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  夢魔


  よっすぃー 作




 昼間のボクは嫌いだ。

 『死んでしまえ、バ〜カ』

 下駄箱にあった誹謗の貼り紙。この程度の虐めは序の口で、上履きは泥水で腐臭が漂い、画鋲や釘が散乱している。
「はぁ……」
 いつものこととはいえ、暗澹たる気持ちで上履きを洗い直し、濡れたまま履いて教室に入る。
 途端に浴びる汚水の洗礼。誰かが泥水で濡れた雑巾を、入り口にセットしていたようだ。
「おっ、便所男のご来場だぜ」
「水も滴るいい男ってか? 臭せ〜っ!」
「寄るなよ。ばい菌が移るから」
 男子生徒の痛烈な言葉の暴力。
 男子生徒ほど露骨ではないが、女生徒の蔑む視線もボクを傷つけていく。
 いや、教師ですらボクを人として扱っていないのではないか?
「どうした、押尾? こんな問題も出来ないのか? そんな頭でよくこの学校に通えるな」
 みんなの嘲笑。冷笑、失笑。
 そんな針の筵のような学校の中で、唯一の光は、高木紗耶香さんと出会えることだけだった。
 溌剌とした笑顔、スレンダーで健康的なスタイル、クラスの信奉と人気。どれを取ってもボクには無いものだった。
 そして今日も彼女の笑顔を見ることが出来た。
 もちろん、ボクに微笑みかけたものじゃない。でも遠くからでも拝める。それだけでもボクの心は癒されていく。


 夜のボクは楽しい。
 夢の世界でボクは絶対者だ。
 ここでボクの叶わないものはない。
 ボクを蔑む高木や永井。クラスの全員。彼等も夢の中ではひざまずき慈悲を請う存在だ。あの2人だけじゃない。クラス全員いや、教師達もここではボクの下僕にしか過ぎない。
 そして高木紗耶香……
 ここでは彼女はボクの恋人だ。清楚で可憐、そして淫乱。ボクのためだけに微笑み、ボクのためだけに身体を開き、ボクのためだけに乱れた姿を魅せる。そして今もボクの情熱を愛しそうに頬張っている。
「お願い……もっと愛して……」
 吐息のような紗耶香の懇願。瞳は潤み、上気した頬は紅く染まっていた。
「じゃあ、ボクにお願いするんだ!」
 仁王立ちしたボクは紗耶香に命令する。
「お願いします。わたしを愛してください。熱いものを注いでください」
 頭を床に擦りつけ、ボクの足に接吻をする紗耶香。その媚びをうった姿にボクは尊大に頷く。
 そしてボクはありったけの情熱を彼女に注ぐ。歓喜の声をあげ彼女の身体が弓なりに反り返る。その度に彼女の豊かな胸が揺れ、滴り落ちる汗が甘い薫り放つ。
 そう、ここでのボクは絶対者だ。


 今まではそれで満足していた。昼間の慟哭に堪えることも出来た。でも、それももう終わった。彼女に変化が訪れたから。
「紗耶香、昨日どうだったの?」
 ある日、クラスメイトの1人が紗耶香さんに話しかけた。ふつうなら聞き逃すような、ありふれた会話。が、ボクにとって生涯忘れることの出来ない、残酷な告知となった。
「うん、すっごくよかった」
 目を輝かせ、語尾にハートマークがつきそうな口調で、紗耶香さんが答える。その口調に引っかかるものがあり、ついつい盗み聞きしてしまった。そしてボクの心は鉛色に沈んでいった。
 話の内容は――紗耶香さんに彼氏が出来たというのだ。もちろんあの容姿で性格だ、今まで彼氏の類がいなかった方が不思議なのかも知れない。理性ではそう思っていても、感情は別物だ。例え現実でボクの思い人にならなくても、紗耶香さんは他の男のものになって欲しくなかった。ホントにそう思っていた。嗚呼、出来ることなら……
 ボクの心は激しく動揺していた。いつも以上に強い視線で紗耶香さんを見つめていたのかもしれない。
「ちょっと!」
 紗耶香さんが声をかけてきた。
「さっきからずっと、なに盗み聞きしているの?」 
「えっ?」
 突然のことに驚くボク。が、彼女のそれはいつものような穏やかな笑顔じゃなかった。
「いつもいつもわたしの方ばかり見て気持ち悪かったけど、害がないから放っておいたのに。人の話を盗み聞きするなんて、やっぱり押尾はクズよね」
「あっ、あ、あぅ……」
 言葉が出ない。なにも言えない。ボクが固まっていく。そして紗耶香さんは口汚くボクを罵り、侮蔑に満ちた目でボクを射抜いていく。
 ボクの居場所はここにもなかった。


 ボクの世界は夢の中だけだ。
 夢だけがボクの自由になる。どんなヤツでもここではボクにひれ伏す……筈だったのに。
「この、クズが!」
 美しい顔を歪め紗耶香が罵る。他のみんなもボク罵る。ここも地獄になるのか?
 やめろ! ここは夢の中だ! ボクの王国なんだ!
 ボクの言うことを聞け!
 そのためだったらなんでもするぞ!
 心の中でボクは叫んだ。
 その時……
「その言葉、ホント?」
 そんな声が頭の中をよぎった。
 ?????
 訳も分からず周りを見回す。
 と……
 いた。
 12〜3歳位か? 白いワンピースを着た少女が僕の前に立っていた。さらさらの長い髪に細く長い手足。が、不思議と顔がどんなのかはまったく判らなかった。
「ホントになんでもするのね? だったらあなたの願いを叶えてあげるわ」
 少女が答える。
「そんな、信じられないよ」
 ボクが答える。夢の中ですら自由にならないのに、願いが叶う筈など無い。
「叶うかどうか言ってみたら?」
 笑いながら少女が答える。不思議と頭の中に入っていく。
 言ったところでどうなるの? 外でも夢の中ですら針の筵の状態が変わるというのか?
「高木紗耶香さんに振り向いて欲しいのでしょ?」
 少女の囁きがボクの欲望に火を点ける。そう……紗耶香にだけはボクに振り向いて欲しい。紗耶香に愛されたい。あの美しい肢体を……
「どうなの?」
「…………したい」
 小さく呟く。
「もっとはっきり言って」
 少女が促す。
「高木紗耶香に振り向いて欲しい!」
 ボクははっきりと言った。
「よく言えました。叶えてあげるわ、あなたの望み」
 少女の笑う声が聞こえた。そのままボクの意識は白い闇の中に融けていった。


 そしてボクは目覚める。そこはなにもない自分の部屋。
「夢なのか?」
 自問自答する。悪夢でもなかったのに、なぜか全身が汗だくだ。
 これからの地獄を憂いつつ、ボクはのろのろと支度をする。皆の嘲笑と侮蔑に溢れた学校に行くために。
 そして……
「押尾君、おはよう」
 憂鬱な通学路で聞く爽やかな声。今まで一度も聞いたことのない言葉。
 オハヨウ……ソンナ言葉ガアッタンダ。
「もう、どうしたの? 朝から暗い顔をして」
 紗耶香さんが心配そうにボクを覗き込む。
「お、おはようございます」
 戸惑いながらボクも挨拶を交わす。
「ダメだよ、押尾君が暗い顔していちゃ。わたしが心配になるでしょう?」
 そう言いながらボクに腕を絡める紗耶香さん。
「そんなことしたら汗がつく……」
 小さく抵抗しようとするボクの言葉など無視して、紗耶香さんは一層強く腕を絡める。
「ふふ、押尾君の匂いだ」
 匂い? これが? 臭いとしか言われたことがないボクの体臭を?
「どうして? わたし気に入っているわよ。押尾君の匂い」
 胸一杯にボクの体臭を吸い込み、不思議そうに紗耶香さんが小首を傾げる。長い髪が揺れ、彼女の甘い香りが鼻腔を擽る。あぁ、これは本当に現実なのだろうか?
「どうして不思議がるの? あなたが望んだことでしょう?」
 頭の中に少女の声が届く。そうだ。これはボクが望んだ願いなんだ。
「紗耶香さん……」
 うわずった声で尋ねる。
「なに?」
 麗しい声。
「今日、その、いっしょに、帰っても」
「何言っているの?」
 即座に否定の声。やっぱり、そんなもんだろうな。
「一緒に帰るのは当たり前じゃない。今日はわたしの家に遊びに来る約束でしょ?」
 紗耶香さんの言葉はボクの予想を超えるものだった。はっきり言おう。ボクが生涯聞くことは無いと思っていた言葉だ。
 そして……
 その夜、ボクと紗耶香さんはひとつに結ばれた。彼女の肢体は柔らかで艶やかで、妖しくて、とても激しく乱れていた。


 これ以上なにを望む? 憧れの紗耶香がボクを振り向いている。ボクのために微笑んでくれる。それどころかボクが望めば肢体も開き愛してくれる。
 が、どこかで満ち足りない気持ちが湧いてくる。彼女が愛してくれれば愛してくれるほど、ボクの中に激しい餓えが蓄積されていく。
「どうしたの? ぼーっとして」
 紗耶香が覗き込むように尋ねてくる。
「ううん、別に」
 そう答えるが、心の中は渇ききっていた。
「そう。なら良いんだけど」
 紗耶香が微笑んだ。背景に花が咲くような麗しい笑顔。
「紗耶香〜っ」
「は〜い!」
 クラスの女生徒が彼女を呼ぶ。一転して溌剌とした返事で紗耶香は女友達の輪の中に入っていく。
 そして再び訪れる疎外感。
 紗耶香がボクと付き合うようになってから直接の虐めはなくなったが、その代わりに徹底的な無視がボクに与えられるようになった。
 ここでのボクは石ころ以下の存在だ。
 朝の挨拶はおろか、プリント一枚すら配られない。紗耶香さんと一緒にいても、まるで居ないかの如く扱われる。
 紗耶香の周りには相変わらず人垣が出来る。彼女は陽気に笑い、みんなとスポーツや部活を楽しみ、授業でも聡明さを発揮する。
 それに引き換え、ボクはなんだ? かつては汚物、今では存在しないのか? 彼女と一緒にいればいるほど自分の立場が卑しくなってくる。
 紗耶香はボクに微笑んでくれる。でも、それは彼女の一部に過ぎない。彼女のいない時のボクは皆の前には存在しないんだ。
「でも、アナタの望みは叶っているはずよ。高木紗耶香はあなたに微笑み、あなたを愛し慈しんでいるわ」
 また聞こえる少女の声。
 ふと顔を上げると、件の少女がボクの前に立っていた。
「確かにそうかも知れない。でも、ダメなんだ。それだけじゃダメなんだ!」
 ボクは首を振る。地獄からひとつ階段を上がれば、もう一段上がらないとまた同じなんだ。それは矛盾かもしれない。でも、渇きとはそんなものなんだ。
「ふ〜ん。じゃあ、どうすればいいの?」
 少女が首を捻る。
 ボクはなにを望むのか? ふと、友達の輪に囲まれる紗耶香に目がいった。
 談笑の中で屈託無く笑う紗耶香。皆に慕われ、明るく、活発で、可憐。ボクにないものが全て彼女に備わっていた。
 紗耶香に振り向いて貰うだけじゃなく、彼女のように振る舞えたらいいのに。
 そう……紗耶香のように………
 ボクははっとした。
 紗耶香として振る舞うボク。そう想像したボクの心に満たされるものがあったから。
「ボクの望みは叶うのか?」
 少女に向かってボクは尋ねる。
「アナタが望むのなら叶えてあげるわ」
 まるで禅問答のような答え。その言葉に僕の思いは決まった。
「紗耶香をボクのものにしたい! 身も心も、その全てをボクだけのものにしたい!」
「紗耶香のようになりたいの?」
「違う! ボクが紗耶香になりたいんだ!」
「ふふ、わかったわ。アナタの望むとおりにしてあげる」
 少女がニヤリと笑ったような気がする。でも、そんなことはどうでも良い。ボクの望みさえ叶えば……
 そしてボクの心は闇に融けていく。




 目覚ましのベルがけたたましく鳴り響く。もそもそと腕を伸ばし、スイッチを切る。そうか、もうそんな時間なんだ。
 窓辺から朝のの日ざしが遠慮がちに漏れている。至福の時間は終わったんだ…… 
「う、う〜ん……」
 大きく伸びをして起き上がる。なんだかヘンな夢を見たような気がする。
 そしてあたりを見回す。
 ライムグリーンでコーディネートした部屋。窓際の勉強机、パネルに貼った猫のリトグラフ、お気に入りのソファー。別に変わったところはない。
 そして自分自身を見ると――
 やだ……汗びっしょりじゃない。きっとあのヘンな夢のせいね。このままじゃダメだ。ドレッサーから着替えを取りだして、バスルームに向かう。
 今日はお気に入りのライムグリーンの上下。寝起きが悪かったぶん下着は気持ちよくしないとね。
 朝のシャワーを浴び生気を取り戻し、出かける支度をする。
 真新しいブラウスに赤のリボンタイを締め、スカートとブレザーを着る。最後に髪を整えると準備は完了♪
「行って来ます」
 元気よくわたしは家を出る。


「おはよう紗耶香」
 校門で紀子が声をかけてくる。
「おはよう」
 わたしも挨拶を返す。
「おはよう」
 次は泉、美樹に奈月に香奈恵。友達がみんな集まってくる。輪の中心はもちろんわたしだ。
 みんなとのおしゃべりは楽しい。休み時間はあっという間に過ぎていく。お昼休みもそう。好きなアイドル、ドラマの話、新しくできたカフェ、話題が尽きることはない。ふとしたことから夢の話題になった。
「ねぇ、聞いて。夕べなんだけどヘンな夢を見ちゃったの」
 ここぞとばかりに、わたしは夕べ見た不思議な夢の話をする。
「へぇ、どんな?」
「紗耶香のヘンな夢? 聞いてみたい」
 みんなが尋ねてくる。
「それがね、夢の中でわたしがキショイ男の子になっているの。それでね……」
 わたしは夢の中の出来事を詳細に説明した。 
 暫し聞き入るみんな。そして………
「うっそ〜っ」
 吹き出す泉。
「サイテ〜。悲しすぎる」
 と、美樹。
「それだったら死んだ方がましね」
 奈月が断言する。あ〜っ、それちょっと言い過ぎ。
「そこまで言うこと無いじゃない」
「でもクズよ、クズ。そんな人生なら自殺するっきゃ、ないでしょう?」
 みんながどっと笑う。
「だから夢だって。ただ何でかは知らないけど、わたしがその押尾っていうクズだったって記憶があるのよ」
 昨日までのわたしの記憶とおなじように、押尾の記憶も共存している。まるでこの身体を共有しているような妙な感覚。
「あー、それ不幸」
「夢がリアル過ぎるんじゃない」
 香奈恵が解説する。
「そーそー」
 みんながどっと笑った。つられてわたしも笑う。わたしは押尾だったかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。わたしは高木紗耶香。その事実は不変なんだから。そして、記憶だけで事実でないことを神に感謝しよう。
 でも、これも夢なのだろうか?
 夢なら覚めないで。








 白い闇の中、少女の笑い声が聞こえる。
「ふふふ、ふふ、ふふふ……」
 白いワンピースに華奢な四肢、長く艶やかな髪。そして霞がかかったようにとらえどころのない表情。押尾の元に現れた少女だった。
「うふふ……バカな男。あんなことで自分を失うなんて。バカなくせに欲望だけは人一倍……お陰で美味しく頂けたわ」
 少女がニヤリと笑う。微かに残忍な笑みを垣間見たような気がする。
「またどこかにいじけた男の子はいないかしら? 楽しい時を魅せてあげるのに」
 無邪気に言う。夢魔と呼ばれる少女は白い闇の中に消えていった。
 白い……どこまでも白い世界に少女の嗤い声だけが残っていた。


 ふふ、ふふふ、ふふ、ふふふ……………………





      了

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