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「何なんですかねコレは。わかりますか、警部殿?」
 警部と呼ばれた男は渋面のまま何も答えない。ただ、鑑識課の作業の邪魔にならないようにしながら、畳から壁を経て天井まで延びた断面を眺めた。
(軽く5、6メートルはあるな)
「犯人は高校生。被害者はその母親。犯人は母親を斬りつけて逃走。傷害事件としては珍しくはないんですがね」
「得物は日本刀なんだろう?」
「はい。刀身は二尺三寸程で無反りの切り刃造り。特徴は柄から切っ先にかけて刃が青から赤に変色していることだそうです。無銘のくせに国宝に値する業物で、時価数千万の代物……とんでもない凶器ですね」
 警部は目を細めると歯噛みする。
「マスコミが騒ぐ」
「はい。犯人が日本刀をもって逃走している以上、完全に規制することもできないでしょうし」
「だが、…それよりもだ」
 警部に釣られるようにして若い刑事も屋敷に刻まれた傷跡を見た。
 恐ろしくでかい刀傷。
 屋敷を断ち割る間隙。その隙間から2部屋先の座敷が見渡せた。
「これだけは隠さにゃならんぞ……マスコミが何を言い出すか分からん」
「まるで、二次元の世界の出来事のようです。一太刀で屋敷ごと斬った、とか」
「漫画か、何かの話か? …バカバカしい」
 警部は鼻で笑ってみせた。だが、それが表面上でしかないことは年若い刑事にも読み取れた。
 胸のポケットを探り、タバコを一本くわえる。もちろん、現場で吸ったりはしない。
 これが、このベテラン刑事の思考スタイルなのだ。
(現場の状況から、計画犯でないことが分かる……だが、それはオカシイ)
 馬鹿でかい傷跡の表面を触る。粗はなく、むしろスッパリと斧で割られた薪を想像させる。
(ノコやチェーンソーじゃにゃあな。……そして、一朝一夕で両親に知られずにこれを作るのは不可能だ)
 居間で事情聴取を受けている父親を値踏みするように見たあと、警部は手袋を外した。
「外の空気を吸ってくる」
 白く染まった庭に出て今度こそタバコをふかすと大きく息を吐いた。
「…やっかいだ」
 一家そろって狂言芝居をうっているとしか思えない。
 父親はバカみたいに、こう繰り返していた。
『息子が襲いかかってきたんだ! 家内を殺そうとしたんだ!』
 刑事の一人が、部屋を断ち割る傷跡を指摘すると、
『私が部屋に駆けつけたときには、もう在った』
 と証言した。
 警部は、父親の証言に嘘はない、と考える。
 それは、虚偽の証言にしては支離滅裂で感情的過ぎると思ったからだった。単なる、カンだが。
 状況は“衝動的な傷害事件”を示している。だが、現場に残された奇怪に大きい傷跡が不可解だ。あれを作るならば前準備が絶対必要だ。それこそ、工事のように、設計から施工まで細かく。
 衝動的な犯行の痕にアレが在るのはおかしい。

 分からないことだらけだ。
 だが今は、逃げ出した男子高校生を捜索しなければならない。
 少年は興奮状態にあるだろう。しかも、凶器を未だ手にしている。ヘタをすると第二の事件が起こる可能性がある。
「…やっかいだ」
 肺から煙を曇り空へと吐き出す。煙は警部の心情をあらわすかのようにゆっくり拡散した。


桜と風御子の事件簿なぞ如何
第一話
作:sana



 駅前。
 雪をのせた街灯が煌々と輝き、辺りの景色を温かみのあるものにしている。
 駅のホームでは人待ちをする人。帰りの電車を待つ人がまばらに見られた。
 ホームに三車両編成の電車が入ってくる。
 しばらくすると、改札に人が溢れた。
 電灯の灯る構内から星明かりの雪道へ、帰路に着く人々。
 その中に、一組の男女の姿があった。
 男女といっても恋人や夫婦ではなく、年の離れた兄妹に見える。長身の男が抱えているのは紙袋で、どうやら買い物の帰りのようだった。その横で高校生くらいに見える少女が弾むように歩いている。
「はぁあ」
 寒さに身を縮め、女の子が大きく息を吐いた。赤い手袋をつけた両手を口元に当てて暖を取る。
「さーむいなー……ねぇ、お父さん。何か温かいもの食べて帰らない」
 夜風の街中を、そのまま歩いて帰るには少しばかり寒過ぎる。
 時刻も夕食を食べるには遅いくらいの時間だった。
 女の子は隣りを歩いている男を見上げた。細身の男はヒョロっとしてて頼りなく感じる。しかし、彼女は父親が泣き言の類を口にしない意志の強い人間であることを知っている。
「そうだね。駅前のいい店でも知っているのかな、桜さん」
 返答は優しく気遣いの感じられる声で返された。女の子は途端に笑顔になると、
「駅前なら断然『パテラ』よ!」
 元気よく答えた。
 パテラは学校がえりの定番店で、中高生狙いの洒落た店だ。現役高校生の彼女――桜も常連だった。
「ああ、いつも話してくれる喫茶店の?」
「うん。食事するにもいい店。パスタとピザには定評があるよ」
「じゃあ、そこにしようか」
 桜たち親子は笑顔で頷きあうとその場を後にした。

「……ふぅん」
 噴水横のベンチに白いベレー帽を目深に被った少女の姿があった。
 紙の包みを開き、ハンバーガーを口にしながら目線は桜に向けている。
「小さいな…いや、まだ開花していないからか……」
 寒空の中、ベンチで食事を摂る姿は人々の目にやや奇異に映り、注目を集めている。
 少女はそれに気づいたのか軽やかに立ち上がると何処かへと駆け去ってしまった。
 人々は興味を失いその場を離れる。
 しかし、遠ざかる少女の姿は、人々の頭の片隅に残った。
 長く鮮やかな薄緑色の髪を翻す少女の姿が。

「ああー! わたしの鞄どこいったのー!」
 駅から徒歩で10分ほど離れた住宅街に桜の家族の住居があった。表札には皆川とある。しっかりとした石塀に囲まれた一軒家は、都心でないとはいえ裕福な家庭のものだ。
「鞄よーどこだーい!」
 立派な住居から響く切実だが、間の抜けた声。皆川家の朝の名物としてご近所にも知れ渡っている。
 桜は物をなくす天才的な素質を持っている。というより、物を置いた場所をしょっちゅう忘れる。
「たぶん、リビングのソファーの下だと思うよ」
 走り回る娘を見かねて父の彰人が声をかけた。
「あ、あった!」
 朝食の皿を手に持ちながら走り回っていた桜は、すでに制服に着替えている。皿の残りはベーコンハムを残すのみだった。
「はい牛乳」
 玄関で一気のみを敢行すると、皿を彰人に渡して、そのまま駆け出て行った。
「いってきまーす」
 外から元気のいい声が聞こえた。
「いってらっしゃい」
 この親も慣れたもので手際よく騒動の跡を片づける。
 画家である彰人は半分、主夫として仕事している。それゆえ、生活能力が高い。
 食器を片付け皿洗いを済ませてタオルで手を拭いていると、
「…ただいまー」
 玄関から疲れ果てた声が聞こえた。
「おかえりなさい。夜勤、ご苦労様」
 エプロンを下げた主夫が迎えに出ると、一家の大黒柱は白衣姿で仰向けに倒れていた。この女性こそ桜の母親、楓であった。
「彰人ー、だっこしてー」
「だめです」
「いいじゃない。急患が入って大変だったのよー。なぐさめてー」
 彰人は彼女の目のクマを見て取ると、やれやれと首を振って、
「仕方ないですね」
 と彼女を持ち上げようとし、よろけた。
「お、おも……くないです、ハイ」
 売れない画家の彼は、女医の妻に頭が上がらなかった。見事に尻にしかれている。
「ソファーで良かったですか」
 すでに寝る気満々の楓に毛布をかけながら訊いた。
「ん、ありがと。…お休みのキス」
「はいはい」
 軽く口づけると彰人は楓の前髪を横に流しているヘアピンを外し、テーブルの上に置いた。キャリアウーマンの面影が薄れる。ソファーに横たわる姿は、低い身長も相まって子どものようだ。
「さて、掃除機をかけられなくなりましたね」
 朝のニュース番組はどこか見覚えのある景色を写していたが、すぐに消されてしまい。当の彰人は二階の自室へ行ってしまった。

 白彩高校、二年三組。
 そこでは、昼休みの喧騒の中、各々が自由に場所取りをし、昼食を取りながら談笑し合っていた。
「ねえ、知ってる?」
「んにゃ。あにぐぅわ」
 おかしな声(?)で返事を返したのは桜だ。口に詰まったから揚げが発声を阻害している。
 桜に話しかけた少女は、少し広めのおでこに青筋を立てた。そして、桜のアゴを掴むと無理やり咀嚼させる。
「ほら、しっかりかんで。飲みこむ。そしたら話を聞く!」
「卵焼き食べる?(もぐもぐ)」
「――って、箸を止めなさい!」
「痛いっ! 殴ることないじゃない!」
 怒りもあらわに桜の頭を叩いたのは見吉玉瀬(みよしたませ)。
 見吉と玉瀬のどっちが苗字か分かりづらいが、玉瀬が名前で、クラスメイトからタマの愛称で呼ばれている。ついでに言えば、性別も分かりづらい名前だが、女性である。
 前髪を抑えた赤いヘアバンドと縁の厚いメガネが特徴的な子だ。
 頭をさすりながら涙目になっている桜を宥めすかして、玉瀬は話を戻した。
「今朝のニュース、知ってる?」
「ニュース……ってぇーと、んー、何?」
 訊ねながら箸を仕舞い、巾着袋に納めた。すでに完食したらしい。机を囲んでいる四人の中で、一番乗りだ。
「速いですわね……もう少し、噛んで食べた方が…」
 ロングヘアを紫のリボンで束ねた、お嬢様風の女の子――高菜真希が言った。その言葉は揶揄でなく、賛辞と心配を含んでいる。
 そして、もう一人が興味無さそうに言う。
「皆川は、目の前に餌があれば、一も二もなく飛びつくからな……無理さ」
 これは少し目元のキツイ、言いかえれば不良っぽい子の言葉だった。彼女は相場木月(あいばきづき)。茶に染めた髪は、進学校で厳しい校風のココではめずらしい。
「皆して聞いてないでしょ。とっときの新情報もあるのに、聞かないの?」
 イライラした玉瀬が激しく机を叩く。そのため、他の三人に限らず教室中が注目した。
 クラスメイトの視線は興味と呆れがブレンドされている。皆の視線は「また始まったか」と物語っていた。
 玉瀬はどこからか情報を集めてくると、それを公開せずにはいられない、という特殊な性癖を持っている。そして、目立ちたがり屋のサガなのか、彼女は演説まがいのパフォーマンスをするのだ。
 玉瀬――別名、歩く宣伝部隊(一人だけど)は得意げに首を回すと高らかに宣言した。

「今日は集団下校になるわ!」

「何でだよ…小学生じゃねえんだから」
 完全に呆れた顔で木月が呟いた。静まった教室によく響く。
「本当よ! 今、職員会議が開かれてるんだから」
「だから、何でよ?」
「もしかして……今朝の傷害事件の犯人がうろついているからではありませんか?」
「それよ!」
 玉瀬が指さしたために教室中の視線を受けて、真希が顔を赤くして伏せる。
「今朝の傷害事件って、なに?」
 クラスのほとんどの気持ちを代弁して、桜が言った。
「それは、ね――」

「知っているものもいるかもしれんが、今朝報道されたように駅周辺で数人の男女が斬られるという傷害事件があった。そのため、犯人が捕まるなり、落ち着くまでは課外活動は禁止とし、定時にできるだけ知り合いと一緒に帰るようにせよと理事長命令が出た……というわけだから気をつけるように!」
 ホームルームの時間にさっそく連絡およびプリント配布が行われた。ちなみに、プリントには標語のように「怪しいヤツから即逃げろ!!」とでっかく書かれている。
「いいのかな、コレ」
 桜は怪しげなプリントをひらひらさせながら呟いてみる。
(どう考えても内容に問題あると思う)
「ふふふ、どうだ! 恐れ入ったかのう、桜ちゃん」
「ねぇ、タマっち」
 桜は目の前に現れた友人に、事も無げに聞く。
「どこでその話、聞いたの?」
 情報が速いと噂の教室瓦版。情報元は謎とされている。
「職員室」
 直接、教員の誰かから聞いたのだろう。納得できる話だ。
「なんだ…」
「――に仕掛けた盗聴器」
「それはヤバイでしょ!」
 タマはそれっぽい小型機械を取り出してニイッと笑った。
「危ないヤツだな……見吉、いつか捕まるぞ」
 木月と真希も席に集まる。二人とも鞄を手に下げていた。
(集団下校か…なんかイイね)
「それじゃ、帰ろ! タマは盗聴器を撤収してきなさい」
「ええ〜」
 本気で不満そうな声だ。
「また、機会がありますわ」
 お嬢様は犯罪を奨励しているらしい。桜は、家の躾はどうなってるんだろう、と思った。
「あたしは何でおまえらとつるんでんだろ」と、木月が言う。
「わたしも今、そんな感じ」


 楽しい時間はあっという間に過ぎるもの。
 しゃべりながらの帰り道は楽しかったが、家を素通りするわけにはいかず、桜が一抜けすることになった。
「またねー」
 手を振る桜に、三者三様の言葉が返される。
「また明日ー」「じゃあな」「ごきげんよう」

 その声に振り向いた少女がいた。
 少女は紺のジーパンに黒のハイネックセーターを着ていた。頭には大きめの白いベレー帽を目深に被っている。
 彼女の視線の先はこちらに歩いてくる三人に向けられている。三人も彼女に気づいたらしく、怪訝な表情を向けた。
「どうかした?」
 真っ先に近づいたのはタマだった。好奇心に満ちた目で、小柄な少女と目線を合わせようと少しだけ屈みこむ。タマは身長160センチメートル未満であるから、少女は140センチくらいであろう。
 タマの視線に気づいたのか、顔を隠すように少女はベレー帽を引っ張る。
「おい、どうしたんだよ」
「見吉さん?」
 少女は三人から逃げるように走り出した。だが、すぐに振り向くと、唇を僅かに動かす。

「…あの子に気をかけて」

 スッと耳から胸に入り込む。
 真摯で願いの篭められた旋律は、その場の全員が慄然とするのに十分な響きを持っていた。
「…綺麗な声…」
 真希が感嘆から漏らした言葉だった。
 心地よい響きを持つ、テナーを少し高めにした音。上等な楽器の音色は魔力を持っていると言われることがあるが――まさに、ソレだった。言うなれば、魔力を持つ声。
 話し掛けた当人のタマは鼓動の高鳴りを覚え、同時にこの子をよく知りたいという欲情にも似た気持ちを抱いた。
「君の、名前を教えて、くれないかな」
 下手をすればナンパのようなセリフだった。
 タマは興奮で目の輝きを増している。一早く気づいた木月が止めようと、声をかけるのと……少女が走り出すのは同時だった。
「おい――」
 三人は呆然と見送る。彼女の帽子から薄緑の髪がこぼれるのを目にした。
「あれは、誰だ?」
 木月の呟きは虚空に消えた。
 三人はしばらく、流れてしまった星を惜しむかのように立ち尽くした。


 夜も更けた、夕食後の事。
 ムスッとした顔で愚痴りながら、桜は雪道を闊歩していた。すでに辺りは暗く、高校生が出歩く時間ではない。
「信じられないことするなー」
 彼女は夜道を散歩しているわけでなく、不承不承おつかいに出ているのだ。
「自分のコート忘れるかー、普通ー」
 ということで、母親の勤め先の市営病院まで行かねばならないのだ。タクシーで帰ってきた楓は白衣のまま、着替えて来なかったらしい。それほど疲れていたのか。
 桜は、両親は事件の事を知らないんだろうな、と思った。知っていたなら、幾らなんでもコートぐらいで娘を夜中に放り出したりしないだろう。
「ったくもー。お土産なかったら放りだすとこだよ」
 しっかり報酬は貰うらしい。桜の財布に千円札が三枚追加されていた。帰りにケーキを買うつもりのようだ。
「それにしても、ひとけがないなー。商店街もおさき真っ暗だよー」
 何気に、商店街の人が怒り出しそうなことを平気で口にしている。
 だが、普段の桜ならそんなこと口にしない。
 桜の表情は次第にこわばったものへと変わり始める。
「赤字、赤字って佐藤さんぼやいてたっけ」
「駅前なのにねー」
「静かねー」
「……」
 桜は闇に沈む街並みに不気味なものを感じた。いつもならまだ、街が静まるには早いのだ。しかし、今は残忍な通り魔が出現する地帯、ゆえに、誰も近寄らず店も早く締まる。
 闇夜の不気味さに良くないものを感じ、明るい気持ちがどこかにいってしまった。
 できるだけ静かに早足で歩く。
 遠くで聞こえるサイレンの音が心強かったが、すぐに遠ざかってしまった。

(…見られてる!)
 高架橋を通って駅を抜けるとすぐに視線を感じた。これは、自意識過剰などではないはずだ。
 背筋にゾクリとくる悪寒。
 背後に感じるイヤな気配。
 ――危険!!
 背筋が泡立つ感覚は――昔、歩道に突っ込んできたトラックから感じたものに似ていた。
 第六感が今、全力で警鐘を鳴らしている。
 走り出したい! ……けど、追って来たらどうしよう……
 なかば、自分の背後を尾行しているのは、例の犯人だと確信していた。
 どっと噴出した汗が酷く不快だった。
(なんで、事件現場の近くなのに警察がいないの!)
 見渡す限り無人。気配すらない。――いや、後ろの禍禍しい気配しか感じ取れない。

 桜の背後では気配を絶って追尾する影が一つ。少年の姿だ。その手には抜き身の刀。
 刃はおどろおどろとギラついていた。
 少年の口元がクッと吊りあがり、異様な三日月を作る。

 空を見上げれば気づいたかもしれない。星空がフィルターをかけたように灰色に色褪せていることに。
 刀を中心に半径100mの地域が翳る。この現象を識者は【分界】と呼ぶ。
 桜は術中にはまり、別世界に迷いこんだに等しい。
 実世界では桜のすぐ横に警官が二人立っているのだ。そして、お互いに気づかず通り過ぎる。
 追跡者にとってこれほど愉快なことはない。
 助けを求める者は無駄な努力を続け、最後には自分に向き合い絶望のさなか死んでいくのだ。長い髪をかきあげクツクツと笑う。気分がいいのだ。

 そうして、ついに目的地の病院に着いた。
 少年は病院の受付で立ち尽くす桜の背中を目指し疾駆する。構えた日本刀は刃紋を波立たせて蒸気のようなものを漂わせていた。

「どうして誰もいないのよ!!」
 病院の緊急受付に誰もいないはずがない。ここにきて桜は、自分が尋常でない世界に迷いこんだことに気づいた。
 唐突に背後の気配が急速に迫る。
(逃げなきゃ!)
 四肢に力を入れて思いっきり横這いに跳んだ。

 グオンッ!

 凄まじい音を立てて刀が受付ごと床を縦に割る。どのような圧力をかければこのようなことができるのか。その威力は人知を超えている。
 断ち割られた床のひびが、横這いになる桜の足元まで届いた。
「なんて…!?」
 なんて威力、と最後まで言うことができなかった。
 別に追撃があったわけではない。立ち上がり睨みつけた追跡者の姿に驚いたのだ。
 一つに、それは知っている服装だったこと。そして、追跡者の年齢だった。
 あきらかに若い。
 その服装は見覚えのある学校の男子制服だった。
 彼は、その若年にも関わらず、怖気の走るほどおぞましい笑みを浮かべ、近寄ってくる。

「大したねえちゃんだ。ぼくの必殺技を避けるなんて」

 桜はいつでも動けるように膝を曲げながら後退する。汗で濡れた手を握り締めて。
 
「な、なんで…」
「なんで?」
「なんでこんなこと!」

 悲鳴に近い叫びは少年を素通りした。

「楽しいからさ――下らないもの、全部壊せるからだよ。ねぇ、おねえちゃんは自分に生きる価値があると思ってる?」
「な、によ」
「ぼくが殺してあげるよ。どう? 綺麗に散らせてあげる」
「ふざけないでよ!」

 クツクツと笑う少年に背を向けて、桜は走り出した。

「いいよ……狩りもやってみたかったんだ。どうせ、逃げられない」

 少年は靴音をわざとらしく鳴らせてゆっくりと歩く。


(…どうしたらいいの、考えるのよ…)
 桜は最上階まで一気に駆け上りできるだけ離れようと廊下を駆ける。やはり、どこにも人の姿は無く、行けども行けども無人の空間が続いた。
(助けは来ない……逃げるにはどうしたら……)
 あの少年の人を見下し、嘲った瞳が――笑みが脳裏に蘇える。
 後ろから追ってくる気配は無い。なんとなく分かる。アイツはまだ、下にいる。
 身体を休めて頭を働かせないといけない。帯刀した相手と正面からぶつかって勝てるわけが無いんだから。

 桜は極度の疲労のため、欲求に従って身体を休めることにした。病室のベッドに心惹かれるものがあったが、逃げ出しやすいように地べたに座った。
 そして、少年との距離を意識しながらブツブツと呟き、作戦を練る。その様子に先ほどまでの怯えは一切無い。
 桜は、この異常事態に冷静でいられる自分を「異常なのかも」と、ふと思った。

 突然、桜の身体がビクリと反応する。一瞬、すぐ近くに少年がいたような気がしたのだ。まだまだ下の階に居るはずなのに。
 桜は慌てて立ち上がると慎重に感覚を尖らせる。

(…下に、居る)

 10メートルは下に居るはずだ。少年の気配は、遠く感じる。
 すると、微かな揺れと音響の変化に気づく。間違いなく少年が“何か”しているのだ。
「なに…?」
 やはり、揺れている。
「!? え?」
 来る! と思ったときには遅かった。向かいの窓ガラスは断ち割られ、足元の床には一筋の線が走った。
 そして、床に滴る血液。

 ――左手の手のひらの肉がパックリ裂けている。左手の中央部まで赤い線が達した。

「あぐぅ!! ……クッ!」
 膝が折れ、見たことがないほど大きな血溜りがリノリウムの床にできた。
 左手を失うよりはるかにマシだが、左手の感覚がまるでない。
(床ごと斬ったの!? ううっ…早く止血しないと…!)
 桜は右手で左手首の上を思いっきり握り締めた。




 桜のいる病棟の階下では長髪の少年がおもしろそうに笑い声を上げていた。
 少年が持つには異様な日本刀が唸りをあげる。
 ウォン、ウォン
「あらぁ、外しちゃった」
 さして、残念そうでも無く、制服についたほこりを払う。
 肩を刀の腹でポンポンと叩く。少年は未だ唸り続ける刀をまるで野球のバットのように扱った。危険なことに刃は自らの首筋の方向を向いている。
「で、だれなの? アンタは」
 少年は廊下の突き当たりに向けて問う。電灯のついていないその一角は闇を纏うように淀んでいた。
 しかし、闇は少しずつ人影を浮き上がらせる。それは少年よりもさらに小さい少女の姿だった。白いベレー帽に隠された蒼い双眸が鋭く少年を睨みつける。
「その刀はどうしたんだ?」
 少女は質問で返した。その上等な声音は、凛として響く。
 驚いた表情を浮かべた少年は、いやらしい笑みを浮かべて少女を注視する。
「…貰い物だよ。君の名前は?」
 ヘラヘラ笑いながら訊ねた。

「……緋色。新しい名前、だ」
「緋色、か」
 少女は名前を告げるときに僅かに逡巡したことに、少年は気づかなかった。
 緋色は少年の十メートル手前で止まると帽子に手をかけた。顔を隠すものが無くなると同時に帽子に詰められていた薄緑色の髪が背に流れる。
 少女の造形は寸分の狂いも無く整い、惹きつけて止まない魔力をもっていた。
「…あっ…」
 さしもの少年も一瞬表情から狂気を失う。が、持ち直すと笑みを深くし訊ねる。
「君は女神なのかな。僕を迎えに来てくれたの?」
 おどけるように訊ねる。緋色は手を正面にかざすと、こう言った。

「オレは見送りに来ただけだ。迷わず逝けるようにな」

 瞬間、通路を見えぬ衝撃波が埋め尽くした。


 …ズゥゥン
 一際大きな揺れに桜は大きく姿勢を崩した。左手は怪我をし、右手はしっかり左手首を握っていたので、床に手をつけられず、滑り込むように体を倒す。
「な、なに?」
 事態が飲み込めず、辺りを見回す。だが、おかしな所はない。自分が襲撃にあった訳ではないらしい。
 不思議と、嫌な気配が消えているように感じた。
 桜は誰もいない病院を歩いて周る。
 今なら下の階に降りても大丈夫のような気がした。
 だから、慎重に下の様子を窺いながら階段を降りると、小さな少女の姿を目に捉えた。彼女は危なげない足取りで刻々と自分に近づいてくる。
「あなたは?」
 ふと、危機感もなく口にしていた。この子も襲いかかって来るかもしれないのに。
「気にするな。助けにきた」
 助けに? 私を? 今、この子はそう言ったの?
 桜が呆然としていると左手に痛みが走った。少女が桜の手を取り、じっと傷口を見つめている。
「痛そうだな……大丈夫か?」
「痛いわよ。全然、大丈夫じゃない。…なんとかして」
 桜は自分で言っておきながら驚いた。両親に甘えるときのような態度を取ってしまった。
 少女の落ち着き払った態度や、凛とした口調に対して、何か感じるものがあったのだろうか。

「仕方ないな。……ヒミツだぞ?」
 イタズラっぽく口元に手を当て、少女は囁いた。
 綺麗に整った顔が笑みを浮かべるのを見て、桜は目を離せなかった。


 すると、いつの間にか血が止まっていて、心なしか傷口が狭まっていっているように感じた。
 なぜか手の周りが温かい。
 そこで、少女の小さな手が傷口を押さえていることに、ようやく気づいた。
「どうやったの?」
「ヒミツ――さっ、終わりだ」
 傷口を見ると、本当に治っている。傷痕すら残っていなかった。ただ、ジンジンと痛みはしたが。
「神経の方はもう少し時間がかかる。でも、一日経てば大丈夫だ。心配しなくていい」
 しばらく、お互いに言葉が見つからず黙っていたが、病院に人の気配がするようになると沈黙は破られた。
「さっ、失った血液は戻らないからな。今日は大人しく帰りな。もう、夜中に出歩くんじゃないぞ。まだ、犯人は捕まってないんだから」
 まるで、この小さな少女が、近所のお兄さんにでもなったかのように話すので、桜は笑ってしまう。
「な、なんだよ」
「ダメよ。ダメダメ。私のお礼が済んでないし。私たち自己紹介すらしてないじゃない。私は皆川桜…白彩高校の二年生よ」
 朗らかに笑い、ハンカチで血のりを拭いた右手を差し出す。
 少女は「仕方ない」と、同じく右手を出し、しっかり桜の手を握った。
「緋色(ひいろ)。オレの……名前だ。ところで――」
 申し訳無さそうに頭を掻いて、何か言おうとしたとき――。

 クゥ――キュルルル

 どこかが可愛く鳴ったのだった。
 桜は肘で少女を軽くこずくと、
「…続きは?」
 と言った。
「飯をおごってくれないかな? …お金、持ってないんだ」
 照れて、横を向いて話す緋色。その仕草に桜は内心で「かわいいっ!!」と思った。
「じゃあ、我が家に小さな友人をご招待、ね」
 言葉と同時に緋色を抱き寄せるとほお擦りするのだった。
「やわらかーーいっ!」
 緋色はちょっと驚いたようだったが嫌そうではなかった。


[第一話 了]




 この作品はフィクションです。当たり前ですね(w

 邪道ですが、簡易登場人物説明です。
<登場人物>
 皆川 桜(みながわさくら):白彩高校二年生。不思議な少女緋色と知り合う。主人公A。
 緋色(ひいろ):薄緑の髪に蒼い瞳の少女。141cmのミニサイズ。抱き心地がいい(必須。主人公B。
 皆川 彰人(みながわあきひと):桜の父親。画家で主夫。妻に頭があがらない。
 皆川 楓(みながわかえで):桜の母親。凄腕の女医。実は153cmのセミミニサイズ。
 見吉 玉瀬(みよしたませ):桜のクラスメイト。情報瓦版。盗聴器保持。危ない人筆頭。
 高菜 真希(たかなまき):桜のクラスメイト。お嬢様。毒舌。でも、悪気はない(らしい)。
 相場 木月(あいばきづき):桜のクラスメイト。不良っぽいが成績優秀。ぶっきらぼう。
 警部:どうしても作者が出したかった人。次話で名字が!?
 若い刑事:同じく! 次話で! 実はこいつらサブレギュラー(?)


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