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少年少女文庫・リレー小説実行委員会主催...


小さなお守り







第四章『あの夏を忘れない』





                 第四章担当: ふらっと



 夏は暑い。
 そんなことは誰だって知っている。地域の差はあるだろうが、それでも夏は日本中どこにいても暑い。だが、しかし。
 これは異常だろ……。
 少年は一人舗装もされていない道を歩きながら、呟く。
 暑いのは充分承知していたはずだった。だが、都会と郊外の「暑さ」の質は、想像していたよりも遙かに差があるものらしい。
 見渡す限りの、畑。遠くに樹木が見えはするが、畑を突っ切ってそこまで行ったところで、どれほどの涼を求められるかは疑わしい。そもそも、先を急ぐというのに木陰で休んでどうするものか。
 次にここに来ることがあったら、帽子を用意しよう。何よりきついのは、頭を照りつける強い日差し。頭の中まで熱せられ、物を考えることすら億劫になる。飲み水も必要だな。最後に水を口にしたのは……駅で給水器を見つけたときだったから、既に3時間は何も飲んでいないことになるのか。遠くから聞こえてきていた蝉の声が、やけに近くで聞こえる。それも、縦横無尽、前後左右、360度全ての方向から同時に責め立ててくるかのように聞こえている。くそっ。どこで鳴いているんだ? 姿を見つけようと辺りを見渡してみるが、どこにも蝉の姿など見あたらない。そうだ。樹木は近くにはなかったんだ。なら、この鳴き声は……?
 そもそも、この道は正解なのだろうか。ヤツの所まで導いてくれるのだろうか。少ない手掛かりを頼りに歩みを進めてきたが、根拠はなんだっただろう? ああ。そう言えば、駅前のタバコ屋のおばさんだ。こっちにまっすぐ行けば、「水無瀬」という家があると……。しかし、「まっすぐ」とはどのくらいまっすぐのことだったんだろう。3時間歩いて畑しか見えないなんてあり得ない。どこかで枝道になっているところを間違えたか、それとも家を見落としたのだろうか。
 再び辺りを見回し、やってきた道を振り返ろうとしたところで、足がふらついた。おかしい。頭がぼぅっとする。片膝をついたら、どうでも良くなってきた。そのまま道ばたに身を投げ出す。ひんやりとした土の感触が頬に当たり、妙に心地よい。照りつける日差しも、焼け付くような暑さも変わらないと言うのに、それすらも心地よく思えてくる。仰向けになって大の字に寝そべると、日差しが直接、いつの間にか閉じていた瞼を襲う。幾分かは傾いているはずなのにと、億劫ではあったが腕を上げ、日差しを手で遮ろうとする。 しかし、それよりも早く、何かに日差しが遮られ、瞼の裏がほんの少し暗くなった。
「え……?」
 雲は出ていなかった。周りに日を遮る物は何もなかった。訝しみながら瞼を開くと……。

 そこに、少女がいた。

「こんなところで寝て……なにやってんだ?」
 なにやってんだもへったくれもない。ただ、歩きたくないから寝っ転がっているだけだ。 言葉を出そうとしても、声にならなかった。
 太陽を背にした少女の顔は、ちょうど逆光になっていて判別が付かない。麦わら帽子だろうか。頭の形だけが妙に大きく見える。それでも輪郭や声の調子などから、自分と同じくらいではないだろうかと少年は判断した。
「ったく。しょうがねぇな。ほら、起きれるか?」
 少女に肩を借り、半身を起こす。口の悪い娘だな。そう思う間もなく、口元に何かが押しつけられる。訳のわからないままに口を付けると、渋みと苦み、それに甘みを伴った芳香が口内に広がる。決して冷えているとは言えない、何も変哲もない麦茶だったが、麦茶とわかった途端にそれを夢中で飲み干した。
「げほっ」
「ほら、慌てるから……。落ち着けって」
 背中をさする少女を改めて見直してみる。年の頃はやはり同じくらいか。活発そうな印象を受ける顔立ちにも、気の強そうな眼差しにも、見覚えはない。つぎ直され、改めて手渡されたプラスチック製のカップを受け取り、今度は落ち着いて一口二口。三口目をつけようとしたところで、根本的な疑問が湧き起こり、思わず口にする。
「君は……?」
「あ。オレ? 通りすがりの地元民」
 通りすがりって……そりゃ、地元民なら通りすがることもあるだろうが、自己紹介にも何もなっていない。思わず言いよどむと。
「お前こそ、こんなとこで何やってんだ?」
 質問を返される。
「この先に水無瀬って人が住んでいるって聞いて……。その人を訪ねに行くところだったんだ」
「ふぅん、水無瀬、ね。なんでまた?」
 それに答える少年の言葉は、少々長く紡がれることとなった。



 幼なじみの滋が家出したと聞いたのは、春休みも終わって新学期が始まろうとしていた頃だった。
 幼い頃に父親を亡くし、母親と二人暮らしをしていた彼は、常日頃から母親と折り合いが悪かった。家出と称して暫くいなくなることなど、日常茶飯事になってしまっていた。とは言え、通常は2、3日で帰ってくる。長くても2週間程度。今回も所謂年中行事。騒がなくてもすぐに帰って来るであろうと高を括っていた。
 しかし。
 新学期が始まっても、滋は帰ってこなかった。春になって新学年になり、同じクラスになっていたというのに、彼の椅子は空席のままだった。滋の母親に心当たりがないかと問いただしても、期待した情報は何一つ得られなかった。
 ただ一つ。「どうせ、あの人のところでしょ」と言う言葉を除いて。
 「あの人」。父親だろうか。いや、もしかしたら。
 確証はなかった。しかし、他に心当たりもなかった。
 昔、長い間家出をしたときに、父方の祖母にかくまって貰ったと聞いたことがある。水富湖市。確か、そんな名前の町だった。地図で調べると、あっけなく見つかった。だが、そこまで。町のどこに住んでいるのかまでは見当もつかない。もう一つ情報があるとしたら、両親が別れる前に彼が名乗っていた名字、「水無瀬」だけだ。父方の祖母がいるのなら、その名字も「水無瀬」であると思われる。あまり見かけない名字だ。もしかしたら、町まで行けば何か手掛かりくらいは掴めるかもしれない。
 そう思い立ったは良いが、親から小遣いを貰う身、持ち合わせがそうそうあるわけがない。そのため、小遣いを貯め、夏休みも半ばまで過ぎることまで必死にアルバイトをこなし、何とか旅費と宿泊費を稼いだ。夏休みに一人で宛のない旅に出ることに対しての家族からの反論は、一学期の成績を優秀な物にすることで押さえ込んだ。
 後は、行動あるのみ。勢い込んで水富湖市に乗り込んだ。知らない町を歩くときの常道として、タバコ屋で「水無瀬」という名の一人暮らしの老婆はいないかと尋ねると、意外なほどあっさりと答えは返ってきた。そして、その結果──。



「はぁ。随分苦労したんだな」
 苦労。その一言で済まされてしまうのは癪に障ったが、当事者でなければそんな物だろう。
「ああ。こう見えても苦労したんだよ。ところで、地元民だったらこの辺りで「水無瀬」って家知らないか? あ、それよりも……今日、泊まれる場所が先……かな?」
 傾きを増しつつある日を見上げながら、尋ねる。
「泊まれる場所は……駅前まで行かないとないんじゃないかな。この辺、こんなだし」
 確かに、畑だらけの場所では観光客目当ての宿など期待できるはずもない。だが、ここまでやってきたのと同じだけの道程を再び戻ることを考えると、気が遠くなった。
「ったく。考え無しに行動するんだから……。オレが通らなかったらどうなっていたことやら」
 苦笑混じりに呟く少女。その横顔はどこかよく知っている面影と重なるような気がした。
「どうせ、その水無瀬って人の所に行けば何とかなるとかって思っていたんだろ?」
「ああ。知らないんなら……町まで戻るしかないな」
 町まで戻る。口で言うのは容易いが、気が遠くなる思いがした。この辺には野犬などは出るのだろうか。もし、いないのであれば──。
「野宿とか考えているんなら、やめときな」
 初対面の少女に心中を見透かされ、内心驚く。
「虻や蚊、それに蛭と一晩仲良く暮らしたいんなら止めないけどね」
「え……」
 思わず言葉に詰まる。いくら都会っ子でも蚊くらいなら構いやしないが、見慣れないモノが団体で一晩中まとわりついてくるのはぞっとしなかった。だが、町まで自分の体力で戻れるだろうか。悩み始めると思考が止まるのは自分の悪い癖であり、滋にはいつも冷やかされていることだった。土地勘のないこの場所でどうしたら良い物か考えがまとまるはずもない。
「全く……。どうしようもないな。ほら」
 ぱさっと頭に何かが被さる。手で触れてみると、少女が被っていた麦わら帽子が自分の頭の上に納まっていた。
「『水無瀬さん』のところに行くんだろ? 案内するよ。また倒れられたりしたら堪らないから、それでも被ってな」
「知っているのか!?」
 知っているなら知っていると、早く教えてくれば良い物を。そうは思うが、口には出さずに勢いよく立ち上がって少女を睨み付ける。
「そんな目するなよ。別にからかっていたんじゃないんだから。その……色々とワケがあるんだ。まぁ、行けばわかるよ」
 ワケというのが気になるが、案内してくれるのなら悪気があってのことでは無いのだろう。微笑む少女の顔にも、そんな様子は微塵も見えない。
「ありがと。助かるよ。あ……えっと……」
 そこで初めて、自分が少女の名前も知らないことに気付いた。
「お前……君の名前は?」
 「君」と言うのも気恥ずかしいが、「お前」と言う程にはまだ親しくはなっていない。女の子とまともに話をしたことも少ないような自分にしてはよく頑張っていると思うが、ふとしたときに態度が不自然になる。自分のことをよく知っている親友が見たら、きっと大笑いすることだろう。
「んっと……。涼子」
「名字は?」
 初対面の女の子を名前で呼ぶことは、どことなく照れくさいものがある。
「涼子、でいいよ。ほら、行くよ、洋人」
 名前で呼ぶのも気恥ずかしいが、呼ばれるのもまたどこかくすぐったいものを感じ、少年──洋人は、涼子に促されて立ち上がる。麦わら帽子のおかげだろうか。それとも、同伴者ができた事による安心感からだろうか。先ほどまでの強い日差しが、少しだけ和らいでいるように感じた。



 涼子に案内されてやってきた集落は、思いの外大きなものだった。だがそれでも、都会の喧噪とはわけが違う。地元以外の人間、それも高校生が紛れ込んできたら、すぐさまわかっても良さそうなものだ。しかし。
「そんな話、聞いたことないけどね」
 涼子の返答は素っ気ないものだった。ここにいないとすると、親友の行方は全く見当がつかないことになる。だが、せめて彼の祖母に話を聞くことができれば、少しは手掛かりが掴めるかもしれない。
「ほら、ここ」
 細い指が指した一件の家は、集落でも端の方、寂れた所にあった。表札を見ると、確かに「水無瀬」と書いてある。更に、その下には二つの名。
「『セツ』『涼子』……。おい、『涼子』って──」
「んっと、ま、そう言うこと。ただいまぁ」
 さっさと家に入っていく少女の後ろ姿を呆然と眺める。
「いいからあがれよ。『水無瀬さん』の家、探してたんだろ?」
「水無瀬って……お前の家……だったのか?」
 やはり、馬鹿にされているのだろうか。
「じゃぁ、ここにアイツは……滋はいるのか!? 知っているんだろ、教えろよっ」
 思わず声が荒くなる。考えてみれば、ほんの少し前に出逢ったばかりだと言うのに、涼子は常に自分を馬鹿にしたような言動を繰り返していなかったか? それもこれも……全て知っていたからこそ、だったのだろうか。
「待て、落ちつけって。順番に説明するから。このくらいで驚いていちゃ、友達を捜すことなんてできないぞ」
 しつこく食い下がろうとする洋人を手で制し、涼子は続けた。
「表札を見たんだろ? 確かにウチは『水無瀬』って名字だけど、この家にはオレとばぁちゃんの二人暮らしだ。男が敷居をまたいだのなんて、お前が数ヶ月ぶりってことになるな。お前の友達なんて来ていないし、ましてやここに住んでいるなんて事はない」
「でも、あの名字は……何か関係があるんだろ? そう、いとことか親戚とか……」
「それなんだけどな……。この辺り、寂れた集落に見えるけど、何人くらい人が住んでいるかわかるか?」
 話の切り替わりに戸惑いつつも、考える。集落なのか畑の中に民家がたっているのかわからないほどに人が少ない地域に見えた。そう多くはないと思うが、一体どれくらいだろうか。見当をつけることもできない。
「ざっと、500人ってとこかな。100世帯くらいはあるはず。そこで、一つ問題があるんだ」
 涼子は指を一本立てながら、ぐっと顔を近づけた。初対面の男と、密室で二人きり。さっきの言葉を信用するとするならば、部屋に異性を連れ込んだこともないのだろうに、何の抵抗もないのだろうか。ふとそんなことを考えながらも洋人は、自分こそ同世代の異性と話をすることなど慣れていないと言うのに、ましてや女の子の部屋に招かれることなど今まで経験がないと言うのに、そう言った意味では自分が冷静であることに気付いた。色気があるシチュエーションではないことは確かだが、それを差し引いても不思議なことだった。
「ここら辺って、『水無瀬』って名字がやたらと多いんだ。ウチもそうだけど、大体半分くらいは水無瀬を名乗っているんじゃないかな。昔、水が豊富だったり干上がったりと繰り返したことが由来らしいけど……。そんなわけで、ここで『水無瀬』ってだけで人を捜そうとしたら、どうなることやら」
「え……。そんなに?」
 珍しい名字だと思っていた。それだけに、衝撃は大きい。
「半分くらいって事は、50件くらい? でも、それくらいだったら全部聞いて廻ればすぐに……」
「馬鹿だな。いませんか?って尋ねるだけで済むのか? 詳しく話を聞いて、場合によっては、家の中に上がらせて貰わなきゃいけない。移動の時間もあるし、朝早くや昼時、それに夜遅くは話を聞いて貰うこともできるかどうか。更に、親戚や友人なんかの家に匿われているって事もありうるよな。そうすると、何件廻って何日くらいかかると思う?」
 それこそ、見当もつかない。
「そんな悲しそうな顔するなって。道案内ならしてやるし、ウチを足がかりにして調べていけば、そのうち全部回れるだろ。ん? 心配するなって。宿代なんて取りやしないから。ばぁちゃん、ちょっとボケ始めているからさ、隠れていれば大丈夫だと思うし。どうせアテもないんだろ?」
 強引に話を進める涼子に対し、言葉の通りにアテもない洋人は黙って頷くしかなかった。



 100件全ての家を廻ることなんてできるはずもない。必然的に、とりあえずは「水無瀬」家を廻ることにしたのだがそれだけでも簡単に済む話ではない。
 とりあえずは涼子の家に泊めて貰い、翌朝より涼子と二人で近場より尋ね歩き始めた洋人だったが、丸二日練り歩いても手掛かり一つすらまともに掴めない状態だった。
 日が暮れてから尋ねていくのは気が引ける。さりとて、日中はどの家にも仕事がある。話を聞いて貰うだけでも一苦労だというのに、やっとのことで話を聞いても、滋などと言う少年はおろか、最近見慣れぬ男の子を見かけた者も一人もいなかった。
「明日からはちょっと遠出するか。この辺にはいないみたいだしな……」
 洋人にとって何より不思議だったのは、こんなに手掛かりが少ない状況で親身になって手伝ってくれる涼子の存在だった。口調はぞんざい、態度も良いとは言えない。しかし、つい先日まで顔も知らなかったような奴を相手にここまで付き合ってくれること自体が不思議でならない。
「なんでこんなことを手伝ってくれるんだ?」
 幾度となく尋ねたが、返ってくる答えは「暇だったからさ」とそっけない。しかし、丸二日行動を共にして、涼子が決して暇ではなかったことを洋人は気付いていた。何度か道すがら涼子の友達とすれ違ったとき。或いは、夜に電話口で。友人に対して予定をキャンセルしているのを何度か見ている。
 涼子のことで、もう一つ気付いたことがある。当初洋人は、自分のことを「オレ」と呼んだり、口調が妙に男っぽかったりするするのは、この地方の方言なのだと思っていた。しかし、友人や祖母を相手にするときの涼子は、普通の女の子と変わらない言葉遣いをするのだった。口調が荒くなるのは、洋人と二人でいるときだけ。しかし、最初の印象が強かったのか、洋人にとっては荒い言葉遣いをする涼子の姿の方が自然に思えるのだった。
 丸二日間という時間は、洋人にとっては短い時間ではない。たった一人の──それも、ほとんど見知らぬ──女の子と時間を共有するなど、今まで経験のないことだった。涼子が意図するところがなんであるのかはさっぱりわからないまでも、自分に対して好意を抱いてくれているのだろうと言うことくらいは、その方面に疎い洋人でも察しが付いた。だからといって、家の中では万が一にも涼子の祖母に見つからないようにと押入に閉じこめられっぱなしだし、昼間は昼間で呑気に色気のある会話をしているような暇はない。進展はないにしても、少しずつ友人に近付いているはず。その一方で、この夏休み中に滋を見つけ出すことができなければ、彼の足跡は途絶えてしまうかもしれないのだと思うと、焦りが募る。そう、女の子と仲良くしているような時間はないはずなのだ。
「あ。この辺って……」
 既に日は傾きつつある。集落からは離れつつあり、人家はまばら。畑すら少なく、辺りには森が広がっている。
「ちょっと寄り道してもいいかな? 水無瀬さんが住んでいるってわけじゃないんだけど……」
 洋人が頷くより早く、涼子は駆けだした。慌てて後を付いていくが、軽やかに走る涼子に対して、洋人の足取りはどうしても重い。一日中歩き回った後で何故あんなになのだろうか。自分の体力がないだけなのだが、それでも信じられなかった。
 涼子が向かったのは、少し小高い丘の上。頂上は少し木々も開けており、周囲が見渡せるようになっていた。
「ほら、凄いだろ?」
 促されるままに涼子が指さす方を見渡してみる。
 遠くに、駅が見えた。その手前には町が広がり、手前に近付くに連れてその数は減りつつも木々と畑の緑がグラデーションをなす。ちょうど町と緑の境目辺りだろうか。大きな湖が広がり、傾きかけた陽を受けて黄金色に輝いていた。
「へぇ……」
 確かに、凄い眺めだった。都会では見ることもできない雄大な景色を前に、言葉も出なくなる。
「そう言えば滋のヤツも、この辺で凄い夕日を見たって言っていたな。もしかしたら、ここのことだったのかも……」
 友人が言ったその景色も、確かこれと近かったような気もする。丘の上から見渡した町並み。遠くに見えるあの湖は……。
「祭りがあるんだっけ……?」
 友人から聞いたうろ覚えの話が、急に脳裏に蘇る。毎年の夏、丘の上から見える湖の畔で祭りが開かれると。
「ああ、うん。結構凄いんだぜ? 何にもない町だけど、こう……」
「五尺玉が上がるんだろ?」
「……知っていたのか」
 それも、滋から聞いた知識だ。祭りが一番盛り上がる頃、夜になってから上がる花火は、全国的にも大きな規模で、見事な玉が上がると。「あれを見たら、そこらの花火なんかちゃちく見えるぜ」という滋の言葉に興味を惹かれたのだった。
「滋から聞いてさ、一回見てみたいなって思ったんだよ。俺のいるところじゃそんなのは上がらないからさ」
 そう。滋の母方の実家がここにあると言うことを覚えていたのも、その花火の話があったからかもしれない。
「だったらさ……」
 涼子の口調が急に歯切れが悪いものになった。普段はサバサバと喋る少女には似つかわしくなく、その姿はしおらしげに見える。
「その……一緒に行かない? 祭り、明日なんだけど……」
「明日!?」
 驚くのも無理はない。祭りに行くつもりで話を切り出したわけではなかったのだから。
「やっぱり……ダメだよね。祭りなんかに行っている時間があったら、友達のこと探したいもんね。うん、ゴメン、忘れて」
「いや、そうじゃなくって……明日だって事に驚いただけ。そうだな……明日の昼間、やっぱり見つからないようだったら、俺も行ってみたいな。どうせ夜になったら、人捜しなんてできないんだろ?」
 祭りや花火に興味があると言うよりも、ここまで付き合ってくれた少女の誘いを断るわけにはいかないと思っただけだった。だが、その一言で俯いていた涼子は満面の笑みを浮かべながら答えた。
「うんっ。こんなに人が住んでいたのかって驚くぐらいに人が出てくるからね。多分、その中で人捜しなんてできないし、羽を伸ばした方が良いと思うよ」
 そんなものだろうか。確かに、根を詰め過ぎていると思う。日程的な余裕がないために仕方ないのだが、1日くらいは羽を伸ばしてもバチは当たらないだろう。
「そうだな。気分転換も必要だよな……」



「ちょっと待っていてくれ」という涼子の言葉通りに、家の前で待つこと数十分。いいかげん待ちくたびれた洋人だったが、それでも一人で勝手に歩き回るわけにも行かず。さりとて涼子の家には入るわけにも行かず。途方に暮れるようにぼおっと待ち続けることしかできなかった。
 街灯すら乏しい集落であるが、流石に祭りの夜ともなると、道沿いに提灯──と言っても電線が引いてあるのが見えるのだが──が並べられ、鮮やかに彩られている。間もなく夕暮れ。薄暗くなるに連れて提灯沿いの道はますます目立ち始め、その中でも遠くに見える町の中心へと続く大通りには、屋台が並んでいるようだった。涼子の話ではそのまま湖の辺りまで屋台が途切れることなく続いているらしい。何キロあるのかわからないが、町中総出で屋台をやっているんじゃなかろうかと思わせるほどだった。
 もっとも、町の人間が全て屋台に駆り出されているのでは、肝心の祭りを楽しむ人間がいなくなるだろう。それほど観光名所として名高い場所ではない。祭りに併せて都会からUターンしてくる者もいるだろうが、参加者のほとんどは町の人間のはずだ。洋人のように特に縁もないのにこうして祭りに赴こうなどと言う者は少数派であろう。
「お待たせ」
 背を向けていた家の玄関がガラリと開き、涼子の声が背中越しに聞こえる。その声に振り向いた洋人は、声の主……涼子の姿を見て、目を疑った。薄暗い中でも一際はっきりと見える、萌葱色の浴衣。朱色の帯をつけ、化粧もしている様だった。
「あは……。似合ってないかな? せっかくだから着てみたんだけど、慣れない格好はするもんじゃないな。手間取っちゃって」
 少し照れくさそうに笑う涼子だったが、あながちまんざらでもなさそうだった。
「いや、似合っているよ。へぇ、そんな格好もするんだ。ちょっと意外だったな」
 実際、意外だった。普段──3日間しか見ていないが──はズボン姿しか目にしていない。言動も相まって、こういったしおらしい姿は想像の外にあったのだが、友人などと会話する姿から考えると、本来はもっと女の子らしい少女なのかもしれない。何しろ、共に行動したのはたった3日間だけなのだ。お互いに知らないことが多すぎる。
「へへっ。一回着てみたかったんだけど、なかなかチャンスがなくってさ……。こんなにぴったりだとは思わなかったけど」
「その浴衣、涼子のじゃないのか?」
「ああ。母さんが昔着ていた物なんだ。オレが袖を通すのは、今日が初めて。よくわからなかったから、着方、おかしいかもしれないけど……」
「大丈夫……だと思うよ」
 ぱっと見た感じはどこにもおかしな点は見あたらなかったが、洋人も浴衣の着方など知っているはずもない。もっとも、どこか間違っていたとしても、それほどの問題はないだろう。
「じゃ、行こうか」



 薄闇の中、二人で寄り添うように進む。舗装が行き届いていない田舎道は、慣れない者にとっては危なっかしいことこの上ない。無論、慣れていないのは洋人の方であり、地元の人間である涼子にとっては慣れ親しんだ道。時折浴衣の裾を気にしてか足下に注意を向けることもあるが、小石やぬかるみに足を取られそうになってふらついてみせるのは主に洋人の方だった。
「それなりに賑やかなもんだな」
 都会の喧噪の中で育った洋人にとっては、涼子の言う「凄い人出」を見ても、その程度の感慨しか湧かなかった。
「そうかな? あんまり田舎だからって舐めていると、人波に揉まれてはぐれちまっても知らねーぞ」
 涼子の言葉の通り、集落から離れ、ちょうど洋人が倒れていた辺りを超えたところから急に人が増え、ややもするとお互いの姿を見失いかけてしまいそうになり始めた。人混みだけが原因ではない。露店を見かけるとふらふらとのぞき込みに行ってしまう涼子にも、それを追うために早足になり、すぐに躓きそうになる洋人にも、その双方に原因があったわけだが。
「ちょっと待てよっ」
 いつしか二人は自然に……どちらからと言うわけでもなく、本当に極自然に、互いの手を握りしめていた。はぐれないように。転ばないように。大義名分は互いにあったが、決してそれだけではないであろうことに二人とも気付いてはいた。敢えてそのことに触れようとはしなかったが。
「思ったよりも盛大なお祭りなんだな……」
「うん。この辺って、前にも話したと思ったけど、水に縁がある土地で……縁があるって言っても、多すぎたり少なすぎたり極端なんだけどね。何年か前にも水害で沢山の人が死んだって話だし。その時に昔っから続く神社の神主さんが犠牲になって……。それ以来、水神様を鎮めようと、祭りだけは盛大にやろうってことになったんだって」
「ふぅん……」
 興味がそそられる話ではなかったが、町の人たちにとっては重要なことなのだろう。神主不在の祭りにどれほどの意味があるのかは図りかねるが、大きな事故が起きた後にもこうやって笑い会える空間ができる、そのこと自体が必要なのかもしれない。
 花火の時間が迫ってくる。打ち上げ場所は湖の畔。露店が並んでいる辺りでは問題なく見られるとのことだが、それでもなるべく近い方が良い。二人は足早に大通りから離れると、湖へと歩みを進めた。
「なぁ……。いつまでこっちにいられるんだ?」
 じっと前をを見て歩いていた涼子がぽつりと呟く。ロクに考えてもいなかった──考えようとしていなかったが、洋人にとってこの土地は友人を捜すためだけに訪れた場所。本来なら用はないはずの土地だった。
「そうだな……。滋のヤツが見つからなくっても、あと2,3日ってとこだろうな……」
 元々強引に両親を説き伏せての一人旅だ。長くても1週間。そのくらいが限界だろう。それでも宿泊費が浮いているために、予定よりも長居している位だった。
「そっか……。見つかったら、すぐに帰っちゃうんだよね? 見つからなくっても、3日くらいか……」
「なんだよ、寂しいのか?」
 何の気無しに言った一言だったが、図星……だったのだろうか。涼子は俯くと、それっきり黙り込んでしまう。
 気まずい沈黙が続く。人混みを避けようとしている間に、本当に人気が少ないところに来てしまったようだ。
「あ……」
 涼子が小さく呟いたときだった。
 どーーーーん。
 耳元で爆発音が響いた。いや、耳元ではない。遥か遠くの頭上。だが、まるで耳元で何かが破裂したかのような轟音と衝撃を洋人は受けた。
「始まっちゃったっ」
 涼子は手を引き、湖畔へと走る。再びの人混みだが、今度は息苦しいと言うほどではない。それもそのはず、露店周りでは人々はひしめき合いながら歩いていたのだったが、湖の周りでは座っている。皆一様に座り、遥か上空を見上げている。人のひしめき合いがない分歩きやすいが、その代わりに地面一面に引いてあるゴザが歩みを妨げる。
「これ以上前に行くのは無理……かな?」
「露店なんかに目を奪われているからだろ」
「まぁ……そうなんだけどね。立ちっぱなしも疲れそうだし、適当なとこ探そう」
 座っている人々の中、二人で立ちつくすのも間抜けな上に迷惑この上ない。二人は少し離れたところに陣取る。
「座ると汚れちゃうな……」
 舗装されていない地面は剥き出しの土か、湿り気を帯びた草しかない。普段通りのジーンズ姿の洋人はともかく、浴衣を着ている涼子は流石に服が汚れることに抵抗がある。ベンチや丸太など、座るに適していそうな所には既に先客がおり、二人は仕方なしに立ちっぱなしのまま花火見物をすることとなった。
 どーーん。爆発音が響くと同時に、空中に火の花が咲き乱れる。少し遅れてパラパラと舞い降りる煤。
「凄いな……」
 洋人も花火を見たことがないわけではない。地元でも夏になると打ち上げられる。だが、こんなに近くで見たことはなかったし、ましてや煤を被るような経験はない。視界一面に広がる色鮮やかな花。身体全体に響く轟音。全てが自分の知っている花火とは全く異なる、未知なる物と感じられた。
「まだまだ。始まったばかり。こんなもんじゃないよ」
 涼子の言葉に、思わず身を引き締める。そうしないと、これ以上の花火が上がったときに身体ごと吹き飛ばされてしまうんではなかろうか。洋人は半ば本気でそう思った。
「玉の数自体は少なめだから……そんなに待たされることもないと思うけど」
 今日、この湖畔に来た目的は、五尺玉を見ること。それ以外は普通の花火と同じ、見慣れた物だと思っていた。つまり、退屈な物になるかもしれないと言う予感に洋人は襲われていたのだが、現実にはそんなことは心配する必要はなかった。一つ打ち上がると共に息を呑む。予想を遙かに超えた華やかな光景に心を奪われる。
「花火大会としてはあんまり有名じゃないし、規模も小さいもんだけど、捨てたもんじゃないだろ?」
 そう言う涼子自身、毎年見ているはずのそれに目を奪われたままだ。仕掛け花火も連続花火もない。ただ、一本の光が天高く伸びていき、大きく花開く。数秒おきに繰り返される、たったそれだけの光景。それが幾度繰り返されただろうか。数えることも時間を計ることもできず、ただただ見上げていることしかできない。
「そろそろ……」
 轟音にかき消されそうなほど小さな涼子の呟きが聞こえたと思うとほぼ同時に、一際長く光の線が延びていく。それに吸い込まれそうなほどに長く──遠く。そして。
 空一面が華になった。
 いや、「空」は見えない。光の渦。それ以外には何も見えない。少し遅れて、身を揺るがす音を超えた衝撃。今まで上がっていた物が全て可愛く思えるような、次元の違う花火を目の当たりにし、それがなんであるのかを理解するまでにも時間がかかった。
「凄い……。今のって……」
「ああ。今のが五尺玉。言ったとおり、これを見たらそこらの花火なんかちゃちく見えるだろ?」
 衝撃を受けていた頭に、何かのスイッチが入ったようだった。随分前に聞いた友人の言葉。それをそのまま涼子に伝えただろうか? 答えは否。常に頭の片隅を過ぎっていた疑問が、再び蘇る。何故涼子は、こんなに見ず知らずの人間に協力してくれるのだろうか。
 一つの答えが脳裏に浮かぶ。そんなはずはない。だが、そう考えればつじつまが合う。この町の祖母の家に向かったまま消えた友人。その祖母と同じ名字を持つ老婆。初対面とは思えない、老婆の孫。
 偶然の積み重なりだと思っていた。
 だが。
 いや、まさか。
 常識ではあり得ないと理性が告げる。しかし、それとは違う何かが洋人の口を動かした。
「滋……?」
「ん? なんだよ?」
 応えてから、はっと口元を押さえる、滋とは全く姿形の異なる少女。
「滋……なのか?」
 あり得ないはずだった。が、打ち上がる花火に彩られた少女の顔が、それでもはっきりとわかるほどに青ざめていることが。そしてその身体が小刻みに震えていることが、あり得ないはずの事実を裏付けている。
「いったい何で……」
 涼子はそれに応えず、ただ震えるばかりだった。



 全ての花火が打ち上がると、波が引くかのように見物客達は去っていく。中には立ちつくす少年と少女の二人を気にかける素振りを見せる者もいたが、二人の深刻な顔を見ると、そのまま何も言うことなく去っていった。
 重大な局面を迎えた恋人同士にでも見えたのだろうか。そう思うと、洋人は妙におかしくなった。自分たちが恋人同士であるはずはない。それどころか、男と女でもないのだから。
「ばれるとは思わなかったんだけどね……」
 震えの治まった涼子の身体を改めて見る。浴衣の上からでもわかる、柔らかそうな丸みを帯びたライン。体型だけならごまかしようもあるかもしれないが、顔も声も身長も違う。少年ではない。完全に、少女の身体。
「その身体……どうなっているんだよ? いったい何が……?」
「目が覚めたらこうなっていたって言ったら……信じるか?」
 そう言われて信じられるはずはない。洋人は首を左右に振る。
「今更誤魔化そうとしても、もう遅いよな……。いいよ、全部話すから、黙って聞いてくれ。目が覚めたらってのは本当のことだ。それに、これから話すことにも嘘は全くない。現実に起きたことだ。だから──」
 「だから」の後に続く言葉は何だったのであろうか。洋人には結局それはわからないままだった。

「お袋とオレが仲が悪いってのは、知っているよな? んで、家出するとここに住むばぁちゃんの家に逃げ込むってのも、お前が知っている通りだ。何度も繰り返してきたことだったのに、あの時に限って、妙にかっこわるく思ったんだ。家を出て一人で暮らすんならともかく、半分ぼけたばぁちゃんにすがりつくなんてな。それで、この町に来たは良いけど、途方に暮れちまって。ちょうど三日前のお前と同じ。その日寝る場所すらない。ふらふらと歩いていたら、人気のない神社にたどり着いて……。そう、さっき話した神主が昔いた神社。今じゃ誰もいないから、祭りの時くらいしか人は集まらないけどな。とりあえず、その日はそこの軒先を借りることにしたんだ。雨露をしのげれば……って考えたんだけど、ヤブ蚊が凄くて。結局眠ることなんかできず、ずっと考えていたんだよ。
 どうして、ウチの家族は仲が悪いのかってね。
 オレとお袋。お袋とばぁちゃん。二代に渡って険悪な仲って、馬鹿らしくなっちゃってさ。オレもそのうち、お袋が呆けはじめても平気で放っておけるようなヤツになっちまうのかなって。そう考えるとさ、無性に悲しくなってきたんだ。
 だってさ。些細な事なんだぜ、きっかけは。
 ウチってさ、父親がいないだろ? オレが小さい頃に死んだらしいんだけど、それまではお袋もばぁちゃんも仲良くやっていたらしいんだ。実の親子だしな。でも、オヤジが死んで。オレをどうやって育てていくかで二人でもめて。そんなこんなで、今の今まで喧嘩しっぱなしだってんだ。
 なんのことはない。オレが原因なんだよ。
 そんな風に色々と考え事をしていて。ふと気付いたら、そばに小さなお守りが落ちていたんだ。我ながら、ちょっとセンチな気分になっていたんだろうな。知らない内にそのお守りを握りしめて、そのまま眠ったみたいなんだ……。
 目が覚めたら、身体がこうなっていた。そりゃ、驚いたよ。驚いてパニックになって。思わずばぁちゃんの家に駆け込んで。そしたらばぁちゃん、オレの顔を見るなり『お帰り』なんて言って。話を聞いてみたら、オレはばぁちゃんに育てられている女の子、涼子ってことになっていたんだ──」

「そんな馬鹿な……」
「ああ。馬鹿みたいだな。でも、実際にオレは女の子だ。少なくともここではばぁさんの孫は『涼子』って女の子で、父親が死んだと同時に祖母の家に引き取られて、小さな頃からここで暮らしている。家には『滋』なんてヤツの痕跡は一切ない。それだけじゃない……」
 涼子はしゃがみ込むと、小石をいくつか手に取った。
「これをオレの家だとするだろ。そして、こっちの石をオレが通っている高校だとする。少し離れて、これが町の中心、市役所くらいかな」
 小石が次々に並べられていく。
「春先、オレがこうなった直後は、『涼子』を知っている人間は、オレのウチの周りにしかいなかった」
 最初に置いた石に沿って、指先で地面に小さく円を描く。
「五月の半ば。ゴールデンウィークを過ぎた頃、突然家の中に制服と勉強道具、そして生徒証が現れた。半信半疑で学校に行ってみると、そこにはオレの席があって、クラスメイト達が仲良く話しかけてきた」
 再び円を、今度は少し大きめに、「学校」と称した小石が含まれる程度に描く。
「と言ってもこの時点じゃ、クラスメイトの半分くらいは、オレのことを訝しげに見ていた。知らない人間を見るような目でな。実際、その時は知らなかったんだろう。円の外側には、『涼子』なんて人間は存在していないんだから。ところが……」
 円を二重三重と、徐々に広げていく。
「こんな感じに……。段々とオレのことを知っている人間が増えていったんだ。正確には、オレのことを知っている人間がいる範囲が……ってなるな。次第にオレは完全に学校の中に溶け込んで、いつの間にかばぁちゃんの保険証に俺の名前が書いてあって。その時には、市役所辺りが円の中に入っていたんだろうな。とにかく、こんな風に『涼子』の存在する範囲が広がっていっているんだ。この円の内側では、『滋』は存在しない」
「でも、俺は、滋のことを知っているぞっ」
 洋人は声を荒げる。友人の存在が消えて行っている。そんな話をされて平静でいられるほど彼は薄情ではなかった。
「相変わらず馬鹿だな……。学校での話はしただろ? 同じ場所にいても、オレをクラスメイトと認識するヤツと、そうでないヤツがいた。おそらく、その人物が住んでいる……メインで生活している場所がこの円の内側に来たら、『涼子』側の世界に自然と入っていくんだろう。洋人、お前の家はまだ円の外側。つまり、『滋』側の世界にいるんだ。だから『滋』のことを知っている。でも……」
 続く言葉を涼子は飲み込んだ。円が広がり、洋人の家が、日本中が、世界中が円の中に入ったら……そこに『滋』の痕跡は残る余地はあるのだろうか。
「そんな……」
「オレはこのままで良いかなって思っていたんだ……。『涼子』側の世界では、お袋もばぁちゃんも仲が悪いわけじゃない。お袋、子供がいない分仕事に没頭しちゃっているから連絡を取り合うことは稀だけど、それでも一緒に暮らそうかって話も出ているくらいだ。少なくとも、オレが『滋』でいるよりも、家族のためになるんだろう。そう思っていたんだ。最初は戸惑うことばかりだったこの身体での生活も、今じゃ問題なくなっているしな。」
 十数年男として生きてきて、たった数ヶ月で少女として順応する。そんなことがありうるのだろうか。洋人にはどうにも信じがたかった。そんな彼の視線に気付いたのだろう。涼子は続けた。
「今のオレ、涼子と滋、両方の人格があるようなもんなんだ。滋としてお袋と生活していた記憶もあるし、同時にばぁちゃんに涼子として育てられてきた記憶もある。『オレ』と言う存在の基盤が、お袋の所とばぁちゃんのところの二ヶ所にあるから、そんな風になっているんだと思う。だから、オレはこうやって滋として振る舞うこともできれば──涼子として話をすることもできるのよ」
 突然涼子は口調を変えた。
「本当はもう、このままで良いかなって思ってた……。あたしがこの生活を受け入れれば、何もかも上手くいく。円の内側では、『滋』の方がおかしい存在なんだから。でも、それももうすぐ終わり。多分もうすぐ──夏が終わる頃には、円はお母さんや洋人達の町まで広がる。そうすれば、『滋』がいなくなったことを気にかける人はいなくなるし、お母さんもあたしのことを『思い出す』。会いに行くことだってできるだろうし、みんなで一緒に暮らすこともできるようになるかもしれない」
 微妙な言葉遣いの変化。洋人には決して向けられなかった口調で、涼子は語り続ける。今にも泣き出しそうな表情をした少女には、この言葉遣いの方が自然だ。しかし、洋人は違和感を拭いきれない。ついさっきまでの親しみやすさが消え失せ、目の前の少女が見知らぬ他人のように思えた。
 涼子は自分との間に距離を置こうとしている。
 意識的にそうしているのかどうかはわからないが、『滋』としてではなく『涼子』として話すことで、過去を知っている洋人に異論を唱えさせる隙を与えまいとしている。半ば直感的に洋人は察した。
「でも……それで本当に良いのかよ? そりゃ、お前の家族にとってみれば、一緒に暮らすことが一番大事かもしれないけど……。でも、そんなんで……滋の存在を消してまで、そんなことをして何の意味があるんだよっ。今までの自分をなかったことにして、それで全部解決したって言えるのかよっ」
「だって、しょうがないじゃないっ。だいたい、どうやったら『滋』に戻れるのかもわからないのよ? だったら、今、これが……このままでいるのが一番じゃないっ」
 次第に涙ぐむ涼子に対して言える言葉を洋人は持っていなかった。いくら親しくしていたとは言え、結局は他人だ。友人と家族、どちらかを二者択一しなければならないとしたら……その答えを強要することが自分にできるのだろうか。そもそも、涼子の言うことが本当だとしたら、元に戻る術がない。常識を越えた現象が起こっているのだ。それを止める方法など、見当も……。
「待てよ……」
 いや、一つだけ。はたと思いついた。
「神社……。そうだ、その神社とお守りって、その後どうなったんだ?」
「どうなったって……あの時はパニックになっちゃって、気が付いたらお守りはどこかに……。でも、後で探しに行ったらどこにも見つからなかったし……」
「きちんと探したのか? 寝ていた軒下だけじゃなく、藪の中とかまで。もしかしたら、どこかに放り投げたままなのかも。もしも、お前の言っていることが本当だとしたら……原因は神社かお守り。どちらかにしかないじゃないか。だったら、今からでも元の生活に──『滋』に戻る可能性はある」
 神社とお守り。どちらかが原因なのかもしれないし、両方かもしれない。いずれにしても、人智を越えた力が宿っていても何の不思議もない。洋人自身はこれまで迷信じみたことは相手にしない質だったが、実際にこうして起こっているとなれば、信じざるを得ない。それだけの説得力が涼子の言葉にはあった。
「え……。でも……」
 尚も渋る涼子の手を取り、祭りの最中に教えられた方向へと向かう。道筋はわからないし、辺りもすっかりと暗くなっている。湖の周りは街灯が乏しい灯りを投げかけていたが、少し離れるとそれすら届かない。お互いの姿がシルエットとなってかすかに見えるだけ。「待ってよっ。今更行ったって、あたしは……」
「元に戻る方法がないから戻れないって言ったろ。なら、戻る方法を探してやる」
「だって……」
 涼子の手が強く握りかえしてくる。洋人を信頼してのことなのか。それとも、やろうとしていることに抵抗してのことなのか。
「いいからついてこいっ。今の姿でずっといたいんだったら、俺は止めない。でも、元に戻れないから『滋』として生きることを諦めるなんて、俺は絶対に認めない。その姿でいるにしても、一度は元に戻って、別れくらいは言わせない限り、やっぱり認めない。勝手に縁を切ろうって言っても、そんなのは許してやらないからな」
 涼子が小さくこくんと頷くのが、目の端に見えた。



 神主不在と言うことから荒れ果てている物と思いこんで神社に足を踏み入れた洋人は、予想外に小綺麗な様相に少しだけ戸惑った。氏子や地元の誰かが面倒を見ているのだろうか。境内にも社にも、少しもおかしな場所は見あたらない。もっとも、多少は目が慣れてきているとは言え、やはり暗闇の中。はっきりとしたところはよくわからなかったが。
 鳥居をくぐり、まっすぐと社へと向かう。『滋』は軒下で夜を明かそうとしたと言っていた。それならば、お守りを拾ったのは社の傍と考えられる。
 握りしめたままの涼子の手のひらが汗ばんできているのがわかる。自分がやろうとしていることは間違っていることなのだろうか。滋は自分の生活を放棄し、涼子は、今、このままで生活することを望んでいる。逃げるほど嫌がった生活に連れ戻す権利が自分にあるのだろうか。
 現状ではその答えを出すことはできない。全ては、やってみなくてはわからないのだ。そもそも、再びお守りを手に入れることができるのかどうかすら──。
「あれ……?」
 参道をまっすぐに進み、小さな賽銭箱の前までたどり着いたときだった。その薄汚れた──放置されていて汚れているのではなく、年季が入っているためと思われたが──賽銭箱のちょうど裏側に、それはあった。
「嘘……。だって、前に来たときはこんなところに……。それに、あれから何ヶ月も経っているのに……」
 涼子の反応を見る限り、これが探していた物であることに間違いはなさそうだった。手に取ってみると、予想外に小さい。手作りだろうか、普通にそこらの神社で売られている物に比べて少々作りが荒いが、どことなく懐かしさを感じさせる。何より、数ヶ月もこんなところに落ちていたというのに、雨露に濡れた後がないことに洋人は驚いた。まるで、二人がこの場所に来ることに合わせて、お守りが自らの意思でここで待っていたかのような……。
「まさかな」
 いくらなんでも、それはないだろう。涼子が以前探したときに見落としたか、その後拾った誰かが祭りの夜に合わせてここにそっと返しに来たか。そんなところだろう。注意深く見てみると、お守りの隅が小さく焦げていることがわかる。が、他には何も変わったところはない。どこにでもある──とは言い難いが、それでも何の変哲もないただの小さなお守りに見えた。
 お守りをそっと差し出すと、涼子は両手で包み込むようにして受け取った。
「オレ……どうしたら……」
「戻りたくないのか……? だったら、そのままそんなお守り捨ててしまえよ。その代わり……俺ともう会うこともないだろうな。もう少ししたら、俺までお前のことを忘れちまうんだろ……? 絶対に許さないって言いたいところだけど、言ってもしょうがないよな。でも、俺は忘れたくない。忘れてくないけど……これ以上、何もできないのか……?」
「だって……」
 お守りをじっと見つめていた涼子が顔を上げた。
「オレだって……元の生活に戻りたくないわけじゃない。女になりたかったわけじゃないし、ずっと……洋人と一緒の学校に通って、馬鹿みたいに騒いで……そんな風な毎日が続いていくと思っていたんだ。でも、今更……。もう、ここにはあたしの生活がある。あたしはここで育って、友達もいるし、おばあちゃんもいる。どっちかを選ぶなんて……できるわけないじゃないっ。だから、何もできないことにしたのに……。このまま、時間が過ぎるのを待っていたのに……。それなのに、洋人が来るからっ」
 涼子としての生活。そこまで頭の回っていなかった洋人は言葉に詰まる。確かに、自分が言っていることは、どちらかを選ばせると言うこと。涼子の話では、既に彼女には少女として過ごしていた記憶が存在し、この町に思い出もできてしまっているのだろう。滋に戻ると言うことは、それらを捨てることに他ならない。
「洋人があんなところで倒れているからっ。もう、滋だったことなんて思い出さないようにしていたのに……。しかも、オレを探しに来たなんて……嬉しくって、懐かしくって、そんなことされたら捨てられるわけがないじゃないかっ。それでも、たった数日だと思っていたのに、お守りまで見つけちゃうなんて……」
 どうするのが一番良いのかわからないのは、洋人も同様だ。友人を失いたくない。その思いで自分が今まで行動していたのなら、涼子に自分の思いを押しつけることはなおさらできなくなる。
「あたしだって……どっちも失いたくなんかない。家族も大事だし、洋人も……大事。今まではそこまで思わなかったけど、何日か一緒にいて……離れたくないって思った。だから……だったら、いっそのこと……」
 涼子のお守りを握る手に力が込められた様だった。それと同時に、薄く淡い光が手の中から漏れる。白い輝きが闇に慣れた目に眩しく、洋人は目をすぼめた。
 お守りが……光っている?
 洋人は目を疑った。お守りに不思議な力があるなど、まるっきり信じていたわけではなかったのだ。もしかしたら……と思って動いたに過ぎない。
「ここの生活も、洋人のことも大事。だったら、洋人がここにいればいいんだ……」
 輝きが強さを増す。と同時に。
 どくん。
 洋人は自分の心臓が大きく鼓動したように感じた。
「あたしと同じになれば……おばあちゃんの孫になって、ここに住むことになれば……少なくとも洋人とは離れなくてもいい……そうでしょ?」
 視点が下がる……。高校男子の平均程度の身長はあった洋人の背が、どんどんと低くなっていく。
「大丈夫。最初は困ることもあるし、戸惑うことも多いけど……。すぐに色々と『わかる』ようになるから」
 肩が、腰が、Tシャツの上からでも、丸みを帯び始めていることが見て取れる。だぶだぶになったシャツの胸元を、小さな膨らみが押し上げる。
「あたしもちゃんと教えてあげるから……。だから、ずうっと一緒にいよ……」
 急に光が弱くなる。お守りはほんの少しだけの淡い光を残し、先ほどまでの強烈な輝きはまるで嘘のようだった。そしてその光に薄く照らされているのは、二人の少女。一人は涼子であり、もう一人は彼女よりほんの少し幼い。
「そんな……馬鹿な……」
 呟く声が高いことに洋人は愕然とする。確かめるまでもない。自分で「わかる」。お守りには本当に力があったのだ。持つ人の願いを叶える──そして、人の身体を、更には存在を変質させるような力が。
「家族なら……姉妹なら、一緒にいられるよね?」
 涼子は手を差し伸べる。自分の手をそっとそこに伸ばしかけ……洋人は涼子の手を払った。
「ふざけんなっ」
 甲高い叫び声がこだまする。振りほどいた手がひるがえる。
 パチィンっ。
 女の子の身体とはヤワにできているらしい。手のひらを振り下ろした洋人は自らの右手に、そして振り下ろされた涼子は左の頬に痛みが走る。
「こんなことをして……何の解決になるって言うんだっ。俺が女の子になったって、何にもならないじゃないかっ」
「だって……そうすれば、洋人は自分の家に帰らないでしょ? もしも記憶が変わっていくとしても、その時もずっと一緒にいられる……。だから……」
「だからって、違うだろっ。滋も涼子も幸せになれる方法を探そうってのに、なんでこんな……」
 「女の子になった」。現実離れした話だったが、洋人は既に自分に起きていることを認識し、理解していた。予め涼子の体験を耳にしていたからこそなのだろう。それでも、半ばパニックに陥ることを避けることはできない。
 滋と涼子。どちらかを選ぼうとした結果がこれなのか。いや、違う。こんなはずはない。もっと別の……より良い手段があったはず。そう、例えば。
「馬鹿だな……。ったく、人のことをいつも馬鹿にするクセに、こういう時は俺より馬鹿なことをしやがる」
 涼子の左手──未だお守りを握りしめている手を取る。淡い光を放ち続けているそれは、すこしだけ温かいような気がした。
 どちらか一方を選ぶことができないなら。答えは簡単だ。
 両手で涼子の左手ごと包み込むと、洋人は願った。こんな簡単なことに何故今まで気付かなかったのだろう。身体が変化することで、考え方も変わる物なのだろうか。そう思えるほど、あっさりと思いついた願い。
 お守りが白く輝きだし──。



「それじゃ、また……」
 列車のドアが閉まる。窓越しに見える涼子はホームに一人残され、寂しそうに笑っていた。
「また……来てくれるよね?」
「ああ。きっと来る。長い休みがないと無理だけど……」
 次は冬休みになってしまうのだろうか。そう思うと、洋人にも寂しげな表情が浮かぶ。
「大丈夫、オレが首に縄を付けてでも連れてくるさ。安心しろよ」
 そうしないとウチまで押しかけてきて、無理矢理にでも会いに行くだろ? ボックス席の向かい。洋人のちょうど正面に陣取った少年が冷やかす。それを聞いた涼子は顔を真っ赤に染め、俯いてしまう。
 すっかり女の子になっちまっているな……。場違いな感想を洋人は持った。あの夜から涼子はずっとこんな感じだった。恐らく、この女の子らしい女の子が本来の涼子なのだろう。
 ガタン。大きく揺れ、列車が動き出す。一度だけ涼子に手を振り、顔を見つめる。が、それも列車が速度を増すに連れ、だんだんと小さくなっていき、やがて見えなくなる。
 お守りの効力はいったいどうなっているのだろうか。記憶の改変の輪は未だに広がっているのだろうか。もし、自分の所まで来たら、果たして涼子のことを覚えていられるのだろうか。洋人にはそのことはわからない……が、今だけは少女の顔を心に焼き付けておこうと思った。
「しっかし……。よくもまぁ、あんな方法を思いついたな」
 向かいに座る少年──見慣れた友人、滋が呟く。
「ああ。自分でも上手く行くかどうか半信半疑だったけど……結果オーライってとこだな」
 洋人がお守りに願ったこと──それは、『滋も涼子も両方が存在する世界』だった。結果として涼子は双子の兄妹として分離し、『両方の幸せ』を手に入れることができた。もっとも二人の問題が解決したことに気を取られ、洋人自身が元の姿に戻ることを忘れ、そのまま一晩過ごしてしまい、翌朝になって順応しかけたところで慌ててお守りを再び手に取るというハプニングはあったが。
「都合が良すぎるよなぁ。こんな方法で解決するなんて……」
 実際、問題は全て解決していた。涼子が存在することにより、家庭内の不和は生じなかったことになっていたし、家出もなかったことになり、滋は元の生活に戻れる。
「まぁ、アイツはあれで本気でお前のことを好きになっちまっているみたいだからな。幸せにしてやってくれ、色男さん。兄としてはそう願うだけだな」
 問題があるとしたらただ一つ。滋にも涼子にも、全ての記憶が残っていることくらいだった。おかげで滋は涼子の気持ちを完全に知っているし、涼子の方も男の子の秘密を色々と知ってしまっていることになる。洋人としては、どちらを相手にするにもやりにくくて仕方がない。
「女ってのは思いこむと一途だからなぁ。特にアイツは……初恋だからな、うん。女の子の気持ち、一晩だけとは言え経験したお前にはわかるだろ?」
「わかるかっ、そんなもんっ」
 思わず怒鳴り返す。二人しか乗客のいない車内のため、何事かと耳を澄ます者もいなかったが、もし他に聞く者があれば何とも不思議な会話だと思ったことだろう。
「順応しかけていたクセに」
「順応しきっていたヤツに言われたくない」
 実際、女の子として一晩過ごしたことは洋人の中でしばらくはトラウマとなって残りそうだった。
 洋人の身体を元に戻した後、大事に箪笥にしまったはずのお守りは忽然と姿を消していた。お守りの正体はわからないままだったが、自分たちにはもう必要がなくなったからかもしれない。器物に意思があるとは思えないが、この数日、或いは数ヶ月の生活を思い起こすと、何が起きても不思議ではない。
「そう言うなよ。結構可愛かったぞ、可愛い妹に『お兄ちゃん、おはよ』って挨拶される生活。捨てるにはちょっと惜しかったよなぁ」
「妹なら一人いるだろうが」
「涼子は妹と言うには近すぎるからな。年も意識も。その点、あの時のお前は──」
 一生の不覚、だったと思う。だが、既に取り返しはつかない。なんで自分はこんなヤツのことを探しに来てしまったんだろう。洋人は本気で後悔した。時が経てばこの記憶も薄れるのであろうか。それとも──。
「なぁ……、例の円──存在を変えてしまう円、今はどうなっているんだと思う?」
 滋に問いかける。円が未だに広がり続けているとしたら、自分の記憶はどうなるのだろうか。自分だけではない。滋も涼子も、この不思議な現象を忘れてしまうのだろうか。
「多分……予想でしかないけど、もう、円は存在していないと思う。はっきりとは言い切れないけど、涼子のヤツ、全部覚えていただろ?」
 確かに涼子は、「本来の涼子の性格」に落ち着いているだけで、今までのことを全て覚えていた。
「今の状態だと、涼子の生活の基盤はばぁちゃんの家だけにあるはずだろ。そうしたら、真っ先に影響を受けているはずだ。実際、ばぁちゃんは孫が二人いるって記憶していたしな」
 一時的には三人だったみたいだけど。そう言って滋は大声で笑い、滋は再びどこかに逃げ出したい衝動に駆られた。
「当事者達は無視して他の人たちを順応させる。そんなところじゃないかな。まぁ、実際の所は何ヶ月かしないとわからないし、その時にはオレもお前も既に記憶が変わっちゃっているんだろうけどな」
「そっか……」
 しかし──。洋人は思う。例え、この夏に起きた現象を忘れたとしても、決して忘れはしまいと。
 助けてくれたときの微笑みを。一緒に町を歩いた数日間を。花火大会の時の横顔を。そして、暗闇の中に見えた涙を。
 そしてまた会いに来る。自分と離れたくないと言って泣いてくれた少女に。あの時の言葉は、親友に向けて放たれた物なのかもしれない。しかし、滋の言うことが本当なら──涼子が少しでも自分のことを好きになってくれているのなら、自分はそれに応えなければ行けない。ならば、必ずまた会いに来なくてはならない。
 洋人は一人、心に誓った。

 この夏をわすれない──。


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