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沈姫 - Shizuhime -
《第四章 恵一》

作: 蘭 死郎




「どういうことですか、彩香さん!」
 無論、家に帰った私は憤慨して、全ての原因を作った相手に食ってかかった。
「あら。なんの話ですの?」
「なんのって……私のこと、騙していたでしょう。親友同士ならキスして普通だなんて……ひどい」
 憤懣やるかたなく、八つ当たりするように乱暴に鞄を置く。そこは彩香の部屋で、私は自分の部屋に戻るより早くこちらへ駆けつけたのだ。
 その時の彩香はと言えば、たまたま医院のほうの仕事が入ったのか白衣姿だった。自室に書類を持ち込んでデスクワークをしていたらしい。いつものように私を玄関で出迎えなかったのも、そのためだろう。
「まあ。ばれてしまいましたのね」
 机から顔を上げた彼女は、しかし悪びれもせずに言ったのだった。
「でも、どうしてわかりましたの? ――そう。菫さん、どなたかに口づけなさったのですわね」
「あ……っ?」
 しまった。薮蛇だったようだ。
 立ち上がった彩香は、そんな私を見ながら笑って近付いてくる。だが目だけは微笑んでいない。その両の瞳に、私はすべて見透かされているように思えて、恐ろしくなった。
「べつに、いいんですのよ。あなたがどなたに思いを寄せようと。でも」
 彼女は私の首に腕を回し、耳元で囁く。
「どなたか女性のかたを、わたくしよりも好きになったりなどしたら――決して許さなくってよ」
「……!」
 耳たぶをきつく噛まれ、私は思わずそこに手をやる。そのときにはもう、彩香は飛び離れて悪戯っぽく笑っていた。両手を後ろに組んで、なにか思わせぶりな様子で。
「と、とにかく、もうやめましょう……こういうことは」
「そうね。唇には、やめておきますわ。でも他の場所ならいいでしょう? キッスで挨拶をする国も、世界には多いのですから」
「あ、彩香さん!」
「まあ怖い……ふふふ。でも、そんなところも可愛い。だから抱きしめて、口づけたくなってしまいますのよ。それは自然なことでしょう?」
「…………」
「わかりましたわ。わたくし、菫さんが嫌だとお思いになることは絶対いたしませんもの。それはご存知でしょう? ちょっと残念ですけど――でも我慢しますわ」
 たしかにこれまで、彼女は私に無理強いだけはしなかった、と思う。
「嘘をついていたことは、素直に謝ります。ごめんなさい。でも、これからもずっと、お友達でいてくださいね。いつかお約束いたしましたものね」
「ええ……はい」
「よかった。ありがとう、菫さん!」
 再び抱きついてくる彩香。私ははっとしたが、今度は頬へのキスだった。
 なんだかごまかされてしまったような気もしたけれど、私は彼女を許した。いや、仮に彼女がどんなふうに答えていたにせよ、結局そうするしかなかったのだ。

 夏休みの間は、ふたたび彩香と二人の日々が戻ってきた。以前の中学校分の自宅学習は、そのまま休み中の課題の消化と高校の予習復習に置き換えられた。
 それでも余った時間を、例のバレエもどきの体操や水泳、自宅周辺の散策などに費やして、私たちは高地の短い夏を満喫する。この地には、自然だけは存分に溢れている。
 彩香は私より一足遅れて、『美少女』から『美女』への脱皮を始めていた。と言っても、まだまだ同年代の皆より幼く見える彼女。
「――どうなさいましたの? そんなにじっと見て」
「……あ、いえ。なんでもありません」
 プールサイドに立つ彩香に、ふり向きざまに問われた。そう言われて初めて、自分が目を奪われていたことに気がついた。
 やはり、彩香は美しい。“女”の私が見ても。
 ただ彼女を眺めながら、私は去年までとは違うことを思っていた。
 それまでの私には彩香がいれば充分だったけれど、今は千景たち――クラスの友達たちがここにいたら、などと考えてしまう。
 なにも隠すべきことがなかったなら、級友たちを呼んで、彩香も一緒に皆で過ごすこともできるのに。またそうできたら、どんなに楽しいだろうか。こんなに優美で可憐な彩香、本当の南条医院の令嬢に会わせたら、千景たちはどんな反応を示すのだろう。
 けれど、それは不可能なことだった。
「今日は、気もそぞろですのね」
 夢想している間に、彩香は再びひと泳ぎしてから私の側に来ていた。そのまま私の体にすっと腕を回して、腰のあたりにぴったりと抱きつく。
「彩香さん……?」
「もう、お休みも終わりですわね。菫さんはまた学校。わたくし、淋しくなりますわ」
「…………」
「キッスはいたしません。お約束ですからね。でも、せめて。しばらくこのままでいさせていただけますか――?」
「……はい。」
 蝉たちが四方から騒がしく鳴きたてる中。私たちは目を閉じ、夏の陽射しと、涼風と、そして互いの体温と鼓動を感じながら、長いことそのままでいた。

 そして始まった二学期。
「みんな、休みはどうだったない? さて本日は、このクラスへの転入生を紹介するがい」
 始業式の日の教室で、担任の水原先生が言った。
 私はそのとき、まだ夏休み中の気分が抜けきっておらず、半ば窓の外に目をやって上の空だった。教室に入ってきた転校生は男子生徒で、最初はどこにでもいそうな長身の少年に見えた。クラスの女子たちが少しざわめき、千景も後ろの席から『ちょっと格好いいね』というようなことを囁いてきたが、さして興味はない。
「こら、静かに! あー、きみね。自己紹介しなやせ」
 少年はチョークを手に、黒板に大きく自分の名前を書いた。私はそれを見るともなしに見ていたのだが――だんだん、平静ではいられなくなってきた。何故かと言えば――
「加村です。よろしく」
 そう。黒板には『加村恵一』と大きく書かれていた。かつての私と同じ名前。
 すっと血の気が退くように思えた。皆に向かってさわやかに笑うその男子生徒は、いったい何者なのか?
 ふと、目が合った。私は驚きから目を逸らすことができず、加村恵一と名乗ったその少年のほうも、じっとこちらを見ている。
 ただの同姓同名なのか――いや。たしかに彼の顔には、どこか見覚えがあった。誰だ?
 小、中学校での友人の誰かが、私の名前を騙っているのかとも思う。しかし、見覚えはあるのだが、どうしてもそれが何者なのかが思い出せない。私は混乱し、当惑していた。

「ね、彩香。あの男の子と顔見知りなん?」
「そうそう。じーと見合うてたし」
「いいえ。知りません……」
 女子の友人たちに訊かれたが、そう言うしかない。なにしろ知っているだれかだったとしても、それを明かすわけにはいかない事情がある。
「でも同じ東京からだしで」
「ほんとで。なにか隠しとらない?」
 そう。加村恵一は『東京から来た』と言った。だが私が住んでいた区ではなく、同じ東京都下といっても少し離れた市内の学校からだ。やはり、ただの偶然だろうか?
 だが、そうだとすると、あの意味ありげな視線は何だったのか。
 当の恵一は、男子の輪の中に囲まれている。だいぶ話が弾んでいるようで、時折笑い声が聞こえてきた。
「だとすると……アレかない?」
「うん。それしか考えられんがい」
「『アレ』って?」
 私そっちのけで、友人たちは一つの結論を導き出す。
「決まってっしょー。ひ・と・め・ぼ・れ!」
「ほんとで。今もチラチラ気にしてたしー」
「ええっ!?」
「もちろん『お米の銘柄だ』なんてボケんとくやせっ」
「そら彩香らしい話がいね」
 などと寄ってたかってからかわれてしまい、私は困惑し赤面する。
 そうなのだろうか――いや、まさか。私が男を好きになるなど。
 だが不思議と彼にだけは、想像してみても他の男子に感じるような嫌悪感は少ないような気がした。さわやかで清潔感があり、どちらかといえば妙な親しみのようなものも……。
 いやいや。首を振り、そんなことはないと自分に言い聞かせる。
「ああ、やっぱで赤くなっとうよさ」
「あたしらもその恋、応援するねよ。がんばれ彩香!」
「ち、違うったら。違います!」
「またあ。照れんでも良いが」
 悪友たちは、すっかり決めてかかっている。

「志乃たちはああ言ったげ、正直がとこはどうない?」
 帰りしな、千景がそんなふうに声をかけてきた。
「千景さんまで……本当に、そんなんじゃないんです」
「ほんとで? あたしには隠し事せんで良いねよ? 尋常でなく見えたげ……」
 心配そうに私を見る。彼女には隠せそうにない。
「はい。あの人には、どこかで会ったことがあるような気がして……でも思い出せなくて。東京での知り合いだったような気はするんですけど」
「ああ、そういうこと。なるほど得心よさ」
 千景は私の肩をポンと叩き、『また明日』と駆けていった。どうやら納得してくれたらしい。
 一度ふり返った彼女に手を振ると、私は校門前に停まっている迎えの車に乗り込んだ。
 霧島さんはいつも通りの無言だ。後部座席で、もう一度『加村恵一』が何者か思い出そうと試みたが、それはどうにも叶わなかった。

 その翌日。
「ねえ彩香。聞いたや?」
「聞いたって……なにをですか?」
 登校するなり、またいつものメンバーが私の周りを取り囲む。
「なにって、『加村くん』のことがいね」
「彼ね、昨日あんたがこと気にして、男子らにあれからこれから訊いてたらしいやさ」
「えっ?」
 あの『加村恵一』が、私のことを――。
「ほんとで。マサシも隆広も、別々に同じこと報せて来たがい」
「向こうも彩香に気があるんないねー?」
「くうっ。だとなら、いきなり両想い!?」
「おめでとー! やったで彩香」
「そ、そうと決まったわけじゃ……」
 どういうことなのか。偶然とは思えない。
 以前の私と同じ名前。どこか見覚えのある顔。そして私のことを気にしているらしい素振り。
 だが、私は変わってしまっているはずだ。まだ幼さの残る男の子だった頃とは違う。誰かに指摘されたとしても、あの頃の私と今の私が同一人物だとは、おそらく誰もにわかには信じられないだろう。
 それとも――単に恵一というのは同姓同名で、千景や志乃たちが言うように、彼が私に特別な感情を抱いているというだけなのか。
 もっとも、それはそれで私もどう対処して良いものか戸惑ってしまうけれど。
「だけどで英美。隆広があんたに報せたいうの、もしかで二人、付き合うてるない?」
「うっ!? そ、それは……こらジュンち! 千景になんか言うたや!?」
「知らーん☆」
「へー、英美と隆広かあ。そら怪しいがいね……ひひひ」
 友人たちの話は横道にそれてゆき、私は話題の中心にいることから解放される。
 そこで何気ない風を装って彼、加村恵一のいる席のほうに目をやれば、また何人かの男子と話し込んでいる様子だった。彼らの背に隠され、当人の顔は見えない。

 ホームルームの後の、一時限目の英語のとき。ふたたび恵一の席へと目を向ける。すると向こうも先にこちらを見ていたらしく、まともに視線が合ってしまった。あわててごまかすように目を逸らす。
 二時限目にも同様のことがあったし、さらにはその後の体育の時間にさえも、私をじっと見ている彼に気がついた。女子は幅跳び、男子は短距離走だったのだが、彼のほうはなぜか着替えずに校庭の端で見学していた。
 間違いない。見られている。
 それも、私を監視するように。おそらく英美たちが言うようなロマンチックな話ではない。そんな気がする。
 不安と当惑。両掌がじっとりと汗ばみ、それを私は着ている体操着で何度も拭ってごまかさねばならなかった。

「南条さん……だよね。ちょっといいかな」
 そんなふうに、彼が直接私に声をかけてきたのは、昼休みだった。
 その直前、例の悪友たちと一緒に昼食をとりながら、またさんざんにからかわれた矢先のことである。
「ありゃ。噂をすれば」
「ほれ彩香。彼氏の御指名がい!」
「じーとあんたのブルマ姿見とった彼氏のねー」
 冷やかしの笑いの中、私は緊張の面持ちで立ち上がり、加村恵一と間近で対峙した。彼はちらりと、千景たちのほうに目をやる。
「ここではなんだから、僕と来てくれないか」
「あの、いえ。それは――」
 言いよどむ私に、恵一は素早く小さな紙片を差し出した。友人たちを背にしたままそれを受け取り、開いて中を見る。私は戦慄した。
「……はい。行きます」
 口笛や拍手で無神経に囃し立てる友人たちを尻目に、彼について教室を出た。
 “恵一”は無言で廊下を進み、校庭へと出る。曲がり角ごとにちらりと見えるその横顔からは、なんの表情も読み取れない。無気味だった。
 そのまま体育館の裏を通り、今は使われていない倉庫の裏手にやって来た。周囲の植込みが、そこだけぽっかり空いたようになっている。ここに来るまでの間もほとんど人気がなかったが、この場所は全く隔絶した世界のようだった。さっきまで校舎の近くにいたのが嘘ではないかとさえ思える。どこかの森に迷い込んだような具合だ。
「さて、と」
 加村恵一は、そこでやっと私のほうを向いた。
 笑顔を浮かべるけれど、それはどこかわざとらしい、作り笑顔のように見える。
「南条彩香さん。僕がどういう理由で君を呼び出したか、わかるよね?」
「――わかりません」
 私は答えた。それは正直なところだが、語気には戸惑いも相手への怒りもないまぜになっていたと思う。
 あの紙片には、こう書かれていた。
『僕は君の秘密を知っている』
 やっぱり、そうなのか。
 だけど。彼は本当に何者なのだろう。私が本来の加村恵一であると知っている。とするなら、その『加村恵一』を名乗る少年は、いったい?
 私は混乱していた。あるいは彼が本当の恵一で、私は最初から女であり、自分が加村恵一だったと思い込んでいるだけなのでは、などとさえ妄想してしまう。
 だが、それは現実ではない。私の真実は、この首の傷痕に――。
「そのバンダナ、体育の時も外さないんだ」
 言われて、自分の首に伸ばしかけていた指を思わず拳に握った。
 秘密を知られている。だが、どこまで? この少年はどれだけ私のことを知っているのだろうか。
「とぼけるなよ。でも、本当にわからないなら教えてやろうか? 僕が何者なのかも」
 言って、彼はズボンのポケットから何かを取り出した。
 カシャリと音がして、それは“恵一”の手の中で鋭利な刃物に変化する。私は息を呑んだ。
 バタフライナイフ――そんな名前が頭をよぎった。ラジオニュースで聞いた。その凶器による少年事件が多発して問題になっていると。実物を見たことはないが、それだと思った。
「騒ぐな」
 静かだが強い口調で言われ、私は動けなかった。彼はナイフを持ったその手で私の口をふさぐ。そのまま体ごと立ち木の幹に押しつけられた。目の前に、銀色の刃先が鈍く光っている。
「じっとしてろよ」
「!」
 少年は空いたほうの手――右手を、私のスカートの中に入れる。その手が太股を滑って上がってきた。当然、スカートもそれに合わせて持ち上がってくる。
 こういう時に女が男に何をされるのか。私だって、さすがにもうそれがわからないほどウブではない。
 目に涙を溜め、必死に抵抗しようとした。だが、男女の力の差は如何いかんともしがたい。たしかに私は女子の中では背が高いほうだが、この“恵一”はそれより高く、先程からもずっと見下ろされる格好だった。当然ながら力もかないそうにない。おまけに口は手で強くふさがれており、小さなうなり声を上げる以上にどうすることもできなかった。
 正直に言おう。昨日、友人たちに囃された時、私はこの少年に抱かれることさえ想像した。もしどうしてもそうしなければならないなら、私は他のどの男でもなく彼を選ぶだろう、と。
 だが、それは決してこんな形でではない。こんなのはいやだ。
 そして自分の運命を呪う。もし自分が男のままでいたなら、これほど圧倒的に力で負かされはしなかったろう。いや、それ以前にこんな風に襲われることさえなかったに違いない。
 屈辱を噛み締めていると、少年の手が私の下着にかかるのが感じられた。
 そう――私はもう男ではない。か弱い少女だ。男に歯向かっても無駄なのだ。
 私は抵抗するのを諦め、彼に身を任すことにした。命さえ助かるなら、それでいい。素直にしていれば、そんなにひどいことはされないだろう。それに、これが他の男であることを考えれば、それよりは何倍もましのように思える。そう自分に言い聞かせて。
「くそっ! やっぱり……!」
「……?」
 なぜか“加村恵一”の手は止まっていた。
 口をふさいでいたほうの手も外され、私は大きく息をつく。
 だが、なにがあったのだろう? 私のほうが観念して力を緩めたというのに、彼は私の体を奪おうとはせず、じっと――そう、私の肌の一点を見つめるばかりだった。

「ふん。これが証拠だ。言い逃れはできないだろう」
「……しょ、証拠って、いったい……」
 スカートをめくり上げられたままで恥ずかしかったが、私はナイフに気圧され、おびえながら彼が指差すところに視線を移す。
 それは私の腰、ちょうどショーツを履くと布地に隠れる位置にあった。
 少し歪んだ菱形に、四つのホクロが並んでいる。たしかにこれは、風呂に入る時に見つけてから時々気に止めてはいたのだが――このホクロがどうしたというのだろうか。
「まだわからないか? じゃあ、これはどうだ」
 そう言って“恵一”は、シャツのボタンを外す。
「……え!?」
「やっとわかったか」
 彼の前の学校のものだろうか、珍しい制服だと思っていた。襟の高い夏服のシャツ。
 だが、その襟の下から現れたのは――首の周りをぐるりと巡る、縫い傷だった。
 そう。私と同じ傷痕。
「南条彩香! 僕は……あたしは、あんたの体の本当の持ち主、加村里穂よ!!」
 世界が、大きく傾いた。そんな気がした。



 私は、ショックの余り気を失いかけていた。そう。初めて自分が女になっていると知らされた、あの時と同じように。いったい何を信じればいいのか。
 そんな私を見ながら、加村里穂は――私の実の姉は、言葉を続ける。
「ふん。あんたがどれだけ知ってるのか知らないけど、教えてやろうか。あんたの父親があたしに……あたしたち姉弟に、いったいどんなひどいことをしたのかを。

 あたしと弟と両親、四人で旅行中に自動車事故に遭った。それはあたしの父の過失で、自損事故だったんだけどね。気を失って、気がついたら、弟の恵一の姿がなかった。両親は軽傷で済んだんだけど、ベッドの上の私を心配そうに見てた。
 弟は死んだって言われて、泣いたけど……ひどいのはそれからだった。あたしの体が、あたしのものじゃなかったんだから。弟の体に、頭をすげ替えられていたのよ。
 ショックだった。マジ、死のうかと思ったわよ。あたし、いきなり男になっちゃって、どうしようかと思った。生きていかれないと思った。医者が……あんたの親父が言うには、こうしなきゃ助からなかったって。あたしの体はボロボロで、一方で弟は、体は無事だったけど脳をひどくやられて……。

 その時はその言葉を信じて、『ああ、恵一は私と一つになって生きてるんだなあ』って思ってさ。死んだら両親も悲しむし、生きてくしかないと覚悟したわけ。
 でも、この大手術は世間に知れると大騒ぎになるからって、隠さなきゃいけないことになった。男になったあたしは、戸籍の問題もあるから、弟の恵一として生きていくことになったんだ。死んだのは姉の里穂ってことで届けが出されて――つまり女のあたしは、その時、弟と一緒に死んだ。

 それから一週間ぐらいで、紹介された東京の大学病院に転院した。リハビリはつらかったけど、でも体が動くようになって、この体にも馴れた。ううん。馴らされたって感じ。いろいろ戸惑うこともあったけどね。
 ただ、そのまま恵一として弟が通っていた中学に戻るわけにもいかないから、べつの中学に転校したんだ。最初の学校で休学した期間が長かったから、一年生からやり直しをするかどうかで母さんも学校に呼ばれて話し合いになったんだけど、あたしはもともと三年だったんだから学力の問題はなかった。ちょっと補習を受けただけですぐに二年に進めて、本来の弟と同じ学年でやっていくことができた。

 でも、あとで変に思うことが出てきてね……今年になって、高校に進んでから、あたしはそれを確かめることにした。それで両親の反対を押し切って、こっちに転校して来たんだ。自分を見つめるために一人暮らしをしたいとか、お墓の近くに住んで弟の供養をしたいだとか、いろいろ言ってね。
 それで、来てみたら案の定だ。あたしの推理は当たってたよ。
 あんた、聞くところによると、昔は病弱だったそうじゃない? でも今は元気、と。あたしの体を奪って自分のものにしたんだからね。

 あの医者は娘に、つまりあんたにあたしの体が必要だったから、首を切って移植したんだ。あたしの頭は面白半分に弟の体に据えられた。きっと、これは推測だけど、弟はそのとき死んでなかった……でも、余ったあいつの頭は捨てられたんだ。ゴミみたいに、ポイってね。
 人殺し。あんたの親父はあたしの弟を殺したんだ。あんたを助けるために。
 人殺しの娘のあんたも人殺しだよ。泥棒! あたしの体を返せっ。返して!!」
 自分の言葉に興奮した姉は、ナイフを手に再び私に迫ってきた。
 そうか。父も、母も、生きていたんだ。そして、ここに姉も――。
「ち、違う。ちがう……んだ」
「なにが違う!? あのとき恵一が生きてたってこと? それとも何がっ? いまさら言い逃れなんてできないよ!」
「違うんだ、姉さん……私は……ぼくは、恵一だよ。南条彩香じゃない……」
 喉を押さえられながら、私はやっとそれだけの言葉を絞り出した。
「け、恵一……?」
 一瞬、姉の顔に戸惑いが浮かぶ。だが、再び熱に浮かされたように叫んだ。
「うそ! 死にたくないなら、もっと上手な嘘をつきな! ばか!!」
「本当……だよ。ぼくを見て……姉さん」
「恵一、なの?」
 力を緩め、姉が私をじっと見つめる。逆に、私も改めて相手の顔を見た。
 だれかに似ていると思いながら、わからなかった。わからないはずだ。姉の優しい顔は、すっかり同年代の少年のように男らしいものになっていたのだから。
 髪は短くし、眉は太くなり、骨格は角張った、力強いものになっていた。男だった私が迎えるはずだった変声期も、彼女が代わりに迎えたようだ。そのためか女言葉での熱弁も、言っては悪いが奇妙なものだった。
 姉は、そう。父に似ている。若い頃の父が、ちょうどこんな感じだったのではなかったかと思えるほどだ。そういえば、古い父の写真を何枚か見た記憶がある。それもあって私は、じつは姉であったこの少年が“誰か”に似ていると思ったのだろう。
「うそ……恵一? ほんとに……そうだ、この傷……」
 彼、いや彼女? は、私の耳の後ろに触れた。髪に隠れているけれど、そこには子供の頃に姉弟で遊んでいて作った傷がある。自分でもほとんど忘れていたのだが。
 自分の体をホクロで確かめたように、姉は私を恵一であると確認し、やっと信じてくれたようだ。
「そんな……いったい、どうして? なんでこんなことに……」
 私は姉に、あの事故からあとのことを要所要所、かいつまんで語った。南条医師にはまったく逆の説明を受けていたこと、また今の今までそれを信じていたこと、南条彩香という少女は別にいること、等々――。
「でも、だって。じゃあ、お父さんが確かめたはずの遺体は――? 最初はあたしの体とあんたの頭だと思ってた。でもあとになって、体のほうはあの医者の娘のものだったとばっかり……」
「南条先生が言ってた……病院ってところは、余分な遺体の一つぐらいは簡単に用立てられるって」
「本物の、恵一なのね? 生きてたのね?」
「ね、姉さんこそ……!」
 私たちは抱き合った。三年ぶりの姉弟の奇妙な再会。私は女になり、姉は男となって、おかしなことに同級生として巡り合うことになるとは。
「へえ……美人になっちゃって。こうして見ると、お母さんにそっくり」
「母さんに? 姉さんだって、父さんの写真に……」
 そのとき、木立がガサガサと鳴った。驚いて、私たちはそちらを見る。
 そこには千景が、驚いた顔で立っていた。

「あ、ああ……お邪魔、しちゃったがいね。もう休み時間も終わるで、このへんかーて探しに来てみたんねよ。ご、ごめんしてな……」
「ま、待って!」
 駆けだす千景を呼び止める。彼女はふり返った。
「だ、大丈夫よさ。志乃やジュンちだったら放課後までに学校中に知れ渡ろうげ、あたしは口が固いもんよ。二人がこと、誰にも言わんがい。絶対!」
 そう言って逃げるように去る千景。追いすがろうとする私の腕を、姉がつかんだ。
「……姉さん?」
「誤解させたままでいい。だいたい、他にどう説明する?」
「……うん……」
 ふたたび男口調に戻った姉は、有無を言わせない気迫を漂わせていた。
「いい友達を持ったじゃないか。さて“南条さん”。僕たちは、あの医者との決着をつけなければいけないね」
 姉は襟元を直しながら、いやに冷たくさえ聞こえる口調でそんなことを言う。
「放課後、君の迎えの車が来るだろう。そのとき僕も一緒に行く。連れていってくれるね?」
「…………」
 私は、頷いた。気は進まないが、他にどうしようもなかった。

 午後の授業には、まったく身が入らない。生きていた姉や両親のことばかり考えていた。
 一昨年の命日に、先に墓参りをしていたのは私の家族だったのだ。彼らは私のほうが死んだものと信じて。昨年、三回忌には、私は朝早くに墓参したので、逆に姉たちを不審がらせたことだろう。
 そう。墓石の脇をちゃんと見れば、祖父たちの名に混じって、姉の加村里穂の名前とその享年が彫られているはずだ。もちろん私はそんなことまでは、この時になるまで思い至らなかったのだが。
 だが。南条医師は、なぜ私たちに嘘をついていたのだろう? 互いに逆の説明をしてまで、どうして首をすげ替えたりしたのだろうか? そんなことをして何の得があるのか。難しい人体実験に成功しても、それを世間に公表して名声を得るわけでもない。どこから報酬が入ってくるわけでもない。むしろ私を養女として育てることで、金銭面では損をしているはずだ。
 わけがわからなかった。いったい彼の目的はなんだろう。ただの趣味で、面白半分にやったとか――まさか。それではまるでSF漫画に出てくるマッドサイエンティストではないか。だが労力に見合うものが他にない以上、そうとでも考えるしかないように思える。
 しかしそれでは、実験台にされた私たちは? あのとき私と姉のどちらも、実際は事故で怪我など負っておらず、どちらも健康だったことになる。そのはずなのに――。
 あまりに残酷で、悲しいではないか。
「南条? 南条! 聞こえないのか」
「は、はい!」
 教師に呼ばれていたのに気づき、私は古典の教科書を開いて立ち上がった。
「……42ページ……」
 千景の小声での助け船によって、なんとか指定されたページを読み上げる。危機一髪だ。
「珍しいな、優等生のお前が。ぼおっとするなよ。次!」
 ふっと息をつき、腰かけながらそっと右斜め後ろをふり返る。
 加村恵一は――姉は、私に無言で小さく目配せした。


〈つづく〉


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