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 ふたりで朝をむかえた。太陽が黄色に見える。
 へとへとに疲れているが、今日は学校だ。休むわけにはいかない。
 昨夜の行為は休みの前日に行いたかったのだが、彼女が周期的に抱く衝動はそんな人間の社会が築かれる以前から脈々と続いてきたものだ。こっちの都合などお構いなしである。

 校舎への道のりはとても長く感じる。
 やつれた僕とは対象的に、彼女はこれでもかと言わんばかりに血色のいい顔をしていた。

 追い抜いていった同級生が僕を揶揄する。

「仲がいいのはいいが、程々にしとけ」……と。

 あいつは誤解している……いや、まあ、あながち間違いでもないだろう。

「お互いアパートでひとり暮らしのため、親の干渉を気にせず外泊ができる。今朝も彼女の部屋で一夜を共にしてきたところだ。そして、確かに僕達はふたりっきりで愛し合い、僕は体液を大量に放出したために体力は大幅に消耗しているのだ」

「コラ! 誤解を招くようなナレーションを入れるな!」

 僕の声色でいかがわしいナレーションを入れていた作者をシバキ倒す。
 そして、額に浮き出た青筋が今にも破裂して、熱き血潮が噴水のように吹き出しそうな爽やかな笑顔で作者の首を締め上げ、訂正をうながした。


(という訳で、誤解を招かないように詳しく説明すると……)






チュク……

 彼女が僕の体の一部に口を当て、激しく吸いたてる。

「んっ……」

 思わず息が漏れる。
 かすかな痛みと共に僕の体液が彼女の口腔内にほとばしる。
 彼女は嫌がることもなくソレを一滴残さず飲み込み、口から少しあふれたソレを恍惚とした表情を浮かべながら舐め取って妖艶な笑みを浮かべた。

 あの程度では彼女を満足させることなど到底できない。
 彼女は口の動きを再開し、容赦なく吸いたてる。

「くぅ……っ」
 僕の両手はシーツを握りしめる。
 僕の苦悶の表情に、彼女はふと我に帰り口を離す。

「……ごめん。ちょっと……激しすぎた?」

 欲望に突き動かされて獣のように僕のソレを貪っていた事に気付き、先ほどの妖艶な表情から年相応のあどけない表情に戻って赤面した。
 彼女は体の奥底からこみ上げてくる衝動を抑えきれず、こんな行為に耽ってしまう自分を恥じていた。その衝動を鎮めるために体を張る僕にすまなそうに俯く。

「……いや、僕は大丈夫、だいぶ慣れてきたから。もっと強く吸っていいよ、僕も嬉しいから」

 僕が少しやつれた笑みを浮かべながら言うと、彼女ははにかみながらも嬉しそうに、コク、と頷き、口での行為を再開した。

 まだ若き高校生の男女が耽るにはいささか早すぎる……いや、どんな年月を重ねたとしても、普通の人間から見れば異常に映るであろう命の営みが続く。

 少し、気が遠くなってきた。限界が近づいてきたようだ。
 それでも、少しでも長く、彼女に幸福感を味あわせてやりたいので落ちてしまいそうな精神を懸命に保つ。
 彼女も、僕が限界に近づいてきたのを悟ったのか口の動きを止め、不安そうな顔で僕の顔を見た。
 だが、僕が彼女の両肩に添えた手に力をこめ、力強い笑みを浮かべてやったことで彼女は安心し、口の動きを再開する。
 彼女をこういう形ででも愛し、満たしてやれることを喜びながら、僕は限界を迎えた。

 窓から見える満月が、その夜に僕が見た最後の物だった。









「……気はすんだかい?」

 僕は今、どんな表情を浮かべているのか今ひとつ自覚できない。
 とにかく、ゆっくりと作者に近づいていく。

 そして作者を思いっきり蹴り上げる。

 某空想科学読本の著者が色々と突っ込みを入れたくなりそうな無茶苦茶なエネルギーが奇妙なベクトルで作用して、身長170cm体重80kgという太目の体型の作者は衛星軌道へと打ち上げられた。
 スペースデブリと化した彼は『世界の警察官』などと思い上がっている某国の軍事衛星に激突し、軌道を狂わせた。
 レーダーで補足できない宙域へと飛び去った衛星に搭載されていた核ミサイルが誤爆し、近くにあった隕石の軌道をずらす。
 この隕石の軌道は数十年後に地球に衝突するものに変化し、地球が地球が大ピンチになるのだがそれは別の物語である。

 ……話を元に戻そう。

 まあ、先ほどの僕こと『田中 秀明』(たなか ひであき)と彼女、『結城 千代』(ゆうき ちよ)の行為の描写はあながち間違いではない……が、おそらくこれを読んだ読者諸君の脳裏に浮かんだであろういやらしい光景は誤解である。

 第一、そんな文章ならこの少年少女文庫には掲載できないだろう。

 では真相はどうかというと……。








ペットボトル

作:OLSON


 彼女は、そこに住んでいた。
 いや、棲んでいたと言うべきだろうか?

 去年の春に発生した震災で壊滅し、再開発もなかなか進まず空き地と廃墟が並ぶ中、奇跡的に倒壊を免れていた古いアパート。
 周りには他に住居となりえる建物がないその場所で、彼女はただひとり、ひっそりと住んでいた。

 進学した高校の生活にも慣れた初夏のある日、彼女は僕のクラスに転校してきた。
 緊張しているのか、たどたどしい口ぶりで『結城 千代』と名乗った。
 血走っているというわけでないが全体が赤く見える瞳、ほっそりとした端正な顔立ちとショートボブの銀髪。ハーフのようだ。
 常に憂いを秘めた表情は男子の興味をかきたてるには充分だった。
 だが、彼女はただひたすらに無視を続けた。男子だけではない。女子からの言葉も拒み、孤高を保っていた。
 そうして、彼女は孤立していき、誰も意に介する事はなくなっていった。
 僕も、そうやって彼女への関心を失っていったクラスメイトのひとりだった。

 だが、2学期になり残暑が厳しくなったある日、下校の途中で彼女を見かけて関心が再燃した。
 彼女は公園を見つめていた。
 友達とかけっこをする子供達、手を繋いで歩く男女、赤ん坊を抱きかかえている母親。
 それらを見つめる表情は、『羨望』……だろうか?
 結城は、決して好き好んで孤高を望んでいるわけではないのだ。

 では、何故なのか?


 後をつけることになった。あくまでも結果としてだ。
 帰る方向が本当に同じだったのだ。
 そして、僕のアパートの手前にある寂れた地域、数ある廃墟の中で、唯一倒壊を免れたアパートに入っていった。

 そう言えば、これまで使われることがなかったゴミ捨て場にゴミが置かれるようになったのは、結城が転校してきてからだった。
 時折、膨大な量のペットボトルが捨てられていたのが印象に残っていた。
 なぜか、真っ赤なラベル……トマトジュースばかりだったのだ。

 近くのディスカウントショップに行ったとき、彼女が何かの大きな箱を抱えて帰るのを見たことがある。
 あの箱にはトマトジュースのロゴが印刷されていた。やはり、あのペットボトルを捨てたのは彼女に違いない。
 しかし……他の日に捨てられる生ゴミや可燃ゴミの量はどう見てもひとり暮らしのソレだった。女のひとり暮らしであの消費量はどう考えても異常だった。

 って、こんな分析をする僕はストーカーか?


 あれから、僕は結城に話しかけるのを再開した。
 周りのやっかみなど眼中になかった。だが、それでも彼女は相変わらずだった。


 ある日、実家から大量の食品が送られてきた。
 ありがたかったが、その中の膨大な量の完熟トマトには閉口した。
 別に嫌いではない。だが僕ひとりでは到底食べ切れる量ではなかった。

 ケチャップにでも加工して保存しようかとも考えたが、僕にはそんな技術などない。
 ひとり暮らしを機に自炊をしようとしたのだが1週間で挫折。今ではきゅうりにモロキューをつけたり生卵を丸呑みにするなどの素材を活かした至高の調理法を心がけている。芸術を理解しない世間の凡人どもは、それを手抜きなどと無粋な言葉で表現するのだが。
 と、そのとき結城のことを思い出した。
 膨大な量のトマトジュースを消費する彼女は、こいつをおすそ分けしてやったら喜ぶのではないか?

 ビニール袋に入れた大量のトマトを手に結城のアパートに向かう。
 満月が浮かぶ夜空が綺麗だった。

 寂れた地域に唯一の明かり、結城の部屋だった。

 ドアの前に立ち、チャイムを鳴らそうとした、その瞬間。

「ぐうっ……!」

 うめき声。
 それと共にビシャビシャと液体が飛び散る音。そして苦しそうに咳込む声。
 ヒュー……ヒュー……と苦しそうな息、そして再びうめき声。

「どうした? 結城!」
 幸いドアに鍵はかかっていなかった。

「同じクラスの田中だ、入るぞ!」
 ドアを空けると、向かって右側……大抵はトイレがある場所から、ジャージを履いた足が伸びていた。

「田中……?」
 ゆっくりと身を起こした上半身はTシャツのみの格好の彼女は、虚ろな目で僕を見た。
 口の周りは赤い液体で濡れていた。
 Tシャツの胸も所々赤い液体で汚れ、染みになっている所もある。

「うぐ……!」
 再び上半身を部屋の中に……トイレに向ける。

「ごめん、勝手に上がるぞ!」
 靴を脱ぎ彼女の後ろに回り、便器に両手をかけて嘔吐している彼女の背中をさする。
 便器の中は赤い液体で満たされていた。

 吐血……!?

 と、思ったが、漂っているすっぱい匂いは胃液のソレとは何かが違った。
 未消化の食物と思われる固形物は見当たらなかった。

「おい、何も食べてないんじゃ……」
 ふと、ある事に気付き振り向くと、赤いラベルのペットボトルが部屋中に散乱していた。

「結城、何やってる!? 新手のダイエットのつもりか? こんな方法じゃ体壊すぞ!」

 彼女の肩を揺するがそれを振り払い、こっちを向く。
 虚ろな目に光が戻った……と、思ったら爛々としたものに変わり、僕の両肩をがっしりと掴み、顔を近づけてきた。

「お、おい……どうしたんだ!?」
 僕が動転していたら、結城はハッと我に帰り、僕を突き飛ばした。

「頼む! 出て行ってくれ!」
 彼女は頭を左右に振ってそう言った。

「放っておけるか!」
 再び彼女の肩を掴むが振り払われる。

「ダイエットなんかじゃ……ねえんだ」
 結城はそう言いながらふらふらと部屋に向かう。
 そして、ペットボトルのラベルと同じトマトジュースのロゴが印刷されたダンボールをまさぐるが、何も手にする事ができない。
 部屋中を幽鬼のようにさまよいながら、空のペットボトルやダンボールを手にしては振り、中身がない事を確認する作業を繰り返していた。
 まるで、麻薬中毒患者のような凄惨な光景に僕は戦慄していた。

「もう無い……前より早いペースで飲んでた……やっぱり効き目が薄くなってる……」
 彼女はぺたんと座り込み、虚ろな目で虚空を見上げながら呟いていた。

「結城、何かクスリでもやってるのか!?」
「違……う……」

 僕を見る目は、再び爛々とした物に変わる。
 そして彼女は、脳裏に浮かんだ何かを振り払うように頭を激しく振る。

「頼む、出ていってくれ。このままじゃお前をどうにかしちまう……」
「どうにかって……どういう事だ?」
「それは……ん? それ……」

 苦渋に満ちた顔で俯いていた彼女が顔を上げる。
 彼女の視線を追うと、僕の足元に転がるビニール袋が目に入る。

「あ、おすそ分けにトマトを持って来てたんだけど」
「……くれるのか?」
「そりゃあ、おすそ分けなんだから」

 そう言って袋を差し出す。
 彼女は震える手でそれを受け取った。
 彼女の苦渋の表情が少し緩む。

「助かった。これだけあれば朝まで持ちこたえられる……」
「持ちこたえるって……一体何やってるんだ?」
「……貰っておいて、こんなこと言えた義理じゃねえのは判ってる。けど、出ていってくれ、事情は後で話すから。俺は……大丈夫だから」

 彼女は体を震わせながら心底済まなそうに言う。

「……判ったよ。本当に、大丈夫なんだな?」

 結城は頷く。
「ああ、毎月あることだ」

 毎月って……まあ、女の子は毎月生理で血を流すとは聞いたが、下半身だろう。口から……ましてトマトジュースを流すなど聞いたことがない。


 ただ、去り際……。

「トマト、ありがとよ」
 そう言って、ほんの少しだが微笑んだ。

 初めて見た彼女の笑顔は、こんな状況下にも関わらずむしゃぶりつきたくなるほど可愛く見えた。









 翌朝。今日は資源ゴミの日だった。
 彼女のアパートの前のゴミ捨て場には昨日のペットボトルとダンボール箱がまとめて捨ててあった。
 そして、彼女はセーラー服に身を包んで何食わぬ顔で登校し、授業を受けていた。相変わらず孤高を保ったままで。
 今になって気付いたが、数日前から彼女は少し伸びていた髪を縛ってかなり短めなポニーテールにしていた。


 そして放課後。僕はまた、結城の部屋でふたりっきりでいる。
 テーブルを挟み、お互い床に直に座り込む。
 テーブルの上には寿司屋のごつい湯飲みに注がれた番茶。
 そして、彼女はなぜか化学の実験で使うビーカーに番茶を注ぎ、素手で持つのは熱いのかふきんで掴んで飲んでいた。
 湯飲みが一個しかなくて客人である僕に回したのだろうか? だが今ひとつ理解しがたい感性だった。

 考えてみれば、女の子ひとり暮らしの部屋に男の僕が行くのだから大いに問題があるはずだ。
 だが、彼女の平然とした態度、そしてぬいぐるみ等のファンシーな物が一切ない殺風景な部屋は、まるで男のソレのようだった。

「お前には話すよ、トマトの義理があるからな。でも、誰にも話すなよ?」
「トマトの義理って……」

 結城は昨日も男言葉、それも少々べらんめえな喋り方で話していた。
 考えてみれば、結城は学校では必要に駆られた時でも必要最低限の単語のみの口癖もへったくれもない喋り方で話していた。
 これまで言葉を交わすことを拒み、孤高を保っていた理由はその辺りにあるような気がした。

 そして、彼女はある物をテーブルの上に置いた。
 二つの小さな陶器の破片……いや、牙!?

「今朝、抜け落ちた物だ」
「牙が抜けた? そう言えばトマトジュースを大量に飲んでたみたいだな、君って実は吸血鬼か?」

 冗談めかしてそう言ったが、沈黙を保つ彼女の顔は真剣だった。

「……マジか?」

 沈黙が続く。
 本当に? そんな非科学的な怪物が存在するというのか?
 ありえない。だが、昨夜の光景が尋常なものではなかったのも確かだ。

「ちょっと、自信ねえんだがな」

 こけた。

「あのなぁ」
「ある事故で入院した病院はミッション系で、看護婦さんの制服やらなにやら十字架で溢れかえっていたけど平気だったし、女吸血鬼になった事に気付かず、好物のニンニクラーメンチャーシュー抜き餃子追加で喰っても平気だったし」

 ニンニクラーメンチャーシュー抜き……で、餃子追加? 突っ込むべきだろうか?
 今になって気付いたが、彼女の顔はカルト的な人気を誇っていた某アニメのキャラクターに似ていた。

「大体、マンガなんかで描かれている通りだったら日中歩き回れるわけがねえんだがな」
「そりゃそうだ」
「だけど……」
 表情が曇る。
 何か、引っかかるものを感じた。
『女』吸血鬼!?

「……順を追って話さないとならねえな」

 そう言って一枚の写真を出す。
 そこには彼女とよく似た顔の少年が、黒いズボンと白のシャツという一見すると学生服の夏服に見間違えそうな格好で写っていた。側には動き回ったため暑くなって脱いだと思われるパーカーが置いてある。
 兄弟だろうか?
 あの震災直後の湾岸の一角と思われる瓦礫と化して水没した区域、彼は壊れた巨大な天使の石像の上に腰掛けて途方に暮れていた。

 あの震災の時、物見遊山で現場に写真を撮りに行く不謹慎な若者がいた。彼もその手合いのようだ。
 ふざけてボートかなんかであの像に乗りつけた後、仲間に取り残されたようだ。
 なぜか、脳裏にベートーベン第9の鼻歌が聞こえてきた。

「こいつが、中学卒業したばかりの頃の俺……って言ったら信じるか?」
「へ? この男が? どう見ても君、女だろ?」

 僕の目の前にいる彼女の体は、全体的にほっそりとしているが出る所は適度に出て腰も程々にくびれていた。
 もっとも、今日アパートを訪問した僕を出迎えた彼女は、昨日と同様の上はTシャツ、下はジャージと言う色気のない服装だったが。

「ああ、俺も知らなかったんだが、実は女だったんだ」
「知らなかったって……?」
「半陰陽って知ってるか? それだったんだ」

 半陰陽……中学の頃、科学の授業で話が脱線して『遺伝子』、XX、XYという『染色体』といった単語と共に聞いた記憶がある。

「体の設計図そのものは女だったんだが、ホルモンの作用がおかしくなっていたのか生まれた時はアレが男みたいな形になっていたんだ」
「男みたいになってたって……立ちションとか、ひとりHとか……って、ゴメン!」

 頭を下げる。
 喋り方が男のソレだったので、いつの間にか同級生の男とワイ談する感覚で喋っていた。相手は昔は男だったと言っているが今は紛れもなく女なのにだ。これではセクハラである。

 だが、彼女は苦笑して言った。
「まあ、変だとは思ってたんだ。よ〜く見ると本なんかで見るのとなんか形が違ってたし、その……白いのが出たりもしなかったからな」
「なっ……」
 この身も蓋もない物言い、それは彼女がかつては本心から男として生活していたことを如実に物語っていた。
 そして、とつとつと高校生になってからの話を始めた。


 『結城 正巳』(ゆうき まさみ)……『結城 千代』のかつての姿。

 彼は自分の体にかすかな疑問を抱いていた。
 股間には男のソレのような突起が確かに存在する。他の男と共に、立って用を足すことも問題なくできていた。
 だが、保健体育で学ぶ第2次性徴が発生することはなかった。
 元々小柄だったので、成長が遅れているのだろう、形の違いも個人差の範囲内だろう……と、軽く捉えていたのだが。

 地元の高校の受験を無事に済ませた春休み、遠くの町では大地震が発生し、甚大な被害が出ていた。
 友達と物見遊山に出かけ、ふざけて瓦礫に登ったりして地元の人や両親に不謹慎だとこっぴどく怒られたものだ。

 高校生活が始まって数日経ったある日、本屋で立ち読みして大幅に帰宅が遅れた帰りに、カメラ屋に寄って物見遊山で撮った写真を受け取った。
 新聞折込みチラシにカメラ屋の現像割引クーポン券がつくのを気長に待っていたのだ。
 確認のために店員の前で見た写真の内容から、店員は俺の行動を悟ったようだ。彼女の冷たい視線が痛かった。

 そんな夜の出来事だった。

 ビルの建築現場に差しかかった。
 ここは子供の頃よく遊んでいた空き地だった。
 他にも、ザリガニを捕っていた沼は埋め立てられ、探検したことがある幽霊屋敷は取り壊され、モトクロス気取りの自転車レースを行っていた凹凸の激しい丘は巨大な陸橋の土台になっていた。

 何もかもが、変わっていく。俺も、みんなも……。

 柄にもなくそんな事を考えていた時だった。
 地面が激しくうねり始めた。

 何だ? めまい……って奴か?
 病気知らずで病院とは無縁な人生を送っていたためよく判らない。

 と、考えていたが違った。これは紛れもなく地震だった。


 そのとき、頭上から鈍い金属音が聞こえた。

 見上げると、綺麗な満月と共に見える細長い塊。
 街灯の明かりに照らされた面には赤黒い色が見える。


 鉄骨……?


 轟音、衝撃、湧き上がる土煙、激痛。

 暗転。





 何か、鉄の匂いがする。
 目覚めた時、先ほどの轟音が嘘のような静寂が広がっていた。どうやら夢を見ていたようだ。

 それにしても、ずいぶんとごつい抱き枕を抱えていた。
 赤黒くて、角張っていた。デザインは最悪だ。
 おまけに固くてすごく重い。下になっている左手がぴくりとも動かない。抱き心地はすこぶる悪い、返品した方がいいかな?
 その時、再び轟音が響き渡り体の向きが変わった。鋼鉄製の抱き枕の重みに耐えかねてベッドが壊れたようだ。
 隣のおばさんは俺がちょっとコンポのボリューム上げたぐらいでガンガン文句言ってくるから、また怒鳴り込みに来るだろうな。

 幸い、鋼鉄製抱き枕はどこかに転がっていき、俺の上に乗っかっている物はなくなった。
 だが、体は相変わらず動かない。
 手足を見ると奇妙な感じに曲がっていた。俺の体ってこんなに柔らかかったかな?
 TVに出られるかもな。
 あれ? 左足が無い。
 ……まあいいか、足なんて飾りだ。偉い人にはそれが判らんのだろうがな。

 それにしても、体が何やら生暖かい液体で濡れているような気がする。この歳で寝小便しちまったのか?
 見ると、体が鉄臭い黒色の液体で濡れていた。何かの機械のオイルだろうか?
 抱き枕も、布団も、漏らした小便もみんな鋼鉄製で鉄臭くてたまらない。とても眠れたものじゃない。

 突如、ライトの明かりで照らされた。
 やめてくれ、漏らした姿なんか見ないでくれ。
 警察か? 見るな。
 国家権力の犬のお巡りさんは迷子の猫耳娘でも保護して萌えまくってロクに職務質問できずにワンワン吠えてりゃいいんだ。

 ……!?

 鋼鉄製の小便は赤かった。
 辺りが暗かったので黒く見えていただけだった。

 赤くて生暖かくて鉄臭い液体と言ったら……?

 ……血!?

 我に帰った。俺が寝ていた布団と抱き枕の正体は、さっき降って来た鉄骨だった。どうやら至近距離で落下した鉄骨の衝撃で錯乱していたようだ。

 そして俺は……複雑骨折、出血多量の大重体で急患でICUはてんてこ舞いの戦場で熱血看護婦24時で白衣の天使っつーか白衣の戦士で『リリカルマジカルホスピタル♪ 白い巨塔の白衣の戦士、ナースファイターみゆき、ちょっと遅れてただいま参上!』ってな感じの魔法少女アニメにしたら視聴率128%獲得で萌え萌えでコスプレで同人誌書きまくりで業界大繁盛……って、俺はまた錯乱しているようだ。

 視界が暗くなる。なぜか痛みは感じていない。相当やばい……と言うか助からないんだろうな。
 春休みに、あんな事した罰なんだろうか? それにしたって、いくらなんでもやり過ぎだと思うんだが……。

『高1男子鉄骨の下敷きになり死亡』って見出しで新聞に載れるだろう。
 週刊誌やワイドショーは、いい加減な管理をしていた建設会社の責任はそっちのけで、俺が持っている不謹慎な写真と関連付けて皮肉だの自業自得だのともっともらしいコメント付けるんだろうな。


 ライトの明かりと共に足音が近づいてくる。

「生きたい?」
 そいつは簡潔に聞いてきた。

「生きたい」
 俺は簡潔に答えた。

「どうなっても?」
「どうなっても」

「……ごめんなさい」

 あんたが謝る事じゃない。誰にもこんな状態の俺を助けることなんて出来はしないだろう。大体、あんたが鉄骨落としたわけじゃないだろうし。

「私にはこの方法しかないのです、とてつもなく辛い日々が始まるかも知れません。それでも、生きたいですか?」
「助ける方法があるのか? だったら、頼む」

 そうだ、例え体の半分が無くなったとしても、やっぱり生きていたい。辛くない筈がないだろうけど。

「覚悟、してくださいね?」
 その人はそう言って、俺を抱き上げて……。

 俺の首筋に噛み付いた。

 女だった。
 長い黒髪と切れ長な目。背筋がぞくりとするような綺麗な女だった。

 そして……吸われた。

 こいつは……吸血鬼……!? 俺の血を吸い尽くして止めを刺すってのか!?

 ……それも悪くないか。やりたい事はまだまだあるけど、人生の最後にこんな綺麗な女に抱かれて死ねるんだもんな……。

 彼女は口を離して俺に向き合った。
 そして何かを言ったのだが、朦朧としている俺にはよく聞き取れなかった。
 そして、俺に背中を向けて去って行った。

「おーい、俺、まだ生きてるぞー? 止め刺すんじゃなかったのかー?」
 俺の血、不味かったか? 好き嫌い多かったからな。

















 寿司屋の湯飲みにお茶のおかわりが注がれた。
 ……今度は玄米茶だった。

「……とても、そんな大怪我したとは思えないな」
「夢オチ……だったら良かったんだがなぁ」

 彼女はあいかわらずのビーカーで喉を潤した。

















 病院で目が覚めた。
 奇跡的に俺は無傷だった。至近距離で落下した鉄骨の衝撃で気絶していただけだった……。俺も、家族も、医者も、そういうことにして納得した。
 あの怪我やら吸血鬼やらは夢の産物だったのだろう。

 だが、両親も医者も何やら腫れ物に触れるような対応だった。この入院がきっかけで、俺の体に何か重大な病気が発見されたのだろうか?
 だが、膀胱がそんな思考を断ち切った。そして、トイレに行こうと立ち上がる時、胸に何か違和感を感じた。
 看護婦さんとお袋がトイレに付き添う。
 何やら歩きづらい、体が自分の体じゃないみたいだった。本当に重大な病気なのか? と、思っていたら俺は女子トイレに引っ張り込まれた。

 俺が戸惑っていたら、お袋は突然俺を抱きしめてきた。
「なっ……!?」

 お袋は辛そうな表情で呟く。
「辛かったでしょう……今まで、女である事を隠してきて」
「へ!?」
「何で相談してくれなかったの? 家族でしょ? 親子でしょ?」
「な、何の事だよ!?」

 俺の肩を掴んで揺さぶるお袋を看護婦さんがたしなめた。
「息子さん……いえ、娘さんを責めないでやって下さい、自分の体がそんな風に変化しつつあるなんて、なかなか言える事ではないですから」
「娘ってどういう事だよ!? 俺、男だぞ!」

 だが、看護婦さんは優しく微笑んでこう言った。
「もう、無理しなくていいんですよ? 私達が味方になりますから。とりあえず用を足してしまいなさい、膀胱炎になってしまいますよ?」

 突如女扱いされて戸惑う俺にパンパンに膨れた膀胱が活を入れた。
 訳がわからないながらも個室に駆け込む。

 いつの間にか着せられていた上半身だけを覆う病院のパジャマは、右と左どちらが前か忘れたがとにかく紐で止められていて、猛烈な尿意に急かされ落ち着いてほどく余裕を無くしていた俺は力任せに引きちぎろうとして力んで、ちょっとちびって……。












「あ! 今の無し無し!」

 結城は顔を真っ赤にして両手をバタバタ振る。
 彼女は語りに夢中になっていたのか無意識のうちにとてつもなく恥ずかしい過去を告白していた。
「……判ったよ、そこんとこは忘れる。で、その時女になっていたってのか?」
「ああ。胸にあった違和感の正体は……その、アレだ。元々筋肉は大してなかったから胸板ががっしりとふたつに分かれていたわけじゃないけど、違う意味でふたつに分かれていて、ふにふにと柔らかくって、何だか変な感覚がして……友達が学校に持って来てた洋物無修正のエロ本に出てた外人のでかいのと違って、両手で掴みやすい程々の可愛い大きさで膨らんでて、って、あ、いや、その、あの」

 彼女は勝手に自分から話しておいて赤面して咳払いした。

「あのさ……僕は健康な年頃の男だから、その、興味が無いわけじゃないんだけど、無理して詳しく説明しなくていいから」

「……判った。で、下も無くなっていたんだ。それまた洋物無修正のエロ本に出てた外人のアレ程ではないけど、日本人としては多分標準サイズ……」
 少し俯いて続ける。
「よりは、やっぱり小さかったか……って、な、何言ってんだ俺」

 彼女はまたも勝手に自分から話しておいて、益々赤面して両手をバタバタ振って何回も咳払いした。

「とにかく! 無くなってて、後で手鏡持ってよく見てみたらうっすらとした茂みの下に見えた女のアレはそれまた無修正のエロ本に出てた巨乳の金髪女の黒ずんでぱっくり開いたアレとは違って、ぴっちりと合わさった何だか可愛い感じで、勇気を出してちょっと広げてみたら綺麗なピンク色で……って、うわー!」

 うっかり口を滑らせ失禁した話を漏らしてしまってパニクっているのか、うら若き乙女としての恥じらいと、肉眼で見た女体の知識をひけらかしたい年頃の健康な男としてのスケベ心が入り混じった複雑怪奇極まりない心理状態で、僕がいいって言ったにも関わらず何度も恥ずかしい事を自分から詳しく説明しては自爆を繰り返した。

 そうして、もうこれ以上は不可能って感じに赤面して、今度は落ち着こうとビーカーのお茶を飲もうとしてむせて激しく咳き込んで、僕が背中をさすってやってようやく落ち着きを取り戻した。

「ケホッ……すまん。で……話は戻るが、とにかく体型が変わっていて、それで体のバランスがおかしくなったから歩きづらかったんだと思う」
「そっか。……しかし、お袋さんたちは、君が『結城 正巳』とは別人だとは考えなかったのか?」
「……お袋は思い込みが激しいんだ。俺は元々女顔だったし、持ち物やら服装やらでそう判断したんだろうな」
「なんだか君自身の認識と看護婦さんやお袋さんの認識に食い違いがあるみたいなんだけど」
「ああ、周りは俺の体がかなり昔から徐々に変化していったんだと思っている。胸はサラシで巻くなりなんなりしてごまかして、誰にも言わずに黙っていたんだと……な」
「でも、君自身はその時まで自覚は無かったんだろう?」
「ああ、そもそも、その日だって学校の男子トイレで小便した記憶がちゃんとあるんだ。隣の奴に俺のは小さいってからかわれた記憶だってある」

 ……男同士のワイ談みたいな会話を女の子としている僕って一体……。

「じゃあ何で?」
「多分、血を吸われて俺も吸血鬼になっちまったからなんだろうな」
「え? だって、さっきニンニクも十字架も日光も聖水も平気だって言ってたじゃないか。そもそも、そんなんで何で自分が吸血鬼だと思ったんだ?」
「……聖水は飲んでない。でも、弱点以外の特徴が現れていたかも知れないんだ」
「弱点以外?」
「再生能力と……あれは、関係ないか」
 彼女は少し考えこみ、俯いた。

『あれ』……何だ?

「俺に再生能力が備わったとしたら、傷一つ無い体とあの女が言ってた事も辻褄が合う」
「血を吸って君を吸血鬼にして、再生能力を与えて救ったってのか? でも、それでなぜ女になった?」
「治ったから、だろうな」
「え?」
「さっき言ったろ? 俺は半陰陽……体の設計図は女。なのに何かの間違いで男みたいになっていた。いわば性器を怪我していたようなものだ」
「……! だから、潰れた体と共に、アレも女のソレに再生されたってことか」

 その結果『結城 正巳』は今の体になった。だが、周囲の者は『彼』がこれまで必死に、徐々に女に変化してゆく体を隠して生きていて、この事故がきっかけでその秘密がばれた……と、判断した。
 それから『結城 千代』という女として生きることになった。
 『正巳』……『まさみ』という響きは女の名前でも使えると思うが、男としての自分と決別させるために全く別の名前にしたのだろう。

 そして、物見遊山で来たという、いわば自分の原罪であるこの土地に引っ越してきたのだろうか。
 ひとり暮らしなのは、人目を気にせずひとりでゆっくり落ち着いて考える時間を与えようと親が考えたからなのだろう。

 件の吸血鬼らしき女は『とてつもなく辛い日々が始まるかも知れません』と言っていたそうだ。
 確かに、突然女になってしまったのだから辛い。そういうことなのだろうか?

 だが……。

「昨夜のアレは……吸血鬼になってしまったからだったのか。でも、今は普通だよな? なぜだ?」
「……月のものだ」
「月のものって……」

 お互い赤面した。
 毎月あることだと言っていたが……。

「あ、違う。いや、違わないか……でも違う」
「……どっちだよ」
「昨夜のアレは、女の月経とは違う。発作だ」
「発作?」
「ああ、この体になって、生理が始まって、俺の体が本格的に女として機能し始めた満月の夜だった」

 そう言って掌を自分の下腹部に当てた。

 そう言えば、昨夜も満月だった。

「牙が生えてきた。そして、人に噛み付きたくなった」
「噛み付く? ……! 僕を見た時の君の反応はそういう事だったのか?」
「ああ、必死で我慢していた時にお前が来たものだから、お前に襲いかかって、こいつを首筋に付き立てたくってたまらなくて、頭がどうにかなりそうだったんだ」
 そう言って、さっきの牙を差し示す。
 昨夜、結城は僕を爛々とした目で見つめ、迫ってきた。キスされるのか? 等と呑気な事を考えていたが、ファーストキスや貞操の危機どころか、真相は剣呑極まりないものだった。

「そういった衝動を一生懸命に抑えて、夜が明けたら牙が抜ける。そうしてようやく収まるんだ」
「だから、月のもの……か。じゃあ、あのトマトジュースは血の代用品なのか?」
「ああ、これまで19回、色々試したあげく、トマトジュースやトマトその物を少しづつ摂取して気を紛らわすのが一番楽だと判ったんだ」
「……だからって、あの量は尋常じゃなかったぞ」
「効果が薄れていくんだ。血だったらそこそこの量で満足できるんだろうけど、トマトは所詮代用品、満足する事はできない。そして胃袋の容量には限界がある」
「じゃあ、吐いていたのは……!」
「ああ、満月になる日は絶食して、胃をカラッポにしておいて、それでも飲んだトマトジュースで満タンになったら吐いて胃をカラッポにして、朝になるまでそれを繰り返すんだ」

 平然と言い放つ。これではまるで過食症ではないか。

「始めは1リットルのボトル1本をちびちび飲んで朝まで持ちこたえられたんだが、そのうち大量に飲まないと我慢できなくなっちまってな。今では6本入りの箱3箱でも朝まで持たなくなった……まるで、アル中かジャンキーだな。髪の毛うしろで縛った落ち武者みたいにしてさまよってた時、お前はクスリやってるのかって聞いてきたけど、あながち間違いじゃねえんだ」
 そう言って自嘲した。

 僕には何も言うことができなかった。
 昨夜の苦しそうなうめき声、トマトジュースを捜し求める時の麻薬中毒患者のような鬼気迫る光景。
 彼女は毎月のように、あんな苦痛を味わっていたと言うのか?

 ……毎月? これまで19回と言っていたが……?
 僕達は高1、そして件の事故(いや、事件というべきか)は入学直後だという。
 約12ヶ月のずれ。
 それと去年の春に発生した震災を入学前の春休みと言っていた。
 ……1年ダブった?
 その1年、休学していたのだろうか?
 その1年間はどのような暮らしだったのだろう?
 
 元に戻る方法の模索、月のものへの対策の試行錯誤、それから、女として……そして、吸血鬼として生きる覚悟を固めるためにそれだけの時間が必要だったのだろうか?

「お、おいおい、何深刻になってんだよ。さっきのは笑う所だぞ? ウケると思ったんだがな」
 彼女はそう言って苦笑した。
 笑えない。笑ってはいけない。

「なにか、他に方法は無いのか?」
「……無い」
「無いって……」
「さっき色々試したって言ったろ? 栄養的にはよく判らない。鉄分多く取ればいいかと思って大嫌いだったほうれん草やレバーを無理して食いまくったり鉄剤を吐きそうになるくらい飲んだり、他にも色々試したがさっぱり効果なし」

 俯いて、語気を荒くして続ける。

「そもそも、血を吸ってなくても別に死にはしない、満月の夜以外は全く普通なんだ。多分、精神的なものなんだろうな。伝承も色々調べたが有力な情報などなかった」

 更に、吐き捨てるように言い放つ。

「多分、吸うしかねえんだよ。罪の無い人を襲って牙で血を吸うという行為をしねえ事には収まらねえんだ」

 語気を更に激しくして続ける。

「献血ルームにでも行って血を分けてもらうか? どう言って!? あれにはたくさんの人命がかかっているんだ。俺なんかの、我慢してりゃそれで済む苦痛を和らげるために使うわけにはいかねえだろ!」

 テーブルを叩く。
 二つの牙が床に落ちた。

「お前ら男だってムラムラしたらオナニーして出すだろ! そうしねえと辛いんだろ? だからって見ず知らずの女にSEXさせて下さいって頼むわけいかねえだろ! それと同じだ! あれが俺のオナニーなんだよ!」

 彼女は肩を上下させて荒く息をする。

 そうなのだ。仮に事情を話し、相手の同意を得た上で血を吸わせて貰えるとしても、 そんな事できるはずがない。
 伝承が正しいとすれば、血を吸った相手も吸血鬼となる。そして自分が受けている苦痛を相手にも背負わせる事になるのだから。

 自分の無神経さを呪った。
 これまでに何度、裏切られてきたのだろう?
 この方法なら……そう考え、希望を託して試し、結局は今やっている辛い方法でも一番マシであるという結論にたどり着いた時の無力感。
 何度、打ちひしがれてきたのだろう。

 結城は立ち上がり、僕の横に立った。

「……ゴメンな、取り乱しちまった。お前に当たったからって、どうにかなるわけじゃねえのにな」

 そう言って力なく笑い、僕の肩に手を置いた。

「……あっち、向いてろ」

 結城は僕のシャツの背中を両手で掴んで、そう言った。
 そして……。

「でも、誰にも言えなかった事をぶちまける事ができて……少しは、楽になった。ありがとうな」

 彼女の声は、かすかだが震えていた。









『僕には、何かできる事は無いのか?』

 あの時、結城にそう言いそうになって慌てて口を塞いだ。
 それこそが僕の傲慢だった。
 僕はただの人間だ。
 一体何ができるというのか?
 物理的な方法はもう無いのだろう。

 精神面でも、彼女が背負った苦痛を知る事はできても、理解し、共有する事はできない。
 そんな人間の言葉など気休めにもならない。

 ただ側にいて支えてやるか?

 ……逆効果だ。
 僕が側にいる事は、禁断症状に苦しむ麻薬中毒患者の目の前にクスリをぶら下げるようなものだ。

 結局、そうっとしておくのが最良の方法だった。

 いや、方法が無いわけではない。

 僕の血を与える。

 だが、その結果、僕も吸血鬼になったら?
 満月の夜の、彼女の凄惨な光景。
 自分もああなるとしたら……。
 それでも尚、彼女に血を分け与える勇気など持てるはずがない。

 それに、そうなった時、彼女はどれほどの罪の意識に苦しむ事になるのだろう?

 結局は、あの方法が一番マシだったのだ。

 僕は、無力だ。






 あれから、数日が経った。

 彼女は相変わらず孤高を保っている。
 なぜなのか?

 かつては男として暮らしていた。だが今は女だ。
 それゆえに、どちらにもなじむ事ができないのだろうか?


 図書館で吸血鬼にまつわる文献を色々と読んでみる。

 吸血鬼にまつわる伝承……。

 ニンニク等の弱点、月齢と魔力の関連性、変身能力、飛行、怪力、魅了の力を有する視線、蝙蝠や狼の群れを操る、魔法や通常の武器による攻撃に対する耐性、再生能力、アンデッド、不老長寿。

 ……不老長寿!?

 伝承によって解釈は異なるが、永遠か、現実に生きる人間にとっては永遠に等しい年月を生きるとされていた。

『――そもそも、そんなんで何で自分が吸血鬼だと思ったんだ?』
『……聖水は飲んでない。でも、弱点以外の特徴が現れていたかもしれないんだ』
『弱点以外?』
『再生能力と……あれは、関係ないか』

 再生能力と『あれ』……おそらくは不老長寿……つまり不死身!?

 もし、自分がそうなったとしたら?
 いつまでも若いままでいられたら? それは本当に素晴らしい事なのだろうか?
 様々な物語で語り尽くされたテーマだ。
 そして、大抵は否定的な結論だった。
 僕も、そう思う。

 一昨年、ひい婆ちゃんが死んだ。大往生だった。
 激動の時代を生き抜き、あの時代の女性としては珍しく事業を起こし、ひい爺さんと愛を交わし、子をなし、紡いだ命は子から孫へ、曾孫へと繋がり、今の僕がいる。
 老後の暇つぶしに、と色々な本を書いたりもした。
 様々な物事をなしとげ、有形無形の物を残して逝った。
 晩年の顔は確かにしわくちゃではあったが、いい人生を生きている人間はいい顔をしていた。
 ひい婆ちゃんは、美しかった。

 自分が生きてきた時間の重みにふさわしい姿でいる事、それは若い時の姿を保つ事よりも遥かに価値があるように思えた。

 何もかもが変わっていく。望む物も望まざる物も、命ある者も命なき物も、時間は平等に流れていく。
 だが、その流れから弾かれた者はどうなるのだろう?

 もし、普通の時間を生きる人間と関わり、心の中に入り込んできたとしたら、時間はどれほどの苦痛を彼女にもたらすのだろう?

 共に老いていけない体、共有できない時間、それによる苦痛。

 それを考え、結城は孤高を保ってきたのだろうか?

 彼女は、あの体になってからこの学校に来るまでの1年間、たったひとりで正面から自分が吸血鬼である事と向き合ってきた。
 もしかしたら、まだ自分は人間なのかもしれない。再生能力はなくなり、普通に人間としての時間を刻んでいるのかもしれない……そんな希望が砕け散るような証拠を、その1年の間に見つけてしまったのだろうか?

 僕の場合、ここ1年で僕自身に起きた変化は……進学による環境の変化、人間関係、ひとり暮らしによる生活の変化……いや、そういう事じゃない。体の変化は?

 ……身長!

 もし、彼女の身長が、その1年で伸びていなかったとしたら?

 成長しない体、それは、自分が年を取らない、いや、年を取れない体であると確信させるには充分だろう。
 だが、親はいつまでもふさぎ込んでいる娘を放ってはおけなかったのだろう。多少は荒療治だとしても、強引にでも学校に通わせようとしたのだろう。
 彼女が普通の人間だとしたら、それでも良かったのかもしれない。
 だが、永遠の時を生きる事になった彼女の苦痛を増やす残酷な仕打ちだった。
 親が長寿を願って考えたであろう『千代』と言う名前は、どれほどの皮肉なものだっただろう。

 彼女がちっとも女らしくない、いや、女になってしまった事を平然と受け止めている理由が判った。
 人間ではなくなってしまったのだ。そんな事に比べれば性別が変わった事など微々たる問題でしかなかったのだ。

 そんな彼女にしてやれる事など僕には思いつかない。

 ある事を除けば。

 それは、とんでもない覚悟、たとえ一生考え続けたとしても到底できそうにない覚悟が必要だった。



 僕の時間は流れてゆく。

 僕は彼女と話す事ができない。そして、彼女は誰とも話す事ができないまま日常は続く。

 満月の夜の次の資源ゴミの日、彼女のアパートの近くのゴミ捨て場に置かれるペットボトルの量は着実に増えていった。

 それが何を意味するのか?
 僕は知ってしまっていた。でも放って置くしかできない。


 辛い。

 なぜ辛いのか?

 彼女に何もしてやれないからだ。

 ではなぜ、何かしてやりたいのか?

 答えは、判りきった事だった。






 3学期もそろそろ終りに差しかかったある日の放課後。
 彼女のアパートの前で僕は待っていた。
 そして、赤いロゴが入ったダンボールを抱えて帰ってきた結城は僕を一瞥し、無視して通り過ぎようとするが僕は彼女に話しかけた。

「結城、今夜、君と一緒にいてもいいか?」

 彼女は一瞬驚きの表情を浮かべるが、すぐに不機嫌なものになる。

「……お前は馬鹿か。 あの夜の話、忘れたのか?」
「覚えている。あれから色々調べて、考えて、考え続けて、その上で出した結論だ」
「判ってない、お前は何も判ってない!」

 彼女はそう言って通り過ぎようとするが僕は続ける。

「いいから聞けよ、結城、ずっとひとりで生きていくのか?」
「……ああ、そうだよ、そうするしかねえだろ! いつまでもこの姿のままだ! どうやっても死なない。いや、死ねない! そんな化け物、誰だって気味悪がるに決まってる!」

 彼女の前に回りこむ。

「僕はここにいるだろ」
「離れていくに決まってる。大体、俺は元男だぞ! そんな女なんて気持ち悪いだろ! それにお前はもう知ってるだろう? 今夜は満月だ、誰かがそばにいたら俺が辛いんだ!」

 彼女はそう言って僕を押しのけ、自分の部屋のドアを空け、抱えた箱を置いた。
 そこには、同じロゴが入った箱が既に6箱も積み上げられていた。
 そして扉を閉め、もときた方向に歩き出す。

「おい、どこへ行くんだ?」
 結城の手を掴み、呼び止める。

「ディスカウントストア。今では、あれだけあってもまだまだ足りない。一度に持ちきれないから何回も往復してるんだ」
「あれを今夜……全部飲んで、吐くのか!?」
「そうだ。そろそろ月が出る、それまでに準備を済ませないとならねえんだ。だから離せよ!」

 振りほどこうとするが、僕は掴む力を強めて対抗する。

「離せるか! あんな辛い事させられるわけないだろう?」
「俺の勝手だ。 お前には関係ない」
「関係なくない! 僕はもう君のことを知っている」
「だったら忘れろ。そして普通の女と結婚して、普通に老いさらばえていけばいいだろう!」

 僕は深呼吸し、彼女の両肩に手を置き、勇気を出して口を開く。

「忘れられるか、僕は結城とそうしたいんだ!」
「……! ……皮肉か? 俺と結婚したい? 普通じゃないのにか? 年取れないのにか?」

 彼女ははじめはあっけに取られていたが、すぐに嘲笑を浮かべて言い放った。
 そして強引に振りほどき、歩き出す。

「待てよ、色々考えたって言ったろ?」
「何をだ? バラ色の新婚生活か?」
「違う! 結城をそんな体にした女は、何で君を助けたのか、だ」
「え……?」

 嘲笑を浮かべながら振り向いた結城は呆けた顔をした。

「他ならぬ本人が一番辛さを理解しているはずだ、それでも君を助けたのはなぜだ?」
「え? それは……? それは……」
「自分の体がどうなったとしても、生きていればきっと、生きていて良かった、そう思える時が来るんじゃないか? だから、助けたんだろ」
「……」
 俯く結城に更に言葉をかける。

「そもそも、結城は本当にあらゆる方法を試したのか?」

 その言葉に彼女は血相を変える。

「……!! 試したと言っただろう?」
「たったひとりでか? 誰にも話さず協力も求めず、これまで2年弱、24回くらいか? そんな短い間の限られた機会で試せる事なんてたかが知れている」
「くっ……」

 彼女は歯噛みした。

「あの女はさ、諦めてなかったんじゃないか?」
「え……?」
「あの時そこに通りかかったのはなぜだ? 完全に諦めたのなら、どっかの山奥にでも閉じこもってるだろ」
「それは……」
「あの女は『とてつもなく辛い日々が始まるかも知れません』って言ったんだろ?」
「ああ、死ねないし、『月のもの』が始まった。これが辛くなくて何が辛いんだ?」
「問題はそこじゃない。『かも知れません』って言ったんだろう?」
「そうだが?」
「『かも知れない』、つまり、確実にそうなるとは限らない。あの女自身、判っていない事がたくさんあるんじゃないか?」

 結城は愕然として呟いた。
「……! じゃあ、俺に備わったのは再生能力だけ……?」
「そうかも知れないし、やっぱり死ねないかも知れない、そもそも、どうやってそれを確信した?」

 僕はあれこれ考えている内に、ある仮説にたどり着いていた

「それは……満月の夜に血を吸いたくてたまらなくなったから……」
「なあ、そもそも、あれから怪我はしたか? 再生能力がないと治らないような大怪我をしたのか?」
「……していない」
「じゃあ、再生能力はあの時の一回こっきりなのかも知れないじゃないか!」
「……!」

 彼女はハッとして俯いていた顔を上げた。
 仮説への確信は高まる。

「1年やそこらで自分が年を取らなくなったって、どうやって判断した? 身長が伸びてないからか? 身長は性別変わったときに縮んでいたかもしれないだろ」

 それを聞いた結城は自分の掌をぽん、と叩いた。
「……あ、身長を測ってみるって手があったか。本では吸血鬼は不老不死だって書いてたから、てっきりそうだと思ってた」

 こけた。
 身長を測りもしなかったとは……。

「……やっぱり。結城はさ、頭固いんだよ。自分の体の変化でパニクってて色々な事を見落として、ひとりっきりで考えて、あがいて、自分はこうだと決め付けてるんだよ。君のお袋さんに似て、思い込みが激しいんじゃないか?」
「……」

 反論はない、図星らしい。僕の仮説は正しいようだ。

「ひとりで背負い込まないでさ、一緒に考えようよ。盲点になっている所がたくさんあるんじゃないか? ひとりよりふたり、色々おぎない合えるだろ。希望は捨てるなよ。あの女もさ、別れぎわにはそう伝えようとしてたんじゃないか?」
「……でも、本当に不老不死になってたら……」
「その時はその時だ。大体、一緒の時間を過ごせないのは結城だけじゃないんだぞ」
「え……?」
「そもそも、不老不死になったって思い込んで、何でひとりっきりでいようと考えたんだ?」
「……決まってるだろ、誰かと仲良くなって、好きになった奴がどんどん歳喰って、いつか死んでいくのに、俺はずっとそのままだ、置いてかれるんだ。そんなの、辛すぎる……」

 彼女はそう言って俯いた。

「僕の実家はさ、昔からたくさん猫を飼ってたんだ」
「え……?」

 彼女はいきなり関係のない単語が出て当惑した。

「僕が生まれる前からいた奴もいる。真っ黒のほっそりとした奴で『タンゴ』って名前で、まるで兄弟みたいに過ごしていたんだ」
「それとこれと何の関係が……?」
「なあ、人間は何年生きる? 猫は何年だ?」
「……!」
「あいつが老衰で死んじゃった時、何日も何日も泣いて過ごしたよ」
「だから! 俺は……!」
「他にも、行方不明になった白黒の『クロ』、車に轢かれちまった茶トラの『マイケル』、病気で死んだ黒ブチの『コゲ』……キリがないけどな。たくさんの別れを経験したよ。そのたびに、とても悲しかった。もう猫なんて飼わないって思った」
「だから、だから……」

 彼女は悲痛な面持ちになるが僕は話を続けた。

「でもな、それでもまた、家族の誰かが拾ってきたり貰ったりしてウチにきた奴は可愛がっていたんだ」
「どうして……?」

 少し、俯いた顔を上げて聞いてきた。

「判らないか? 何らかの形でお別れする時は、そりゃあ悲しいさ」
「だから……!」
「でもさ、なぜ悲しい?」
「え……!?」
「そいつが大切な存在だからだろ? そいつと過ごすのが楽しくて、幸せで、充実してて、そいつのために何でもしてやりたくて。そんな大切な存在がいなくなってしまうんだ。悲しくないわけがない」
「だから! だからさあ……」
「でも、僕はあいつらと暮らした事、決して後悔はしていない。それだけ大切に思える相手に出会えたのは嬉しい事だからな。だから、猫が飼える環境になったらまた飼うつもりなんだ」
「……」
「別れる時悲しいからって、出会いを拒み続けてひとりっきりでいる人生の方がずっと悲しいと思うぞ?」
「……」
「僕は結城のそばにいるよ、生きている限り」
「……」

 沈黙が続く。所詮は、普通の体の人間が言うたわ言に過ぎないのだろうか?
 彼女の脳裏にはどのような思いが渦巻いているのだろう。
 いったん出来上がった心の壁はどれほど強固な物なのだろう。

「……」
「……」
「……」
「……」
「……判った。考えてみる」

 かすかにだが、彼女は笑みを浮かべた。
 よかった。これで少しづつでも考えが変わっていくなら、根本的な解決にはならないかも知れないけど、決して不幸ではないはずだ。

 そう思った時、彼女は驚愕の表情を浮かべた。

「……いけね! 日没だ!」

 夕日に向かって駆け出した。

「おい、どこ行くんだよ!」
「さっき言ったろ、ディスカウントストア! トマトジュースを日没までに余裕を持って用意しねえと!」

 彼女に追いつき、肩を掴む。

「待て、もういいんだよ!」
「よくない! 前は6箱飲み干しちまった! 今度は少なくとも8箱は要る!」
「だから、それは代用品だろう? 今夜は、僕がいる」
「……!」
「僕の血、吸えよ」

 シャツの襟を引き下げ、首筋を見せる。

 結城は驚愕の表情で固まっていたが、硬直が解けると怒りの表情に変わった。
「……馬鹿! さっきの話とこれは別だ! お前にまであの苦痛を味あわせるわけにいくか!」
「だから言っただろう、まだ何も判っていないんだ。血、一度も吸った事ないんだろう? 君は吸血鬼のくせにニンニク食べるし日中でも歩き回るし十字架は平気だし、そんな非常識な吸血鬼に血を吸われたぐらいでなってたまるか!」

 吸血鬼に常識もへったくれもないのだが、彼女がこうもマンガや伝承で伝えられる姿とかけ離れている以上、噛まれた者も吸血鬼になるという設定も当てにはならない。

「でも、なっちまうかもしれねえだろ! 少なくとも、日没までにジュース買い込んでおけば俺ひとりで持ちこたえられるのは確実なんだ! 放っといてくれ!」

 彼女は肩にかかった手を振り解き、ふたたび駆け出した。

 その時だった。

 大きなエンジン音。

 この辺は人通りの少ない裏道だからと油断してスピードを出すトラック。
 携帯電話を手にしたドライバー。
 限界を超えた命令に、明日という日が来るのなら筋肉痛という形で悪態をつくであろう僕の全身の筋肉。
 交差点の真ん中で立ちすくんでいる彼女。
 始めは柔らかいものと衝突。
 その直後、固い物と衝突。

 衝撃、鈍い音、激痛。

 暗転。















「……ナカ……シ…ナ……」
 ……。

「タナカ! シヌナ! タナカ!」
 ……?

「死ぬな!」
 ……その言葉を、君が言うか?

「おい! しっかりしろ!」
 目が見え始めた。

「田中! おい! 田中!」
 ……綺麗な……月夜だ。

「田中! 起きろ!」
「でも、月より……結城の方が綺麗だ」
「馬鹿っ! 口説いてる場合か!」

 彼女が浮かべる表情は焦り、怒り、悲しみ……。

『やだぁ♪ 田中君ったら……

 そんな事を言って軽く握った拳を口に当ててはにかむような乙女らしいリアクションを、結城に……ましてこの状況で期待した僕が馬鹿だったか。

「はは……無事で……ゴホ! 何よりだ」
「なに考えてるんだ! お前は俺と違って普通の人間なんだぞ!」
「君だって……人間だ」
「……そんな事……」
「さっき……言ったろ? 結城の……再生……能力だって、ゴホ! あの時の…一回……こっきりかもしれない……じゃないか」
「だったらそれを試すチャンスだったじゃないか!」
「ふん、そんなの関係……ない、男が……好きになった女を……見殺しに……できるか」
「馬鹿! 俺は元男だぞ! 化け物だぞ! そんなの好きになってどうする!」

 ありゃ、僕がこんな恥ずかしい事を言っても君は照れてもくれないのか。

「そんなの……知るか。僕が知っている君は……ゴホ! ただの女だ。ひとりで……あがいて、なにもかも背負い込もうとする、思い込みが……激しい、馬鹿な……女だ」
「……くそ、血がこんなに出てる……体もぐしゃぐしゃだ……これじゃ助からねえよ!」
「あれ……!?」
 目がよく見えなくなってきた。結城はどんな顔して言ってるんだ?

「だからひとりでいたかったんだ! こんな事をこれからずっと、何回も何回も繰り返せってのかよ!」
 胸板に小さな衝撃が繰り返し走る。彼女が叩いているようだ。

「勝手に……殺すなよ。現代……医学ならともかく……非科学的な……方法がある……だろ?」
「え……?」
「結城が……そうなってしまった時と……同じじゃ……ないか?」
「……! でも!」
「試すチャンス……じゃないか。吸った相手を吸血鬼に……してしまうのか、そうで……ないのか」
「ダメだ! お前にまであんな思いさせられるか! 絶対、後悔するぞ!」
「……後悔……だって、生きていないと……できない……だろ」
「だけど……だけど……!」
「どうなったとしても、このまま死ぬよりは……マシだ。僕は……絶対に、諦めない」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……生きたいんだな?」
「生きたい。結城と共に……生きたい」

 どうにか自由に動く右手で、シャツの襟を引いて首筋を出す。

「……分かったよ。責任は、俺が取ってやる! 俺も……諦めない!」

 もう、彼女がどんな表情を浮かべているのかよく判らないが、口には一対の牙が月明かりにきらめいて見えた。
 彼女は僕の体を抱き上げ、首筋にそれを当てる。
 とっくの昔に感じなくなっていたはずの痛みが首筋に走る。
 何かが、命そのものが吸い出される感覚。

「………………ごめんよ、田中。ごめんよ!」

 襟を引いていた右手を彼女の背中に回し、ぽん……ぽん……と、泣いている子供をあやすように優しく叩く。

「畜生、美味いよ……お前の血、すっげー美味いよ……」
「……はは……僕は……虫の類を除けば……ゴホ! 好き嫌いは……あまりない……から……ね……」

 視界が暗くなってゆく。
 意識が遠くなる……景色は見えているのだが、自分の体で見ている実感がない。
 まるで、本当の自分は別の所にいて、目というカメラで見た映像を、転送したモニターで見て、今、結城に抱きかかえられている僕の体を遠隔操作しているような……そんな感覚だった。
 彼女の背中に回った右手に力が入らなくなり、背中を叩く間隔が徐々に長くなり……。

 やがて、右手が、とすっ……と落ちた。


「タナカ? タナカ? オイ!」

 体の振動や結城の声は、あくまでも情報としてしか受け取れなかった。
 見えていた景色が徐々に狭まってゆく。
 本当の自分は……さっきより遥か遠くにいるような気がする。
 もう、なにも感じることができない。

 駄目だったか……死ぬってのは、こんな感じなんだろうか?
 結城と共に生きる事はできないみたいだけど、最後にたった1度だけでも彼女の餓えを満たしてやれたのは、僕にとっては上出来……かな?

 いや、血の味を教えてしまったのは残酷な事だよな。

 ごめんな、結城。













 その時、肩に暖かい感覚が走った。

 もう何も感じない中、暖かい感覚を感じた。

 ……そう。体の感覚を、感じたのだ。
 そして、ボロボロに泣いている結城の顔が目に入り、胸が締め付けられた。

 体の感覚が元に戻る。
 結城の温もりを実感した。

「……結城、その、あのな……」
「田中?」
「……激しすぎるよ。初めてなんだから、優しくして……」
「……ばかやろ」

 とん、と、胸板を弱々しい拳で殴られる。

 体の内側から何かが目覚める感覚に気付く。
 突如、感じなくなっていた全身の激痛が蘇る。

 暗転。













エピローグ

 結果から言うと、僕は助かった。
 冒頭の誤解を招きかねないいかがわしい描写の通り、僕は千代と共に生きる事になったのだ。

 目が覚めて真っ先に目に入ったのは、ぎこちない笑みを浮かべた彼女だった。
 泣きながら僕に飛び付いてくれたってよさそうなものだが、それは無茶な注文だっただろう。
 なぜなら、僕の体は見事に再生していた。医者も、実家から慌ててすっ飛んできた両親も無傷なのは奇跡だと言っていた。
 だが、その奇跡はとてつもない悲劇の始まりなのかも知れなかったからだ。

 僕をはねたトラックは、ドライバーがパニクってそのまま幹線道路まで暴走を続けたあげく、破廉恥な事に公衆の面前でコンクリートの壁と情熱的なディープキスをしていたそうだ。
 奇跡的にも巻き込まれた人はいなかった。
 ドライバーは幸い……と、言うのは釈然としないのだが、骨折程度で済んでいた。
 僕が身に着けていた服はズタボロになり、周りは血の海だった。
 そんな地獄絵図の中にも関わらず、僕の体は無傷だった……ことになっていた。
 どうやら大量に流れ出ていたはずの血は無かった事にされたらしい。

 僕も、千代と同じ……死なない、いや、死ねない(かもしれない)体になってしまったのだ。
 生きている事は喜ぶべきだ。だが、彼女は自分の苦痛を僕にも背負わせてしまったのかもしれない。
 そう考えたなら素直に喜ぶ事などできない。


 だが、僕の体にはこれと言った変化はなかった。
 女にはならなかった。僕は遺伝子的にも純然たる男だった(まあ、僕には男としての第2次性徴が既に発生していたわけだし当然だろう)。
 この病院は彼女の時と同じミッション系で、十字架がいたるところにあったが平気だった。

 いや、とある十字架を見た時だけは別だった。何やら体の奥底から熱く燃え盛るものを感じたのだ。
 それはペンダントであり、看護婦が身に着けていた物であった(ちなみに、その時は千代に頬を思いっきりつねられた)。どちらかと言うと、十字架ではなく看護婦そのものに反応したと思われる。したがって吸血鬼化とは関係ないようだ。

 退院した後、千代の制止を聞かずニンニクラーメンチャーシュー抜き餃子追加を食べてみたが美味しいだけだった。

 そして、千代やその他数名の友達と海に行って、陽光の下で爽やかにビーチバレーを楽しんだが、お互い健康的な小麦色に日焼けしただけだった。

 そうなのだ。
 千代は、少しずつだが他のみんなと打ち解ける事ができていた。
 自分がどこまで人間なのかは判らないが、少なくとも今は人間の女の子としての歳相応の幸せを取り戻しつつあった。
 僕が彼女に対する関心を取り戻したあの日。
 公園で遊ぶ子供達や手を繋ぐ男女や赤ん坊を抱きかかえた母親を羨望の目で見つめていた彼女。
 それが決して自分が望むべくもないものではないと気付いた彼女は変わった。
 かつて男として生きていたわけだが、不老不死になってしまったかもしれない苦悩に比べれば、性転換など些細な問題だった。
 友達を作る事、恋人とデートする事。そして、母親になる事、それらの幸せを掴み取ろうと考えるようになった。
 彼女は、人としての幸せを謳歌していた。

 ただ、由々しき問題が浮上した。
 千代は相変わらずの男言葉……一人称は『俺』で、いまだに少々べらんめえな口調であった。
 こんな変な女、周りから浮いてしまうんじゃないか……? と、思っていたのだが、整った容姿にあの喋り方は特定の嗜好を持つ男(女でもそういう手合いはいるようだが)にとって、かなりそそられるものがあるらしい。
 僕という彼氏がいる(千代も本当にそれを認めてくれたのだ)にも関わらず、靴箱にラブレターが入れられる事もしばしばである。
 千代は人気者になりつつあるが、これはこれで、僕にとっては由々しき事態なのである。

 ……コホン。話を、退院してから数日後の時点に戻そう。


 その日は……試練の日だった。
 僕が千代に血を吸われてから、初めて迎える満月の夜。
 僕がどうなってしまったのか、そして彼女が罪の意識に打ちひしがれるのかが判ってしまう運命の日。

 彼女の部屋でふたりきり、大きな不安を胸に抱き、じっとしていた。
 ただ静かに、沈んでゆく夕日を彼女と共に見つめていた。

 不安に震える僕の体を、背中から彼女が優しく包み込む。
 背中から伝わってくる柔らかく、そして暖かい感触。
 彼女の手を取り、振り向いて見つめ合い、ただ、その時を待った。













 そして、衝動が芽生えた。
















 ただひたすらに、千代を抱きしめたかった。
 千代の唇を、そして全てを奪いたくなった。

 人間の男として……好きな女に対して抱く普通極まりない衝動だった。

「あ……秀明の口……」

 不安を必死に堪えていた千代は、歓喜の笑みを浮かべた。
 彼女の唇からは、月明かりに照らされた一対の牙がのぞいていたが……。

「……ないっ!」

 自分の口に持っていった指には、極端に大きく、尖った歯が触れる事はなかった。

「よかった……よかった……」

 千代は、目からぼろぼろと涙を溢れさせながら飛び付いてきた。
 彼女の体を優しく受け止め、がっしりと力強く抱きしめる。

 僕に『月のもの』はなかった。
 元々そういうものなのか、僕は純然たる男だからか、単なる偶然なのか? 比較対照が無さすぎて断定はできない。
 むやみやたらと臨床例を増やすわけにもいかない。

 でも、これだけははっきりしていた。
 彼女が罪の意識に苦しむ事がないこと、僕が『月のもの』に苦しむ事がないこと、苦痛を共有してやる事ができないこと。
 そして……僕は彼女と時間を共有する事ができないかもしれないこと。

 そのかわり、僕にできる事があった。

 震え出し、拳を固く握り締め脂汗を滲ませ始めた千代の顔を見つめる。
 彼女の目は爛々と輝いていた。
 彼女には吸血鬼としての衝動が目覚め始めていた。

 だが、もうソレを堪える必要はない。

「……ほら」

 シャツの襟を引き下げ、僕の首筋を出す。

「ありがとう……秀明!」

 千代は文字通り僕にむしゃぶりつき、押し倒し、激しく体を求めてきた。
 僕は抵抗せず、優しく抱きしめて彼女に全てを任せた。

「くぅ……」

 首筋に痛みが走ると共に、癖になりそうな酩酊感が襲いかかる。

「美味い……秀明の……やっぱり美味い……」
「はは……言ったろ? 僕はあんまり好き嫌いないからな。でも……」
「でも……?」
「……激しすぎるって。まだ2度目なんだから、優しくして……」
「……ばかやろ」

 とん、と、今回も胸板を弱々しい拳で殴られた。

 好きになった女の子とこんな体勢で抱き合っているのだから、先ほどの僕の男の衝動が押さえ切れなくなってもおかしくはないのだが、そうはならなかった。
 文字通り血の気を抜かれた僕に、そんな体力など残っているはずもなかったのだ……トホホ。












 僕達にはまだ、重大な問題が残っている。
 僕達は本当に歳を取れないのか?
 身長が伸びないとしても、それはもう成長期が終ってしまっただけかもしれない。
 調べて、決定的な証拠を見つけてしまうのはとても怖い、だけど、調べた所で判らない事はいくらでもあるのだ。
 ふたりになったって、それは変わらない。
 それ相応の年月を生きるしかないのだ。
 僕達にこの奇跡と悲劇(いや、喜劇であって欲しいのだが)をもたらした女に会う事があったとしても、それは同じだろう。

 それでも、僕は彼女に会いたいと思った。
 そして、感謝したかった。
 全ては、彼女が千代……いや、かつての『結城 正巳』を救ったあの瞬間から始まったのだから。

 僕達はあきらめが悪かった。
 生きている限り、好きになった千代と(もしかしたら原点である彼女も加えて)共に探し続けるのだろう。






『希望』を。


 あとがき

 ……できました。

 冒頭のフェ○チオを連想させるシーンが実は……という発想から吸血鬼ネタを始めてしまいました。
 あまりオカルトやファンタジーには興味なかったのですが……。

 あれこれ考えてるうちに、ギャグだった筈の話が『らんま』で有名な高橋留美子先生の『人魚の森』みたいなシリアスな話になり、かなり青臭い人生観語ったあげくに体張った恥ずいプロポーズまでさせてしまいました。

 人物の名前ですが……少女の『千代』という名前は本編で語った理由からあっさり思いつきましたが、苗字で悩みました。
 どうもいいのが浮かばず『バンパイアハンターD』の吸血鬼『マイエル=リンク』のリンクと言う言葉から、環や繋がる、連結といった意味の漢字を使おうと考え、『結城』にしました。
 男時代の『正巳』は、『鉄腕バーディー』『パトレイバー』のゆうきまさみ先生から拝借しました。
 『田中 秀明』は『バンパイアハンターD』の『D』の声を当てた『田中 秀幸』さんの字をちょっと変えました。

 この場を借りて、深く御礼申し上げます。

 しっかし、名前を考えるセンスがないんだよなぁ……前作、前前作の『甲子園の魔物』と、『体育の時間』の主人公の名が同じなのもいいのが浮かばず使い回しなだけだし…トホホ。

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