戻る


イアン・ウィルコット博士

Written by fun9


 古来より女性の乳房は美しさのシンボルだった。

 例えば紀元前2000年ごろにエーゲ海に栄えたクレタ文明では、女性はコーセレットと呼ばれる袖の短い上着を着用した。このコーセレットには胸部を覆う布地はなく、乳房が露出する構造になっていたが、クレタでは女性が乳房を露出することはタブーとされておらず、むしろ、健康的な美しさを示す姿として賞賛されていた。

 古代ギリシャでは盛んに美人コンテストが行われていた。オリンピックが鍛えた技をギリシャの神々に奉納する目的で行われたと同様に、美人コンテストは神々が人間に与えた【美】を神々に披露する意味を帯びていた。当然、胸の大きさも審査の重要な対象となった。

 また、女性の乳房は豊穣と繁栄のシンボルでもあった。

 アフリカ・プリミティブアート(原初的美術)の代表格であるマコンデ美術には豊穣の女神像として乳房の大きな木彫りの女性像が多数制作されている。そもそも乳房の大きな女性の姿に豊穣や繁栄の象徴を込めたのアフリカだけに限らない。乳房の大きな女神をかたどった土器は、広くユーラシアやアメリカ大陸でも数多く出土している。

 ちなみに、女性が乳房を露出するのがタブーとされだしたのは人類の歴史からみればごく最近の十五世紀ごろからで、例えば、キリスト教が広まる以前のヨーロッパ世界では、女性の間で乳房を露出するファッションがたびたび流行した。


 (嗚呼、大きいことは美しきかな――)


 このように、女性の乳房は美と豊穣と繁栄のシンボルとして全ての人類に崇拝されてきたのである。
 しかし、何事も限度というものがあるのも事実。過ぎたるは及ばざるが如し、である。



 例えば―――



「レン、晩御飯だから降りて来なさぁ〜い」

 キッチンから母の呼ぶ声が聞こえた。その時、小鳥遊蓮(たかなし・れん)は二階の自室でゲーム雑誌【電撃Play Station】の攻略特集記事を読んでいた。雑誌の攻略記事は、ウェブ上で一般ユーザーが公開している攻略サイトに比べて攻略速度は非常に遅いのだが、しかし、豊富な写真資料の添えられた攻略記事は、蓮のような(ゲームは好きなんだけど)へたれゲーマーにとっては大変重宝する。
 母の声は蓮の耳に確かに届いていた。しかし、ふむふむ。へぇ〜。こんな行き方があったんだぁ。そーなんだ。と、蓮のページを繰る手は止まらない。人間、夢中になると、止めなければいけないと分かっていても、なかなか止められないものである。すると、

「早く降りてこないと、ドラクエのセーブデータ全部消しちゃうよ〜」

 ひぃぃぃ。
 蓮は母の言葉に引きつった悲鳴を上げると、雑誌を放り出して自室を飛び出した。蓮は母である小鳥遊七夏(たかなし・ななか)を恐れていた。七夏は言った事は本当に実行する人だからだ。だから、セーブデータを消すと言ったら本当に消しかねない(というか絶対消す)のである。

 パタパタと足音を立てて階段を駆け下りる蓮。その度に大きな胸がぷるん、ぷるるん、と揺れた。実に立派な胸である。身長155センチ、B89(Hカップ!)・W54・H81の見事なプロポーションである。しかも二重まぶたに大きな瞳、小さく形の良い唇、サラサラの黒髪、かなりの美少女で、東京は秋葉原の方言で云うところの【妹顔】(いもうとがお)である。しかも、蓮はまだ小学五年生だ。これだけでも十分驚嘆に値するのだが、驚嘆に値する事実はもう一つある。実は、蓮は半年前までは男の子だったのだ。

 蓮が男の子から女の子になったのは半年前の十一月の末、【突発性性転換症】を発症してしまったのだ。

 この【突発性性転換症】は、【TS病】や【クマノミ病】という名称で一般に知られている。発症するのは十代から二十代の男性のみで、発症する確立は三十万人から五十万人に一人といわれている。発症の原因および治療法は今のところ全く確立されていない。しかし、放っておいたところで男が女に変わるだけで命に別状はないので、【突発性性転換症】を研究しようとする者はほとんどいないのが現状である。

 勿論、女の子になった直後から蓮は巨乳だった訳ではない。最初は二次成長がはじまったばかりの頃に見られるような微かに膨らみかけた微乳であったが、それがわずか半年あまりでB89のHカップにまで急成長してしまったのだ。

 蓮はもうすぐ一階というところで階段を一段とばして二段目から跳躍、着地した。その瞬間、背中でぷちん、と音が鳴った。あっ!しまった〜。蓮は心の中で舌打ちした。着地の衝撃で着けていたブラジャーのホックが壊れてしまったのだ。ずしっと肩が重くなった。

「う゛っ」

 思わず蓮の口から小さく呻き声が漏れた。

 胸が大きいことを羨ましく思う女性は少なくないこととは思うが、胸が大きいと胸の重みでブラジャーのホックがよく壊れるし、ブラジャーを選ぼうにも種類が少なく、気に入ったものが選べないという不便がある。大きいとそれはそれで苦労が多いのだ。

 蓮は上着を着たままで器用に壊れたブラジャーを外すと襟から抜き取り、リヴィングへと向かった。リヴィングでは姉の小鳥遊結衣(たかなし・ゆい)がソファの上でファッション雑誌【an.an.】を見ながら何かの体操をしていた。蓮は横目で姉の様子を窺いながらリヴィングを通り過ぎ、母のいるキッチンへと入った。

「母さん。ブラのホックが壊れちゃった。どうしよう?」
「また壊れたの?」

 母、七夏は夕食の用意をする手を止め、蓮の方を振り返った。さすがに美少女の母親だけあって、七夏もかなりの美人だった。しかも、身長166センチ、B94・W60・H84のこれまた見事なプロポーションで、二人の娘(うち一人はその時息子だった)を母乳で育てたにもかかわらず、型崩れしていない美しいGカップの乳房を未だに保っている。まったく、揃って巨乳の母娘である。蓮は壊れたブラジャーを母に差し出した。

「ふうん。このブラはもう駄目だね」

 七夏はブラを一見すると言った。ホックの鈎状になった金属具が完全に折れてしまっていた。確かにもう使い物にならない。

「レン、あなた最近、また胸が大きくなったって言ってたでしょ。身体にぴったり合ってないブラはすぐ壊れちゃうから使っちゃダメ。お金出してあげるから、明日、新しいのを二・三枚買ってきなさい」
「えぇ〜。また買いに行かなきゃいけないの〜?」
「仕方ないでしょ。胸が大きいんだから。それにしても、こんなに胸が育つなんてねぇ。レンは私に似たんだね」
「はぁ。もうヤダよぉ〜」

 その時である。

「レン、それはアタシへの当てつけか!?」

 蓮の背後から不意に声がした。咄嗟に振り返る蓮、その直後、蓮の額が、ばっしぃぃん、と小気味よい音を立てて鳴った。いつのまにか蓮の背後に姉の結衣が歩み寄り、振り向きざまに丸めて固めた雑誌で蓮の額を激しく打ったのである。手で額を押さえてしゃがみ込む蓮。

「いったーい。何すんだよお姉ちゃん!」
「何すんだじゃない。それはアタシへの当て付けか?って聞いてんだよ!」

 丸めた雑誌を握り締めた右手がぶるぶると震えていた。結衣が怒るのも無理はない。蓮の姉である結衣は高校一年になった今でもAカップで、巨乳家系に生まれながらちっとも大きくならない胸にコンプレクスを感じているのである。しかも、先程リヴィングにあるソファの上でしていた体操は、雑誌【an.an.】の真ん中あたりに二色刷りで掲載されている『ふっくらバスト体操 これでアナタも2サイズUP!』という(実に胡散臭い)体操だったからだ。しかし、胡散臭かろうと試さずにはいられない結衣の心情を推し量れば同情を禁じ得ない。

「ちょっと自分の方がアタシより早く胸が大きくなったからって、調子に乗んなよっ!」
「調子になんか乗ってないよ。だいたいボクの胸が大きくなるのと、お姉ちゃんの胸が相変わらず大きくならないのは関係ないだろ?」
「こんのぉぉぉお。小さいって言ったなぁぁぁあ!!」
「小さいなんて言ってないって。大きくならないって言っただけだよ!」
「言ったも同然じゃないかぁ!!」

 結衣は今にも掴みかかりそうな勢いである。しかし、別に悪くもないのに叩かれた蓮が納得出来る筈もない。

「言いがかりはやめてよね。だいたい胸が小さいことのどこに不満なわけぇ!?」
「不満がない訳ないでしょ。不満ありまくりよ!!」
「小さくたっていいじゃん。小さい胸ならうつ伏せに寝ても苦しくならないから楽じゃん!」
「そんなのちっとも嬉しくない。だいたいあんたにアタシの気持ちが分かる訳ないでしょ!!」
「あー、もちろん分かんないよ!!」

 うぬぬぬ〜。ぐぬぬぬ〜。と激しく睨み合う蓮と結衣。二人の目からは無色透明なレーザー光線が照射されてぶつかり合い、空中で火花を散らしている。状況はもはや一触即発。

 と、その時、

「二人ともやめんかゴルァ!!」

 睨み合いを続けていた姉妹の頭上に、雷鳴のごとき怒声が降り注いだ。ひぃぃ。と肩をすくめる二人。一触即発の均衡を破ったのは母、七夏だった。

「レン、ちょっと絡まれたからって、逆に相手を挑発するようなことを言ってどうするの!」
「でも、お姉ちゃんが……」
「デモもバリケードもありません。それからユイ、あなたの気持ちも分かるけど、もう少し冷静になりなさい!」
「だって、レンの奴、いちいちアタシの気に障るようなこと言うんだもん」
「レンは別に悪気があって言ってる訳じゃないんだから許してあげなさい。それに、あなただって私の娘なんだから、今にきっと胸が大きくなるよ」
「母さん、それホント?」
「ええ」
「ホントに大きくなる?」
「……た、たぶんね」

 そうは言ったものの母親である七夏自身、自分の発言に対して半信半疑だった。娘の結衣は、まぁ、美人と評しても間違いではない容姿だが、どちらかというと父親の影響が強いのか、見た目は少女漫画に登場する爽やか系美少年のようだ。もし結衣が女子高の演劇部に所属していたら、さぞかし(女子に)モテたんだろうなぁ。と、七夏は思った。だが、残念ながら結衣の通う高校は共学でクラブ活動は弓道部である。

「ふ〜ん。たぶん、ねぇ……」
「き、きっと大きくなるから、ネッ!」

 母を不信の目で見つめる結衣。結衣に見つめられて七夏の内心は冷や汗ダラダラである。

「大丈夫だって。私だってあなたと同じ年だった頃は、まだBカップだったんだよ」
「そ、そうなの?」

 嘘である。娘をなだめ落ち着かせるため、咄嗟に口から出たでまかせだった。本当は、七夏は蓮をも上回る程の巨乳少女で、高校生の時点で七夏の胸は驚異のI カップにまで成長していた。

「じゃあアタシにもまだチャンスはあるってことだよね!?」
「え、ええ。……だからユイも諦めないで頑張りなさい」
「うん。アタシ頑張るよ!」

 母の話を聞いた結衣の心に希望が沸いてきた。結衣は瞳を星のようにキラキラ輝かせた。そんな娘の姿を見ながら、ちょーっと軽率なこと言っちゃったかなぁ〜。と、母は思った。ちょっぴり良心が痛んだ。



 さて、区役所に勤める父、小鳥遊博史(たかなし・ひろし)が帰宅したところで家族揃っての夕食が始まった。

 楽しい団欒の一時である……はずが、食卓を囲む空気は異様に重い。特に博史と向かい合う席に座る娘たちの雰囲気は険悪だ。テレビから流れるバラエティー番組の笑い声が白々しく響いた。博史は隣の席に座る妻、七夏にそっと尋ねてみた。

「なぁ、何があったの?」
「ちょっとね。またあの二人がケンカしたの」
「そう。…分かった」

 この短い会話だけで、博史はおおよそのことを理解した。

 やれやれ。
 博史は心の中で嘆息した。まったく、やれやれである。小鳥遊家の家族構成は、以前は父と母、娘と息子が一人ずつの計四人だったが、蓮が【突発性性転換症】で女の子になってからは、小鳥遊家で男は父の博史ただ一人である。美人の妻に可愛い娘が二人。これを【プチ・ハーレム】状態と評することは不可能ではないが、実情は【女の帝国】または【大奥おんな武者】あるいは【真・女三国無双】はたまた【女ドラクエ】ひょっとしたら【女スーパーロボット対戦α】といった有様で、まぁ、要するに小鳥遊家で唯一の男である博史は何だか落ち着かないのである。ちなみに、現在の博史の心情を的確に表現する言葉は【男はつらいよ】である。

 博史は横目で蓮と結衣の様子を窺った。さすがについ先程まで言い争っていただけに二人とも気まずいらしい。視線を合わせないよう顔はテレビの画面に向けたままで、言葉を発することもない。二人の間にはビミョーな殺気が漂っていた。

 テレビ画面の中ではミスターマリックによる超魔術が繰り広げられていた。マリックがビキニ姿のアシスタントの女性をステージの中央に誘導した。そして女性から少し離れると、マリックは女性に向かって手をかざし念力を送り始めた。すると、どうだろう。女性の胸がみるみる膨らみ始めたではないか! 女性の胸はわずかの時間でCカップからHカップへと急成長した。観客席からどよめきと拍手が巻き起こった。マリックは念力の送信を一旦中断すると観客が静まるのを待った。しばらくして観客が静まると、マリックは再び女性に向けて念力を送り始めた。すると、今度はHカップだった胸がみるみる縮んで元のCカップへと戻ってしまった。まさに超魔術だった。マリックとアシスタントの女性は割れんばかりの拍手を浴びながら舞台の袖へと消えていった。

 テレビの画面を注視していた蓮と結衣は、はぁぁ、と溜息を漏らすと同時につぶやいた。

「いいなぁ〜(×2)」

 この場合、結衣の言う『いいなぁ〜』の意味は、胸が大きくなって『いいなぁ〜』であり、蓮の言う『いいなぁ〜』の意味は、胸が小さくなって『いいなぁ〜』である。瞬間、蓮と結衣は互いの顔を振り返った。二人の視線が重なる。

 ぷちん。

 爆弾の信管の作動する音が聞こえた。いや、結衣の理性の糸が切れた音だったかもしれない。

「殺ッス!!」

 止める間もない。結衣は怒り狂った猛獣の素早さで蓮に飛びかかった。
 蓮の悲鳴がこだました。

「きゃぁぁぁあああぁぁぁああぁぁ!!」




◇ ◆ ◇ ◆ ◇





 初夏の香りが漂う六月。空は久しぶりに青く晴れわたっていた。

 梅雨の晴れ間だった。雨が止んだのはほんの二時間ほど前で、空気中にはいい感じにマイナスイオンが漂っていた。街路樹の木漏れ日もまぶしく、実に気持ちの良い朝だった。

 だが、学校へと向かう蓮の足取りは重い。

 昨日、姉と掴み合いの大喧嘩をして一方的にやられたショックが尾を引いているのだ。まぁ、姉妹喧嘩で蓮が負けるのは毎度のこと。所詮、小学生と高校生では体力に差があり過ぎるのだから仕方がないのだが……。
 しかし、蓮の足取りが重い理由はそれだけではない。原因は学校への通学路にある。なぜなら蓮が小学校に行くには、途中、人通りの多い駅前を通らなければならないからだ。

 一般的に思春期を迎えた頃の女の子は羞恥心が強く、胸などに視線を受けるのを嫌う。

 それは半年前まで男の子だった蓮も例外ではない。いや、蓮の場合なまじ男の子だっただけに羞恥心も戸惑いも人一倍強かった。元男の子であるにもかかわらず、やたら女らしくなってしまった自分の身体を恥ずかしく思っているのだ。

 だが、運命とは残酷なものである。小学五年生にしてHカップの巨乳の持ち主である蓮が人目を引かない訳がない。

 すれ違う人々の視線が、次々と吸い寄せられるように蓮の胸に集まる。蓮は恥ずかしさのあまりちょっぴり泣きたくなったが、そこは元男の子。こんなことで簡単に泣いたりはしない。青空のバカ。ずっと雨だったら良かったのに。と、蓮は上空を睨み心の中で空を呪った。蓮は雨の日が好きだった。雨の日は皆が傘を差し、足元を見ながら歩いているので、好奇な視線に晒されずに済むからだった。

 駅に近づくに従って、通勤・通学のために駅へと向かう人々の数が多くなってきた。じろじろ見たら失礼だよなぁ〜。とか思いつつも、皆つい、蓮の胸に視線を向けてしまう。中には、携帯に付いているデジタルカメラで蓮をこっそり撮影しようとする不埒者もいるのだから堪らない。蓮は恥辱のあまり顔を伏せ、逃げるような足取りで学校へと急ぐのだった。



 さて、やっとの思いで小学校に到着した蓮は下駄箱で靴を履き替えて自分の所属する五年一組の教室に向かった。自分の席に座る蓮。鞄から教科書やノートや参考書を取り出し、それらをまとめて自分の机に収納していると、

「小鳥遊さぁん。おはようございますぅ。ご機嫌いかがかしら?」

 鼻にかかったような甲高い声が後ろから聞こえてきた。蓮は、むっ、と眉間にしわを寄せ振り返った。そこには蓮が最も苦手とする人物、泉杏華(いずみ・きょうか)が立っていた。杏華は泉総合病院の経営者の娘で、世間一般で云うところのお嬢様。そして、美貌の少女だった。

「おはよう泉さん。別に機嫌は悪くないよ」
「まぁ、それは良かったわ」

 蓮の声は明らかに不機嫌そうだったが、杏華はそんなことにはお構いなしだ。杏華は蓮の全身を下から上へと舐めるように眺めると、シャツの袖から伸びる白い腕に出来た青あざを、実に目ざとく発見した。

「あら、小鳥遊さん。腕のところ、どうされたの?」
「別に。昨日、お姉ちゃんとケンカしただけだよ」
「小鳥遊さん、いけないわ。ケンカだなんて野蛮なこと。あざが残ったらどうするの?」
「これくらい、どうってことないよ」
「ふふ、小鳥遊さん面白い。まるで男の子みたい。……あっ、ごめんなさい。小鳥遊さん、以前は本当に男の子だったのよねぇ?」
「まぁね……」

 蓮は少し苛立った。なんでコイツはボクに突っかかってくるんだろう?と、苛立ちを抑えながら蓮は思った。困ったことに、杏華は何かにつけて蓮の神経を逆なでするようなことを言ってくるのだ。しかも、杏華の席は通路を隔てて蓮の隣なものだから、蓮にすれば教室にいても、ちっとも気が休まらない。

「小鳥遊さんって、やっぱり心の中は今でも男の子なのかしら?」
「さぁ、分かんない……」
「小鳥遊さん、見た目はとても可愛い女の子だけに、もったいないわぁ」
「あっそぅ、……ですか……」

 杏華との会話を続けているうち、蓮は苛立ちを通り越して悲しくなってきた。また、ちょっぴり泣きたくなった。が、そこは元男の子。ぐっと悲しみをこらえるのだった。

 なぜ杏華は蓮にやたら突っかかってくるのだろう?

 その原因は杏華の性格と、その性格を作り出した生い立ちにあった。杏華は泉家の四人兄弟の末っ子だった。しかも、兄弟の中で唯一の女の子だったために、周囲の大人たちによって、蝶よ花よと大切に育てられてきたのだ。しかし、子どもに対して大人があまりチヤホヤし過ぎるのも良くないことで、結果、杏華は何事も自分が一番でないと気が治まらない我侭な性格の娘に育ってしまったのである。そんな杏華にとって、誰もが振り返らずにはいられない美貌と胸の持ち主である蓮は、まさに目の上のたんこぶだった。

 とはいえ、杏華の容姿が蓮と比べて、それほど劣っているわけではない。

 美容に関して、【美人は一日にしてならず】という格言がある。美人になるには日々の努力が大切、という意味である。これに関しては杏華の場合、親の財力のお陰で小学生のうちから一流の美容師に髪をカットしてもらい、ネイルサロンでは爪の手入れ。さらにフィットネスクラブで身体を鍛えて、エステで美容マッサージを受けるなど、恐ろしい程に念が入っているのである。これで美人にならない訳がない。
 ちなみに、蓮の場合、美容と呼べるような努力は特にしておらず、強いてあげるなら母親と一緒に毎日行っている肩こり解消体操くらいなものだ。巨乳の女性は胸が重いために肩に負担がかかり、非常に肩が凝りやすい。そこで、肩こり解消体操である。腹筋と背筋を鍛えて姿勢を正し、胸筋を鍛えることで肩への負担を減らすのである。

 蓮と杏華、どちらの方が美人になるための努力をしているかは明らかだったが、しかし、杏華の自意識過剰かつ高慢な性格が災いして男の子たちにも今ひとつ人気がないし、女の子たちには少々煙たがられる結果となっているのである。



 そうこうしている内に、他の生徒も教室に入ってきて着席し、授業の開始を知らせるチャイムが鳴った。

 杏華は蓮に対してまだ何か言いたそうだったが仕方なく会話を中断し、自分の席に座った。黒板側にある扉が開き、五年一組を担任する吉田充(よしだ・みつる)が入ってきた。吉田はまだ二十四の若い男で、フレッシュさが売りの教師だった。

「起立、礼、着席」

 学級委員長の号令で授業開始前の一連の儀式が終了した。一時間目は算数である。

「では、この前やったテストを返却する。名前を呼ばれたら取りに来るように」

 ええぇ〜。嫌だぁ〜。と、どよめきの声が教室に広がった。しかし、嫌だと言ったところでテストが返って来なくなる訳ではないし、むしろ、返って来なければ、どこを間違ったのかが分からなくて困る。だったら、ええぇ〜。などと声を上げなければ良いものなのに、まったく、子どもとは不可解な生き物である。吉田に名前を呼ばれて答案用紙を受け取る度に、わぁ。ぎゃあ。と、子どもたちの声が上がった。

「つぎ、小鳥遊……」
「はい」

 席を立って教卓へと向かい、担任の吉田から答案用紙を受け取る蓮。紙の上に赤いインクで大書きに書かれた数字を見て、くらっ、と眩暈がした。算数は蓮の得意科目で、テストの結果にはそれなりに自信を持っていただけに、とてもショックだった。少しよろけながら蓮は自分の席に戻った。

「小鳥遊さぁん。テスト、どうでした?」
「こ、こんなはずじゃ……」

 蓮が椅子の背もたれに身体を預けて放心している隙に、隣の席に座る杏華が蓮のテスト結果を覗き込んできた。

「あら、まぁ、八十八点。こぉ〜んな簡単なテストで八十八点なの?」
「ちゃんと間違えてないかチェックしたのに……」
「おほほっ。穴だらけのチェックですこと。これじゃまるで意味がないわね」
「はぅぅ。どうして……」

 がっくりと項垂れる蓮。一方、杏華は余裕綽々といった様子で、百点の答案用紙を空中でぴらぴらさせてみせた。

 今回の算数のテストは杏華が言うような簡単なテストではなく、小学五年生に出題される問題としては、やや難しいものだった。しかし、普段の蓮の実力から考えれば、十分余裕で百点の取れる問題だった。それなのに、ごく単純な計算ミスから十二点もの点数を逃してしまったのだ。が、それもそのはず。テストが行われた時、蓮はテストに非常に集中しにくい状況に置かれていたのだ。

 蓮の集中力をかき乱す原因となった人物は二人。蓮の前の席に座る少年、岩元拓也(いわもと・たくや)と担任の吉田だ。

 岩元は大の算数嫌いで、テストなどまともに受ける気など当初から持ち合わせていなかった。だからといって白紙のまま答案を提出するわけにはいかない。そこで岩元は算数が得意な蓮の回答をカンニングしようと思いついき、これを実行したのだ。その際、岩元は思いもかけないものを発見してしまった。それは、前屈みで問題を解いている蓮の襟から覗く、白く美しい胸の谷間だった。岩元は心の中で、ムッハー!と、雄叫びを上げた。

 本来、このような不正行為がないよう監視が行われていなければならないのだが、この時、担任の吉田は空に浮かぶ雲を眺めながら、あっ、あの雲、ソフトクリームみたいな形してる。美味しそう〜。などと空想に耽り、公然と監視をさぼっていたのである。
 そもそも教師という職業は真面目にやろうとすれば、どこまでも仕事量が増える職業である。つまり逆に考えれば、手を抜こうと思えばいくらでも手を抜くことが出来るのだ。吉田は見た目こそフレッシュだが、教師生活二年目にして、すっかり手を抜くことを憶えてしまい、教師になりたての頃のフレッシュさは、既に半分以上が失われてしまっていた。

 担任である吉田の怠慢さが少年、岩元に不正行為を許し、結果、岩元の不躾な視線を胸と答案用紙に受け続けた蓮は、大いに集中力を乱されてしまったのだ。

「小鳥遊さん。世間では“胸が大きい女は頭が悪い”とか“知能と胸の大きさは反比例する”って言われてるらしいわよ」
「そ、そんなの関係あるわけないだろ!」

 蓮の胸はHカップ。杏華の胸はCカップとDカップの中間くらいだろうか。しかし、当然のことだが、胸の大きさと知能に科学的な因果関係はない。それに、蓮は勉強が苦手ではない。特に勉強が好きということもないが、基本的にとても真面目な性格の蓮は、学校であろうと塾であろうと出された宿題はきっちりやり遂げる。だから、常に成績は平均よりもかなり良かった。

「あら、私は別に小鳥遊さんが馬鹿だなんて言ってるわけじゃないのよ」
「じゃあ、何だよ!?」
「私はただ、小鳥遊さんの答案を見て、そういう俗説があるってことを思い出しただけ。何をムキになってるの?」
「うぐぐぐっ……」

 実に回りくどく、実に意地の悪い言い回し。杏華の最も得意とする悪口の手法だ。素直な性格の蓮にはそうそう真似の出来ない芸当。だからこそ、蓮にとって杏華は最も苦手な人物なのだ。一般的に口喧嘩に関しては女の子の方が男の子より強いが、女の子の中でも杏華はかなり強い。たぶん、最強の部類に入るだろう。女の子になってまだ一年にも満たない蓮が太刀打ち出来る相手ではなかった。

 舌を巻くような超高難度の悪口の機銃掃射を浴び、蓮の胸に悲しみが突き上げてきた。目頭が熱くなった。ちょっとでも気を許せば涙が出かねないほど悲しかった。が、しかし、そこは元男の子。唇を噛み締めて涙をこらえるのだった。杏華は今にも泣きそうな蓮の顔を見てほくそ笑んだ。そして、さらに追い討ちをかけようと口を開きかけた。

 と、その時、

「おぃ、泉。いいかげんにしておけよ」

 杏華と蓮の間に割って入ったのは、(少々痩せて見えるものの)引き締まって俊敏そうな体型の男の子だった。男の子の名は保呂草淳平(ほろくさ・じゅんぺい)。蓮とは保育園からの付き合いで、二人は無二の親友だった。

「なによ。保呂草くんには関係ないでしょ!」
「そりゃ、オレには関係ないよ」
「だったら、勝手に話しに入って来ないで!」
「でもなぁ。レンが落ち込んでんのに、余計に落ち込ませること言わなくてもいいだろ」
「くっ…!」

 杏華は恐ろしい顔で保呂草を睨んだが、保呂草はこれを涼しい顔で受け流す。本来、このような場面で蓮に味方するような人物が現れれば、杏華の闘争心は益々燃え上がることだろう。が、しかし、それは蓮に加勢しようとする人物が同性だった場合のみで、異性である男の子の場合はそうもいかない。杏華もやはり女の子。男の子の眼から自分がどう見えるのかが気になるのだ。

「なぁ、泉。もう許してやれよ」
「ふん。保呂草くんも小鳥遊さんのことが好きなんでしょ。デレデレしちゃって、気持ち悪い」
「それこそ関係ない話だろ」
「もういい。勝手にすれば、ヘンタイ!」

 杏華は、ぷぃ、と窓の外に視線を向けた。保呂草は苦笑した。蓮は保呂草の耳元に口を寄せ、保呂草にだけ聞こえるように囁いた。

「(ジュンペイ、ありがとう)」
「(おぅ、気にすんな)」

 保呂草は蓮がしたのと同じように、蓮にだけ聞こえるよう耳元で答えると、足早に自分の席へ戻っていった。二人のやりとりを横目で見ていた杏華は、なによ。イチャついちゃって。許さないんだからっ!と、蓮への嫉妬心をさらに募らせるのだった。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇





 一時間目が終了し、二時間目、三時間目と時間は過ぎていったが、保呂草に注意されたのが効いたのか、その後、杏華は蓮の神経を逆なでするようなことは特に言ってこなかった。

 昼休みが終わりを知らせるチャイムが鳴った。五時間目は音楽の授業だ。

「レンちゃん。音楽室、一緒に行こ」

 蓮を音楽室に誘ったのは香久山遊葉(かぐやま・あすは)だった。遊葉は蓮が小学三年生だった時(つまり、蓮がまだ男の子だった時)から仲の良い女の子だった。蓮と遊葉は、教科書と筆記用具とソプラノ・リコーダーを持って教室を出た。別校舎にある音楽室へ向かって並んで歩く二人。ふいに遊葉が蓮に話し掛けた。

「一時間目の時、アレ、見たよ」
「見たって、なにを?」

 蓮は少しわざと惚けてみせた。が、この程度で遊葉の追求を逃れられるはずがない。

「算数のテストが返ってきた時、レンちゃん、また泉さんに何か言われてたでしょう。…で、保呂草くんが助けてくれたじゃん。ばっちり見てたんだからね」
「あぁ。アレのことかぁ。それがどうかしたの?」
「保呂草くんとあの時、なにか話てたでしょ。なに話してたか教えてよ」
「べっ、別に。ただ、助けてくれたお礼を言っただけだよ……」
「ふ〜ん。お礼だけ、ねぇ」

 遊葉は目を細めて蓮の表情を観察した。見られていることにちょっと動揺した蓮は、ソプラノ・リコーダーを袋から取り出して口に咥えると、ぴゅ〜、と音を立てた。本当は口笛を吹いて誤魔化したかったのだが、蓮は口笛が下手くそで吹けないのだ。この様子が遊葉の目には可笑しく映った。遊葉はちょっと笑った。

「でもさぁ、いいよね〜。レンちゃんは……」
「なにが?」
「男の子と自由にしゃべれてさぁ。レンちゃん、元男の子だもんねぇ〜」

 蓮は遊葉の言葉の意味が良く分からなかった。不思議そうな顔をする蓮。そんな蓮の様子を見て、遊葉は言葉を続けた。

「だからさぁ、普通、男の子の前に立ったら緊張しちゃうじゃない。でも、レンちゃん、元男の子だから、男の子の前に立っても緊張しないでしょ?」
「あっ、うん。別に緊張とかしないかなぁ。てゆーか、アスハは緊張してるの?」
「緊張するよ、やっぱり」

 そうなのだ。この年頃になると女の子たちは男の子の存在を強く意識し始める。男の子に自分がどう見られているかが気になるのだ。だから、男の子の前に立つと緊張し、いつものように自然に振舞えなくなってしまう。これは蓮の天敵である泉杏華に於いても例外ではない。

「でも、でも。去年、ボクがまだ男だった時、アスハ、普通にボクとしゃべってなかった?」
「まぁね。でも、レンちゃんは特別だったもん」
「特別ってどういうこと?」
「んーっとねぇ」

 ここで遊葉は一旦言葉を切ると、少し考えるそぶりを見せた。蓮はじっと遊葉の言葉を待った。

「んーっと、まぁ、いいや。今だから言っちゃうけど、クラスの女の子たち皆、レンちゃんのこと半分女の子だと思ってたんだよ」
「ええぇぇ。何でそうなるのぉ!?」
「だってー。レンちゃんって性格やさいいし、色白だし、顔かわいいし、声だって高かったじゃん」
「ボクって女の子だと思われてたんだ……」

 絶句する蓮。しかし、当時、蓮と同級生だった女の子たちには、これはごく自然な反応だった。小学四年生の女の子たちにとっては、男の子たちはまだまだ未知の存在だった。そこで女の子たちは男の子を理解するための足掛かりとして、より自分たちに近い性質を持った男の子を捜した。そして選ばれたのが蓮だったのだ。女の子たちは蓮を【男の子の姿をした女の子】あるいは【半分は男の子で、半分は女の子】と(勝手に)認識していたのだ。

「うっわー。凄いこと聞いちゃった。ショックだぁー!」
「ショックもなにも、今じゃ正真正銘、本物の女の子じゃない」
「はぅぅ。そ、そうだけど……」

 意外な事実の判明によって蓮が精神的にダメージを受けているうちに、二人は音楽室に到着した。



 さて、午後の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴って五分が経過したが、五年一組の音楽を担当する教師、瀬在丸幽花(せざいまる・かすか)は現れなかった。さらに五分が経過して音楽室にいる子どもたちがざわつき始めた時、音楽室の扉が開き、見慣れない女性教師が入ってきた。若い女性教師だった。女性教師は子どもたちの前に立って言った。

「ええ、瀬在丸先生は急な出張で授業に来られなくなったため、今日は私、各務晶(かがみ・あきら)がこの時間の授業を担当します」

 各務は教師には珍しくスーツを着ていた。色はホワイトだが、少しカジュアルなデザインのスーツだった。あまり目立たない大きさだがピアスも付けていた。化粧もばっちりで、ルージュはパール・ピンクだった。落ち着きと華やかさの両方を備えた完璧なファッションだった。しかし、子どもたちは各務の姿に対して、なんだかなぁ〜。と、不信感を示した。子どもたちの反応を見た各務は、教師って、つくづくオシャレしがいのない仕事だよね〜。と、思った。しかし、そんなことを嘆いていても仕方がない。

「私には皆さんの名前と顔が一致しませんので、名前と顔を覚えるために出席をとります。だから、名前を呼ばれたら返事するように。……赤樫さん……」

 各務は名簿にある子どもの名前を読み上げ始めた。名前を呼ばれる度に、はぁい。と声が上がる。順調に名前を読み上げていく各務。しかし、高瀬まで読み上げたところで詰まってしまった。蓮の苗字である【小鳥遊】の読み方が分からないのだ。

「ええと、コトリアソビって書いて、何て読むの?」
「タカナシです」

 よく響く透明感のある声が返ってきた。各務は声のする方に視線を向けた。かなりの美少女だった。しかも巨乳。大人の女でも、こんな大きな乳房の持ち主は滅多にいないであろう程の巨乳だった。

「おっ…大きい。さ、最近の女子は発育がいいんだね……」

 蓮の巨乳に一瞬目を奪われた各務は、思わず感想を漏らした。この一言がいけなかった。

 胸が大きいことを普段から気にしている蓮にとって、この一言はタブーだった。家族に言われるならまだしも、他人に大きいと言われることは、蓮にとってはショックだった。ましてや、杏華のように大きいと言ってくることが予想できるなら心に予防線も張れようが、今回は完全に予想していなかっただけにかなりのショックだった。

 各務の言葉が蓮に鋭く突き刺さった。

 再び悲しみが胸を突き上げたが、蓮はこれを必死に堪えた。蓮はこう見えても元男の子である。これしきのことで泣く訳にはいかない。目頭が熱くなって涙がこぼれそうになったが、少し上を向くことで何とか耐えた。今にも泣き出しそうな蓮の顔を見て各務は動揺した。あちゃー。まずいこと言っちゃったかなぁ〜。と、心の中で舌打ちした。

 結局その後、蓮と各務は授業に集中することが出来なかった。蓮は泣きそうな気持ちを何とか落ち着かせるのに必死だったし、各務は蓮がいつ泣き出すかと気掛かりで仕方がなかったからだ。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇





 緊張に満ちた五時間目が終了した。しかし蓮は泣かなかった。蓮は授業時間中に何とか落ち着きを取り戻し、今回のピンチも(結果的にはギリギリだったが)乗り切ったのだった。

「ふぅ。やっと今日の授業は終わったね。私、ちょっと疲れちゃった」
「今日の体育、サッカーの試合だったし、アスハ大活躍だったもんね」

 今日の授業は全て終わった。残すは六時間目の学級活動だけだったが、これは授業ではないので気が楽だった。音楽室から五年一組の教室へと戻る蓮と遊葉の足取りは緩やかだった。

「ありがと。私、ゴール決めたのって初めてだったんだ」
「あっ、そうなんだ。良かったじゃん」
「うん。サッカーってシュートが決まると面白いね」

 一般的に、男女混合のチームでサッカーの試合をすると、男子ばかりがボールを支配してしまい、女子にはなかなかボールが回って来ない。だから、遊葉はこれまであまりサッカーを面白いと思ったことがなかったのだ。ところが今日、遊葉は幸運にもゴール前の競り合いで出たこぼれ球を拾ってシュートした。そして、さらに運良くキーパーがボールを受け損なったおかげでゴールネットを揺らすことに成功したのだった。

「ところでさぁ、レンちゃんってサッカー上手かったはずだよね」
「うーん。上手いって程じゃないけど、下手でもないかなぁ」
「そうだよね。去年、レンちゃんが結構活躍してたの私、見てたもん。でも、今日はあんまり活躍してなかったよね。どうして?」
「う゛っ……」

 遊葉の指摘は当たっていた。去年までの蓮なら、ボールが回ってきたら素早いドリブルで相手チームのディファンスを突破し、果敢に攻め込んでいるところなのだが、今日は相手チームのパスを時々カットしにはいるだけで、あまり動き回ろうとはしなかったのだ。

「レンちゃんだったら男の子に負けないくらい活躍できるのに、どうしてなの?」
「そ、それは……」

 遊葉に詰め寄られて、蓮は少したじろいだ。

「胸が、ね…。揺れると、い、痛いんだ。すごく……」
「えっ、そうなの?」

 蓮は頷いた。そうなのだ。これも巨乳の弱点の一つで、例えばスポーツなどで激しく動くと、大きな乳房も一緒に激しく動き、非常に痛いのだ。だから、蓮は普段から胸が出来るだけ揺れないよう胸をしっかり固定してくれるブラジャーを選んで着けてはいるのだが、しかし、それにも限界がある。どうしたって揺れるものは揺れるのだ。

「そっかー。大変なんだね」

 遊葉はちょっとがっかりした。蓮の事情は理解したが、正直、少し残念に思った。なぜなら、遊葉は蓮に対して、美人で勉強が得意で男の子に負けないくらいサッカーの上手い女の子、というイメージを抱いていたからだ。

「はぁー。まぁ、でも、仕方ないよね。……ところでさぁ、私の従姉妹のお姉ちゃん、胸が重くて肩が凝るってよく言ってるんだけど、レンちゃんもやっぱり肩凝ったりするの?」
「えっ。うん、よく凝るよ」

 蓮は手に持っていたソプラノ・リコーダーで肩を軽くトントン叩いた。

「レンちゃん。ひょっとして、今も肩凝ってる?」
「うん。…特に首の付け根あたりがすごく」
「ふ〜ん。ねぇ、肩、揉んであげよっか?」
「えぇぇ。べ、別にこれくらい慣れてるからいいよぉ」
「大丈夫、大丈夫。私、こう見えてもすっごく上手いんだよ」

 そう言うと遊葉は素早く蓮の背後に回り、有無も言わせず強引に蓮の肩を揉み始めた。

「きゃあ。ちょっと待って、ちょっと待って、嫌ぁ…痛ぃぃぃー!」
「大丈夫、痛いのは最初だけだからね」
「痛い、痛いよぅ。お願いだから止めて。あっ、動かさないでぇ!」
「大丈夫だって。私に任せて。もうすぐ気持ち良くなってくるから」
「そ、そんなぁ……」

 蓮は目に涙を浮かべながら身体をよじって遊葉の手から逃れようとするが、遊葉の手は蓮の肩をがっちり掴んで離さない。なおも執拗に肩を揉み続ける遊葉。

「どぉ、私のテクニックは。痛くないでしょ。そろそろ気持ち良くなってきたんじゃない?」
「あっ、痛い。痛いってば。あっ、ちっとも良くなんてないよぅ!」
「嘘だぁ。ほら、ほら、本当は気持ちいいんでしょ。正直に白状しなさい!」
「あっ。いっ、痛い。痛い…けど、あっ、あんっ、ちょっと、気持ち良く…なって……」
「うふふっ。最初っから素直になればいいのに……じゃあ、こっちはどうかなぁ?」

 今度は腰の辺りから肩に向かって背中のツボを撫でるように圧していく。素人とは思えない実に滑らかな手つき。遊葉はなかなか指圧を心得ているようだ。

「あんっ。き、気持ちいい。…痛いのに…ど、どうしてぇ!?」
「凄いでしょ、私のテクニックは…。でも、まだまだ。本番はこれからだよ」
「いやぁ。…や、やめてぇ。ああんっ。ダメ…気持ち、が、良くて……」
「あれぇ。レンちゃん嫌なんだ。…じゃあ、やめてもいいの?」
「い、いじわる言わないでぇ。…ああんっ。いい。…気持ち、良すぎるぅぅ!!」

 揉まれる度に切なげな声を上げる蓮。聞き様によっては何だかとても卑猥に聞こえる二人の会話だが、あくまでもこれは肩もみ。蓮たちはいたって真面目だ。


 さて、夢中でじゃれ合っていて蓮と遊葉は気付いていなかったのだが、二人は五年生の校舎内にある手洗い場まで戻ってきていた。そして、二人のすぐ傍らでは、五年二組の真鍋明久(まなべ・あきひさ)と掛勇輝(かけ・ゆうき)が、図工の授業で使った絵筆を洗っていた。真鍋と掛の二人は、どこのクラスにもいるようなお調子者だった。

 先に手を出したのは真鍋だった。真鍋は、洗い終わった絵筆に付いた水滴を、掛の顔に向けて飛ばした。

「うわっ、冷て。やったなぁ、ゲラちゃん!」
「はぁ。シトゲちゃん、今、なんか言ったぁ?」

 ゲラちゃん、とは真鍋のあだ名で、シトゲちゃん、とは掛のあだ名である。どちらも奇妙で意味の分からないあだ名だが、そもそもあだ名なんて奇妙で意味不明なものがほとんどなのだから、その由来について考えたところで仕方ない。考えるだけ無駄である。

「冷てーじゃんか。ゲラちゃん!」
「あれ。シトゲちゃん、今、冷たい、とか言わなかったよね。オレの空耳かなぁ?」
「とぼけんなよっ!」

 掛は持っていた絵筆に(わざわざ)たっぷりと水を含ませ、お返しとばかりに真鍋の顔に向けて水滴を飛ばした。

「ひえっ。ちょっと待て。オレ、そんなに水飛ばしてないぞっ!」
「こーゆーのは普通、倍返しっしょ」
「きったねー。勝手に変なマイ・ルール作んなよ。じゃあ、オレも倍返し!」

 真鍋は手で水をすくうと、思いっきり掛の顔にぶっかけた。まるで小学生のような所業。というか、二人はまさに小学生だった。

「なんだよそれっ。自分から始めといて仕返しすんなよっ!」
「あっ、そんなこと言うんだ。だったらシトゲちゃん。オレがやったって証拠でもあんの?」
「証拠なんかなくても分かってんだよ。スーパー・ウルトラ・倍返し!!」

 掛は両手で水をすくって、真鍋にぶっかけた。こうなると、もう収拾はつかない。後はエスカレートしていくのみである。倍返しの倍返し。さらにそれの倍返し。と、倍返しが二人の間を何往復かした時、掛がついに最終手段に打って出た。掛は水道の蛇口を全開にすると、水の噴出し口を手の平で抑えて絞り、真鍋に目掛けて高圧の水流を放ったのだった。……が、真鍋を狙った水は見事に狙いを外し、二人の近くにいた蓮と遊葉に直撃したのだった。

「きゃぁぁああぁぁ!」
「冷たぁぁぁいぃぃ!」

 蓮と遊葉、二人の絶叫が廊下にこだました。

「ひどぉーい」
「ちょっとぉ、いきなり何するのぉ!」

 遊葉が怒りの声を上げた。幸い、蓮の背後にいた遊葉の被害は最小限だったが、蓮の被害は甚大だった。特に上半身は酷く、びしょ濡れだった。上着が肌に張り付いていた。

「あわわっ。べ、別にわざと狙った訳じゃ……」

 何とか言い逃れをしようと試みる掛。と、その時、掛の視線がある一点にとまった。蓮の胸だった。掛は心の中で、ムッハー!と、歓声を上げた。なぜなら、濡れた上着が肌に張り付き、蓮の見事なボディーラインを浮き上がらせていたからだ。しかも、(蓮にとっては悪いことに)白いシャツは水を吸って透け、蓮の豊かな胸とブラジャーを曝け出していた。

「ちょっと、謝りなさいよ!」
「うわっ。ゴメンって。事故だって。……なぁ、ゲラちゃん」

 掛に詰め寄る遊葉。掛は、ちらり、と真鍋を見た。真鍋の視線もまた、蓮の胸に釘付けになっていた。掛は真鍋の横に移動すると、肘で真鍋のわき腹をつついた。

「そ、そうそう。…ホント事故。これは不幸な事故なんだよ。オレら、ちょーっとふざけてただけなんだよ」
「だからさぁ、二人が近くにいたなんて気が付かなかったんだよマジで」
「うん、うん。ホント、今のいままで、二人がいたなんて、ちーっとも気が付かなかった。わぁ、マジびっくり!」
「いっやー。こんな偶然って、滅多に起こんないだろなー普通は。そう思わない?」
「思う、思う。だから、これは予想不可能な出来事だったんだよ。うん」

 早口に捲くし立てる真鍋と掛。一見、責任逃れの言い訳をしているように見えるが、二人の本当の目的は違う。

 二人の本当の目的は蓮の胸だ。二人の無味乾燥な会話は単なる時間稼ぎで、その間にちゃっかり蓮の胸を盗み見しているのである。しかも、蓮の胸を直視するのではなく、視線を泳がせながらも視界の中に捕らえ続けるという高等テクニックを駆使している。この二人、どうやらかなり小ずるい性格のようだ。

「つーことはさっ、予測不可能っつーことはさっ、誰かに責任があるって訳じゃないよね」
「そーだよ。だいたい、オレらだって、君らが近くにいるって気がついてたら、ふざけ合ったりしないもん」
「だからさぁ。ここはひとつ、お互い様っつーことでさぁ」
「うん、うん。それ、いーよ。オレらにも責任あるけど、君らもちょっと不注意だったっつーことで……」

 さらに喋り続ける真鍋と掛。蓮は、さっきから何となく胸に視線を感じてはいるのだが、真鍋と掛のカモフラージュがあまりにも巧妙なため、本当に見られているのかどうか、いまひとつ確信が持てないでいた。一方、遊葉は、いつまでもベラベラしゃべり続ける真鍋たちに業を煮やした。

「あぁ、もう。いつまでも訳分かんないこと言ってないで、謝れっ!!」

 遊葉は金切り声を上げた。身体が怒りに震えていた。これにはさすがに真鍋たちもまずいと感じ、事態を収拾するため、とりあえず謝罪することにした。

「ごめんなさい。謝るます。」
「まことにスマソ」

 全然、謝っていなかった。

 まぁ元々が、お調子者が服を着て歩いているような二人なのだから、まともな謝罪の言葉が返ってくるなんてことは(大して)期待できるはずもなかった。遊葉は怒りを通り越して呆れ果てた。遊葉は、はぁ。と、溜息を吐くと、蓮を振り返った。

「もう、いい。レンちゃん、行こ…って、うわぁ。レンちゃん、服、透けてるよっ!」
「えっ、ホントにぃ!?」

 蓮は慌てて手で胸を隠した。遊葉に指摘されるまで、迂闊にも全く気が付いていなかったのだ。

「それ、ちょっと着替えた方がいいよ。…そうだ。レンちゃん、空き教室に行っといて。私、体操服とってきてあげるよ」
「ありがとう、アスハ」
「じゃあ、行くね。……あと、そこの二人、どっか行け。散れ!」

 遊葉は真鍋と掛をローキックで追い払うと、五年一組の教室へと走り去っていった。



 空き教室で遊葉を待つ間、蓮は恥ずかしさのあまり泣きそうになった。が、そこは元男の子としてのプライドがある。そう簡単に泣く訳にはいかない。大丈夫、見られなかった。ギリギリ見られてなかったんだから…。と、自分に言い聞かせて耐え忍ぶのだった。

「レンちゃん、お待たせ。体操服もってきたよっ!」

 蓮が空き教室に入って間もなく、遊葉が蓮の体操服を持ってやって来た。かなり急いで取ってきてくれたようだった。

「ありがとうアスハ。迷惑かけてゴメンね……」
「気にしなくっていいよ、これくらい。それより早く着替えないと、六時間目、始まっちゃうよ」
「うん。じゃあ、急いで着替えるね」

 蓮は遊葉に感謝しながら着替えに取りかかった。まずはシャツのボタンを順番に外していく。そして、肌にまとわりつく上着を脱いで、体操服袋から上着を取り出していると、

「うわぁ。レンちゃんって、大人っぽいブラジャー着けてるんだねぇ〜」

 横から声が聞こえてきた。遊葉だった。

「お、大人っぽいって言われても……」

 蓮は少し返事に困った。確かに蓮の着けているブラジャーは、小学校高学年の女の子が着けているようなものとは(かなり)違っていた。色は淡い水色で細やかな模様が付いているし、カップは深くて大きい。さらに、乳房の形を保持するためのワイヤーも入っていた。しかし、蓮は好き好んで大人っぽいブラジャーを着けているのではない。単に、子供用のブラジャーには蓮の胸に合うHカップが存在しないからに過ぎないのだ。

「はぁ。ブラジャーかぁ……」

 蓮のブラジャー姿を眺めながら遊葉は気だるげに呟いた。遊葉の眼には、ブラジャーを着けた蓮がちょっと大人びて見えていた。遊葉はまだブラジャーを着けていなかった。しかし、遊葉の胸も服の上からでもちょっと目立つようになってきていた。私もブラジャー着けた方がいいのかなぁ。と、遊葉は思った。

「アスハ、どうかしたの?」
「ううん。何でもない……」

 まぁ、この年頃の女の子には、色々とあるのだ。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇





 六時間目。学級活動の時間である。今日の議題は、来月に迫った林間学校で催されるクラス演劇についてだった。五年一組の出し物は【英雄ペルセウス】を行うことが、前回の学級活動で決定していた。

 この【英雄ペルセウス】とは、ギリシャ神話に登場するペルセウスという若者を主人公とした物語だ。この物語を簡単に要約すると……


 ギリシャのセリポス島にひとりの勇敢な若者がいた。若者の名はペルセウス。ある日のこと。彼は島の王ポリュディクスに、世界の西の果て、ヘスペリデスの園に住む怪物メドゥサの首を取ってくるよう命令された。メドゥサは髪の毛は蛇で、大きな金色の翼をもっていて、その顔を見たものはたちまち石になってしまうと恐れられていた怪物だった。

 王ポリュディクスが彼に無理難題を吹っかけた理由は、彼の母、ダナエにあった。ポリュディクスはダナエを自分の愛人にしたがっていたのだが、ダナエを愛人にするには息子のペルセウスが邪魔になっていたのだ。ポリュディクス……エロいオヤジだ。

 無理難題に頭を抱えたペルセウスだったが、女神アテナやその他大勢から色々便利なアイテムをもらい、メドゥサ退治に出発した。…で、艱難辛苦の末、怪物メドゥサのいるヘスペリデスの園に到着したペルセウスは、メドゥサの顔を直接見ないよう持っていた楯にその姿を映し、見事に首を切り落としたのだった。

 一方、セリポス島では、ポリュディクス王がペルセウスの母ダナエを愛人にする計画を着々と進めていた。

 母親がピンチだ。ペルセウスは焦った。…と、その時、ペルセウスの前に翼の生えた馬が現れた。ペガサスだ。ペルセウスはペガサスの背に飛び乗ると空へと舞い上がり、セリポス島へと急ぐのだった。

 その頃、エチオピアでも事件が起きていた。エチオピアの海岸を海獣ティアマトが荒らし回っていたのだ。事の発端はエチオピアの王妃、カシオペアの一言だった。カシオペアが、海神の娘たちより自分の娘アンドロメダの方が美しいと言った為、海神ポセイドンの怒りを買ってしまったのだ。母カシオペアは【さわらぬ神に祟りなし】のことわざを知らなかったのだ。残念なことだ…。

 海神ポセイドンの怒りを鎮めるべく、娘のアンドロメダを海獣ティアマトへの生贄にすることが決定した。

 海岸の岩に鎖で拘束されたアンドロメダは、己の不運を嘆いて涙を流した。しかも、アンドロメダはほとんど裸同然の姿だった。…と、その時、上空を通りかかったのが英雄ペルセウスだった。…半裸の美少女が鎖で岩に拘束されている。(ちょっとSMっぽいけど)なんとエロティックな光景だろう。英雄ペルセウスは、この光景に身体の内からぐっと何かが込み上げてくるのを感じた。
 ペルセウスは、つい先程倒したメドゥサの首を海獣ティアマトに見せてティアマトを石に変え、アンドロメダを救出した。そして、アンドロメダに速攻で求婚した。返事はOKだった。

 さて、ペルセウスがアンドロメダを連れてセリポス島に戻ってきてみると、ポリュディクス王がペルセウスの母ダナエを愛人にするための披露宴を催している真っ最中だった。怒れるペルセウスは宴の会場に乗り込むと、(海獣ティアマトを倒した時と同じように)メドゥサの首を使ってポリュディクス王を石に変え、母ダナエを救出したのだった。

 その後、ペルセウスは妻アンドロメダと、母ダナエに囲まれて幸せに暮らしたのだった……終わり。(嫁vs姑の確執があったかどうかは定かではない)



 この【英雄ペルセウス】は物語としてはなかなか面白いのだが、なにかと“大人の事情”な部分が多く、小学生が演じるには少々不適切に思えた。本来なら、担任である吉田充が止めるべきところだった。ところが吉田は、エロくない。エロくないぞ。それに子どもたちの自主性を尊重することも教師の大切な仕事だ…。と、自分の良心に言い逃れしたのだった。まったく、不埒な教師である。

「それでは、まず、配役を決めたいと思います。希望者は名乗り出てください」

 学級委員長の司会で学級会議が進行していく。

 このような場面では、しばしば、子どもたちにより高度な駆け引きが展開されることがある。例えば、好色オヤジであるポリュディクス王の役を積極的に引き受けようとする者はいないと予想される。すると、今度は推薦によって候補者が挙げられる。そして、候補者として最も名前を挙げられる可能性が高いのは、山崎大介(やまざき・だいすけ)少年だ。山崎は普段からエッチなギャグを飛ばしているので一番危険だ。
 勿論、山崎だって好色オヤジの役なんてやりたくない。そこで、先手必勝。なるべく無難な一般人の役や、空飛ぶ馬ペガサスの役なんかに立候補して、好色オヤジの役を押し付けられるのを避けるのだ。

 これと同様のことを、五年一組の全ての子どもが考えるのだから、皆の思惑がぶつかり合い、事態を予測することは非常に難しくなる。だから、一瞬たりとも気が抜けないのだ。

 ところが、このような重大事であるにもかかわらず、蓮は会議の進行をまったく聞いていなかった。

 原因は蓮の服装にあった。クラスの皆が普通に普段着姿なのに、蓮だけが体操服姿だったからだ。これでは目立って仕方がない。さっきからクラスメイトたちが、何があったのだろう。と、蓮に時々視線を向けてきていた。しかも、一度着た体操服は汗で少し湿っていて不快だし、大丈夫だと思っていたパンツの中まで水が染みてきて最悪だった。蓮は、自分だけが何かの罰ゲームを受けさせられているような、そんな惨めな気分がした。

 そして、蓮を最も落ち着かなくさせたのは、通路を隔てて隣の席に座る泉杏華の存在だった。杏華は蓮を何度も見ては、その度に何か言いたげな顔をした。声にこそ出さないが、明らかに蓮の姿を薄く笑っていた。これが蓮の神経を激しく逆撫でした。

 さすがに蓮もちょっと怒った。

 蓮は余程、杏華に文句の一つも言ってやろうかと思った。が、しかし、実際には何も言わなかった。相手は口喧嘩の達人。一度、開戦に踏み切れば、蓮が敗北することは目に見えていたからだ。屈辱と悔しさのあまり、胸が苦しくなった。だから蓮は、この屈辱の時間が早く終わるよう祈りながら、壁に掛けられた時計ばかり見ていたのだ。

「じゃあ今度は、アンドロメダの役をやりたい人、いませんか?」

 手を上げた者はいなかった。既に半数以上の女の子たちが何かの役を得ていたし、まだ役を得ていない女の子たちも、互いに牽制し合ったのだ。

「では、誰か推薦してください」

 すぐに幾つかの手が上がった。学級委員長は、その中の一人を指名した。

「私は、小鳥遊さんがいいと思いまっす!」

 他のクラスメイトたちの間から大きな拍手が起こった。確かに、アンドロメダは絶世の美少女だし、アンドロメダの登場シーンは物語でも最も盛り上がるシーンだ。だから、アンドロメダを演じるのは蓮が一番ふさわしいく思われた。自分の名前を呼ばれたことで、蓮はようやく我に返った。

「では、アンドロメダの役は小鳥遊さんってことで……」
「ちょ、…ちょっと待って。ストップ!」

 蓮は慌てて手をあげて立ち上がると、司会の進行を止めた。

「何ですか、小鳥遊さん」
「反対。反対します。すっごく反対ですっ!」
「どうしてですか。この役は小鳥遊さんがふさわしいと私は思いますよ?」

 とんでもなかった。
 やたら女らしい自分の身体を恥ずかしく感じていて、人一倍他人の視線を気にする蓮にとって、アンドロメダの役なんてとんでもないことだった。特に半裸なのがいけない。そんな露出度の高い姿になったら、胸に観客たちの視線を浴びまくってしまう。しかも、鎖で拘束されているなんて、かなりアブノーマルっぽいし……。

「てゆーか、ボクじゃなくても、他にふさわしい人がいると思いますっ!」
「ふーん。それは誰ですか?」
「え、えぇと…。泉さんとか、香久山さんとか、白岐さんとか……みたいな?」

 蓮は咄嗟に思い浮かんだ名前を並べ立てた。蓮の答弁を聞いた学級委員長は、はぁ。と、溜息を吐いた。

「泉さんは女神アテナの役に決まりました」
「えっ。…そうなの?」
「香具山さんは小道具。白岐さんは音響にそれぞれ決定しています」
「い、いつの間に……」
「小鳥遊さん。…あなた、私が司会してるの、聞いてなかったでしょう?」

 図星を突かれた蓮は、う゛っ、と呻き声を上げた。

「はい。じゃあ、アンドロメダの役は小鳥遊さんってことで……」
「ちょ、ちょっと待って。…せ、せめて多数決をとって下さい」
「いいですよ。…小鳥遊さんがアンドロメダの役をやるのに賛成の人は?」

 クラスメイトたちの間から、わぁぁん、と、これまでにない最大級の拍手が巻き起こった。

「はい、決定」
「うわぁぁん。ちょっと待ってぇぇ!」
「ダメ。待ちません。多数決で決まったことです。これは民意です。民主主義に従ってください」
「そ、そんなぁ……」

 まぁ、【衆愚政治も民主主義のうち】と、いうことだろうか…。蓮は、がっくり、と項垂れて席に戻った。こうして蓮は、また一つ(汚れた)社会の仕組みを身をもって学んだのだった。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇





 六月も終わり、七月。林間学校の当日となった。

 空は見事に晴れ渡っていた。本格的な夏の始まりを感じさせる七月の太陽は、木々や人や建物、つまり地上にある全てのものを強く明るく照らし出していた。梅雨明けのカラリと乾いた風が時折吹いて、肌に心地よかった。

 この日、目的地である青少年野外活動センターへと向かうバスの車中、蓮は絶好調だった。もちろん、今日の夜に行われるクラス演劇のことを考えると憂鬱だったが、元々、蓮は皆でどこかに出かけたりすることが大好きな性格なのだ。だから、嫌なことはひとまず忘れて、今のこの時を思いっきり楽しむことにした。

 蓮は、仲の良い友達と持ってきたおやつを食べながら、おしゃべりをしたりトランプをして大いに楽しんだ。くじ運の悪いことに、蓮は天敵である泉杏華と(またしても)隣の席になってしまったのだが、絶好調のこの時ばかりは、杏華が意地悪なことを言ってきても、ちっとも気にならなかった。


 しかし、絶好調もここまでだった。



 目的地に到着した五年生の子どもたちは施設の利用説明を受けた後、さっそく班に分かれて屋外での野外炊飯(メニューは定番のカレーライス)に取り掛かった。

 さて、野外炊飯でまず必要なもの。それは燃料となる薪だ。教師の指示に従って、各班四名の子供がキャンプ場から木材集積所へと薪を受け取りに出発した。蓮の班からは、蓮と白岐実生(しらき・みお)、岩元拓也(いわもと・たくや)と山崎大介(やまざき・だいすけ)の四人が材木集積所へと向かったのだが……


 蓮と白岐実生(しらき・みお)は、山を切り開いて作った険しい林道の坂道を登っていた。しかも、二人はそれぞれ重い薪の束を抱えていた。腕はだるく、額からは次々と汗が噴出し、頬を伝って流れ落ちた。蓮は隣を歩く実生に訊ねた。

「ねぇ。ミオちゃん。…あと、…どのくらいだと…思う?」
「さぁ、…たぶん、百メートル位じゃ…ない?」

 白岐実生は、蓮が女の子になってから新たに仲良くなった女友達である。実生は息を、はぁはぁ、と荒げながら応えた。

「ボクたち…なんで、こんな重い薪を、…二人で一個じゃなくて、…ひとり一個づつ…運んで…るんだろ?」
「そりゃあ、…末松と岩崎のボケが、…仕事…さぼってる…からじゃ…ない?」

 蓮たちと同じ班に所属する岩元拓也と山崎大介は、お調子者だった。しかし、どこのクラスにもいるようなお調子者ではない。探してもあまり見つからないような、かなり高レベルのお調子者だった。要するに、カプセル玩具に例えるところのスペシャルシークレットだ。超レアものなのだ。

 超レアなお調子者である岩元と山崎は、薪を受け取りに行く途中、太い木の幹にオオクワガタがとまっているのを発見した。狂喜乱舞した二人は、さっそく薪運びを放棄してしまい、その結果、蓮と実生が二人だけで薪を運ぶことになったのだ。

「ぐぬぬっ。おっ…重いぃぃ!」
「手が…し、しびれるぅぅ!」

 重い薪を抱えた蓮と実生の足取りは遅く、後から薪を受け取った他班の子どもたちが二人をどんどん追い越していく。

「ミオちゃん。…ちょ、ちょっとだけ…休憩…しない?」
「そ、…そうだね」

 二人は道端に薪を放り出して木陰に移動し、その場にしゃがみ込んだ。荒い呼吸を整えながら顔を上げると、薪を運ぶ他班の子どもたちの姿が見えた。どこの班も二人で一つの薪を運んでいた。中には、体力のある男の子が女の子の分まで運んであげているところもあった。今の二人にとっては、美しくもあり、また、羨ましい光景でもあった。

「なんか、私たちの班と違うね」
「うん。…全然違う」

 蓮と実生は、通り過ぎていく子どもたちを眺めながら、しばし放心した。そんな二人に、通り過ぎていく子どもたちから遠慮の無い視線が向けられた。

「レンちゃん。…なんか、私たち見られてる?」
「うん。そうみたい。…ひょっとして、サボってるとか思われてるのかな?」
「それヤダ。…レンちゃん。回復した?」
「あんまりしてない。…でも、行こっか」

 真面目に仕事をしているのにサボっていると思われるのは我慢がならなかった。二人は気力を振り絞って立ち上がり、重い薪を抱えて歩き出した。二人の体力は限界に近づいていたが、それでも頑張った。手がしびれて握力が無くなり、薪が腕からずり落ちそうになったが、それでも必死で抱えて歩き続けた。

 再び歩き始めて、さらに五十メートルほど進んだだろうか。二人の行く先に、岩元と山崎の姿が見えた。岩元たちは、うずくまるようにして地面のある一点を注視していた。蟻の巣だった。末松たちは、口に唾液を溜めては、【よだれボンバー!】と称して、蟻の巣に落としていたのだ。実生は薪を地面に叩きつけると、岩元たちに詰め寄った。

「岩元くん、山崎くん。遊んでないで、ちょっとは手伝ってよ!」

 実生はかなり我慢の限界に近づいているようだった。声が怒りに少し震えていた。一方、岩元と山崎は呑気なもので、悪びれた様子も無い。岩元は言った。

「うっさいなぁ。遊んでないって。…なぁ、セッちゃん」
「おうっ。オレもガッツも、今、蟻と闘ってんだよ。見りゃ分かるだろ?」

 セッちゃん、とは山崎のあだ名で、ガッツ、とは岩元のあだ名である。どちらも奇妙で意味の分からないあだ名だが、そもそもあだ名なんて奇妙で意味不明なものがほとんどなのだから……(以下省略)。

「そんなの見ても分かる訳ないでしょ!」

 実生は激昂した。分かる訳なかった。女の子である実生には岩元たちの言い分を理解できる訳がなかった。が、しかし、確かに岩元たちは蟻と闘っていたのだ。

 ちょっと(というか非常に)分かりにくいが、岩元たちの脳内のイマジネーション世界では蟻が擬人化され、圧倒的なパワーによる破壊と、為す術もなく逃げ惑う人々(蟻)の姿が紡ぎだす(さながら怪獣映画かUFO襲来映画のような)一大スペクタクルが展開されていたのだ。

 男の子とは【力】への憧れが強い生き物で、怪獣はめちゃんこデカくて、めちゃんこ強くなければならないし、アニメの主人公が乗る巨大ロボットは、めちゃんこ凄い必殺技を持っていなければならないと考える。また、このような空想に耽るのが好きなのも男の子の特徴である。
 恐らく、日本一のオタク映画監督である庵野秀明(代表作『新世紀エヴァンゲリオン』『キューティー・ハニー』)や、たぶん世界一の災害映画監督であるローランド・エメリッヒ(代表作『インディペンデンスデイ』『デイ・アフター・トゥモロー』)なら岩元たちの感じているロマンを十分理解出来ただろう。

 だが、女の子である実生には、全く不可解だった。岩本たちの言動は、異常というかバカとしか思えなかった。こういった男の子の心理を理解するには、実生はまだ幼すぎたのだ。まぁ、成長して大人の女になっても、理解できるようになるかは微妙だが……。

「もうっ。レンちゃんもコイツらに何か言ってやってよ!」
「小鳥遊は元男だし、オレらの気持ち分かるだろ?」

 一斉に三人が蓮の方を振り向いた。その場にいる全員が、蓮の言葉に注目した。突然、話を振られたので蓮はちょっと戸惑った。

「ええと…。よく分かんないけど、蟻が…可愛そうだと思う……」

 優しい性格をした蓮らしい発言だった。しかし――

「レンちゃん…。それ、ちょっと違うと思うよ……」
「なんだよ、それ……」

 微妙に見当違いな発言に、その場にいた他の三人は、瞬間的に体の力が抜けそうになった。

「あぁ〜あ。全然分かってねーじゃん。…そんなんだから小鳥遊は女になったんだっ!」
「蟻が可愛そう…とか女みたいなこと言ってっからから胸がでかくなんだよっ!」

 キツい一言だった。
 自分たちの味方をしてくれると思い込んでいた岩元と山崎にとって、蓮の賛同を得られなかったことへの不満から、つい口をついて出た一言だったが、蓮にはキツイ一言だった。ショックのあまり、一瞬、視界が暗くなった。血の気が引いて眩暈がした。目頭が熱くなった。

「ボクだって…ボクだって、好きで女の子になった訳じゃないんだぞっ!」

 蓮は勇気を振り絞って反論した。ほとんど涙声だった。しかし、鈍感極まりなく、お調子者を絵に描いて額に入れてルーブル美術館の特別展示室に飾ったような、極めつけのお調子者である岩元と山崎には通じなかった。

「知らねーよ。そんなこと」

 岩元は冷たく言い放った。そして岩元と山崎は、蓮を揶揄するかのように、再びふざけ始めた。

「セッちゃん。いくぞ。…必殺、ちくビーム!」
「ぐわぁ。やったなぁガッツ。ならばお返しだ。…必殺、爆乳リロード。ばん、ばん!」
「なかなかやるな、お主。…じゃあ、これはどうかな。…おっぱいミサイル発射ぁ。……ちゅどーん!」
「迎撃おっぱいミサイル発射ぁ。……どっか〜ん。……命中。迎撃成功!」

 最低な悪ふざけだった。たまらず蓮は叫んだ。

「お願い。やめてぇぇ!!」

 蓮の叫びは、もはや悲鳴に近かった。蓮の顔はすでに真っ青で、足が震えて立っているのがやっとだった。だが、岩元たちは悪ふざけを止めようとしない。岩元は言った。

「あのさぁ…。やめろって小鳥遊に言われる筋合いはないんじゃないの?」
「でも…。お願い。もう…やめて……」
「別にオレらが小鳥遊のこと、からかってるとは限らねーだろ」
「でも…。お願いだから……」
「まぁ、やめて欲しいって言うんなら、…条件次第で止めてやってもいーぜ」
「どうしたら、やめて…くれるの?」

 蓮は今にも消え入りそうな声で訊ねた。だが、岩元が蓮に返した答えは、蓮にとってはあまりにも残酷だった。

「小鳥遊の胸を触らせてくれたら止めてやるよ」

 岩元にすれば、わざと意地悪なことを言って、蓮がちょっと困惑するのを見てやろうと思ったに過ぎない。本気で触れるとまでは考えていなかった。が、しかし、蓮にとっては、もはやこれは恫喝だった。再び視界が狭まり、視野が夜のように暗くなった。地面が揺れて、まっすぐ立っていられなかった。息が詰まって呼吸が苦しかった。

「もし、ボクの、胸を…触ら、せて…あげた、ら、…ホントに…やめ、て…くれ…る?」

 それは、悲しさと呼ぶにはあまりに激しい痛みだった。嗚咽が込み上げてきて、上手く言葉を発っすることが出来なかった。心が壊れてしまいそうだった。

 その時である。

「レンちゃん。ダメェェ!!」

 森の空気を震わせるような、大きな声が響いた。実生だった。

「レンちゃん。そんな奴らの言うこと聞いちゃダメッ!!」

 実生は蓮をかばうかのように、蓮と岩本たちとの間に自分の体を割り込ませた。いつの間に拾ったのか、実生の手には長い樫の木の枝が握られていた。

「うわぁ。いきなりでかい声出すなよ白岐。耳が痛ってーじゃねーか!」
「黙れ。今すぐレンちゃんに、謝りなさい!」

 実生の眼の中には怒りの炎が燃えていた。実生は岩元たちを威嚇するかのように、持っていた樫の木枝を二度素振りした。樫の木枝は、ぴゅうぴゅう、と風を切って鳴った。これには岩本たちも、ちょっとたじろいだ。

「な、なんで…白岐に命令されなきゃいけないんだよ!?」
「岩元ぉ。アンタねぇ…、自分たちがレンちゃんにどれだけ酷いこと言ったか分かってんの!?」

 実生は樫の木枝を正眼に構えた。実生は見た目こそ華奢な女の子だが、実は剣道三段の腕前を持つサムライ・ガールなのだ。実生の全身からは、眼には見えない闘気が立ち昇っていた。

「オ、オレたち、何も酷いことなんか……」

 言ってねぇよ。と、言いかけて、岩元たちはようやく事の重大さを理解した。岩元たちは蓮に目を向けた。蓮は目にいっぱい涙を溜め、悲愴な表情を浮かべていた。今度は蓮をかばうように立ちふさがる実生に目を向けた。実生の身体から発せられているのは、もはや闘気ではない。殺気だった。実生は樫の木枝を上段に構え直し――、

「――成敗ッ!」

 斬られた岩元たちには、剣尖はおろか実生の手元さえ目視できなかった。二人には、ただ一条の光が瞬いたように見えたに過ぎなかった。岩元と山崎は、折り重なるようにして地面に倒れ伏した。

「しゅ、糸冬、了……」
「も、…もうだめポ」

 これが、岩元たちの最後(?)の言葉となった。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇





「ぬっふっふ。もう、逃げられないよレンちゃん。…さぁ、いいかげん観念しなさい」

 初瀬千里(はつせ・ちさと)は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。ピンチだった。尻もちをつきながらも後ずさりする蓮。前からは千里が、左右からは桜庭萌絵(さくらば・もえ)と日下部なぎさ(くさかべ・なぎさ)が迫ってきていた。包囲の輪は徐々に狭まりつつあった。素早く視線を廻らし逃走経路を探る蓮。すると、千里と萌絵の間に小さな隙を発見した。蓮は立ち上がってダッシュで突破を試みた。が――、

「逃がすかっ!」

 千里によって進路を塞がれ、とうとう蓮は部屋の隅に追い詰められてしまった。恐怖に怯えたウサギのような、哀れみを請うような目で蓮は千里を見つめた。しかし、

「無駄だよ。そんな可愛い顔で睨んでも…。さぁ、もうすぐ出番なんだから、早く衣装に着替えて」

 千里の動揺を誘うことは出来なかった。千里は蓮の前に蓮の舞台衣装を差し出した。この衣装、ミニマムなデザインのローブ・アン・シュミーズと言えば聞こえは良いが、実態は単なる薄っぺらな白い布切れだ。蓮は恐怖のあまり、ぶるる、と肩を振るわせた。


 これは、クラス演劇祭に於ける、五年一組の劇【英雄ペルセウス】の舞台裏の光景である。


 悪夢のようだった野外炊飯を、親友、白岐実生の友情でなんとか乗り切った蓮は、その後調子を取り戻し、昼食後に行われた自然観察大会などを順調にこなした。特にトラブルに巻き込まれることも無く平和な午後だった。しかし、夕食後。蓮が今回の林間学校で最も恐れていた時間。クラス演劇祭の時間がやってきたのだ。

「ホ、ホントにこれ着なきゃダメなの?」
「もちろん。ダメに決まってるじゃん」

 衣装係の千里はきっぱりと言い放った。しぶしぶアンドロメダ姫の衣装を受け取る蓮。しかし、尚もぐずぐずと煮え切らない態度で、一向に着替えようとしない。

「あぁ、もう…。レンちゃん去年までは男の子だったんでしょ。…だったら、男らしく覚悟を決めなさいっ!」
「そ、そんなこと言われたって、今は女の子だもんっ!」

 実に往生際の悪い態度である。この蓮の態度に対して遂に業を煮やした千里は、蓮の左右を固めている萌絵となぎさにアイコンタクトを送ると、

「――ヤッちまいなぁ!」

 千里の掛け声を合図に、三人は一斉に蓮に飛びつき、蓮の着ていた服を引っぺがしにかかった。

「いやぁぁああぁぁ……もぐぅ!」

 蓮は悲鳴を上げようとしが、それ素早く察した千里によってハンカチで口を塞がれてしまった。ジタバタと縺れ合う四人。しかし、所詮は多勢に無勢。抵抗も虚しく、蓮は舞台衣装に着替えさせられた上に手枷をはめられ、舞台セットの岩に拘束されてしまった。蓮を拘束し終えた千里は、舞台に目を向けた。舞台では、保呂草演じるペルセウスが怪物メドゥサと対決するシーンにさしかかっていた。

「ふぅ…。何とか間に合ったみたいだね…。じゃあ、レンちゃん。頑張ってね!」
「んんっ〜〜!!」

 暗転と同時に、蓮は大道具係の子ども達によって(セットの岩ごと)舞台へと運ばれていった。千里はひらひらと手を振りながら、その姿を見送った。ドナドナ〜。蓮の脳裏には何故か童謡【ドナドナ】がリフレインしていた。

 セットの入れ替えが迅速に完了し、舞台上の蓮にスポットライトが照射された。

 次の瞬間――、

「おぉぉぉ。……うおぉぉぉおおぉぉぉおおぉぉ!!」

 客席からどよめきが起こり、それはすぐに大歓声へと変わった。舞台上の蓮の姿が、あまりにも美しく、また、危うい姿だったからだ。
 アンドロメダに扮する蓮の衣装は、衣服と呼ぶにはあまりにも簡素で、胸や腰周りなどを最小限隠せるだけの面積しか持っていなかった。結果、蓮の細くくびれたウェストや、しなやかに伸びた足が、惜しげ無く晒された。しかも、胸や腰周りを覆う布も小さなピンで留められているだけで、ちょっとした衝撃で簡単に外れてしまいそうだった。実に危うい。
 観客たち(特に男の子)は熱狂した。まぁ、(少なくとも)学校一の美少女の裸(半裸)を見せられては、興奮せずにはいられないのだろう。客席から幾つものフラッシュが起こった。

「んんっ。んんんっ〜!!」

 岩に鎖で拘束され、海獣ティアマトへの生贄になろうとしているアンドロメダの動揺、恐怖、悲哀。蓮の演技は、これらの感情を見事に表現していた。それは思わず感嘆をもらしてしまうような、実に素晴らしい演技だった。
 しかし、蓮は(意識して)演技をしていた訳ではない。ただ単に、緊張と恥ずかしさのあまり、泣きそうになっていただけなのだ。早い話、演技などではなく素の状態を晒していただけなのだが、結果的に、アンドロメダ姫の演技として効果的に作用したのだ。

 蓮の頭の中は真っ白だった。

 常日頃から、やたら女らしい自分の身体を恥じている蓮は、大勢に見られていると意識するだけで、あまりの恥ずかしさに気を失いそうだった。極度の緊張と興奮と恥辱により、蓮の思考はほぼ停止状態にあった。だが、蓮が忘我にあろうとも、劇は進行する。

 舞台では、ペルセウスに扮する保呂草が、海獣ティアマトと激闘を演じていた。ペルセウス(保呂草)はペガサスに跨り、海獣ティアマトの猛攻をぎりぎりで回避しながら接近する。そして、ティアマトの顔の正面に到達すると、手に持っていた袋から怪物メドゥサの首を取り出し、ティアマトへ向けた。瞬間、空に雷鳴が轟き、メドゥサの魔力によって、海獣ティアマトは一瞬にして石へと変わってしまった。
 海獣ティアマトが海中へと没していくのを見届けると、ペルセウス(保呂草)は、アンドロメダ(蓮)が捕われている岩へと降り立った。ペルセウスは、アンドロメダの口を塞いでいたハンカチを取り除いた。

「いやぁぁああぁぁ。見ないでぇぇええぇぇ!!」

 アンドロメダ…というか、蓮は叫んだ。演技でもなんでもない、全く素の反応だった。

「(落ち着けレン。今、助けてやるから…)」

 保呂草はなだめるような優しい声で、蓮にだけ聞こえるように囁いた。剣を振るって鎖を断ち切るペルセウス(保呂草)。拘束されていたアンドロメダ(蓮)の手が、再び自由を取り戻した。
 さらに保呂草は、自分が身に纏っていた緋色のマントを外すと、それで蓮の身体を被い、観客の視線から蓮を守った。これは台本には載っていない保呂草のアドリブの行動だった。

「(ジュ、ジュンペイ?)」
「(あぁ、そうだ。気が付いたか?)」
「(う、うん。…ありがとう)」

 蓮は赤面した。気が付くと保呂草の顔がすぐ目の前にあったからだ。ほんの少し、あとほんの少し近づけば、唇と唇が触れ合いそうな程の距離だった。

「(セリフ、ちゃんと言えるか?)」
「(だ、大丈夫。…もう大丈夫だから)」
「(よし。…じゃあ演技を続けるぞ)」

 保呂草は蓮から顔を離すと少し距離をとった。蓮は何故か少し残念な気持ちがしたが、思考を切り替えて演技を再開した。

「す、すいません…。助けていただいたのに取り乱してしまって……」
「いえ。こちらこそ驚かせてすまない。…私の名はペルセウス。美しい姫君よ。どうか、あなたの名前を教えてはくれないだろうか?」
「アンドロメダ。エチオピア王国の王女、アンドロメダです」
「そう。アンドロメダか…。私はどうやらあなたに恋をしてしまったようだ。私はあなたを見た瞬間、あなたのことが好きになってしまいました…。アンドロメダ姫。どうか、私の妻になってもらえないだろうか?」

 ペルセウス(保呂草)の瞳が、アンドロメダ(蓮)を真っ直ぐ見つめていた。アンドロメダもペルセウスを見つめ返した。

「一緒に…来てもらえますか?」
「…はい」

 アンドロメダ(蓮)は、差し出された手を受け取り立ち上がった。二人はペガサスの背に跨ると、舞台の袖へと去っていった。

 舞台からの去り際、蓮は保呂草にしがみつきながら、保呂草の広い背中を見つめた。この時、蓮の眼には保呂草が本物の英雄に見えていた。もちろん、蓮を拘束から解き放つのに保呂草が振るった剣は、百円ショップで売っているようなオモチャの剣だったが、それでも蓮には保呂草が自分を救ってくれた英雄に見えたのだった。


 蓮は心臓が高鳴るのを抑えることが出来なかった。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇





「ジュンペイ…。ホロクサ、ジュンペイ……」

 蓮は、保呂草淳平の名前を呟いて、はぁ、と溜息を吐いた。保育園の頃からの親友の名前だが、声に出してみると、何か特別な意味を帯びた言葉に思えた。今までに感じたことのない不思議な思いがした。保呂草のことを考えると心臓が早鐘を打ち、身体が熱くなった。

「ホロクサ、ジュンペイ……」

 蓮はまた保呂草の名前を呟いた。

 保呂草の名前を呟く度に、クラス演劇会に於ける保呂草の雄姿が蓮の脳裏に蘇る。蓮は、自分を助けるために保呂草が振るった剣を、保呂草が自分に掛けてくれた緋色のマントを思い浮かべた。保呂草の大きな手。保呂草の広い背中。保呂草の存在が、自分の中で次第に大きくなっていくのを蓮は感じた。蓮は三度、保呂草の名前を呟こうと口を開きかけた。…と、その時、

「レンちゃん。…さっきから、なに部屋の隅で一人ぶつぶつ言ってるの?」

 遊葉だった。香具山遊葉に突然背後から肩を叩かれ、蓮は、ひゃあ。と、声を上げた。

「一人でぶつぶつ言ってると危ない奴みたいだから止めた方がいいよ〜」
「う、うそっ。ボク、独り言いってたの。いっやー。ちっとも気付かなかった〜」

 蓮は、あはははっ。と笑って誤魔化したが、遊葉の蓮を見る目は、不可解なモノを見る時の目だった。

「…独り言いってて、自分で気が付かなかったの?」
「そ、そーなんだ。…で、ボク、どんな独り言いってた?」
「さぁ…。何を言ってるかは分かんなかったけど、宙を見つめながらぶつぶつ言ってたよ」
「へぇ〜。まったく気付かなかったなぁ〜」

 蓮は内心ほっとした。保呂草の名前を呟いていたことがバレなかったことに、蓮は胸を撫で下ろした。

「レンちゃん、ひょっとして疲れてるんじゃない。肩、また揉んであげようか?」
「い、いい。…遠慮します。全然肩凝ってません。大丈夫でありますっ!」

 遊葉の申し出を、蓮は全力で断った。というのも、前回、初めて遊葉に肩を揉まれた時、そのあまりの気持ちよさに、思わず気を失いそうになったからだ。肩こり症の蓮にとって、遊葉の肩もみは麻薬のような魅力があった。それだけに中毒になるのが怖かったのだ。

「ふ〜ん。まぁいいや。…それより次、お風呂、うちのクラスの番だよ。…早く一緒に行こうよ」
「あっ。忘れてた。お風呂行く用意できてないや。…アスハ、ごめんだけど、先に行っといてくれる?」
「なんじゃそりゃ。…ぼーっとしてるから、とっくに準備できてるかと思ってたのに…」
「ごめ〜ん」
「仕方ないなぁ。…先、行ってるから、早く来なよ」

 遊葉はちょっと肩をすくめて部屋を出ていった。遊葉に追いつくべく、慌てて自分のバッグから着替えやタオルを取り出してはビニールの袋に詰める蓮。…と、ふと部屋を見渡すと、部屋には蓮とあと一人を除いては、誰も残っていなかった。蓮を除いてあと一人……泉杏華だった。

 蓮は横目で杏華を見た。杏華はやけにもたもたした手付きで風呂に行く用意をしていた。

「泉さん。…まだ、お風呂に行ってなかったの?」
「う、うるさいわねっ。…あなたに言われなくっても行くわよっ」

 杏華はちょっと蓮を睨んで応えた。蓮は、あれっ?と、思った。不思議だった。何事も一番が大好きな杏華なら、林間学校の時でも一番にお風呂に入ろうとするはずだった。それなのに、まだ部屋でもたもたしている。しかも、何だか元気がない様子。

「ねぇ。泉さん、どっか身体の具合悪いの…。ひょっとして生理になっちゃったとか?」
「ち、違うわよ。私のことはどうでもいいでしょ。放っておいて。…小鳥遊さんこそ、さっさとお風呂に行ったら?」

 やはり変だった。普段の杏華なら、“小鳥遊さんは、身体は女でも、心は男なんだから、女湯に入らないでよね”くらいキツイことを言いそうなものなのに、やけに大人しい。蓮はしきりに首をかしげた。

「…まぁいっか」

 蓮は少し杏華のことが気になったものの、とにかく、部屋を出て風呂へと向かった。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇





 部屋を出た蓮は、廊下を走って風呂へと急いだ。(巨乳のため)肩が凝りやすい蓮にとって、入浴の時間は肩の凝りをほぐす貴重な時間なので、一秒だって無駄には出来ないのだ。
 女湯の扉を、がらり、と開けて脱衣所に入る蓮。ところが、脱衣所内の光景を目にした途端、蓮は瞬間冷凍されたみたいに、カチン、と硬直してしまった。

 女湯。そこは男の近づくことが出来ない秘密の園だった。脱衣所には、女の子たちの匂いが濃く立ちこめていた。

 もちろん、蓮は女の子である。女湯に入る正当な権利を有する。それに、女湯に入るのが初めてという訳でもない。去年の冬、家族で温泉旅行に行った際、蓮は母や姉と一緒に女湯に入っている。
 だが、蓮は女の子になってまだ半年。多様な年齢の女性がいる中で女湯に入るのとは勝手が違う。蓮は、同世代の女の子の裸に、まだ、ちょっとしか慣れていなかったのだ。しかも、一緒にお風呂に入るとなれば、自分の裸も見られることになる。必死で隠してきた大きな胸も、クラスメイトに見られてしまうことになる。知らない人間に見られるのとは大違いだ。蓮は思わず赤面した。

 脱衣所の扉を閉めると、胸を見られないための計画を素早く練る蓮。

 意を決した蓮はクラスメイトの女の子たちから出来るだけ離れた場所に移動すると、急いで服を脱ぎ始めた。蓮の計画は、出来るだけ女の子たちの死角に移動し、出来るだけ目立たないようにすること。とにかく早く入浴を済ませることだった。

 まるで泥棒猫か何かのように周囲を警戒しながら浴場に入ると、コソコソと身体を洗う蓮。この時、蓮は、お湯に浸かるのは諦めて、髪と身体を洗ったらさっさと出ちゃおう。と、考えていた。しかし、物事とはいつも計画どおりに運ぶものではなく、上手くいって欲しいと思っている時に限って、何らかの障害が発生するものである。髪を洗い終えた蓮は、こっそり浴場を出ようとした。その時――、

「レンちゃん、もう上がっちゃうのぉ?」
「一緒にお湯に浸かろうよ〜」

 蓮を呼び止めたのは遊葉と実生だった。咄嗟にタオルで胸を隠す蓮。

「レンちゃん。お風呂に来たんだから、ちゃんとお湯に浸からないとダメだよ〜」
「あ〜。え〜っと。…いい。遠慮する。…ボク、熱いお湯は苦手なんだ」
「あっ、それなら大丈夫。丁度いい湯加減だよ。だから入りなよ〜」

 適当に嘘をついて逃れようとした蓮だったが、逆に墓穴を掘ってしまった。しかも、実生がわざわざ湯船から上がって蓮のところにまで来ると、蓮の腕をがっしと掴んだ。これで完全に逃げられない。蓮は実生に手を引かれて、しぶしぶ湯船へと向かった。

「…っと、お湯に浸かるその前に、…レンちゃん。タオルはお湯に浸けちゃダメだよ…っと!」

 実生は剣道で鍛えた瞬発力で、蓮の胸を隠しているタオルを素早く奪い取った。

「キャンッ!」

 尻尾を踏まれた子犬のような、実に情けない悲鳴を上げる蓮。一瞬、蓮の大きくて形の良い乳房が、ぷるるん。と露わになったが、たちまち腕で隠されてしまった。湯船に浸かっていた他の女の子たちから、あぁ〜。と残念そうな溜息が漏れた。

 蓮は両腕で胸を隠しながら、慎重に湯船に浸かった。

 蓮は緊張した。湯船の中には蓮を除くと十五人の女の子が浸かっていて、(当然ながら)一糸纏わぬ素っ裸を晒していた。男の子には滅多なことでは見せられないような部分まで、ばっちり見えていた。蓮は眼をどこに向けていいのか困惑した。身体は女の子でも、心まではまだ女の子になりきれていないのだ。
 一方、クラスメイトの女の子たちの視線は、遠慮なく蓮の身体に向けられていた。湯煙で霞む浴場を、ビミョーな緊張感を孕んだ沈黙が支配していた。

「ねぇ、レンちゃん。…腕、退けてくれない?」

 沈黙を破ったのは遊葉だった。蓮は、びくっ。と、身体を振るわせた。

「な、なんで腕を退ける必要があるの?」
「だって…、レンちゃんのオッパイが見たいんだもん…。皆も見たいよねぇ?」

 遊葉は同意を求めるように、女の子たちの顔を見回した。女の子たちは皆、無言で頷いた。蓮は、びく、びくっ。と、二度、身体を振るわせた。ピンチだった。

 一見、遊葉たちの要求は、無茶苦茶な内容に思えるが、しかし、この年頃の女の子が蓮の裸を見たがったのは無理もないことだった。…と、いうのも、二次性長期を迎えた女の子たちは、日々、少しずつ大人へと自分の身体が変化していくのを実感している。このことを喜んでいる女の子もいれば、逆に疎ましく思っている女の子もいるだろう。しかし、自分たちの身体の成長が気にならない女の子は存在しない。
 だから、お互いの身体の成長を確かめ合う機会として、風呂の時間はまさに打ってつけだった。そして、女の子の中でも最も成長著しい蓮が、他の女の子たちの関心を集めないはずはなかった。

「ねぇ。私のオッパイ見てもいいから、レンちゃんもオッパイ見せて…」

 遊葉が湯をざくざく掻き分けて詰め寄ってきた。膨らみかけの小ぶりな乳房も、薄いピンク色の乳輪も、へその下にある部分までも完全に丸出しで迫ってきた。…ひぃぃ。と、短い悲鳴を上げて後ずさる蓮。ところが、背中に何かが当たったかと思うと、背後からがっしりと羽交い絞めにされてしまった。
 後ろを振り向くと、そこには実生がいた。背中に実生の二つの乳首が当たっている感触が伝わってきた。実生の胸は脂肪が少なく、肋骨でごりごりしているのが分かった。

「逃がさないよ。レンちゃん…」

 実生が耳元で囁いた。ひぃぃぃ。と、再び蓮は悲鳴を上げ、実生の腕を振り解こうともがいた。しかし、実生は剣道で鍛えていることもあって、女の子にしてはなかなか力が強く、まったく振り解けそうにない。かつて体験したことのない、最大級のピンチだった。

「女の子同士だから、別に見られてもいいじゃない」
「私のも見ていいから、レンちゃんも見せてよ」

 蓮包囲網に、初瀬千里と桜庭萌絵がさらに加わった。千里と萌絵はそれぞれ蓮の腕を掴むと、蓮の腕を力任せに胸から引き剥がしていく。

「いやぁぁああぁぁん!」

 蓮の悲痛な叫びも虚しく、とうとう腕を横に広げられてしまった。これでもう胸を隠すものは何もない。蓮の大きな乳房が露わになった瞬間――、

「うわぁぁああぁぁ〜!!」

 女の子たちの間から、感嘆の声が上がった。それは、かつて見たことのない大迫力の乳房だった。メロンのように巨大な乳房が二つ、湯にぷかぷかと浮かんでいた。

「すっごーい。こんなの初めて見た!」
「信じらんな〜い。…レンちゃんって、ホントに元男の子なの?」
「どうやったら、こんなに大きくなるんだろ?」
「ちょっと触ってもいい?」

 後はもう、為すがまま。されるがまま。女の子たちは蓮の前に群がると、次々に蓮の乳房を撫でまわした。女の子たちにすれば別に悪気はないのだが、元男の子の蓮にとっては屈辱的だった。蓮の胸に悲しみが突き上げてきた。目頭が熱くなった。わずかでも気を許せば声を出して泣き出しそうだった。涙で視界が滲んだ。目にいっぱい溜まった涙がこぼれ落ちないよう、必死で瞬きを我慢した。蓮は元男の子。泣く訳にはいかない。こんなことで泣く訳には……

「やわらか〜い。ぷにぷにしてる〜」
「搗きたてのお餅みた〜い」
「わぁ。けっこう重みがあるんだ〜」
「気持ちいい〜。この感触、なんか癒されるぅ〜」

 女の子たちは、蓮の乳房に触れては、口々に感想を述べた。しかし、さすがに女の子だけあって、乳房に対する扱いは優しく、男の子のように乱暴に鷲掴みするようなことはなかった。…と、その時、遊葉は蓮の様子がおかしいことに気付いた。さっきまで無駄な抵抗を続けていた蓮が、今は俯いてぐったりしているのだ。

「レンちゃん。…どうしたの。大丈夫?」

 遊葉は蓮の顔を覗き込んだ。蓮は…泣いていた。眼からは大粒の涙が次々とこぼれ落ちていた。女の子たちにいいように弄ばれ、もみくちゃにされて、蓮の元男の子としてのプライドがボロボロに傷つき、遂に耐えられなくなってしまったのだ。

「うわっ。えっと、あの…ご、ごめんレンちゃん。…そ、そんなつもりじゃなかったんだよ」

 遊葉は慌てて謝り、蓮を慰めようとした。他の女の子たちもビックリして、ごめんなさい。の大合唱が起こった。が、しかし、もはや手遅れだった。

 一たび心の防波堤が決壊してしまえば後は脆いもので、今まで我慢に我慢を重ねて押さえつけてきた悲しみが、怒涛のように押し寄せてきのだった。毎日の登下校の時に通行人から受ける視線や、学校での杏華の意地悪。野外炊飯の時の出来事や、クラス演劇祭での恥辱。耐えに耐えてきた辛い記憶が胸中に再び甦り、涙となって溢れ出した。悲しみのあまり、蓮はその場から一歩も動けなくなってしまった。

 そもそも、蓮がコソコソしないで、最初から堂々と胸を見せていれば、このような事態にはならなかったのだろう。しかし、男の子のプライドをまだ少し引きずっている蓮にとって、やけに女らしくなってしまった自分の身体を他人に堂々と晒せるはずもなく……。

 浴場に蓮のすすり泣く声がこだました。

 その場にいた女の子たちの心に、言葉に例え様の無い罪悪感が涌き起こった。美人の女の子が泣くと、(男でなくとも)少なからず心が痛むものなのだ。シマッタ〜。やり過ぎちゃったよ。どうしよ〜。と、女の子たちは思った。女の子たちは互いの顔を伺い、この気まずい空気を変える手掛かりを求めた。

 と、その時、

「――い、泉さんっ!」

 女の子たちの中の一人が、裏返ったような声を上げて泉杏華を指差した。(蓮を除く)全ての女の子たちの視線が一斉に杏華に注がれた。

「ちょっと泉さん。どうしてお風呂に入るのにバスタオル身体に巻いてるのっ!?」

 別の女の子が叫んだ。杏華は、びくっ、と身体を震わせた。杏華はバスタオルを身体に巻いて浴場に入り、蓮が女の子たちにオモチャにされている間にさっさと洗髪を済ませて、こっそり浴場を抜け出そうとしていたのだ。

「自分だけバスタオル巻くなんて卑怯だよっ!」
「バスタオル持込み禁止っ。取りなさいっ!」

 女の子たちから批判の声が上がった。

 まぁ、だいたい一学年に一人くらいは、身体にバスタオルを巻いて(あるいは水着を着て)入浴しようとする女子がいるものだ。…で、そういった(ある意味、裏切り者な)女子は白い眼で見られつつもスルーされるか、教師にチクられてバスタオル(または水着)を取り上げられてしまうのがオチなのだが、…今回はタイミングが悪過ぎた。

「皆、隠してないのに、自分だけずるい!」
「そんなことして卑怯だと思わないの泉さん!?」
「そうだっ。今すぐバスタオル取れっ!」

 女の子たちから批難の声が杏華に集中した。女の子たちは、蓮を泣かせた罪悪感から逃れたくて必死だったのだ。それに、(大して罪の無い)蓮に対してあれほど強引なことをしておきながら、杏華のような大物を見逃すわけにはいかない。一方の杏華は、ただならぬ雰囲気に顔を引きつらせた。

 睨みあう杏華と女の子たち。

 しばらくの間睨み合いが続いたが、一人の女の子が、ふと、杏華に奇妙な違和感を感じた。クラスでは蓮に続いて二番目に大きい(はずの)杏華の胸が、やけに寂しく見えたからだ。

「泉さん…。胸、ひょっとして……」

 杏華の顔色が瞬時に変わった。顔面蒼白だった。

「…見せてっ!」
「嫌ッ!」

 女の子たちは遂に実力行使に踏み切った。杏華はバスタオルを奪われまいと必死の抵抗を見せたが、大勢を敵に回して勝てるはずも無かった。バスタオルはあっけなく奪い取られ、杏華の胸が露わになった。

「――あっ!」

 女の子たちは一斉に驚きの声を上げた。

「つ、つるぺた……」

 バスタオルの下から現れたのは、丸く豊満な乳房ではなかった。乳首を除けば一切の凹凸を持たない垂直の絶壁。まさに完全無欠、見紛うことなきパーフェクトな【つるぺた】だった。

「パッド…、入れまくってたのか……」

 誰かかが呟いた。次の瞬間――、

「うわははぁぁあ゛あ゛ぁぁん!」

 杏華は声を放って泣いた。杏華は目を真っ赤に腫らし、鼻をずるずる鳴らしながら大声を放って泣いた。普段の気取った態度からはとても想像できない姿だった。

「な゛、な゛に゛よ゛う。み゛んなじて、わ゛た゛じのことイジメでぇ!……ご、ごんな゛ごと、…ゆ゛、ゆ゛るざないんだからぁ!!」

 杏華は再び、うわははぁぁあ゛あ゛ぁぁん!と、声を放ちながら、浴場を飛び出していった。

 後に残された女の子たちは、何すかアレ?と、互いの表情を見比べた。取り立てて罪悪感は涌いてこなかった。(蓮のような)美人の女の子が泣けば心も痛もうが、(杏華のような)高慢ちきな女が泣いたところで、(残念ながら)ちっとも心は痛まなかった。

 何だかシラケた結末に、女の子たちは暫し呆然とした。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇





 翌日、色々あった林間学校も、ようやく終わりを迎えようとしていた。空は来た時と同じように、見事に青く晴れわたっていた。梅雨明けのカラリと乾いた風が時折吹いて、肌に心地よかった。若いツバメが盛んに空を飛び交っていた。

 蓮が帰りのバスに乗り込み、自分の席に着いたところで、保呂草淳平がやって来た。

「なぁ、レン。今日、オレん家に遊びに来ないか?」
「えっ…、ええと……」

 保呂草の顔を見た瞬間、蓮は赤面した。昨日のクラス演祭でのことを思い出したからだ。蓮は保呂草の顔を真っ直ぐ見つめることが出来なかった。

「どうしたんだ、レン。目がまっ赤だぞ?」
「あっ…、そ、それは……」

 保呂草が蓮の顔を覗き込んだので、蓮はますます赤面した。

 昨日、風呂から出た後、蓮は布団の中でまた泣いたのだ。一度泣き止みかけても次々と新たな涙が溢れてきて、ほぼ一晩中、涙で枕を濡らし続けた。お陰で今日は朝から目が真っ赤なのだ。

「なんか顔も赤いな。…ひょっとして風邪のひきかけか?」
「あっ…。ちっ、ちが……」
「ふ〜ん。要するに疲れたんだな。…じゃあ、今日遊ぶのはやめて、また今度にしよう」
「う、うん……」

 保呂草は蓮の肩に軽く手を触れると、自分の席へと去っていった。

 蓮は愕然とした。昨日までは普通に保呂草としゃべれていたのに、突然、上手くしゃべれなくなっている自分に気付いたからだった。いつも気軽に呼べていたジュンペイという名前が、いつの間にか、喉に支えて呼べなくなっていた。嘘っ、うわぁ〜ん。信じらんないよぅ。と、心の中で絶句した蓮は、ショックのあまりシートに身体を投げ出して目を閉じた。

「小鳥遊さんっ!」

 今度は頭上から声がした。高飛車で、鼻にかかったような甲高い声だった。目を開けてみると案の定、泉杏華だった。

「…泉さん、何か用?」
「小鳥遊さん。…昨日は確かに私の負け。素直に敗北を認めるわ」
「…はぁ?」

 一瞬、何のことを言っているのか分からなかった。が、どうやら、昨日の風呂での出来事を言っているらしかった。蓮は泉の胸を見た。泉のブラジャーには、今日はパッドが入っていないようだった。

「…でもねぇ。今にきっと、あなたに追いついて見せるんだから…、あまり調子に乗らないことね」

 杏華は蓮の大きな胸を一睨みすると、自分の席に座り、そっぽを向いてしまった。蓮はどうやら気がつかないうちに、杏華との勝負で念願の初勝利を上げたらしかった。しかし、勝利の喜びや達成感のようなものは特に涌いてこなかった。蓮の心を支配していたのは、むしろ、言葉では言い表せないような疲労感と脱力感だった。

 蓮はシートの背もたれに体重を預けると、再び目を閉じた。乳房がまた少し大きく成長したのか、ブラジャーがきつくて胸がちょっと窮屈だった。


 蓮と、蓮の乳房の前途は、まだまだ多難であった。











後書き


 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。fun9です。


 いや、疲れました。物語を書いてて疲れたのは今回が初めてです。書いている途中で面倒くさくなるのは毎度のことなのですが、書いていて疲労感を感じたのは今回が(本当の話)初めてです。…というのはですねぇ、今回の物語の主人公が小学生だったからです。

 小学生を主人公に据えて物語を書くにあたって、自分が小学生だった頃の事を思い出そうとしたのですが……小学生……私が小学生だったのは数世紀以前の遥か昔のこと。思い出そうにも、ほとんど記憶が残っていませんでした。だから凄く書きにくかったのです。しかも、この物語を書いている最中、自分がすっかり汚れた大人になってしまっていることにも気付かされてしまいました。…あぁ。何事にも真面目で、様々な物事に素直に感動していた小学生の頃の自分は、いったいどこに消えてしまったのでしょう……。

 …というわけで、皆さんも立派に汚れた大人、してますか?


 さて、この物語を最後まで読んでみて、「なんでタイトルが【イアン・ウィルコット博士】なの?」と思われた方も多いことでしょう。そこで、一応、説明(というか言い訳)をしておきます。

 実はこの物語、当初はクローン問題を扱った硬派なSF作品になるはずでした。…で、物語のタイトルは、世界で初めてクローン生物(クローン羊)を誕生させたイアン・ウィルコット博士の名前を使おうと考えたのです。
 ところが、ウィルコット博士が誕生させたクローン羊【ドリー】の名前の由来が、(ドリーは雌羊の乳腺細胞から作られたので)バストの豊かな歌手(女優でもある)ドリー・バートンにちなんで名付けられたことを思い出してから計画が狂い始めました。

 ほんの小さな思い付き。「元男の子で(しかも)小学生なのに巨乳だったら(本人は)嫌だろうなぁ…」から、当初の予定していたストーリィは狂い始め、最終的には、計画していたものとは(残念なことに)全く違う物語になってしまったのです。…そこで、せめてタイトルにだけは、この物語がSFだった頃の面影として残しておこう。と、考えたのです。


 …という上記のエピソードは、全くのウソです。


 この物語は、私がこれまでに書いた物語としては、初の(短編でない)物語です。以前、【I can't stand it anymore!】を発表した際、「一度、長い物語を書いてみたら?」という(内容の)ご意見を頂戴し、なんとなくやる気が出たので→執筆。…という運びになりました。おそらく、あのご意見がなければ、この物語は誕生しなかった(したとしても短編)でしょう。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。


 あと、物語上はまったくどうでもよい拘りなのですが、テレビ時代劇【暴れん坊将軍】に於ける松平健の名台詞「――成敗ッ!」と、映画【KILL BILL】に於けるルーシー・リューの名台詞「――ヤッちまいなぁ!」を自分の作品に(こっそりと)盛り込むことが出来て嬉しかったです。(ホント、どうでもいいことですね…)


 では、また次回作でお会いしましょう。


戻る

□ 感想はこちらに □