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少年少女文庫・リレー小説実行委員会主催...


小さなお守り







第二章『人魚の涙』





                 第二章担当: 愛に死すさん




 水谷結雨(みずたに ゆう)は幼馴染の川澄若魚(かわずみ わかな)と一杯に荷物が積まれたリアカーを引いて歩いていた。かつてこの地方は豊かな水の恵みがあり、二人の名前にも慣習として水に関連のある名前がつけられている。
 もっともそれは過去の話、今の水富湖市では梅雨時でもほとんど雨が降らない事があり、水の使用制限がかけられる事はよくある話だった。それを何とか打開する為に、市民は必死に知恵を絞った。地質学者が調査したところ、水富湖市の地下には今まで貯められた豊富な地下水があり、その水を活用する事が出来れば水不足は解決できるという結果が出た。その地下水を汲み出す工事をする為に、市民が一丸となって働いていた。結雨と若魚も夏休みという事でその手伝いをしているのである。
「わかなぁ、リアカーを後ろから押してくれるんじゃなかったのぉ?」
 結雨は情けない声を出した。工事現場で働いている人達の為に、二人はリアカーで弁当を運んでいたのだ。もちろん人力である。ところが、若魚はリアカーに乗って足を投げ出している。工事現場への道は細く入り組んでおり、大型のトラック等はなかなか使用できないのだ。将来的にはこの道も舗装するのだろうが、街の予算では貯水湖造成だけで資金が尽きてしまったのだ。
「何よぉ、女の子にこんな力仕事をさせようというのぉ!」
 頬を膨らませて若魚は文句を言った。汗だくだくで疲れ果てた結雨に比べて、若魚はどうみても元気一杯である。
「女の子ねぇ……この付近一帯の餓鬼大将だったのは誰だったかなぁ」
 ぼそっと結雨は言葉を漏らした。
「うっ、遠い昔の話よ」
「まだ十年も経ってないけどね」
「うっさい!」
 若魚はリヤカーからいきなり飛び降りた。
「おっとっと」
 結雨はいきなり軽くなったリヤカーの為に前のめりになる。危うくバランスを崩して転んでしまうところだった。
「ふぅ、軽くなったなぁ。全く重いのなんのって……あだだだっ!」
「こらぁ、誰が太っているだぁ!」
 ポカスカと結雨は若魚に頭に殴られた。結雨は訳がわからない。
「誰もそんな事言ってないよぉ」
 結雨は涙目になっていた。とんだ災難である。そもそも弁当を運ぼうとしていた結雨に声をかけてきたのは若魚だったのだ。手伝うと言っておきながら、若魚はほとんど何もしてない。それどころか、逆に邪魔をしてくるような有り様だ。
「嘘つけ!」
 ムニィと左右に若魚は結雨の頬を引っ張った。ビヨヨーンと結雨の頬が左右に引き伸ばされる。
「ふごふごふご……」
「恨みがましい目で見ても駄目よ。前言を撤回しなさい」
 別に若魚は太ってなどいない。スポーツ、特に弓道で鍛えられた体はスラリとして均整が取れている。しかし、本人は筋肉のつき過ぎでゴツイと思っているらしい。確かに若魚の胸はまだちっちゃかった。まだまだ女を感じさせるには時間がかかりそうだ。
「ふごぉ、ふぐふぐぅ」
 コクコクと結雨は首を上下に振った。ここで逆らうと何をされるかわからない。
「よろしい」
 若魚はそれに満足したのかようやく結雨から手を離す。結雨はヒリヒリする頬を手で押さえた。頬には若魚の指の痕がくっきりと残っている。さすが馬鹿力である。だが、それを口にするような真似は結雨はしなかった。命に関わる。
「みんながお腹を空かせて待っているよ。急ごう」
 そろそろ昼飯時だった。これ以上もたもたしている時間はないだろう。
「しょうがないわね。あたしも手伝うか」
 若魚はリヤカーを勢いよく押し始めた。登りの坂道にも関わらず凄いスピードである。
「う、うわっ!」
 疲れている結雨もそのスピードに付き合わなければならないのでたまったものではない。
「ぜぇぜぇぜぇ」
 工事現場に辿り着いた頃には、結雨は息が切れていた。しばらく足腰が立ちそうもない。それに比べ、若魚は汗をかいているものの、呼吸はそれほど乱れていなかった。
「結雨はもっと鍛えなくちゃ駄目だぞ」
 バンバンと若魚は結雨の背中を叩いた。ゴホゴホと結雨は噎せ返る。それを見ていた人々はみんな好意ある笑みを見せていた。工事現場で働いている人々にとっては、日常茶飯事の風景と化している。結雨と若魚は誰からも好感を持たれていた。
「高天ヶ原に神しずまります、八百万の神々……」
 工事現場の中央では祭壇が作られ、神主が御幣を振って祝詞を唱えていた。低く渋いながらも朗々と鐘のように辺りに響き渡る声である。だが、その顔には幾分疲れが浮き出ているようだった。しばらくして神主が祝詞を唱え終わる。
「二人ともご苦労様。夏休みだというのにすまんな」
 すると神主は結雨と若魚に歩み寄ってきた。だが、その足取りはややおぼつかない。
「父さん、お疲れ様です」
「こんにちは」
「いつも助かるよ」
 結雨と若魚は同時に神主に頭を下げた。この神主はこの辺り一帯の神事を司っている結雨の父親で水月という。
「いつも悪いわね。ほら、あなた達も食べていったら」
 続いて現れたのは結雨の母親だった。工事現場で水月の仕事を手伝っているのだ。
「僕はそれほどお腹が空いてないから大丈夫だよ」
「あたしも大丈夫です。それに、結雨がお腹空いたらあたしが料理してあげるわよ」
「……失敗しないでね」
 若魚は料理の腕は下手ではないのだが、新しい料理を何故か結雨のいる時に限って作ろうとしてよく味付けを間違えたりするのだ。しかし、懲りるという事を知らない若魚に結雨はいつも付き合わされる羽目になっている。何故自分だけがこんな目に会うのか、結雨は未だに納得がいかない。
「父さん、工事の方はどんな具合なの?」
「そうだな……」
 水月は少し考える素振りを見せた。
「事故は起きてない。私の祈りが功を為してか、今のところ災いが起きてはいないようだな」
 以前工事現場では頻繁に事故が起こり、貴重な人命が数多く失われたのだ。それも、怪奇現象と呼べるような類のものであり、結局原因が不明なものがほとんどだった。そこで、水月が天と地と霊を鎮める役目を買って出たのだ。結雨の一家は代々続く神主の家系で、血によるものか不思議な力を持つ者が多いらしい。
 水月の祈りによるものだろうか、工事現場は平穏無事の様子だった。どうやら、結雨と水月が話している間に工事現場の人々は昼食を終えたらしくまた仕事にかかり始めている。みんながこの貯水湖の完成を心待ちにしているのだ。一生懸命になるのは当然だった。
 もしこの貯水湖が完成すれば、湖有町にある湖に水を流し込む計画になっていた。今ではこの地方の名物だった湖もすっかり水が枯れてしまい、水溜りなどと陰口を叩かれる有り様だった。この街の繁栄を象徴してきたかのような湖の復活を誰もが待ち望んでいた。
 水月は軽く握り飯を食べるとまた準備を始める。だが、祭壇に向かって歩き出した水月はフラフラとして、結雨の母に支えられなければ倒れてしまいそうだった。
「父さん、今日はもう休んだら?」
 見るに見かねて結雨は水月に声をかけた。だが、水月はかぶりを振った。
「これは私の役目なのだ。それに私がいなくなれば……ごほごほっ」
 水月は苦しそうな咳を何度かした。手で隠しているが、水月の口元には血がついている。だが、水月は何もなかったかのように懐紙で口元を拭った。
「父さん……」
「大丈夫だ」
 祝詞を唱え始めた水月の顔色がますます青くなっていくような気がして、結雨は心配でたまらなかった。しかし、結雨の忠告を受け入れるような水月ではないだろう。
「結雨、おじさん達の仕事の邪魔をしちゃ悪いよ。今から川にでも泳ぎに行こうよ」
 動こうとしない結雨に若魚が声をかけた。
「おいおい、僕は金槌で泳げないの知ってるだろ?」
 思わず結雨は苦笑する。だが、そんな事で諦めるような若魚ではない。
「訓練あるのみよ。それに溺れるほど水位がある川じゃないでしょうに」
 結雨の反論はあっさりと若魚に封じ込められた。若魚は結雨の手を引っ張る。智須川から別れた支流がここからそう遠くはない場所に流れていた。十年前はまだ水が多かったのだが、今はせいぜい腰の高さまでの水量になっている。魚の数も激減したようだ。
「わかった、わかったよ。父さん、母さん、頑張ってね!」
「また明日来ます」
 ズルズルと引きずられるような形で結雨は工事現場から立ち去った。だが、川へ向かって歩いていると何故か押し潰されそうな不安が心に沸いてくる。理由はよくわからない。ただ、脳裏に父の姿がちらつくのだ。
(ゆうぅぅぅぅ!!!)
 その時、結雨の頭に父の悲痛な声が鳴り響いた。工事現場から声なぞ届きそうもない場所にもかかわらずにである。ハッとして結雨は立ち止まった。
「若魚、ごめん。僕、ちょっと工事現場に戻ってみるよ」
「どうしたのよ?」
 若魚は不機嫌そうな顔をしたが、結雨の必死な顔を見て押し黙った。しばらくいじけたような顔をしていたが、ぐいっと結雨に顔を近づける。
「しょうがないなぁ、あたしもつきあってあげるわよ。感謝しなさいよ」
「ありがとう、若魚」
 結雨は若魚の手を掴むと走り始めた。若魚は長い事結雨と一緒にいるが、ここまで必死になった結雨の姿を見た事がない。結雨はいつも穏やかで控えめな性格をしていた。驚きながらも、結雨の別の一面を見て若魚は密かに顔を赤めていた。握り締めた手から結雨の体温が伝わってくる。
「はぁはぁはぁ」
「結雨、少し歩いた方がいいわよ」
「う、うん」
 唾を飲み込むと結雨は大きく深呼吸した。汗を手で拭うと、そのまま立ち止まらずに歩き続ける。結雨の不安はますます強くなるばかりだった。心がざわめく。
「そんなにむきになっちゃってどうしたのよ?」
「僕にもよくわからない。でも、僕を呼ぶ声が父さんの声が確かに聞こえたんだ……」
 ドォォォーン!
 その時、突如工事現場の方向から天をつんざくような音が鳴り響いた。鼓膜が破れそうな音響である。地面がグラグラと揺れ動く。結雨と若魚は無言で顔を見合わせると、また工事現場に走り出した。
「……これは!?」
「ひどい……」
 結雨と若魚は工事現場に起こった惨劇に目を瞠った。工事現場では地割れと土砂崩れが起きていたのだ。阿鼻叫喚の地獄と化している。それでも、無事だった人々は必死に埋まっている人を助けようとしていた。あちらこちらで助けを求める人々の声が聞こえている。
「こんな事って……」
 災害が起こる前兆など何一つとしてなかった。結雨は唇を噛みしめ救助活動を手伝おうとした。もしかしたら、父と母は助かるかもしれないという一縷の望みをかけて。だが、どう考えても工事現場の中心にいた父と母の無事は絶望的だった。
「どうして……」
 結雨は悲しそうな顔で天を仰ぎ見た。いつも祈りを捧げている神々を罵倒したかった。口を開けば悪態を吐いてしまいそうだった。だが、空を仰ぎ見た結雨は大きく目を見開いた。黒い大きな雲のようなものが、爛々と光る赤い瞳で地上を睨みつけていたのだ。
「気持ち悪い……」
 黒い雲は禍々しい気を放っていた。それは神主の家系として、そして神主の修行をしている結雨だからこそわかった事なのかもしれない。結雨には以前から人には見えないものを見る力があった。だが、工事現場にいる人々は災害に目を捕らわれ、誰一人として空に注目していなかった。それも当然の事と言えただろう。
「やめろ、やめろよぉぉぉ!」
 結雨は悲痛な気持ちで空を眺めている。黒い雲はどんどん広がると雨を降らし始めた。先程まで空には雲ひとつない天気だったのだ。雨の少なくなった水富湖市では、本来雨は救いをもたらすものだ。だが、この状態では悲惨、不幸以外の何物でもなかった。
「僕にもっと力があれば……」
 何も出来ない自分に結雨は苛立っていた。唇の端が切れて血が流れている。人々の生活を陰から守る事が神主の使命のはずだった。神主の家系として生まれた者に課せられる役目だと結雨は思っていた。
「結雨、こっちに来て一緒に石を運んで」
 呆然として立っていた結雨は、若魚に声をかけられ気を取り戻した。
「……わかった」
 無力な自分はせめてこれ位しか出来ない――結雨は黙々と土砂や石を運び続けた。
 傘を差さず雨合羽を羽織る事もなく、人々は救助活動に勤しんだ。だが、土に埋もれ助けを待つ人々は、土に入り込んだ水によって窒息死、もしくは水を含んで重量を増した土によって圧死する事になった。それだけ激しい雨が降り続いたのだ。やむ気配は一向にない。そんな状況で、人々は絶望感に襲われながらも、救助活動をやめようとしなかった。
「見つかったぞ!」
 懸命の救助活動によって結雨の父と母が見つかったのは、夜が更けてからの事だった。もう結雨の母は息をしていなかった。だが、僅かながらではあるが水月には息が残っていた。
「父さん!」
「結雨か……」
 水月の目はもう見えてはいないようだった。声を頼りに渾身の力を振り絞って水月は結雨に向かって手を伸ばす。その泥塗れの手を結雨はしっかりと握り締めた。力強いはずの手は冷たく氷のようだった。
「これを……お前を守ってくれるはずだ」
 水月から結雨に手渡されたのは、端が少しだけ焦げているお守りだった。
「私の力が足りずに悪霊を払えなかった……。結雨よ、お前はこの地を去って別の生き方を見つけろ。私と同じ生き方をする必要はない……」
 途切れ途切れに言葉を言い残すと、水月はそのまま息を引き取った。その顔は苦痛と無念に歪んでいるように見えた。
「父さん! とうさぁぁぁん!」
 結雨の悲痛な叫びが天に木霊した。若魚はかける言葉も見つからず、ただ結雨の側に黙って立っていた。
 この災害により百人規模の人達が命を落とした。昨日まで顔を会わせていた人間が亡くなったのである。街に衝撃が走った。
 結雨は未だに父と母が亡くなったとは信じられなかった。自分の目で亡くなった様をしっかりと見届け、手にはベットリと血の感触がまだ残っているにもかかわらずだ。あれは悪い夢で一晩経ったら何もかも元に戻っているのではないかと……。だが、ほとんど一睡もできぬ夜が明けても人々は帰ってこなかった。
 しかも、結雨は父と母の事を想う時間もゆとりも与えられなかった。この街の神事を司る神社の家に生まれた結雨は、亡くなった人々を神主として見送らねばならなかったのだ。それが代々この神社に生まれた者の役目だった。弱音を吐く事は決して許されない。
「やらなくちゃ……このままでは亡くなった人が迷ってしまう」
 役目を投げ出す事は、律儀な性格の結雨には思いつかない事だった。こんな時に泣き叫んで錯乱する事ができればどんなにか楽かと思う。しかし、結雨は他の人々の嘆きを見て自分こそがしっかりしなければならないと心を決めたのだ。やわな外見と相反して結雨の心は気丈だった。
 十日以上経ってようやく結雨は自分の時間を取り戻す事ができた。街は束の間の静寂を取り戻している。結雨は一人神社にある一室で考えに耽っていた。頬は痩せこげ眼窩は窪んでいる。痛々しい姿だった。結雨は「同じ生き方をする必要はない」という水月の今際の際の言葉を思い出していた。とりあえずは、結雨は役目から解放された。今ならこの街から去っても誰も文句は言わないだろう。
 詳しい話を聞いた事はなかったが、町々を祈祷し歩いていた結雨の祖父がこの街――当時はまだ市になっていなかった――に訪れ地元の有力者の娘に見初められたらしい。そして、神主のいなかった沖姫神社を任される事になったのだという。
「祖父と同じように僕も旅をするのもいいかもしれない。ここには思い出が多過ぎる。でも……」
 考えはなかなかまとまらなかった。
「結雨、お疲れ様」
「若魚……?」
 背後を振り返ると若魚が部屋に入ってこようとしていた。勝手知ったる他人の家、若魚のこんな行動は小さな時はよくある事だった。もっとも、最近はいきなり入ってくるという事は珍しくなっている。さすがに遠慮という言葉を覚えたらしい。だが、今日の若魚は何故か子供に戻ってしまっているようだ。
「ねぇ、結雨はこの街から出ていってしまうの?」
 不安げな顔をしている。いつも明るく元気な若魚には似合わない表情だ。昔一緒に遊んでいる時、若魚が無理をしたせいで、結雨が胸に大怪我を負った時以来かもしれない。まだその大きな傷跡は結雨の胸に残っている。
「……どうしようかな? 少しなら貯えもあるしそれも選択肢の一つだろうね」
「!」
 若魚の息を飲む声が結雨に聞こえた。何とか若魚は驚きを胸の内にしまおうとしているようだが、表情はそれを裏切っている。怒ったり悲しんだり忙しそうだ。
「こんな事があった街から去りたいと結雨は思っているのかもしれない。でも、でもね、あたしがずっと結雨の側に、一緒にいつまでもいてあげるから何処にも行かないでよ!」
 よく見ると若魚は泣き腫らしたのか、その目蓋は腫れぼったくなっていた。その若魚の表情を見て結雨は軽く苦笑を漏らした。
「なによぉ、あたしは真剣なのよ!」
「うん……わかっているよ」
 結雨は微笑むと若魚の頭をポンポンと軽く叩いた。若魚が愛しくて仕方なかった。結雨の心にわだかまっている事とは、若魚の事に他ならなかった。
「馬鹿だなぁ、若魚は」
「結雨にそんな事を言われたくないもん!」
 若魚が結雨にしがみついてくる。
「僕はこの街にずっといるよ」
 長年住み慣れた街を離れる気は、結雨にはもうなくなっていた。そして、神主の役目を正式に引き受けようと決心していたのだ。
「本当……ね」
 若魚の温もりと匂いが結雨に伝わってくる。そして、ミシミシと肉と骨が軋む音が……。
「ギ、ギブ、ギブアップゥ」
 結雨は泡を吹きかけていた。そのまま倒れこんでしまう。
「ああ、どうしたのよ? 結雨、起きてよ」
 まさか自分の馬鹿力によって結雨が気を失いかけているとは夢にも思わない若魚である。どうしたら結雨が目を覚ますのか若魚は慌てた。
「そ、そうよ。こういう時は人口呼吸をすればいいのよ」
 間違った知識としか思えないが、若魚は大真面目である。いや、少し顔が照れているようだ。
「い、いいよね。これはキスじゃないんだから……」
 ところが、唇に触れるか触れないかの微妙な距離になった瞬間、結雨の瞳がパッチリと開いた。
「うわっ!」
 目の前にある若魚の顔に驚いたのは結雨だったが、それ以上に驚いていたのは若魚だったらしい。急激に恥ずかしさがこみ上げてきたのだろう。若魚は結雨を突き飛ばした。
「あいたぁぁぁ!」
 床の上を三回転ほどしてから、やっと結雨の勢いは止まった。
「ゆ、結雨が悪いんだからね」
「は、はぁ」
 何が悪いのかよくわからないが、とりあえず結雨は頷いた。ここで否定するのは得策ではないだろう。
「わかった、わかった。僕が悪かったよ」
「わ、わかればいいのよ」
 若魚は顔を真っ赤にしている。
「あー、若魚と久々に話したら気が楽になったよ。どうもありがとう」
 結雨は手を組み合わせると腕を伸ばして思いっきり伸びをした。体に活力が戻っている気がする。
「別に、これくらい……。そうそう今日はあたしが夕飯を作ってあげるから感謝しなさいよ」
「それは嬉しいなぁ。お腹ペッコペッコだよ」
 しばらく結雨は断食のような生活が続いていた。食物を体が受け付けなかったのだ。だが、今は何でも食べられそうな気がする。
「よーし、腕によりをかけてあげるからね」
 パタパタと慌しく台所に向かう若魚の後姿を結雨は微笑みながら見詰めていた。きっと山ほど料理を作ってくるに違いない。
「よし、僕も僕の役割りを果たす事にしよう!」

 高校三年生である結雨だが進学するつもりはないので時間はある。もっとも、学力がないわけではない。いや、高校ではトップクラスの実力を持っていた。しかし、元々神社の跡目を継ぐつもりだったのだ。
「あの黒い雲は何だったのだろう?」
 結雨は今まで鍵を開けられた事のない倉の前に立っていた。この倉には様々な文献が眠っている。歴史の闇に葬られた出来事まで書かれた本もあるかもしれなかった。結雨の祖父が、この神社を取り仕切るようになる前に住んでいた神主が記した書も数多く眠っているという。
「この倉の中になら何かヒントになるような物が見つかるかもしれない」
 今までこの倉は絶対に開けてはならないと水月に言われ続けてきた。だが、今ではこの倉が全ての謎を解く鍵になるだろう。
「何があるのか……」
 結雨は大きな鍵を倉の鍵穴に差した。錆びついた音を立てて鍵が回っていく。
「ごほごほっ。凄い埃だなぁ」
 床には厚い埃が敷き詰められていた。足を踏み出す度にもわぁと埃が舞い上がる。持ってきた懐中電灯で倉の中を照らすと所狭しと書物が積まれていた。
「これは挑みがいがあるなぁ。あ、年号が書いてある。えっと、これは昭和初期の物で、こっちは大正、明治か。江戸時代の物まであるなぁ」
 結雨は目についた物をとりあえず自分の部屋に運び出した。これを全部読むのは一ヶ月かそこいらでは絶対に足りそうもない。
「でも、やらなくちゃいけないよな」
 結雨は自分自身に多少の霊力がある事は自覚していた。あの時見た黒い雲は怨霊に違いない。だが、あそこまで強力な霊が生まれるには理由があるはずだった。
 それに、工事は二週間後にまた再開される事になっていた。安定した水の供給がなければ確かに街は寂れてしまうだろう。市民は不屈の精神を持っていた。一時は工事中止の声も上がったのだが、市民の強い要望で工事は続行される事になったのだ。
「これ以上の犠牲は出したくない。この後に出るとするならば……僕一人で充分だ」
 昼夜を惜しんで結雨は文献を読み漁った。難解な文字もあったが、元々歴史の分野が好きな結雨にとってはそれほどの負担にはならない。
「ふぅ、霊力を上げる方法や霊力をうまく使う方法はわかったけれど、今の所は特に悪霊に関する文献は見つからないな」
 倉の中に置いてあった書物には悪霊が封じ込められている物もあったが、結雨にとっては大した障害ではなかった。結雨は気付いていなかったが、結雨の霊力は父を遥かに超えていたのだ。
「結雨、また本を読んでるんだね。少しは休憩しないと駄目だよ」
 本の虫になっている結雨の部屋に若魚が入ってきた。あれからずっと若魚は結雨と同じ屋根の下で暮らしていた。見張っていないと心配なのだろう。
「はい、おにぎりとお茶。全く結雨はあたしがいないと駄目なんだから」
「そうだね。どうもありがと」
 逆らわずに結雨は差入れを受け取ると包みを開けた。おにぎりはまだ湯気が立っている。
「うん、うまい!」
「えへへっ。たくさん作ってきたから」
 若魚は満面の笑みを浮かべた。次から次へとおかずの入った箱を取り出す。とても一人で食べ切れる量ではない。
「いっぱい食べてね」
「……うん、ありがと」
 結雨に残すという選択肢は与えられそうもない。無理矢理にお茶で流し込んで結雨は食べに食べた。
「も、もうこれ以上は……」
「そんなだから結雨は肉がつかないんだよ」
「そうかなぁ」
 結雨の身長は170センチを僅かに超えたくらいだ。確かに体を動かす事より本を読む事が好きなせいか筋肉はそれほどついてないし、男にしては肌は色白な方かもしれない。一方、若魚はほぼ結雨と同じくらいの身長がある。お転婆な若魚はいつも健康的な小麦色の肌をしていた。
「うーん、食べた食べた」
「残した分は夜食にしても朝食にしてもいいからね。置いてくから」
「助かるよ」
 結雨は残ったおにぎりやおかずを冷蔵庫にしまうとまた文献を読み始めた。邪魔してはいけないと思ったのか、若魚も文献の一冊を手に取って眺めている。だが、若魚にはチンプンカンプンのようだ。書いてある内容の一割も理解できないらしい。
「あーん、難しいよ。よく結雨はこんなのが読めるね」
 若魚は本を投げ出した。その拍子に一枚の茶色く変色した紙が本からヒラヒラと落ちた。
「僕は本を読むのが好きだから」
 結雨は本から落ちた紙を拾った。きっと若魚が投げ出した衝撃でページが破けたのだろう。そう思って結雨は茶色く変色した紙を眺めた。
「はっ!?」
 ところが、その紙を見た結雨の顔はみるみるうちに険しいものになった。
「どうしたの?」
「これは……そうだ。これに違いない。若魚、君のお陰だよ。あの悪霊の正体が掴めそうだ」
「え、ええっ!? よくわからないけどあたし大活躍!?」
「うん、ありがとう。僕はこれを読み進めてみるよ。一人にしてくれないかな?」
 結雨の顔はやや苦悩しているように見えた。それだけ読むのが大変なのだろうか。
「わかった。内容がわかったら教えてね」
「あ……ああ」
 結雨はどこか上の空である。その様子を不思議に思いながらも邪魔しちゃいけないと若魚は与えられた一室に戻っていった。
「これが事実だとすると僕の力では手に余るかもしれない」
 じっとりと冷汗で濡れた手で結雨は父が遺したお守りを握り締めた。
 黄ばんだ紙には怨霊について書かれていた。

 江戸時代、この地方では雨が全く降らない事があった。そこで陰陽術師に雨乞いの儀式を祈祷してもらう事になった。その儀式には生贄が必要だった。そこで人柱として使われたのが罪人だった。生きたまま埋める事で、罪人の嘆きは雲を呼び、その恨みの涙は雨と化す。罪人の魂はこの地方を彷徨い続け、この地方に救いの雨をもたらした。
 怨霊と化した罪人の魂だったが強い力はなく、雨を降らし稲光を轟かす事しか出来なかった。そう、彷徨う事しかできぬ怨霊の怒りと嘆きが頂点に達した時だけ雨が降るのだった。それも災害を起こすようなレベルの物ではなく、恵みの雨といえるものだった。
 陰陽術師は儀式を行うと人知れず立ち去ったらしい。陰陽術師の苗字は……結雨の入り婿をする前の祖父と同じものだった。偶然とは思えない。おそらく結雨のご先祖様だろう。
 どうやら陰陽術師は儀式を行ったものの罪の意識に耐え切れなくなったらしい。もしくは未来に起こる出来事を予想していたのかもしれなかった。だが結局陰陽術師の血を引く祖父は、この地に戻ってきてしまったのだ。
「親の因果が子に報いではないけれど、これは僕のご先祖様が仕出かした事には違いない」
 結雨は暗い顔をしていた。確かに大勢の人間を救う為に一人の犠牲は仕方なかったのかもしれない。だが、他に方法があったのではないかとも思ってしまう。
「文献によると罪人は七日七晩生き埋めにされ苦しみながら死んだのか……」
 ぞっとする話だった。現代になって今までのツケが回ってきたと言えるだろう。何故現代になって怨霊がここまで力をつけたのか――結雨は自分なりに結論を出していた。
 怨霊はこの街が開拓されるにつれ、森林伐採などによる被害で死んだ動物の怨霊を吸収して力を貯えたのだろう。そして、恨みを晴らすために災いを為すようになったに違いない。きっと怨霊は自らの力を自在に操れるようになったのだろう。
「僕の力で何とかしなくてはいけない」
 明日からまた工事が再開される事になっていた。怨霊は工事を妨害しようとするに違いない。この街の人間の嘆きが怨霊の望む事だからだ。彷徨う魂は他の事を考える事はできないのだ。その考えだけに縛られてしまうのである。
「説得して成仏させる事は難しいかな。やはり力と力のぶつかり合いしかないのか……」
 結雨はこれからの事を思い悲しそうな顔をした。心優しい結雨は怨霊さえも救いたいと考えていたのだ。

 いよいよ工事が始まった。街の予算では今回の工事が失敗に終われば、しばらく延期せざるを得ないだろう。それは街の衰退を意味していた。
 悲惨な事故があったにもかかわらず、人々はなるだけ陽気になろうとしていた。活力ある声が工事現場に響いている。
 工事が始まるとすぐに怨霊の妨害が始まった。もっとも、怨霊自らはなかなか表に出てこない。怨霊は先日の災害でかなりの力を消費したのだろう。低級霊をけしかけて工事現場に混乱をもたらかそうとするのである。低級霊はポルターガイスト現象を起こして騒音を立てたり、物をいきなり浮かび上がらせたりした。
「はぁぁぁぁ!」
 その度に結雨は御幣を振るい低級霊を追い払った。
「近寄るな!」
 祝詞を唱えると低級霊は工事現場に近寄れなくなる。毎日声が枯れるほどに結雨は祝詞を繰り返し唱えた。もっとも、このままでは遠からず結雨も疲れ果ててしまう。
「目には目をか……」
 結雨は翌日から低級霊を操ってお互いを自滅させる事にした。これならば少ない力で被害を押さえる事ができる。怨霊の力を削ぐ事にも繋がるだろう。お陰で結雨の負担はかなり軽減していた。
「いつもご苦労様」
「若魚!」
「お弁当を持ってきてあげたよ」
「ありがと!」
 若魚は毎日工事現場にお弁当を運んできた。その後ずっと結雨を見守っている。若魚が側にいるだけで、結雨の心は昂揚していた。
 工事は順調に進んでいた。だが、結雨は不安だった。怨霊の攻撃がこれで終わるとは思えないのだ。気は緩められなかった。最近は低級霊が襲ってくる事も稀になっている。だが、これは嵐の前の静けさに過ぎないような気がした。
「おめでとー!」
「やったな!」
 結雨の不安をよそに工事は無事終了した。いよいよ貯水湖に放水が始まる。市民という市民が完成を祝いに貯水湖に集っていた。
「おおっ、水が出たぞぉ!」
 順調に装置が動き、人々に歓声が巻き起こった。だが、人々の歓声をあざ笑うが如く黒雲が空に集りだしていた。いきなり暗くなった空に人々はざわめいている。空が明滅しゴロゴロと雷鳴が鳴り響いた。
「若魚、協力して貰えないか?」
「えっ、いいけど」
 結雨は悪霊が現れた時を見計らって攻撃するつもりだった。結雨の霊力ではその機を狙うしか退治するチャンスはないだろう。結雨は自らの霊力を込めた矢を若魚に手渡した。これで若魚が怨霊を撃つと同時に最大限の霊力を怨霊に叩きつけるつもりなのだ。
「来たか!」
 黒雲が渦巻くと稲光とともに獣が地上に降り立った。人々の目には雷球が飛びまわっているようにしか見えない。だが、結雨の目は捕らえていた。怨霊は雷を纏った獣の姿をしていた。怨霊……雷獣は小型犬に似ていて頭は長く、突出した口は半ば黒く、尾は狐のよう、尖った爪は鷲のような姿をしている。醜悪だった。今まで無念に死んだ霊の集合体と化している。
「若魚、やるよ!」
「う、うん」
「今だ! 僕が指し示した所を射抜いて!」
 極限まで引き絞られた弦から矢が解き放たれる。それと同時に結雨は手の平に込めた力を悪霊に向けて放った。一筋の白い輝きが悪霊に突き刺さる。
「やったか!?」
「どうなったの?」
 だが、悪霊は焼け爛れたような姿になっているもののまだ消滅していなかった。結雨はガクリと膝をついた。渾身の一撃を放ったが為に体から力が抜けてしまっている。
「うおぉぉん!」
 轟くような声で鳴くと蒼い稲光を煌かせて雷獣は貯水湖を形作っている壁に体当たりを始めた。このままでは壁が壊され大洪水になる。しかも、雷獣が大暴れする為に地面が震え地震が起きていた。人は立つ事もままならない。それだけでなく、雷獣は稲妻を闇雲に放ち始めた。
「キャァァァ!」
 その一撃により壁の一部が崩れた。その上にいたのは……若魚だった。ゆっくりと若魚が貯水湖に落ちていく。結雨は落ちていく若魚に懸命に手を伸ばした。
「結雨!」
 だが、指が触れ合っただけで、結雨は若魚の手を握り締める事ができなかった。貯水湖は荒れ狂っていた。激しい波が巻き起こり渦を巻いている。いくら運動神経が優れている若魚でも助かる見込みは万に一つもなかった。
「若魚!」
(僕が僕が何とかしなくちゃ! 神様、この状況を救える力を僕に下さい!)
 お守りを握り締めると結雨は貯水湖に飛び込んだ。自分が泳げない事など念頭になかった。ただ、助けたいという想いだけがあった。激しい濁流が渦を巻いている。流れに引きずり込まれてしまいそうだった。息が続かない。
(ここまでなのか!)
 その時、お守りが淡い輝きを放った。その輝きは結雨の体を温かく包み込んでいく。結雨の体は淡い輝きを放つ球に包まれていた。球の中で結雨の意識は半ば覚醒し半ば眠っていた。半透明な卵の中で誕生を待つ稚魚のような状態だろうか。体が小刻みに震えている。
 球の中で結雨に変化が起こっていた。まず服が分解し跡形もなく消え去っていく。若い、少年から男になろうとしている肉体が露わになった。苦しそうにしていた顔が穏やかになっている。いつしか呼吸が楽になっていた。
 結雨の体がピクピクと震える度に、元々白かった肌に更に磨きがかかっていく。無駄毛が全て消え去り、抜けるように透き通ったものに変化していた。骨盤が広がり、腰が細くくびれていった。逆に肩幅が狭まり、胸が波打つ度に丘のように隆起していく。
 体は曲線を描いて丸みを帯び、一回り縮んだようだ。両足がしっかり合わせられると境目が消え失せ一つに繋がっていく。股間にはあるべきものが見当たらない。
 瞳を彩る睫毛が長く伸びていた。フワッと滑らかな髪が腰に届きそうなくらい長く伸びている。その髪の色は深い碧色をしていた。ふっくらとした唇は桃色をしている。
 変化が一段落すると結雨は目を開いた。その瞳は宝石のような蒼い色をしている。だが、瞳には強い意志の光があった。結雨は球を破ると水中に飛び出した。
 金槌だった結雨が水の中をすいすい泳いでいく。結雨の体は水の中の活動に適したものに変化していた。水面に浮上すると今まさに若魚が水の中に飲み込まれようとしている。
「今助けるから!」
 結雨は尾びれを動かして猛烈なスピードで若魚に接近した。結雨の下半身はピンク色の鱗で覆われていた。両足は尾びれと化している。そして、結雨の上半身はたおやかだった。その胸は半球状に膨らんでいる。だが、結雨には自分の体の変化に驚いている余裕などなかった。
「よかった」
 若魚の体をしっかりと結雨は抱きしめた。青ざめて血の気がないものの、しっかりと若魚の心臓の鼓動が伝わってくる。若魚は結雨に助け出されるとそのまま気を失ってしまった。激しい濁流の中を素早く泳ぐと結雨は若魚の体をまだ水に侵されていない岸に寝かせた。だが、このままではここが侵食されるのも時間の問題だろう。
 結雨の背後に雷獣は迫ろうとしていた。バチバチと激しく雷獣から放電する音が聞こえる。結雨は自分を睨みつけている雷獣に向き直った。
「ウォォォン!」
「君はここにいるべきじゃない」
 雷獣は結雨に飛びかかろうとした。だが、雷獣は結雨の冷たい蒼い瞳に射抜かれると怯み動きを停止した。結雨は手の平を水面に叩きつける。すると、貯水湖から二本の水流が巻き起こり雷獣を締め付けた。雷獣は唸りもがき苦しむ。
「グォォォ!」
 だが、雷は水に触れる事によって放電していく。この広い貯水湖に際限なく雷は放出されていくのだ。それは雷獣を弱体化させた。
「くぅぅ、こんな痛みなんか!」
 無論側にいる結雨も感電していたが、それ以上に雷獣は苦しんでいた。しかし、強引に水流を振り解くと結雨に突進してくる。
「ここには僕の味方がいっぱいいる。みんなの心が僕の強さになるんだ」
 結雨が手を振るうと水で形作られた竜が姿を現した。水竜は大きく顎を開くと雷獣を飲み込んだ。水竜が姿を消すとそこには拳大の大きさに縮んだ雷獣の姿があった。そんな姿になっても雷獣は結雨に向かってくる。結雨の瞳には憐憫の色が浮かんでいた。
「寂しかったんだね。辛かったんだね」
 結雨は雷獣を抱きしめた。雷獣の悲しみ、恨み、嘆きが結雨に伝わってくる。
「僕が君と一緒にいてあげるよ」
 雷獣は一際蒼く輝いて消滅した。結雨の胸には虎のような形の痣が残っていた。雷獣が消滅すると黒雲から一筋二筋と日の光が差し始めた。市民から安堵の声が流れる。そして、若魚は岸で上体を起こしていた。
「人魚?」
 どうやら若魚が目を覚ましたらしい。目をパチパチと瞬かせている。
「若魚、僕はずっとこの街にいるよ。だから、寂しくなんかない。悲しまないでね」
 鳥のさえずりよりも美しく、よく響く音で人魚は若魚に語りかけた。ただ、その声には寂しさが入り混じっている。若魚には人魚の声に聞き覚えがない。だが、胸を打つものがある。
「え、ええっ!?」
 人魚の胸には虎のような痣と見覚えのある傷跡が残っていた。肉体が変わってしまっても、傷跡だけは名残りのように残っていたのだ。若魚には忘れようがないものだった。
「さようなら」
 人魚は透き通った笑みを見せると、大きく水面から跳び上がった。美しい深緑の髪をなびかせ、陽光に下半身を煌かせながら、麗しい流線型の姿を見せると人魚は水の中に潜っていった。その横顔に大きな涙が浮かんでいるのを確かに若魚は見た。若魚の手の平には人魚の涙から生まれた大粒の真珠(ティアドロップ)が残されていた。
「ま、待ってよ、結雨。ゆうぅぅぅぅ!!!」
 水面に波紋が残っていたがそれもやがては消えた。若魚はいつまでもいつまでも水面を見詰めていたが、それから人魚の姿は一度も現れなかった。

 この後、貯水湖は人々の生活を潤したという。そして、時折貯水湖のほとりに大きなピンク色の鱗が落ちていたりする事があった。大きな魚の影を見たという人も一人や二人ではない。夜に碧色の髪を櫛で磨ぐ麗しき女性が岩の上に座っていた事もあったという。その下半身は魚だったとも。
 いつしかこの貯水湖は人魚が出る湖として広く知れ渡るようになった。今では観光名所の一つとなっている。だが、その影で犠牲になった少年がいる事は誰も知らない。いや、今も一人だけ湖で待ち続けている女性がいるのみだ……。







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