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TS細胞4
作:丑寅


学校に、うっかりゆっきーを連れてきてしまったボクはゆっきーを隠すために、ひとまずトイレの中に逃げ込んだ。
「ゆっきー」
「むにゃ、なぁに?」
起きたばかりのくせに、またうとうとしていたらしい。眠そうに一つ、あくびを掻いた。
「あのさ、ゆっきー。君のことが学校にばれるといろいろ面倒なことになるんだ。だから、学校が終わるまで少しおとなしくしててくれない?」
「むにゃ、いいよー。じゃあ、もうちょっと寝てるー」
起きているのか寝ぼけているのか、よく分からないがゆっきーは言葉どおりに寝入ってしまった。ボクはゆっきーを起こさないようにそっと胸のポケットに忍ばせ、再び教室に向かった。
西野さんに教えてもらった持ち物を没収されない裏技を使い、ひとまず安心したけど、ゆっきーは生き物だ。どんなにうまく隠しても勝手に動き出したらまずい。ボクは授業が終わるまで気が気ではなかった。
HRの終わりを告げる鐘が鳴ったとき、ボクはようやく帰れると胸をなでおろした。
教室にはまだ人が多かったので、ゆっきーが見つからないようにノートの見直しをする振りしてみんなが教室を出て行くのを待っていた。すると、隣で帰り支度をしていたヒロから声が掛けられた。
「由紀。映画のチケットが二枚あるんだけど観に行かない?」
「ああ、いいよ」
「本当に?やった!」
「?」
映画を観に行くくらいでなぜヒロが喜ぶのか分からなかったが、その理由、やがて氷解。
「あっ!」
そうだ、よくよく考えればボクは女だったんだ。二人で映画ということは傍目から見れば当然デートになるわけで、しかも、映画のチケットは今日まで。こちらにはゆっきーがいるというのに………。
「どうしたの?もしかして何か用事があった?」
ボクが小さく声を上げたのを見て、ヒロが心配げに聞いてきた。
「う、うん。実は」
とりあえず、肯定の意を示すと、ヒロは目に見えて落ち込んだ。承諾しておいてこれではさすがに良心が咎める。
「あ、でも、五分だけ待って。すぐ済む用事だから」
あまりに可哀想だったのでボクは急いで教室を出て、北見の姿を探した。ゆっきーは北見に預かってもらおう。
北見のいる教室を覗いてみると数人の男子が一箇所に固まって談笑していた。幸い、最も見慣れた後姿がある。
「……良かった。いたんだ。北見」
ボクは北見が教室に残っていたのを見てほっと一息ついた。
「あの、もしかしてこれから部活?」
「ああ、そうだけど」
「うーん、実は困ったことがあったんだけど」
「ここじゃ、話しにくいだろうから屋上に行くか」
ボクが周りを見渡すと、皆がこっちを見ていた。なるほど、さすがにこれでは何も話せない。おまけにボクは転校してきたばかりで何かと噂になっているのだ。北見と一緒にいると何か感づかれるかもしれない。
話の続きは、屋上へ行ってから話すことにした。
「……というわけで、ゆっきーを預かって欲しいんだけど」
手を合わせてお願いすると、北見はしぶしぶ頷いた。部活をサボることになるが、僕のほうを優先してくれたようだ。まだ何か気に入らないという顔つきだったけど……。
ボクはゆっきーの隠し場所を教え、一足先に階段を駆け下り、ヒロの待つ教室へ向かった。今日はよく走る日だ。
「お待たせ、行こうか」
「ホントにいいの?」
ヒロは遠慮がちに言っていたけど顔は嬉しそうだった。
「問題は片付いたから、大丈夫だよ」
心残りはあるけれど、きっと大丈夫だろう。ボクは楽観的に考えて、学校を後にした。


(視点変更)
ヒロと由紀、二人は駅に向かって歩いていた。由紀は自転車で来たらしいがヒロは駅から徒歩で通学しているため、由紀もそれに合わせてくれたらしい。
念願叶って遂に女のことの初デート。しかも相手はあの由紀なのだ。ヒロの心は浮かれていた。
(用事があるって言われたときはどうしようって思ったけど、言ってみるもんだな。勇気を出したかいはあった)
「ヒロ、今日は部活ないの?」
「うん、本当は毎日やりたいんだけどね、グラウンドが取れないから」
「そっか、うちの学校、サッカー部のほうが強いもんね」
「川原に野球のグラウンドもあるんだけど、あそこも毎日の利用は出来ないしね」
野球部の練習は週四回、サッカー部の休みの日と、遠くの川原で予約したグランドを利用して練習をしているのだが、今はサッカーに人気が集中して人員が足りない。おまけに練習も他の学校の野球部は毎日のようにやっているのだ。こんな状態でヒロの所属する野球部は負け続き、どんどん評判と実力を落としている。
「ヒロは一年でもうエースになったんだって?」
「自慢できることじゃないよ。先輩たちに俺より速い球を投げる奴がいなかっただけのことさ」
謙遜のつもりだが、嫌味に聞こえるかもしれない。実際、今の野球部が弱体化した理由は先輩たちに原因があるのだ。卒業した去年の三年生は強かったのに、今の二、三年はたいした実力がない。今年の一年は割りといい人材が入ったのに先輩たちのしごきでやめて行ってしまった。特に痛かったのは達也と和也がサッカー部に行ってしまったことだ。あの二人のエースなら甲子園も夢じゃないというのに。
「でも、ヒロは本当に野球好きなんだね」
「どうして?」
「野球モノでしょ。この映画」
由紀がひらひらとチケットを振る。なるほど、どうして野球の話をされたのか今、気付いた。確かに、野球映画だ。父の仕事の関係でチケットを無料で手に入れることが出来た。日付が今日までだったので、都合が悪かったりしたらどうなるだろうと心配していたのだ。映画の内容よりそっちのほうが気がかりで、ついさっきまで映画の題名すら忘れていた。

話をしている間に、二人は駅に着き切符を二枚買った。原則として男は女に金を払わせないものだ。
渋谷で降りて、映画館を探す。野球部の仲間と一度来たことがあったのですぐに着いた。
「あった、ここだよ」
ヒロは由紀の手を引いて歩こうかと思ったが、由紀はあまり恋愛ごとに興味がなさそうだったので自制しておいた。
上映時間まで待っている間、いろいろ話しをして、それから隣り合って席に着いた。
照明が落ち、映画が始まる。
映画は野球を通して高校生の青春を描く恋愛映画だった。
野球に打ち込む一方で、女子マネージャーのことが気になってしまう主人公。野球を取るか、女を取るかで悩みながら青春を謳歌する話だ。物語が終わりになるに連れて、ますます恋愛色が高まっていく。ヒロは隣に座る由紀が気になり、肘掛に乗っている彼女の手にそっと、自分の手を重ねた。
「?」
ヒロは反射的に手を離してしまった。由紀の手はなぜかびっしょりと冷や汗で濡れ、冷水の入ったコップのように冷たかった。
もう一度、今度はしっかりと由紀の手を握る。小さな彼女の手は冷たくなっており、ぶるぶると震えていた。
「由紀!由紀!」
(と、とにかく出よう。いったいどうしたんだ。病気?)
ヒロはあわてて由紀を抱え、映画館を出た。明るいところで観察すると、由紀は明らかに変調をきたした様子で、顔は真っ青になり、唇は痛々しいほどに血の気を失っていた。額から背中にかけてびっしょりと汗をかき、がたがたと震えている。
(彼女がこんなになるまで、どうして気付かなかったんだ)
ヒロは自分の愚かさを呪った。携帯で救急車を呼んで病院まで付き添う。
信号無視で走る救急車の中でヒロが救命士に尋ねた。
「いったい、彼女はどうなったんです?突然、具合が悪くなったんです」
「正確な病名は分かりませんが、ひきつけを起こしてます。かかりつけの病院は?」
「国立中央病院です」
叫ぶように告げ、再び由紀を見た。彼女の手を握る。
「由紀、由紀、しっかりしろ。すぐ着くからな」
返事はない、呼吸困難に陥っていて酸素マスクをつけていたからだ。
「頼む、死ぬな。俺、君のことが好きなんだ。お願いだから、死なないでくれ」
ヒロの耳に救急車のサイレンがまるで悲痛な叫び声のように聞こえていた。

1時間前、北見はゆっきーを家に連れ帰り、餌をあげていた。
「よく食うな。おまえ」
ゆっきーは小皿に入れられたツナを美味しそうに食べていた。北見はその様子をベッドに寝そべって見ている。
北見は面白くなかった。ゆっきーを預けられたことがではない。由紀が他の男と映画を見に行ったことがだ。仲間外れにされた疎外感よりも、嫉妬の気持ちが強い。
由紀本人はデートのつもりなど微塵もないだろうが、相手の男はどうだろう?何か、変なことをされないだろうか?
(あいつは昔からお人よしだからなぁ)
昔のことを思い出して感傷に浸る。やはり、親友の裕紀は死んでしまったのだ。その事実は変わらない。今の由紀と、以前の裕紀。決定的な違い。
「あいつが女、か」
口に出して呟くと、由紀の顔が思い浮かぶ。不思議と男だったときより何倍も鮮明に。
なんだか裕紀の顔が気になって昔のアルバムを引っ張り出す。卒業文集を読み、集合写真を見る。
(そういえばアイツ、結構女顔だったよな)
以前、中学の時だ。何気なく眺めた横顔に見惚れたことがあった。そのときは、好きという気持ちはなく、思春期にありがちな同性に対しての憧れが作用していたように思う。
(俺は、昔からアイツが好きだったのか?)
アイツが女になったせいでこんな突拍子もないことを思いつくんだろうか。いや、今のアイツは裕紀じゃない。由紀だ。まるで、昔から好きだったような気がするのはアイツが幼馴染だったからで、俺は『由紀』に一目惚れしていたのかもしれない。最初は大嫌いだと思ったが、逆にそれだけ意識していたということなのかもしれない。裕紀が死んで気が動転していたから自分の気持ちを誤解してしまったのかもしれない。親友が死んだのに、女にうつつを抜かすのに抵抗があったからかもしれない。
「由紀、俺はお前のことをどう思っているんだろう?」
答えが返ってくるはずもない。大切な存在という気持ちは変わらない。しかし、焦燥にも似たこの気持ちは恋なのだろうか。
始業式の日、裕紀が亡くなったことを知って自暴自棄になりかけた、そこへ現れた女が親友の様変わりした姿だったと知って、戸惑い、そして安堵した。
そうだ、由紀がいなくなったら、俺は……
「げっ、げぇぇぇぇっ」
「?」
いきなり変な泣き声が聞こえたので、床のほうに目をやる。
「!」
起き上がってゆっきーに近寄る。ゆっきーはさっきまで美味しそうに食べていたツナ缶を吐き出していた。
「いったい、どうしたんだ?ツナを食わせたのがまずかったのか」
ペットを飼ったことのある北見は、やがてゆっきーがただ苦しんでいるのではないことに気付いた。息をしていない。さっきまで吐いていたからツナがのどに詰まっているのかと思って逆さに持ち上げてみるが、吐くものがなくなって胃酸を吐いてるところから、そうではないと知れる。
「救急車はまずい。国立中央病院か」
リュックサックにバスタオルを詰めて、そっとゆっきーを寝かせる。あまり動かしたくはないのだが、救急車を呼ぶわけには行かない。北見はリュックを大事に抱えて、タクシーに乗った。
「国立中央病院へ、大急ぎで!それと、ラジオのボリュームを上げてくれ」
泣き声を隠すために、ラジオの音量を上げてもらい、病院へ急ぐ。ゆっきーを治せるのは塚原博士という医師だけだ。
途中、由紀に何度も電話をかけたのだが、繋がらない。
(くそ、由紀は何で出ない?)
嫌な予感がする。ゆっきーは由紀の複製だと聞いた。もしかすると、由紀も。
裕紀を失った。由紀が現れ、好きになった。由紀が死んでしまうかもしれない。北見は悪魔のように心を突き刺す不安を懸命に払おうとした。
「由紀、いったいどうしている?何が起きてるんだ」
「兄ちゃん、誰か病気になったのかい?」
「え、ええ」
「もし、なにかあったら気を落とさないことだよ。こんなこと言いたくないが俺もタクシーの運転手なんてやってるせいでいろいろ見てきたんだよ。死んで欲しくない相手なら、何に代えても護ってやんなきゃ後悔するよ」
運転手はこちらを案じているようだった。バックミラーに映った自分の顔を見れば誰だってこんな慰め方をするだろう。なぜなら、北見の顔は雨に打たれたように、びっしょりと涙で濡れていたから。

国立中央病院。
タクシーと同時に玄関前に走りこんできた救急車があった。
「金はいい。早く行きな!」
運転手がブレーキを踏むなり叫んだ。北見は厚意に甘えることにして、タクシーを降りて走り出そうとした瞬間、胸に電気のような感覚が奔った。第六感が何かを伝える。
力尽きたように、地面に膝を着いてしまう北見。その脇を、ストレッチャーが通過していった。横目で、ストレッチャーに寝かされている人物を見る。
「由紀?由紀!そんな……ま……さか」
言葉がつかえて出てくれなかった。ストレッチャーに寝かされていた由紀は酸素マスクをつけられ、顔面蒼白。死人のように硬直し、痙攣していた。今にも命枯れそうなほどに。
北見は由紀の身体に駆け寄って小さな、白い手を掴む。握り締めた手の中で、体温が徐々に下がっていくのが分かる。
(裕紀、俺はまた、お前を失うのか。そんなのは嫌だ!二度も………二度もお前は俺を悲しませる気か)
「由紀!起きろ。お前は戻ってきたんだろう。だったらもう逝くな。ずっと、ずっとここに……俺のそばにいてくれよぉ。お前がいないと俺、駄目になりそうだよ。頼むよ。頼むから二度と俺から離れていくな」
看護婦がそっと北見の肩を掴んで、由紀と引き離す。看護婦の後ろには若い医師が立っていた。ネームプレートに『塚原』の名がある。
「大丈夫です。塚原先生ならきっと助けてくれますから」
よほど、その医師を信頼しているのだろう。看護婦は自信たっぷりに言った。北見は彼女の横顔を見つめ、離れていく由紀へ向けて祈るように目を閉じた。
「死ぬな。もう二度と死ぬな。死んで欲しくないんだ」
由紀の身体が集中治療室の奥へ消える。北見はすがるものを求めるように隣にいた医者の身体を掴んだ。
「先生、俺は一度裕紀を亡くしてる。だから、もう二度と失いたくないんだ。俺の命をやってもいい。助けてくれよ。お願いだ」
北見は泣き喚き、取り乱していた。怖かった。もう二度とこんな悲しみを味わいたくない。死んで欲しくない。
(なんで由紀が……生き返ってくれたと思ったのに)
「あ、あああぁぁぁーーーーーーーぅをあああぁぁー」
うずくまる北見に博士はそっと手をかけた。
「北見君だったね。話がある。私の研究室に来て欲しい」
国立中央病院は世界最高峰の医療施設を誇る。世界トップクラスの医師たち、看護婦、最新の設備。個人の研究室も広く、設備も充実している。
塚原の研究室は医者というより、まるで科学者のようにコンピュータとバイオ装置、試験管やビーカーで溢れていた。
北見はここなら見せても大丈夫だろうとバッグを下ろし、中からゆっきーの小さな身体を取り出した。ゆっきーの瞳は閉じられ、身動きをしていなかったが、息はあるようだった。眠っているのだろう。
「君が預かっていたのか。由紀君のそばにいないので探していたんだ。さ、彼女をここに寝かせて」
北見は言われたとおりにゆっきーの体をベッドに乗せる。ベッドは普通サイズで、見下ろしているとゆっきーは人形のようにしか見えない。
 塚原は彼女に点滴を与え、濡れた布巾で顔を拭っていた。ゆっきーの小さな身体に一回で針を通し、少量の血液を採取する。その血液を何かの機械にかけながら、静かに話し始めた。
「北見君、これから話すことは決して口外しないでくれ。特に由紀本人には絶対だ」
北見は瞳を医師に向けたまま、無言で頷く。
「まず、今の状況を説明しよう。由紀は、病気に対する抵抗力が極端に弱い。実を言うとね、由紀君の身体は赤ん坊のように抵抗力を持たない状態なんだよ。いや、赤ん坊でさえ母親の母乳を通して抵抗力を付けられる。しかし、由紀は肉体も精神も大人に変わりつつある。母乳だけでは補いきれないし、まさか、いまさら母親のおっぱいを吸いたくはないだろう。そのために、予測されるあらゆる病気に対して、あらかじめ予防の血清を打っておく必要がある。聞いているかも知れないが、ゆっきーの身体は由紀の細胞から作られているんだよ。より適合しやすい血清を作るためにね」
北見が由紀から聞いた話とは多少違っていた。由紀本人もゆっきーの存在理由を明かされていないからだろう。
「あいつは、ゆっきーは大丈夫なのか」
ベッドではゆっきーが子猫のように丸くなって休眠している。医師はそれを目で確認し、答えた。
「ゆっきーは自己治癒能力を強化してあるんだ。これくらいの病気なら自力で治せるよ」
「なら、なんで由紀には治癒能力が備わってないんだよ」
「諸刃の剣だからさ。自己治癒細胞は覚醒時のエネルギー消費が膨大な量になる。優れた細胞にはそれに見合うエネルギーが必要になるんだよ。ゆっきーの一日の活動時間は何時間だと思う?」
聞き返されて、北見はゆっきーの様子を思い出す。
(そういえば、あいつ、いつも寝ていたな)
北見は引っかき傷の残る顔を無意識のうちに触れていた。
「十時間って所かな?」
「正解は六時間だ。それ以外はすべて休眠している」
「たった六時間?それだけか」
「しかも、六時間連続して活動できるわけではない。二時間活動したあとに四時間の睡眠、彼女の生活はこの繰り返しだ。ゆっきーは身体が小さいから、その程度の消費で済んでいるが、普通の人間のサイズでは植物状態に陥ってしまう。実際、由紀は一ヶ月の間、目を覚まさなかった。健康に生きるということはね、代償の要る行為なのだよ」
「そんなバカな。普通に生活するだけなのに、なんでそんな……」
「普通に、というけどね。我々は恵まれすぎた生活を送っているんだ。貧しい国では常に死と隣り合わせて暮らしている。世界の実情はね、そういう人のほうが多いんだ。普通の暮らしというのは、常に死と隣り合わせ、飢えや、寒さに怯えながら暮らしていくほうが自然なんだよ」
「嘘だ、そんなの」
「私はこの目で見た。幼い頃、外国を転々としてね、嫌というほど見たよ。だから医者になった。そして、由紀に出会ったんだ」
北見は塚原の瞳から由紀に対する愛を感じた。そんな状況ではないはずなのに、医師に嫉妬した。自分を器の狭い人間だと蔑みながら、医師を牽制するために自分の気持ちを明かす。
「俺は、由紀が好きです」
医師の表情を探ってみるが、動じた様子はない。
「私も、彼女のことを愛してる。大丈夫、医療の面で私は彼女を支えてあげられる。ただし、彼女の暮らしは平坦な道ではない。彼女が女性として生きてゆくには、北見君」
「君の力が要る。ライバルにこんなことをいうのもなんだが、彼女を愛して、支えてやってくれ。彼女は私より、君といた時間のほうが長い」
競争相手だと、敵視していて相手の口から語られた予想外の言葉。北見は自分の小物振りを思い知らされた気分だった。だが、医師は気にした風もない。
「そろそろ、アンプルが出来る頃だな」
「俺は、あんたのことを誤解してた。由紀もきっとそうだ」
「だろうね。由紀にはすっかり嫌われてしまったよ。ゆっきーを作ったからね。確かにクローンを作ることは人道に反する行為だ。軽蔑されても仕方ない。人間のエゴのために生まれてきたゆっきーには、すまないと思っている。私の人生最大の罪だ」
「あんたは、健康に生きるということは何かを代償にしなければいけないといってたな。もしかして貴方は、由紀が普通に、健康に暮らすための代償になろうというのか」
塚原博士は何も言わなかったが、沈黙は肯定を意味していた。室内に虫の羽ばたきにすら、かき消されるほどの小さな嗚咽が上がった。北見は声を殺して泣いている。泣いて、これ以上情けない姿を晒したくなかった。
「ぅ―――ぅぅ―――ぅぉぉ―――ちくしょう、そんな生き方されたら、敵わないじゃないかよぉ。ぅっぅぅ」


305号室。
ベッドと腰掛のない小さな丸椅子だけが置かれている狭い病室の中に、ヒロと由紀の二人がいた。由紀は眠っており、ヒロはそれをさっきから一時間以上も見つめている。
彼女が何の病気なのか、まだ分からないが、途中で会った北見だけは医師から話があるといわれ別室に招かれていった。
なぜ転校してきたばかりの由紀と別のクラスの北見が知り合いなのだろう。デートに誘いを断らなかったのだから、二人が付き合っているのではないと思うが、だとするとどういう関係なのだろう。
病室の扉が開き、誰かが隣に腰を下ろす。由紀の家族かもしれないとヒロは首を曲げた。
「なんだ、北見か」
「先生に聞いてきた。由紀は、もう心配ないそうだ」
ヒロは北見の言葉に頷いただけで、それきり会話は途絶えてしまった。ヒロにとって見れば、北見は恋の競争相手なのだ。自分の気持ちは誰にも負けないと思っている。本気で由紀がいとおしいのだ。ヒロは、この北見という男と由紀の関係をまだ知らなかったが、自分のほうが彼女を幸せに出来るとそう思っていた。
しばらく経ってから、ようやく北見が口を開いた。先ほどからずっと黙っていたのはなにやら言葉をまとめていたらしい。
「ヒロ、とか呼ばれてたな。由紀とはいつ知り合った?」
「病院が同じだったんだ。彼女は誰も見舞いに来ないから暇だと言っていた」
ヒロは自分が刺々しい口調になっていると気付いた。自分はこの男が好きではない。仲がいいなら彼女が入院したとき見舞いに来ないなんて薄情ではないか。
実のところ、北見は何度も裕紀の見舞いに来ていたのだが、別人になってしまったことを隠すため面会謝絶といわれ、会えなかったのだ。そんな事情をヒロは知らないでいた。
 北見は自分がこの場にいる理由を話し始めた。
「俺は、由紀とは幼馴染なんだ。彼女のことを愛してる。今日そのことに気付いた」
「それで?」
「もう一人、彼女を愛してる人がいる。彼女の主治医には会っただろ。塚原先生というんだ」
「ああ、由紀のお兄さんか。……って、まさか、兄妹だろ?」
この病院に由紀の兄が勤めていることは話で聞いて知っていた。同じ苗字のネームプレートを見て、この人が由紀の兄貴だと分かったが、二人はあまり似ていない気がする。
「二人は血が繋がっていないんだ。だが、あの人は自分の人生を犠牲にしても、由紀を救おうとしている。さっき、いろいろと話を聞いて俺は、とても敵わなう相手じゃないと思ったよ。それでも、博士さんは俺に、由紀を支えてやってくれといわれた」
(どうせ、俺は言われてねえよ)
「由紀と俺は親友だ。俺は由紀を愛しているが、由紀にとって俺は恋愛の対象ではないはずだ。それに由紀は塚原先生のことも恋愛の対象として捉えていない」
北見がヒロに目を向けた。
「ヒロ、お前彼女のことが好きか」
「ああ、好きだ。心から愛してる。この気持ちは絶対本物だ」
何の躊躇いもなく、素直な気持ちが言えた。これで、話した相手が由紀であったら良かったのだが、由紀が目を覚ました様子はない。相変わらず、すやすやと寝息を立てている。
「ヒロ。その気持ちが本物なら、何があっても彼女を愛してやって欲しい。すべてを……受け入れられるほどに」
「……………」
(こいつ、俺に由紀を預けるつもりなのか。そりゃ、確かに俺は由紀が好きだが、でも!)
敵わない、と思った。自分には、そんな台詞、一生出て来ない。この北見という男が自分より遙かに大人で、ずっと器が大きい。心から、由紀のことを想っているから言える台詞。幼馴染という言葉はきっと真実に違いない。混じりけのない由紀に幸せになって欲しいと願う気持ち。長年、付き合ったものでなければ、そこまで相手を思いやれないはずだ。なのに、自分は由紀を誰にも取られたくないと、自分のことばかり考えていた。
(この人よりも、上がいるって言うのか。あの先生が………)
医者の姿を思い起こせば、なるほど、自分など眼中にない様子だった。由紀だけを見ていた。
(上には上がいるということか。自分が一番彼女を幸せに出来るなんて、何の根拠もなかったな)
ショックだった。自分の馬鹿さ加減を思い知らされた感じだ。
「帰るよ。北見君、由紀のそばには君がいてくれ。彼女を好きな気持ちは変わらないけど、今は、彼女に会わせる顔がない。彼女も目覚めたときに君がいてくれたら、きっと安心すると思う」
ヒロはひどく落ち込んだ気持ちで病院を出た。
帰り道、空に浮かぶ三日月がひどく痩せっぽちに見えて、悲しくなった。

「ん?ここどこ?」
由紀が目覚めたのはヒロが帰ってから一時間ほど経った、夜の八時のこと。面会は七時まで
だが塚原の配慮で北見はもう少しだけ、ここにいることが出来た。
「起きたか?」
「ん。北見。ボクどうしたの」
身を起こそうとした由紀を制して北見はこれまでの経過を話した。どこから話そうか迷ったが、ゆっきーを家に持ち帰ったことや、ゆっきーの様子がおかしかったので病院に連れてきたこと、そしたら由紀が救急車から運ばれてきたことなど。塚原に口止めされたことについては話さなかった。真実を知ってもらいたい一方で、本当のことを言えば彼女が傷つくかもしれないと不安になる。
「由紀……お前、女になって何か良いことあったか」
「うん。友達が出来た」
「ヒロのことか」
「知ってるの?」
「教室でよく話してたろ。さっきまでここにいた」
「ヒロには悪いことしちゃったね。映画おごってもらったのに」
「気にするなって言ってたぜ。他に、良いことは?」
「なんで、急にそんなことを聞くの」
「気になるからだ」
「そっか、でも、女になったから特別良いことがあったわけじゃなくて、むしろ履きたくもないスカートを履かされたり、下着のこととか、変態につきまとわれたりとか、いろいろ苦労はあるけれどね、一番嬉しかったのは、北見がボクのこと死んだ後にも親友だって言ってくれたことだよ」
由紀は、ともすれば支離滅裂になりそうな言葉を何とか上手くまとめて北見に伝えた。
「俺も、お前が戻ってきてくれたことが一番嬉しい。二番目に嬉しいことといえば、こんな可愛い子が俺の親友だってことかな」
「んふふ、恥ずかしいこと言うなよ」
由紀が照れているのを見て、北見もつられて照れる。お互い、目を逸らし、穏やかな沈黙が訪れる。北見はそのひと時が由紀と共有できることが無性に嬉しかった。さっきまで、由紀が死んでしまうのではないかと不安を感じていただけに、こうして由紀が元気に話しているのを見ると、幸福を覚える。
 しかし、時計の針は九時を回り、塚原が病室を訪れたため、二人の時間はそこで断ち切られた。
「北見君。そろそろ、帰る時間だよ。本当はもっと居させてやりたいんだが。由紀も明日には退院できる。一人で帰れるかい?」
「ええ、家は割りと近いんですよ」
「じゃあ、今日はお疲れ。由紀の元気になった姿はまた明日見るといい」
「はい、失礼します」
北見は塚原に一礼し、由紀に手を振ると走って帰った。
「由紀。君も、もう寝なさい。明日は、午前中に退院できるから、午後から学校に行くんだよ」
「はい」
由紀は小さく返事して、ベッドにもぐった。布団の中に隠した由紀の顔は幸せに微笑んでいた。北見は、自分のことを大事にしてくれている。なぜか、高鳴る胸の鼓動を抱きしめて、由紀はゆっくりと眠りについた。

翌日。由紀は約束どおり、朝の九時には退院を許された。母親が病院まで迎えに来てくれて、学校の用意のため、一度家に寄った。
「由紀、まだ具合悪かったら休んでもいいのよ」
二階に上がる前に母親が優しい言葉を掛けてくれる。由紀は思いやりのある母が好きだった。なおさら、心配はかけたくないと元気に返事を返す。
「大丈夫だよ。もう嘘みたいに全然平気」
昨日倒れたときは体中の血が抜けてしまったみたいに、冷たく、気持ち悪い悪寒が走り、頭の片隅では花の楽園が展開していたのだが、今は普段どおりの体調が戻ってきていた。
「それじゃ、着替えてくる」
由紀はトントンと軽い足音を鳴らし、二階の階段を駆け下りると自室の扉を開く。この部屋はゆっきーと相部屋で、机の上に専用のクッションと毛布がある。そのクッションはピローという気持ちのいい肌触りがうりで、自分も身体が小さかったら一度その中で寝てみたいのだが、由紀には父が誕生日プレゼントに買ってくれた同じ素材の抱き枕がある。
自分が男だったときには欲しいものなど買ってくれなかったくせに、今では由紀に対してずいぶん甘い。誕生日も本当なら二月二十八日なのだが、娘の誕生日だといって息子の命日を誕生日に設定してしまったのだ。
「親父の奴、勝手にボクを結婚させてるし……学校にばれたらどうするんだよ」
結婚というのは嘘なのだが、誤解を解く前に家出をしてしまい、由紀は事実を知らずにいた。騙した側の塚原博士も狡猾で、誤解させたままにしておけば自分を意識せずにはいられないだろうという外道な考えを持っていた。
 由紀は現実に戻って服を着替えることにする。すでに遅刻しているのだから着替えも特に焦ったりしないでゆっくり着替える。制服は昨日のうちに母さんに持って帰ってもらいアイロンがけをしてもらっている。由紀は上着のパーカーを脱いで、タンクトップの上から半袖のブラウスを羽織る。このブラウスは実は男子用の小さめのサイズのシャツだった。少し胸が張って苦しいのが欠点だ。ちょっとした男のプライドという奴で無理して男物を着用している。胸の部分のボタンを留めるのにちょっと戸惑いながらシャツを着終えた。
次に、ベルトを緩めてジーンズを脱ぐ、白い太ももが露わになり、スカートをはく前にちょっと姿見に目をやってしまう。肩越しに振り返った鏡には白い下着をつけた半裸の少女の姿がある。シャツの裾から覗くお尻は小ぶりだが、足の先から流れるようなラインで作られる曲線は女性そのもので、自分の姿にドキドキを感じてしまう。由紀は急に恥ずかしくなって、急いでスカートをはいた。ファスナーを閉めた後、少し位置をずらしてポケットが左右に来るようにする。まだ暑いので、ブレザーは羽織らず、最後に首にリボンだけつけて着替えは終わり。完璧に着こなしているのに気恥ずかしさは一向に消えない。ともあれ、由紀は教科書の入った鞄を手に、元気よく家を飛び出した。
「いってきまーす」
ちょっと遅い時間に行く学校は妙な開放感があって特別な気分になる。
商店街を突っ切るときは周りから視線が送られてくるようで少し早足に進み、学校の校舎に着いたときにはホッとする。はじめは女子の制服で学校に来るのは抵抗があったのだが、今では街を制服で歩くより学校にいるほうが落ち着く。街にいると女子制服は目立つらしく視線の中に時々いやらしい視線が混入しているのだ。好きで着ているわけではないのだから、いやらしい目で見ないで欲しいと思う。
 考え事をしながら誰もいない廊下を進んでいると、危うく自分の教室を素通りするところだった。引き戸を開けて挨拶をする。
「おはようございます。病院に行っていたので遅れました」
「ああ、話はご両親から聞いている。席に着きなさい」
席に座って黒板の上にある壁掛け時計を見ると十二時一〇分。
(いい時間に来たな。もうすぐ昼休みだ)
授業はもう残り三分の一ほどしか残っていなかった。後でノートを借りようとヒロのほうに振り向いたとき、一枚の紙がヒロから手渡された。
(なんだろう?)
先生が黒板に文字を書いている間に、すばやく中に書かれている文に目を走らせる。
そこに書いてあった内容にちょっと驚き、ヒロを見返すが、彼は顔をそむけていて表情は確認できなかった。

 チャイムがなって昼休み。由紀は数人の女子に囲まれる。いじめではない。
「体育祭?」
「そ、午前中に話があって、今日中に決めろってさ」
西野が種目のリストを差し出す。短距離走や持久走、借り物やリレーなど、すでに何人かの名前が書かれている。
「塚原さん、運動は得意?」
由紀は返答に窮した。なんせ、この姿になってからは一度も運動らしい運動などしていないのだ。以前は得意だったが、今は身体の構造が違うのだから、思ったとおりに身体が動いてくれないかもしれない。一番気になってしまうのはやはり胸だった。スポーツブラを着けていれば揺れはある程度押さえられるだろうが、下を見下ろしたときに地面が見えないのは怖かったりする。特に由紀の体形はヒップよりバストの方が大きく、バランスを崩してしまうそうなのだ。他にも気になる要因はある。例えば、今朝、塚原医師に忠告されたのだが、由紀の身体はそろそろ生理を迎えるらしい。由紀にはこれが初潮となる。生理がどのようなものなのか、体験していないだけに漠然とした不安がよぎる。案ずるより生むが安し、という諺があるが、そんな言葉は頭の引き出しにしまったまま、すっかり忘れてしまっていた。
「ボク、ちょっと自信ないからあんまり激しく動かない競技がいいなぁ。入院中にすごく体力落ちちゃって。百メートル走にするよ」
「競技は一人、二種目よ。もう一つは借り物競争が良いんじゃない?」
実行委員の寺田麻弥子が助言する。それに対してもう一つの提案が上がった。
「ねえ、応援団は種目の一つに数えられるんでしょ?しかも、クラス対抗の綱引きとか組み体操に出なくて良いらしいし」
「応援団?」
由紀が興味を示し、提案した西野が詳しく説明する。
「そ、応援団。毎年学ラン着て応援するんだって。応援してるだけならきっと楽じゃない?」
「そっか、競技は免除されるんだ。体育の授業も?」
「うん、やらなくていいみたい」
とにかく、体力に不安があった由紀は応援団に入ることに決めた。

HRの時間。担任が参加種目の集計をしていた。
「次、応援団は希望者いるか」
「はい」
「……塚原は応援団やりたいのか?」
先生の顔から血の気が引いている。それに何故だか落ち着きがない。
「最近まで入院してたんで体力落ちてるんですよ」
「う〜ん、先生はお勧めしないな。考え直さないか?」
「なんでですか?」
「先生の口からはちょっと……応援団をやるくらいなら持久走を百回やったほうがマシだぞ」
という警告が発せられたものの、みんな応援団など楽だと思っており、結局、由紀は応援団に参加することに決まった。なのに、先生は突然お腹を押さえて胃薬を飲み始めた。お腹でも壊したのかな。


放課後、由紀は屋上に呼び出された。授業中にヒロから受け取った手紙にはこう書いてあったからだ。
『由紀へ。放課後、屋上で待っている。話があるから絶対来てくれ』
この文面を見る限り、かなり重大な用件なのだろうが、漫画やドラマの場合、告白されるパターンが予想された。
屋上へ続く唯一の扉を開けて、青空の下に出る。
「ヒロ、来たよ?」
と、言ったものの正面に人影はなかった?
(あれ?)
「由紀、ここだ」
「え?きゃっ」
ヒロの姿は、意外なほど近く似合った。扉のすぐ脇にいたらしく、真横から話しかけられて焦った。おかげで心臓がバクバク鳴っている。
「この間は、ゴメン。無理に誘ったりして」
「あ、ううん。別に、ヒロは悪くないよ。ところで、大事な話って?」
「ああ、そうだね。その……俺は由紀のことが好きなんだ」
さらっと言ったせいで、危うく聞き逃すところだった。なんとなく予想していたが実際に告白を受けると、やっぱり驚く。由紀の顔は一瞬で真っ赤になってしまった。
(な、なんで顔が熱くなってんだろ?それより、どうしよう、断んなきゃ……)
焦って言葉が出てこない由紀だが、ヒロがかまわず続けた話は予想もしていなかったことだった。
「でも、俺なんかが一生敵わない人が二人もいたよ。北見と塚原先生だ。俺がこんなこと言っていいのか分からないけど、二人とも彼女のことを愛してる。世界中探しても、あの二人ほど由紀のことを想っている人はいないよ。きっと」
「えっ、そうなの?」
「俺は君との恋を引退するよ。一方的に惚れてただけだけど、気付いてくれてたかい?そうなら、ちょっと嬉しい。俺は代わりに、野球に打ち込むことにするよ。頑張れば、ちょっとはあの二人に近づけるかもしれないからね。君の事は一生忘れない。きっと、一生好きだから、由紀もこれからも変わらず、友達でいて欲しい」
ヒロはそれだけ言い終えると会釈だけして帰っていった。
(北見と……先生が?)
由紀は呆然と取り残されていた。
(ボクの知らない間に、何があったんだろう。北見なんてボクが親友だって知ってるはずなのに・・・・・・『好き』ってどういう意味なんだろう?)


「ただいまー」
「おかえりなさい」
「お帰り。学校では何もなかったかい?」
家に帰ると、母さんと、塚原先生がいた。同じ苗字なので塚原先生というのも妙だから最近では博士さんと呼んでいる。だが、今日はヒロに言われたことが頭に残っていて、ついじぃっと見てしまう。
「どうかしたかい?」
「えっ、いえ!なんでもないです・・・けど」
「けど?」
「ええと、博士さん。今日はもうお仕事終わりですか」
「いや、ゆっきーが回復したのでね。車で送ってきただけさ。もうそろそろ帰るよ」
言われてみるとなるほど、ゆっきーがテーブルの上でミルクを飲んでいる。ゆっきーの身体に合う大きさの食器がそれしかないのでお猪口に牛乳が注がれているのだが、それでも一抱えほどもある。
「ゆっきー、身体の具合はどう」
ボクが話しかけるとゆっきーはミルクを飲む手を止めて満面の笑みで応えた。
「なんともないよー。もうへいきー」
「そっか、ありがとう博士さん。また病院に戻るの?」
「あと三十分はここでゆっくりしてるよ。ここからだと病院に近くて助かる」
なるほど、それで頻繁に帰ってくるのか。
「そうそう、もうすぐ学校で体育祭があるんだって。あの・・・・・・博士さん。ボク、もうすぐ生理があるって言ってたでしょ。運動とか大丈夫なの?」
「ああ、その心配なら無用だよ。私がついてるからね。生理痛になったら薬を処方してあげるよ。病院から大量にくすねてきたからね」
とんだ不良医師だがボクはとりあえずお礼を言った。話した感じでは、自分に特別な感情を持っているようには感じられなかった。もともと、あまり表情を変えない人だから顔色を窺うにしても観察が足りない。無表情というわけではないのだけど。
博士さんはともかく、北見はどうなのだろう?
 ボクは、部屋に戻って北見の携帯に電話をかけた。携帯は落雷で壊れたので新しく買い換えたばかりだった。
二度の呼び出し音のあと、電波が繋がる。聞こえてきたのは北見と聞き慣れたサッカー部員の掛け声。
「もしもし、由紀か?」
電話越し、北見の声は弾んでいた。
「あっ、ゴメン。今部活中だった?用事があって掛けたわけじゃないんだけど」
「今は休憩中だ。今、家にいるのか?」
「うん。あのさぁ、北見は・・・体育祭、何に出るの?」
「俺か。部活対抗リレーとクラスリレーだぞ。由紀は?」
「応援団。あと、借り物競争」
「応援?チアリーダーか」
「ううん。ちょっと違うみたい。学ラン着るんだって」
「へえ、お前が着ると、学ランでも可愛くなっちゃいそうだな」
「ばか、そんなことないよ」
「はは、おっと、そろそろ休憩終わりなんだ。あとで、もう一回電話くれるか?」
「うん、いいよ。それじゃ」
ボクは北見が切るのを待ってから電話を切った。不思議だ。北見と話していると心が和む。
 北見が、ボクのことを恋愛の対象としてみているのか、それとも、親友としてみているのか。
ボクからすれば、北見を含めて男の人はすべて恋愛対象から外れてしまうのだけど、『愛される』ことは嫌ではない。女として生まれ変わったとき、男から好かれることを想像して気持ちが悪いと思ったものだが、今日の放課後、ヒロからはっきりと好きだといわれたとき、夢のようにあやふやに感じていた自分の存在が認めてもらえたようで安心感が芽生えたのだ。
 でも、北見がもし、ボクを好きだといってくれたら?そう考えると由紀は憂いを感じてしまう。好きになってくれる気持ちは素直に嬉しいけど、その気持ちに対して答えを出さないといけない、となるとやっぱり不安が頭をもたげてくる。
 『お友達でいましょう』では振ったことになってしまうし、OKを出しても、いずれ肌を重ねることになるかもしれないと思うと躊躇わずにはいられない。愛は言葉や感情だけで成立するわけではない。やはり、どんなに清らかでいようとしても健康ならば最終的に肉体関係を求められるだろう。
 (この解答はゆっくりと見つけていかないといけないんだろうなぁ。でも、ゆっくり考えられる時間がボクにあるのだろうか。もしも、自分が北見の立場なら、いつまでも待ってなどいられないし・・・・・・)
 結局ボクは解答を出すことを諦めて判断中止にした。いずれ、今の気持ちに自然と解答がでる。
 ボクは夜寝る前にもう一度北見に電話して、しばらく他愛のない話をして一日を終えた。


 翌朝、ボクは下駄箱の前でユニフォーム姿のヒロに会った。あんなことがあったので第一声は少し緊張する。
ボクは朝の新鮮な空気を肺にためて、元気よく声を張り上げた。
「おはよう!今日はいい朝だね」
「ああ、おはよう。由紀」
ヒロがにっこり笑って返事をしてくれた。ボクも微笑み返す。
「なんでユニフォーム着てるの?今日の朝練、サッカー部でしょ?」
「ああ、でもグランドがないなんて、言い訳にしかならないと気付いたよ。君のおかげで、俺もちょっとは成長した。今朝は川原までランニングしてきたんだ。野球部の・・・皆とね」
皆、という一言をヒロはちょっと恥ずかしそうに言った。ヒロ以外の部員はお世辞にも野球が上手いとは言えない。でも、朝練に付き合ってくれるのは野球の好きな証拠だよね。
「よかったね!応援してるから頑張って」
「ああ、由紀の声援があれば百人力だよ」

ヒロとの会話のおかげでボクは朝を気持ちよく迎えられた。そして、午後の体育の授業。
 ボクは、窮地に立たされていた。
(うっ、そうか。ボク、体育の授業って今日が初めてだった。どうしよう。女の人の着替えを見るの初めてだよぉ)
そうだったのだ。ボクは今まで自分以外の女性の裸を見たことがなかった。これがエッチな本やビデオなら驚きはしないのだが、同級生たちの着替えを見るのは気が引ける。おまけになぜかちらちらとこっちを見ている女子さえいる。明らかに自分と体形を見比べている。何?なんだろう、ボクの身体、どこかおかしい?
「塚原さんって、着やせするタイプよね」
「えっ、そう?」
「そうよ。それにあなたのシャツ、小さいんじゃないの?」
確かに、胸の部分が苦しいがあまり大きく見られるのも、気持ち良いものではない。いやらしい視線を浴びることにまだ慣れていないのだ。ボクは手早く着替えることにした。ブルマを足に通すときだけ、ちょっとばかしぞくぞくしたが、履いてしまえばなんともない。まあ、露出が高い気がするのだけど。
ボクは体育着の裾でブルマを隠しながらグランドへ集合した。まあ、運動してれば気にならないよね。
 今日の体育は、前半はバスケ、後半は体育祭の練習だった。ところがバスケの授業中にどうも違和感を感じた。
「あれ?」
思ったとおりに手足が動いてくれない。いざボールを掴もうとするとワンテンポずれてしまう。速く動こうとすると身体の統制が上手くいかないのだ。
「う〜ん、思ったように身体が動かないな」
「入院してる間に体力が落ちているんじゃないの?」
「それとはちょっと違う感じなんだよね。上手く身体が繋がっていない感じっていうのかな?手足が自分のものじゃないみたい」
これは博士さんに聞かないと原因が分からないかな?
後半の組み体操は動きが激しくないのでなんともなかったが、一度感じた違和感はなかなか消えなかった。

 HR終了後、ボクは早く帰りたかったのに放送で呼び出された。応援団の練習があるらしい。
今は使われていない部活棟の一室、やたらと古めかしい木の板に応援団室の四文字が達筆で書かれている。扉の建てつけが悪く、ぎぎぃ、という嫌な音を聞いた後、薄暗い部室からは汗臭い男の濃い匂いと、絡みつくような湿り気が漏れ出してきて入るのが躊躇われた。
「あの〜応援団の呼び出しを受けたんですけど」
恐る恐る、中を窺いつつ言葉を掛けると。重く、腹の底に響いてくる声が返ってきた。
「なんじゃい。今年はずいぶん女っぽいのが来たのぉ。わしが応援団団長の豪田王子じゃ」
応援団長さんは、いかにも漢、って雰囲気を漂わせる人だった。威圧される迫力があってはっきりいって怖い。この人、本当に高校生なのかな?今は座っているけど、身長は二メートル、体重百五十キロは軽く超えているはずだ。
腕はぼくの腰周りくらい有りそうだし、胸板も分厚く正面から見ても、横から見ても逆三角形に見える体格。うちの学校は男女ともにブレザーなのに、団長さんはマントのように長い学ランを着ている。靴も下駄だし、くたびれた帽子を目深に被って、番長の格好が恐ろしいほど似合っているが、逆に今の時代には寒いくらい適応っていない。
「小僧、お前も名を名乗れぃ」
「あ、はい。一年の・・・」
「はい、ではなぁーい。貴様も応援団の端くれなら返事は押忍だ!」
名乗り終える前に部屋を揺るがすほどの大声で一喝された。急に大声出されると心臓に悪いのだけど。
「え、お、押忍!」
「うむ、続けてよし」
「えっと、一年の塚原由紀です」
「今年の応援団員はおなごであったか。いつまでも立ってないで座ッちょれ」
「は・・・押忍」
「うむ、いい返事じゃあ。由紀じゃとぉ。おなごであったか」
「はぁ、ご覧の通りで」
ボクはスカートの端を両手で持って、ドレスのように広げて見せた。
「うむ、よう見るとめんこい顔をしちょる」
団長さんは部室のソファに積もった埃を払って自分の隣にボクの座る場所を空けてくれた。
ボクはちょっと複雑な気持ちで団長の隣に座った。二人の対格差のせいで自分が子供になった気がしてしまう。
何か話があって呼び出されたはずなのだが、団長さんが一向に口を開かないせいで長い沈黙が訪れる。
何か話すきっかけになるものはないかと、辺りを見渡すと面白いものが目に入った。大きな鉄製の人形だ。女の子の形をしている。
「あの、これなんですか?」
近寄ってよく確かめると人形の側面には蝶番がついていてロッカーのように開閉できるようになっていた。
「それはのう、昔西洋でよく使われとったらしい応援道具じゃ。鋼鉄の処女という」
「へえ、中開けてみていいですか」
ボクはちょっと興味を覚えて中を開いてみた。鉄人形の内部には予想もしないものがあった。太い針がびっしりと生えていらっしゃった。ボクは何も見なかったことにしてそっとドアを閉めた。一つ、言えることがある。これは絶対に応援道具なんかじゃないって事だ。
・・・・・・・・・沈黙。
「だーーーーんちょーーーーう!用意ができましたァ」
再び沈黙を破ったのは応援団の一員と思われる、やはり学ラン姿の熱血漢だった。この人の顔には見覚えがあった。たまにうちの学校を学ラン姿でうろついている人がいるのだが、どうやらあの人たちはみんなうちの生徒だったらしい。いままで他校の人だと思っていた。
「塚原ァ。ついて来い」
「・・・押忍」
団長に連れられてグランドの片隅までやってきた。応援団員は皆そこに集まっているらしい。巨大な和太鼓、打ち上げ花火、日の丸の旗などが用意されていて、どうやらここで応援の練習をするらしい。
みんな学ラン姿で一直線に並んで整列している。ぱっと見、ボクと同じ学年の人はいないらしく、ボクが一番下っ端なのは間違いなかった。
「あの〜団長。ボク、学ランを持っていないんですけど・・・」
「心配は無用じゃあ。田端ァ!」
「押忍!」
「この娘っ子に学ランを用意しちゃれ」
「押忍。了解しましたッ」
田畑と呼ばれた先輩が脇にあったダンボールをごそごそ漁り始めた。中には学ランが入っているらしく、何度か服を広げてはボクに合うサイズを探してくれた。
「よし、これならちょうど良さそうだな。着替えて来い」
「はい、有難うございます。先輩」
「はい、ではない。押忍だ」
「あ、ごめんなさい。押忍」
「うむ」
ボクは学ランを持って部室へ戻った。学ランは中古らしく、汗の匂いがしてちょっと臭かった。
ボクはブラウスを脱がずに、上から学ランを羽織って、ズボンだけ履くことにした。ジッパーを下ろしてプリーツスカートを畳んでソファに置き、その手でズボンを拾い上げる。なんだか、男に戻った気がしてちょっと胸がどきどきする。久しぶりに履いた男子のズボンは思いのほか肌触りがよく、スカートの風通しの良さになれたボクには逆に新鮮だった。
「あれ?」
腰まで引っ張り上げたところで、ズボンが緩々なことに気がついた。ボタンを留めても手を離すとすとんと落ちてしまう。これじゃ履けないや。ボクはせっかく久しぶりに履けるはずだったズボンを諦めて、再びスカートを履くことになった。風に吹かれただけで中が見られそうなヒラヒラ感が頼りない。ボクはつい、落胆の溜息をついて外へ出た。
ボクが皆のところへ戻ると、先輩たちはすでに練習を始めていた。腕を後ろに組んで胸を反らせるように叫んでいる。ボクは応援の声に負けないように団長の耳元で叫んだ。
「団長。ボクのズボン、サイズが合わなかったんですけど」
「むっ、それは仕方ないな。よし、特別にスカートでやることを許可しちゃる。お前も並んで応援するんだ」
ボクが列に並んだのを確認して、副団長がラジカセのスイッチを入れる。流れてきたのは、うちの学校の校歌だった。
団長が鶴の一声を張り上げる。
「校歌ァァァーーーーー!斉唱ォォォォォゥ!!!」

♪♪♪
光溢れるこの大地 我等の生きるこの土地に
天が恵みの雨を降らし 我等の頭上、虹かかる
我等人の子、大地の子 母なる学び舎、TS学園

今日も明日の夢を見る 大きく育て、生徒たち
我等の誇りの子供らよ 未来へ羽ばたけTS学園
フレー、フレッ、フレッ、フレー
♪♪♪
団長が声を張り上げて熱唱する。初めて聞いたときもそうだったが、学校以外の場所で妙に聴いた覚えのある歌だった。歌詞以外は。しかし、作曲家は小室哲矢という有名な人だ。ちょっと字が違う気もするけど。
ボクはリズムに合わせて、ソプラノの声を張り上げる。一色だけ声色が違うのに周りの大声に鼓膜を打たれ、自分の歌声さえ判別できない。その後一時間以上も熱唱し続けた挙句、皆のどを枯らして練習を切り上げた。
「よおーーし。今日はここまで。暗いから皆、気をつけて帰れ」
団長が言うとおり、辺りはすっかり暗くなっていた。まだ夏だと思っていたのに、九月ともなると日が落ちるのもやや早い。
「塚原。家まで送くってっちゃる」
帰ろうとしていたボクを引き止めて、団長がボクの鞄を持ってくれた。
「えっ、そんな。近いから大丈夫です」
団長のほうが怖いし。
「遠慮はいらん。夜道に女の一人歩きは危険じゃけぇ。わしがついてったる」
断ったものの、団長はついてくるつもりのようだ。怖いけど、案外いい人なのかな?
話の途中、団長は応援にかける想いを熱く語ってくれた。
「塚原ァ。応援ちゅうもんは人を傷付けん。人を励ます、誇り高い行為じゃあ。だからのぉ、わしら応援団は人に会うときまず相手の良いところを見つけるけえ。覚えとけ塚原ァ。応援ちゅうもんは口先だけじゃあかんのじゃ。心を伝えにゃ白々しいもんになっちまう。それは応援とはいわん。ただのお世辞、おべっかじゃあ。そげなことを言われたって嬉しくもなんともない」
「そうですね。でも、ボクなんて褒めるところあんまりないですよ」
「そげんことはなか。ひとっちゅうもんは、自分の良いところにはなかなか気付かんもんじゃけえ、お主は礼儀正しくて、賢い、めんこいおなごじゃあ。お前に惚れとる男も多かろうて」
「えっ、あ、でも・・・」
「図星かぁ、しかし、あまり嬉しくなさそうだのぉ」
「ええ、まあ。なんというか、今までの関係が崩れそうで。それにホントにボクのことを好きなのかどうか、はっきり聞いてないし」
「うぶじゃのう。がっはっは、悩め悩め。恋っちゅうもんはそういうもんじゃい。それに男ってのは単純でのぉ、周りから見れば誰が誰のことを好きかばればれじゃい。自分で分からんかったら直接聞かんでもええ、他人の相談してみることじゃあ」
「そ、そうなんですか。あ、ボクの家ここです」
「おう、そうか。それじゃあ、こんな遅くまで居残りさせて悪かったのぉ。今日は疲れたじゃろう。よう寝とけ」
「あ、あの」
「ん。なんじゃい」
ボクはさっきの話の続きが聞きたくて団長を呼び止めた。すると、後ろのドアががちゃりと開いて、父さんが顔を出してきた。
「由紀。どうした玄関で大声出して。ん?そちらの方は」
先輩の声は大きい。どうやら家の中にまで届いていたらしく父さんが顔を出してきた。
「夜分遅くまでお嬢さんをお預かりしており申した。誠に申し訳ない。夜道を一人で帰すは危険と思い、ここまで送り申したのじゃ」
団長が礼儀正しい挨拶をすると、父さんは萎縮したように萎んでしまった。ちょっと情けない。
「父さん、しっかりしてよ。団長さん、せっかくだから上がっていってください。送ってもらったお礼に晩御飯でもいかがですか」
「む、いや、わしは当然のことをしたまで・・・面目ない」
遠慮している団長の意思に逆らうように腹の虫が自己主張をした。
「ホラ、さっきはボクに遠慮はいらないって言ったじゃないですか。団長も遠慮しないで上がってください」
ボクは団長の手を引いてさっさと家の中に上げてしまった。
家の中には、博士さんと母さん、それと・・・・・・ゆっきーがいた。ああ、すっかり忘れてた。人に見られてはまずいのに。恐る恐る振り返ってみると団長にはもうばっちりと見られていた。
 ボクは何とか言い訳を考えようとするが、咄嗟のことで頭が回らない。博士さんに目で合図するが向こうも混乱しているようで、視線の意味を取り違えたのか慌ててゆッきーにミルクをあげてる。そんなことしたらよけいバレる!
「おお、めんこいぬいぐるみじゃのぉ。己のことをボクと呼ぶ割に、塚原もおなごらしいところがあるではないか」
団長がボクのほうを向いて笑っていた。ゆッきーのことを縫いぐるみと勘違いしているらしい。ゆッきーはさっきからしきりに動いてミルクをぴちゃぴちゃ舐めてるのに。ひょっとしてこの人、目が悪いのだろうか?初対面のとき、ボクを男と間違えていたみたいだし・・・本当は男だけどさ。
いち早く母さんが混乱から立ち直った母さんがゆっきーを二階に連れて行き事なきを得た。博士さんは立ち上がって挨拶を交わし、父さんは家の隅でがたがた震えていた。
「由紀のお友達ですか?ご飯の用意が出来ていますからどうぞ召し上がってください」
とりあえず、妻(?)が男を連れてきたことに対して余裕で対応する博士さん。頼むから結婚ということは内緒にしておいてね。
ボクたちはなんだかんだで仲良く席に着いた。今日は博士さんと団長がいる分、椅子が一つ足りない。隅っこで震えていた父さんにはとりあえずダンボールが与えられた。飯は隅っこで食えという事らしい。
 今日のご飯は団長の好きそうなヒレ肉を使ったとんかつと、油揚げの味噌汁、それと大学芋だった。団長が来ることは予想外だったので、父さんのダンボールにはおかずの代わりにふたも開いていないさば味噌煮缶詰がトンと置かれた。さすがに父さんは怒った。
「な、なぜ俺がサバ缶一個なのだ。誰がお前らを養ってると思っている!」
「博士さんでしょ」
「・・・・・・」
父さんは日頃から自分はモテるだの、社長の息子だの言ってる割には収入が少ない。どうせ父さんのことだから会社なんてサボっているのだろう。それに比べて博士さんは国立中央病院の医師であり、ES細胞研究の第一人者でもあるから年収は二億を超える。
 結局父さんはサバ缶で納得したのか涙を流してご飯をやけ食いしていた。
ボクらのほうは応援団長の意外にウェットに富んだ会話をしながら楽しく食を進めていた。

 お腹をいっぱいにした後、団長はボクの部屋で食後のお茶を飲んでいた。
恋愛相談を家族に聞かれるのは恥ずかしいので団長を二階に引っ張り上げたのだ。
「話の続きですけど、ボクには異性の親友がいて、ボクのことが好きらしいんです」
こういう話をするとき、友達の話ってことにしとく話しやすいのだろうけど、団長は口が堅そうなので素直に自分のことだと話していた。隠してもばれちゃうしね。
「あの博士っちゅう人はお主を好いとるようじゃの」
え、もうそこまでばれてるのか。団長の慧眼には感心させられる。
「その、どうもそうらしいんですけど、よく分かりますね。あの人、あまり表情を変えないから」
「目は口ほどに物を語るっちゅうじゃろ。はは、二人で話しとったら分からんかもしれんが、食事の間中、あやつの目はお前に注がれとった。塚原ァ、お主も罪作りな女じゃのう」
団長はまた一段と大きく笑った。ホント、観察力のある人だなぁ。近眼だけど。
 ボクはあんまり長く引き止めても申し訳ないからと、団長を玄関まで送った。


「整れーつッ。敬礼!」
副団長の呼び声でボクは先輩たちの隣に並んだ。応援団に参加してから一週間、ボクもようやく大きな声が出るようになってきたところだ。一週間の間に衣替えの季節も終わり、今朝はブレザーを着てきたが、 応援団に参加しているということは、上は学ランなわけでせっかくのブレザー姿も団長や先輩たちには見せてはいなかった。別に見せたいわけではないけれど。
「団長からの挨拶であーるッ。全員、きおつけッ」
副団長の号令で団長が壇に登った。団長の手にはなぜか日本刀が握られている。
「今日から二週間後はいよいよ体育祭、我々応援団の出番じゃあッ。よってぇーーーー今日から本格的な練習を始めるッ。和太鼓も大砲も解禁。総員、全力で応援じゃあ!」
今までの練習は本気じゃなかったようだ。その証拠に、今まで学ラン姿で和太鼓を叩いていた先輩が上半身裸になって両手にバットみたいな巨大な鉢を持っていた。
なぜあるのか気になっていた大砲にも花火が詰められ、景気付けに一発打ち鳴らされた。
ドーンッ
という胃がひっくり返るような振動と爆音。雷鳴にも似た音が、以前落雷に打たれたことを想起させる。
「先輩ッ。駄目ですよ。大砲なんか撃っちゃ。近隣から苦情が・・・・・・」
というボクの常識的な訴えは爆竹のバリバリと爆ぜる音に掻き消された。そして巨大な鉢を握った先輩が雄たけびを上げながら、巨大な和太鼓の革を突き破らんばかりの勢いで叩く。
ドンッ
張り詰められた太鼓の革から音が生まれ、太鼓内部にエネルギーが乱反射して増幅され、圧縮される。巨大な力を秘めた太鼓エネルギーは超圧縮状態から臨界に達し、音速衝撃波となって外部に放出された。空気の壁に波紋を作り、空間が歪む。学校中の窓ガラスは拡散するエネルギーの余波を受けて、ペキリ、と亀裂が走った。同じように余波を受けた人間たちも一瞬脳が揺すられ、ひざから崩れ落ちた。衝撃波の直撃に当たったものは鼻血を出して卒倒してしまっている。
「もう一発じゃあ!」
「や、やめてください。人死んじゃいますよ。そこ!先輩も発煙筒なんか投げないで下さい。フーリガンですか。あなた達は!」
ボクは声を嗄らす覚悟で制止を訴えるが、無常にも先輩の一撃が太鼓に打ち込まれた。巨大な鉢の半分ほどが、分厚く張られた和太鼓の革にめり込み、大の大人が三人は中に入れるほど巨大な太鼓が一メートルほどずれる。しっかり固定していたはずなのに・・・。
ズッ――――――――ドーーーーンッ
今度の音は数瞬遅れて聞こえた。限界までめり込んだ鉢が押し戻されるまでの時間差だ。いかに深く食い込んだものか、鉢が負荷に耐え切れず、半ばから折り割られてしまった。被害はそれだけに留まらず、またもや発生したソニックブームは半径三〇〇メートル以内の窓ガスをすべて粉々に破砕し、音の津波を受けた地面から砂塵が舞い上がった。頭の中で、ピキッという小さな亀裂の入った音がした。
「うるせーぞ!応援団。応援なんか他所でやれ!」
案の定、さっそくサッカー部がわらわら集まってきて先輩の一人から苦情が来た。ところが。
「なにを言うかッ。我々の応援を罵倒するとは無礼な奴。さては貴様、敵国の人間か」
「はあ?」
「粛清じゃい」
言うや否や、団長は日本刀を上段に構え、壇から飛び降りた。慌てて避けた先輩の長い髪がはらりと地面に落ちる。先週、ボクに語ってくれた応援の理念も暴走気味。褒めたのがいけなかったのか今年は例年以上に気合が入っているらしい。どの世界にもマッドな人っているんだな。博士さんもそうだけど、応援団長も目的のためには手段を選ばずッて感じだ。
「由紀、お前んとこの応援団すげえな。やばくないか?真剣だぜ。あれ」
北見が心配してくれているのかボクのところへ駆け寄ってきた。達也と和也もいる。
「やばいのは解かっているけど、ボクに止められると思う?ボクなんかが逆らったら千切ってポイだよ」
「でもなあ、腕力であいつを止められる奴がどこにいるよ?」
北見の意見に賛同が二つ。達也と和也がそうだ、そうだと口をそろえる。
「とにかく、駄目もとで止めてみてくれ」
「分かった。団長―――!やめてくださいよーーー」
ボクは団長を止めようと、後ろから羽交い絞めにした。背丈が違いすぎるせいで単に後ろから抱き付いてるという感じだけど。
「むっ!」
「団長、応援団が人に怪我をさせてどうするんですか。明るく楽しく応援しましょうよ」
「むうっ、しかし・・・」
「しかしも、でもも、ないですよ。とりあえず休憩しましょう」
「ふむ、休憩か。よーし、全員、休め!」
何とか先輩を止めることが出来たおかげで、周りから拍手が起こった。でも、団長の暴走を辞めさせるためには何らかの手を打たなければならない。
『生徒の呼び出しです。三年一組の豪田王子。直ちに応援を止め、至急職員室まで来なさい』
団長がスピーカーから名指しで呼び出しを受けた。何の用事かと心当たりを探っている辺り、よほど周りの見えない人なんだなぁと感心してしまう。
「聞いての通り、たった今、職員室から呼び出しがあった。わしが用事を聞きにいっちょる間、諸君らは別命あるまで待機じゃ」
「「「押忍!」」」
団員たちの威勢のいい返事を返した。このエネルギーをほかの事にまわせればなぁ。
団長は長い学ランの裾を翻して一人、職員室へ向かった。日本刀を握り締めたその後姿はこれから人を斬りに行く辻斬りのようにも見えなくはなかった。気の弱い先生なら心臓止まっちゃうかもなぁ。

それからしばらく時が経過して、団長が渋みを増して帰ってきた。団員たちはずらりと壇の前に整列し、団長は壇に登る。日本刀は没収されたらしく、手のやり場に困っている様子だった。
「遺憾である」
第一声を、沈みきった、しかしなお気高さを感じさせる声で発した。
「校舎内での応援行為は慎むようにとの通達があった。本番でも、和太鼓および大砲、発煙筒の使用禁止令が出た。もしこれを破った場合、応援団は解散の憂き目を見る」
どよどよどよ。屈強な男たちの間にどよめきが走った。あれだけのことをしておいて、自分たちの立場がまずくなるとは微塵も考えていなかったらしい。
「団長ォッ!それでは我々はどこで応援しろというのでありましょうか?」
「うむ、ここから一里ほど離れた場所に川原がある。応援はそこへ遠征して行うしかあるまい」
一里は約四キロ。自転車で行くならともかく、歩くとちょっと遠い距離。
「団長!自分は悔しいであります」
「自分もです!大砲を撃つなとはあまりにも酷い仕打ち。教師たちは鬼畜であります」
「おお、嘆かわしい。太鼓が、私の太鼓が・・・」
学校中の窓ガラスを割っておいて、それだけの処分で済んだのだから奇跡といっても良い。けど、人って自分の幸せにはちっとも気付きゃしない。男でいられるってのもボクから見れば十分幸せなことなのに。処分が甘かったのは、団長が持ってた日本刀が無言の脅迫になっていたからだね。
「明日は、学校終了後、川原へ赴く。道の分からぬものも居るだろうから、まずはグラウンドに集合じゃあ。分かったら今日は解散!」
「押忍」
詰襟姿の生徒たちは威勢の良い返事を残して解散した。団長はいつもどおりボクを家まで送ってくれた。

「万歳,万歳(マンセー,マンセー)!」
灰色に彩られた空の下、ボクを含め、団員たちは足を振り上げ行進していた。土手の低い川原を黒服の男たちが一糸乱れず行軍している光景は威容というより異様だ。
「万歳ェー!万歳ェー!祝砲用意ッ」
異様な理由の最たるもので、なぜか団員たちは銃剣を握っていた。太鼓、大砲の代わりにといって渡されたのだけど、恐ろしく精密なモデルガンだった。
「祝砲!撃てェー!」
Ku Klux Klan Bang!
銃剣を上空に向け、引き金を引き、辺りに火薬の弾ける音が響いた。あれ?モデルガンのはずなのに・・・・・・深く考えるのはよしとして、なぜか不幸な鳩が一羽、失速して血を流しながら地面に落ちた。ちょうどボクたちの上空を飛んでいたみたいだけど、都会のど真ん中で銃に撃たれたなんて話があるわけないだろう。
「先輩、鳩が怪我してますよ」
「ほっとけーィ。今は行軍中だ」
前を歩いている先輩に声をかけると薄情な返事が返ってきた。
「でも、ボクは軍人じゃないし、やっぱり助けに行ってきます」
「コラ、待たんか!単独行動はいかん」
「むっ、どうした塚原」
「あ、団長。実はそこの鳩が怪我をしているみたいなので動物病院へ見せに行こうかと・・・」
「おお、なんと心優しきおなごじゃ。わしは目からうろこが落ちる思いじゃ」
団長は感動して泣いてくれたようだが、傷ついた鳩を実際に抱き上げてみると、すでに事切れていた。羽根には親指大の焦げ跡がついている。まさか弾痕?
 ボクは、証拠隠滅を兼ねて鳩のお墓を作ってあげた。いくらなんでも実弾はまずい。鳩にも悪いことをしてしまった。
掘った土の中に鳩をそっと寝かせて上から土を被せる。
「ゴメンね」
最後に墓標代わりの石を載せて、手を合わせた。
「塚原、お別れは済んだのか」
「はい」
「よし、それでは、皆集合じゃい、これから部室に帰って体育祭成功の前祝じゃい」
団長の鶴の一声で前祝が開催される運びとなった。帰る途中にデパートに寄っていくことにする。

○×デパート地下三階のフロア。世界中のいろいろなお酒が大集合していることで有名なこのフロアに今、場違いな集団が訪れようとしていた。
「だーかーらー。駄目ですって、ここはお酒売り場ですよ。団長の実年齢が幾つか知りませんけど高校生がお酒なんか飲まないで下さい」
ボクはこの場違いな押し留めようと孤軍奮闘していた。けれど、子供と大人くらいの対格差がある。当然止められなかった。
「お願いですから、上のフロアでジュース買って帰りましょうよ。ばれたら退学ですよ」
ボクはみんなの興味を二階へ走らせようとエスカレーターを指差し、そこで大量の人の波を発見した。
「あれ?」
人ごみ自体はデパートの中だから珍しくはない。しかし、彼らは係員に誘導されて出口に殺到しているのだ。出口に向かっているならバーゲンではないはずだし、こんなに早くデパートが閉まることもありえない。まだ夕方の六時だ。
「先輩。あれ見てくださいよ。なんなんですかね」
「むっ、団長に報告だ。団長!」
「なんじゃい」
「どうも、異常事態が発生しているようであります。我々の出番でありましょうか」
「クンクン。焦げる匂いがする。火事か」
団長が鼻をヒクヒクさせて何かの匂いを嗅ぎ取った。
「鬼塚ァ。係員を締め上げて状況を吐かせてこんかい」
「押忍」
鬼塚先輩が一走り。一分もしないうちに仕事を終えて帰ってきた。
「人ごみの理由が分かりましたァ。三階のレストラン街からの出火によってデパートは火の海であります」
「おおし、そうか」
「もうひとつ、実は四階のおもちゃ売り場のスプリンクラーが故障中のようであります。中に取り残された子供たちもいるとのこと」
「四階は、察するに火の海じゃのう」
団長は手を後ろに組んで団員をぐるりと見渡し、すうっと息を吸い込んだ。
「手前等!全員出動じゃい。わしらで鎮火するんじゃーーー」
「押忍!」
全員一致の押忍にボクが水を差した。
「団長。消防車に任せましょうよ。そのほうが安全ですよ」
自分の身の安全を顧みず、人を助けようとする心がけは立派だと思う。でも、いってもどうにもならないときや、かえって足手まといになることもある。ボクは団長たちの鼻息を静めるべく必死に制止した。けど、普段ボクに甘かった団長もこの時ばかりはボクの手を振り払った。団長はボクを抱え起こし、優しい声で名を呼んだ。
「塚原ァ」
今気づいたけど団長の瞳は混じり気のない澄んだ琥珀色をしている。とても、優しい色。
「わしら応援団ちゅうもんは、人のために生きてこそ声を張り上げられるのじゃい。応援は一人じゃできん。応援を待ってる人がいてこその応援じゃい。階上に取り残された子供たちの泣き声がわしにはよう聞こえるけえ。今こそ、わしらの助けがいるんじゃい」
いつもは傍迷惑な人たちなのに、こういうときの団長はとても格好よい。男が男に惚れるってこういうことをいうんだろうな。ボクは感激した。
「分かりました。ボクも行きます。足手まといになっちゃうかもしれないけど」
団長は皆まで言わせずボクの肩にぽんと手を乗せた。
「塚原ァ。おぬしは避難しちょれ。上にはわしらだけで行く」
「なんでですか!ボクも応援団ですよ。力なんてないけど、消火器くらい持てます」
「駄目なもんは駄目じゃ。お前は外に出てけ」
「そんな・・・ボクが女だからですか?」
「そうじゃ」
団長はあっさり肯定した。優しい笑顔は崩さないまま。
「わかってくれ塚原ァ。わしは惚れた女に怪我させとうないんじゃ。お前は、外に出て、声張り上げて応援じゃい。特訓の成果をみせちゃれ」
「えっ、今なんて」
「わしはのう、お前に惚れとうよ。気がついたら、おんどれしか目に映らんようになっとった。はは、わしも馬鹿な男の一人じゃけ。恋もするわ。・・・お前は心優しいおなごじゃー。もし、わしが力尽きても、死に際をお前のような良か女に看取って貰えるなら本望じゃい」
団長は最後まで格好良く、男の中の男を地でやってみせた。一部始終を見ていた団員たちが感激の涙を流していた。
「団長、一生ついていきます」
「果ては地獄か天国か、俺にお供させてください」
「自分、団長と死ねるなら本望っす」
団員たちは皆やる気だ。ああ、やっぱ男っていいなぁ。ボクは女に生まれ変わったことを心底後悔した。今度、生まれ変わったら団長みたいな人になりたいな。
「よかよか。皆一緒に逝こうたい。手前ら、声出していくぞ!」
「押忍!!!」
皆が一丸となった。
「由紀。早う脱出せえ。おんどれにも重要な使命を与えたはずじゃい」
「押忍!」
ボクは急いで脱出した。道の反対側に出て、火事の状況を始めて目の当たりにする。
三階から真っ黒い煙と、攻撃的な赤色。四階からは黒い煙と、人の手が見える。まだ幼い。子供の手だ。一生懸命に手を伸ばすけれど、それに届く人はいない。消防車はまだ到着していなかった。そう、子供たちには何一つ届かない。でも、ボクには唯一届くものがあった。ボクの声。ボクの応援だ。
大丈夫だから、きっと男の中の男が、スーパーマンが助けに来てくれるから。
ボクは一生懸命に叫び、子供たちを励ました。
「ふれーふれー」
声が一つ重なる。横目でちらり窺うとサラリーマン風の気弱そうな人が僕の応援に便乗してくれた。精一杯、持てる限りの声を出す。
「ファイト、ファイトー」
声が二つ重なる。学校帰りの女子高生が二人で真剣に応援してくれていた。
「がんばれー、負けるなー」
声が幾つも幾つも重なり、全員、声を上げて歌う。

♪♪♪
重いコンダラ 試練の道を
行くが 男の ど根性〜
根性根性 ど根性〜 それが私の生きる道
♪♪♪

 一方、団長はその頃。
「くうっ、煙で何も見えん。全員、頭を下げて前進じゃあ。煙を吸うな」
団長は焦りに囚われていた。
「くっそぉ煙め。子供たち、ダイオキシンになんぞ負けるな」
心配なのはダイオキシンより一酸化中毒だと思うが、間違いを訂正できる人間はここにはいなかった。
その時、団長の耳に声が届いてきた。間違うはずない。惚れた女の声。
ガンバレ団長、ガンバレ皆。助けに行くぞ子供たち。
「不思議と、心安らぐのぉ。気持ち良い声じゃ」
団員たちも由紀の応援を聞いて気合を充電する。すでに、焦りは消え、使命感が燃え盛る。
「今行くぞ、子供たち」
団長は、一か八か走り出した。
四階は黒を除けば炎一色。ただ、陽炎の向こうに声だけは聞こえる。
「助けに来たぞぉー!返事ぃー!」
「ここだよー」
「むっ、あっちじゃ」
団長が新たに向いた方向、やはり火の海。
「やっぱりスプリンクラーが故障していますね」
「どこじゃい、軟弱なスプリンクラーは」
団長は天井を見渡し、作動しないスプリンクラーと警報装置を発見。
「団長!原因はきっと配電盤です。今は明るいので分かりませんでしたが、蛍光灯がすべて消えています」
鬼塚が報告した。
「むう、配電盤をぶっ叩けば」
団長は首を回し、目当てのものを見つけた。
「こいつか。鬼塚ァ。さがっとれー。わしになんかあったら由紀に・・・」
「自分も、団長にお供します。初めてお会いしたときから死ぬ日は同じと決めておりました」
「そうじゃったのお。なら、わいの生き様、よう見さらせぇーーー!」
団長は配電盤に体当たりをかました。一撃で蓋がへこみ、バリバリと電流が走る。
「うおおおおおおおおおぉぉぉーーーー」
命がけの祈りが神に通じたのか。神は、もといスプリンクラーは恵みの涙を零してくれた。

その日、配られた号外にはこんな見出しが載っていた。
英雄誕生。
TS学園応援団、子供たちを救出。
写真には応援の声を張り上げる由紀の顔が載っている。
負傷者四名、行方不明者一名。
○×デパートで起こった大火災は高校生らの救出によって被害はこれだけに留まった。当局は行方不明と思われる豪田王子さん(年齢不詳)の確認を急いでいる模様。
救出された十七名の子供たちは軽い火傷程度の怪我で済んだ。

国立中央病院。
TS細胞培養装置を前にして塚原は唸っていた。行方不明のはずの患者が急患で運ばれてきたからだ。
「ふ〜む。以前にもこれと似た状況があったが、この患者が女に性変化したらきっとゴリラみたいな女が生まれるんだろうなー」
呟く塚原医師の左袖は濡れていた。鬼塚団員が男泣きの涙を拭くのに今も使っているからだ。
「先生、団長を、団長をお願いします。助けてやって下せえ」
「はぁ、まいったなー」
塚原は無難に皮膚移植をしておくべきかどうか迷っていた。
決断の時迫る。砂時計の針は確実に減りつつあった。

後書き
毎度ここまで読んでいただいて有難うございます。読者の皆さんに感謝の祈りを。
感想を書いてくださった皆さん。感想をいただけてとても嬉しいです。

 ところで、新キャラの応援団長。もう一回登場すべきか、いっそのこと女の子に生まれ変わらせるか迷ってます。彼の喋り方は好きなんですけど。本当はシリーズをもうそろそろ終わりにする予定でしたが、展開が急すぎて主人公も戸惑ってます。でもってもうちょっと続けようと体育祭の話を織り込んだんですけど、よく考えたらこの作品、男密度が超濃い。女性キャラ何人だろ?て、ことで次回出すとしたら女性キャラ。でも何も考えてないや。


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