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沈姫 - Shizuhime -
《第二章 彩香》

作: 蘭 死郎




 細菌感染についての心配がほとんどなくなったとは言うものの、私のそれからの回復は非常に遅々としたものだった。
 それでまず直面した問題が、排泄のことである。
 さすがにいつまでも彩香に下の世話をしてもらうのは、恥ずかしかったし申し訳なかった。そこで、多少なりとも車椅子を操れるようになってからは、自分でトイレの用を済ませることにしたのだ。
 トイレまでは彩香に押してもらうとして、個室に入ってからが一苦労だった。
 車椅子から、洋式便器に腰かけ直す。それはいい。何度も練習してできるようになった。
 しかし……やはりまだ、女の体に馴れていないのだろう。用を足してから拭くたびに動悸がし、赤面するような有様だ。もちろん自分の体を正視などできずにいる。それは気恥ずかしさと同時に、なんだか死んだ姉に申し訳ないような気持ちもあったからなのだが。
 これも少しずつ馴れていこう。羞恥の溜め息をつきつつ、そう思った。

「菫さん。御髪おぐし、伸びましたわね。少し手を入れましょうか」
 彩香が『おぐし』などと言うので意味が分からなかったが、聞いてみれば髪の毛のことらしい。
「彩香さんが、やってくださるの?」
 なんとか女らしい言葉もあまり戸惑わずに出るようになった、が。
「『やる』なんて乱暴ですわよ。『する』とおっしゃいなさいな。『してくださる』」
 と返ってきた。なかなか難しいものだ。
「ええ。わたくしやお父様の髪は霧島さんが整えてくださるのですが、霧島さんはご自身ではなさることができませんから、わたくしがしてさしあげますの。もちろんあのかたは、町へ買出しに出掛けられるときに美容院にいらっしゃることもできるのですが、わたくしのほうが無理にお願いしていますのよ。気分転換にもちょうどよろしいですし」
 そう言うなり、彼女は嬉々として散髪道具を持ち出してきた。私を車椅子ごと鏡台の前に連れてゆく。
「綺麗にして差し上げますわよ。じっとしてらして」
 彩香は器用だった。プロのような手さばきで見事に鋏を使い、私の髪を揃えてゆく。天は二物を与えずとは言うが、彼女には才能がありすぎるように思える。神様も不公平だ。
 そうするうちに、どうしても鏡に映った自分の首筋に目がいってしまう。
 包帯が取れたばかりの私の首には、醜い縫い痕がぐるりと残っていた。もう少ししたら抜糸し、そのうちに目立たなくなると南条医師は言うが、どうだろう。それには時間がかかりそうだ。まだ私は男でいる感覚なので実感できないが、これから女として生きていくには不利な要素かも知れない――冷静に、そんなことを考えてみる。やはりまだ私には他人事ひとごとのようだ。
 そういえば。いつの間にか彩香は、私との会話の中では南条医師のことを『父』ではなく『お父様』と呼ぶようになった。それは彼女自身の父親への呼びかけと同じである。つまり私を身内と認めてくれるようになったのだろう。
 彼女の言葉は丁寧なだけに、最初はよそよそしいような気もしていたが、馴れるとそうでもない。今では心地好くさえ思える。
 そもそも彩香にはこれが普通で、世間の人間のほうがよほど卑しい喋り方をしていると感じられるのだろう。そのことは共感まではできないものの、私にも少しずつわかってきた。
「できましたわ。どうでしょうかしら?」
 とりとめのないことを考えていた私は、その声で現実に引き戻された。
 え? と思った。鏡の中に、見知らぬ女の子がいる。
 それが私自身であることに気付くのに、たっぷり五秒は要したろう。
「……ううん。へえ……」
「気に入らないところがありましたら、遠慮なくおっしゃってくださいませね」
 うなるしかなかった。髪型を変えただけで、こんなに印象が変わるとは。
 たしかに女の子にしてはちょっと短めのヘアスタイルだが、これなら誰が見ても私が“もと男”だったなどとは思わないだろう。
 そういえば、元々私は男っぽい顔ではなかったとはいえ、気のせいか顔立ちも若干丸く、より女らしくなったように感じられる。この時は髪型を変えたための錯覚だと思ったのだが。
 なんだか少し、以前見た母が若かった頃の写真に似ているようでもある。でも、やはり姉とは似ていない。どちらかと言えば姉は父のほうに似たのだろう。
「……お気に召しませんでした?」
 つい家族のことを思い出した私は、表情を暗くしていたらしかった。
「あ。ううん。そうじゃなくって、ちょっと考え事をしちゃって……ありがとう。気に入った、わ」
「どういたしまして。少ししたらまた揃えて差し上げますわね。もっと長くなれば、ますます女らしくなりますわよ……ああ、そうそう」
 彩香は、散髪道具と一緒に携えてきていた、小さなスティックを取り出した。
「えっ。口紅!? い、いいよ。いい……です」
「だいじょうぶ。じっとしてらして」
 エナメルの香りと、ぬめりとした感触。私の唇が薄い朱に染まった。
「ね? よろしいのではないかしら」
 彩香は私に頬を寄せ、並んで鏡に映って見せる。可憐な少女が二人、並んでいた。
 私は懸命に、激しい動悸を彼女に悟られまいとしていた。

 その翌日。
「菫さん。お風呂、入りますでしょ?」
「いい……んですか?」
 入浴は、手術以来で初めてになる。体は何度も彩香に拭いてもらったが、どうしてもそれだけではさっぱりしないと思っていた。
 だけど、まだ自分の体が自由にはならない。もう裸を見られて恥ずかしいという気持ちについては諦めもついたが(もともとが自分の体ではないと思えばどうということはない……と言っては亡くなった姉には悪いけれど)、洗ってもらうとなれば、彼女にはまた迷惑をかけることになるだろう。
「お気になさらずに、どうぞ」
 この南条家の風呂場に入るのも初めてだが、どこかの旅館の温泉のようで、なかなか凝った造りになっていた。十畳間くらいの広さはありそうな岩風呂。湯船はその半分を占めている。
 あとで聞いたところでは、この近くには本当に温泉が湧いていて、お湯はそこから引いているらしかった。
「お待たせしましたわ」
「いっ!?」
 風呂場に連れて来られてから、待っているように言われて、洗い場に座ってぼおっとしていた。少しして戻ってきた彩香は、手にした桶と髪をくるんだタオル以外は、裸だった。
「そ、そそそそそそんなっ。私と一緒に入るなんて、聞いてないっ。聞いてません!」
「あら。なにを慌ててらっしゃるの? 女同士だし、それになにより姉妹ではありませんか」
 そう笑いながら言うと、彼女は私の胴衣を一気に脱がせてしまった。
「きゃ……っ」
「まあ。隠すことありませんのに。でも、その仕種は女の子らしいですわね。ふふふ」
 このとき、確信した。
 彩香は私の戸惑う様子を、明らかに楽しんでいる。
 体を洗うという名目で、私はいいようにもてあそばれた気がする。いや、もちろん変な意味でではないのだが……しかし彼女が私の敏感な反応を見て喜んでいるのは、ありありとわかった。
 湯上がりでさっぱり。と同時に疲れきってぐったりした私を、更なる試練が襲う。
「こ、これを履くんですか……?」
 無言で大きく頷く彩香。私の手には、女物のパンツ――ショーツと言うのだろうか――があった。脱いだ簡易胴衣の代わりに、脱衣所に畳んで置いてあったのだ。
「これもリハビリと思って履いてごらんなさい。それとも、まだ無理ですかしら。履かせて差し上げましょうか?」
「履くっ。履きます!」
 これ以上彩香にいいようにされるのは、たまらなかった。自分でできることは自分でしよう。私は板の間に尻をついたまま、なんとかその心細いほど小さな下着を引っ張り上げることに成功した。
 身につけてみると、小さすぎるかと思っていたそれは見事に伸びてぴったり体にフィットした。その感慨に浸る間もなく。
「次はこれですわ。採寸しておいた通りなら、このサイズでぴったりだと……」
「採寸、っていつの間に!?」
 もうどうとでもなれ。もはや開き直って、彩香に身を任せる。
 私の胸を、ショーツと同色で淡い水色のブラジャーが覆った。
 その際に彼女が私のバストを……いや。もう、敢えて言うまい。ただ、これもできたら早く自分一人で着けられるようになろう、と決心させるには充分だったと言っておこう。
「これで、仕上げですわね」
 疲れきった私は、もう逆らう気力も失せていた。
 じつは密かに、考えていたのだ。たとえ女として生きていくにしろ、スカートだけは履くまいと。ジーンズで過ごす女性だっている。下着はまあともかく、べつにスカートのような恥ずかしいものを身に着けなくても生きていかれるだろうと。
 甘かった。その決心はあっさり覆されてしまった。
 脱衣所の大鏡の中には、派手なフリルのついた緑のワンピース姿の少女が、もう一人の美少女に支えられて立っていた。ご丁寧に、室内だと言うのにつばの大きなソフト帽までかぶった格好で。
「あはは……はは」
「とっても可愛らしいですわよ、菫さん」
 乾いた笑いを浮かべる私に、彼女はそう言ってのけた。

 おかげで(?)ずいぶんリハビリは進んだ。手脚の震えは収まり、まだ力は入らないとは言ってもかなり自由に動けるようになった。もう少し腕の力がつけば、松葉杖での歩行もできるようになるだろう、と南条医師から告げられた。
「わたくしたちって、まるでアンとダイアナのようですわね」
 例によって私の車椅子を押しながら、彩香がそんなことを言う。彼女に振り回されることが多かった私は、内心の疲れからか会話の内容に集中できない。
「イギリスの王女、だったかしら」
「まあ、菫さんったら。そうではありませんわ。アンとダイアナと言えば、モンゴメリの小説の登場人物以外にないじゃありませんか」
「ああ。『赤毛のアン』……」
 その題名くらいは知っているが、読んだことはなかった。それでダイアナという名に心当たりがなかったのだ。
「二人はとっても仲のいい親友同士なんですのよ。ああ、それともハイジとクララかしら。今のわたくしたちは、そんな感じに見えるかも知れませんわね」
「それなら知ってます。テレビでやってた『アルプスの少女ハイジ』でしょう」
「テレビ? いいえ。元はちゃんとした小説ですわ。わたくし、テレビ漫画など見ませんもの。失礼しちゃう」
 『テレビ漫画』というのは、今でいうアニメのことだ。その頃、やっと『アニメーション』という言い方も出てきた。そういう時代だった。
 そういえば、南条の家にはテレビそのものを見かけない。食事時にラジオが点いていることもあるが、たいていニュースと天気予報が終わると消してしまうようだ。そのことを訊ねてみた。
「テレビなら、医院の待合室にありますわよ。御覧になりたいんですの?」
「いいえ。特にそういうわけでも……」
 東京の家では、気がつくとテレビが点いていた。そういうものだと思っていた。しかし、今こうやってテレビがない生活を体験してみると、これはこれで良いような気がする。好きな番組の時間に合わせて学校から走って帰ってきたのも、思い返せば懐かしいが――あれから一ヶ月も経っていないはずなのに、遠い昔のことのようだ――同時につまらないことをしていたようにも感じられる。
「時間が余って退屈なさるようなら、テレビなど見るより本をお読みなさいな。さもないと、おばかさんになってしまいますわよ……ああ、そうそう。本当なら菫さん、中学校に通っているはずですものね。そのぶんのお勉強も、わたくしが見て差し上げましょう」
「えっ。本当に? 助かるわ。お願いします」
 べつに勉強が大好きというわけでもなかったが、将来のことを考えれば不安にもなる。学歴はともかく、せめて中学校卒業くらいの学力は必要だろう。そう考えてのことだ。
 こうして私はリハビリを続けながら、天才少女の彩香に中学の勉強を教えてもらうことになる。教科書は、全教科とも新たに市販のものを取り寄せて揃えてもらった。
 二人で過ごす時間は、ますます増えた。

 食事時のことにちょっと触れたが、その少し前から病人食ではなくなり、南条医師、彩香との三人で、一緒に食事をとるようになっていた。
 朝、昼、晩の三食とも、ダイニングの大テーブルで食べる。家政婦の霧島さんが給仕をしてくれて、なにかの折にいちいち席を立つ必要がない。霧島さん自身は空いた時間に一人で食事を済ませるそうだ。
 燭台を模した壁のライト。部屋の一隅には暖炉まである。これで召し使いが大勢いたりすれば、本当に漫画で見るような大金持の家だな、と思った。
 それでも食事の内容は意外と質素だ。肉より魚や野菜が主で、洋食のときも和食のときもある。そんなに珍しいものは並ばないが、味つけは完璧だった。東京の家では塩辛かったり薄かったり、焦げていたり生焼けだったりが日常茶飯事――母はあまり、料理が得意でなかったのだ。
 ……もう、やめよう。男だったころの生活と比べるのは。
 家族のことを考えるたびに気持ちが沈み、彩香たちを心配させる。それも心苦しい。
「菫くん。ここでの生活には馴れたかな?」
 南条医師に訊かれた。彼は私のことを『菫くん』と呼び、私は彼を『先生』と呼ぶ。まだ本当の父娘のようには振る舞えないが、今はこれが自然だと思っている。
「はい。皆さんのおかげで、だいぶ」
「それは良かった」
 そう言って笑う、義理の父。
 以前、まだ顔を見ないうち、私は勝手に南条医師を俳優並みの美男かと想像していた。しかしマスクを取った顔は、まあまあ整った顔立ちとは言っても殊更ことさらの美形でもない。どちらかと言えば愛敬のある顔だ。
 彩香は、両親の良いところだけを取って生まれてきたらしかった。
 その彩香の亡くなった母親の写真というのが、この部屋の暖炉の上に飾られている。なるほどの美女だ。少し吊り上がった目尻が、母娘揃っての特徴らしい。
「あの。立ち入ったことを訊くようですけど……」
「そんな。もう家族ではありませんか。なんでもお訊きなさいな」
 私の前置きに、南条医師が答えるより早く彩香が口を挟んだ。
「はい。その……この家って、いつごろ建ったものなんですか?」
「それは、我が家の歴史をお知りになりたいということですわね」
 彩香の話によれば、南条家は戦前までは華族であったという。なんでも先祖が公家の出であるとか。侯爵位を持っていた明治から大正期には事業でも成功し、大変な資産家だったそうだ。この家もその頃の別荘の一つとして建てられたものだとのこと。建設当時、こんな寒村には珍しい大型の洋館で、ここらは大騒ぎになったそうだ。
 しかし多くの華族がそうであったように、南条家も戦後に没落。混乱の中で没収を免れたのが、この山奥の別荘一つだけだったそうだ。
 そのとき家を継ぐべき嫡男は心労から病を得て亡くなったのだが、大戦時の同盟国ドイツに留学し医師になっていた彼の弟が屋敷を相続。住居兼医院に改造してその主に納まった。それが彩香の祖父にあたる人だった、と――。
「私はね、婿養子なんだ。聖子きよこ、つまり彩香の母親に出会ったのは東京の大学病院に勤務していた時さ。南条の家とこの医院を継ぐことを条件に、義父に結婚を認めてもらったよ」
 南条医師は、穏やかな口調でそう付け加えた。

 それでも、不思議に思っていたことがある。
 こんな山奥の村の開業医で、果たして経営が成り立っているのだろうか、と。
 南条家の所有する土地というのはこの屋敷の周囲だけではなく、じつは静木湖の東岸全体と周囲の山裾を含んだ一帯すべてが南条のものらしい。それは粤神村の土地のじつに四分の一にも及ぶ。
 そのほとんどが山林で、隣の農家と言えば当然ながら敷地の外。つまり、村人がここまで来るのにもかなりの距離を歩くか車に乗るかしなければならない。それなら隣村の病院に行くか、いっそ町まで出たほうが良いに違いない。
 だいたい廊下の窓から道のほうを眺めても、人通りさえほとんどない。そのまばらな通行人の中に通院患者がいるとしても、ほんのわずかな数ということになる。
 だが少しして、その疑問を解くきっかけが与えられた。たまたま彩香が側におらず、一人で松葉杖での歩行訓練をしていた時のことである。
 そこは入院病棟だった。廊下に幾つか並ぶ病室の扉のうち一つが開いており、私はその隙間から、見るともなしに中を覗いたのだ。
「……! あれは……」
 男がいた。その横顔には見覚えがあった。しかし、直接会ったことがあるわけではない。
 いつかテレビの映像で、何度か見かけたのだ。なんとかいう政治家だったように思う。政府閣僚の一人。
 そう言えば昨夜のラジオニュースで、その大臣が体調を崩して都内で療養中と聞いたような。しかし、それならばこんな場所にいるわけがないのだが――。
「……わっ!」
 だれかに肩を掴まれ、よろけそうになって思わず声を立ててしまった。
 なんとか踏みとどまってふり向けば……そこには小さな唇に人差し指を当てた彩香が立っている。
「いけませんわね、覗き見なんて。ここでお待ちなさい」
 そう小声で言うと、白衣姿の彼女は、当の入院患者のいる病室へと入っていった。

「この医院は、政界、財界などでも名の知られた方々が密かに利用していらっしゃいますのよ。どのような難病も適切に処置いたしますし、それに必要な薬品・機材も揃っています。もちろん患者のかたの秘密は確実に守りますわ。まさかこんな交通の便の悪いところに、並外れて優れた医療を受けられる施設があろうなどとは、報道取材のかたがたにも思いも寄らないでしょうしね」
 あとで彩香は、あまり病棟のほうに来ないよう私に注意すると同時に、そんなふうに教えてくれた。
 ある程度の地位にある人間にとって、健康不安も周囲に知れると命取りになる。ちょっとした風邪ならともかく、少しでも重い病気となれば人知れず、しかも確実に治さねばならない。そうした需要がここにあるのだという。
 そのあと気をつけていると、医院の車庫には見知らぬ車が停まっていることがあった。その多くは黒塗りの大型外車だが、派手なスポーツカーだったり珍しいクラシックカーだったりしたこともある。そのいずれもが非常に高価そうな代物だ。また、私が見たのは二度か三度だけだが、湖畔に自衛隊のものらしき大型ヘリコプターが着陸したこともある。
 つまりはそのような形で、この医院は存続しているわけである。もちろん南条医師の類い稀な腕前と、名門・南条家としての人脈の両方があってのことなのだろうけれど。

「先生って、まるで『ブラック・ジャック』みたいですね」
 私は車椅子を押す彩香に言った。もうその時には松葉杖でもかなり歩けるようになっていたのだが、その日はちょっと遠出の散歩をしようと二人で決めたのだ。
「ブラック……なんですの? トランプの遊び方でしたかしら」
「ちがいます。手塚治虫って人の漫画に出てくるお医者さま。無免許だけど、とびきりの凄腕なの」
 言ってから、彼女が決して漫画など読まないことを思い出した。黙っている彩香に、こちらが気まずくなって言葉を加える。
「あの……漫画って言っても、手塚先生のは芸術作品なんですよ。そう認める人が多いの。彩香さんも、いちど読んでみたらいいと思うんだけど……」
「……あら、そうですの。菫さんがそうおっしゃるなら、いつか読んでみようかしら」
 口ではそう言うが、まったく気のないことが声からも伝わってくる。私は、やはり言わなければよかったかな、と思った。
 そうして進むうち、初めて見る景色が開けてきた。
「お嬢がた、どっからだない?」
 と、声をかけられる。見ると、畑で農作業をしている女性だった。まあ、平たく言えば典型的な『農家のおばさん』だ。
 方言がきついが、どうやら『どこから来たのか』と訊いているようだ。
 私は自分が他人からどう見えるのか気になったが、特に不審に思われている様子はなかった。この日の服装は長袖のブラウスにカーディガン、そしてフレアスカート。首の傷痕を隠すために、ブラウスは襟の高いものを選んでいる。
「もしかで、病院の娘御だない? あれには一人、お嬢がおるて聞いたがい」
「ええ、そうです。こちらが南条のお嬢様です。お嬢様は病弱でいらして、こうして表に出ることは滅多にないのですが、本日は天気もよろしいので」
 いきなり彩香がそう言うので、私は驚いた。なにを言っているのかと思ったが、前に回った彼女は“おばさん”のほうに見えない側の目をつぶり、私に合図をする。
 そうか。これはゲームなのだ。なるほど、彼女は霧島さんの口調を真似たようだった。つまり、そうなると私も――。
「ああ、やっぱで。そ言や、気品あるお嬢でありなさんで。わしら村ん衆、みな先生様にはえらい世話になっており申す」
「あらあら、滅相もないことですわ。頭をお上げくださいな」
 畑の土に付かんばかりに深々と会釈する彼女に、私は彩香の口調を真似て言葉をかけた。
 彩香に『女らしい言葉』を仕込まれた私だったが、今はほとんど男女差のあまりない敬語に落ちついてしまっている。そのほうが楽だからだ。しかし彼女とはずっと一緒に過ごしているせいで、この程度の物真似くらいは簡単だった。
「それでは失礼いたします。お気をつけて、お仕事に精を出してくださいませね」
「ありがて、ありがて。またいらしてくなやす」
 私を神仏かなにかのように拝む農婦を後ろに見つつ、彩香は静々と車椅子を進める。林の蔭になって彼女が見えなくなってから、二人して噴き出した。
 村の純朴なおばさんをからかうような形になったのは悪かったが、彩香の茶目っけのある企ては成功したようだ。それから私はしばらく『病院の一人娘のお嬢様』になりきり、彩香のほうは従順な使用人を演じて会話し、ときどき思い出したように大笑いしながら散歩を続けた。
 そして内心、少し安堵する。私は全くの他人にも、ちゃんと普通の少女に見えるらしい。

 夕陽が湖の向こうの、山の稜線にかかる。私たちは午後の長い散歩を終え、帰途に就いていた。
「この湖は、いまは静木湖と言いますけれど、その昔は静姫しずひめ湖……『姫』という字を書いたそうですのよ」
「へえ。そうなんですか」
「でも、そのもっと前は『沈姫湖』と言ったそうですわ。沈むお姫さま……幾人もの姫君がこの湖に身を投げたという伝説がありますの」
「……怖い話ですね」
 体に震えが走る。いや、それは風が冷たくなったせいもあるだろう。この山間の地は、昼夜の寒暖差が激しい。そのうえ季節は冬に向かっていた。
「お姫さまの多くの亡骸は、どれも決して浮かんではきませんの。いまも水底に沈んだままなのですわ。伝説では、彼女たちの業の深さから『浮かばれない』のだということになっておりますけれど」
「……違うの?」
「本当のところは、この湖には藻がとても多くて、沈んだものに絡みついて浮かなくしてしまうようですのよ。
 菫さん、これから上手に歩けるようになっても、この湖にだけは近付かないようお気をつけあそばせ」
 なんだか淋しい話の余韻を感じながら、それから先は二人とも無言で家に帰りついた。
 この湖が今でも自殺の名所であると私が知ったのは、それよりもあとのことだ。そして、やはり本当にほとんどの遺体は湖底に沈んだままらしい。伝説の姫君たちに気持ちを重ね合わせ、後を追う自殺者たちを想ってみる。
 このような大きい湖があるのに、国がそれを利用せず山一つ向こうにダム湖を作ったのも、そのへんの事情があったようだ。

 冬になった。
 私はもう松葉杖も不要になり、ほぼ不自由なく歩き回っている。しかし外は大雪で、せっかく回復したというのに移動範囲は屋敷の中ばかりだ。
 その余った時間を利用し、私は彩香に教わって勉学に勤しんだ。学校に行けなかったぶんは充分に取り戻せたと思う。
 じつは初雪が降った日の前日、ちょっとした事件があった。
 私は、初めての生理を迎えたのだ。
 その前から彩香に注意はされていた。だが、それを忘れて油断していた頃に奇襲を受けたのだ。たしかに、朝からなにか憂鬱だとは思っていたのだけれど。
 出血の量はさほどではなかった。が、気持ちのほうが動転した。
 手伝ってもらって適切に処置したあと、私は彩香にすがりついて泣いた。
 本当に、女になってしまったのだと思い知らされた。もう、戻れない。もちろん男に戻れるわけがないことはわかっていたが、どこか心の隅で認めようとしていなかったのだろう。その最後の一握りの執着が、打ち砕かれたようだった。
「あら……泣くなんておかしいわ。あなたにとっては初めてですものね、お祝いしなくては。これは喜ばしいことですのよ」
 そう言って彼女は優しく抱擁し、髪を撫でてくれた。
 本当のところは、事故後に私が意識を失っていた間にも、一回あったらしい。しかし、そのあとは体の衰弱もあり、今まで遅れていたようだ。もちろん、本来のこの体の持ち主である姉は、とっくに――たしか小学四年生の時に初潮を迎えていたはずだ。そのとき夕食に出た赤飯を見て、私は何のお祝いなのか訊ねた記憶がある。母はただ笑っていて、当の姉は怒ったような顔でうつむいていた。
「おや。今日はなにかの記念日だったかな?」
 夕食の席で南条医師は、あのときの私と同じように訊ねる。今度は私が赤面して顔を伏せる番だった。
 彩香が笑って父親に耳打ちすると、彼はちょっとあわてたようにして『おめでとう』と言ってくれた。私は応えて、小さく頭を下げる。

 肩を越えるまで髪が伸びた。
 鏡の中の顔は、この頃から一段と女性らしくなってきていた。
 以前は気のせいかと思っていたが、どうやらそうではないようだ。
 女性ホルモンは主に卵巣から分泌される。私の顔も、ふたたび活性化した女性特有の臓器からの影響を受けているのだろう。それは南条医師に指摘されてわかった。
 これで幾度目だろうか、彩香に髪を整えてもらった。
 姉の髪は腰まであるロングで、ポニーテールにしていた。生来活発でスポーツ好きな姉自身は、鬱陶しいからともっと短くしたがっていたようだが、それは母が許さなかった。そんな二人の妥協点が彼女の髪型だったのだろう。
 私は姉と同じくらいまで伸ばそうかと、漠然と考える。

 そういえば、と思ったこともあり、私は試しに体操のようなことをしてみた。
 まずはストレッチ。前屈すると、難なく掌が床についた。これは驚きだった。
 以前の私は運動が苦手で、体前屈でもせいぜい調子が良い時で指先が床に触れる程度だったからだ。
 ただ、姉が家でやってみせた時は、ぴったりと体が二つ折りになるほど曲がったと思う。やはりこの体も、このところの運動不足でなまってしまったらしかった。
 後屈でも難なくブリッジができた。姉だったら、このまま頭がふくらはぎに付くところだろう。
 見ていた彩香が一人で拍手喝采してくれた。
「これも才能ですわね……その柔らかい体を、放っておいてそのまま硬くしてしまってはもったいなくはありませんこと? せっかくですから、毎日鍛錬するとよろしいですわ」
 そういうわけで次の日から、日々の学習カリキュラムに体育が加えられた。
 初日はパジャマだったが、二日目には早くも専用の“動きやすい服”が用意されていた。
「こ、これ……ですか? ジャージか何かでも充分だったのに……」
「なにごとも形を整えることで、気分も付いて参りますのよ」
 体操用のレオタードである。女性用のどの服もそうだったが、やはり最初は着るのが恥ずかしい。でも、何度か着るうちには抵抗も減ってきた。ちなみに彩香は、しばらく使っていなかったというバレエ用の練習着を引っ張り出してきたのだが、サイズが小さくなっていたため私と一緒に新調したそうだ。でも、なぜか彼女のほうは練習用の地味な白レオタードで、私のものはパステルカラー二色にラメまで入った本格的なものだった。
 初めは彩香がバレエの基本を教えてくれていたのだが、彼女はもともと家に籠りきりで運動が得意ではない。真冬が過ぎる頃には私のほうが上手になり、教えるほうになったような次第。
 面白いように体が動いた。でも男だった頃とは逆に、持久力はない。走ったりすれば、すぐに息が上がってしまう。力は……あまり変わらないようだ。以前はクラスの男子の中でも弱いほうだった。だいたい腕相撲で勝った憶えがない。むしろ今のほうが少しは勝てるかも知れないと思う。
 そういう時間ができたおかげで、雪に閉ざされた真冬の日々も退屈せずに過ごすことができた。もっとも彩香にとっては少し苦痛だったらしく、体操を休みたいとゴネることもあった。いつもの机上の勉強とは立場が逆で、これは内心、ちょっと愉快に感じられたものである。

 南条家はクリスチャンで、クリスマスは飾りつけまでして祝ったのに、お正月は静かなものだった。朝食に形ばかりの雑煮が出て、ラジオのアナウンサーが元日の挨拶をしたために、それとわかった程度である。
 最初は戸惑ったことも少しずつ、あるいは彩香によって無理矢理に、馴らされた。
 風呂も、彩香に一方的にからかわれてばかりではない。お湯をかけて反撃するくらいには余裕もでき、二人じゃれ合うのが楽しみになった。それでもやはり彼女の体も自分自身のも、裸を正視するのはためらわれたけれど。そこで目には入っても、極力意識しないように務めることにしていた。

 そして春になって、積もっていた雪は少しずつ量が減り、日陰の土の上にわずかに残るばかりとなった。
 医院から直下の湖畔の草地には、幾つもの可憐な花が咲いている。
「これですわ。ずっとあなたにお見せしたかったの。菫の花」
 そう。私の名前の元になったのは、この紫の小さな花だったのだ。
 都会育ちの私は、それまでスミレと言えば外来種の三色菫、つまりパンジーのことだとばかり思っていた。だがこうして見ると、その様子は想像したものとはぜんぜん違う。頼りないほど小さいが、それだけにせつないほど健気だ。
 もちろん男だった時の私は、カブトムシやクワガタのような昆虫ならともかく、花になど興味はなかった。しかし、この心境の変化はどうだろう。
 体が女らしさを増すに連れ、心も女性化するのだろうか。私は飽きもせず、草の中にしゃがみこんで、その愛らしい花々に目を楽しませていた。
 ふと、陽射しが翳った気がした。顔を上げようとすると、その目の前に少女の白い顔が近付いてきた。
「ん……っ!? あ、彩香さん!?」
 不意のキスだった。私はあわてて尻餅をついた。
 だが彩香は何事もなかったかのように、小さく微笑んでいる。
「あら。なにを驚いていらっしゃるの? あんまり菫さんが可愛らしいので、つい唇を寄せてしまっただけですわ。美しいもの、可愛いものにキスしたり、頬擦りしたくなるのは普通のことではなくって?」
「で、でも……女同士……」
「ううん。お友達ですもの。当たり前のことですわ」
「えっ。そ……そうなんですか?」
「ええ、本当ですわよ。本当に仲の良い親友同士は、こうして口づけを交わすの。でも、やはり人前ではしませんわね。二人きりの時だけですのよ」
「へえ……知らなかった」
 私はそのとき、彼女の嘘を真に受けた。
「ですから、さあ。もう一度」
 私たちはキスを交わし、その甘美さに酔った。互いの肩に腕を回し、きつく抱き合って草に転がる。それが終わると、しばらくそのまま笑顔でうっとりと見つめ合った。
 これが幸福というものだろうか、と思う。
 そして、おそらく彩香のほうも同じ気持ちだろうという確信があった。
 親友とは素晴らしいものだなと感じ、たぶん私はこのとき初めて、自分が女になって良かったという気がした。
 二人の周りで私と同じ名前の花が、優しい風に揺れていた。

 それからは折にふれ、二人きりの時に限り、彼女は私にキスをした。もちろん唇だけではなく頬や額、髪や肩だったときもある。そして一度ならず、私から先に彩香に口づけたことも。
 でも念のために言っておくが、彼女も“それ以上”は求めなかったし、私もそうしたことは想像さえしなかった。なにしろ、それが『女の親友同士が友情を確かめ合う普通の行為』だと思い込まされていたのだから。
 いつものように風呂で、ふざけて互いの体に触ったりすることはあったが、それに特別な感情は――私の内心の恥ずかしさとまだ残る戸惑いを除けば――なかったし、このころからしばしば彩香が夜になって私のベッドに来たのも、単に二人で朝まで眠るだけ。いつも近くに互いの体温を感じ、安心して眠りに落ちたものだった。本当に、仲の良い姉妹のように。

 夏の少し前ごろに、やっと肌の色が馴染んだようだ。
 というのは、じつは私はもともと男にしては色白だったのだ。それに対して、よく外で遊んでいた姉のほうはと言えば、夏に陽に焼けては次の春ぐらいまでそれが残り、一年中濃い肌色を保っていた。
 そういうわけで当然ながら、私の首から上と下では肌の色が違ったのだ。このままでは傷痕が薄れても目立つのではないかと、じつは私自身よりも彩香のほうが心配していた。
 でも、やはり姉弟と言うべきか。本当の地肌の色はそんなに違わなかったらしい。生活習慣の差で違っているように見えたのだ。
 昨年の日焼けの名残りが完全に褪めた今になり、色の違いはまったく目立たなくなった。
 同時に、姉の生きていた痕跡がまた一つ消えたようで、少し淋しい気持ちにもなったのだが――さすがにもう諦めがつき、私も声を上げて泣くようなことはない。

 東京での夏の生活を思い出し、そういえば学校に通っていたらもう二年生なのだと思ったら、急に不安になってきた。
 このままでいいのだろうか?
 私は、彩香のような天才ではない。いちおうは南条の養女ということにしてもらっているが、自分の気持ちとしては体のいい居候だ。家も財産もないし、頼れる肉親もない。
 学力はあっても、学歴がなければ良い仕事には就けないだろう。そうなれば大人になっても満足に収入を得られないことになる。
 それでも生活するだけならなんとかなるかも知れないが、私には借りがある。あの事故からこちら、南条医師には世話になりっぱなしなのだ。もちろん、それを言うなら彩香にもだし、霧島さんにもなのだけれど。
 とにかく恩には報いなければ。お金だけのことではないが、そのお金がなければ満足にお礼をすることさえできないではないか。
 そんな考えをすべて明かし、私は南条医師に相談した。『学校に通わせてほしい』と。
「ううん……君の気持ちはわかった。ちょっと考えてみる。この件は夕食の時にでも、また話し合おう」
「はい。お願いします」
 だが、それから何時間もしないうちに。彩香が私の部屋に血相を変えて飛び込んできた。
「菫さん? どうしてですのっ!?」
「な、なにがですか?」
 私は驚き、机にシャープペンシルを放り出してふり向いた。彩香がそこへ飛び込んできて、私たちはもつれるようにして椅子ごと倒れる。自習用の数学の問題集が、机から滑ってばさりと床に落ちた。
「なぜ……なぜ学校に行きたいなどと……わたくしと、ここでこうして過ごすのが嫌になってしまわれたんですの?」
 珍しく、彩香が泣いていた。彼女のこんな表情は初めて見る。いつもは私がこんなふうに涙を流すと、彼女が慰めてくれていたのに。
 胸元にすがりつく彼女を見ながら、私はふっと溜息をついて、その髪を撫でてやってから言った。
「まさか。そんなことはありませんよ、彩香さん。でも私は、このままではいけないと思うんです」
「どうして……わたくしのレッスンに、ご不満でもおありなのですか?」
 私は目を閉じてゆっくりと首を振り、起き上がってから彼女も立ち上がらせる。それから南条医師に打ち明けた通りの私の考えを、噛んで含めるように彩香に伝えた。
 彼女は私に向かって、いやいやをするように小さく首を振って拒否していた。けれど、やがてわかってくれたのか、やっと淋しそうな顔で頷く。
「……わかりました。そうですわね。菫さんがそんなふうに、真剣にご自分のことをお考えになっていらっしゃるんですから、わたくしがそれを止めてはいけませんわよね」
 そう言って彼女は涙を拭いて顔を上げ、笑顔を作って言った。
「ええ、またお父様とも話してみます。あなたにとって、いちばん良い方法を見つけてさしあげますわ。それまでお待ちくださいませね」

 そしてその日の夕食。
「あれから検討してみたんだが……学歴が欲しいなら、書類上だけでどうにかできるんだけれど、それではいけないのかな?」
 南条医師が言った。
「いえ、それは」
 またコネを使って偽造してくれるということか。はっきり言って、それは犯罪にあたる行為だろう。と言っても私の場合、戸籍もまっとうなものではない。それを考えると今更ではあるのだが――しかし、私は断った。
「やっぱり、それでも社会に出る前に、人並みの経験を積んでおきたいんです。私には、彩香さんのような特別な才能があるわけではありませんし――お世話になっている立場で我儘を言うようで、心苦しいのですが……」
「なるほど。それでは第二の案だ」
 食器を置いた両手の指を組み合わせ、彼は続ける。
「どうかな。再来年の春までは我が家で中学の分の学習を続け、高校からは銀山町にある公立高に通うということで、どうだろう」
 銀山町は山の麓の、この村から一番近い町だ。JRの駅や高速のICもある。
「しかし、それにはちょっと問題があってね……悪いんだが、菫くん。そこには彩香の名前で入学してはくれないだろうか?」
「彩香さんの、ですか?」
「うん。君に新しい戸籍を用意してあげると以前言ったけれど――じつは、その手続きが滞っているんだ。なにしろ、その――微妙な問題を含む事柄だからね」
 『微妙な問題』――違法であることを、南条医師は遠回しにそう表現する。
「うちを掛かり付けにしている、ある国会議員の先生に前から頼んでいたんだけれど、ここへきて急に都合を悪くされて、いつ君のことを取り計らってくれるかは難しい状況になってしまったんだ」
 彼も詳しくは言わなかったが、なんとなく心当たりがあった。
 先月の終わり頃に、政界での汚職が発覚したとニュースで聞いたが、それがかなり大きな事件になって波紋を広げているようだ。すでに逮捕者も出ているらしい。断定はできないが、その関係かも知れないな、と漠然と思う。
「今は別の先生にもお願いしてみているところだけれど、それもどうなるかわからない。ただし、そちらがどうあれ、遅くとも向こう数年のうちに片がつくはずだ。
 そういうわけで、君にはまだ誰であるという証明もないんだ。だけど、彩香の戸籍を使って手続きをすれば、高校に通うことはできるよ。そのための中学の卒業証明ぐらいは、なんとかなる」
「でも、それでは彩香さんが……」
「わたくしのことなら構いませんわ。もともと高校など行く気もありませんし、菫さんのお役に立つのなら、名前くらい喜んでお貸ししますもの」
 すました顔で言う彩香。
「でも、条件がありますわ」
「条件? なんですか」
「たとえ面倒でも、毎日この家から学校に通うこと。寮もある学校ですけれど、入る必要はありませんわ。車での送り迎えは霧島さんがしてくださいます。必ず毎日、ここへ帰ってらしていただきたいんですの」
 そう言って、食事の手を休めてにっこり笑った。
「もちろん卒業資格は彩香のものになってしまうが、戸籍のほうがなんとかなれば、それを書き替えるのだって難しいことじゃない。無論、さっきも言った通り、そんな苦労をせずに学歴だけをどうにかすることだってできるんだが。しかしそれは君の本意じゃないんだろう?」
「ええ、はい――」
 なんだか、どこか腑に落ちないような気もしたが、私はその話を承諾したのだった。


〈つづく〉


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