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沈姫 - Shizuhime -
《第三章 千景》

作: 蘭 死郎




「でも考えてみたら、菫さんの制服姿も今から楽しみですわね。きっと素敵でしょうねえ。早くその日にならないかしら」
「そんな。彩香さんったら……」
 プールで泳ぎながら、私たちはそんなふうに語り合った。
 目の前に湖があるとはいっても、静木湖は湖岸から急に深くなっているうえに透明度が低い。おまけに例の禍々しい伝説があるとなれば、地元の人間は好き好んで水に入ろうと思ったりはしないのだ。せいぜいたまに訪れる旅行者が、岸近くで遊ぶ程度である。
 もと別荘だけあり、南条の館にはプールも付属している。と言っても学校のプールの半分程度の小さなものだが。私たちはそこで体育の授業と称して、水遊びを楽しんだ。
 レオタードの時と同様、水着も彩香が用意してくれた。彩香がとりたてて特徴のないワンピースであるのに、私のほうはカラフルなビキニだった。
 もうわかっている。彩香は私に女性らしいものを着せて、その恥じらう様子まで含めて楽しんでいる。彼女自身の衣装は、それに付き合うため以上に必要なものではないのだ。
 じつは私のほうも、そうしたことが最初の頃ほどには苦痛ではない。もちろん恥ずかしいが、嫌ではなくなっていた。彩香に見られることに、むしろ快感さえ感じ始めている。
 でも、それは口にしない。これもゲームだった。彼女が決めて、私が従う。そんな暗黙のルールを持つ、二人だけのゲーム。
 水の中で彩香がキスをしてきた。それも今までにない濃厚なものだ。夏は、誰しもを大胆にさせるらしい。
 私たちは目をつぶり抱き合ったまま、しばらく水に浮いて漂っていた――。

 秋になった。山一面の紅葉は、あの事故の日のことを思い出させて、私は好きにはなれなかった。
 そういえば、あれからもう一年になる。早いものだ。
 両親と姉の遺体――正確には姉の頭部と私の体と、もう一人の名前も知らない人の遺体――は、まとめて火葬され、村に一つある寺に無縁仏として預けられたと聞いている。
「お参りしたいんですけど、そのお寺って、どこにあるんですか?」
 私が問うと、なぜか南条医師は一瞬、ちょっと困った顔をしたように見えた。
「ああ、いや――君から話を聞いて、ちゃんとお墓があることがわかったからね。ご家族のお骨は、住職にお願いしてそっちのほうに納めていただいたよ」
「えっ。そうだったんですか」
「うん。竹沢湖のほうか。ちゃんと加村家のお墓があった。もっとも、彼らに親類縁者は残っていないことになっていたから、君が行くのもおかしいと思ってね。勝手に事を進めさせてもらった」
「そう、ですか……でも、お参りぐらいはして来てもいいですよね?」
「もちろん。車を出させよう」
 霧島さんの運転で、私は花と線香を持ってお墓に向かった。
「あれ……?」
 遠くから見て、ちょっと変に思った。もう花が供えてある。線香の灰も残っていた。
 誰がお参りしてくれたのだろうか。
 しかしその時期は彼岸少し前だったし、もと竹沢村に住んでいて、この墓所を守ってくれている人かな、とも思った。あるいは粤神村のほうのお寺のご住職か――。
 なんにせよ、私は線香を上げて水と花を供え、家族の冥福を祈り拝んだ。でも綺麗にはなっていたし、掃除をすることには思い至らなかった。そのため特に墓石の細部にまで目を止めることもなく、その日は帰ったのである。
「おめでとうございます!」
「わっ!? な、なんですか」
 帰宅すると、玄関で待ち構えていた彩香にいきなりクラッカーを鳴らされた。
「なにって、菫さんのお誕生日ですのよ」
「誕生日? でも、私の誕生日は……」
「だって、新しく生まれ変わった日ではありませんか」
「あ」
 そういうことか。彼女には、いつも驚かされる。
「サプライズ・パーティーですわ。お父様と霧島さんと三人で、こっそり用意いたしましたのよ。さあどうぞ」
「霧島さんも?」
 ふり帰ると、当の彼女は例の仏頂面のまま、私に小さく頭を下げた。
 彩香に手を引かれて中に入ると、大きなケーキが待っている。それに鳥の丸揚げを中心に、豪勢な料理。とても三人では食べきれないだろう。
「霧島さんもどうぞ。今日は特別ですから」
「恐れ入ります。それでは、遠慮なく」
 南条医師に勧められて、普段は同席しない家政婦も加わり、パーティーが始まった。
 そう。私が亡くなった家族のことを考えて気分が沈むたびに、必ず彩香はいろいろな方法を使って慰めてくれる。これも例外ではなかった。
 その気持ちが嬉しくて、私はまた泣いた。
 もともと強いほうではなかったが、女になってからは余計、涙もろくなったような気がする。

 季節は巡り、時はあっという間に過ぎていった。
 私の時間は、やはり彩香と二人の時が多くを占めた。勉強に、運動に、日常の細々したことに。たまに一人のときは、少しずつ彩香の勧めてくれる文学作品も読むようになった。その内容について、また思うところを語り合った。
 料理や洗濯、裁縫のような家事は、私から霧島さんにお願いして、忙しい彼女の空いている時間に教えてもらった。そうなると彩香も、私に付き合って同じことをした。もっとも彼女は、将来は婿を取ってこの家を継ぐのだろうと思う。そうなればやはり家政婦に任せきりで、家事をこなす必要もないはずだとは思うけれど。しかし彼女にとっては散髪と同じく、気分転換の一つなのだろう。
 私と彩香の“ちょっと危険な友情”も相変わらず続いていた。とは言ってもそのときの私は、危ないともなんとも思っていなかったのだけれど。女の親友同士というのはこういうものだと、本気で信じていたのだから。

 その“蜜月”も終わりが近付いた。さらに一年が過ぎて、高校入学の準備が始まったのだ。
 入試は実力で難なく合格した。これも彩香が熱心に教えてくれたせいだろう。もっとレベルの高い私立高校も充分に合格できると思ったが、それは彩香が許してくれなかった。この家から通える学校というのが、彼女が名前を貸してくれることの交換条件なのだ。その条件に合うのは、県立の銀山高校以外にない。
 制服が届いた。今はブレザーの学校が多くなりつつあるようだが、銀山高は地方の学校らしく、ちょっと古めかしいくらいのデザインの紺色セーラー服である。
 入学パンフレットには男子の制服の写真もあり、こちらは詰襟だった。もしもまだ自分が男として生きていたなら、こっちを着ていたのかも――という、おかしな感慨に浸っていると、横から彩香が言った。
「ねえ、早く着てみてくださいな。わたくし、菫さんの制服姿、とっても楽しみにしていましたのよ」
 そう言われて、私は頬を染めた。また彼女のゲームが始まったのだ。若干の戸惑いを示しつつゆっくりと着替えるのを、彼女はわくわくとした表情で見つめている。
 姿見に映ったのは、初々しいセーラー服姿でほのかに頬を染める少女だった。その髪は今や背中まで伸びて、ちょうど彩香が、留めている髪を下ろしたときと同じほどになっている。
 でも背丈はもう私のほうが高くなった。いまはちょうど目の高さに、彩香の頭のてっぺんが見える。そんな彼女は少し背伸びをするようにして、目を細めながらブラシで髪を梳いてくれた。
 そんな、もう儀式化したと言ってもいい二人のやり取りが終わり、上着を脱ぐ。
 と、裾の内側に『南条彩香』と縫い取られたネームが目に止まった。
 そう。私は菫でも、もちろん加村恵一でもなく、彩香として高校に通うのだ。
 もし誰かに呼ばれても、ちゃんと返事ができるよう練習をしておかなくては。改めて、妙なことになってしまったと思った。

 いよいよ明日が入学式という日の夜。私は新しい生活への不安で、なかなか寝つかれずにいた。
 と、寝室のドアを小さくノックする音がする。
「……? はい。誰?」
 キイ、と小さく軋る音がして扉が開く。枕元のライトを点けると、入口にはネグリジェ姿の彩香が枕を抱えて立っていた。その表情は暗く、どこか思い詰めたようにさえ見える。
 何と声をかけていいのかわからず黙っていると、彼女のほうが口を開いた。
「……菫さん。また、ご一緒してよろしいですか?」
「あ……ええ。もちろん、どうぞ」
 私はブランケットの端をめくって招く。彩香はまるで叱られた小さな子供のようにしおらしい様子で、部屋を横切ると私の横に潜り込んできた。
 前にも話したと思うが、私たちは時々こうして一緒に眠ることがある。それも親友としての儀式の一つだったし、なにより、すぐそばに彼女がいると思うと安心する――もっとも、最初のうちの私はどぎまぎして眠るどころではなかったけれど。でも、それもいつの間にかすっかり馴れていた。
「………………」
 二人して同じベッドで、暗い部屋の天井を見つめる。そこを照らしているのはカーテンの隙間から洩れてくる星明かりだけだ。
 いつもなら何か話しかけてくる彩香が、この時ばかりは妙に静かだ。といって寝ているわけでもなさそうで、寝息の代わりに時折、小さな溜め息が聞こえる。私のほうからなにか話そうかと、何度か思ってはみたものの、さきほどの彼女の様子を考えると言葉が出てこない。
「……?」
 なにか、覆いかぶさってきたように思った途端、いきなりキスをされた。
 長いキスだった。それが終わるより前に、細い指が不器用に私の胸をまさぐってきた。
「……ぷふうっ。あ、彩香さん?」
 ようやっと口が自由になり、私は息を吐いて相手を呼ぶ。だが、彼女は応えない。なんだか様子がおかしかった。
 私の胸を這う手は止まらず、そこから伝わってくる感触で、おかしな気分になってきた。鼓動が早くなる。
 左の耳たぶを小さく噛まれ、次いでざらついた、ねっとり濡れた感触が首筋を下ってゆく。これは、舌――?
 驚いてそちらに気を取られているうちに、いつの間にか彩香の左の手が、私のパジャマのズボンの中に侵入してきていた。それに気付いたのは、彼女の指が臍の下をずっと這い降りて、ショーツのゴムを引っ張った時だった。
「ひっ。あ、あの。彩香さんったら」
 さすがに声を上げてしまう。これは普通ではない。そうする間にも彼女の行為は止まらず、その指先が、私の――そう、女性として最も敏感な部分に触れた。頭まで突き抜けるように電流が走った気がした。
「やめて! 彩香さん!!」
 私は叫んでいた。
 彩香はびくりとして、手を引っ込める。
 そのときどうやったか憶えていないが、私がライトを点けたらしい。
 そこに、驚いた顔の彩香がいた。
 私のほうはと言えば、体の前をかばうようにして手脚を縮め、座り込んでいる。そのまま横目に、彼女を睨んでいた。
 涙を浮かべていたかも知れない。なにしろそのときのことはショックだったので、残っている記憶は断片的だ。
「あ、あら……わたくしったら」
 言い訳するように、戸惑ったように彩香は言った。
「ごめんなさい、菫さん。わたくし、なんてはしたない真似を? あなたが……なんだか、遠くへ行ってしまうような気がして、わたくし怖くって……そうしたら、おかしな感じになってしまったの。それで、その……ああ、本当にごめんなさい」
 本気で侘びているようだ。髪留めを外して垂らした長い髪が、ビロードのような輝きで拡がって、彼女の表情を覆っている。
 しばらく互いに無言だったが、私はようやく気を取り直し、ベッドにぺたりと座ったままのその膝に載せられている彩香の手に触れた。
 柔らかな手の甲は、幾つかの温かい雫で濡れていた。彼女は顔を上げて、まだ潤んでいる瞳で私を見る。
「私のほうこそ、声を上げたりしてごめんなさい……でも、あんまり驚かさないで」
「……ええ。申し訳ありません。許してくださいますのね?」
「淋しかった、んですよね」
「…………」
 再び二人で横になったが、まだ今しがたの“事件”のこともあって、私たちの間には少し距離があるように思えた。
「きっと、高校で、菫さんにも好きな男のかたができておしまいになるのね」
 独り言のように、小声で彩香が言う。
 だがこの夜更け、それを遮る物音はない。すべてはっきり聞こえていた。
 好きな男性――そのときの私には考えられなかった。
 いや。考えてみたことがないわけではない。女として生きてゆく将来を思えば、恋愛、それに結婚ということは当然、あってしかるべきだろう。
 だが、具体的に自分が男性と付き合って、共に時間を過ごすということになると――。
 身も心もかなり女性らしくなってきたとは言っても、やはり私の芯の部分には男の気持ちが残っているのだろう。それはそうだ。中学一年の多感な時期まで男の子として生きていたのだから。
 はっきり言って、男とそのような関係になるなど、想像しても嫌悪感以外の感情を持てそうになかった。
「いいんですのよ。そうなっても。菫さんが恋するなら、わたくし心から応援しますわ」
 私は何も言わなかったが、彩香の“独り言”は続いていた。
「でもね、もし、わたくしよりも好きな……きたら、決して許し……」
 なにか言いかけて、その声が途切れる、見ると、眠ってしまったようだった。
 私もほどなく眠りに落ちた。

 その明くる日である、県立銀山高等学校の入学式当日の朝。
 目覚めると、彩香はすでに自分のベッドに戻ったらしく姿が見えなかった。私は用意の制服を身に着け、鏡の前で身だしなみを整える。髪はヘアピンとリボンで軽く留めた。
 リボンはあまり似合っていないような気がしたが、長髪の女子生徒は規定の一色のリボンで留めるよう定められているので仕方がない。すべて用意を終えて階下に降りると、ダイニングではすでに二人が席に着いていた。彩香はすまして目をつぶり、南条医師は新聞に目を通している。
「おはよう、ございます……」
「遅くってよ、菫さん。入学式早々、遅刻するおつもり?」
 彩香が言った。普段の声だが、なんだか怒っているようにも聞こえる。
「ごめんなさい。あの、ゆうべのこと……」
「ゆうべ? なにかありましたかしら?」
「あ、いえ。なんでもありません」
 あれはなかったことにしよう、というのだろうか。それなら、それでいい。私は席に着いた。三人揃ったところで、いつもの通りの感謝の祈り。そして朝食となった。
 すべて支度を終えて玄関を出ようとした時、彩香がはじめていつもの笑顔を見せて『いってらっしゃい』を言ってくれたので、少しほっとする。
 外に出ると、もう霧島さんが待っていてくれた。車に乗り、彼女の運転で町へ向かう。
「今日は入学式だからいいですけど、これからは一時間早く出ていらしてください」
「はい、すみません……そうします」
 短い言葉で注意されるが、彼女に関してはこれがいつものことで、特に怒っているわけではないのだろう。無口でぶっきらぼうだが、よくしてくれる。
 霧島さんのプライベートなことについてはよく知らない。以前、彩香に聞いたところでは、父親のまた父親の代から南条の家で働いているそうだ。兄弟姉妹はおらず、結婚もしていないという。
 天涯孤独ということでは私と彼女は似ている。もしかすると、子供のいない霧島さんに代わり、将来は私が家政婦として南条の家で働くことになるのかも知れない、と思った。
 そうすれば、彩香も喜ぶように思う――背後に飛び去る景色を横目にそんなことを漠然と考えているうちに、いつしか眠ってしまった。昨夜あまり寝ていないせいだろう。
 車が止まったので目が覚めた。顔を上げると、試験や面接のときに何度か来たことのある校舎が目に入る。少しあわてたが、タイを直して座り直した。霧島さんが外に回ってドアを開けてくれるのを待ち、外に足を踏み出す。
「行ってらっしゃいませ」
 その言葉と同時に、春先の涼しい風が、さあっと頬を撫でていった。

 少々退屈な式は、滞りなく終わった。車の中で少し寝たのが幸いして、眠気をこらえてつらい思いをすることもなく済んだ。これからは早寝しなければいけないと思う。
 クラス分けと担任が発表され、他の生徒たちに混じって教室へと移動する。
 車から降りた時は、周囲の制服姿の皆に注目されて困惑したが、べつにそれは私の特異な生い立ちに気付いて、というわけではなかった。考えてみれば、この辺では珍しいだろう大型外車で送られてきたのだ。そして霧島さんの大仰なお辞儀――じろじろ見られるのも不思議ではない。しかしこうして皆に混じっていれば、特別な視線は感じなかった。
 私は、ちゃんと普通の女子高生をしている。それが嬉しいような可笑しいような……口元に手を当て、一人で小さく笑ってしまった。
「なにが可笑しいんだない?」
「えっ!?」
 声をかけられ、どきりとする。ふり返ると、同じ制服に身を包む少女がいた。
「そんな、びっくりせんでいいがい。クラスメイトよさ」
 そう言って彼女は笑った。丸くて大きな眼鏡の、その奥のくりくりした目が細められる。
 彼女が喋っているのは宮岡弁――というのか、この地方の方言だ。昨今はテレビやラジオの影響で共通語が幅を利かせているが、家族や仲間うちでの日常語には未だに方言が根づいている。彩香と二人で町まで買物に来た時――といっても二年半のうち、かれこれ三度くらいしかないが――に耳にしており、気をつければ意味ぐらいは聞き取れる。もっとも、まったく共通語と接点のなさそうな地元のご老人の言葉にはお手上げだったが。
「あたし、森千景もりちかげいうねよ。川向こうの、仙形ひさかたの部落から来とんで。よろしく」
「あ、はい……よろしくお願いします。私は」
「知っとんよ。粤神の、病院のお嬢がいね」
「えっ。なんで、それを?」
 千景と名乗った少女は、からからと笑った。豪快というか、屈託がない。
「なんでって……ベンツで送られてきたっしょがい。運転手付きでえさ。んーなお大尽、あれの病院しか無かしょうもん。ほんとで」
「あ、そ、そっか」
 そんな私を見て、また千景は笑う。
「お嬢がおるて話は聞くげ、まだ誰も見とらんがい。これな別嬪べっぴんさんとは恐れ入ったよさ。あっはっは」
「…………」
 美人だ、と言ってくれているようだけれど本当だろうか? 彩香と比べれば、私などは十人並みに思える。この子が彼女を見たら、いったい何と表現するだろうか。
「ええと、南条さんいうだない?」
「あ、はい。南条彩香、です」
 練習した甲斐があり、間違えずに名乗ることができた。
「ほんとでお嬢よさねー。言葉も違うがい。どれの中学からない?」
「ええと、その。東京のほうだったから……」
 少なくとも中一の秋までは東京にいたのだから、嘘ではない。
「それでだ。都会弁だし、顔もで見なかったはずがい。これな狭い町だにさー」
 彼女なりに納得してくれたようだ。
「じゃ、彩香って呼ぶよさ。あたしは、千景でいいねよ。親はチカ言うげ、好かんもん」
「はい。それじゃ、千景……さん」
「『さん』は要らんげ、まあいいよさ」
 などと話しているうちに、教室に着いた。

 学級担任は男で、水原といった。真面目そうだが刈り上げた髪が野暮ったく、そのへんの農家のお兄さんでもおかしくない感じ――というのは私が言ったのではなく、後ろの席に座った千景が耳打ちしてきたのだけれど。失礼ながら同感である。
 その日はもちろん授業はなく、半日で帰宅となった。霧島さんがきっちりの時間に迎えに来てくれて、車に乗る時もまた少し注目を集めてしまったようだ。
 ともあれ、なんとか女子生徒としてやっていける自信はついた気がする。これも女性としての仕種や言葉遣いなどを厳しく仕込んでくれた彩香のおかげだろう。彼女には感謝しなくては。
「お帰りなさい、菫さん!」
 その彼女は玄関先で待ち構えていて、まるで何年も会っていなかったかのように歓喜の抱擁で出迎えてくれた。
「お待ちしてましたわ。学校、いかがでした? 面白いこと、ありまして?」
「はい。まず彩香さんには、お礼を言っておかなくては――」
 そして彼女に、この半日の間にあった出来事を話す。朝の気まずさが嘘のように、また二人の時間が始まり、続いた。
 ただしあの少女、森千景のことを口にするのは、私にはなぜかためらわれた。それが何故だか、そのとき自分でも理由がわからなかったのだけれど。

 そうして私の高校生活は始まった。
 懸念された起床時間もクリアし、そのぶん就寝時間は早まったけれど、それ以外はなにも問題はない。
 授業のほうも、家での彩香によるレッスンがあったおかげで、充分に付いてゆくことができた。最初の中間試験では上位に入った。
 体育については、もう遥か以前の、男だった頃の私では考えられないほどの手応えを得た。これは、この体をくれた姉のおかげと言っていいだろう。もちろん南条の家での“体育”と称した運動の数々も、身体能力を保つのに有用だったと思う。
 彩香との二人の時間は減ってしまったが、そのぶん余計に濃密になった気がする。私の帰りを待つ彩香は、主人と散歩に出るのを心待ちにする仔犬のようである。そんな様子が、以前にも増していとおしく感じられた。
 ただ、一つだけ気になることがある。
 学校では森千景と親しくなり、よく話をした。だが他の級友たちは、多少言葉を交わすことはあっても、どこかよそよそしい感じがする。
 私のほうから声をかけたほうが良いのだろうか、とも思うけれど、やはりつい尻込みしてしまうのだ。この引っ込み思案の性格は昔から変わっていない。
 そんな日々が、淡々と過ぎていった。

「なんです、それは!」
 その日、いきなり怒鳴られた。国語の授業中のことだ。
 いつもの教科担任と違って、その日は二年生担当の岡部という女教師が代行で来ていたのだ。その岡部先生に、頭ごなしに叱りつけられたのである。
「南条さん、ですね? 校則はご存知ですか」
「――ええ、はい」
 椅子から立たされ、私は答える。教室の他の生徒たちは静まり返り、様子を見守っていた。
「それなら、これはなんです? 流行っているのかも知れませんが、こういうチャラチャラしたアクセサリーの類は、いっさい禁止だったはずです!」
 彼女が言っているのは、私が首に巻いたバンダナのことだと気付いた。
 そんなに派手なものではないのだが――たしかに、目立っていたかも知れない。
「聞いているんですか? わかったら、外しなさい。没収します!」
 言われて、私は渋々ながらそれに従った。
 結び目を外すと、クラスの中に小さなどよめきが起こる。
 バンダナの下に、私は白い包帯を巻いていた。
「……それは? 説明なさい」
「私、小さい頃に怪我をして……ここに、大きな傷があるんです。それが恥ずかしくて。でも、包帯のままだと、みんな気にすると思うから……いちおう、校長先生には事前に許可をいただいています」
「…………」
 彼女は、なにか言いたげにしばし手を動かし、口を金魚のようにパクパクさせていたが、結局言葉は出てこなかった。
 私が言ったのも全部が嘘というわけではないが、やはり後ろめたいところがあり、少し口ごもってしまった。それが、皆には悲しげな様子に見えたかも知れない――とは、後になって思ったことなのだが。
「……謝れよ」
 静寂の中から、男子の誰かが言った。それに呼応するように、
「そうだそうだ」
「南条さん、可哀想がい。事情も聞かんで」
「先生、謝ってください!」
「彼女に謝るよさ!!」
 次々に声が上がり、『謝れ』の大合唱になってしまった。これには私が驚いた。
 岡部先生はうらめしげに私を睨んだまま半ば困惑した様子だったが、やがて苦しそうな表情を浮かべて、こちらに向かって深々と頭を下げる。
「……ごめんなさい」
 彼女はなんだかつらそうで、私のほうが申し訳なくなってきてしまった。
 教師というのは、なかなか生徒には頭を下げられないものだ。たとえ『皆に非難されてとうとう観念した』という形ではあっても、ちゃんと自分の非を認めることができるということは、根はいい人なのかも知れない。
 そんな私の内心の思いとは無関係に、教室じゅうに拍手と歓声が響いた。いたたまれなくなった先生が、チャイムの音に救われたとばかりに廊下に走り出してゆくと、さらに歓声が大きくなる。私は、集まってきたクラスメイトたちに囲まれた。
「南条さん、つらかったない?」
「でも、すっとした。あの岡部女史をへこませるとは、なかなかやるよさ」
「南条さんて、もっと怖い人かと思ってた」
「近寄り難かったがいねー。無口だし」
「ほんとで」
「そ、そう?」
「あたしな、最初は不良っぽかと思ってたねよ。見た目、派手だし」
 皆の私に対する評価を、はじめて直接聞いた。そんなふうに思われていたとは。
 たしかに、私は他の女子よりも上背がある。それはたぶん、二つ年上の姉の体をもらったせいもあるだろう。背の順で並べば後ろから三番目ぐらい。怖い、というのは身長差による威圧感からか。
 また『派手』というのは、やはりこのバンダナが原因なのだろう。色そのものより、着けていることが。
「南条って、大金持のお嬢だってない?」
「そーそー。自家用の送り迎え付きだし」
「あ、あれは、家が遠いから……寮には入るなって、その、父が」
「えらいで(凄い)。俺、カレシに立候補するよさ、どうでない?」
「んな、またマサシは! 丸ごと財産目当てじゃんね!」
 爆笑が巻き起こった。その輪の中心に、私がいる。
 こんなことになるとは思いもしなかった。悪い気分ではないが、それよりも照れ臭さと戸惑いが先に立った。
 これを機に、私の評価は『近寄りがたい、ちょっと怖そうなお嬢様』から『内気だけれど真直ぐな性格の娘』に百八十度変わったようだ。
「彩香、よかったがい! あたし以外にも友達できて。あたしも、ちいと憂慮してたねよ。あんたがこと」
 千景もそんなふうに言ってくれた。そう言う彼女自身もまた、私と仲良くしていたために他の皆に遠巻きにされていたようだ。もっとも彼女のほうは、たまたま同じ中学の友達がクラスにいなかったせいもあったのだが――そんな障害も、いまは取り払われた。
 ついでながら、首の傷痕についてもうやむやにできた。念のため下に巻いていた包帯も、もう外していいだろう。こんな事件も二度はあるまいと思う。

「はー……彩香はいいよさ。成績優秀スポーツ万能、おまけで別嬪、家はお大尽だってない? 友達のあたしも鼻が高いがいね、ほんとで」
 月日は流れた。一学期の期末試験の結果を手に、千景がうんざりした様子で溜め息混じりに言う。
「そんな。千景さんも良かったじゃないですか」
「ダメがい。彩香より良かったの保体ばっかだにさ、詮なかしょうもん」
 彼女は机に突っ伏し、答案用紙を頭の上で『お手上げ』という風にひらひらさせた。しばらくそうしていたが、何を思ったか突然がばりと起き上がる。私が教科書やノートの類を詰め終えて、鞄を閉じようとしていた時だ。
「彩香、夏休みはどうするない? あたしと遊びい行かん?」
「えっ」
 とっさのことで言葉が返せなかった。その沈黙を、千景は誤解する。
「ああ、ダメなら良いねよ。そうで……彩香はお嬢がい。親が許さんね、きっと」
「…………」
「クラブも入らんで、毎日車でお迎えよさ。ふー。せめて一緒に息抜きでもと思うげ、誘っても全然で良しと言わんがいね。つれないよさ」
「あの、それは――」
 彩香との約束があるから、とは言えない。表向き、『彩香』は私自身なのだ。
「あ、そうで。なら、いっそ、あたしが遊びに行くよさ。どうでない?」
「ええっ!?」
「湖まで行くバスは無いげ、自転車で行けんこともないねよ。ああ、英美に折りたたみ自転車借りて、それ持って途中の粤神車庫までのバスに乗るがい。決まりで!!」
「こ、困ります!」
 南条の家に彼女を招くわけにはいかない。焦って思わず断ってしまった。
 だが千景はそれを聞き、見る見る顔を曇らせる。しまった、と思った。
「……そっか。一番の友達と思ってたげ、あたしの勘違いだったがい」
「そ、そんな」
「だいたい、そうでない。いつまで敬語でよそよそしく話すがい。あたしも大概で気づくべきよさね……」
 どうしよう。事情をすべて話すわけにはいかない。しかし南条医師や彩香と申し合わせて彼女を家に招待しても、また嘘に嘘を重ねることになる。それは気が重かった。
 でも、やはり千景との友情は壊したくない。私も彼女のことを大切な友達だと思っていることだけは伝えなくては。それには、どうしたら――。
 と。私に一つの考えが浮かぶ。この時たまたま、放課後の教室には私たち二人だけしか残っていなかった。話し込んでいる間にクラスの他の仲間は、それぞれに帰るなり部活に向かうなりしたようだ。
 窓の外にも人影はない。誰も見ていないのなら、チャンスは今だろう。
 沈んだ様子の千景に、私はそっと近付いた。
「ん? 彩香、どうし……んむっ!?」
 親友の彩香にいつもするように、私は彼女の唇に自らのそれを重ねる――。

「……ぶはっ! な、な、なにするないっ!? 唐突でっ!!」
 千景は私を跳ねのけ、突き飛ばすようにして叫んだ。半分ずり落ちた眼鏡の奥で、まん丸に見開いた目。その顔が、見る見る真っ赤に染まってゆく。さらに見ていると、そのままくるりと後ろを向いてしまった。
「千景さん……?」
 呼べど返事がない。なにか、震えているようだ。
 私の気持ちは伝わらなかったのだろうか?
「あ、あの……彩香って、レズなん?」
「え……ええっ!?」
 私は驚いた。そんなことを言われるとは微塵も思っていなかったからだ。
「やっぱでそれな……で、でも、いきなりは困るねよ。あの。なんてで言ったらいいか、その……されて、嫌じゃなかったげ、でも。彩香とは、と、友達でいたいって言うか……そういうん、やっぱで良くないと思うし。
 べ、べつにレズが悪いとは言っとらんよさ。彩香の生きかたがいね、あたしも否定せんで。ただ、あたしは、やっぱでどっちか言うとさ、男の衆のほうが……」
 そういうふうに受け取られてしまったと知り、私もあわて、赤面する。
「ち、違うんです! 私、千景さんのこと、大切な友達だと思うからっ!!」
「んでその……友達?」
 視線を逸らせて長広舌を振るっていた彼女は、やっと私のほうを向いてくれた。
「ただの友達が、あ、あんなことするない? しかも、舌まで……あ、う」
 思い出してなのか、ひとり口元を押さえて身悶える千景。この時になってようやく、私はなにかがおかしいことに気づいた。
「し、しません? 私、本当に仲の良い親友同士は、二人だけの時にこうするって言われて……」
「誰にっ!? 誰にそれなバカなこと吹き込まれたない!? 埒もないが!」
「だ、誰って……そ、それは」
 言いかねて、口ごもる私。
 そうか――やっと私は、ずっと長いこと騙されていたことに気づいたのだった。
 そうなると、自分はなにをしていたのか。改めて恥ずかしさが込み上げてくる。熱くなる顔を両手で覆った。
「ははあ……そういうことがいね」
 一方で、やっと落ち着いた様子の千景は、彼女なりの結論に達していた。
「彩香、純情だにさ、だまくらかされたない? 『親友』言われて、唇奪われただろうもん。図星ない? え? 相手はいったい、どれな男ねや」
 彼女はにやにやと笑いながら、行き場もないほど汗顔する私の背中を、容赦なく平手で叩いた。思わずつんのめりそうになる。
「あっはっは。まあ、言わんでいいげ。ああ、たまげたー。ほんとで彩香がレズだったら、どうしよ思うたもん。だに、あたしのファーストキス奪ったからには、責任とってもらわんといかんげね」
「……責任って、ど、どうすれば」
「いちいち真に受けん! 冗談がい。ははは!」
 それから彼女は『これからも友達でいよう』という意味のことを言って、手を振って出ていった。ひとり教室に残った私はぐったりと脱力し、それから気を取り直して帰路に就く。それでもまだ、家に戻るまでは半ば放心したような状態だったように思う。


〈つづく〉


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