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プロローグ.二人で、逃げ場所を探して……







 夏の日差しが半袖の肌を焼く。
 暑い。いや熱い。これでは息抜きのために屋敷から出てきた意味がない。
「……もう、限界だ……」
 真琴は足元の石段に腰掛け、額の脂汗を掌で拭った。
 自らが当主を務める、佐倉家の莫大な借金。うまく回らない自社の経営。だがそれは、華族の真琴にとっては些細なことに過ぎない。
 あの女――茂原貴子のことに比べれば。
 半年前の両親の事故死を理由にするつもりはない。だが、あの女が自分を追い込んだことは確かだった。
 全てが嫌になって屋敷を飛び出し、訪れた先は佐倉邸のすぐ近くにある小さな神社だった。石段から眺める見慣れた町は、古い屋敷群とその庭園が広がっていた。庭園の木々が、町を鮮やかな緑色に染めている。
 そういえばここを訪れたのは久しぶりだと、いまさらになって気付いた。
 真琴が小さかった頃、この神社でよく遊んだ。男の子なのに家に篭ってばかりだった自分を、ある女の子がよくここへ無理矢理連れてきたのだ。思えばあの頃が一番楽しかった。少なくとも、その光景の中にあの女はいなかった。だがあの頃一緒に遊んだ仲間の殆どは、今はもういない。多忙に追われて会う機会の無くなってしまった者、佐倉家の台所事情で解雇せざるを得なかった者、祖父秀麿の別荘に雇われ音信が途絶えた者――あの幸せな日々は過ぎた日々なのだ。
『まあくん』
 ふと、懐かしい呼び名で呼ばれたような気がした。だが一美(ひとみ)も彰人(あきと)も、他の仲間たちの姿もない。
(いや……あいつら『まあくん』なんて呼んだ事なかったな。じゃあ、誰だっけ……?)
 思い出を手繰り寄せる。
『まあくん』
 ああ、そうだ、その名で真琴を呼ぶのはあの女の子だった。あの子だけは、今も自分の側にいる。だがそれは一緒にいる『だけ』だ。あの頃のように外へは連れ出してくれないし、そもそもそんな対等な関係はとっくの昔に終わっている。それが終わることが一種の成長だと、真琴自身も思っていた。
 だけど。
 だけど何だ?
「よーちゃん……」
 ここ10年近く、口にしていない名前である。そしてこれから先、恐らく口にすることはないだろう。
(現実に帰ろう……)
 そう思って石段を降りようとした瞬間、頭がぼうっとした。
 熱中症か、そう思ったときには足を踏み外していた。
 とっさに手を突くが、頭の中がもうろうとしている。それでも何とか石段を登り、神社の祠を目にしたとき、全身の感覚が消えた。
(死ぬ……?)
 倒れこんだのだろうか、自分は。それすらよく分からなかった。
 ただ意識が消える直前、あの祠を目にしたとき、一人の少女が血相を変えて走って来るのが見えた。あの見慣れた濃紺の服は、真琴の世話係である使用人の吉香(よしか)だ。屋敷を飛び出した真琴を追いかけてきたのだろう。必死に真琴の名前を叫んでいるが、それは最後まで聞き取れなかった。













「真琴様! 真琴様! 真琴様!…………まあくんっ!!」














私の桂馬様!?
(前編)
〜ナイト・ミーツ・ガール〜

作:TRACE900番台(虎瀬車輛製作所)



 

1.転落先へのホリデー・パス







「はう……う〜……む〜っ…………ん?」
 目覚めた先は病室だった。天井も、壁も、殺風景なほどに真っ白。屋敷の病室ではない。誰かの屋敷にしても、もう少し壁や天井なりに装飾があるだろう。
 となると、どこかの平民の一軒家だろうか。
「麻琴、麻琴」
 ベッドの脇で自分の名を呼ぶ声がする。
「ひと、み……?」
 そう尋ねてから、頭の中で否定する。聞こえてきた声は記憶の中の一美――つまり幼い頃の一美の声で、半年前祖父の別荘に行ってしまった料理人見習の一美の声はとっくの昔に声変わりしている。
 だが、声の主はクスクス笑っているようだった。
「そーだよ、あたしは笠原瞳だよ。麻琴……もう大丈夫?」
(……!?)
 真琴はがばっと身を起こした。
(まさかここは、昔の佐倉邸……!?)
 そう思った真琴の視界に飛び込んできた相手は、あの一美の少年時代――ではなく、その面影を非常に良く残した、三つ編みの少女だった。
「麻琴、無理しないで寝てた方がいいよ。神社の祠で倒れてたのを、救急車で運ばれてきたんだから」
「神社……祠……あっ!」
 自分は熱中症で倒れこんでしまったのだ。しかし救急車まで呼んだのは、そそっかしい吉香の仕業だろう。
「ったく、あいつはいつも余計なことを」
 思わず呆れて言葉が口に出た。
(……ん?)
 他人には聞こえない小さな呟きだったが、真琴自身にはよーく聞こえている。だから違和感があったのだ。自分と同じ台詞を、誰か女性がすぐ近くで喋ったような気がして。
 しかし病室には三つ編みの少女と、その後ろに立っているボブカットの青年しかいない。ふとその青年に視線を向けると、三つ編みの少女が小突いてきた。
「もぉー麻琴ったら、バイト先の先輩まで落としたのねぇ。このあばずれ女!」
「はぁ?」
 彼女の言っていることが全く理解できない。
 第一、この少女は佐倉家の当主たる自分に対して、あまりに馴れ馴れしくないか? 当人はからかっているようだが、そもそも『あばずれ女』って――。
 真琴が眉間にシワを寄せていると、その様子を察したのか青年の方が口を開いた。
「担当の医者を呼んできてくれないかな?」
「オッケー、了解でさ。それまで二人で、あま〜い時間を楽しんで下さいね☆」
「いや、だから僕と彼女はバイト仲間ってだけで」
 少女はスキップしながら病室を出て行った。扉を閉めもせず、まだ17とはいえ華族たる真琴に対して一礼すらしないとは随分失礼な女だ。
 真琴が再び眉間にシワを寄せていると、青年の方は扉を閉め、真琴に軽く一礼した。
「その表情はあの方そのものですね」
 彼は小さく笑った。
 だが、この青年には見覚えがない。年齢的には真琴より少し上、20歳くらいだろうか。得意先か、佐倉家の旧友か――記憶を手繰り寄せたが思い当たらない。強いて言うなら、佐倉家に仕えている使用人の教育係が何となく似ている。親類だろうか。
「君は――?」
「名を尋ねるときは自分からぁっ!」
「うっ」
 妙に高圧的な態度だが、相手の言う通りだ。真琴は爵位の仲でも最高位である公爵だが、当の相手が皇室関係者なら高圧的な態度も当然である。
「私は佐倉家当主、佐倉真琴です」
 ベッドに腰かけたままで名乗るのは不本意だが、まだ身体の至る所が疲労していた。疲労というより――妙な違和感だろうか。
 青年はそんな真琴の様子を眺めて、うっすら微笑んだように見えた。嫌味じみた嘲笑ではなく、まるで旧友に再会した時のような――。
「私は館山千広――千尋です。残念ですが真琴様、今のあなたに肩書きは無意味です」
 その言葉よりも、青年が手に取り、こちらに向けた手帳サイズの鏡に映った人物の方が真琴には衝撃的だった。
 誰かの写真かと思ったのだが、写真の中の、長い黒髪の少女は目をぱちくり瞬きさせて真琴を見ている。誰だろう――そう思った少女の顔は、他ならぬ自分と瓜二つであることに気付いたのだ。それに気付いて驚いたとき、写真の中の少女も驚いたような顔で真琴を見つめていた。
「……テレビ電話? この少女は一体……」
 その真琴の呟きに、青年は呆れたように頭をポリポリ掻く。
「あーっ……まだ分かってませんか? 仕方ない、ハッキリ申し上げます」
 そういえばこの青年・千広は先程の三つ編み少女は違い、自分を華族として正当に扱ってくれているようだ。だが、何かおかしい。
 その答えはすぐ明らかになった。
「真琴様――あなたは、女の子になってしまったのです」













「……はぁ??」
 全くもって理解に苦しむ発言だった。
「正確には、こちらの世界のあなたは女の子だということです」
「いや、だから言ってる意味が」
「あーっもう、相変わらず頑固なお方だ。かくなる上は百聞不如一見、お許しを!」
 千広はそう言うや否や、真琴の胸倉をわしづかみにした。
 むにっ。
 ……いや、胸倉ではなく「胸に存在している双峰のふくらみのうちの左側」である。
「ひっ……きゃああああっ!?」
 変な悲鳴と共に千広を押しのけ、真琴は自分の手を胸元に当ててみた。
(……?)
 柔らかい。そして指ごしに「つまんでいる」感触と同時に、「つままれている」感触も確かに自分に伝わってくる。
 このパジャマ越しに現れている、胸の二つのふくらみは、真琴の身体の一部なのだ。
(まさか――)
 嫌な予感は、自分の手を股間に持ってきたとき確証に変わった。
「……ない」
 真琴がそう呟いた途端、千広がくくくっと笑い出す。
「ある訳ないでしょう、女の子におちんちんが」
「……ウソだ……」
「現実逃避したくなるお気持ちは分かりますが、現実です。いえ……これが『現実』なのが、この世界なのです」
 さらに混乱する物言いだった。
「説明してくれ……」
 気の抜け切った真琴の声に頷き、千広は淡々と語りだした。
「これはあくまで私が立てた仮説に過ぎないということをお断りしておきます。真琴様はパラレル・ワールドと言う言葉をご存知ですか?」
「……何となく」
「自分たちの住んでる世界には常に、別の可能性が無限に存在します。『もしも、あの時』が現実に起こった世界。それは私たちの世界とは並行して、そして無限に存在します。極めて近く、そして限りなく遠い世界――それがパラレル・ワールド。私はそう理解しました。だとすれば、人々の性別が入れ替わっている世界が存在してもおかしくはない――」
「性別が入れ替わって?……あっ」
 なるほど、あの三つ編みの少女は一美によく似ていたが何のことはない、あの少女がこの世界での一美――瞳なのだ。
「この世界でのあなたの名前は佐倉麻琴。読みは同じですが、真に琴ではなく麻に琴。いまさら言うまでもありませんが、生まれたときから女の子です。極めて近く、そして限りなく遠いマコト――それが、その身体の本来の持ち主の佐倉麻琴です」
「……」
 真琴はただボケッと千広の説明を聞くことしかできなかった。理解できたような、全く理解できないような。みんな揃って自分をからかっているんじゃないかという疑念さえある。
「真琴様の言わんとすることは良く分かります。かつて私も通った道ですから」
「『かつて私も』……?」
 真琴はその言葉を聞き逃さなかった。不審な眼差しで千広を見つめると、彼は優しく微笑み返してくる。さっきと同じく、昔を懐かしむような目で。
「三年ぶりです。またお会いできるとは思っておりませんでした、真琴様」














 『真琴』の世界での千広――『館山千尋』は佐倉家に仕える使用人だった。しかし三年前のあの日、あの神社の石段の上から身を投げたのだという。幸か不幸か一命を取りとめ、目覚めた時はこの世界にいたというのだ。しかも性別が入れ替わって。
 だが真琴の知る千尋は、今も佐倉家で教育係として勤めている。となるとその千尋がこの世界の『千広』なのだろう。千広も千尋同様、パラレル・ワールドの壁を飛び越えてしまったのだ。そして行き着いた先が、真琴の世界。
「全然気付かなかった……」
 といっても三年前はまだ佐倉家にも余裕があり、大勢の使用人を雇っていた。当時千尋はその一人に過ぎない存在だったし、三年も前から入れ替わっているのでは、むしろ入れ替わってからの千尋の印象の方が強いと考えた方がいいだろう。
「まぁ、あちらの世界で私の身体になってしまった『千広』君のことを考えると哀れですが。ただこの身体で、男として千広として生きていくことは決めました。この世界で新たにやり直せというチャンスなのか、命をおろそかにした自分への天罰なのか、それは私にも分かりません。神様は気まぐれがお好きなようでしてね――」
 千広の冷笑的な物言いは『あちら』の世界の千尋とそっくりである。
 新たにやり直す――『麻琴』として生きていく――。
 『千尋』の言葉は、真琴の中で自分の言葉に変換されていく。
 一瞬、脳裏にある人物の顔がよぎった。ぞっとするような、冷たい笑顔だ。
「あの女は!?」
「あの女?」
「貴子だ。茂原男爵の娘、あの茂原貴子は――いや、茂原貴子に相当する人間は、どこにいる!?」
 全てはあの女が原因なのだ。佐倉家の借金を肩代わりする、そんな名目で茂原家は娘の貴子と真琴との婚約話を持ちかけたのだ。だがそれは建前、茂原家は真琴の持つ公爵の爵位を欲しがっていたのだ。しかも貴子は真琴が気に入ったらしく、事あるごとに佐倉邸を訪れた。仕事の途中でもお構い無しで、その度に真琴の時間は削られていた。
 千広は真琴の剣幕に身じろぎしたが、首を振って答えた。
「少なくとも私の知る限りでは、そのような人間は存在しません」
「そうか……そうか!」
 真琴は歓声を上げ、小さくガッツポーズをとった。
 この世界にあの女はいないのだ。見知らぬ世界、女になってしまった身体――全ての不安は、その吉報一つで全て消し飛んだ。
「ふふ、はははは」
「真琴、様……?」
 急に笑い出した真琴に千広は困惑した表情を見せたが、真琴は構わず言い放った。
「いいだろう、私はこの世界で生きていく。千尋、私はここが気に入った。この世界のことがもっと知りたい」
「了解しました。それではまず――」
 千広が真剣な表情で真琴を見つめる。真琴も同じように千広を見つめ返すと、千広は低い声音で告げた。
「ブラジャーのつけ方から」
 ……やっぱり少し後悔した。













 よくよく考えれば、いくら内面は『千尋』でも、男の千広に女性の日常行為――衣服および下着の着付け、トイレと入浴の仕方――を教わるのは明らかに異常だった。実際千広にかなりからかわれたが、『麻琴』の知人に聞く訳にはいかないのだ。さすがに入浴の仕方だけは口説明だけで、実際に二人で入浴して――という訳にはいかなかった。真琴と千広では外見も中身も異性なので、当然といえば当然である。
「まさか、両親が事故死したことまで一緒だとは思わなかった……」
 『麻琴』の自宅に戻った真琴が、ベッドの中で天井を見つめながら呟く。
 退院までの数日、千広は毎日訪れて自分が知る限りの『佐倉麻琴』の話をしてくれた。『麻琴』の友人も見舞いに訪れたので、『麻琴』まわりの人物関係を把握するのに時間はかからなった。ただし分からないことも多々あり、そういう場合は頭を打って記憶が混乱している、ということにしてある。
 興味深いのは『麻琴』の友人たちが、かつて真琴の屋敷に使えていた旧友と実によく似ていたことだ。というより、彼女たちは『あちら』の世界での真琴の旧友と同義の存在なのだ。『麻琴』の無二の親友・瞳は『あちら』の一美に瓜二つだったし、『あちら』で一年前解雇してしまった秘書見習の田中彰人(あきと)に相当する、田中秋子というクラスメートもいた。みな性別は違うが、絶えて久しい旧友との交流は心が暖まった。
 机に置いてある携帯電話が震えた。瞳からのメールだろう。
「この世界の平民はすごい……」
 爵位と言う制度は、この世界では50年前にとっくに廃止されていた。「人々がみな平民だと思えばいい」とは千広の言葉だが、実際に『平民』である麻琴周辺の暮らしぶりを見ると、真琴が知る平民とは月とスッポンである。日々生活のため働いているのは同じだが、生活の余裕ぶりはあまりに違いすぎた。公爵である佐倉家の立場から見ても、仕事で時間に追われる自分より、この世界の『平民』の方がよっぽど贅沢な暮らしをしているように見える。何せ趣味にお金を割く金銭の余裕も、そのお金を工面すべくアルバイトする時間の余裕さえ持っているのだ。
「携帯電話を一人一台持っているのが、当たり前の世界……」
 実際の所、文化レベルや技術水準は『あちら』の世界とほとんど変わらない。真琴の世界にも携帯電話は存在する。だがその普及率はやはり月とスッポンの差があった。そもそも平民には携帯電話の月々の使用量が高すぎるのだ。なのにこの世界の『平民』は、携帯電話を当然のように一台二台と持っているし、平然と長電話する。Eメールを雑談に使うなんて無駄使い以外の何者でもない。携帯にカメラがついていると知ったときは、何に使うのか本気で分からなかった。
「さて、明日から学校か」
 真琴も一応学生だったが、会社の仕事に追われてずっと休学扱いだった。女子高というものがどんなものなのか興味津々である。
「あー、今の真琴様も女の子なんですから、間違っても鼻の下を伸ばしたりすることのないように」
 ふと、千広とのやり取りを思い出して苦笑する。何の話だと笑い飛ばしたのだが、うっかり墓穴を彫るような真似は『麻琴』に申し訳が立たない。
「おやすみ……お父さん、お母さん」
 タンスの上のフォトスタンドを一瞥し、真琴は部屋の電気を消した。12時前に寝床に着くのは、もしかしたら数年ぶりかもしれない。







2.トラベラーの落とし前







 麻琴の生活費は養父母が工面してくれていたが、趣味の分は自分で工面していた。その工面の手段が、喫茶店のアルバイトである。これは『麻琴』に限らず、この世界の多くの女子高生に当てはまることだった。
「あのー、千尋」
「職場では僕が先輩っ!」
「うっ」
 本来は真琴が千尋を使う立場にあるのだが、当然この世界では無効である。それどころか千広の方が職位も職歴も上なので、むしろ真琴が使われる立場である。
「千広……さん、この制服ってどうやって着ればいいんでしたっけ?」
 真琴が抱えているのは、この喫茶店『ファンシー・みらくる』の接客用の制服だ。白いブラウスに赤いフレアスカートとエプロン。繊細なフリルとリボンがアクセントだ。だがそれにも増して真琴が悩んでいたのは、スカートのサスペンダー構造だった。これこそ、数多の制服マニアたちの間で『ファンみら』(笑)と尊ばれ崇拝される由縁なのだが、それを真琴が知るはずもない。
 そして苦戦しつつ制服を身に付けた真琴を待っていたのは、ファンみら教の熱烈な勧誘だった。
「む……ムネが……」
 肩のサスペンダーと腰に巻いたエプロンに挟まれ、自分の胸がその存在感を大きくアピールしているのだ。ふと鏡を目にしてしまった真琴は、鏡に映っている顔を赤らめモジモジしている制服姿の女の子に見とれ、そしてそれが自分の姿だと気付いて激しい苦悶に立たされることになった。
「こんなことなら、早く調理手順覚えて厨房に回してもらお……」
「当分無理。麻琴ちゃんは看板娘だからねー」
「はううう……」
 まさか佐倉家の当主たる自分が接客業、それもスカートをまとってお客をおもてなしするとは考えてもみなかった。と言うか、考えていたら変態だろう。
「……よしっ」
 鏡に向かって小さくガッツポーズ。いまの自分は同じマコトでも佐倉麻琴なのだ。墓穴を掘るような真似は(以下略)
「麻琴ちゃん、お客様への対応は分かるね?」
「分かっている――分かってます千広……さん。要は、屋敷の使用人たちと同じようにやればいいんですよね?」
「その通り」
 なぜか千広の口はニヤニヤ笑っていた。














「ご主人様、ご注文はいかがなさいますか?」
 メニューを選び終えたと思しきサラリーマンに近付き、満面の笑顔で応対する。何かサラリーマンがギョッとしてこちらに振り向いたが、なぜそんな顔をするのか真琴には思い当たる節がない。
 ちなみにここは単なる喫茶店である。『喫茶』の前に接頭語は存在しない。
(由紀乃、吉香、私に力を分けてくれ……)
 心の奥で接客担当の使用人の名を念じながら、客の応答を待つ。
「か、カルボナーラと、ミルクティーを……」
「はい、ありがとうございます。旦那さまー! カルボナーラ一丁と、ミルクティー一杯お願いしまーすっ!!」
 威勢のいい声で、厨房のマスターに告げる。
(できた……できたよ由紀乃、私だってやればでき――)
 店内の客の目線、特に男性客の視線が真琴に集まっていることなど気に留めず、真琴は笑顔でカウンターに向かった。千広に言われた通り、お尻を左右に振りながら。
 そして、転んだ。
「うひゃ!?」
「おおっ!?」
 店内が野太い喜びの声に包まれた。
(よ……吉香。お前の得意技だったな。なんで何もないところで転ぶのかと怒鳴り続けて、すまない……)
 うつ伏せの姿勢のまま『あちら』の世界の世話係に詫びる真琴。
 真琴は知らない。パンチラはもちろん、パンモロという単語を。
「……マスター、勘弁してね。麻琴ちゃんまだ病み上がりで」













「あ゛ー、疲れだ」
 エプロンを外すのも忘れて、真琴は控え室の椅子に体重を任せた。
 他のアルバイトは既に着替えて帰宅している。仕事の引継ぎを終えて残っているのは真琴と千広、それに売上の精算をしているマスターだ。
「くっ……ぷぷぷ」
 突然、マスターが思い出し笑いを始めた。
「佐倉ちゃん、ご主人様に旦那様はないだろ〜」
「?」
「それにあのずっコケっぷり……くっ、ぷぷぷぷ、それにあのお尻ふりふり、可愛かったのなんのって♪」
「……」
 ぎぎぎ、油が切れたような首の動きで千広を見やると、千広は見透かしたようにニヤッと笑う。
「千尋……まさか、お、お前……」
「僕が先輩っ」
「うっ……ち、千広さぁん、わ、私をだま……騙したわねっ!?」
「うわははは」
「ひっ……非道いぃぃ〜〜っ!!」
 真琴の涙声が、初夏の空に響き渡った。














 真琴は駅のホームで、帰りの電車を待っていた。
 あれから何週間経っただろう。当初は鏡の前に立つだけでどぎまぎしていた自分の薄茶色のセーラー服も、ようやく慣れてきた。髪形のアレンジも始めて、今日はリボンで結ってみた。今度の土曜日は、友人と一緒に原宿へ出かけることになっている。真琴自身ビックリするほど、真琴は『麻琴』として周囲に溶け込んでいった。元々の性格が似ていたのだろうか――いや、「麻琴はお人よしで誰にも優しいねぇ」、それが瞳の口癖だった。真琴はどうだろう。自分はそこまで他人に寛容だろうか。
 それに、何かが違う。
 自分も含めた人々の性別が変わっているからではない。何か決定的に異なる点があるのだ。
 答えはすぐに出た。
(そういえば、この世界に使用人なんて必要ないんだよな……)
 執事の東金、料理人の八千代、そして使用人の春生(はるき)、由紀乃、吉香に相当する人間に、今日に至るまで全く出会っていない。『あちら』の世界で自分の一番近くにいた人々が、この世界には影も形もないのだ。それは少し寂しいことだった。
(……?)
 真琴はふと、線路を挟んだ反対側のホームに視線を向けた。
 先程から何やら真琴を眺めている男子学生がいるのだ。
(誰?)
 不審に思って見つめ返すと、その学生は明らかに狼狽し始めた。どうせナンパ男だろう。自分をそういう目で見る男がいるということも、真琴は分かっていた。
 だが、何かが違う。
 いや、同じ……?
 不思議な感じだ。あんな学生は見覚えがない。見覚えがないはずなのだが……?
(『麻琴』の知り合い?)
 瞳も知らない男友達の一人や二人、いても不思議ではない。
 だったら、この胸の中の収まりきらない気持ちは何なのだろう? 学生の視線は、それに気付いてくれと言わんばかりに真琴を見つめている。
「……あ!!」
 その学生の、まだ幼さの残る顔に、自分のよく知った人間の顔がぴったり重なった。
 もちろん性別は違う。だが間違えるはずはなかった。
(よし、か……?)
 真琴は確信した。あの男子学生は『あちら』の世界で自分の世話係だった少女、市川吉香に呼応する存在なのだ。
 しかし次の瞬間には、向かいのホームに電車が入ってきてしまった。当然視界は遮られる。
(そうか、やはりこちらの世界では面識がないのか)
 少し落胆して、真琴は視線を中に彷徨わせた。
 その時。
「まこちゃん?」
 聞き慣れない呼び名だが、それは自分をさしているようだ。
 真琴が声のした方に振り向くと、いつの間にか男が立っていた。茶髪で、服はだらしなく着崩している。大学生の知り合いだろうか――
「まこちゃん、どうしたのさ? ここ数日いつもの場所に行っても会えないから、何かあったのかと心配してたのに――」
 男は馴れ馴れしく近付いてきた。顔が嫌らしくニヤけている。
「……!!!!」
 男の顔を見た途端、背筋が震えた。
 自分の良く知った――というより嫌々覚えさせられた人間の顔と、その男の顔がぴったり重なったのだ。
 むろん性別は違うし、こんなに締まりのない表情はしない。『あちら』の世界の印象と比較すると、随分ちゃらんぽらんで大分イメージが程遠い。だが男の目に宿る光――狡賢さを現わすような怪しい輝きは、あまりにも似すぎていた。
(茂原、貴子……!!)
 急に全身がガクガク震え出した。
 あの女だ。この世界のあの女なのだ。名前を問いただすまでもない。あの女もそうだったが、外見はいくら親しげに接してきても、貪欲な蛇の眼光は隠せていない。こんな男が『麻琴』の知り合いである訳がない。何かと理由をつけて麻琴を自分のものにしようと目論んでいるのだ、あの女がそうであったように。
「あっ貴史くん。麻琴ね、神社の石段で頭打って、しばらく通院してたんだよ」
 瞳が余計なことを茂原に告げた。
(貴史……貴子でなく貴史か)
「そっか。てっきりこの前のことに腹立てたんじゃないかって」
(この前のこと?)
 真琴は首を傾げる。この世界の『麻琴』は、貴史と交際していたのか? 瞳たち『麻琴』の友人の反応も割と好意的である。二人の仲は公認という事だろうか?
(いや、違う!)
 これがあの女の――貴史のやり口なのだ。周りからじわじわ責め、孤立無援にする。傍から見れば麻琴と貴史は交際の中に見えるのだろうが、恐らく『麻琴』はずっと拒絶しつづけたに違いない。いくらお人よしと言われても貴史の邪まな胸の内を見逃すほど甘ちゃんではなかったのだ。
「ま、とにかくまこちゃんが無事でよか――」
「触るなッ!!」
 肩に掛けられた貴史の腕を、真琴はものすごい勢いではたき落とした。あまりの怒鳴り声に、瞳たちも目を丸くしている。
 虚をつかれた行動に貴史は唖然としていたが、その顔が一瞬紅潮する。
(……!!)
 殺意。
 そう断言して差し支えない貴史の眼光が、真琴の全身に寒気を走らせた。
 だが貴史は辺りをちらりと窺うと、また先程の締まりのない顔に戻った。
「そ……そんなに怒ってる? ごめん、ほんとにごめん、今度から気をつけるから――」
「聞こえないのか!? 触るなっ!!」
 その意地汚い手をかわし、再び怒鳴る。
「触るな、近付くな、私の前に出てくるな! さっさと失せろッ!!」
 思いつく言葉を並べて、悲鳴さながらに怒鳴った。
「……ちっ、このアマ」
 聞こえないぐらい小さな声で毒づくと、貴史は名残惜しそうに去って行った。だが真琴は見逃さなかった、ちらりと自分へ向けられた、威嚇するような目つきを。
「……ふう……」
 途端に全身の力が抜けた。文字通りの脱力だ。
「ねぇ麻琴大丈夫? 何か……すっごい怖い顔してたけど」
「えっ?」
 瞳に言われるまで気付かなかったが、そこまで言うからには余程激しい表情だったのだろう。一緒にいる秋子は何も言わないが、やはり視線で真琴を案じていた。
「そんなに深刻な悩みなら、あたしが相談に乗るよ」
「瞳……ちゃん、ありがとう。でも私、何ともないから」
 真琴は瞳に礼を告げた。親身に自分を案じてくれる姿勢は『あちら』の一美と一緒で、それが真琴には嬉しい。
 向かいのホームから電車が発車していく。真琴がふと視線を泳がすと、心配そうに真琴を見つめる目があった。
(やはりあいつは……吉香じゃない)
 吉香だったら、電車の窓ガラスを蹴破ってでも真琴の元に駆け寄ってきただろう。真琴当人としてはえらい迷惑だが。
 だがあの女はいた。貴史として、再び真琴を追い詰めにきたのだ。家柄が関係してこない分、よりストレートに真琴を落としにかかってくる。
(地獄だ……)
 真琴は空を見上げた。初夏の夕焼けが灼熱地獄の炎に見えた。













「何だあのアマ、人前で恥かかせやがって!」
 貴史はゲームセンターの両替機を、勢い任せに蹴りつけた。その横で、太った男が小刻みに震えている。
「で、でも最近……佐倉、ちゃん、あんまDMに反応しないし」
「お前のがワンパターンで飽きられたんだよ! 前は結構ビビッてて楽しかったのに、急に逆ギレしやがって」
 歯軋りの音が聞こえそうなほど、歯を食い縛る貴史。やがてその口元は醜く釣りあがった。
「……ここらで一喝入れるか」
「じゃ、じゃあ……」
「拉致るんだよ、拉致って監禁。この際集団痴漢もありだな」
「……ら、拉致より、痴漢の方が……いいな……」
「お前の好みなんか聞いてねぇよ。散々弄られて限界に達したまさにその時、ナイト様の参上ってワケよ。まぁ、痴漢の方が見せしめになるか?」
 貴史はそう言って笑った。冗談で笑っているのではなく、どことなく陰湿な笑いだった。
「掲示板で募集かけとけ。俺の女共にも囮になってもらう」













 貴史は知らなかった。その会話を、一人の男子学生が盗み聞きしていたことを。そしてその学生が麻琴に知らせようと急いでいる最中、石段から転げ落ちて意識不明の重体になったことも、知らなかった。













 『千尋』から聞いた話では、これはおめでたい現象だとからかわれた。『その日』が来た事を知らせてくれれば赤飯を差し入れする、なんて冗談だか本気だか良く分からない事まで口にしていた。
 これが別の日なら、ただ当惑しただけで終わっただろう。千広にからかわれて、それで終わりだったに違いない。
 だが、よりによって、こんな時に。
 まさか先日の貴史との出会いが原因なのだろうか。いや生物学的に関係あるはずがない。だがそんな気がして仕方なかった。
(私は……どうして女なんだろう)
 日常生活で思い知らされることは何度かあったが、これはそれの総仕上げといっても良い。今日一日体調が優れず、体温周期もちゃんと測ってみたのである程度覚悟はしていたが、『それ』を見るのが怖くなって、すぐ水に流してしまった。
 何度気を紛らわせようとしても、あの貴史が去り際に見せた眼光が、何度でも真琴の脳裏に蘇ってくる。そして今の自分には、その毒牙から逃れる手段がない。
 馬鹿だ。『佐倉麻琴』になりきって楽しんでいた自分が、急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。『麻琴』も苦しんでいたのだ、『あちら』の自分と同じように。
 誰も自分を助けてくれない。千広は貴史のことを知らなかったので、当てにすることもできない。
 孤独だ。
 自分はひとりだ。
 電気もつけない真っ暗な自室で、真琴は机に突っ伏して嗚咽を漏らし始めた。
「よー、ちゃん……」














「……真琴様!?」
 ほぼ時を同じくして、ある病院の一室からけたたましい声が響いた。
「……お前ねぇ、第一声がそれかよ」
 ベッドの脇に腰かけていた彼の友人が、呆れとも安堵とも取れる吐息をもらした。
 彼は上体を起こすと辺りを見回し、友人に探るような視線を向けた。
「……はるき?」
「そうだぞ、柏晴生だぞ。なあ吉朗、お前大丈夫か? 石段から落ちて、丸一日意識なかったって――」
「吉朗……それが――おれの名前だったな」
 彼はきょとんとした表情から一転、物憂げに考え込むかのようにうつむいた。
「お……お前ホントに大丈夫か? やっぱ頭打ったときに――」
 ふと何か気付いた彼は、友人の言葉を遮って口を開く。
「晴生、おれは丸一日寝てたと言ったな!?」
「そ、そうだよ」
「……不覚だ、事態は一刻を争うというのに」
「大丈夫だ、お前の言うその子なら、今日は普通に帰宅したって」
「そうか。奴の手はまだ――麻琴様には伸びてないのか」
「おい吉朗、麻琴様麻琴様って、いつからあの子の下僕になった? それともナイト様のつもりかぁ?」
 友人のからかうような声に、彼はフッと笑って応えた。
「ナイトか……フッ、そうだな。おれはその為に来たのだ。おれは麻琴様をお守りする騎士だからな」
「……お前、ホントに医者に診てもらった方が――」
「問題ない」
 短く言うと、彼はベッドから足を下ろした。
「晴生、力を貸してくれ。茂原などに麻琴様は渡さん!」
「お? 言うじゃねーか、戦友(とも)よ。姫様を助けに行くかい!?」
 再びからかうような友人の声。だが顔は真面目だ。
「――肯定だ!」
 彼は親指を上に立て、友に応じた。








3.さぶらうアイツは落第騎士(ファーレン・ナイト)







 今日は会いませんように。
 ここ数日、真琴はそう念じて通学しているのに、神様はサディスティックだ。願いが通じた日は一日たりともない。苦悩している自分を雲の上から眺めて、ニヤニヤしてるのだろう。
「まこちゃん」
 神様はいじめっ子だ。とすると、この男は神様の御使いか?
 学校の帰り道、貴史はターミナル駅で乗り換える真琴を待っていた。すでに慣れた光景なのだろう。友人たちが妙な気を利かせ、先に帰ってしまう。ただ、瞳だけは残ってくれた。真琴が――麻琴が貴史に好意を抱いていないことを敏感に感じ取ってくれていたのだ。とはいえ瞳自身は貴史に対しこれっぽっちの悪意も抱いておらず、水と油のようなカップルの仲介役といった雰囲気である。
「でさー、口直しに入ったはずの店が、これまた値段の割に大したことないメシでさぁ。とんだ飲み会になっちまったよ」
 電車に揺られている間、貴史は他愛のない話を振ってくる。その姿は普通の気さくな大学生で、貴史でさえなければ真琴も心を開いていただろう。
 そう、あの女の写し身でさえなければ。
「麻琴の喫茶店に来ればよかったのに」
「や、やめてよ瞳ちゃん!?」
 ぎょっとして振り向く真琴。瞳からすれば他愛のない冗談だが、真琴にとっては冗談どころではない。
「そうか、その手があったか。今度お世話になろっと」
「だ……だからやめてってば……」
 首を振る真琴。しかしあの日とは違い、怒鳴りつけて拒絶することはしなかった。
 怖いのだ、貴史が。
 だから表面上は平静を装い、身体の震えを必死に隠す。最寄り駅を降りれば貴史は帰るので、後は速攻で自宅に戻って机に突っ伏す。ここ数日、それの繰り返しだ。
(……まるで子供の時みたいだな)
 しかし、自分を慰めてくれたあの女の子は、この世界にはいない。そして、ため息の意味を理解してくれる人間も、この世界にはいないのだ。
 いや、『あちら』の世界にも。
「折角だからお茶していかない? 実は今日、財布が重くて困ってるんだ」
(お茶!?)
 その言葉に、真琴の意識が遠のく。この男、まだ真琴にまとわり付こうと言うのか。
「いいねー、折角だから奢ってもらおうよ麻琴……麻琴?」
「え?……う、うん」
 逆らうことはできない。逆らったら、この男はどんな手で報復を企ててくるか知れたものではない。『あちら』の世界と同じだ。あの女、茂原貴子に冷たく接してしまった数日後、急に茂原家からの融資が途絶えたのだ。茂原は事故だと言って詫びてきたが、あれは真琴への脅迫だったのだ。この世界の貴史の親も政界に口の効く金持ちらしく、どんな手で真琴を追い詰めてくるか知れたものではない。
 いつの間にか、電車は自宅の最寄り駅についていた。いつもなら、電車のドアが自由への扉だったのだ。しかし今日は違う、地獄への扉だ。
 真琴は頼りない足取りで、電車からホームに足を下ろした。
 その時。












「お待ちしておりました、麻琴様」














「「「……へっ??」」」
 真琴たちの前で、一人の男子学生が座り込んでいたのだ。
 ヤンキー座りではない。片膝をつき胸に手を当てたその姿は、まるで主人に頭を下げた家来である。もっともこの世界では、真っ昼間の駅のホームで、ただの女子高生相手にひざまずいている男子生徒に対して、もっと相応しい言い方がある。
 『変人』である。
「誰だお前?」
 貴史が至極正論な質問を投げつけると、急に男子学生の目つきが鋭くなった。
「貴様が茂原貴史か」
「だったら何だよ」
「失せろ」
 男子学生は一言、吐き捨てるように告げた。
「ははっ、変なヤツ」
「聞こえないのか、失せろと言っている」
 彼はそう言うと、右手を横に薙いだ。何かを投げつけるような仕草だが、彼は何も持っていなかったはずだ。
「まこちゃん、こんなバカ構わず行こうぜ」
「待て。右手の袖を見てみろ」
「?」
 貴史のみならず、真琴と瞳も、貴史の着ているトレーナーの袖を覗きこむ。
 右手の袖の至る所に、色とりどりの小さな玉と銀色の細いものが見える。瞳が小さな玉の一つを抜き取ってみると、その先には長い針がついていた。
「……待ち針?」
 そして立て膝をついたままの男子学生の右手には、待ち針と縫い針が大量に刺さった針山が――。
 ごくりっ。貴史が息を飲むと、男子学生は無表情な顔で告げた。
「10秒以内に答えろ。麻琴様にまとわり付いてハリネズミになるか、潔く撤退するか。なおこの質問を無視して抵抗した場合――」
 彼は床に置いた鞄から、鋭く光る細い物体を取り出した。
「――貴様の生命は保証しない」
「……ひっ!?」
 貴史は後ろにのめって尻モチをつき、そのまま後ろずさって電車の中に転がり込んだ。程なくして、ドアが閉まる。
「なんか今の貴史君の動き、ゴキブリみたいだったねぇー」
「ゴキブリ……ふふっ、そうかも」
 害虫の乗った護送列車を楽しげに見送った真琴は、立て膝をついたままの男子学生に向き直った。
 誰かは知らないが、この男子学生のおかげで貴史から逃れることができた。手段はともあれ、素直に感謝したい。
「ご無事でしたか?」
 彼は顔を上げ、真っ直ぐに真琴を見つめてきた。
(あっ、この顔……)
 あの日、貴史の存在を知った日、向かいのホームで真琴を心配そうに見つめていた男子学生だった。何より『あちら』の世界で、真琴の世話係を務めていた使用人の少女と(性別は違うが)よく似た少年――。
「吉香……?」
 その呟きが聞こえたかは知らないが、その吉香に瓜二つの男子学生は小さく微笑み、いきなり真琴の手をとったのである。
(えっ?)
 その手は大きくて暖かく、いまや小さくなってしまった真琴の手を優しく包み込んだ。そしてそのまま、その手は男子学生の唇に――。














 すぱぁあんっ!!













 ――到達する前に、真琴の鞄が男子学生を叩き潰した。
「どさくさに紛れて何やってるんだお前は!?」
 周囲の目も気にせず怒鳴った真琴に、これまた男子学生は真琴の胸の内など気にせずに告げた。
「忠誠の証です」
 真琴の第二波攻撃を喰らったのは言うまでもない。
「行こう瞳ちゃん、こんな変人放っといて」
「お、お待ち下さい!」
「……何だ?」
 眉間に思いっきりシワを寄せて、うざったそうに振り向く真琴。男子学生はそれでも真剣な瞳で真琴を見つめている。
「わたくしには、麻琴様をお守りする役目がございます。何かお困りでしたら、何なりとわたくしにご相談を――」
 ぷちっ。
 何か頭の中で小さな音がした。だが真琴は構わず大きく息を吸い、そして。
「さっさと消えろ! これは命令だッ!!」
 周囲の数人を吹き飛ばすほどの勢いで、真琴は怒鳴った。
「はっ! 失礼いたします!!」
 そしてその命令を文字通り解釈し、男子学生は人混みの中へ消えていった。
「はあ、はあ、はあ……」
「麻琴、麻琴」
 呼びかけられ、はっと真琴は正気に戻る。
「な……なに、瞳ちゃん?」
「今の麻琴、すっごい怖い顔だったよ。まるでどっかのご主人様みたい」
「ぎくっ!?」
 まずい。『佐倉家の当主』だったときの、部下を怒鳴りつけるときのクセが出ていたかもしれない。貴史と初めて会ったときも恐怖のあまり素が出てしまったが、よりによってあんな変な男子学生相手に素の自分をさらけ出してしまうとは。
(……あの学生が、吉香に似ていたからか?)
「それにしても変な男子学生だったねぇー。お姫様に仕えるナイトみたい。新手のナンパかな?」
「……?」
 そういえば、なぜあの男子学生はこの場にいて、真琴に声をかけてきたのだろう? あの男子学生と最初に顔を合わせたのは、貴史と初めて会ったあの日だ。貴史に言い寄られて怒鳴り返した真琴の姿を、あの男子生徒は目撃している。そして真琴を貴史の手から離すべく、今回のような凶行に及んだとしたら。
(……筋金入りのお節介野郎だ)
 さすが『あちら』の吉香の写し身である。余計なお世話、という忠告は馬耳東風らしい。しかも当人は相手のためと思い込んでやっている行為だから、余計にタチが悪い。全自動トラブル製造機という意味では、貴史以上に厄介な存在かもしれない。
 とにかく、あんな男は二度と現れて欲しくない。それだけボロが出てしまう。
「……神様は、どこまで私を困らせれば気がすむのだ……」














 だが、神様の悪戯はあまりにも早く訪れた。
 具体的には、たった数時間後。
「う゛ー、疲れだ」
 赤いバンダナを外すのも忘れて、真琴は控え室の椅子に体重を任せた。
 接客業というのは、取締役とは全く別の緊張感がある。しかも今の自分は、やたらと魅力的なウエイトレスの制服に身を包んで、お客様に終始笑顔とウインクを振りまいているのだ。いつまで経っても小恥ずかしさが消えなかった。というか以前、休憩時間に鏡の前でニッコリ笑いながら接客練習をしていた所を『先輩』の千広に見られ「看板娘だねぇ」とからかわれて、ひどく萎えてしまったイヤーな思い出がある。
 今日は久々に千広と同じシフトだった。そこで他のバイトの面々が帰ったところでひそかに合流し、真琴は千広にいろいろ相談しようと考えていた。同じ境遇の――といっても性別は異なるが――人間として、話が共有できる『千尋』の存在は、真琴の大きな助けだった。
 そのはずだったのだが。
「お待ちしておりました、麻琴様」
「だぁ!?」
 椅子ごと床に突っ伏す真琴。
「千広さんっ、なんで部外者が控え室にいるんですか!?」
 あの男子学生には目も暮れず、ぷかーっとタバコをふかす千広に怒鳴った。一応部外者がいるので、素の真琴が出ないように堪えながら。
 すると脇から返事が。
「千広殿から、麻琴様の身の上の話を伺っておりました!」
「お前には聞いてない……わよっ!」
「まあまあ麻琴ちゃん。吉朗にはいろいろ語って聞かせたんだよ、養父母の仕送りで頑張ってることとか、それと――」
「それと……?」
 探るように反芻する真琴。千広のことだ、余計な知識を吹き込んだに違いない。
「――スリーサイズのこととか」
「へっ!?」
 顔を引きつらせ、千広を凝視する。すると案の定、千広はニヤリ。冗談だか本当なのか分からないあたりが怖い。
 さらに、丁寧に正座しているあの男子学生に視線を向けると、彼は腕を組んで答えた。
「実に興味深い話でありました」
 すぱぁあんっ!!
 言い終わるや否や、真琴はその頭をスリッパで叩き潰した。
「痛いです麻琴様」
「口答えするなッ! 大体お前が、なんでこんな所にまで――もがっ!?」
「危ないっ!!」
 突然男子学生は真琴の身体を抱え込み、床に倒れこんだ。
 その左手が、仰向けになった真琴の胸を押し潰す。
(……!!)
 真琴の全身がびくりと震えた。
 そして男子学生は真琴の上に馬乗りになり、控え室の入り口の方へ振り向いて――。
「貴様、茂原貴史の手の者か! 何をしにここへ来た!?」
 彼は叫ぶと同時に、鋭く光る細長い物体を入り口めがけ投げつけた。鈍い音と共に、すぐ近くの壁に深々と突き刺さる。それは裁縫用の裁ちバサミだった。
「5秒以内に答えろ。返答次第では貴様の命を――」
「ひっ……ひぃえええぇ――っ!?」
 入り口に立っていた男は血相を変えて逃げ出した。
 ひらひらと一枚の紙切れが床に落ちる。千広がそれを拾い上げると、それはガスの使用明細書だった。
「逃げたか。馬鹿なヤツだ、白昼堂々麻琴様を狙って現れるとは。大丈夫ですか、麻琴さ――」
 彼はそう言って、自分が『押し倒した』麻琴に向き直った。
「うっ……うぐっ、ひっく」
 真琴は堪えきれず涙目になっていた。
 エプロンはほどけ、自分の黒髪が床を這いつくばっている。どこか引っ張られたのか、ブラウスのボタンが幾つか外れていた。
 そして真琴の上に馬乗りしている男子学生は、額から脂汗をだらだら流し始めた。
「も……申し訳ありません麻琴様! 突然のご無礼、お許し下さい!!」
「うぐっ……うっ、うっ」
「わたくしとしたことが敵の襲撃をおろそかにし、麻琴様にいらぬ危険を――」
 ぶちっ。
 頭の中で結構大きな音がした。血管の二・三本が、血圧の急上昇に耐え切れなかったのだろう。
 と言うか、いまだに男子学生の左手が、真琴の胸を押し潰したままである。
「おー、まー、えー、はー……」
 ゆらり。男子学生を押しのけ、大地に足を踏みしめる。両目が発光しているように見えるのは気のせいだろうか。
「お前が一番危険だぁぁぁぁ―――ッ!!」
 真琴は男子学生の足首を掴むと、開いた窓に向かって勢いよく放り投げた。ちなみにここは3階である。
「はあ、はあ、はあ……」
「ま、真琴様……」
「きっ!!」
 マコト様、そう呼ばれて思わずひと睨みしたが、声の主は『千尋』だった。
「何だ千尋か……脅かすな」
「真琴様、いくらなんでもあれは非道ぉいでしょう。吉朗だって、真琴様を思ってのことなのですから」
「どこが!? 勘違いした挙句、私を押し倒しておいて……吉朗?」
 そういえば名前を聞いていなかった。『あちら』の吉香に似ている、騎士風情の勘違いな男子学生は市川吉朗と言うらしい。
「吉朗と吉香、やはり写し身だったのか……と言うか、あの勘違い振りと暴走振り、もはや同一人物だな。さすがに胸があるはずもないが」
「おやおや? 真琴様は吉香の胸がお好みで?」
「ちっ違うぞ千尋! 私は断じてそのような目で吉香を――」
「胸といえば――」
 千広は真琴の弁解をまるで聞いてはいなかった。はだけた真琴のブラウスをちらりと見て、ニヤリと笑う。
「男に触られた気分はいかがでしたか?」
 その一言で、真琴は茹で上がってしまった。













 それから数日――というか数時間、いや数分おきに、似たような光景が至る所で繰り広げられた。
「どこだ吉朗、出て来い!」
「ようやくその名でお呼び下さいましたか、麻琴様」
「そーじゃなくって! あそこに転がってる気絶したおっさんと自転車は!? またお前の仕業か!」
 真琴の視線の先で、中年男性と自転車が添い寝していたのだ。
「はっ。あの自転車の動きが不自然で、麻琴様を襲撃せんと企む茂原貴史の一味と判断いたしました。そこでわたくしは、あの自転車の後輪めがけて――」
 すぱぁあんっ!!
 その説明が終わる前に、真琴は吉朗の頭をペンケースで叩き潰した。
「酔っ払い運転のだけだろーが!! 全く、その勘違い振り、まるでどこかの誰かを見ているようだ……」
「恐縮であります」
「褒めてないッ! ……あー、いくら厄介を起こせば気がすむんだ、この桂馬バカは」
「桂馬? 将棋の桂馬でありますか?」
「そうだ、ナイトの成りそこないだ。八方飛べるナイトと違って、桂馬は横飛びも後退もしない。前に飛び跳ねてばかりの猪突猛進武者だ。しかも着地点が微妙にズレてるときてる。お前のような爆走野郎はナイトなんかより、桂馬バカの方がお似合いだ」
「光栄であります」
「褒めてないっつーの! とにかく下がれ、つーか邪魔!! 私の前から永久に消えろ!」
「はっ、善処いたします。ですが麻琴様、あなた様の身に危険が迫りし時には――」
 しつこい。
 すでに真琴の眉間はシワだらけで、瞳がいたら「ニホンザルだ」と笑われただろう。
「下がれと言っている!……これは佐倉家当主としての命令だッ!!」
(……あ)
 喉が壊れてもおかしくない大声で怒鳴った直後、真琴は自分の言葉の激しい矛盾に気付いた。
(……『麻琴』に『佐倉家の当主』なんて関係ない)
 そして真琴の前で立ち膝をついている吉朗は『佐倉家の当主』に仕えている訳ではなく、『麻琴』の身を案じてまとわり付いているだけなのだ。
 真琴は小さくため息をついて、吉朗の肩に手を乗せた。
「……ごめんね、変な事を言って。私のことは、今は別にいいから」
「滅相もない。それでは、わたくしは失礼いたします」
 頭を下げて優雅に一礼。背を向けた後は振り向きもせずに吉朗は去っていった。こういう仕草だけを見れば、主君に絶対の服従を誓う騎士のようだ。もっともこの世界では絶対的な主従関係など特例を除いて存在しない。吉朗が自発的、と言うか勝手に真琴を主君の如く仰いでいるだけなのだ。
 いや、『麻琴』に対して。
「……変な桂馬バカだ」
 真琴は小さく呟いたが、なぜか少し寂かった。気のせいだろうか。













「ったく、何だよあの男は!? こっちが下手に出てるのをいいコトに、麻琴にベタベタくっつきやがって」
 貴史は苛立ちを隠そうともせず、道端の自販機を蹴りつけた。
 ここ数日、貴史が麻琴に声をかけようとした時にはいつも、あの変な男子学生が麻琴にまとわりついているのだ。しかも男子学生は貴史に気付いているのか、顔を伏せているときに貴史の方を向いて恐ろしい形相で睨みつけてくる。おかげで貴史は麻琴に声をかけるどころか近付くことすらできず、わずか数日にして苛立ちは頂点に達していた。
 うまくいかない、ということ以上に、吉朗に対する嫉妬心も大きい。
「だが、それも今日で終わりだ」
 貴史の口元が醜くゆがむ。
 当初の計画は、あの日凄まじい形相で怒鳴りつけてきたはずの麻琴が急におとなしくなったことで先延ばしにするつもりだったが、予定通り実行することにした。
 あの変な男子学生にしょっちゅう付きまとわれて、麻琴は精神的に参っているようである。一見した印象では、あの男子学生を貴史以上に毛嫌いしていると見て間違いない。そこに、貴史の付け入る隙がある。
 携帯電話の電話帳から『成田』の文字をたどって通話ボタンを押し、一度切ってからリダイヤル。繋がったかどうか確認するまでもなく、貴史はマイクに向かって喋った。
「予定通りだ。仕掛けるポイントは大通〜杯戸公園間の車内」
 受話器の向こうからハァハァ生々しい息遣いが聞こえる。普段は不快な騒音以外の何者でもないが、今の貴史には心地良い音楽だった。
 事務的な確認をしたのち、貴史は最後にこう付け加えた。
「詰め将棋の始まりだ」









おことわり

この作品は、富士見ミステリー文庫『僕のご主人様!?』を基に、TRACEが勝手にでっち上げたお話です。オフィシャルではございませんです、ご了承下さい。






作者の愚痴こぼしコーナー あとがき》

ご無沙汰しました……というより、初めましての挨拶の方がお似合いかもしれない、自習室での冷凍睡眠が日課のTRACEです。
いきなりですが、モニターに向かってごめんなさい。
鷹野祐希さん、勝手に二次創作してごめんなさい。
久々の投稿のクセに、二次創作でごめんなさい。
二次創作のクセに、前後編でごめんなさい。ノリノリで書いてたらバイト数が凄いことになっちゃいました。(600KB……)
他にもいろいろありますが、まずは一言ごめんなさい。「……未熟!」と遠慮なく嘲り笑ってやって下さい。



原作を読んでいることが前提なので、不親切な点が多々見受けられると思います。でも、この文庫にご来店(?)の皆さんなら、原作『僕のご主人様!?』(富士見ミステリー文庫)はご覧になっていますよね? ラストがTS的に萌えない、なんて言わずに、未見の方は今すぐ買って読むことをオススメします。八重洲さんも紹介していた通り、かなり面白いです。何より挿絵の吉郎カワイイ(ぉ
…………つーても、作者さんも嘆いてましたが、なかなか店頭に在庫無いんですよねぇ。水面下で相当売れているようです。そろそろ流通が安定して普通に入手できるはず。もちろんワタシゃ発売当日ゲマで入手しましたよ。でも翌日売り切れてました。

今作の執筆にあたって、いろいろTRACEなりの考察を加えてみました。個人的な好みだけではなく、原作から色々考察しています。真琴の基本的な性格とか、千尋が跳躍してしまった経緯とか。こういう妄想ができる懐の深さも、原作の魅力の一つだと思うのですがどうでしょうか。

ちなみに『騎士気取り』の吉郎はイメージが浮かばなかったのですが、結局書いてみたら、何だかどこかの『戦争ボケ』男に…………同じ富士見書房って事で、勘弁して下され。

では後編『4.堕天使のお告げはデッド・オア・キル 〜 エピローグ.涙の数も痛みも……』をお楽しみに。


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