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「どこかへ行きたい」

 深夜、突然俺の携帯が鳴った。そして携帯の向こう側で、蘇芳昴は俺に泣きながら訴えた。スバルの声は酷く震えていて、時折鼻をすする音が聞こえた。

「……おぃ、いきなりどうしたんだよ? 何があったんだ?」
「ボク、もうこんな所にいたくない。……ヤクモ、お願い。どこか遠くに連れて行って」

 スバルの声はあまりにも弱々しくて、俺はこのままスバルが消えてしまうんじゃないかと不安になった。

「……どこかって、どこに行きたいんだ?」
「分からない。分からないよ。……でも、ここは嫌なんだ」

 俺はどう答えていいのか一瞬迷った。でも、ほとんど何もしてやれないと分かっていても、このままスバルを放っていてはいけないと思った。

「……分かった。一緒にどこか旅に出よう。明日の朝、お前ん家に迎えに行くから」
「うん。……ありがとう」

 こうして、俺とスバルはあてのない旅に出た。





〜海へ行くつもりじゃなかった〜

Written by NHK


―― scene 1 ――


 蘇芳昴は俺とは小学校以来の仲で、違うタイプなのに何故かお互い気があった。俺にとっては本当に親友と呼べる奴だった。
 ところが、高校二年になった春、スバルはTS病とかクマノミ病とかいわれる病気にかかって、突然男から女になってしまった。スバルは見た目がそんなに男らしい奴じゃなかっただけに、女になってもそれほど違和感はなかった。ただ、女になったスバルは男の俺から見てもちょっと隙が多くて危なっかしく見えた。

 そして今から三ヶ月ほど前の九月、事件が起ってしまった。スバルは男にレイプされてしまったのだ。

 相手の男の名前は喪部彰久(ものべあきひさ)。俺とスバルの通う高校の教師だった。
 喪部はセクハラ教師として以前から一部の女子の間では噂になっていたが、女になってまだ間もないスバルはこのことを知らなかった。

 事件が起ったその日、喪部は下校中のスバルを車から呼び止めた。喪部は「進路相談をしてあげるから、どこか静かに話せる所へ行こう」と言ってスバルを助手席に誘った。喪部はスバルが一年の時の担任で、高校卒業後の志望大学についても色々と相談に乗っていたこともあって、スバルは何の疑いもなく車の助手席に座った。

 喪部が態度を豹変させたのは、それから一時間後のことだった。

 目的を達成した喪部はスバルを車から降ろして分かれる際、「このことは訴えても無駄だ。俺の方が社会的信用があるから、お前が馬鹿を見るだけだ」と言った。泣きながら家に帰ったスバルは、それから一週間学校を休んだ。



 一週間後、学校に戻ってきたスバルは、喪部に直接謝罪を求めた。

 元々争い事が極端に苦手なスバルにとっては、これは最高に勇気を振り絞っての行為だったのだと思う。ところが、謝罪すれば罪を認めたことになり、失職すると考えた喪部は、事件はスバルの虚言だと言い張り、要求を突っぱねた。

 このことでスバルはさらに深く傷ついた。スバルの顔からは笑顔が消え、まるで生気のない顔をすることが多くなった。

 この頃から、レイプ事件のことが生徒の間で噂話としてじわじわと広がり始めた。すると、喪部は積極的に事件はスバルの虚言だと言いふらし始めた。争いごとを嫌うスバルはこれに無言で耐えた。噂は噂を呼び、様々な説が飛び交い、事件の真相はますます曖昧になっていった。

 噂が広まるにつれ、スバルに謂れのない誹謗中傷が降り注ぎ始めた。誹謗中傷のほとんどは、「スバルは元男なんだから、女になったことで、女の性を試したくなったんだろう」とか「無理矢理だったにしても、元男なんだから最後は自分も楽しんだに違いない」というものだった。

 喪部は教師の間でも評判が良かったらしく、事件に付いてまともに取り合おうとする教師はいなかった。さらに喪部は飲み友達なども多く、それらも巻き込みながら益々噂を大きくしていった。スバルの携帯には無言電話や嫌がらせメールがひっきりなしに届くようになった。

 常に繰り返される誹謗中傷に遂に耐え切れなくなったスバルは、学校で自殺未遂を起こした。発作的に教室の窓から飛び降りようとしたのだ。が、しかし、近くにいた生徒に瀬戸際で取り押さえられた。

 それ以来、スバルは学校に来なくなってしまった。



 スバルが自殺未遂を起こすまでに追い詰められているのに、犯人である喪部は相変わらず教壇に立ち続けていた。喪部は他人の目を窺いながら慎重に言動を選択していた。それは、俺から見れば気味が悪いくらいに狡猾な振る舞いだった。

 このことに憤りを覚えた俺は、単身職員室に乗り込み、学年主任の森屋に、教師からも喪部に謝罪させるよう働きかけてほしいと訴えた。すると森屋は顔を歪ませて言った。

「噂のことは俺も知っている。だが、仮に噂が事実だとすれば、喪部先生は学校を辞めることになるだろう。それに喪部先生の奥さんも教師だから、奥さんも学校を辞めなければならないことに発展するかもしれん。喪部先生にはまだ小さい子どももいる。お前は喪部先生の人生を壊すつもりか?」

 森屋はさらに口元に皮肉っぽい笑みを浮かべながら言った。

「だいたい、蘇芳は元は男だ。それぐらいのことでいちいち傷つく訳がないだろ」

 そして森屋は「もうこれ以上この問題を蒸し返すな」と言い捨てた。
 教師たちはこの事件を無かった事として処理しようとしていた。教師たちの中に、スバルの立場に立って考えようとする人間がいないことは明らかだった。

 俺の全身に怒りがたぎった。俺は目の前にいる森屋を全力でぶん殴って、喪部も全力でぶん殴って、アドレナリンの噴出が続く限り職員室にいる教師どもを全員殴り続けてやろうと思った。だが、目の前で馬鹿面さらしている森屋を見た瞬間、そんなことをしてもこの馬鹿どもが考えを改めるはずがないことを、俺は瞬時に悟った。






―― scene 2 ――


 事件から約二ヶ月がたったある日、クラスの女子が「スバルが援交しているのを見た」と噂しているのを偶然耳にした。
 信じられなかった。どうせ他愛のない作り話だと思った。でも、今のスバルはちょっとまともじゃない。ひょっとしたらまた何かトラブルに巻き込まれているのかもしれない。そう考えた俺は噂の真実を確かめるべく、放課後、繁華街の人ごみの中でスバルの姿を探した。

 スバルの姿を探し始めてから五日目、夜九時になってもう帰ろうかと思った時、俺はスバルの姿を遂に発見した。スバルは俺の知らないサラリーマン風のオヤジと歩いていた。オヤジは立ち止まるとスバルに二、三なにかを喋ると、足早に駅の方へと去っていった。スバルは一歩も動かず、その場に立ち尽くしていた。スバルの肩には、とても高校生の経済力では買えない様な高価なブランドバッグが提げられていた。
 人ごみの中で佇むスバルは、そこにいるのに、まるでそこにいないみたいな……存在そのものが希薄な……俺は、まるで幽霊でも見ているような気分になった。スバルの瞳は虚ろで、その視線はどこにも向いていなかった。

「……スバル!」

 俺は思わず呼びかけたものの、その後、何話せばいいのか、言葉に詰まった。

「……や、ヤクモ?」

 スバルは振り返った。まるで生気のなかった顔に戸惑いの表情が浮かんだ。声が酷く震えていた。

「お前、どうして……こんな時間まで何してたんだよ」
「……ゴメン」
「ゴメンじゃ分かんねーよ。……だいたい、そのブランド物のバッグはどうしたんだよ」
「……ごめんなさい。……ごめんなさい、ヤクモ」

 俺はスバルのバッグを見た。バッグはまだ新しいのに既にあちこち傷が出来ていた。どうやら、お金やバッグが欲しかった訳じゃないようだ。じゃあ何故――。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
「……もう、いいよ」

 スバルが何故謝らなければいけないのかは分からない。でも、スバルはひたすら「ごめんなさい」と繰り返し謝り続けた。なんだが今のスバルはやけに弱く頼りなげで、今にも倒れそうなのを、ようやくのことで一人で立っているといった感じだった。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
「……もう、謝るな」

 スバルの瞳からは涙がこぼれ続けた。






―― scene 3 ――


 旅を始めて三日目。

 天気は生憎の曇りだが、俺の愛車、エレミネーター250Vのエンジンは今日もいい音を響かせていて、俺の後ろでは、スバルが鼻歌を歌っていて、だから俺も気分は悪くない。

 スバルの鼻歌に耳を傾けながらバイクを走らせる。スバルの歌う鼻歌は、明るいけどどこか切なさの漂う、そんな感じの曲だった。タイトルは分からないが、聴いたことのある曲だった。
 東へ向かってバイクを走らせていると海に出た。そこで今度は海岸線に沿って伸びる国道を北上す驕B右手には暗い冬の海が見えた。空には灰色の雲が低い層を作ていた。海上の雲には所々切れ間があって、そこから差し込む光がまるでスポットライトみたいに海面を照らし、キラキラと波に反射していた。

 海岸は風が強くて、二人乗っているから安定感はそれほど悪いわけじゃないが、念のため俺は少しアクセルを緩める。スバルの鼻歌が、また新しい曲に変わる。俺はこの曲を知っている。この曲は確か「BOYS FIRE THE TRICOT」だったと思う。


   BOYS FIRE THE TORICOT

   遠くの雲をごらん
   誇らしげな気分になる
   近づいてくる至福
   それは痛みと共にやってくる

   まるでソムリエみたいに
   五月の涙を味わってごらん
   不運は月のように現れるけど
   それならすぐに沈む
   赤い風船とは違ってね

   ヘイ、ボーイズ!トリコに火を放て
   ポーティコのところに残していこう
   丘の上、僕らの形見
   苦々しさでいっぱい
   冬の寒さを吸い込んで

   そして、まだそいつは燃えている


 途中、俺たちは休憩もかねて海水浴場を併設した公園に立ち寄った。当たり前だが浜辺には誰一人いなくて、そこには俺たち二人だけだった。
 俺はマルボロに火を点けて煙を深く吸い込みながら、砂の中から貝殻を拾い集めるスバルを眺めた。海岸からは絶えず風が吹き付けて寒かった。曇っていて風の強いこんな日は、犬を連れて散歩させる奴だっていないだろうと思った。

「ねぇ、ヤクモ。泳ごっか?」

 貝殻を集めていたスバルが突然立ち上がって言った。

「バーカ。こんなに寒ぃーのに泳げるわけねーだろ」
「そんなの泳いでみないと分からないじゃない」
「俺は寒ぃーから嫌だ」
「いいよ。ひとりで泳ぐもん!」

 スバルは言い放つや否や、マフラーを外し、コートを脱ぎ捨てセーターを脱ぎ捨て、ベルトを外してズボンを脱ぎして、次々と服を脱ぎ捨てていく。

「おいおい、ムチャすんな……」

 俺が止める間にもスバルはブラを外しパンツを脱ぎ捨てて素っ裸になると海へと突撃していった。まぁ、どうせ寒くなってすぐ上がってくるだろう。そう思って、俺は四本目のマルボロに火を点けた。

 スバルは沖に向かってどんどん歩いていく。打ち寄せる波がスバルの白い身体を洗う。
 波がスバルを襲う度に、俺の視界から一瞬スバルの姿が消える。
 それでもスバルは沖に向かって進んでいく。
 スバルの姿がだんだん小さくなる。

「おぃ! いいかげんに上がれ!」

 不安に駆られた俺は立ち上がって叫んだ。
 瞬間、一際大きな波がスバルを襲った。
 また、スバルの姿が視界から消える。
 波は俺のすぐ近くまで飛沫を運んで引いていく。

「スバル! 大丈夫か!?」

 返事はなかった。
 スバルの姿はどこにもない。
 おぃ、まさか……。

「――スバル!」

 俺は吸いかけのマルボロを投げ捨てると海に向かって走った。
 水は冗談みたいに冷たい。
 足元に波が絡みつく。
 俺は波を蹴り上げる。
 波が俺を押し返そうとする。
 それでも止るわけにはいかない。
 ちくしょう! 邪魔をするな!

「スバル! どこだ! 返事しろ! スバルー!!」

 スバルの姿はまだ見えない。
 俺は頭から海の中に潜った。
 海中は視界が悪くて、ほとんど何も見えなかった。

 ――スバル! スバル! スバル!

 俺は闇雲に手を伸ばして海中を探った。
 何かが小指に触れた。
 俺は咄嗟にそれを掴んで、力任せに引き揚げた。

 それは、スバルの細い手首だった。

「馬鹿かよお前は! なに考えてんだ! いいかげんにしろよな!」
「――えほっ、げほげほ。ごほ、うぇぇ」

 俺はスバルを引き摺りながら砂浜へと上がった。スバルは海水をたっぷり飲み込んだらしく、激しく咳き込んだ。身体が恐ろしく冷えていて、歯ががちがちと鳴った。スバルの身体は全身真っ青で、唇は濃い青紫色になっていた。とにかくどこかで暖をとる必要があると思った。

「お、おい。……は、早く、服着ろ。……ふ、風呂屋、い、行くぞ」
「……う、うん」






―― scene 4 ――


 俺は凍える手でバイクを操りながら銭湯を探した。でも、銭湯なんて都合よく見つかるはずもなかった。スバルは俺の背中でガチガチと震えていた。あまりの寒さにガンガン頭痛がした。

「……や、ヤクモ! あ、あそこに、は、入って!」

 スバルが国道沿いにある白い建物を指差した。それは、ギリシャのパルテノン神殿を模したレリーフが施されたラブホテルだった。

「ま、マジかよ!? ……つ、つーか、俺、もうそんな金、ね、ねーぞ!」
「だ、大丈夫! ぼ、ボクが持ってるから!」

 たぶん、その金は、スバルが援交で稼いだ金だ。正直嫌だった。でも、銭湯は見つからないし、金のない俺に文句は言えなかった。

 俺はラブホなんて初めてだったからドキドキしたが、スバルは慣れた様子で鍵を受け取った。部屋にはいるや否や、俺たちはろくに服も脱がず、湯も溜まっていないうちから風呂に飛び込んだ。それでも身体の震えはなかなか収まらなかった。

 ようやくのことで震えが収まった俺たちは、備え付けのバスローブに着替えてベッドに潜り込んだ。ひと心地ついたところで、俺はスバルに尋ねてみた。

「スバル。……さっき海に入った時、お前、死のうとしてたんじゃないのか?」
「そ、そんな訳ないじゃん! たまたま大きな波が来て転んだだけだよ!」

 スバルはちょっとおどけて答えた。でも、それは見え透いた嘘だと思った。嘘じゃないにしても、たぶん、あの時スバルは、「このまま死んでしまっても構わない」くらいには考えていたんだと思う。

「お前さぁ、こういうトコ、もう何回も来たことがあるんだろ?」
「……う、うん」

 スバルはぎこちなく頷いた。

「なんで援交なんかしたんだよ? オヤジと寝て楽しいのか?」
「……そんな、別に悪くはないよ。……優しくしてくれるし、お金くれるし」

 俺にはスバルの考えていることがよく分からなかった。俺は言葉に詰まった。スバルの身体を喪部や何人もの男たちが抱いたのかと思うと、何故か酷く苛立った。俺を見るスバルの瞳は揺れていて、肩が小刻みに震えていた。

「……や、ヤクモ。もし、ヤクモがしたいなら、し、してくれても構わないよ」

 スバルの震える指先が、俺の頬に触れた。

 正直、さっきから俺は横にいるスバルが気になって仕方がなかった。砂浜で見たスバルの裸は小柄だけどとても魅力的で眩しかった。そのスバルの身体が俺のすぐ隣にある。今すぐ抱きたいと思った。でも、スバルが何か凄く無理をしているのも事実で――。

「あっ、でも、こんな汚れた奴、……ヤクモは嫌だよね?」
「……汚れてるなんて言うなよ」

 今ここでスバルを抱くことが果たして正しい選択なのか、俺には分からなかった。

「お前さぁ、スゲェ無理してんだろ」
「……そんな、無理なんて」
「いいや、お前は無理をしている。だから今はしない」

 俺はスバルの手を包み込むように両手で握った。

「その代わり、お前が無理をしなくても良くなったら、その時はやらせてくれ」
「……や、ヤクモはそれでいいの?」
「ああ、いい。……話はもう終わりだ。俺は寝るからお前ももう寝ろ」
「……うん。ありがとう、ヤクモ」

 スバルは小さく息を吐いて静に目を閉じた。

 俺は、早く時間が過ぎればいいと思った。時間がスバルの心の傷を塞いでくれることを願った。せめて、心の傷が塞がるまで、握ったこの手を離さないようにしようと心に誓った。






後書き


 最後まで読んでいただき、有難うございます。NHKです。

 ううむ、今回はいつになくベタな物語になってしまいました。あ、ベタな物語は結構書いてるか……。
 でも、この物語は、いつも書くものとはちょっと違います。いつもは(作者にしか分からない)物語上の実験をたくさん盛込んでいるのですが、今回は実験的なことはほとんどしませんでした。(ダメじゃん!)
 お陰で、完成までトータルで三時間はかからなかったと思います。こういうのも楽でたまにはいいものですね。(成長がないけど……)

 それにしても、後書きって書くことがないですね。書きたいことはほとんど物語中で書いてしまうからでしょうね。あぁ、こんな文章を読んでも、皆さんは面白くないですよね。(スイマセン)

 じゃあ、ちょっとはまともなことも書きます。ええと、今回はちょっとドロドロしたところもある青春モノだった訳ですが、唐沢なをきさんの漫画で、『愛と青春のねばねば』という作品があったこを思い出しました。(でも、まだ読んだことがありません)ドロドロは想像できるけど、ねばねばした青春ってどんなだ? ううむ、想像出来ない。気になる。気になって昼間は眠れませんね。(ちっともまともなことじゃないですね)

 あと、こういう物語って、どの程度の需要があるのかなぁ?とか、つい考えてしまいます。皆さんはどう思いますか?

 最後に一言。

                             煙草は20歳になってから!


「JOYRIDE」「COFFEE-MILK CRAZY」「HAPPY LIKE A HONEYBEE」「GOODBYE,OUR PASTELS BADGES」「THE CHIME WILL RING」uRED FLAG ON GONDOLA」

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