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 季節外れの雪に彩られた商店街を、友人たちと下校する。
 グループの中でも一番大人びている女、美坂香里の名を取り、俺が美坂チームと命名した集団。
 美坂……学年一位の成績を誇る女、美坂香里。
 俺……北川潤。
 のんびり屋で猫と苺と睡眠をこよなく愛する美坂の親友……水瀬名雪。
 この3人に加え……
「ようやく春になったってのに、なんなんだこの雪は」
 そうぼやいたのは、冬休み明けに転校してきて、なんとなく言葉を交わすうちに仲良くなった男。相沢祐一である。
「この辺はこういうこともたまにあるよ」
 大げさに落ち込んでみせる相沢を水瀬が慰める。
 水瀬は相沢のいとこで、相沢は両親が海外に赴任することになったため水瀬家に居候する事になったという。
「……俺、国に帰る」
 などと訳のわからないことを言う。帰るところなんてないから居候することになったんだろうに。
「私のことをご両親に紹介してくださるんですか?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべるショートボブの少女は美坂の妹、美坂栞。
「……」
 栞ちゃんの表情に対し、沈黙を保つ美坂のそれは渋いものだった。
「ほ、ほら、あなたにはまだ早いとかなんとか言いなよ、香里」
 水瀬が美坂を肘でつつきながら言う。
「……」
 だが、沈黙は続く。
「いや、北川に突っ込みを期待してたんだが」
 相沢が俺に話を振るが、俺も何も言う気になれない。
「おーい……」
 相沢からは、このごろ暗いとよく言われる。
 だがそれは違う。
 相沢が知っている3学期の俺は、本来の俺ではない。
 いまの俺こそが本来の俺……いや、そうでもないか。


 俺には妹がいる。
 あいつは昔からずうっと入院していた。
 真っ白な部屋にひとりぼっちで、なにもできなかった。
 しかし、冬休みの終わりごろから良い兆候が出てきた。
 これからは普通のことができるようになる、あの笑顔が見られる、一緒にいられる。そんな希望が出てきた。
 それが嬉しくて浮かれていただけなのだ。
 だが、妹の病状は春を境に、これまで通りの状態に戻ってしまった。
 その上に、浮かれていた俺がそれまでにやらかしていたバカ騒ぎに対する自己嫌悪が加わって、ますます暗くなった気がしないでもない。

 更に、美坂にも妹がいて病弱だったと聞いた。
 相沢とともにいる栞ちゃん。
 あの子は、いまこそこうして元気でいるが、相沢が転校してきた冬には死を宣告されていたという。
 秋から美坂は妙によそよそしくなっていたのだが、そのためだったんだろうか。
 俺の妹は妹であんな状態だから、美坂の気持ちは痛いほどよくわかる。
 だが、大切な妹を失うのが辛いからといって、その辛さから逃れるために、残された時間が少ない妹の存在を無視していたという話を聞いて俺は引いていた。
 こうして、一見すると和やかに見える新生美坂チームは、少々ぎこちない空気をまとっていた。


「そこの人っ!」
「……え!?」
 突然の声。意識が現実に引き戻される。
「どいてっ! どいてっ!」
 声の方向に振り向こうとしたが時すでに遅く、激突したらしく全身に衝撃が走る。
 視界に入っていたものの中で認識できたのは……
 接近しつつある美坂の顔、手袋をした手で持たれた紙袋、白い羽。赤いカチューシャ。
 ……って、羽!?


紅い瞳に映るもの

 作:OLSON
原作:Key/Kanon   清水マリコ



 暗転していた視界が元に戻る。
「あいててて……」
 ……? なんだか違和感を感じた。
 声が変だ、体の感覚もおかしい。まるで自分の体じゃないみたいだ。
 体を酷く打ちつけたせいだろうか?
 おまけに、髪の毛全てを引っ張られるような感覚は……?
「あいたたた……あら? 栞はどうしたの?」
 聞き覚えがあるような、ないような男の声に目がはっきりと開く。
「栞……ちゃん? ぶつかってきた女の子を祐一と一緒に追いかけていっちゃったけど……」
 男の傍にいる水瀬は、なんだか戸惑っていた。
「そう、ほっとかれたの」
 その褐色の髪の男は、なんだか女みたいな口ぶりだった。
「あたしがあの子にした仕打ちを考えれば当然よね」
 そいつはまたも女言葉で呟き、俯いた。
「ちょ、ちょっと、どうしたの? 栞ちゃんは……栞ちゃんだって、ふたりのことすっごく心配してたよ? でも、どうしても会って話をしなければならないんだって言って」
「そう……」
 水瀬のフォローを聞いても、男の表情は優れない。
 その男に見覚えがあると思っていたら……

 ……俺!?

 ぼうっとしていた意識がはっきりと覚醒する。
「え? わ!? ど、どうなってるんだ!?」
「あ、香里。大丈夫?」
 水瀬は俺を見てそう言った。
 香里、って、なぜ俺がそう呼ばれる!?
「……あたし?」
 俺を見て呆然としながら、そう呟くもうひとりの俺。
 視線を下に向ける。
 大きな膨らみに押し上げられた紅いライン、女子の制服に付属のケープだ。
 こころなしかスースーする下半身。
 少なくとも俺には女装の趣味などない。
 うむ、絶対にない。
 ではなぜ? 気絶している間に着替えさせられた? んなアホな。
 では、まさか!? そんなマンガみたいな話が現実にあるはずが……
 改めて視線をもうひとりの俺に向けると、そいつは何やら神妙な顔つきで体をまさぐっている。考える事は同じらしい。
 わ、あんな所に手を伸ばしやがった。
「つ、ついてる……」
 赤面しながら呟く。
 ツイてるわけないよな、こんな厄介な事態が発生したんだから。
 当然ながら憑いてるわけでもないだろうし。
 というわけで、アレが付いてるという意味だろう。
 俺も真似というか仕返しで体をまさぐる。
「んふっ……」
 掌に、ふにっとした柔らかい感触と重み。そして胸からはむず痒いような心地よい感覚が伝わってきた。
「ちょ、ちょっと、何やってるのよ!?」
 そいつは俺の手を掴んできた。
 うわ、俺の手すっげー細い。まるで女みたいだ……って、
「痛て! 思いっきり掴むな!」
 振りほどこうとするが、男の手はびくともしない。
「あ、ごめんなさい」
 あっさりと解放される。
 俺とそいつとでは腕力が全然違っていた。
 これまでに観察して確認した要素から導き出された結論は……
「あの……ふたりとも何してるのかな?」
 赤面した水瀬の声で我に帰る。
「と、とりあえずこっち来て!」
 水瀬から少し離れた路地裏へと引っ張り込まれる。
 荒くなっていた呼吸が落ち着くと、男は俺が持っていたカバンに手を伸ばした。
 俺のカバンは古びたボストンバッグだったはずだが、無意識のうちに拾い上げ、ごく自然に持っていたカバンは皮の薄っぺらいものだった。
 それこそ女子が持つような。
 男は手馴れた感じでカバンの停め具をはずして、手鏡を取り出す。
 それをしばらく凝視した後、俺に向けてきた。
 それに写っていた顔は……
 俺が動かすとおりに変化する鏡の中の顔。波打った長い髪の女。
 案の定、美坂だった。



「……ごめんなさい」
 栞ちゃんは心底済まなそうな顔で俺に謝罪する。
 俺は栞ちゃんとふたりで並木道を歩いていた。
「ぶつかってきた人は、私がどうしても会って、お礼を言いたかった人に見えたから……」
 美坂ん家を俺は知らない。だから栞ちゃんの後をついていくことになった。
「ごめんなさい……」
 さっきから、栞ちゃんはずっと謝ってばかりだった。
 あのときの水瀬の台詞を考えると、栞ちゃんは『姉』の介抱もせず、激突してきた者の追跡を相沢と共に行ったことを悔やんでいるようだ。
 俺が沈黙を保っているため、『姉』は怒っていると思っているらしい。

 俺と入れ替わった美坂からは、不用意に妹と話すな、と釘を刺されていた。
 確かにボロが出たらまずいし、例の無視の一件が今だに尾を引いていて、姉妹の間でわだかまりになっているようだ。
 俺が勝手なまねをするわけにはいかない。
 だが、罪の意識に苦しむ栞ちゃんをこれ以上無視もできない。
 姉から無視されることは、あの頃に戻ったような不安感を与えてしまうのだろうから。
 どこか怯えたような栞ちゃんの顔は俺の妹を思い出させ、居ても立ってもいられなくなる。

 ぽふ……

「わっ……」
 かつて俺の妹にしてやったように、軽く髪をかき回してやる。
 こうしてやると、あいつは恥ずかしがって逃げようとしたけど、強引に撫で続けると心地よさそうに身を任せてたっけ。
「大丈夫だ……あ、いや、大丈夫……よ」
「お……お姉ちゃ……ん?」
 不審の目、やはりボロが出てしまうか。
 俺たちが入れ替わったことは隠すしかないという結論に達した。
 しかし、お互いの状況を説明し合う暇もなく相沢と栞ちゃんが戻ってきてしまい、怪しまれないためにそのまま帰ることになってしまった。
 美坂に伝えることができた唯一の情報は、俺は父さんとふたり暮らしだし、元々会話は大してなかったから気負う必要はない。というものだった。
 考えてみれば、俺ん家っていわゆる崩壊家庭ってやつなんだな。
 でも自分を不幸とは思わない。家族だろうが親子だろうがお互い干渉しない関係が気楽……という感覚が定着してしまっている。
 だが、栞ちゃんと美坂の関係は、少なくとも我が家のそれとは違うようだ。
 そうでなければ、こうも不安そうな顔で話しかけてきたりはしないだろう。
 こういうとき、『姉』は『妹』に対してどうしてやるべきなんだろう?

 頭に手をやったときに見せた戸惑い、ともすると怯えにも見えた表情に、俺は無神経なことをしてしまったのかと思った。
 化学療法により、髪の毛が全て抜け落ちてしまったガンの少年を扱ったドキュメンタリーを見たことがある。
 少年が回復して学校生活に復帰するとき、頭を笑われたりしないかと不安に思っていたが、クラスメート達は少年が気にしないようにと全員で頭を剃っていた……という話だった。
 もしかしたら栞ちゃんもそんな状態で、カツラをかぶってるのか?
 姉の美坂と髪の感じが違うのはそのためなのか?
 などと不安になってしまったが、栞ちゃんは表情を緩めてくれた。
 杞憂ですんだようだ。
 当然ながら触った頭の感触はカツラのものではなかった。
 俺の妹と同様に、心地よさそうな顔で俺が撫でるに任せきっている。
 俺や妹のくせ毛と違い、さらっとした栞ちゃんの髪は俺の攻撃がやんだらあっさりと元に戻った。
「あ……あたしなら大丈夫だから安心して」
 更に安心させるため胸板を叩いた……つもりだったのだが。

 ふにょん

 掌に伝わる柔らかく温かい感触。それと共に、胸にふたつの膨らみがあることを実感してしまった。
「んっ……」
 下着と思われる布地に突起が擦れたのか、甘い痺れが走る。
 栞ちゃんは再び怪訝な顔で俺を見つめてきた。
 気まずい沈黙。
「あの、栞ちゃ……いや、栞?」
 まずい、まずいぞ。
「どうせ私の胸は小さいですよ」
「……え?」
「見せ付けなくてもいいじゃないですか」
 膨れっ面で言い放つ。
 そうか、栞ちゃんの胸は小さいのか。
 いや、そんなことを納得している場合じゃなくて。
 とりあえず苦笑しながら、ぽん、と栞ちゃんの背中を叩く。
 そして栞ちゃんも笑顔で返し、歩みを再開した。

 しかし……
 振り向く。
 この並木道。
 ここに来るのは初めてのはずだ。
 だが、何だか概視感を感じる。
 ここが大切な場所のような、いや、大事なものがあるような気がする。
 だが、その感覚はどうしても形にならなかった。



「どうすりゃいいんだ……」
 想像していた女の子の部屋のイメージからかけ離れた、よく言えばシンプル、悪く言えばファンシーな品があまりない殺風景な部屋。
 俺はいま、そんな美坂の部屋にいる。
 帰ってきたのだからさっさと制服脱いで着替えるべきなのだろうが、着替えるからには当然ながら服を脱ぐわけで。
「うーむ、まずいよな……」
 更なる問題がひとつ。
 帰宅早々尿意にせかされトイレに駆け込み、否応なしに男女の体の違いを突きつけられた。
 更に、敏感なところをケツ拭く感覚で無造作に拭ってしまって、強烈な刺激が股間から背筋を電流のように駆け抜けた。
 痛みとむず痒さが入り混じった未知なる刺激により、変な声を漏らしてしまって気まずかった。
 落ち着いてゆっくり拭いてみると、尿が出た辺りにイボのような突起を感じた。さっきの刺激はそこから伝わってきたようだ。
 おそらく……アレだろう。
 変な事を考えないように気をつけながら力加減をどうにか身に付けて拭き終え、トイレを脱出したのがついさっきのことだった。
 ……惜しいことをしてしまったような気がしないでもない。
 なんだか下腹部全体が妙に火照り、切なくなってきた。
 更なる刺激を自らの手で与えたい衝動を堪えていたが、このままだとどうも落ち着かない。
 だが、当然ながら女体の感覚に慣れているはずもなく、どうにも勝手がわからない。
 この感覚は、おそらく女の性欲なのだろう。
 それを紛らわすため、色々と真面目な事を考えたり何かほかの事をしようとするが、意識はどうしても自分には存在しないはずの器官へと向かう。
「大佐、性欲をもてあます」
 ……違う。
「許せ、美坂」
 ごくりと唾を飲み込み、恐る恐る股間に手を伸ばす。
 さらさらとしたスカートの生地を掻き分け、奥のほうへ進入させ……

 ノックの音

 強張っていた体が跳ね上がると共に、股間に這わせていた手を慌てて引き抜いたため、敏感な部分を思い切り擦り上げてしまい……
「くうっ……!!」
 強烈な刺激が走った。
「お姉ちゃん、入っていいですか?」
「はっ……はひ!」
 腰全体に走った刺激の余波を堪えながら、どうにか返事をすることに成功した。
 扉が開くと、そこには声の主である栞ちゃんがいた。
「お風呂、沸きました」
「そ……そう」
 風呂……入らないわけにはいかないよな。
 美坂だって自分の体を不潔にされたら困るだろうから、許してくれるよな?
「……」
 栞ちゃんは、なにやら浮かない顔で俺を見る。
「どうしたんだ? いや、どうした……の?」
 やっぱり、異変に気付いたのだろうか?
「その……」
 まずい、まずいぞ。
 沈黙の後、栞ちゃんは口を開いた。
「久しぶりに、一緒に入りませんか?」
「……へ!?」
「嫌、ですか?」
 別に、俺が美坂と入れ替わった事に気付いたわけではないようだ。
 風呂をご一緒、か。
 なるほど、言われてみれば、栞ちゃんは着替えと思われるパジャマや下着を抱えていた。
 美坂が身につけていた黒のセクシーな下着と違い、栞ちゃんのは純白で小さなリボンの飾りがついた可愛いものだった。
 これは栞ちゃんの大人しめなイメージによく合っていた……って、観察しちゃまずいだろ。
 それにしてもパジャマ……?
 なんなんだ、ひらひらのフリルがついた少女趣味全開の、どピンクなパジャマ(らしきモノ)は?
 フリル付きワンピースって、まるでどこかのお姫様が着るナイトドレス……栞ちゃんの趣味なんだろうか?
 それにしても風呂か、俺の妹とも子供の頃は一緒に入ってたな。懐かしい。
 ……って、やっぱりまずいだろ。
 ただでさえトイレ、着替え、入浴、パジャマ姿と乙女の秘密に思いっきり踏み込んでしまうのだ。
 まして、美坂の妹にして親友の彼女と一緒なんて……
 でも。
「お姉ちゃん……」
 寂しげな顔で俺を見る。
 もう、栞ちゃんにこんな顔はさせたくない。
 美坂だってそうだろう?
 一旦深呼吸して口を開く。
「そう……ね、久しぶりにご一緒しよっか」
「はいっ」
 はきはきとした答え。この笑顔をみて胸に温かいものが広がった。

 それからタンスの中を物色したが、妙な感覚を抱くこともなく着替えを用意できた。
 この胸の温かさが、スケベ心を押し流してしまったようだ。
 それにしても、栞ちゃんのセンスがアレだから、もしかして美坂もああなのかと危惧していたが、タンスの中身は……なぜにジャージ?
 タンスの中に衣類はさほどなく、色々な小物も収納されている。
 普段着と思われる服は数少なく、その内訳の大半はジャージだった。
 赤いのがせめてものおしゃれ……なんだろうか?
 まあ、穿くだけなのだから中身が男でもあれこれ気にしなくてすんで、この場合は助かるのだが。
 だけど毛玉はなんとかしろ、毛玉は。物持ちがいいのは美徳かもしれないが。
 でも、せめてスパッツなら……いや、そういう問題じゃない。

 脱衣所に向かう。
 脱ぎ方を試行錯誤しながら、妙な事を考えないよう自分自身に言い聞かせて脱いでゆく。
 うう、ブラはどうやって外しゃいいんだ。留め金をどうやりゃいいんだか。力任せに引っ張ったら壊れそうだ。
「……お姉ちゃん」
 不安そうな声。
 目をそらしているため、やっぱり嫌がられていると思ったらしい。
 仕方ない。覚悟を決めて正面から栞ちゃんに向き合おう。
 役得だなんて考えてない。俺は純粋に栞ちゃんの不安を取り除いてやりたいんだ。
 本当だ。女の子と風呂をご一緒する事に高揚感を感じているような気がしないでもないが、それでも、純粋に安心させてやりたいだけなんだ。
 と、そのとき乳房が重力に引っ張られる感覚。どういうわけかブラが外れた。止め具は前の谷間のところにあったのか。ふむふむ……こういう構造になっているのか。
 おお、やっぱりでかい。ふかっとした感触も頷ける。
 いや、冷静に観察してる場合じゃない。
 視線を栞ちゃんに向ける。
 すると、栞ちゃんは体を隠そうともせず腕を後ろで組み、むしろ体全体を見せつけるように胸をそらせていた。
 可愛らしいふたつの膨らみ。そして、その下に……
「……栞」
 綺麗な肌に走る数本の線。
「あは……手術難しかったから、どうしても傷跡は小さくまとめられなかったそうです」
 一本はわき腹からえぐるように、一本はへその脇を縦に、一本はささやかな茂みの上を横に。
 死を宣告されていた少女が未来を取り戻すために受けた、過酷な試練の証だった。
 この手術の苦痛。そして、これほどの手術を受けねばならないほどの病魔がもたらした苦痛に考えを巡らせる。


 〜3学期〜

「上級生のみなさんに囲まれて緊張します……」
「大丈夫だよ。俺だろ? 名雪に、香里もいるし」
 学食で緊張している栞ちゃんの髪を、相沢がくしゃっとかき混ぜながら言った。
「オレもいるしな」
「北川は初対面だろう」
「けど、最初に中庭にいる栞ちゃんを見つけたのはオレだぞ。あのとき相沢に言わないで、オレが栞ちゃんに会いに行けばよかったなあ」
 冗談めかしてそう言った俺に対し、
「結果はいまと同じだと思うけどね」
 と、美坂からクールな突っ込みが入ってテーブルについたみんなが笑った。


 あの時の栞ちゃんは、病魔がもたらす苦痛と試練に対する覚悟を背負っていた。
 この小さな体でその全てを受け止めて、それでもなお元気に笑っていたんだ。
 傷跡が縦横に走る栞ちゃんのお腹に手を伸ばす。
「お姉……ちゃん?」
 病魔は、この肌をも蝕んでいたに違いない。にもかかわらず血色がよく、きめ細やかですべすべとした感触。
 栞ちゃんが健康を回復した……試練に打ち勝った証だった。
「よく、頑張ったね」
「……はい。これまでできなかったことも色々とできるようになりました」
 明るい笑顔でそう言い、
「でも、ビキニで海水浴は無理ですね」
 と、悪戯っぽい笑みで付け加える。
 強いな。女の子が背負うには大きすぎるものだろうに、笑顔でこんなふうに言えるなんて。
「栞ちゃ……なら、そういうのよりワンピース、それこそスクール水着のほうがずっと似合うんじゃない?」
「あ、確かにあれなら大丈夫……って、私が子供みたいな体型ってことですか!?」
「大丈夫だって、そういう体型のほうがいいって男もいるんだから」
 少なくとも俺はそう……かもしれない。
 今こうして俺も裸になっている。
 美坂の豊満な胸には当然ながら激しくそそられて、思い切り揉みしだきたい衝動にかられたものだが、小ぶりで女の掌にもすっぽり収まってしまいそうな栞ちゃんの可愛い胸も、これはこれで捨てがたい。
 って、俺は一体何を考えている!?
「そんなこと言うお姉ちゃん、嫌いです」
 拗ねてそっぽを向いた……可愛い。

 ふたりで湯船に入る。
 肩を寄せ合い、ゆっくりと温まる。
 昔は、妹ともよくこうしてたな。
 体が女なためか、栞ちゃんが背負っていたものに改めて気付いて厳粛な気持ちになっているせいか、不思議といやらしい気持ちは涌かない。
「……ごめんなさい、お姉ちゃん」
「だから、もういいってば。気にしてない……わ」
 やっぱり女言葉は抵抗がある。いいかげんボロが出そうな気がするが、栞ちゃんは怪しむそぶりがない。
 この姉妹の会話は、普段からこんなにぎこちないものだったのだろうか?
 それだけ、無視の一件がもたらしたわだかまりは深いものだったのだろう。
「今日のことだけじゃなくて、私のためにお姉ちゃんはいろいろな事を我慢してきて、無理してきて」
「オ……いや、あたしが姉なんだもの、当たり前よ」
 俺だって『お兄ちゃんなんだから』と色々我慢させられることがあったが、別に嫌じゃなかった。むしろ、我慢できる自分が誇らしかった。
「でも、私の治療費のためにお父さんもお母さんもお仕事無理してきたし、お姉ちゃんの進学費用も出せなくなっちゃって、奨学金をもらえるだけの成績出すために無理してて……私なんかいなければ、もっともっと学園生活を楽しめたのに」
 悲痛な顔で言う。
「栞……」
 そうか、俺とは境遇が違ったな。
 俺ん家だって、妹の入院費用により家計は決して豊かではない。
 だが俺は、そういう事情を抜きにしても進学など考えてなかったし、そんなに成績もよくなかった。
 だが、美坂はなまじ勉強ができる分諦めきれず、それがお互いに大きな苦悩を生み出していたんだろう。
 栞ちゃんが俺たちに対してだけじゃなく、姉妹の間でも丁寧語で話すのはこのためかもしれない。
 自分の病気で家族に迷惑をかけてしまっている、という負い目が、こういう話し方にさせてしまうのだろう。
 でも、健気じゃないか。こんないい子を無視するなんて、美坂は……
 ……いや、だからこそなんだろうな。
 俺だって、あれからずっと妹と一緒にいる時間を得られたら、その上で失ってしまうとしたら。
 美坂が妹を無視していたという話を聞いて、引いていた自分を恥じた。
 俺は美坂が背負ったものを形の上で知っていただけだった。ちっともわかってなかったんだ。
「バカね……栞抜きの学園生活なんて意味ない……わ」
 少なくとも俺としてはそうだ。そしてきっと美坂としてもそうだと思う。
 栞ちゃんの強さ、そして心の美しさを知った今、この子が欠けた美坂チームも、そんなチームで過ごす学園生活も考えたくなんてない。
 ひし、と抱きしめていた。
「お、お姉ちゃん?」
「ごめん、ごめん……ね、何もしてやれなくて」
 栞ちゃんに対してだけじゃない。
 美坂と相沢に対しての謝罪でもあった。
 この姉妹と相沢が背負っていたものに気付けなかった自分が情けなかった。
 死を本気で正面から見据えた人間と付き合うには、その相手にもそれ相応の強さが要ると思う。
 そして相沢は、栞ちゃんが手術を受ける前の、死を見据えていたころから付き合っていた。
 それだけの強さを相沢は持っていたのだ。
 転校してきてからほんの数週間の付き合いで、これだけのものを背負っていた栞ちゃんを支えてみせた相沢に嫉妬した。
 そして、相沢が背負っているものを何も知らず、3学期半ばに催された舞踏会のときのタキシードが入ったカバンを「ゴミ袋か?」とバカにされてブチ切れそうになった自分が恥ずかしかった。
 相沢は、学校の思い出を姉妹で共有させてやりたかったんだと思う。
 当然ながら舞踏会にも参加させようとしただろう。
 だが、あのときの栞ちゃんの体では叶わなかったに違いない。
 そんなときに、呑気に美坂だけを誘おうと考えていた俺の姿はさぞかし腹立たしく映ったことだろう。
 この姉妹が背負っていたものを俺がもう少し早く知ることができていれば、もっともっと沢山の時間を共有させてやれたかもしれない。
 いや、俺にはそれすらも無理だ。
 恋人……いや、友人や妹のような感覚の付き合いだったとしても、栞ちゃんを受け入れる強さなど俺にはない。
 この子が背負った運命の重さに耐え切れず、あっさりと逃げていただろう。
 こんな俺が美坂を好きでいる資格なんてない。
 抱きしめる力を強める。
 俺にはこんなことをする資格もないのに。
「あの……お姉ちゃん」
 この行為が姉としてなのか、兄としてなのか、異性としてなのか、そもそも自分の妹と重ねて見ているだけなのか、よくわからない。
 ただひたすらに、いとおしい。
「もう……駄……目……」

 ぶくぶくぶく

「わっ!? 栞ちゃん? 栞ちゃーんっ!」



 栞ちゃんにパジャマを着せて、リビングのソファに寝かせた。
 美坂の両親はいまだに帰ってこない。
 栞ちゃんの治療費を稼ぐため、両親は仕事で無理をしているそうだ。
 治ったといっても完治したわけではなく、その後の経過観察やら何やらでまだまだ医療費はかかるのだろう。
 借金もあるのかもしれない。
 そして、美坂も奨学金を得るために勉強で無理をしているという。
 学年一位の女が背負ったもの……重過ぎるよな。
「あはは……のぼせちゃいました」
「ゆっくり寝てなさい。ごめん……ね、栞」
 栞ちゃんはしばしの沈黙の後、
「本当、自分の胸の大きさを自覚してください。息できませんでした」
「胸……って」
「でも、これで今日の一件はおあいこですね」
 またも悪戯っぽい不敵な笑顔を浮かべ、あっさりと許されてしまった。
 もしかしたら、無視の一件もこんな感じで、あっさりと許されてしまったんじゃないだろうか?
 恨み言を口にする栞ちゃんの姿なんて想像できない。
 仮に口にしたとしても、それこそのぼせた一件のように不敵な笑顔でおどけながら言う光景しか浮かばない。
 だが、美坂の性格では自分自身を許せなかったんだろう。
 なまじ責められない分、辛いのかもしれない。
 罰を求める責任感の強い姉と、そんな考えがはなから頭にない優しい妹。
 難しいな。何とかならないだろうか?
 俺なんかにできることはあるんだろうか。

 深い思考に陥っていた意識は、突然に鳴り響いた電話のベルによって覚醒した。
「はい、きた……美坂……です」
『……北川……君?』
「ああ美坂か、どうした? ……って」
 栞ちゃんが傍にいることを思い出し、咳払いして言い直す。
「あら、北川君じゃない。どうしたの?」
『……』
 絶句。
 無理もない。美坂の声とはいえ、俺が女言葉で話すのだ。引いたとしても文句は言えまい。
『様子は、どうかなって』
 美坂はこちらの状況を察したのか、変に追求はしてこなかった。
「ん……まあ、何とかやっていけてる……わ。栞も元気、安心して」
 風呂でのぼせてしまったわけだが、それを話せばご一緒した事も話さねばなるまい。
 ややこしくなるので今は黙っておこう。
 ……問題を先送りしてるだけだな。
『そう、よかった』
 安堵の声。姉が妹の事を想ってないわけがないんだよな。
 問題は、ふたりの間に残るわだかまりなんだろう。
「そっちはどう?」
『こっちは、ちょっと』
「どうした……の?」
 何だ? 美坂にはなにか問題あるのか?
『あの、その……こういう状況だから、北川君にしか頼めないことなんだけど』
 口調は普段の美坂のそれだった。この時間ならまだ父さんは帰ってきていないため、ひとりきりなのだろう。
 それにしても、俺にしか頼めないとはどういうことなのだろう?
 ……!? 俺を信頼してくれているのか?
『あ、あの……』
 そうか、それならその信頼に答えよう。
 過ぎてしまった時間を悔やんでも仕方ない。これからできることを考えよう。
『え、ええと……』
 早く話すのだ、美坂よ。
 もう、お前ひとりで背負い込むことなんてないんだ。
 俺も背負ってやる。いや、背負わせてくれ。
『あ、あの、その……』
 俺は、お前達のためならどんなことでもでもしてやる。
 電話越しに深呼吸するのが聞こえた。
 一言一句聞き漏らすまいと耳を澄ます。

『Hな本の隠し場所、教えてくれない?』

 美坂姉妹が背負っているものに直面して芽生えた厳粛な気持ちは、あっけなく吹っ飛んだ。
『アレするときっておかずが必要だから、男ならみんな持ってるんでしょ?』
「……」
『その、アレは男なら誰でもすることだから……』
「……」
 頭痛がしてきた。頼む美坂、お前黙ってろ。
『おしっこは狙い定めるのが大変だったけど、立ったまますぐにできて便利だなとか思ったんだけど……』
「……」
『拭いたら先っぽが変な感じして、なんか気持ちよくって、ちょっと元気になっちゃって、収まらなくて』
 ……んなモン振るっときゃいいんだ。
『ほら、あれ……生産は止まらないわけだから、溜めるばかりじゃ健康にも悪いのよ。きっと』
 確かにそういうものなんだけど。
 そう言えば、手持ちのエロ本に飽きてしまったため、ここ数日は処理してないから溜まっていたはずだ。
『定期的に出さなくちゃ……』
「……」
『き、北川君? もしや放置プレイ?』
 何故そんな言葉を知っている。
「自分の体でも思い出してりゃいいだろ……」
 頭痛を堪えながらどうにか返答した。
『そ……それはちょっと』
 そりゃそうだ。
 今の俺だったら自分のナニを想像して……
 体の奥が僅かに熱く疼いた。
 なに考えてるんだ俺は。美坂の体も、それに反応するな。
 脳裏に浮かんだ俺のナニを必死で追い出す。
 俺にそんな趣味はない。
 だが、男と女では体だけではなく脳の構造も違うという。
 だからだ。俺自身にそんな趣味はなくても、美坂の脳や体が勝手に反応してるだけなんだ。
 もしかしたら……栞ちゃんのことをこんなにもいとおしく感じるのも、脳が美坂のそれだから、その影響なのかもしれない。

『きゃあ!』

 電話越しに俺な美坂の悲鳴が飛び込んできた。
「ど、どうしたんだ?」
 近頃はなにかと物騒だ。強盗でも入ってきたか!?
 美坂の元に駆けつけようと足腰に力が入る。
 しかし、いま俺は女なわけで腕力は心もとない。
 そこらじゅうに目をめぐらせ、戦闘態勢をとるための武器になりそうなものを探す。
『すごい……本当にこんなところが固くなってる』
「……」
 自分の体を脳裏に浮かべて俺のナニが戦闘態勢になってしまったのか。
 我が愚息よ、少しは節操ってものを持て。
『今、動いた……びくんって』
 美坂、テレホンSEXみたいな真似は止めてくれ、頼むから。
『び、びくって……』
「美坂ぁ〜」
『えっ……? あっ、ご、ごめんなさい。今度は大丈夫。ちゃんとするから』
「うわっ、救いようがねぇ」
 後でしろ……。というか『ちゃんと』というのは、どう『ちゃんと』するのか甚だしく気になる。
『こんなのあたしの体じゃない〜〜〜』
 その通り、俺の体だ。というか人の体つかまえて、こんなのとは何たる言い草だ。
 もしや、美坂は美坂で、俺の脳、俺の体、そして俺の性欲の影響を受けてこうなってしまってるんだろうか?
 なりたての男ゆえに、美坂も未知なる感覚に翻弄されているんだろうか?
「大佐、性欲をもてあます」
 ……違う。
「ブルータス、お前もか」
 男ってどうしようもない生き物だな……

「あの、お姉ちゃん?」
 栞ちゃんの声で我に返る。
「……栞? どうしたの?」
「電話の相手って北川さんですか? でしたら替わってもらえませんか?」
「オレ? じゃない、北川君に? いいけど」
 改めて、なにやら怪しげな状況にある美坂に話しかける。
「栞……が、あんたと話したいそうよ」
『あんたと……? え? だ、誰と?』
「『北川君』と話したいそうよ、さっきみたいなバカなこと言わないでね」
『わ、わかったわ、替わって』
 しばらくの沈黙の後、神妙な声でそう言った。
 美坂は男の性欲にさいなまれ混乱していたが、俺が『北川君』と強調した事でようやく状況を把握したようだ。
 栞の名が美坂に活を入れたらしく、妙に上ずった感じはなくなっていた。
 やんちゃな我が愚息もようやく真面目になり、大人しくなったようだ。
 栞ちゃんに受話器を渡す。
「栞です。あの、本当は電話越しでこんな話は失礼なんですけど、でも、面と向かって言うのはちょっと恥ずかしいので……聞いてもらえますか?」
 ちらりと俺を見ながら言う。
 美坂からの返答の間の後、続ける。
「私、たくさんの人から生きる力をいただきました。その力のどれか一つが欠けたとしても、私は生きていられなかったと思います」
 一旦深呼吸し、口を開く。
「そして、力をくれた人のひとりが、北川さんなんです」



 真っ暗な部屋の中、俺は眠る事ができないでいた。
 枕が替わったせい……などではない。
 栞ちゃんの話が俺に衝撃を与えていた。
 相沢は、栞ちゃんが背負った運命を知った上でなお普通に恋人として接していた。
 それがあの子の望んだ事だからだ。
 だが、相沢はどうしても悲壮感を抑え切れず、それを察してしまった栞ちゃんが気を遣うことも少なくなかったらしい。
 栞ちゃんは入院しがちだったため学校にもあまり行けず、友達などの人間関係は非常に狭かったそうだ。
 つまり、接する事ができる人の大半は家族や医師、看護婦さんといった深い事情を知る者で占められたことになる。
 周りの人間が、自分の命が長くない事を知った上で辛い思いを堪えて接してたとしたら、その生活は非常に窮屈なものだったろう。
 だから、何も知らず本当に普通に接していた俺や水瀬が与えたささやかな日常は、栞ちゃんにとって心底心地よいものだったそうだ。
 あの子が受けていた治療は、手術の痕跡からも想像できたようにとてつもない苦痛を伴うものであり、成功率も絶望的に低いものだったらしい。それこそ、奇跡を期待するしかないほどに。
 だから積極的な治療は諦め、死は回避できないとしても苦痛だけは抑え、残された時間を穏やかに過ごせるようにする方針を取っていたそうだ。
 少なくとも、その方法には確実性があったのだから。
 だが、相沢と過ごす時間があの子を変えた。
 絶望的なまでに分の悪い賭けだとしても、生きたい、そう考えるようになった。
 治療を決断する勇気も、耐え抜く気力も相沢が与えたのだ。
 そして、その相沢との出会いは俺が取り持っていた。
 3学期の初めごろ、授業中に何気なく中庭を覗き見てあの子を見つけ、妙に気になり相沢にその存在を伝えた。
 栞ちゃんと相沢の付き合いはそれがきっかけだった。
 あの何気ない行動が姉妹の運命を大きく変えていたのだ。

 美坂姉妹に何もしてやれなかった無力感に苛まれていたが、なんだか気が軽くなった。
 そうなんだ、自分にできることをするしかない。それでいいんだ、焦ることなどない。
 栞ちゃんに勇気や気力を与えるのは相沢の仕事。そして、その出会いを取り持ち、ささやかな日常を与えるのが俺の仕事。それでいいんだ。
 これが最良の役割分担だったのかもしれない。
 問題はこれからだ。俺にできることは何があるだろう?
 そうだ、来年の舞踏会は美坂チーム全員で参加しよう。この調子なら栞ちゃんも参加できる体力がつくだろう。
 でもその前に、進路を気にせず参加できるように勉強を頑張るか。
 というか、まずは元に戻らないと話にならないか。
 ……。
 俺、美坂であり女……なんだよな?
 色気のない白のTシャツ越しに胸を触ってみる。
 窮屈なのでブラはしていない。というかつけ方がわからなかった。
 心地よい重みと柔らかさ、かすかな弾力。
 これでもかと言わんばかりに女体であった。
 美坂は俺の体で、今ごろは俺のコレクションや豊満なこの体を脳裏に浮かべ『処理』している事だろう。
 いや、もしかしたら栞ちゃんの体かも……って、バカな事は考えるな。
 ……。
 俺も、させてもらってバチは当たらないよな?
 お互い様だもんな。
 手をそろりそろりと毛玉だらけのジャージに突っ込み、股間に導き……
 ……。
 なんだか、栞ちゃんの話を聞いたら頭の中がまじめな方向にしか向かわず、なかなかその気にならない。
 やめだ、やめ。

 ノックの音

 股間に這わせていた手を慌てて引き抜いたため、またも敏感な部分を思い切り擦り上げてしまい……
「んくぅっ……!!」
 やっぱり、なりたての女ではこの刺激には慣れることができない。
「お姉ちゃん、入っていい?」
「はっ……はひぃ」
 慣れることはできないが刺激の余波を堪えながら、どうにか返事ができた。
 扉が開くと、栞ちゃんは大きな枕を抱えて俺を見ていた。
「どうした……の?」

 ドクン

 まださっきの刺激が体内でくすぶっていて、火照りに変化してきた。
 まずい、まずいぞ。
 立ち去れ、立ち去るんだ体の火照りよ。
「久しぶりに、一緒に寝てもいいですか?」
「なっ……!」
 なにやら胸の鼓動が早くなったような気がする。
 おいおい、落ち着け美坂の体。妹なんだぞ、妹! しかも血が繋がってる! それに女同士だ。
 あ、いや、そういう問題じゃない!
 でも、俺にとっては異性の可愛い子で惚れた女の妹で相沢の彼女で。
 どうやら、女の肉体と男の精神がぶつかり合ってショートしてるみたいだ。
「駄目……ですか?」
 不安に満ちた、保護欲を駆り立てられる表情。
 くうう、この顔には弱い。
「……おいで」
 変なこと考えるなよ、俺。美坂の体も変な反応はしないでくれよ。
 そう祈りながら布団を上げてやると、栞ちゃんは、はにかみながら潜り込んできた。
 栞ちゃんの笑顔を見ると体の火照りはあっさり収まり、それとは違った温かいもので胸が満たされる。
 幸いにして、俺の精神にも美坂の脳にも、近親相姦や同性愛のプログラムはないようだ。
「ふふ、あったかい」
 そう言って微笑む栞ちゃんの頭をごく自然に撫でてやれる。この温かい気持ちは兄や姉が妹に対して抱くもので間違いなさそうだ。
 考えてみれば、俺が妹と一緒に暮らしていた頃は、こんな感じで一緒に寝てたっけ。
 寝てる間にあいつが俺の布団に潜り込んでる事がよくあったな。
 それにしても同性愛って……男女で入れ替わった場合はどうなるんだろうな?
「……」
 なでなでに心地よさそうにしていた栞ちゃんの表情に、かすかな陰りが入る。
「私、お姉ちゃんにたくさん迷惑かけてますね。私のせいでお勉強は大変になったし、他のみんなみたいに家族で旅行とかできなかったし」
「まだ言ってるの? もういいって。家族なんだし、きょうだ……姉妹なんだから、どんなに迷惑かけたっていいの。だいいち、迷惑だなんて思っていない……わ」
 本来は他人に過ぎない俺が、こんなことを言うのは差し出がましいとは思う。
 でも妹に対する美坂の想いを考えたら、きっと同じことを言うと確信している。
「……お姉ちゃん」
 すっ……と伸びた手が俺の頬に触れる。
 あたたかい。
 俺の妹が元気になったなら、あいつともこんなことができるだろうか?
 いや、無理か。もう、俺たちは大きくなってしまった。男と女じゃまずいよな。
 それに、あいつも俺と父さんに迷惑かけてしまったと負い目に感じるだろうな。
 気に病まないようにうまくフォローしてやらなくては。
 そんなことを考えながら栞ちゃんの体に手を回す。すると、すっぽりと両手の中に納まってしまった。
 改めて、この子の小ささ、そして、この小さな体で背負っていたものを実感した。
「強いね、栞」
 心底、そう思えた。
 だが栞ちゃんはゆっくりと首を横に振り、俺の頬に当てていた手を引っ込めた。
 そして手首をむず痒そうに擦る。
「もう傷はよく見ないと判らなくなったけど……私、あんな馬鹿なことをしてしまいました。強くなんてないです」
 馬鹿なこと? いったい何だ?
「お父さんやお母さんだけではなく、お姉ちゃんが無理してるのも私のせいだって知って、もう迷惑かけられない、誰も苦しませたくないって思って、早く、いなくならなくちゃ……って思って」
 ……!? 手首に傷があるってことは、まさか!
「でも血が出てきたときに、昼に出会った祐一さんと、そのお友達のことを思い出して、今の自分がどうしようもなく惨めに思えて……つられるように笑って、本当に久しぶりに笑って……次の誕生日まで生きられないってお姉ちゃんに教えられた時にも流さなかった涙が流れて……」
 一呼吸おいて続ける。
「笑って出たはずの涙が止まらなくて、もう、おかしくもないのに涙が止まらなくて、自分が、悲しくて泣いていることに気づいて、そして、ひとしきり笑ったら……腕、切れなくなっちゃいました」
 そう言って微笑む。
 そんなことがあったのか。俺がどうこうする前に、既に相沢とは出会っていたのか。
「そのあとお姉ちゃんが私の部屋に駆け込んできて、手首から流れる血を見て私をひっぱたいて……手首より痛かった。あのときの泣きながら私の手当てをするお姉ちゃんを見て、自分がどれだけ馬鹿なことしたのかって思い知らされて」
 そうか。無視していたとしても、やっぱり妹を気にかけていないわけがなかったんだな。
「あれから、どんな顔してお姉ちゃんと話していいかわからなくて、お姉ちゃんが学校行ってからは家で一人ぼっちで」
 これは本来なら美坂が聞くべき話だ。
 どんな形であれ人生を共にする覚悟を決めた者が聞くべき話だ。
 これを聞かされた俺も、どんな顔して美坂に会えばいいんだろう?
 美坂に話してやるべきだろうか?
「これからどうしていいかわからなくて。あてもなく街を歩きながら、残された時間で何していいか、何ができるか考えて……気付いたら、ふらりと学校の校庭にいて。そのとき、私はお姉ちゃんと一緒に学校に行きたかったんだって思い出したんです。でも、ずっと休んでたから中に入る勇気が出せなくって」
 あのとき何気なく見た中庭で見つけた少女が妙に気になったのは、そのためだったんだろうか?
「そんなとき中庭に現れたのが祐一さんだったんです。これが運命なんだって思って、残された時間で学園生活を精一杯楽しもうって思って……でも、そうしてるうちにもっともっと皆さんと一緒にいたいって思うようになっちゃいました。欲張りですね、私」
「そう……だったの」
 あの時点では、治療はまだ決断できてなかったのか。
 改めて、俺が取り持った縁の重さ、そして、俺たちがもたらしたささやかな日常の価値を実感した。
「あの時の祐一さんのお友達とは、全然会えていないんです。だから、今日お姉ちゃんと北川さんにぶつかった人がそっくりだったんで……」
 なるほど、姉の介抱ではなく突き飛ばした奴の追跡を優先したのはそのためか。
「お礼、ちゃんと言わないとね」
「……はい」
 栞ちゃんの背中に回した手に力を込める。
 心地よい温もり。もし俺も女だったなら、大きくなった今でも妹とこんな温もりを味わえたのかな。
「ずっと、こうしていられるといいね」
 このまま元に戻れなくたっていい。一瞬だがそんな考えが脳裏によぎった。
「そうですね。でも、一緒に寝るのは今夜で最後にします」
「……え?」
「お姉ちゃんに甘えるのはこれで最後です。私、自立しなきゃ」
 ぐっと両手に握りこぶしを作り、闘志に満ちた顔で言った。
「お、おいおい」
「お姉ちゃんは、私のせいでたくさんのことを我慢してきたんですから。もうそんなことはしないで、自分自身の人生を考えて、自分のしたいことをして欲しいんです」
「……」
「私、知ってます。お姉ちゃんに好きな人がいること」
「えっ……!?」
「私に遠慮して我慢なんかしないで、もっと自分の人生を楽しんで欲しいです。私、祐一さんたちと一緒にいられてすっごく楽しい。でも、お姉ちゃんが我慢してたら意味がないんです。側に居てくれる人が、同じ時間を一緒に感じて、一緒に楽しんで、それで初めてかけがえのない思い出になるんです」
 そう言って栞ちゃんは俺の胸に顔を埋めた。
「だから、お姉ちゃんに甘えるのはこれで最後」
 心地よい温もり、胸いっぱいに広がる温かい気持ち、満ち足りた思い。これが最後なんて。
 ……だとしたら、俺が受けていいものではない。
 確かに、栞ちゃんだって自立しなければならない時がいつか来るだろう。
 でも、最後の温もりは姉である美坂が味わうべきなんだ。
 ……。
 深呼吸して、口を開く。
「寂しいこと言わないでよ。せっかく一緒にいられるようになったんだから、もっともっと甘えてよ」
「……でも」
「オ……あたしが、栞を可愛がりたいの。これが、あたしのやりたいことなの」
 そうだよな? 美坂?
「そんなに焦る事ないわ。しばらくはシスコンってからかわれるくらいにべったりでもいいじゃない」
 焦ることはないさ、お互いに。
「お姉ちゃん……」
「それに」

 ぷに

「きゃ!」
 栞ちゃんの可愛い胸をつつく。
「まだ胸がこんなに小さいじゃない、自立なんて十年早いわ」
 ……俺、とんでもないことしてるな。
「えぅ……胸は関係ないじゃないですか。そんなこと言うお姉ちゃん嫌いです」
 膨れっ面でそう言った後、
「私、なんかお姉ちゃんに吸い取られてます。返してください」
 なにやら危険なものを感じさせる子悪魔的な笑みを浮かべた栞ちゃんは、またも俺の胸に顔を埋めた。
 そして、ぐりぐり〜と胸に埋めた顔を左右に振る。
 妹から吸い取るという言葉で、苦しいような、すまないような、胸が締め付けられるような思いがよぎった……って、
「あ、ちょっと……だ……め」
 む、胸が揉まれて、乳首が擦れて……いいかも。
 って、そういう問題じゃなくて。
 ぁん、だめ、もっと……って違う!
 血が繋がった姉妹で、いや、男と女で、惚れた女の妹で、そもそも親友の彼女とこんな破廉恥な事。でも女同士で。
 あ〜! わけわからん!
 ……美坂にばれたら半殺しじゃすまないな。

 でも、これでいいんだ。
 この温もりを美坂にバトンタッチするチャンスができたんだから。
 色々と出すぎた真似をしてしまったが、悪い方向に向かったりはしないよな。
 これで姉妹の溝が少しでも埋まるといいんだが。
 それにしても、美坂には好きな人がいるのか……
 そりゃそうだよな。俺なんかより頼りがいのある男なんていくらでもいる。
 それでも、俺はこの姉妹の傍にいたい。支えてやりたい。
 なんだかストーカーみたいだが、この気持ちは揺らがなかった。



 美坂チームで帰宅する。
 栞ちゃんがクッキー焼いてみんなでお茶したいというので、美坂家に総出で遊びに行くことになった。
 なんでも、美坂がお菓子焼いては入院してる栞ちゃんの見舞いに持ち込んでいて、その流れで作り方を教えたらしい。
 ってことは、俺が手伝うんだろうか? 普通の料理はそこそこできるがお菓子作りは無理だ。
 メシ作るのとお菓子作りとではまた別のスキルが要求されるのだ。
 昔、妹がクッキー焼いて友達にプレゼントしたいというので手伝ったことがあるんだが、どうもよくわからない部分はテレビ……それも、よりにもよってCMの中で見た光景で補っていた。
 当然ながら結果は散々。それ以来お菓子作りは鬼門だった、どうすりゃいいんだろう。

 一眠りしたら元に戻る。なんて都合のいい展開もなく、俺が美坂で美坂が俺なままだった。
 お互い色々ありすぎて、栞ちゃんの状況以外に言葉を交わせなかった。

 栞ちゃんは相沢と仲良く歩く。
 栞ちゃんは元気だ。
 病院の検査でも無事が確認されたようだ。
 栞ちゃんがのぼせて倒れたと聞いた両親が、大事を取って午前中は病院に連れて行ったのだ。
 美坂は頭打ってたってのにこの扱いの差。
 病弱な妹にかかりきりで、頑丈な姉はほったらかしか。
 美坂は妹に嫉妬する事はあったんだろうか?


 俺の妹も、そんな気持ちだったんだろうか。

『妹』とは言ったものの、先に生まれたのはあいつなのだから、本来は姉である。
 俺たちは双子なのだが、母体が危険にさらされ、比較的発育が良かった女児だけが超未熟児の状態で取り出され、保育器で育てられた。
 だから双子にも関わらず誕生日が違い、あいつは1月生まれ、そして俺は4月生まれとなった。
 妹に対し、俺は自然分娩だったにもかかわらず、生まれたばかりの頃は非常に体が弱かったらしい。
 そのなごりか俺の体は色素が薄く、妹に比べ髪や瞳の色が薄く見える。
 俺は、それこそ死にかけたこともよくあったそうだ。そのため、両親は妹よりも俺の事ばかり気にかけていたらしい。
 そんなのが嘘のように俺は丈夫になり、背もぐんぐんと伸びていった。
 それに対し妹の発育は遅れ気味で、小学校への入学は一年見合わせることになり、結局は学年が一緒になった。
 そのうえ、それぞれのもって生まれた性分によるものか、あいつのほうが子供っぽく見えていたため『姉弟』ではなく『兄妹』という設定が定着してしまった。
 なんだか、あいつが本来得るはずだったものを俺が奪っていったようで、負い目に感じていたものだ。
 だが、そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、あいつは屈託のない笑顔で俺と元気に駆け回っていた。
 それこそ見ている者がはらはらするほどに。
 ……だが、あんな形で思い出の共有ができなくなってしまうとは。

 俺がまだ小さいうちに両親は離婚し、俺は父さんに、あいつは母さんに育てられる事になった。
 父さんと母さんがなぜ別れたのかはよくわからない。
 でも、母さんの病気があんなにひどくなっても連絡をとらなかったし、父さんは葬式のときも泣かなかったくらいだ。
 両親が抱えていた問題は相当に深刻なものだったのだろう。


「お兄ちゃん♪」
「はうっ」
 甚だしくあまやかな呼称で我に帰る。
「な、ななな……」
 俺な美坂は呆然としていた。傍にいる美坂な俺も同様であろう。
「……なんて呼ぶ関係になって欲しいです」
 栞ちゃんは定番の悪戯っぽい笑顔だった。
「お姉ちゃん、私のためにいろいろな事を我慢してきたけど、もうそんなことすることないよ」
 今度は、悪戯っぽさは抜けた、真剣な、そして温かい笑顔で言う。
 昨夜もそんなことを言って、美坂には好きな人がいると言ってたな。
 それにしても、栞ちゃんが俺を兄と呼ぶ関係ってどういうことだ?
 いつの間にかそれくらいに慕うようになったのか?
 美坂、その妹の栞ちゃん、そして俺。
 俺が栞ちゃんの兄になる関係といったら……?
 と、そのとき、すぐ隣にいた俺な美坂に襟首をつかまれ、わき道に引きずり込まれた。
「あ、あんた、栞になに吹き込んだのよ!?」
 俺な美坂は、なぜか赤面している。
「いや、オレにもなにがなんだか……」
 そのとき、俺という精神が宿った学年一位の頭脳はこれまでに得た情報を多角的に分析して、ある結論を導き出し、栞ちゃんが発言した内容の漢字を再変換した。


『お兄ちゃん♪』

『お義兄ちゃん♪』


 つまり……!?


「そこの人っ!」
「……え?」
 突然の声。
 そして、意識が現実に引き戻される。
「どいてっ! どいてっ!」
 なにやら切羽詰まった声。
「うぐぅ……どいて〜」
 聞き覚えのあるうめき声。
 そうだ、あいつの口癖……
 全身に衝撃が走る。
 その中で認識できたもの。
 接近する俺な美坂の顔、手袋をした手で持たれた紙袋、赤いカチューシャ、白い羽。
 ……またも羽?






たったひとつの願い
永い永い時間を待ち続けたボクへのごほうびに誰かからもらった
どんなことでもかなえられる願い
それで、ひとりの重い病気の女の子を助けた
でも、本当に助けられたんだろうか?
まだダメだと思う
ただ生きてるだけではダメなんだと思う
病気の女の子が望んでいた事、それは……
ボクに、なにかできることはないだろうか?
突然、真っ白な視界が晴れていた
どこだろう、ここ
商店街……?
なんだかお腹すいた
あれ? ボク、何しようとしてたんだっけ
よくわからない
そのとき、とてもいい匂いがしてきた
そして、ボクは走っている
たい焼き屋のおじさんに追いかけられて
昨日も、そしてその前も同じことをしていた気がする
その先に、見覚えのある男の人がいた







「あいててて……」
 ……!? なんだかしっくりとする。
 声も、体の感覚も懐かしい。
 周りを見回す。
 さっきまで歩いていた相変わらずの並木道だった。
 そして……
 体をまさぐっている波打った髪の女。
 俺も真似して体をまさぐる。
 ぐに、と固い胸板の感触、そして股間は……
「……ある」
「……ない。あっけなく元に戻っちゃったわね」
 気が抜けた顔の美坂。
 俺の顔ではなく、美坂の顔をした美坂だった。
「もっと嬉しそうな顔したらどうだ? 元に戻れたんだから」
「胸が変なのよ。あんた、ブラは一体どういう付け方したのよ?」
「どういうつけ方といわれても、知らないから適当だ。栞ちゃんに聞くわけにもいかなかったんだから」
「それはそうだけど……それに、あんたが何やらかしたのか考えたら頭が痛いわ」
 ジト目でそう言う。
「……こっちだって、アレが痛いぞ」
 一日ぶりのナニは、懐かしさではなく鈍い痛みを訴えてきた。
「あ、その……」
 たちまち美坂は慌て始める。
「サルかお前は。いったい何発やったんだ……」
「だ、だって、何回しても何回してもすぐ大きくなるじゃない。一体なんなのよアレは!」
 逆切れかよ。
 なんなのよ、って、俺のナニですが何か?
「もし、アレが人前で節操なく元気になったらって考えたら不安で」
 ……で、徹底的に処理しまくったってわけね。そういうことにしておいてやるよ。
 災難だったな。わが愚息よ。
 しっかし、溜まっていたとはいえ何回もしたのか。俺って絶倫だったか?
 美坂にとっては様々な意味で新鮮だったからか。
 やっぱりサル状態だ。

 それにしても、ぶつかってきた子になんだか見覚えがあった。
 俺のより少し濃い褐色の髪。それまた、俺のより少し濃い紅の瞳。


 そういえば、俺と妹の髪や瞳は、ハーフである母さんの遺伝であんな色だったな。
 なぜかピンポイントで存在していた父さん譲りの尋常ではないクセ毛も共通だった。
 妹はそれを物凄く恥ずかしがって、髪をリボンでまとめていたっけ。
 長く伸ばして自重を稼いだぐらいじゃ完全には収まらなかったのだ。
 ふざけてあいつのリボンを解いたら、ぴょこん! と元気に跳ね上がり爆笑してしまった。
 あのときはなだめるのに苦労したっけ。
 あの後、お仕置きの五部刈りは勘弁してもらったものの、母さんの手で殿様ヘアーにされた。
 それから、妹の髪も切ることになった。

「大人しくしてるんやで」
「うん」
「でも、あんた、じっとしてるん苦手やからなぁ」
 母さんは色々な話をしながら妹の髪をゆっくりと丁寧に漉いてゆく。
 学校のこと。昼ごはん。食べ物の好き嫌い。俺と妹がもっと小さかった頃の話。生まれたばかりの頃……
 俺は自力でちょんまげを解きながら、その光景を見物していた。
「くー……」
「寝てしもた……。そのほうが、動かんでええけどな」
 そう言ってハサミを手にとる。
「さくさく〜っと」
 ざく。
「わ……えらい切ってもた……。このハサミ、お母さんもびっくり、プロの切れ味や」
 チャキチャキとハサミを動かす。
「調理ばさみやけどな」
 そう言って笑う。
「うーん……これに合わせなしゃあないな……」
 ざくざく……
「やば……今度は反対側が短くなってしもた……」
 ざくざく……じょきじょき……
「これで左右の釣り合いはとれたんちゃうかな……ていうか、全体がごっつ短こなってしもとるやん!」
 と言ってから、
「ていうか、さすがは双子、うりふたつや」
 そう言って笑う。
 そこには兄妹の証にして父さんと母さんの子である証、リボンの圧迫と自重から解放されて風鈴と共に夏の風にそよぐ、褐色でピンポイントのクセ毛があった。

 そうだ、それを見て父さんも笑っていたっけ。
 あの頃は仲良く四人で暮らしてたのに、どうしてこうなっちゃったんだろうな……


 ……!!
 なぜか、あいつの気配をここに感じた。
 改めて周りを見回す。
 美坂家に行く途中の並木道。
 昨日、栞ちゃんと共に歩いているときに概視感を感じた場所。
 元の体に戻ると、昨日感じた感覚は倍増していた。
 ここは大事な場所だ。なにか、大切なものがある。間違いない。

 相沢と栞ちゃんが戻ってきた。
 どうやらぶつかってきた子は昨日の子と同一人物であり、栞ちゃんの恩人のひとりだったようだ。
 浮かない顔を見ると、結局は掴まらなかったらしい。
 ふたりとも走り回って疲れてるだろうけど、今は人手が必要だ。
「なあ、相沢、悪いんだけど、ちょっとつき合ってもらえるか?」


 母さんの葬式のあいだ、父さんは何も言わず、固い顔をして、俯いていた。
 そうして沈黙を保ったまま式は進行していく。
 もめている親戚達。
 父さんの元に俺や妹を置いて大丈夫なのか、だれかが引き取るべきではないか、ではだれが引き取るのか。
 たらい回しにする親戚の醜い光景に耐えかね妹が飛び出しても、父さんの態度は変わらなかった。
 俺が街中を探し回り、夕方頃にようやく商店街で妹を見つけたとき、口元に少しアンコがついていたのを覚えている。
 今後どうするかはまだはっきりしていなかったけど、母さんが暮らしていた家に妹をひとりで置くわけにはいかないので一緒に暮らすことになった。
 俺と父さんとで隣町にある母さんの家の片づけをしている間、いつのまにか妹はどこかに出かけていることがあった。
 これから俺たちがどうなるのか不安だったけど、妹は少しづつだが笑顔を取り戻していったのがせめてもの救いだった。

 そしてあの日……
 俺と父さんは森の中にいた。
 他にも大人の人が何人かいる中、大きな木を見上げていた。
 ヘルメットを被った人がチェーンソーを持って大木に近づく。
 そのとき、これまで何も言わずに俯いていた父さんがそれを取り上げた。
 そして、父さんがチェーンソーを大木にあてがう。
 やりきれない顔で、何かに取り付かれたように作業を続ける。
 轟音と共に大木は倒れた。
 チェーンソーを落とした父さんは切り株にすがりつき……
 泣いた。
 これまで内側に溜め込んだものを吐き出すように泣いた。

 父さんは、どうしていいかわからなかったんだろう。
 離婚したときから、いや、離婚する頃から。
 あの頃の俺には……いや、今の俺でもわからないような重いものを両親は背負っていたんだと思う。
 ただ、どうしても釈然としないため、責めこそしないものの許すこともできず、今に至る。
 だから両親が背負っていたものを俺は何も知らない。
 美坂姉妹と一緒だ。お互い、決して相手のことを想っていないわけではなかったんだ。
 でもわだかまりが残っていて、どうしても踏み込んだ会話ができない。
 それゆえの行き違いや遠回り、そして、それが更なる苦悩をもたらしているのだろう。

 落ち着いたら、父さんとは腹を割って話してみよう。
 そうすれば、前に進めると思う。


 そんなことを考えながら、この並木道の地面を掘り返していた。
 相沢も、水瀬も、美坂も、頼んだ俺自身がよくわからない理由で呼びかけた協力に応じてくれていた。
 だが、それは4人いても気の遠くなるような作業だった。
 木の根本に、針金を差し込んで、手応えがあれば掘り返す。
 ひたすらその繰り返しだった。
 体調が不安だったので、栞ちゃんは帰らせていた。
 だが、焼きたてのクッキーと温かい紅茶というありがたい差し入れを持ってきて、疲れきった俺達の気力を取り戻してくれた。
 姉の手助け抜きのためか味は今ひとつだったが。
 ……あいつと7年前に作った碁石のようなクッキーよりはマシか。
 初めは怪訝そうな顔をしていた相沢も、真剣な顔で作業に打ち込み始めていた。
 それは、美坂や水瀬以上だった。
 相沢も、ここに何か感じるものがあるのだろうか?


 もうすぐ、冬休みも終わりという日のことだった。
 妹が帰ってきた。とても機嫌がよさそうだ。
 父さんと母さんがまだ仲がよかった頃の元気な笑顔だった。
「お帰り、ご飯できてるぞ」
 父さんは仕事が忙しいため、家事は俺が行うようになっていた。
 簡単なものなら料理もそこそこできるようになっていたのだ。
「わぁ、お腹ぺこぺこだったんだ」
「元気そうだな。もう大丈夫なのか?」
「……ううん、悲しい気持ちはまだ吹っ切れないよ」
 そう言って俯くが力強く続ける
「でも大丈夫。ボクは一人ぼっちなんかじゃなかったんだよね。お父さんや、お兄ちゃんがいてくれるんだもの。それに友達もできたんだ。冬休みの間この街に遊びに来てるだけだからもう帰っちゃうんだけど、また来年遊びに来るって約束したんだ」
「そっか、約束、守ってくれるといいな」
「大丈夫、この人形にお願いしたんだもの」
 そう言いながらポケットをまさぐり、なにかを取り出した。

 持ち主の願いを叶えてくれる、不思議な人形なんだ


 俺と相沢が何かに導かれるように掘り出した瓶の中には、天使の人形が入っていた。
 相沢と顔を見合わせる。
 ボロボロに朽ちているが、あの時の人形で間違いなかった。
「これでいいの?」
「ああ、間違いない」
 美坂の問いに相沢が断言した。これを知っている? 妹のことを知っているのか?
 そういえば、相沢は子供の頃、冬休みになるといとこである水瀬の家に遊びに来ていたという。
 もしかして、相沢が……あのとき妹が言っていた友達だったのか?

 俺たちにどんな物語があるというのだろう。
 能天気な顔をした天使の人形が取り持つ不思議な縁で築かれた、雪の街で起きる奇跡の物語。
 そんなマンガみたいな話あるはずが……
 でも俺と美坂は、既にそのマンガみたいな出来事を体験していた。
 もしかしたら!
「……祐一、わたしが直そうか?」
「できるのか?」
「うん。ほとんど作り直しってことになると思うけど……」
「だったら、頼む」
「うん。頼まれたよ」
 水瀬と相沢が修理について相談していた。
「ちょっと待ってくれ!」
「……え? どうして? 北川君、このままじゃかわいそうだよ」
「説明は後だ、とにかく走れ!」
 みんなを引き連れ、病院へとひた走る。

 7年前の冬、妹は大ケガをした。
 森の中の大木に登って遊んでいたが、その木の上から落ちたのだという。
 あの事故からこれまでの7年間、妹はずっと昏睡していた。
 そして、何の変化もなく睡眠状態を示していた妹の脳波が覚醒時のそれを見せるようになったのは、奇しくも相沢がこの街に来てからだった。
 それから、ふたたび睡眠時のそればかりになったのは、栞ちゃんが峠を越してからだった。
 これはきっと俺だけの物語じゃない。ここにいるみんなの物語なんだ。






この四角い部屋の中で
季節のない時間の中で
ボクは、ずっとひとりぼっちだった
そう思っていたけど
ときどきボクの傍にくるひとがいた
そうだ、ボクは一人ぼっちじゃなかった
お父さんとお母さんが一緒に暮らしてたとき
よくけんかしててこわかった
そんなとき、お兄ちゃんがそばにいてくれた
お兄ちゃんは優しかった
お…兄ちゃ…ん……?
そうだ、いつも一緒にいられることになったんだ
お兄ちゃん
また会いたいな







 家族みんなで一緒に住んでたとき、お兄ちゃんはかばんの用意してなくて学校行く時間になってから慌てて、いつもこんなふうにバタバタ走って騒がしかった。
 お兄ちゃん、相変わらずみたい。
 もっと寝ていたい気がするし、逆にもうこれ以上寝ていられない感じもする。
 なんだかすっごく体が重い。
 でも、もう起きなきゃ。
 目を開けると、真っ白な部屋。
 そして……

「お……兄……ちゃん?」






 エピローグ

「お薬の副作用で髪が抜けやすくなってたから、全然なでなでしてくれなかったんです。もう治って安定したんだけど、お姉ちゃんはまだ心配してて撫でてくれなかったんです、だから久しぶりで嬉しかったです」
 そうか、あの時の俺の危惧はあながち間違いでもなかったんだな。

 またも美坂チームで下校している。
 俺たちは、長期にわたる昏睡により筋力が衰えて、回復のためのリハビリに打ち込む妹の見舞いに寄っていた。
 妹の話では、うっすらとしか記憶していないが夢の中で相沢や栞ちゃんと会っていたという。
 その夢のなかでの出来事は、奇しくも相沢たちが出会っていた妹と同じ名前の少女、『月宮あゆ』と同じだった。
 一体どういうことなのか、俺にはよくわからない。
 でも、俺たちは楽しい時間を過ごせるようになった。それでいいか。

 いまはもう、美坂チームにぎこちない空気はない。
 栞ちゃんは、あの夜のことを嬉しそうに話す。
 姉妹の溝が少しは埋まった大事な思い出なのだろう。
 この面子の前にいるためか、きわどい発言はない。
 ……今のところは。
「夏になったらみんなで海に行きましょうか」
「いいわね。でも……」
 栞ちゃんの発言に美坂は渋い顔をする。
「大丈夫ですよ。どうせ私にはスクール水着ぐらいしか似合いませんから。そうですよね? 北川さん」
「……なぜオレに同意を求めるんだ?」
「秘密です」
 非常に嫌な予感を抱かせる悪戯っぽい笑顔で言う。
「あの日は久々にお姉ちゃんに思いっきり甘える事ができました」
「そっか、よかったな」
 嫌がってはいなかったか。それは何よりだ。
「ああいうお姉ちゃんも新鮮でよかったです。おっぱいつつかれたのには驚きましたけど」
「……ごめん、軽率だった」
 ……はっ!?
 栞ちゃんは悪戯っぽい笑みを絶やさない。
「なっ……!!」
 横で沈黙を保つ美坂の顔は怖くて見ることができなかった。
「女同士だから気にしませんけど」
 そう言った後、不敵な笑みで付け加える。
「……あの時は」
 嫌な汗が止まらない。
「お姉ちゃん、ベッドの上でも積極的で嬉しかったです」
 ……その言い方はやめて。
 って、明らかに美坂ではなく俺に向かって言っている!?
「……あの、気付いてた?」
「何のことでしょう?」
 口調が丁寧語だったのもそのためか?
 本当に姉妹の間だったら、もっと違った話し方だったんだろうか?
 あの積極的に甘えてきたのは全部演技!?
 もしかして、風呂や寝床をご一緒しようと働きかけてきたタイミングも狙っていた!?
 あの直前に俺がしようとしていたことといったら……
「……いつから?」
「秘密です」
 俺が散々行った栞ちゃんに対する抱擁その他もろもろ……もしかして俺、試された?
 姉妹が背負ったものを知らせた上で、俺がどうするかを見抜こうとした?
「栞ちゃん……怖い子だ」
「そんなこと言うおにいちゃん、嫌いです」
 楽しそうにそう言った栞ちゃんは、相沢の腕に組み付いていった。
 相沢、恐ろしい女を彼女にしたな。
 でも、俺は俺で恐ろしい女を彼女にするのかもしれない。
 俺の襟首を掴んだ美坂は、あの体でどうやったら出せるのかさっぱりわからない腕力で路地裏に引っ張っていく。
 そして、拳をゴキゴキと鳴らしながら、俺に向き直った。

 妹よ、俺もお前と共にリハビリに励むことになりそうだ……



 完


 あとがき

 原作Kanonの本編で詳しく言及されてないところから掘り下げ、こんな話になりました。

 校正を依頼し、快諾してくださったエルラさん
(HP:スーパータイオン社):http://www.h4.dion.ne.jp/~tion/top.html
 の超大作、『Kanon Trilogy』が大いに参考になりました。
 原作にて描かれた姿は本来の姿ではない。
 多くの二次創作で描かれる『まあ○○だから』で片付けられてしまう数々のお約束をあえてシリアスな解釈にする。
 ETC……というか、栞が暴走。エルラさんの元から出張し、侵食してきたようです。栞が怖すぎ。

『ねがぽじ(ファンディスク)』と『Air』、ならびに清水マリコ著の栞シナリオノベライズ版にて追加されたイベントの一節、他にも色々引用してます。
この場を借りて深くお礼申し上げます。

 ……純粋なギャグとかほのぼの系が書けない。どうしてもシリアス分が混入してしまう。
 初めはこの話、入れ替わりその物がメインでした。
 香里がエロ本の場所を聞き、元に戻ってから愚息が痛むという話だったんです。
 書きたかったのは、ねがぽじファンディスク『やり方を教えて』的なやり取りだけ……だったはずなんだが。
 いかにして入れ替わるか、王道である激突なら……ってことで一番そのきっかけになりそうな、食い逃げタックル少女あゆが登場。更には、以前発表したDNML作品のコンセプトの流用と相成りました。


 文中では看護師ではなく看護婦さんと表記してます。この方が温かみがあるし一発変換できますから。
 言葉狩りすりゃ男女差別が無くなるって訳じゃないのに、温かみがある言葉がなくなっていくのは悲しい事です。
 さて、現場の看護師さんはどう思っているのやら…。


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