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沈姫 - Shizuhime -
《第一章 菫》

作: 蘭 死郎




 その頃が私の人生で、おそらく“二番目に”幸せな時だったろう――。

「恵一。ほら、出発するって。置いてくよっ」
「あ。待ってよ」
 姉、里穂りほの言葉に、道端の葉に止まっていたコオロギに気を取られていた私は、あわてて駆け出した。
 私、加村恵一かむらけいいちは、両親と姉との四人で週末の家族旅行に来ていた。私が中学一年で、二つ上の姉は同じ学校の三年生だった。
 家族旅行とは言ったが、実際の主目的は墓参りだ。昔、この近くに父の生家があったという。しかしその家は父が子供の頃に、ダムの湖底に沈んでしまった。もともと山の中腹にあった村の墓地だけが、湖の畔に残る形になったそうだ。父は両親、つまり私の祖父と祖母に連れられて、今の東京の家に引っ越している。
 その祖父も早くに世を去り、祖母も姉が生まれるより前に亡くなった。今年はその祖母の十七回忌ということだ。もちろん私たち姉弟は、祖父にも祖母にも写真でしか会ったことがない。
「懐かしいな」
 急かされて車のところに戻ったものの、父はまだ運転席の窓からのんびり景色を眺めている。湖の対岸の紅葉が、夕陽に照り輝いていた。
「お父さん。お父さんの家って、あのへん?」
 姉がダム湖の中ほどを指差して訊いた。
「ああ。もっと右かな。真ん中に谷川が流れていて、その岸から少しこっち寄りの……ほら。あのトンボが飛んでいる真下あたりさ」
「ふうん」
「このへんじゃけっこう大きい家だったんだぞ。家の前には大きな柿の木があって――」
「ねえ。そろそろ出ないと高速、混むんじゃないの?」
 父の思い出話は長くなる。母はそれをさりげなく制して言った。
「おっと、そうだな。じゃあ行こう」
 エンジンがかかり、車が動きだす。自動車に乗るのは好きだ。でも、これから家に帰るとなると、少し淋しくもある。家族だけの旅行なんて年に何度もないし、それがあと何時間かで終わってしまうと思うと、どうにもせつないような気がした。
 こんな時間が少しでも長く続けばいい、と思っていた。

 それから何十分も走らないうちに、急に視界が悪くなった。周囲に霧が立ちこめてきたのだ。
「おかしいな……さっきまであんなに晴れてたのに」
「山の天気は変わりやすいって言うよね」
 父に言いながら、姉はふざけて私を小突く真似をする。私はわざとそれを無視するように、真っ白な窓の外を見たまま片手で跳ねのけた。それでも姉はしつこく構ってくる。
 いつもは私を子供扱いするくせに、こんなところは姉のほうが子供だ。小学生だった頃とちっとも変わっていない。だがそれを正面から指摘すると、逆に『弟のくせに生意気だ』とやりこめられる。少々腹は立つが、こういう時は黙っているに限る。
「里穂、やめなさいよ。恵ちゃん嫌がってるじゃない」
「ちぇー」
 助手席の母に言われ、むくれる姉。その様子がおかしくて、つい笑ってしまった。
「あ、こいつ! 『ざま見ろ』と思ってるなっ」
「やめなさいったら」
 と言った母が、ふと不安そうな表情を見せて前へと向き直った。
「ねえ……車、止めたほうがいいんじゃないの? すごい霧。ぜんぜん見えないじゃない」
「ああ。いや。知った道だし、もう少し麓に下れば霧も晴れるだろう」
「でも。せめて、もう少しスピード落としたら?」
「大丈夫だって。このへんは対向車なんてほとんどないし、それに……」
 父が言いかけた時。ガクンと衝撃が走った。
「きゃあっ!」
 姉が叫ぶ。いったい何が起こったのか。そう考える暇もなく揺すぶられ、全身に激しい痛みを感じた。ぐるぐる回され、もう一度大きな衝撃を受け――そのまま真っ暗になった。

 クラクションが鳴り続けている。
 誰のものかわからないうめき声が聞こえる。
 血と、油のような匂いがする。
 見上げる頭の上に、車の後部シートが見える。
 ああ、事故だったんだな――そう思った。
 思った途端に、また暗くなった。

「だいじょうぶですか」
 そんな声が聞こえる。誰だ? 女の人だけど、母でも、姉でもない。
 だいじょうぶなわけがないじゃないか。
 そう言おうとしたが、体じゅうが痛くて声さえ出ない。
 そうするうちに、また眠りに落ちた。



 次に私の意識が深い闇の中から浮かび上がってきたとき、そこは光の中だった。
 ずいぶんと時間が経った気がする。こんなに明るいのだから、少なくとも一晩が過ぎて夜が明けたのだろう。
 もちろん、ここが天国かなにかでないと仮定しての話だが。
 だが体じゅうの痛みは、私が生きていることを訴えていた。激しい苦痛はむしろ地獄のような気もしたが、こんなに光に満ちた地獄というのも聞いたことがない。
 ここはどこだろう。両親は? 姉は?
 ぼんやりとする視界には、透明ビニール越しに白い天井が映った。
 ビニール? いや。見間違いではない。ここはかなり広い部屋の中で、私はベッドの上に横たえられているらしいのだが、それが一回り、ビニールテントのようなもので覆われている。そのせいか、部屋全体が少し歪んで見えた。
 痛みで、首を回して周囲を見ることができない。しかし目玉だけは動く。
 大きなシャンデリア。部屋の一方に大きく開いた窓。光はその窓から射している。

「目がさめたようだね」
 また少し眠ったらしい。そのあと目を開いた時、そんな声が聞こえた。
 やはり同じ部屋の中だったが、痛みは和らいでいる。私に声をかけてきた人物は、白衣を着た男性だった。医師……だろうか。顔は、よくわからない。
 と言うのは、その人は鼻から下を、白衣と同じ色の大きなマスクで覆っていたからだ。そのせいで、先刻の言葉も幾分くぐもって聞こえた。また頭も、同じ布の帽子で覆って、手袋も着けている。ちょうどテレビドラマで見た手術用の着衣そのままに。
 声や目元、帽子からはみ出た白髪混じりの髪から推測するに、たぶん私の父よりは少し年上という感じだ。だとすると四十代の中ほどだろうか。
「ここは――」
 と言おうとすると、胸に痛みが走る。思わず顔をしかめた。
 普通に呼吸しているぶんにはどうということはないが、声を出そうと力を入れた途端に腹から胸から、手足の指先まで全身が痺れるように痛むのだ。ただ、その痛みは顔や頭には感じられない。首から下だけ――その首の周りにも引きつるように、別の痛みがある。と同時に包帯かなにかで巻かれている感触があった。
「ああ。まだ無理はしないほうがいい。喋るのも、ゆっくりと」
 白衣の男性に言われ、私は苦痛をこらえつつ目で頷く。
 その人は私の横たわるベッドの脇、あのビニールテントの内側に立っていた。
「いろいろ訊きたいことはあるだろうな。私から説明しよう。ここは病院。私は医者だ」
 もちろん、言われるまでもなく彼が医師であることは想像の内だった。しかし――病院?
 この部屋は病室というよりも、どこか外国のお金持ちの邸宅の中のようだ。そんな疑問が表情に現れたのだろう。医師は咳払いを一つして続けた。
「見ての通りここは病室ではなく、医院とは棟続きの私の家の一室だよ。いろいろと事情があって――それは追い追い説明するけれど――君が他の患者と顔を合わせないよう、このように取り図らせてもらった」
 途切れ途切れに、言葉を選ぶように彼は言う。その視線の揺れが、私の不安を一層募らせた。
「君の意識が戻ってほっとしたよ……いや、回復は順調だ。その点は心配しなくていい。でも、これから少し戸惑うことになるかも知れないな。それも馴れてもらうしかないんだが」
 戸惑う? なんのことを言っているのだろう。言葉を発するのに痛みを伴うことがわかったため、私は手振りで疑問を示そうとした。だが。
 体じゅうの痛みもあるのだが、それ以上に手脚が重くて動かせない。やはり痺れているような、もどかしい不快さ。
 だが、そんな私を見て医師は目を見開いた。
「指は、動くようだね。腕は? 足はどうかね――ああ、いいよ。本当に回復している。うん。このぶんなら本当に――いや、ああ。話の途中だったかな」
 再びの咳払い。
「そうか。歩けるようになるのはまだ先のことだと思うけれど、念のため先に注意をしておこう。私が許可するまで、このシートの外に出ないように。この中は無菌状態に保たれているんだ。免疫抑制剤を使っているからね。うっかり外へ出て感染症にでも罹ると、命に関わる可能性もある。その点は気をつけてほしい。
 でも、早いうちに薬も減らせるかも知れないな。こんなに適合するとは予想外だったしね。そうしたら外に出られるから、まあそれまでの辛抱だ」
 ――このビニールテントから出るな、と言われたことはわかったが、他はよく理解できない。少なくともまだこの時点では、私には余りにも情報が不足していたのだ。
 だが、ともかくこれだけは先に訊ねておかなければならない。心の中で痛みに備えてから、声をふりしぼった。
「ぼくの、かぞ……く……」
 それがわかったのだろう。医師は、目を伏せ、ちょっと逡巡してから言う。
「気をしっかり落ち着けて聞いてほしい。
 申し訳ないけれど、君のご両親は亡くなった。
 君のお姉さんは……どう言えばいいかな。ある意味、君の近くにいる。
 今言えるのは、それだけだ」

 私は泣いた。動かない体で、仰向けに横たわったまま涙を流し、痛みにも構わず嗚咽した。その間に医師――南条隆なんじょうたかしと名乗った――は、静かに部屋を出ていったようだが、私はそれにも気付く余裕はなかった。
 これではっきりした。あれは、あの出来事は夢ではなかったのだ。
 両親は死に、私は助かった。しかし、体が動かない。もしかすると、一生このままかも知れない。
 いっそ、死んでしまおうか。
 だけど南条医師は、姉が生きていると言った。
 姉も、私と同じような状態に置かれているのだろうか。あるいは違う病室で生死の境をさまよっているのかも知れない。
 それでも――。
 とにかく、その姉に、一目でも会っておかなければならない。絶望して命を絶つのは、それからでも遅くない。そう思った。
 もはやたった一人となってしまった肉親。姉が健在であるという彼の一言が、私の命をつなぎ止めた。
 それに南条医師は、私が『歩けるようになる』というようなことも言ったではないか。このまま半身不随のままではないのだ。希望はある。
 姉、里穂のことを考えると、楽しかった数々の記憶が蘇ってきて、また涙があふれる。そして、私は泣き疲れて眠ったようだ。

 変な夢を見ていた。
 学校で授業を受けているのだが、周りの席にいるクラスメイトたちの顔ぶれが違う。よく見れば、それは姉の友人ばかりだった。ときどき家に遊びに来るので見かけた顔。
 間違えて三年生の教室に来てしまったようだ。そう思ってあわてて立ち上がったら、その姉の友人を含むクラス中の生徒が、不思議そうな顔でこちらを見る。
 教壇に立っていた教師も、私に向かって座っていろと言った。たしか谷沢とかいう男の英語教師で、私が直接彼の授業を受けた記憶はないのだが、姉からよく話は聞かされていた――その谷沢先生は、私を『加村里穂』と呼んだ。
 おかしな話だ。たしかに私も去年あたりから急に背が伸びて、今ではちょうど姉とも背格好が同じくらいになってはいる。しかし、顔がぜんぜん違うはずだ。なにより姉は女、私は男ではないか。間違えられるわけがない。
 憤慨し、とにかく自分が里穂ではなく弟の恵一であることを認めさせるべく、抗議しようとする。そこで目が覚めた。
「おはようございます。やっとお目覚めですのね」
 声をかけられ、どきりとした。南条医師ではない。女性の声だ。
 相変わらず首は動かせなかったが、目だけでそちらを見ると、そこには白衣姿の少女がいた。
 美少女、だ。そう思った。
 マスコミではよくアイドル歌手などをそう形容するが、本当の『美少女』とはこういう人を言うのだろう。それが正直な感想だ。整った顔立ち、白い肌――あまりにも完璧すぎて、現実感がない。
 『白衣の天使』という言い方があるけれど、まさにそれだと思った。ちょっと人間離れしていて、崇高ささえ漂ってくる。目尻がほんの少し吊り上がっているのも欠点ではなく、むしろ気高さを感じさせた。天使か、妖精か……そんな少女が、目の前にいる。
「どうなさいましたの? おかしな顔をなさって。まだ痛みますの?」
 彼女は外側からビニールシートに手をかけ、そこではっと気づいたように手を止めた。そのまま急いで部屋を出てゆき、戻って来た時には、南条医師が着ていたのと同じ完全防備になっていた。
 つまり、この透明シートの内側に入るためには、その手術着もどきに着替えなくてはならないようなのだ。そのとき私は、面倒な話だな、と他人事ひとごとのように思った。
「お待たせいたしました。滅菌して参りましたので、これで大丈夫ですわ……自己紹介がまだでしたわね」
 少女は、その言葉遣いまでも浮き世離れした感じだった。私とそう歳が違わないように見えるが、私の周囲の同世代の女の子が、ここまで丁寧な話し方をするのをこれまで聞いたことがない。母の世代でも少ないだろうし、せいぜいドラマや漫画といったフィクションの中だけだろうと思っていた。
「わたくしは、南条彩香なんじょうあやかと申します。父にはお会いになりましたわよね? 南条隆の娘ですわ」
 彼女はそう名乗った。南条医師には会ったとは言っても、まだ顔も見ていないのだが――娘がこうであるなら、あのマスクの下も美男なのだろう。俳優並みかも知れない、と想像する。
 そうする間に美少女、彩香は私の脈を取り、体温を図った。また点滴を替えたりなど、馴れた様子できびきびと仕事をこなしてゆく。私は動けぬまま、されるがままにそれをじっと見ていた。
「少しお話してよろしいかしら?」
 一通りの作業を終え、彼女が言う。
「うん」
 思わず声を出してしまったが、その時にはもう痛みはほとんどなかった。喉の震えに合わせて胸の奥がちりちりとするけれど、それも我慢できないほどではない。
 彩香と名乗った少女はベッドの脇にちょこんと腰掛け、私のほうを見て微笑を浮かべる。それを見るとこちらは別の意味で、胸がずきりと痛むような気がした。
「加村恵一さん、ですわよね。このたびのことは……心中お察ししますわ。でも、不幸中の幸いと申しましょうか、事故が起きたのが我が家の敷地内でよかった。わたくしが声をおかけしたの、憶えてらっしゃいます?」
「あ。きみが」
 そうだ、思い出した。事故直後、まだ意識が朦朧としている時に誰かに声をかけられたように思ったが。あれがこの子だった、ということか。
「憶えていてくださいましたのね。よかった。すぐに父を呼んで処置をしてもらわなかったら、今頃は……ううん。ごめんなさい。あまり思い出したくない話ですわよね」
 ということは、彼女は私の命の恩人ということになる。もちろん彼女の父親の南条医師もそうなのだが。
「ありが、とう」
「いいえ、お礼なんて。でも、あれから二週間にもなりますわ。わたくし、あのままあなたがお目覚めにならないのではないかと心配いたしましたのよ」
 二週間!?
 ――そうか。あの事故は、つい二、三日前のことだとばかり思っていた。
 彼女の言葉によれば、私は十日余りも眠り続けていたらしい。

 そんなことがあってから、彩香とはたびたび言葉を交わすようになった。
 彼女はいろいろなことを話してくれた。まず、彼女は正規の看護婦ではないということ。当然だろう。見たところ私と同じ年格好――実際に歳を訊けば、やはり十三歳で同い年だと言う。それで看護婦の資格が取れるわけもない。もちろん医療行為を行うのは違法なのだが、彼女は父親の『プライベートな患者』に限って手伝っているとのこと。そして、こういうことは一切秘密にしておいて欲しいと言った。
 次に、この南条医院は粤神おちかみ村にあるという話。当時このへんの地理についてはよく知らなかったが、あとで調べたところ、粤神村は竹沢ダム――父の郷里の村を湖底に沈めた、あのダムだ――から小さな峠を一つ越えたところにあるようだ。またこの医院も湖に面しているのだが、こちらは静木しずき湖といい、ダム湖の竹沢湖とはつながっていないらしい。
 私の怪我の状態については、彩香も南条医師も『回復している』と言うばかりで、なぜかはっきりとは口にしなかった。それでもわかったことは、首に大きな傷があるらしいこと。全身麻痺もその傷のせいであり、体自体には大きな外傷はないようだということなど。
 姉のことも、二人は言葉を濁している。でも、あれから『死んだ』とはっきり言わないということは、きっと生きているのだろう。

 そうして、数日が過ぎた。
 首の周囲以外には強い痛みがなくなり、声も楽に出せるようになった。手足はまだよく動かないが、それでも指は難なく動かせる。細かい動きはまだ無理ではあるが。
 ただ、若干ながらも腕が動かせるようになると、おかしなことに気付いてしまった。
 胸に、なにかおかしな隆起がある。
 そういえば目が覚めてすぐから、変な感じはあった。体を少し動かすたびに、胸の左右半分ずつが左右それぞれに引っ張られるような、不思議な感覚。ただしそれは痛みに紛れて、ほとんど意識に上らなかったのだが。
 でも点滴のチューブや心電図を取るための電極とコードや……そういうものが体中に付いているため、きっと胸の上にもなにかの装置が付けてあるのだろう、と考えてはみた。でも、それは果たして何だろう? 体のほうに外傷はないはずなのだが。水袋のような感じからすると、体温を調節するためのなにかなのか、とも想像する。いずれにせよ事故後の手術の後、ずっと簡易胴衣を着たままなので、その布の下は知りようがない。
 まあ私も専門家ではないのだから、医者のするに任せておけば良いのだろう。そう思って、気付いてからも胸の装置のことはそのままにしておいた。

 それが間違っていると分かったのは、さらに回復して上体を起こせるようになってからだった。
 その頃にはもう、力は入らないが手脚ともに自由に動かせるようにはなっていた。で、
美少女看護婦こと彩香に手伝ってもらってベッドの上で起き上がり、手術後初めての食事――それまでは栄養点滴に頼っていた――を終えたのである。
 長い空腹感から解放されて久々に満足し、彩香が食膳を持って去ったあと。ふと自分の胸が気になった。点滴もカテーテルの類も外したのに、この“装置”だけは残っていたからだ。
 その隆起は、横になっているときは体の左右に垂れ下がるように平たくなっていたのだが、起き上がってみると体の前に突き出て、軽く胴衣を押し上げている。
 私は左手で体を支え、重い右手をゆっくり上げてそれに触れた。
 びくりとした。体に電流が走ったようだった。
 その膨らみに指で触れると同時に、自分の胸のほうからも『触れられた』という感覚が伝わってくる。
 それはなにかの装置などではなく、私の体の一部だったのだ。
 顔から血の気が引くように思えた。いや。実際に誰かがその場に居合わせたら、はっきりと私の顔が蒼白に変わる瞬間を目にしたことだろう。
 思い当たることがあり、私は自分の胸の膨らみを掴んだままだった右手を、恐る恐る体に沿って下へと移動させた。
 簡易胴衣は上からすっぽりかぶるだけのもので、裾は開いている。その布を腰のほうにずり上げて、指を股間に持ってゆく。下着は着けていない。
 なかった。
 私のそこには、小学生時代の終わり頃からうっすらと茂みが形成されている。その中に指を分け入らせ、まだなかなか自由にならない指先で必死に探ったのだが。生まれて以来慣れ親しんで来たはずの私の分身、自分が男である証が、全く指に触れないのだ。
 いや。小さな突起があるにはあるが、それは別のもので、そこから下に向かって一筋の裂け目があるのが指の感覚から判明した。
 それがどういうことを意味するのか理解したとき、私は気を失った。それは長いこと食事を摂らずに衰弱していたことと、その体に薄い粥とは言っても久しぶりの食物が入って、血液が胃のほうに集まっていたせいもあるのだろう。普段は気絶などしたことがなかったのに、このときばかりはショックで意識を失うことと相成ったのである。

 そう。思えば、その前日にも気付くきっかけはあったのだ。
 その日の朝、南条医師が尿道カテーテルを抜いた。それは私の意識がない間じゅう尿、つまりおしっこを体外に吸い出していた器具である。当然、そうすると私は尿意を催すことになる。看護婦の彩香に言って尿瓶しびんで処理してもらうのは、じつに恥ずかしかった。が、彼女には私の意識のない間にもう体中を見られているようだし、かなり我慢し迷った揚げ句に決心して処置を頼んだのだ。

 不思議な感覚だった。放出しているのに、それが男の“あの部分”を通っている感じがしない。なにか、物足りない気さえする。
 そこで気付けば良かったのだけれど、なにしろ恥ずかしいのだ。一部始終をあの美少女に見られていると思うと。しかも、かなり我慢していたこともあって量も結構あった。それがまた、きまり悪さに輪をかける。穴があったら入りたいとはこのことである。
 それに感覚がないのも、体の麻痺のせいだと解釈したこともある。とにかく実際に自分の“その部分”が見えないし触れられないのだから、正確に把握することなど望むべくもなかった。

 どのくらい気絶していただろうか。全身の力が抜けたままで意識を取り戻すと、目の前には彼女、彩香の姿があった。もちろん無菌シートの内側のため、その顔はマスクで見えないのだが。
「ごめんなさい……早く申し上げておけばよろしかったのに、わたくしったら、言い出すきっかけを見つけられずに、つい今まで……」
 そう言われた私は、気がつけば右手を股に挟んだままで右横向きに横たわっていた。それで彼女も、なにが起きたかを察したのだ。私はあわてて両太股の間から手を抜き、両手で胴衣の裾を引き下げてから言った。
「どういうこと? いったい、ぼくは……どうなって……まるで、女の……」
 怒りと、羞恥と、悲しさと喪失感がないまぜとなって、まとまった文にならない言葉を投げかける。
「なんとお詫びいたしましょう……申し訳ありません。でも、とにかく落ち着いてくださいませ。すべては、父が説明いたしますわ」

 そして現れた南条医師の説明は、驚くべきものだった。
「もう気付いているかも知れないが、君のその体は、君のお姉さんである里穂さんのものなんだ。
 事故当時、君は心肺停止・複数内臓の破裂という瀕死の状態だった。一方でお姉さんのほうは、体は無事だったが頭蓋骨挫傷で著しく脳を損傷していて……はっきり言って脳死状態にあった。
 前部座席にいたご両親は診るまでもない様子だったし、一応の処置はしたが、全員絶望かと思えた。
 せめて、この中の一人だけでも助けられないか――そう思った時、一つの考えが浮かんだんだ。

 私は以前から、一つの実験を行っていた。動物の頭部を別の個体に移す。言わば、首のすげ替えだな。
 これはすでに犬などを使った前例があって、霊長類についてはアメリカのクリーブランドの大学で、ロバート・ホワイトという人が成功させていた。実際に中心になって実験を行ったのは高岡淑郎という医師で、私も彼には日本で何度か会ったことがある。
 しかし彼らがやったのは、猿の頭を別の猿の胴体にくっつけるだけだ。骨と血管はつなげるが、背骨の中を通っている脊髄は接合できない。当然、その猿は体を動かせなくなってしまい半身不随、寝たまま生きているだけの状態になった。
 でも私は、その先をやり遂げたんだ。ある方法を使うと、脊髄が自然に再生するようになる。そういう技術を開発したんだ。私が実験に使ったニホンザルは、ちゃんと元気に動き回れるようになったよ。頭部と胴体を入れ替えた、その二頭ともね。
 もちろん公表すれば世間にセンセーションを巻き起こすだろう。だが事情があって、私はまだこの技術を伏せたままでいた。そして今もそのまま、誰にも話していない。

 話を戻せば――そんなところへ、君たちの事故だ。私がたどりついた結論は――言わなくてもわかるね。すまないとは思っている。実際、人間ではまだ試していないので成功するかどうかは賭けだった。でも……難しいとは思うが、わかってくれ。目の前の、君の命を救いたかったんだ。
 名誉欲からじゃないよ。このことは誰にも公表していない。なにより、これからの君のことを考えると、世間に騒がれるのは得策ではないと思ったんだ。
 嫌でも君は、これから女性として生きていかなければならないんだ。つらいだろうが、我慢してくれ。

 男の子だった君は死んだことになっている。あの事故のあと警察に聴かれた私は、治療の甲斐なく四人全員死亡したと答えたよ。もちろん三人分の遺体しかないが、病院というところは余分な遺体の一つぐらいは工面できるものなんだよ。これは内緒だがね――。
 そういうわけで、君には目下、戸籍がない。君の家も、おそらく親戚の名義になるかするだろう。でも、たしか付き合いのある親戚はないと言ったかな? なら君が帰ってもたぶん、会ったこともない遠縁の親類の家になっているか、国の管理下ということになる。
 申し訳ないことになってしまったと思っているよ。その代わりというわけではないが、君は私が責任を持って世話しよう。入院費も、生活費も気にしなくていいよ。戸籍のほうも、そのうちになんとかしてあげよう。政府の偉い人に、ちょっとはコネもあるからね。
 今日から君は、私の“養女”だ。娘の彩香とは姉妹ということになるな。仲良くしてやってくれ」

 説明を聞いている間、私はうつむいて黙っていた。
 騙された――という怒りがあった。姉だけはまだ生きている、と思い込んでいたからだ。
 だがそれは、私の勝手な勘違いだった。
 たしかに南条医師の言った通り、姉は私の『近くに』いたのだ。そうと気づかないほどの、近くに。
 医師が去ったあと、私はベッドの上で、自分の肩を両手で抱きしめるようにして泣いた。かつては姉のものだった、この体を――。
「姉さん……っ!」
 そのとき。小さく丸まった私は、背中から回された細い腕で抱きしめられた。
 無言のままの彩香である。それはわかったが、同情はごめんだ。
 怒りに駆られ、むちゃくちゃに腕を振り回して、彼女をふりほどこうとした。
 しかし彼女は黙ったまま、私に殴られ続けた。
 痛かったろうと思う。私のほうが疲れ、がっくりと肩を落としても、彼女はそのまま優しく抱きしめてくれていた。
 まるで母のように。
 おかげで、落ち着いたように思う。でもその時はお礼を言うこともできず、ふて腐れるようにして横になってしまった。
 今になって思う。もしそのとき彩香が抱きしめてくれていなかったら、もっと自暴自棄になっていただろう。もしかしたら自分を傷つけていたかも知れない。
 彼女のおかげで、冷静になれたおかげで、それからのことをちゃんと考えることができた。
 そう。私は、生きなければと。
 家族のぶんまで。私にこの体をくれた姉のぶんまで。いや――。
 姉と、ともに。

 私のその思いのせいで、というわけではないだろうが、南条医師の言うところによれば、私の頭部と姉の体は“奇跡的なほどの”適合を見せているという。ただの姉弟でありながら、一卵性双生児並みの数値であると。それがどの程度なのか、素人の私にはわからない。しかし拒絶反応の恐れが減ったということで、免疫抑制剤の量が減らされた。
 ということは細菌感染の懸念も減ったということで、私は思ったより早く無菌シートの中から出られることになった。
 しかし、まだ脊髄の再生は充分でないらしく、手脚には思ったように力が入らない。当面はリハビリテーションを続けながら、車椅子での生活が続きそうだ。

「行ってらっしゃいませ」
 彩香が押してくれる車椅子に乗って庭に出ようとすると、エプロン姿の女性が慇懃に頭を下げた。私もあわてて会釈を返す。
「あの人は……彩香さんのお母さん?」
「いいえ、違いますわ。母は亡くなりました。わたくしの幼い頃に」
 事もなげに、彼女は言う。
「あ。ご、ごめん」
「いいえ。もう慣れましたから。あのかたは、霧島佳子きりしまよしこさん。家のことをいろいろしてくださっています」
「へえ」
 つまり住込みの家政婦さんということらしい。南条医師と同じかそれより上の歳だろうか。ちょっと怖そうな顔だが、それは仕事熱心で実務的なことの裏返しだそうだ。彩香も、彼女の笑顔は一度も見たことがないという。
「霧島さんは、ちゃんと看護婦の資格を持ってらして。父の仕事が忙しい時だけですけれど、医院のほうも手伝っていただいています」
「ふうん……あれ? そういえば彩香さんって、学校には行ってないの?」
 少し前から感じていた疑問を、私は口にした。私と同い年ということは中学一年生。もし誕生日がまだなら二年生のはずだ。それなのに、昼間でも登校している様子がない。
「わたくし、学校には通っていませんわ。以前は家庭教師のかたに来ていただいていました。でも、教えていただくことがすべてなくなり、今は家で、わたくしひとりで学んでいます」
「え? だって、中学までは義務教育なのに」
「『義務教育』という言葉の意味、ご存知ですかしら?」
 逆に問い返された。その真意を図りかねていると、彼女はこう続ける。
「生徒が学ぶ義務ではありませんのよ。法律上は『子供の望む教育を親が受けさせてやる義務』ということになっています」
「えっ。そうなの?」
 私は正直、驚いていた。それは知らなかったが本当らしい。
「ええ。その意味では父はわたくしによくしてくださいましたわ。もしもこの日本に『飛び級』の制度があれば、おそらくもう大学を卒業して大学院の課程にいるでしょうかしら。もちろん、粤神村の役場のかたと小学校の先生がたが何度か見えられて、普通に学校に通うように説得されましたけれども、その必要はないと丁寧にお断りいたしました。それからは何の音沙汰もありません。まあ、それで父が罪に問われるとしても罰金刑で終わりでしょうけれど」
「そ、そうなんだ。すごいね」
 私は驚くというより、呆れた。ただの美少女ではなく、どうやら天才少女であるらしい。才色兼備もここに極まれり、か。
「いまは父について医学を学んでいますのよ。まだまだ父には及びませんけれど、ね」
 私はうなった。そう言えば南条医師もノーベル賞級の実験を成功させていたわけだ。となれば、この頭脳は遺伝なのだろう。うらやましい限りである。
「でも、そういう事情ですから、わたくしには親しいお友達がおりませんの」
「え……ああ、そうか。そうだね」
 車椅子の動きがぴたりと止まったかと思うと、彩香はくるりと私の前に出て、両ひざを抱えるようにして座り込んだ。
「ねえ、恵一さん。お友達になってくださらない?」
 にっこりと笑って言う彩香。ちょっと首を傾げたその様子は、妙に私の胸の内を騒がせた。
「友達って……? だって、ぼくたちもう『姉妹』だって南条先生が」
「姉妹と言っても、喧嘩ばかりしている人たちだっているのでしょう? そうではなくて、わたくし、あなたとお友達のような仲のいい姉妹になりたいのですわ」
「うん。それなら」
「約束ですわね」
 右手の小指を差し出す。天才少女だかなんだか知らないけど、こんなところは本当に、小さな子供のようだ。そんな彼女が、たまらなく可愛く思えた。
 私は思う通りにならずに震える腕をやっと上げて、彩香と『指切りげんまん』を交わした。
「あ痛て……これもリハビリ、だね」
 言って、私たちは笑い合った。

「でも、恵一さん。もう女の子なのに、その言葉遣いはおかしいわ。ご自分のことを『ぼく』とおっしゃるのもやめたほうがよろしくてよ」
「え。でも」
 湖の近くで休みながら、彼女はそんなことを言う。わかってはいるつもりだが、さすがにまだ私は『女として生きる』ことに決心がつかないでいた。と言うよりは、実感を持てずにいたのだ。だがここで、早々にそのことに直面させられる事態となった。
「女の子なら『わたくし』か、せめて『わたし』とお言いなさいな。言葉は少しずつでよろしいですから、変えていきましょうね」
「うん」
「『うん』ではなくて『ええ』。恥ずかしかったら、最初は『はい』でもよろしいですけれど」
「うん……じゃない、はい」
「そうそう。よくできましたわ」
 そんな感じでいくつか簡単なレッスンが続いた。
「お名前も『恵一』ではおかしいですわね。女の子らしいものにしなくては……」
「うん。あ、はい」
 言ってから、ちょっと考えてみる。
「恵子かめぐみ、かなあ……かしら」
 ちょっと睨まれたので、私は語尾を言い直した。彩香は笑顔に戻って言う。
「ええ。そうですわね。元のお名前に近いほうが馴れていてよろしいような気もいたしますけれど……言わばあなたは生まれ変わるわけですから、いっそ、もっと違うお名前にしてしまったほうが、気分としてもよろしいのではありませんこと?」
「え……はい。そうかも知れな……ません、わ」
 なにしろ苦労して言葉を変えているため、考えがまとまるところもまとまらない。そのせいか、気付いてみれば彼女のペースに流されていた。
「そうですわね……決めました。あなたは今から『すみれ』ですわ。よろしいでしょう?」
「す、すみれ?」
「ええ。このあたりには、春になると一面に紫の可愛らしい菫の花が咲きますの。わたくしの大好きなお花……」
 両手を胸の前に組み、うっとりと遠くを見つめる彩香に、私はなんと言っていいかわからなかった。
 加村菫。いや、もう養子になったのだから、南条菫か。
 悪くはないようにも思えたが、それが自分の名前だという実感は、まだ全然湧いてこない。


〈つづく〉


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