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昼休み
(第2回)
作:こうけい






前回の内容はhttp://ts.novels.jp/novel/200011/29213107/hiruyasumi.htmをごらん下さい。



8 捕囚

(やっと、終わった…。早く家に帰らないと…)
午後の授業と帰りのホームルームが終わり、下校の時刻になった。
(母さん、父さんは、ぼくを勝だってわかってくれるのかな…。それとも…)
昼休みに突然男子から女子に変身してしまった淑子にとっては、家族が自分のことをだれだと思っているのかが、何よりも気がかりだった。

そそくさと教室を後にしようとする淑子の肩を、いきなりだれかがつかむ。
ふりむくと、そこには渋い顔をした理絵がいた。
「ノーパンさん、部活をサボっちゃいけないわよ」
「えっ、部活って?」
「とぼけないでよ。いっしょに部室行くわよ」
「ぼ…あたし、理絵と同じ部活!?」
「まだおもらしのショックが残ってるの?あんたもバレー部でしょ」
もとの男子の勝は部活に入ってなかったので、これは予想外のできごとだった。
「ほら、とっとと行けよ、おもらし女」
「大原に迷惑かけるなよ、な」
健也や諭たちも、せかす仕草をする。
(…そうか、“岡部淑子”はバレー部なんだ…。家に帰るの、遅くなっちゃうな。
それに、やったこともない部活に行ったら面倒だし、なんとか、部活に行かないですませられないかな…そうだ!)
窮地におちいった淑子に、ふとひらめくものがあった。
(こういうときは、女子だけの言い訳があったはず!)
「…あた、あたし生理でしょ?今日は休ませてもらえるかしら?」
とたんに、理絵はものすごい形相で淑子をにらみつける。
「甘えないで!あの日は、あたしたちだって我慢してるんだから」
「わ、わかった…わよ、部室に行けばいいんでしょ!」
生理は言い訳にならない。あきらめた淑子はやけになりながら、理絵を振り切って早歩きで廊下に出た。

「ちょっと、ノーパンさん!体操服忘れてる!」
理絵の声に、淑子はあわてて振り返る。
すると、教室の中で真由美が淑子の体操服の袋を持って立っているのが見えた。
真由美も、理絵と同じバレー部員だ。
「あっ、理絵、ノーパンさん、戻ってこなくていいわよ!ノーパンさん、ほーら!」
真由美はそう言うが早く、淑子の体操服の袋を、彼女めがけて思いきり放り投げた。
「えええっ!?」
袋は、不意を突かれた淑子の顔面に命中して、廊下に転げ落ちた。
「………」
半ベソ顔の淑子。
「…ノーパンさん、これくらい受け取れないの!?」
理絵があきれ顔で袋を拾い上げ、淑子に手渡しているうちに、真由美もふたりに追いついた。
「さ、部室行こう」
「ノーパンさん、今日の練習試合で、足、引っ張らないでよ!」
「…うん」
淑子は肩をすくませながら、理絵と真由美にはさまれて教室を後にした。

9 幻滅

(バレー部なんていっても、部員の名前なんて知らないし、ぼくはバレーボールは体育の授業でちょっとやっただけ…)
淑子の頭の中では、はじめての部活への不安が幾重にも渦を巻いていた。
しかし、別の考えも浮かびあがってくる。
(そういえば、女子の部室で着替えられるんだよな…)
女子運動部の部室といえば、男子にとっては秘密の花園。健也なんかは、着替えの覗き見に成功したとよく自慢気に話している。かつての勝は覗きに挑戦したことはなかったが、男子として、中を見てみたいという欲望がなかったといえば嘘だった。
その場所に、淑子になった今では、堂々と入ることができるのだ。
(部室は心のオアシスになりそうだぞ…)
淑子の部室への足取りが、少し軽くなった。

女子バレー部の部室は、体育館脇に建つプレハブの運動部部室棟の一角にある。
「オッス!1年大原、入ります!」
理絵は、勝が今まで聞いたことがないような大声を張り上げながら、扉を開ける。
女子の汗くさい香りが、ムッと鼻を突いた。
「オッス、入れ!」
部室の中から、上級生らしい部員の返答の声が響く。理絵よりもはるかに太い声だ。
(オッスって?これが…女子バレー部!?)
「オッス!1年藤野、入ります!」
「オッス、入れ!」
(心のオアシスどころじゃないよ…どうしよう!)
あまりのショックに、淑子は入り口で固まってしまった。
とたんに、上級生部員たちの怒号が飛ぶ。
「もうひとり!あいさつはどうした!?」
「ひゃっ!」
「ひゃっ、じゃないよ!名前を忘れたのか!?」
聞きなれていない女子たちの罵り声に、震え上がる淑子。
(女子がこんなに怖いなんて!)
「ほら、あいさつあいさつ!あたしたちと同じように、オッスって」
真由美が脇から小声でささやく。
「…オ、オッス、1年岡部…」
「声が小さい!!」
「オッス!1年岡部、入ります!」
「まだまだ!もっと腹に響く声で!」
叫ぶような声ではだめらしい。
(でも、女子の体って、腹式呼吸がしにくいよ…)
勝だったときのようにはいかない自分の体に、淑子は戸惑う。
「オ、オッス!!」
淑子は精一杯深呼吸して、空気のかたまりを吐き出すように声を出した。
「1年、岡部、入りますっ!!」
「オッス!よし、入れ!」
「これからは気をつけろよ!」
ようやく部室に入ることを許された淑子は、理絵のところへ駆け寄る。
「…ねえ、バレー部っていつもこんな調子なの?」
「あたりまえでしょ。…まさかノーパンさん、怒鳴られて、またおもらしでもしたとか!?」
「う、ううん!」
淑子はあわてて否定したが、本当はちょっぴりもらしていた。
生理のナプキンが吸い取ってくれたので、大事にならずにすんだのである…。

20人近い部員でひしめきあう狭い部室で、2年生以上は部のユニフォーム、1年生は体操服に着替えている。
淑子も、自分のセーラー服のスカーフをほどき、脇のファスナーを上げ、スカートのホックを外す。
しかし、淑子はこの光景に全くときめきを感じなかった。
当たり前のように昔から見てきた、同性の体としか思えなくなっていたのだ。
淑子が男子の勝だったときに抱いていた、そして部室に入る前にも思い浮かべていた、女子の部室へのほのかな幻想は、完全に消え失せた。
(どうして、ぼくはこんなに冷静なんだろう?男子だったら憧れの、女子更衣室で着替えてるっていうのに…。)
淑子の脳裏に、ふとそんな考えがよぎるのだった。
女子の部室といっても、更衣室兼用具置き場に変わりはないことがわかったからか。
先輩部員たちの、情け容赦ない罵声のせいなのか。
それに加えて、淑子の心までも、女子のものになりつつあるのかもしれない…。

淑子は、“岡部淑子”の名前がついた体操服を身につける。上半身も、腰のブルマも、彼女の体に恐いくらいにピッタリとフィットした。
(…やっぱり、これは自分の体操服なんだ…)
ふうっと、淑子はため息をつく。
(これがあたりまえな女子の着替えなんだな…。夢なんて、ないんだ…)
部室に充満する女子部員たちの汗と息のにおい、そしてそれに同化する自分自身のにおいが、淑子に女子の世界の現実を告げていた。

10 苛烈

「岡部さん!そっちにボール行った!」
「ノーパンさん、今度はこっち!」
体育館のステージ寄り半分につくられたコートでは、上級生がアタックとレシーブの練習中。その間の1年生の役目は、こぼれた球を拾うことだ。
しかし、まじめに球拾いをしているのは淑子だけ。理絵たちは体育館の壁際で、ほかのクラスの1年生部員たちと談笑していた。
「…それでさあ、月に1度のアレまでもらしちゃったのよ。赤いのが廊下にぽたぽた!」
かしましい話題のタネは、今日の淑子のできごとだ。
「うわあ!それも災難っ!」
「それでさ、淑子のこと、ノーパンさんって呼ぶことにしたの」
「じゃ、あたしたちも岡部さんのことそう呼んでいい?」
「ええどうぞどうぞ!」
「ノーパンさーん、こっち向いてーっ!」
1年1組の部員にそう呼ばれて、思わず振り向く淑子。
「ほーら、本人も認めてるでしょ、この呼び方!」
理絵たちは手をたたきながら笑い転げている。
何も返答できずに立ちすくむ淑子の頭上を、またこぼれ球が飛んでいった。
「ノーパンさん、早く拾いに行ってよ」
「…どうして理絵たちは拾わないの!?」
とうとう淑子はたまらず声をあげた。
「あたしたちの好意がわからないの?」
「ノーパンさんが部に貢献する機会を増やしてあげてるのよ」
理絵たちは、自分を正当化するばかり。
「ほら、バスケ部のほうまで転がってる!早く!」
せかされた淑子はしかたなく、体育館の残り半分で練習している男子バスケット部のほうへと向かった。

「おい女子バレー!早く取りにこいよ、邪魔じゃねえか!」
そう叫んでいたのは、淑子のクラスメイト、健也と諭だった。
(そういえば、あのふたりはバスケ部だったな)
「ご、ごめーん!」
「うっ、おもらし女!」
バレーボールを持っていた健也は、淑子の顔を見るなりしかめっ面になった。
「けん…棚橋くん、ごめんね。ボール返して」
「気をつけろよ!」
健也は意地悪く、バレーボールをバレーコートの向こう側、ステージまで大きくぶん投げた。
飛んでいったボールは、ステージで練習中だった演劇部員のひとりを直撃した。
「ひどいよ!」
「ほら、行ってこい!」
「これくらいやらないと、上達しねえぞ!」
健也と諭の罵声を背中にして、淑子は今度はステージへと駆けてゆく。理絵たちの、聞こえよがしの嫌味を浴びながら。

「淑子!?どうしてくれるの?」
「あっ、あきら…」
ボールが当たったという演劇部員は、女子の坂井晶。彼女も淑子のクラスメイトだった。
「あたし、やっと演技の勘をつかめたと思ったところに、あんたのボールが当たってね、せっかくの勘を忘れちゃったのよ」
「…ごめん。でも、ボールを投げたのは向こうの棚橋くんで…」
「これ、バレーボールでしょ。トンチンカンなこと言わないの!」
「うっ…ごめん」
「昼休みだって、あんたがもらしたせいで、あたし床の始末をさせられたんだからね!」
「…ごめんね…ほんと…」
「淑子って疫病神じゃないの?もう、同じクラスなんていやよ!」
さすが演劇部だけあって、晶の一言一句が、淑子の胸にグサッとしみわたる。
そのとき、ステージ下から理絵が声をかけてきた。
「晶ー、ノーパンさんが迷惑かけてゴメンねー!」
「理絵、心配ありがとう!気にしてないから大丈夫よー!」
晶は表情を瞬転させて、晴れやかな笑顔で理絵に手を振り返す。こんなところも演劇部だ。
「理絵たちに免じて、許してあげるわ。ほら、ボール。あの子たちに心配かけちゃダメよ!」
晶は、そう言うと練習へと戻っていった。
(みんな、あんまりだよ…。どうして、ぼくばかりが…)
慣れない体育館を走り回りながら、淑子は心の中で何度もぼやくのだった。

ホイッスルが鳴った。上級生の練習が終わり、淑子も球拾いから解放される。
「全員、コート前に集合!」
「オーーーッス!!」
大きな返事とともに部員全員が集まると、主将が前に出てきた。
「オッス!残念なことに、今日は1年の態度が非常に悪い!」
主将はどうもご機嫌斜めだ。
「特に岡部。球拾いがまるでなってない。もっと集中しろ!」
(ええっ!?)
あまりに理不尽な批判に、淑子はとうとう口を開いた。
「そんな!ほかの1年ははじめから球拾いをさぼって…」
「口答えするな!」
「見てなかったんですか!?理絵や真由美たちがおしゃべりばかりしてたのを。球拾いは1年みんなでやるはずなのに、やってたのはあたしだけ…」
淑子が必死で弁明していると、目の前に主将が進み出てきた。
(えっ、えっ!?)
次の瞬間、淑子の顔面に向けて平手が飛んだ。
乾いた音がする。
(痛っ!…くないか…)
主将は、淑子の鼻先すれすれで、自分の両手をたたいたのだ。
「…これ以上口答えしたら、今度はおまえの顔だからな」
ドスのきいた、主将のささやき声。
「…すみません、わかりました」
「わかったなら、返事!」
「は、はい!」
「はいじゃない!オッスだろう!」
「オ、オッス!」
「よし!」
淑子はようやく主将から解放された。
(…ううっ…ここは、理屈が通じない世界なんだ…。体で覚えるって、こういうこともいうのかな…)
歯を食いしばって、ぐっと我慢する淑子。
主将の話は、バレーの技術面に移った。
「ねえねえノーパンさん、要領悪いわねー。ああいうときはね、素直にオッスって返事してればいいのよ」
隣の理絵が小声で話しかけてくる。
「だって、球拾いは1年みんなでやるんでしょ?理絵、どうして…」
「あんなの建前じゃないの。今日だって、ノーパンさんがもう少し積極的に動いていれば、拾いこぼしはなかったでしょ?球拾いはあんたひとりで十分なのよ」
「そんなこと言ったって…」
「岡部、大原、私語は慎め!」
2年生の副主将の声が飛んだ。
「ほら、あんたのせいであたしまで怒られちゃった!」
理絵は背後から思いっきり淑子のおしりをつねる。
声も出せないまま顔をしかめた淑子は、自分の眼がとめどもなくうるんでくるのを感じた。
(こんなことって…。ぼくは、バレー部みんなにいじめられてるのかな…)

11 軟化

ミーティングの後、2・3年対1年の練習試合が始まった。理絵たちが言っていた、練習試合だ。
淑子も出場している。慣れてない試合だけに彼女は固辞したが、理絵が引っ張り出したのである。
事故は、第1セットが5対5のタイになったときに起こった。
上級生の強力なアタックを、前衛の理絵がブロック。こぼれ球が、1年コートの背後へと高々と舞い上がる。
「あっ、あたしに任せて!」
後衛の真由美は自慢の足で、落ちてくるボールに追いついた。
「ほーら、ノーパンさん、返して!」
後衛真ん中にいた淑子に向けて、真由美はレシーブを上げる。
淑子は額に両手を突き出して、トスの構えで真由美のボールを受けようとしたが、着地点の読みが甘かった。
(わっ!)
ボールは淑子のあごに命中して、真上にはね上がった。ショックでバランスを崩した淑子は、落ちてきたボールを今度は額でもろに受けてしまい、そのまま背中から体育館の床に倒れ込んだ。
「岡部、どうした!」
「こんな簡単なボールで!?」
「体操服袋のときと同じじゃない!」
練習試合は中断された。

(あれ、ここは…保健室?
そうか、試合で倒れちゃったのか…)
意識を取り戻した淑子は、保健室のベッドからゆっくりと起き上がった。
特に、体調に変化は感じなかった。
「気がついたのね」
保健の先生が声をかけてきた。
「バレー部の岡部さんよね。あなた、今日は2度目ね、ここに来るの」
昼休みに、替えの下着とスカートを借りに来たからだ。
「…どうも、すみません」
「あやまらなくてもいいわよ。それより、気分はどう?頭が痛いとか」
「…なんともないです。頭もどこも痛くないし」
本当は生理痛がまだ続いているけれども、さすがにそれは黙っていた。
「なら、このまま帰っても大丈夫ね。それと、これがあなたのスカート。一応かわいてるわ。替えのスカートと下着は、来週いっぱいくらいまでに返してくれればいいから。スカートはクリーニングしなくていいけど、生理用ショーツは洗ってね」
「あ、はい、わかりました」
先生は用件を話しながら、黒いビニール袋に入った淑子のスカートを手渡す。
「それじゃ、先生もそろそろ帰りますから、外に出てください」
時計を見ると、もう5時50分、下校の時間だ。外は薄暗くなっていた。
「あっ、先生。あたしをここまで連れてきたのは、だれですか?」
「大原さんと藤野さんよ。あなたとは部活もクラスもいっしょよね」
そう聞いて、淑子は胸をなで下ろした。
(まあ、そりゃ当然だよな。大原たちにも、これくらいの良心は残ってたんだ。戻ったらお礼を言おう)

淑子が戻ってみると、体育館はすでに閉まっていた。
(部活、終わったんだ。もしかしたら、大原あたりが部室で待っててくれてるかな?)
しかし、バレー部の部室にも鍵がかかっており、地面に目をやると、淑子の荷物がポツンと寒空の下に置かれていた。
部員はみんな帰ってしまったのだ。
(…そんな…。だれひとり、ぼくの具合を見にこないで帰ってしまうなんて…)
期待は裏切られた。理絵たちに良心を求めるのは、間違っていたのかもしれない。
(やっぱりぼくは、バレー部でもいじめられっ子なのか…)
部室棟にも校庭にも、だれひとり残っていない。
猛烈な孤独感が淑子を襲ってきた。

とにかく、どこかで制服に着替えないと。
淑子は人目につかなさそうな、体育館と部室棟の間の蔭に隠れた。
(でも、やっぱりなんか不安だな…)
男子の勝だったときは、外で着替えることにためらいはなかった。
それが今では不思議なことに、薄暗い外で着替えるのは危険だという直感が働くのだった。
(体操服のまま帰ろうか…。でもそれだと母さんに、何があったのか変に思われるな…。
いいや、思い切って着替えちゃおう!)
淑子が体操服に手をかけた、そのときのことだ。
「ねえちゃん、こんなところで何やってるんだい?」
低いささやき声。そして、淑子の肩に生温かい手がのびてくる。
「わっ!わっっ!きゃっ!」
(変質者だ!やっぱり、こんなところで着替えるんじゃなかった!)
淑子は蒼ざめながら後ろを振り返った。
しかし、彼女が見たものは、理絵と真由美の姿だった。
「あははは、ひっかかった」
「あんまりよ、淑子。作り声だって、わからなかったの?」
淑子の顔色は、たちまち真っ赤に変わる。
「びっくりしたじゃないの、もう!はじめから出てきてよ!」
「ごめんごめん、からかっちゃって」
「でも淑子って臆病ね」
「あたしたちが見張ってるから、早く着替えちゃいなさいよ」
「このタオルで隠してあげるからさあ」
真由美は、人ひとりをそのままくるむことができるくらいなジャンボサイズのタオルを、自分の体操服袋から取り出した。
今までのふたりとはずいぶん態度が違っているようだ。そういえば、呼び方もノーパンさんから淑子に変わっている。
「あ、ありがとう。理絵、真由美。保健室に運んでくれたのも」
「お礼はいいから、早く」
理絵たちにまわりを見張られながら、淑子は制服に着替え始める。

淑子は、ずいぶん久しぶりに理絵の親切な一面を見たような気がした。
『やめてよ、岡部くんがかわいそうじゃないの!』
以前の理絵の声がよみがえる。
淑子が勝だったころは、男子にいじめられていたところを理絵たちに何度もかばってもらっていたのだ。
(大原たち、元にもどってくれたのかな…)
淑子は、女子になってから初めての安堵感を覚えるのだった。

校門で、帰り道の方向が違う真由美と別れる。理絵の家は、淑子と同じ方向なのだ。
途中のクリーニング屋で、おもらしで汚れたスカートを出してきた。
「理絵、保健室と着替えのときは、本当にありがとう」
「当たり前じゃないの。いくらなんでも、ああいうときに見捨てるわけにはいかないでしょ」
「そ、そうよね」
「それより淑子、今日はバレーの腕まで鈍っちゃったの?いくらなんでも、あれくらいのボールなら簡単に返せたはずでしょう。やっぱりおもらしのショック?」
(“淑子”は、本当はバレーがそれなりにできるんだろうな。部に入ってるくらいだもの。
バレーが上達しないかぎり、ぼくはいじめられ続けるのかな…)
淑子は考え込んでしまった。
「本当にどうしたの、淑子?おもらしなんかしたりとか、なんだか変じゃない」
淑子は、理絵が自分のことを本気で心配してくれているように思えた。
(もしかしたら、今の大原なら、わかってくれるかも。
ぼくの本当の姿と、昼休みのできごとについて話してみよう!)
「ね、ねえ、変なこときくけど…」
淑子は、慎重な口調で切り出した。
「…オカベマサルって男子、知ってる?」
「は?」
「…ぼく、本当は、マサルって男子なんだけど、今日、突然女子に変身しちゃったんだ」
「………」
淑子は勝の男言葉で訴える。
「あのおもらしだって、ぼくが女子に変身すると同時に起こったことなんだ」
「……………」
理絵は無表情のままだ。
「だけど、みんな、ぼくがマサルだっていうこと忘れちゃってるんだ。大原には、心当たりない?」
「………」
理絵が口を開くのをじっと待つ淑子。
「ねえ、大原?」
「…淑子、大丈夫?練習試合のケガの後遺症もあるんじゃないの、病院行く?」
理絵は怪訝な表情をする。淑子の予感は的外れだった。
「ご、ごめん、大丈夫よ!あたし、今日いろんなことがありすぎちゃって、頭パニックだったの」
あわてて淑子は女言葉に戻す。理絵とのよい雰囲気をぶちこわしてはいけない。
「明日からはしっかりするから、心配しないでね」
「当たり前でしょ。あんたがいなかったら、クラスもバレー部も困るんだから!あははははは!」
理絵が機嫌を取り戻したので、淑子は胸をなでおろした。
そうこうしているうちに、ふたりの帰り道が分かれる交差点に着いた。
「理絵、じゃあここで」
「バイバイ、淑子」

12 履歴

あかりがともる自宅玄関の前で、淑子は不安感にかられた。
自分は中に入ることができるのだろうか。
家族は自分を勝だとわかってくれるのだろうか。
それとも、うちには淑子なんて娘はいませんなんて言われてしまうのか。
いろいろな考えが頭の中をめぐりまわった末、ようやく淑子は家の扉を開ける決心をつけた。
「…ただいま」
台所の前で、母親と目が合う。テーブルには夕食が盛られており、父親の姿があった。
(父さんが早く帰ってくるなんて珍しいな)
「おかえり、淑子」
「おかえり。部活ごくろうだったな」
変身後の初対面は、あっけなく終わった。
両親ともなんのためらいもなく、淑子を娘の“淑子”として扱っている。
「すぐ食事にするわよ。今日はお父さんが珍しく早く帰ってきたんだから。さっさと着替えてきなさい」
「はーい」

自室の扉には、「よしこのへや ノックしてね」とカラフルな飾り文字が刺繍された、猫の形の布の札がかかっていた。
もちろん、男子の勝がこんな物をつくったはずがない。淑子の知らない“淑子”がつくったものだ。
扉を開けると、壁紙から置物まで、何もかもが女の子の部屋だった。
ベッドに投げ出していたはずの、アクション漫画がなくなっている。
(…帰ってきてから続きを読もうと思ってたのに…)
机の上に置いてあった、つくりかけの物も変わっていた。戦闘機のプラモから、花柄の刺繍に。
本棚には勝の好きだった飛行機の写真集も漫画の単行本もない。代わりにあるのは、ファッション雑誌とバレーボール関係の本、そして刺繍などの手芸の本。これが、淑子の趣味なのだろう。
(こんなところまで、もとから淑子だったことになっちゃったんだ…)
淑子は、女子になってから何度目になるかわからないため息をつきながら、制服を脱いでハンガーにかけ、隣のハンガーにかかっていたオレンジ色のワンピースに袖を通す。
「淑子、着替えたの?早く来なさい」
母親の声がする。淑子はあわてて部屋を出た。
「さ、みんなそろったから、いただきましょう」
(よかった、淑子もひとりっ子なのか…。兄弟とかがいたら厄介だもんな)
ひとりっ子というのは、勝と同じだった。

父親の帰りが早かったからか、夫婦の会話ははずんでいる。
一方、娘として初めての家族との食事に、淑子は緊張して言葉が出しづらい。
「今日の夕飯は母さんひとりでつくったんだな」
「ええ。父さんが早く帰ってくるときくらい、淑子も休ませてあげないと」
「うーん、淑子の料理がないのは淋しいぞ」
(…ということは、いつもはぼくが夕食の手伝いをしてるのか…。今日いきなり手伝わされなくてよかったな)
男子のご多分にもれず、勝は家で料理の手伝いなんてやったことがなかった。つくれる料理といったら、家庭科の時間に習った簡単なものくらいだ。
「…淑子、どうした。気分でも悪いのか?」
「う、ううん。…あしたの夜は、あたしの料理、父さんにも食べてもらうからね」
(どうせ明日は料理で苦労するんだろうから、今は調子のいいことを言っておこう)
「おっ、楽しみにしてるぞ」
淑子の緊張はやっとときほぐれた。

(あれ、サラダに玉ねぎがないな)
両親のサラダの皿には玉ねぎのスライスが盛られているのに、淑子のところにはない。
玉ねぎのスライスは勝の好物だけに、黙ってはいられなかった。
「ねえ、あたしには玉ねぎないの?」
「あら?淑子は玉ねぎ嫌いだから少なくしておいたのに」
(えっ、ぼくは好きなんだけど…そうか、淑子は嫌いなんだな。でも、食べよう。そのほうが母さんにも喜ばれるな)
「平気よ平気、あたし、玉ねぎ大好きになったんだ」
「えっ、大丈夫なの?でも、好き嫌いをなくすのはいいことね」
「そうだな、えらいぞ淑子。父さんのを少し分けてあげよう」
淑子は父親から分けてもらった玉ねぎを、待ってましたとばかりにほおばる。
ところが、勝のときには感じたこともなかったような不愉快な味が口の中に広がった。
「ウエッ!!」
淑子は反射的に玉ねぎを口から皿に戻してしまった。
「だから言ったじゃない。淑子、無理しなくてもいいのに」
「ご、ごめんなさい!」
(どうして?勝だったときは、あれくらいほおばったって平気だったのに。…まさか、ぼくの味覚まで淑子のものに!?)
好きだったものが食べられなくなる。強制的に変わっていく自分自身に、あらためて淑子は戦慄感を覚えるのだった。

夕食が終わって、淑子は自室に戻る。
机の上の棚には、何冊ものフォトアルバムが目についた。
(これで、淑子のことがいろいろわかるな)
一冊を手にとって開くと、どの写真にも小学生時代の淑子が写っていた。
特に、理絵といっしょに遊んでいる写真が多い。
男子の勝にとっては理絵はただの近所の女の子で、幼なじみというほどの遊び友達ではなかったのだが。
(大原って、“淑子”にとっては幼なじみだったんだな。それが、どうしていじめられるようになったんだろう…)
目をひいたのは、自宅に飾ったひな人形の前で、理絵といっしょに写った写真だ。
(うちには女の子なんていないのに…。もしかしたら、押し入れの五月人形は?)
淑子は胸騒ぎを感じて、押し入れの奥を見まわしてみる。
果たして、写真のひな人形が見つかった。けれども、勝が3歳のときに買ってもらって、端午の節句には毎年飾っていたはずの、男の子の象徴の五月人形は、どこにも見あたらなかった。
気を取り直して、ほかのアルバムを見ると、赤ん坊のころの淑子の写真があった。今よりずっと若い両親が、「命名 淑子」と書かれた紙といっしょに、生まれたばかりの彼女を笑顔で抱きかかえている。
(自分は、生まれたときから、女の子の淑子だってことに…)
感づいていたこととはいえ、自分が男の子の勝だった痕跡がここまで消えてしまっているのは、淑子にとってはショックだった。

アルバムを見終わった淑子は、棚からバレーボールの入門書を取り出す。
(とりあえず、これからはバレーがうまくならないといけないな。そうすれば、大原たちともうまくやっていけるはず…)
2時間くらい読んでいるうちに、眠気を覚えてきたので、ハンガーにかかった女物のパジャマに着替えて、ベッドに入った。

(クラス、バレー部、食事の手伝い…。このままじゃ、心の底まで淑子になってしまいそうだよ…。
淑子の生活には慣れないといけないけど、やっぱり男の勝に戻れたらなあ…。どうすれば戻れるのかなんてわからないけど…。
とにかく、学校に行かなくちゃな。淑子になったのも学校なんだから、行けば元に戻れるチャンスだってあるかも…。
大原たちもいじめをやめてくれたんだし。きっと、なるようになるさ…)

13 深謀

翌朝。淑子は、神妙な面持ちで家を出た。
(今日はどうなるんだろう…)
女子としての初登校には、どうしても不安が隠せない。

「おはようっ、淑子」
元気のよい声と同時に、淑子は背中をパンとはたかれる。驚いて振り向くと、笑顔の理絵が目に映った。
「淑子、今日も明るくいこうね!それじゃ、また学校で」
「お、おはよう理絵、それじゃ…」
あっけにとられる淑子を尻目に、理絵は通学路を早足で駆けていった。
不思議だ。勝だったころは、登校のときに理絵から声をかけられたことなんてなかったのに。
(うん、大原の言う通り、明るくいこう!彼女はもういじめっ子じゃない。大切な友達なんだ)
「晶、おはよう」
「棚橋くん、おはよう」
「真由美、おはよう」
早足になった淑子は、前を行くクラスメイトたちに笑顔で声をかける。
「あははは、おはよう!淑子」
「おはよう、岡部、いいぞ、おまえ」
まわりの明るい笑い声のおかげで、淑子は女子としての生活に自信がわいてきた。
(そうか、こういう態度なら、いじめられずにすむんだ。
おまけに、元に戻れそうな気までしてきたぞ!)

「みんな、おはよう!」
淑子が元気よく1年3組の教室に入ると、室内に歓声がわきあがった。
誇らしげな顔で、自分の座席へと歩く淑子。
そのとき、ひとりの生徒がモジモジと淑子の前に進み出た。
クラスメイトの中ではおとなしい、間宮基晴という男子生徒だ。
「お、岡部さん…」
「あっ、間宮くん、おはよう!なあに?」
「あの、これ、岡部さんの背中についてたんだけど」
基晴の手には、A4大の一枚の紙があった。
そこには、大きな字でこう書かれていた。

『私、岡部淑子は
昨日学校でおもらししました』


(この字は…大原のしわざだ!)
理絵に背中をはたかれたとき貼られたに違いない。
(あれから教室までずっと、ぼくはこの貼り紙をつけたまま…!?)
淑子が歓声や明るい笑い声だと思いこんでいたのは、おもらしした彼女へのほめ殺しと嘲笑の声だったのだ。
さっきまでの晴れやかな気分は、どこかへ雲散してしまった。
背中に貼り紙をつけたまま歩いた上に、周囲の態度を勘違いするなんて、ダブルで恥ずかしい。
(でも、どうして大原が…いじめはやめたんじゃ!?)

理絵が教室に入ってくる。
「理絵!これはなによ!?」
「ああ、やっと気づいたの?鈍いわね」
淑子が貼り紙を突き出すと、理絵は開き直った。
「まさか、教室までこの紙つけてきたの!?どこかで気づいて、とっくにはがしちゃったと思ってたわ」
「………」
「困った人ね、ノーパンさんは。自分がおもらししたこと、全校中に広めるなんて」
理絵は涼しい顔で、淑子を軽くいなす。
「じゃ、じゃあ、どうして昨日帰るときは、あたしにあんなに優しくしてくれたの?」
「あーら、あんまりいじめすぎて、登校拒否なんて起こされたらたまんないからじゃないの」
「そうそう。いじめにはバランスが必要なのよ」
横から真由美も相づちを打つ。
「じゃ、覚悟してね。ノーパンさん」
そう言いながら、自分の席につく理絵。
淑子は、放心して何も言えないまま天井を見つめる。顔から、光るものがひとつ、ふたつと垂れてきた…。

始業のチャイムが鳴る。今日も、淑子には受難の日となることだろう。




(作者からのメッセージ)
みなさん、本当にお待たせしました。『昼休み』の第2回です。
第1回発表後には、多くの感想、ありがとうございました。
次回はさらに淑子ちゃんがいじめられるだけでなく、話が新たな局面を迎える予定です。
それでは、お楽しみに!



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