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俺に降りてきた天使

Written by NHK


 午前3時30分。俺は一秒の狂いも無く目を覚ます。

 ジリリリリリリッ! かちっ!

 目を覚ますと同時に、俺はすばやく目覚まし時計を止めた。この動作も一秒の狂いも無い。
 寒いのを我慢して布団を抜け出すと、隣の部屋で寝ている妹を起こさないよう静かに歩く。俺は階段を下りて、まずは洗面所に向かう。
 蛇口を捻ると冷たい水が流れ出す。その水で俺は顔を洗った。今朝の水はやけに冷たい。この分だと、外はかなり寒いことだろう。ひょっとすると氷点下を下回るかもしれない。眠気は、注射前のアルコール消毒のように吹き消える。
 俺はパジャマを外出着に着替えてコートに袖を通すと、玄関の扉を開けて外に出た。はぁ、と息を吐くと、息は白い水蒸気となって、空へ昇っていった。玄関の扉に鍵をかけ、ガレージに止めてあるバイクにキーを挿しこみ、エンジンをスタートさせる。

 ドルン! ブルン、ブルン、ブルン、ブルッ!

 エンジンが低く鈍い唸りをあげた。
 俺は空を見上げた。昨日の夜から降り出した雨は止み、空には満天の星が輝いていた。その中でも北斗七星とオリオン座がやけに目立つ。典型的な冬の夜空だ。俺はその光景を素直に綺麗だと思い、しばし見惚れた。

 ブルブルブルブルブルブルッ!

 エンジン音が変わった。どうやら温まったらしい。
 頃合を見計らってクラッチを繋ぎ、俺はバイクを発進させた。

 これが俺にとって、いつもの朝の様子だ。こうして夜明け前に家を出る生活をもう7年も続けている。いまでは目覚ましが無くても起きられるのだが、保険として寝る前には目覚まし時計をセットしているのだ。
 俺の名前は山川勇次、27歳の独身。親の残した家に6歳年の離れた妹と二人で暮らしている。俺は地元の市役所に勤めている地方公務員だ。俺は今、職場に向かっているのだが、それは市役所ではない。
 そう、実は俺には二つの顔がある。一つは市役所勤めの地方公務員の山川勇次。もう一つが新聞配達員の山川勇次だ。本当のことを言うと、新聞配達員としての顔のほうが古い。

 俺が新聞配達を始めたのは、最初は両親の医療費を工面する為だった。俺は大学に通いながら、必死に働いた。そして就職してからも、職場に偽って働き続けた。しかし、3年前に両親が相次いで亡くなり、医療費を工面する必要もなくなった。
 それでも俺は新聞配達を止めなかった。公務員の兼業禁止規定に背いてまで働く必要は無かった。しかし、新聞配達で得た収入は、確実に自分の貯金に出来ると思うと、つい辞められないまま今日まできてしまったのだ。

 バイクで5分ほど走って、毎朝読新聞配達所に到着。
 俺はエンジンを切り、バイクにハンドルロックを掛ける。次に、俺が仕事で乗るカブを引っ張り出し、新聞が積めるようにセッティングする。
 これでOK。俺は店の中に入った。おはようございます、と配達所の人達に挨拶し、【山川裕子】と書かれたタイムカードを取り出し、機械に入れる。

 ガチャン!

 カードに始業時刻が記録される。【山川裕子】は俺の妹の名前だ。5年前までは【山川勇次】の名前で俺は働いていた。しかし、就職してからはこのアルバイトが職場にばれないよう、店主と相談の上、【山川勇次】が辞めて【山川裕子】が新たに入ったというカタチにしてもらったのだ。
 こういったことは俺ばかりではない。ここにはあと二人、俺のお仲間がいる。その二人のどちらも会社員で、兄弟や父親の名前でタイムカードを押している。俺の場合、身内に男がいないため、仕方なく妹の名義を借りているのだ。

「ゆうちゃん、おはよう。仕事の掛け持ちは大変やねぇ」
 文子さんが話し掛けてきた。文子さんは店長の奥さんだ。いつも従業員たちのことを気に掛けてくれるいい人だ。
「あっ、おはようございます。大丈夫ですよ、すっかり慣れましたから」
「そう、でも顔バレには気ぃ付けなあかんよ。ゆうちゃんの上役さん、最近この辺りに引っ越して来たんやろ?」
 そうなのだ。実は最近、市役所での俺の上司がこの近所に引っ越してきたのだ。ただ引っ越してきただけなら配達中に出くわす確率はそれほど高くない。しかし、上司は最近、犬を飼い始めた。そのため、配達中に出くわす確率が非常に高くなってしまったのだ。
「そうですね。俺の配達ルートは上司の家の前を通るわけじゃないけど、十分注意します」
「気ぃつけてね」

 俺はいつものように、カブの前後に新聞を積むと、まだ薄暗い夜明け前の街へと走り出した。

 配達も3分の2を終えた時だった。
 街路樹が車道の両脇に並ぶ長い一本道を走っていると、向こうから犬を連れて人が歩いて、こっちに近づいてくるのが見えた。
 その瞬間、俺は戦慄した。全身の毛が、ぞわっ、と逆立つような恐怖。犬を連れたその人物。それはまぎれも無く俺の上司だったからだ。
 お互いの距離はまだ200m近く離れているので、顔までは分からない。しかしあの巨漢、俺の上司だ! あんな巨漢、そうそういるもんじゃない!
 俺の上司は身長182センチ、体重は130キロを超すビッグファットな体型の持ち主なのだ。しかも性格は悪く、慇懃無礼な態度で、部下と市役所を訪れる市民をねちねちといびることに情熱を注ぐ、とにかく恐るべき人物なのだ!

 俺の心臓が早鐘を打つ。引き返すべきだろうか? いや、ここで引き返せば、奴に不信感を抱かせるかもしれない。それに、急いですれ違えばきっとバレないだろう。
 
 俺は覚悟を決め、スロットルを絞りスピードをあげた。次の瞬間、街路樹の陰から突然、男が飛び出してきた!!

「あぶない!!」

 俺は咄嗟にブレーキをかけたがとても間に合わない!

 キキキキーッ!! バンッ!!

 激しい衝突音!
 その光景に俺は自分の目を疑った! 俺のすぐ目の前には、本来なら跳ね飛ばされているであろう男が、平然と立っていたからだ! それだけじゃない! 男は伸ばした右手の人差し指一本で、俺の運転するカブを止めたのだ!!

「だっ、大丈夫ですか!?」
 俺はカブを停止させると男に駆け寄った。男は無言で立っている。しかも、なぜか、男の周囲だけ砂嵐が吹いていた。なんだか、熱い心を鎖で繋いでも無駄そうな、そんなフインキをこの男は漂わせている。
「すいません! 怪我は無いですか!?」
 突然、男の目が怪しく発光し、唸り声を上げた!
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 男の体からオーラが立ち昇る。と同時に、男の上着が破れ、デニム地が細切れになり、男の上半身が露になった! まさに鋼のような肉体! そして眼を引くのが、まるで銃で撃たれたみたいな、胸についた7つの傷跡!!

「ほぉ〜ぅ」
 男の手が何か、中国拳法のような動きを見せた。次の瞬間!
「あたたたたたたたたたたたたたたたたたた……」
 男は怪しい高音を発し、俺にラッシュパンチを浴びせかけた!!
「あたたたたたたたたたたたたたたたたたた……」
 そのパンチの速さたるや凄まじく、残像で拳が何十にも分裂して見える!!
「あたたたたたたたたたたたた……あちょぅ!!」

 男がフィニッシュブローを放った瞬間、俺は………死んだ! ………と思ったのだが、あれだけ殴られたにもかかわらず、不思議なことに痛みがまるでない。どうなってるんだ!?

「経○秘孔の一つ、女身変孔を突いた。お前はもう、男ではない」
 そう言うと男は砂嵐と共に悠然と去っていった。
 
 呆然と立ち竦む俺。あの男はいったい何だったんだ? 俺はつぶやく。
「……なすび?」
 次の瞬間、俺の体の中から、ばきばき、と音が聞こえた。骨が、骨が形を変化させていく! 髪が、ぶわさっ、と一気に肩まで伸びたかと思うと、股間のアレが急速に縮んでいく! 俺の体はどうなってしまうんだぁぁぁ〜!!

 俺は恐怖のあまり一瞬、気を失った。

 まず目に飛び込んできたのは、胸についた二つのふくらみだった。そして手、まるで白魚のような白い肌に、細く繊細な指。俺はあわててカブに付いたサイドミラーで自分の姿を確認した。そこには、妹の裕子を5歳くらい若返らせたような美少女がいた。

「……新聞……配達しなくちゃ」
 俺の頭の中はパニック状態にあった。人間はあまりに大きな混乱に直面すると、ひとまず現実から目をそらす生き物のようだ。俺は突然女になってしまったことを一時的に忘れて、新聞を配達し続けた。

 すべての配達を終えた頃、俺は自分が女になってしまったことを思い出した。
 俺は自動販売機の前でカブを止めた。小銭を取り出して機械に投入し、震える指でボタンを押す。がこんっ、受け取り口にホットの缶コーヒーが落ちてくる。缶コーヒーを取り出すとプルトップを引き、ひと口、コーヒーをすする。コーヒーの甘味が体に染みるように美味い。

 少し冷静さを取り戻したところで、俺は今、自分が置かれている状況を分析してみた。
 今朝の配達時、俺が最も恐れている事態が発生した。配達中に市役所の上司に出くわすという事態だ。
 ところが、突然謎の男が現れた。男は俺にラッシュパンチを浴びせた。結果、俺は何故か美少女になってしまった。男が何者かは分からない。男の目的も不明だ。しかし、結果的に男の行動によって、俺は救われた。上司に俺がアルバイトをしていることを知られるのは回避されたのだ。
 だがしかし、女になってしまった今、俺はどうして生きていけばいいのだろう? 職場の連中には何て言えば………。

 俺はショックのあまり、目の前が真っ暗になった。その時、またしても俺の体の中から、ばきばき、と音が聞こえてきた。髪が短くなり、骨格が形を変えていく。
 ほんの数秒で俺は元の男の姿に戻った。理由は分からないが、突然、俺は元の男の姿に戻った!
「うぉぉぉ! やったぜぇぇぇ!」
 俺は喜びのあまり拳を突き上げ、ガッツポーズを決めた!




 それからというもの、謎の男は、俺が配達中に上司と出くわしそうになる度に現れては、俺を美少女に変身させ、ピンチを救ってくれた。
 相変わらず男の目的は不明だ。正体もよく分からない。しかし、俺は思い始めている。あの男の正体は、本当は天使なのではないだろうか? 既存の天使のイメージとはかなり違うが、あの男は、これまで様々な苦労をしてきた俺のために空から降りてきた天使なのだ。
 こんな想像には何の根拠も無い。だが、俺はそれを信じずにはいられないのだ。しかし、ただひとつ、あの「あたたたたたたたたたたたたたたたたたた……」は正直、勘弁して欲しい。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
『巷説百物語』にハマッているNHKです。

この物語は思案の六ぽさんの『タイムカード』が元になっています。
思案の六ぽさん、この場にてお礼申し上げます。ありがとうございました。

実はこの物語の主人公、謎の男の真の恐ろしさをまだ知りません。
それを知ることになるのは、もう少し先のようです。

今回は純度100%の一発ネタをお送りしました。
ではまた、次回作でお会いしましょう。

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