくらい」
 がくり。と首を落とす。母さんにそんな風に言われてしまうなんて、ボクも相当参ってしまっているに違いない。こういう状態を、落ち込みというのだろう。他に適当な言葉が在ったなら、教えて欲しいくらいだ。
「なあんちゃって」
 は?
 急に母さんが発した言葉は、不確定性の煙幕をボクの頭に展開した。まさに、複雑系を地でいく、博物館に飾って置くべき、我が家の住民。などと、頭の中でぐるぐる情報が巡っているボクを置いておいて、母さんは言葉を繋げた。
「まだまだ、修行が足りないわね。そんなお約束な話題の展開じゃ、これから先、この道はつらいわよ。それは、さておき、お風呂沸いたから先入っちゃって。それじゃあ」
 ばたん。
 暗い部屋から見える、母さんの黒い影が扉から消えた。
 さっき母さんが言っていた『この道』が、いつか来た道かどうかも、これから行く道かどうかも分からないが、取り敢えずボクには関係ないと勝手に結論づける。うん、うん。人は信じたいものを信じる。ボクは人だ。よって、ボクは信じたい結論を信じる。うむ、推論に間違いはない。だから、ボクには関係ないとボクは信じる。
「信じるのはかってだけどね」
 そう言って、のそのそと起き出したのは、プランクだった。
「あれ? 寝てたんじゃなかったの? それにどうして分かったの?」
 そうボクが言うと、プランクはぶつくさと文句を言い出した。
「君が、電波を飛ばしまくるから、うるさくてしょうがないのさ」
「は?」
 だれだって、こんな事を言われたらぎょっとするに違いない。嘘だと思うなら、知り合いに頼んで言ってもらうといい。そうすれば、ボクの気持ちがもっとよく理解されるに違いない。
「君、気がっ立っているだろう」
「ううん、ちょっと頭の中を情報が回っているだけだよ」
 ボクがそう言うと、プランクはしまったといった感じで両前足を頭に乗せた。
「うう、訂正。君、毛が立っているだろう」
 なんだか、訂正したら余計意味がおかしくなった。しかし素直に解釈して鏡を見たら、本当に毛が立っていた。
「わああ」
 頭の頂点の毛がひと束、垂直に立っていた。例えるのなら、 毛針発射直前、みたいな感じだ。ボクが驚嘆しているのを見て、プランクは満足そうに胸を張った。くう、攻撃したくなった。
「抵抗は無意味だ。今の状態では、私には君の考えている事がすぐに分かってしまうのだよ。それに、電波資源は有効に使わなくてはいけない。取り敢えず送信を止めた方がいい」
「でも、どうやって止めればいいのさ」
 プランクは、ちっちっちと前足を揺らして答えた。
「無心になれ」
 くは、それはボクにとって無理な相談だ。物心付いた頃から、夢見人とまで言われてきたこのボクにとって、何も考えないという事は、呼吸をするなという事と等価だ。従って、このままでは電波を飛ばしっぱなしという事になってしまう。
「……というのは冗談だ。ポシェットにポータブルヘアドライア機能付きブラシが入っている。それで、髪型を直せばいいだけだ。ちなみに、今の髪型はホイップ型といって、身体の内部の同調機構を利用して送信するアンテナだな。まあ、送信できるアンテナという事は受信もできるアンテナという事なのだが、私は鍛えているから電波を送信していないのだ。というわけで、今君は私の電波を受信できないという事なのだ」
 そう言って、プランクはえっへんと胸を張った。
 やっぱり、このままじゃプランクの手の上だ。ボクは頭の猫耳を取り外した。続いて、二つに束ねられていた髪を解いた。ふあっと肩にほどける髪の毛。はあ、髪の毛が柔らかくてなめらかで、手触りがよく、ボク好み。いや、そんな事はどうでもいい。鏡を見て髪型を直した。
「プランク、どう?」
 プランクは、ボクの顔をじっと眺めて言った。
「ふうむ、ストレートもいいな」
 おいっ。髪型の事を聞いているんじゃないっ。


 絶対に間違ってるよ。

つらい


「つらい」
 そう思った事がある人は多いはずだ。もし思った事がないならば、取り敢えず運動をする事をお勧めする。そうすれば、ボクの気持ちがもっとよく理解されるに違いない。
 その時ボクは、プランクとじゃれていた。いや、あくまでも外から見ればじゃれているように観測されたということだ。一般には観測と実態は異なる。すなわち、実態はボクがプランクを攻撃していたという事だ。
 視覚センサで、半径10cmの部分を追尾する。目標を補足。
「にゃああ」
 ボクに耳の裏を撫でられたプランクは、嬉しそうな悲鳴を上げた。あれ? 嬉しそうな悲鳴じゃ攻撃している事にならない。
「ねえ、プランク。ひょっとして、喜んでいる?」
 プランクは、目をぱちくりとさせた。そして、面と向かって前足をちょこなんと揃えていった。
「まあ、喜んでいないといったら、嘘になるな」
 おいっ。
「それはそうと、君は君の母様に、早くお風呂に入るよう、言われたのではないかな?」
 プランクは、Wの字にして座っているボクの膝を、ぽんっ、と叩いてそう言った。
「あれ? そんな昔の事はとっくに忘れたよ」
 ふうん、と言った感じでプランクはボクを見た。そして、はあっ、とため息をついて言った。
「『忘却とは、忘れ去る事なり』」
 とたんにどっと疲れが出た。何の因果で、こんなに疲れなければいけないのだろう。ああ、人間ってつらい。そんなにボクが落ち込んでいることにも気づかずに、時間は容赦なく流れていく。いい加減に観念して、ボクは風呂場に向かった。すると、後からプランクがてけてけと付いてきた。
「あれ? どうしてプランクが付いてくるの?」
 プランクは、前足を片方あげて「やあ」という感じの格好をして言った。まったく、気取った猫だ。
「これは、必然なのだよ。だいたい、私と君の仲じゃないか」
 あれ? プランクと出会ってから、まだ4時間と32分45秒しかたっていないじゃないか。もし、これでみんな仲良しになれるのだったら、世界中の人みんな仲良しになれるに違いない。嘘だと思うのなら、みんなで実行してみるといい。そうすればボクの気持ちがもっと良く理解されるに違いない。名付けて『4時間と32分45秒仲良し運動』。ただし、語呂の悪さ100%。
 などど、考えていたら脱衣所に着いてしまった。いつの間に階段を下りたのだろう。知っている人がいたら教えてほしいくらいだ。
「さて」
 困ったことに、この服もプランクに着せてもらったものだ。いや、猫がボクに服を着せられるはずがない。訂正、プランクに教えてもらって着たものだ。よって、忘却の激しいボクに取って、正しい脱ぎ方というものを覚えていないのは当然の事に違いない。
「ねえ、プランクどうやって脱ぐの?」
 プランクは、じろりとこっちを睨んで言った。
「まったく、君はなんでも猫に聞かないとできないのか? それぐらい自分で考えた方がいいと思うな」
 うう、猫にそこまで言われたら、人間のボクに立つ瀬がない。よって、早く風呂に入って座るべきだろう。あれ? なんだか、推論がおかしい気がするがまあ、当初の目的が『早く風呂に入る』ことなので、結論が間違っているわけではないだろう。
「おお、きちんとできるではないか」
 とプランクに言われて気が付いた。無意識のうちに、服を脱いでいたらしい。ボクは、人間の潜在能力に驚嘆した。やはり、猫はこんな事はできまい。
 いや待て。服を全部脱いだと言うことは、服を着ていないという事である。証明してもいい。服を全部脱いだと仮定する。かつ、服を着ているとする。すると、これはまだ脱いでいない服が存在するということである。従って、服を全部脱いだことに矛盾する。
 ということは、つまり……。
 取りあえず現実逃避。ボクはあわてて風呂場のドアを開け、『速く風呂へはいる』を実行に移そうとした。『早く風呂に入る』とは微妙に異なるが、まあこの際はどうでもいい。
「ちょっとまて」
 とプランクが言った。
「浴槽にはいる前には身体をしっかりと洗わなくてはいけない」
 なるほど、とボクは納得した。確かに日本的な入浴の観点からすれば、浴槽の中の湯は汚してはいけない。猫とは 言っても、さすがに喋る猫だ。プランクの言うことには一理ある。ん? なんかおかしいぞ。
「プランクっ! 結局入ってきたじゃないか」
 プランクは柔らかい肉球を、しゃがみ込んだボクの脚に置いた。
「些細な問題は気にしないことだ」
 そして、ボクの身体をぺろりとなめた。
「ふああ」
 ボクの身体から力がぬけた。身体が崩れる。
「ちょっとまて、こっちに崩れられると……」
 プランクを押しつぶそうが、押しつぶすまいが制御できない対象に向かって、文句を言われてもどうしょうもない。
「にゃああ」


 ……。つらい。なにがつらいかというと、風呂に入って疲れてしまったのが、大きな原因だ。『4時間と32分45秒仲良し運動』を推進しようとしている一人の人間としては、あまりつらいことを思い出すと、今後の活動に差し障りがある。よって、あえて思い出さないのが、正しい結論だろう。
 ぽん。
「こら、プランクそこは……」
 ふにゃ。
「きゃああ」
 バッシャーン。
 合掌。
 っくう、思い出している。でもあの感覚は、今までに感じたことのない極限の世界だった。まあ、プランクだったらいいか。いくら喋るといっても所詮は猫。あれくらいだったら……。うう、何考えているんだ、ボク。
「それくらいだったら、おやすいご用だ」
 急にプランクがそう言ったので、ボクは驚いた。プランクは、ベッドの上でのびをした。
「そんなことは、初歩の読心術さ。クトスソ君」
 ベッドに座って考え事をしていたボクの膝に、プランクはひょいっと飛び乗った。そして、ボクの胸にぽんっと、手を置こうとした。だが、ボクはそれを予測していた。両の手でプランクの前足を受け止める。プランクは、両前足をボクに握られて情けない格好になる。
 プランクは、ほうっと息をついて言った。
「おお、なかなかやるな」
 ボクはプランクに顔を近づけて言った。
「いつまでも、プランクにやられてばっかりじゃしょうがないからね」
 プランクは、ふむ、という感じの神妙な顔をすると、目をつぶって急にその顔を近づけてきた。
 ちゅ。
 へ? 唇に伝わるこの感触。まあ、プランクだからいいか。じゃなくて……。


 絶対に間違ってるよ。







あとがき

 初めまして、よろしくお願いします。
 文中に「嘘だと思うなら……してみるといい」という記述がありますが、実際にはやる必要はありません(部屋の衣装ダンスを叩いて黒猫が出てきても私は責任を負えません)。
 読んでくださった方及び関係者の皆様ありがとうございます。


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