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中学に向かう通学路の途中に、小さな小さな分かれ道がある。この道の先になにがあるのか、どこに繋がっているのか、だれがそんな事を疑問に思うだろうか? 毎日前を通る学生たちは、一度だって気に止める事があるのだろうか?

たった一人だけいた。この曲がり角のような学生が…。

その学生は寺島 宗則(てらじま むねのり)という名を持っていた。しかし寺島にとって、その名前は重く引きずられる鉄球の様に感じていた。一生ついて回る苦しみ…。名前だけではない、自分という存在そのものが、彼の心には重く圧し掛かっていた。

その重い心を抱え、いつも一人でその分かれ道の前を歩きすぎて行った。どこかに必ず行けるであろう分かれ道…しかし彼は一度もその道に入った事はなかった。ただ予定表の張られた球体のような日常から抜け出すのがどうしても恐ろしかったのだ。それがいじめにあっている日常であったとしても…









二つの道

              あさり




 1.静かな夕暮れ

春がいつのまにか姿を消し、沸騰する前の鍋のような蒸し暑さにつつまれた六月上旬のある夕暮れ時。梅雨を越して、夏になってしまったのではないかというほどの天気のいい一日が終わろうとしていた。

「みなさん六時になりました。部活をやっている生徒や校舎内に残っている生徒は、すぐに下校しましょう…」

太陽と金塊で飾られたように光る中学校の校舎。そこから風情さえ感じさせる校内放送が、風にのって静かな街に響いた。この道の両側には葉桜がどこまでも続いていた。その鬱蒼と茂る葉緑体の下を汗や泥にまみれて帰っていく学生たちの姿を想像するのはむずかしくなかった。しばらくして想像通り学生たちがこの道に溢れた。

まるで小川から激流に変わったように賑わいを見せていた。半そでのワイシャツと黒のズボンをはいた男子学生たち。半そでにベスト、ベストと同じ柄のスカートをはいた女子学生たち。体操服や部活のユニホームのまま帰っていく学生もいた。みな明るく、輝いて見えた。

この学生の行列は、ずいぶんと長いこと続いた。だんだん生徒の姿がちらほらしてきたとき、まるで五色沼に浮くユリの花のような女学生が歩いてきた。ほどけば肩全体に綺麗に広がりそうな髪をゴムで一本に束ね、若さと美しさに満ちた瞳を持ち合わせていた。制服は上品な体つきをピッと包み込み、スカートを軽く風になびかせながら一歩ずつ歩いていた。胸に陽光を受けて輝く青色の名札には、「夏本」と書かれていた。

夏本の数十メートル後ろに、痩せていて気の弱そうな少年の姿があった。ぼさぼさの髪で、寂しそうな瞳の上には眼鏡がかけられていた。猫背で、普通に制服を着ているのにぼろ布でもかぶっているように見えた。その少年の目は、遠慮がちに夏本の後姿を見ていた。

彼は寺島だった。そして夏本に不思議な何かを感じていた。

夏本 さほ。なんで彼女を見るとすべてを忘れられるのだろう…。初めて見たときより、今はずっと気持ちが強い…。愛…してるのかなぁ…、なに馬鹿なこと言ってるんだっ! いじめられているような僕がそんなあつかましい感情をいだくなんて…。だいたい夏本さんは僕の存在さえしらないかもしれないのに…

そんなことを考えていると、寺島は足下にあった小さな石ころに足を取られた。ガクン! と視点が反転し、地面が思いっきり近づいた。なんとか手と足を地につけて態勢を保ったが、手に持っていた絵の具の箱と眼鏡が宙を舞い、地面に叩きつけられた。

ダタン!! 絵の具の箱は開き飛び、チューブはもちろんの事、筆やペインティングナイフまで飛び散った。それだけならよかった…寺島は頭の中を真っ赤になるような気分だった。この情けない姿を夏本さんに見られてしまった!

寺島は眼鏡がなくぼんやりとした視界の中で、必死に絵の具を拾い集めた。ただ彼の頭の中には恥ずかしさがぐるぐると回っていた。そんな寺島に追い討ちをかけるように、そっと人影が彼の前に立ちはだかった。

夕日の激しい逆光と、眼鏡がないおかげで目を強く細めてその人影を見た…と思った瞬間、寺島は顔を真っ赤にして俯いてしまった。夏本が…、いままで話した事もない夏本が自分の前に立っているのだ。心臓が強く波打っているのが表皮を通して感じられた。夕日が自分の背中を照らし、冷や汗でべっとり濡れてしまいそうだった。

寺島はゆっくりと顔を上げていった。

「やっぱり寺島くんか!!」

夏本は高い声を鳥の鳴き声のように響かせた。寺島はあんまり意外な反応だったので、ただポッカリしているしかなかった。

「眼鏡がないと…全然顔が違って見えるから」

夏本は、自分と同じぐらいの高さにある寺島の顔を驚きの表情で見ていた。寺島は顔を隠す様に反らして、眼鏡を探すような素振りを見せた。彼は自分の顔に必要以上の劣等感を感じていたし、小さいころからずっと眼鏡をかけていたから、外したときの顔なんて他人に…それも夏本に見られるなんて耐えられなかったのだ。

突然中腰になってうろうろし始めた寺島に向かって、夏本は右手に握られた眼鏡と数本の絵の具のチューブを差し出した。

それに気がついた寺島は礼するようにそれを取ると、すぐに眼鏡をかけて頭を下げながら、「ありがとう」と小さな声で二回繰り返して言った。

「ふぅ…」と、眼鏡をかけてしまったことに対して夏本が残念そうに息を漏らした。その後は少し微笑みながらカバンを持ちなおすと、スカートを翻して歩いていってしまった。

その後姿を見ながら、寺島の手からぽろぽろと拾ってもらった絵の具が零れ落ちた。もしハンマーがあれば、おもいっきり自分の頭を殴っていただろう。とにかく、後悔の心だけが黒いわだかまりのように、自分の心の奥深くにうずいていた。そして自分の無能さを、つくづく感じていた。



 2.絵の具のように…

しばらくして、寺島は自分の家に帰った。彼にとって学校は嫌だが、家庭はもっと嫌だった。経済的には十分裕福だったし、ここいらの住宅地には珍しい3階建ての立派な家だ。しかし温和な家庭生活をおくるには、自我を虚言で固めなければならなかった。

学校生活とは決別し、偽善的な自分を存在させるしかなかったのだ。それに厳格な両親であり、自分の逃げ場は何所にも存在しなかった。

寺島は着ていた制服を丁寧に始末し、ゆっくりと自分の机の前に腰を下ろした。そして机の上に夏本が拾ってくれた絵の具を丁寧に並べた。自分のあごを手の上にのせ、じっと並べられた絵の具を見ていた。そしてその先にはスクリーンのようにさっきの夏本が映しだされていた。

じっと自分の事を見たこと、残念そうにため息をついたこと、あの後姿…

ガダッ…と椅子を蹴飛ばす様に立ちあがると、壁に掛けられている小さな鏡の前に立った。鏡には自分の知らない自分の顔が映っていた。うだつあがらない、ぼんやりとした小さな綿のような顔…。彼は鏡のなかの自分に名前を与えていた。久米…それが自分と同じで違う自分の名前だった。

その前で、眼鏡のテンプルに手をかけた。そしてゆっくり眼鏡をはずしていった。鏡の中の久米は、次第にぼやけて見えなくなってきた。鏡の中には、ぼやぁとした自分が、ただ永遠に続いているだけであった。



翌朝、寺島は何かに取りつかれたように布団から身を乗り出した。翌朝と言っても時計は3時を数分過ぎたばかり、窓の外は街灯だけが変わることなくともされていた。

寺島はパジャマのまま、スケッチブックの最後のページを開き、パレットに夏本に拾ってもらった絵の具だけを搾り出した。そして手だけが激しく動き、踊る様に色がのせられていった。

夏本を描こうとしていた。

長い時間がたった。朝もやが静かに流れ、その水蒸気を燃え上がらせるような赤い太陽が、屋根の稜線あたりを熱く照らしだした。訳もなく犬が二、三度吠えた。

そして新しい朝日は、寺島の前にある画用紙を金色にかがやせはじめた。しかし、画用紙の中には夏本はいなかった。夏本とは違う、一人の女がじっと軽やかに立っていた。

寺島は背に太陽を受け、筆を静かに置いた。

「僕は…、僕は…、僕は…」吐き出すように言った。

ただ両手は拳を握り締め、絵に対して懺悔でもするように頭を机につけた。その様子を、絵の中の女だけが無言で見下ろしていた。



 3.出会い

長い六時間授業が終わり、今日も学校が終わった。強制的に部活に入部しなければしないこの学校では、皆それぞれの部活に向かっていった。

寺島は一日中腐っていた。勉強にも身が入らず、ただ訳のわからない心の苦しみが自分を襲っていた。夢遊病者のように、一人ずつ教室から出て行く姿を遠い目で眺めていた。

そして教室に寺島だけが残った。

しばらくじっと座っていた。校庭から運動部の掛け声が聞こえ始めたころ、自分も部活に行かないと…、文化祭も近いんだし…と、心に言い聞かせながら、重い体をゆっくり起こした。

無造作に並べられた机の間をすりぬけて、教室を後にした。廊下にも誰もいず、窓からさし込む光をキラキラと反射していた。窓の外に目をやると、この校舎が高台にあるせいか、どこまでもつづいた世界を見渡せた。細い絹の糸のような雲がスッと空に広がり、空は何色にも輝いて見えた。奇妙な形をしたマンションたちが無言のまま、静かに天へ伸びていた。住宅地や畑も大きな布に掲げられた絵のようであった。寺島は丁寧に窓を開けた。すがすがしい風が、寺島を連れ去る様に吹き込んできた。

「僕は無情で無能だ…」

その独り言も、風と共にどこかへ消えてしまった。ふと視点を学校の前庭におとした。そこには小さな針のように数人の影が見えた。制服と髪を見た限りでは男二人に女三人だった。そしてその一人は間違いなく夏本だった。寺島は夏本がなんの部活に入っているのかも知らない。前に体育館に数人と集まっているのを見ていたが、何部かは予想もつかなかった。ただはっきりしているのは、夏本も自分の同じぐらい遅くまで続ける部活に入っているということだ。

夏本がこっちを見上げたような気がして、寺島はとっさに顔を引っ込めた。そして開いていた窓を丁寧に閉めると、教科書が山のように入ったカバンを持ちなおして部室へ向かっていった。廊下を歩くごとに足音が無気味に響き、長く自分の影が伸びていた。俯いた闇に沈んだような顔も、窓からさし込む夕日で赤味を帯びていた。

寺島は便所の前で止まり、カバンを廊下に下ろした。水道から水滴が、ぽと…ぽと…と零れていた。閉まりの悪い掃除用具入れからは、「男子便所3F」と黒マジックで書かれたホースが踊り出ていた。

そのホースを跨いで、立て付けの悪い便所のドアを両手で押し開けた。太陽の光りをいっぱいに受けた便所の中は、喉の辺りを不愉快にさせる臭いが充満していた。掃除したあとの湿った便所のタイルは嫌な光沢を光らせていた。

その上を一歩ずつ歩き、便器の前に立ち用を足そうとした。野球部だろうか、外から威勢の良い怒鳴り声が便所にも響いた。

それと同時に、寺島は自分の後ろに何か気配を感じた。背筋か冷たくなるような、気持ち悪い気配を…

一度便器から離れて、便所の中をじっと見た。壁と壁の溝、床の端に出来ている水溜り、便器の黄ばみ、汚い部分ばかりが目についた。

「テラジマくん!! テラジマくん!!」

突然自分を呼ぶ声が聞こえた。はっきりとした女の声だった。寺島はすべての神経が何かに引っ張られているようにぞくぞくっとした。その声は一番端の、使用禁止の個室から響いてきたのだ。

先生によって書かれた張り紙がいつも張られている一番端の大便所。いつも扉は閉められ、開かれたところなど入学してから見たことはなかった。

好奇心と恐怖の中で、寺島はその扉の前に立った。声は一層強くなった。これは妄想なのか…寺島は扉に手をかけて思った。なにか人間を超えた非道の力が扉の向こうで待っているような気がした。

始めて鏡を通して自分を見たとき寺島は、醜く情けないその姿を久米と名づけた。そのときの気分に、よく似ているようだった。鏡の中の自分を見ても驚かないのは、それが自分を超えた何かであるからだ。

「僕は、この扉の先になにがあるのか知りたい…」

ゆっくりと扉を開いた。しかしその先には何もなかった。ぽっかりと空洞になってしまったように、ただ和式の便器があるだけだった。たった一つ違うのは、便器の中に水がためられていなかったことだけ。便器と水道をつなぐ管はなく、止められている水道管には木材が詰められ、ビニールテープで何重にも固定されていた。

これをみれば、誰も使用禁止であることに疑問をいだかないだろう。寺島は一歩身を乗り出して便器の中を覗いてみた。カラカラに乾き、錆びのようなものと赤茶色のカビのようなものが内面にこびり付き、どこまでも続いている様だった。

大きく息を漏らすと、馬鹿馬鹿しいような顔をして個室から出ようとした。しかし、バタン! と扉が突然閉まってしまった。飛びあがりそうに驚いたが、風のせいだ…と冷静に考えをまとめ、閉まってしまった扉を開けようとした。

「テラジマくん!! テラジマくん!!」

あの声が、自分のすぐ後ろから聞こえてきたのだ。背中に零度の水を流し込まれた様な気分だった。

大きくツバを飲み込み…、ごくり…恐る恐る振り向いた。

「こんにちは、テラジマくん」

さっきはいなかったものが、寺島の前にちゃんと立っていた。それは…少女だった。タキシードに山高帽と舞台に上がってきそうな男装姿をしていたが、山高帽から覗くスミレのような顔と、流れ出ている黒い長髪は間違いなく少女のものだった。そして深深と…この狭い個室で…紳士的に挨拶までした

寺島はただ呆然と目を奪われていた。すべての現実から別離したこの現象に、なんと理由をつけたらよいのだろうか…。背中を開かない扉にくっつけて、その少女と取れる最大の距離を保ちながら、少女の行動に全神経をよせていた。

少女は下げていた頭をゆっくりと上げた。

「わたしは田原麻理。あなたの名前は言わなくて結構、今日一日あなたの心に付いて回っていたんだから。ね? ナツモト サホのことが好きなテラジマ ムネノリくん!!」

寺島は口で息をして、激しく高鳴る心臓の鼓動を落ち着けようとしていた。自分の目の前にいる少女は、今朝自分が描いた少女に、あまりにも似ていたのだから…。



 4.新しい道

「うーん、ぼけーと私の顔を見て…テラジマくんはいったいなにを考えているのかな? ずばっと当ててみましょうか? どれどれどれ…」

少女は自分の手を寺島の前にかざした。「ふーん、ふむふむ。謎で心がパンクしそうね? とってもとってもロマンチックだけど、あんまり気持ちの良い状態じゃないでしょう。わたしの謎もあなたの恐怖も、ババババッと喜びに変えてみましょう!! さあ、お話は一ヶ月前にさかのぼります…。

…あれは春、わたしは夜遅く、塾から家へ自転車で走っていました。三丁目の交差点…そこで親友のサホと別れて、わたしは一人無灯火で自転車をこいでいました。…でもでもそれが運の尽き、激しいエンジンの爆音が聞こえたか聞こえなかったか、わたしは暴走運ちゃんの車に跳ね飛ばされ、気がついたら死んでいました…。わたしは空気よりも寂しい存在でいいから天国につれていかないで!! …と、願いに願いを重ねた結果、この世界に留まらせてもらえちゃいました。…しかしたった一つ、条件がありました。

『おまえは死ぬべき存在でありながら、誰の目にも止まらない石ころになってまでこの世に留まりたいと言った。最近では珍しい人物だ。ここまで生に執着を感じているのなら、誰かを幸せにしてあげなさい。たった一人でいい、誰かを幸せに出来たなら、おまえに新たな生を与えよう。ただし、おまえがこの世に留まる理由が憎悪にあるのならば、一生地獄の業火のなかで苦しむ事になるだろう。おまえは、生きる事を愛している。だから、それ以上に大切なものも見つけなければならないのだ』

…そう神様がおっしゃった。わたしはもちろん親友のサホを幸せにしようと思っていたんだけども、サホにはわたしの姿が見えなかった…見ようともしてくれなかった。ただ悲しく、ただ虚しくて…そんな時、サホのストーカーのような君を見つけたんだ!!

…このふやけたワカメみたいな少年は、サホに恋していると一目で分った。それだけじゃない! この少年は驚くほど不幸だった。…だからわたしは決心したわけ! この少年に幸せを与えよう!! かなうはずのない恋を完成させようってね!!

…で、今朝あなたの部屋に行ってみたの。わたしは嬉しかった。あなたは心でわたしを見てくれたんだもの!! いるはずのないわたしを、絵として存在させてくれたわ!!」

少女の…田原の声は異常なまでに輝いて聞こえた。寺島は静かに話を聞いていた。もうなにも疑問に思うことはなかった。それ以上に、何故自分には田原が見えるのかまで分るような気がした。

自分は生きていながら、死んでいるような存在だった。つくづくそう思い知らされた。

今自分が遭遇している境遇は、夢か妄想か…こんな薄汚い便所の一室に、風のような生と死が向かい合っている。これが夢だとしても、自分になにかを訪れさせる夢に間違いはなかった。

「よく君の…田原さんのことは分らないけど、いったい僕になんの用が? …なにかの昔話みたいに僕を助けてくれる存在なのか…」

それを聞いた田原は、やさしい微笑みを浮かべていた。

「あなたのもの分りがよくて助かった!! わたしたち、互いに上手くやっていけそうね」

そう言われて、寺島の笑い慣れない顔が、なんとなく笑顔に変わった。

「よく分らないけど、僕も君の事好きになれそうだよ」

今、便所の個室で、生死を越えたちいさな友情が生まれた。



 5.変化

「じゃあ、さっそく努力させてもらう事にしようかな…」 田原は頭にかぶっていた山高帽を手に持ちかえると、軽やかにそう言った。

「そのまえに…ここから出してはもられないのかな…」

寺島はまだ開かない扉に手をやり、顔をこわばらせながら言った。

「まあそうだけど、あなたこのままじゃ出られないでしょ?」

訳のわからないことを言ったかと思うと、手に持っていた山高帽をポンッと上に放り投げた。まるで重力に逆らう様にくるっと帽子が一回転し、青白い光りを放ちながら田原の手に落ち着いた。

「さあ、帽子に手を入れて、中に入っているものを取り出して」

躊躇する寺島を前に、田原はグイッと山高帽を寺島の手の前まで差し出した。それでも手を入れたら食われるんじゃないか…とでも思っているかのように、おどおどしながら手を入れた。帽子の先に入っている小ビンを掴み取るまで、いらいらするほど時間がかかった。

山高帽から出てきた手には、赤色の液体の入った手の平サイズの透明のビンが握られていた。

「さあ、その液を全部飲み干して」

田原は帽子をかぶりなおした。寺島はしばらくグロテスクな赤色の液体を眺めていたが、思い切った様にフタを外して唇ではさんで飲み干した。ほとんど味はないに等しかった。ただ妙な舌触りがいつまでも残っていた。

寺島はなんの意味があったのか…と思いながら、空になったビンにフタを閉めて田原に返そうとした。ところが驚く事にフタを閉めた瞬間、ビンの中では涌き出る様にさっきとは対称的な青い水で元通りいっぱいになってしまった。

「これからも必要になるだろうから、きみが持っていて」

そう言って、田原は寺島がしぶしぶ不気味な液体をポケットにしまうのを見届けると、大きく手を叩いた。

「さて…と、こっちも準備しないとね」

田原は気持ちのいいほど綺麗に指を鳴らした。それがきっかけ(?)なのか、田原の足下にあるタイルの一つが水色からピンク色に変化した…と思ったのも一瞬、波打つ様にすべてのタイルがピンク色に変わっていくのだ。一息つくまでもなく、寺島の周りのタイルはすべてピンク色に変わってしまった。そして寺島の後ろにあったはずの扉が消え、田原の後ろに何事もなかったように現われた。

田原は満足したような顔でその様子を見ていたが、寺島はそんなことを気にしているどころではなかった。体が異様なまでに熱を持ちはじめていたのだ。原因はたった一つしか考えられなかった。あのグロテスクな赤い液体だ。しかしいまさら後悔もない、すっかりピンク色に変わった壁に手をつけ、呼吸を正すしかなかったのだ。

しかし症状はいよいよ悪化してきた。体中の骨を削られ曲げられていくような激痛があらゆる所で起き、新しく出来た骨格に群がるうじ虫のように筋肉が移動をはじめた。そして、腕や足に生えていた毛は踊る様に一本残らず消え去った。それに続く様に指や腕などからスルスルと皮膚が体の方へ動いていき、一回り小さくなった白く美しい肌が残るだけであった。

同様のことが体中で起こった。特に顔では、新しく形成された頭蓋骨の上を芸術作品のように皮膚が包んでいった。一度表皮にすべて引っ込んだボサボサの髪は、流れる川のように肩まで伸びて止まった。喉仏が綺麗さっぱり消えると、変化の中心は胸部ど腹部に集中していった。

しばらく時間がたった。寺島の体には本来あるべきものはすべて消え、新たな器官が幾つか誕生した。そして体を包んでいた熱も痛みも、季節が変わるように、何事もなかったように消え去っていた。

「空想はいかなる現実に勝る…て言うけれど、まさかここまで綺麗さっぱり変身させちゃうなんて…。今わたしの心は感動に包まれていますよ」

田原はそう言った後、再び手にあった山高帽を宙に投げた。くるっと回ったかと思うと、帽子の中から薄く爽やかな柄をした布のようなものが落ちてきた。柄は寺島がはいているズボンとまったく同じだが、それほどの生地の量はなかった。すなわちそれは、この学校の女子の制服のスカートであった。

田原はそれを呆然と立っている寺島に無理やり渡すと、繰り返し帽子を投げ、ベストやブラウス、女子の下着まで取り出し寺島の手の中に収めた。

純白の下着を手中に渡された寺島は、さっきまでの熱や激痛でぼんやりとしていた意識を取り戻し、ゴキブリに触れたかのようにへんな悲鳴を上げながら衣服を放り投げた。

「ちょっとちょっとテラジマ!! なにやってんの!!」

田原は顔を顰めて散らばった衣服を見た。「…あなたが放り投げたものは、今のあなたにとって日常的なものなんだから!! …でもまぁいいか。わたしだって突然男になったら驚かないではいられないだろうから。…うーん、そうだ! あなたがその体に慣れるための意味を込めて、『かくれんぼ』をしましょう!! …ルールは簡単、わたしが隠れてあなたがオニ、わたしは必ず校内に隠れているから、探すのそれほど大変じゃないでしょ?」

そして、ケラケラケラ…と、おもちゃのように笑った。

寺島はまったく意味のわからない田原の言葉に混乱していると、田原ははじめて幽霊らしく、すうっと自分の後ろにある扉に吸い込まれるようにして姿を消した。寺島は慌てて、飛び掛るようにその扉に掴みかかった。扉は簡単に開いた、しかしこのとき、寺島は自分の置かれた状況を始めて知ることになるのだった。



 6.かくれんぼ

寺島の視界にはもう田原の姿はなかった、そしてあるのは、男子便所とは違うピンク色のタイルと5個の個室だけであった。ここがどこなのか、誰の目にもはっきりとしていた。女子便所なのだ。

寺島は目を二度こすり、自分が飛び出した個室の扉を見た。使用禁止の張り紙が、男子便所と同じように張りつけてあったのだ。しかしここが男子便所でないのはハッキリとしていた。壁を突き抜けたのか…そう思いながらいそいで飛び込み、使用禁止の扉を鍵と共に閉めた。そして男子便所側にある壁を叩いたりなでたり蹴飛ばしたりしてみた。しかし壁は動かず、ピンク色のタイルが広がっているだけであった。

「おちつけ…おちつけ…」そう心に言い聞かせると、扉を1センチぐらい開けて便所の様子を覗き見た。

ここではっきりと分った。間違いなくここは女子便所だ…、小便器の一つも見つからない、だが一つだけラッキーなのは、誰も人がいないということだ。今ここを飛び出し廊下に走り出れば、そして何事もなかったように廊下を歩いていれば、すべて無に帰る。

寺島は個室から飛び出し、押し飛ばすように廊下につながるドアへと走りこんだ。少し、いつもと体調が違うような気がしたが、今はそれどころではなかった。転がるように廊下に飛び出して、大きく息を吐き出した。

一瞬安心が心をよぎり、恥ずかしさで真っ赤になった。しかしその後には漠然とした謎が、鬱蒼とした森林のように広がっているのだった。

男子便所と女子便所の間にたち、両方へ交互に目をやった。二つの空間が、四次元で繋がっているような幻覚さえ見えた。眉間を手を強く押す様にして脳に刺激を与えた。しばらくそうしていると、次第に考えが落ち着いてきた。そしてゆっくりと押し込めていた手を放していった。

その時、寺島は見た…自分の掌を。蜘蛛の足のような不気味ささえ感じさせる長い指が、そこから伸びていた。爪は細く艶やかであった。

寺島は驚愕した。狂った様にワイシャツの腕を止めているボタンをはずし、思いっきり捲り上げた。

そこには自分の見なれた腕はなかった。少し日に焼けた肌をもった細い腕があったのだ。腕に生えそろっていた毛も、今は一本も見当たらない。しかしこれは、間違いなく自分の腕だった。

身体の異常な感覚は、連鎖的にさまざまな部分を示唆していった。一番衝撃的だったのは、胸の存在だった。体の胸部には、小さいが間違いなく…そう間違いなく二つの膨らみがあったのだ。それは体の内側から外側へ、ワイシャツに向かって張り出していた。

自分の体にどのような変化が起きたのか? それははっきりとしていた。確かめるまでもないのだが、美しい手を体の下腹部にあてがった。現実を否定する事はもはや不可能だった。寺島は発狂寸前で、男子便所の鏡の前に立った。

そこには映っていた、100%自分であり、100%女である自分の姿が。肩までかかる軽やかな髪、透き通るような瞳を持つ大きな目、つんととんがったあご、そして他の何者も持たないであろう鼻が、顔の中心にツンと立っていた。とても笑顔が似合いそうな顔だった。しかし鏡の中の顔は困惑し、いまにも崩れ落ちそうだった。

時が止まったのでは…というほど静寂とした時間が経過した。寺島は鏡に顔をあてがうようにしたまま動かなかった。

そのとき、明るく話ながら坊主頭の二人の少年が男子便所の立て付けの悪い扉を開けた。そして二人と寺島はほんの一瞬目を合わした。そして寺島は、飛び去るように二人の間をすり抜け男子便所から飛び出した。

二人の少年は驚き、口をぽけっと開いたままでいた。しばらくして一人が言った。

「いまの…女子だよな?」



寺島の逃げ場は、気の毒な事に女子便所しかなかった。入るや否や、使用禁止の扉に飛び込み、思いっきり鍵を閉めた。訳のわからない絶望と不安が、彼を襲っていた。泣いて解決するならいくらでも泣きたかった。しかしそんな気持ちはぎゅと胸の奥にしまい込み、こうなってしまった原因を必死に考えていた。答えはすぐに出た。ポケットに手を入れ、さっき自分が飲んだビンを取り出した。そこに入っている真っ青な液体は、さっきの事が原因だとハッキリと自覚させた。

強く握り締め、ぶかぶかになったズボンのポケットに押し込めると、すべての解決は田原の発見にあると覚った。彼女が言ったすべての台詞、その意味がからまった糸がほどけるように分ってきた。

田原を見つければ元に戻れる。そう信じ、強制的なかくれんぼに参加する決意をした。しかしそのためには田原が用意したすべてを受け入れるしかない。足下に散らばっている下着やスカートをじっと睨みつけた。

いまの自分が女であることは、否定し難い事実なのだ。それならば、いまの状態こそ男装しているといえるのではないか? 女が女子の制服を着るのは…なんの問題もないんだ。いや、それが正しいんだ。田原を見つければ必ず戻れるのだから、校内を自由に探しまわるためには、この服を着るのかないのだ。

気の弱い寺島には考えられないほど前向きな結論を出した。身を屈めて散らばった衣服を拾い集めていくと、目を強く閉じながら自分のワイシャツに手をかけた。

ワイシャツとブラウスではボタンの向きが逆なことや、初めてはくスカートという存在、本当に下着まで身につけるべきなのかと、さまざまな壁にぶつかったが、最終的にはすべてを受け入れた。

最後にベスト。校章入りのボタンを締め、最高でも膝頭上しかないスカートの端を持ち、空気の中にさらされる足を辱めながら見た。どうしてこれしか長さがなくて、それもこんなに無防備な衣服が、なぜにして存在するのだろうか…。

寺島は大きく吹き飛ばす様に首を振り、自分の服装から視点を前に移した。手を扉に移し、堂々たる態度で扉を開けた。便所の中には誰もいなかった。自分の足音がコツッコツッと石ころが転がる様に響いた。寺島は廊下に出る前、洗面台の前に備え付けられた鏡に自分の全景を写し、なんの疑問点もないかしっかりと確認した。問題はなかった(強いて言うのなら、髪がまったく整えられていないという点だが…)。

寺島は廊下に足を踏み出した。誰もいず、地平とほぼ平行になった太陽の光りが金色に廊下を輝かせていた。寺島はすこし早足で、歩くたびに舞いあがり両足に吸い付くスカートの触感に困惑しながら、金色の廊下を進んでいった。



 7.序曲

寺島は田原のいそうな場所にはある程度見当をつけていた。まず四階から二階までの教室煉は、すべて鍵をかけられているので隠れてはいないであろう。各階にある便所も、いくら幽霊だからと言って長時間隠れていたいはずがない。…と、なると、文化系の部活や実験室が集中しているこの建物の向かい側にある二号館か、体育館、もしくは校庭の端に仮設校舎のように建てられている図書室である。

しかしそんな推測をすっとばすような所に田原はいた。階段に腰を下ろして座っていたのだ。まず体育館に向かおうとして階段を降りていた寺島は狂喜した。

「やっとトイレから出てきたの? あんまり遅いから、ここまできて見に行くかやめるべきか考えていたんだけど、ちゃんとできたみたいじゃない。ちなみにこのかくれんぼは鬼ごっこの要素も含んでいるから、ちゃんとわたしにタッチしなきゃだめだよ」

そう言われて、寺島の手が咄嗟に田原に飛んだ。しかしあと数センチというところでかわされ、田原は階段を駆け下りて行ってしまった。寺島は猛獣のごとく、三段飛ばしの勢いで階段を駆け下りて行った。しかし田原は中段おりたバルコニーに所で立ち止まっていた。あまりに突然だったので、寺島もつい足を止めた。

「テラジマくん、ここでアドバイス!!」田原が笑いながら叫んだ。「自分は女の子という事をお忘れなく!! …そんなにびゅんびゅん走ったら、パンツ丸見え」

田原はケラケラと笑った。

寺島はどうしようもなく恥ずかしくなった。絶対に見えない様にスカートを足に押しつけた。それを見た田原は余計に面白がってニヤッと笑った。

「そうそう、わたしは幽霊、あなたは人間。ハンデがなきゃ不公平だし、いまどきそんなにスカートの長い女の子なんていないでしょ?」

田原の指が、パチンと響いた。便所の件があったので、寺島は咄嗟に身構えた。しかしそれは意味がないに等しかった。

寺島の膝頭まであったスカートは、するすると太ももの辺りまで縮んでいってしまった。開いていた両足を強く閉じて両手でスカートを押さえつけた。そうでもしなければ見えてしまうほど短くされてしまったからである。

「ブルマもスパッツもなしにその短さは辛いね! 走るのや階段にはご注意を、特に後ろには!!」

捨て台詞のようにそう言い去り、余裕の表情で階段を降りていってしまった。寺島は怒りと恥ずかしさに燃えながら、一段ずつ階段を降りて行った。

すべて階段を降りたとき、田原との距離は尊大なものとなっていた。運がいいのか、微かに田原のような影が体育館に入っていくのが見えた。

寺島は体育館の入り口に立った。凄い熱気が伝わってきた。コートの半分をバレー部男女、後ろ半分は男子バスケが使っていた。掛け声と足音、声援が体育館の屋根を吹き飛ばしてしまいそうなぐらい強く吹きあがっていた。唯一安心できたのは、これだけ人がいるけど自分に気を止める状態にある生徒はほとんどいないということだった。そして寺島の目についたのは、ステージだった。ステージは卒業記念品で送られた厚い布の幕が閉められていたのだ。田原はあの後ろにいる、そう寺島は確信した。

熱気溢れる運動部の横をこそこそと歩きながら、ステージに上がる舞台裏につながるドアまでやってきた。そのドアに、「演劇部」とカラーペンと楽しそうなイラストで飾られた張り紙があったが、とくに気にせずドアノブを握り回した。

あったのは暗い部屋に、ステージにつながる木製の階段だった。まるであの情熱に溢れた世界とは別世界にさえ感じられた。ドアを閉めたとき、始めてステージの方向から声と音楽が聞こえる事に気がついた。

身を屈めながら、ステージの上を覗いた。舞台のそでにかかるカーテンのせいで見える範囲が限られていたが、幕の降りたステージの裏では、天井から激しくライトの光りが降り注ぎ、寺島とは反対方向にスピーカーが置かれていた。そして正確な人数はわからないが、五人以上の男女が陣形を形成し、なにか演技をしながら叫んでいた。それは間違いなく演劇部の練習だった。

そのとき寺島は、ステージの先にある、こことは反対側の舞台袖に田原がいるのをしっかりと見届けたのだ。向こうに渡るには、ステージを突っ切るしかなかった。

ここで田原を捕まえれば、いまの自分も恥も屈辱も、すべてが終わり解決する。たとえ今の自分という存在が、このステージを渡りきったとしても、なにも本来の自分には影響はない。

もう一度田原の方向を見た。向こうも寺島の存在に気がついているようだが、余裕に溢れた表情で微笑んでいるのがわかった。そのとき、校内放送が淡々と流れた。

「もうすぐ最終下校時刻15分まえです。部活をやっている生徒や校舎内に残っている生徒はすぐに下校しましょう」

この放送で寺島の決心は固まった。きつく田原を睨みつけ、左足で体を蹴りだし右足で押しとおした。スカートのことなどどうでもよかった。すべてはこの一瞬なんだ!!

一歩…一歩…演劇部が練習中のステージ上を駆け抜けていく。もう頭は真っ白で、ただ田原を見続けていた。

その時だった。「うそ!!」という聞き覚えのある女の声が、寺島の耳にしっかりと響いた。そして寺島の視界には、夏本が静止した映像の様に流れた。そこに、夏本がいたのだ!! 寺島は体のバランスを大きく崩した。

しかし、右手でステージの板を強く叩くと態勢を立てなおし、田原を捕まえる事に全神経を集中させた。田原との距離が2メートルを切ったとき、両足をばねとし一気に飛びかかった。

確かに、寺島の手は田原にぶつかった。ぶつかったにはぶつかったが、そのまますり抜けるように手は田原の体を透き通した。そして勢いは止まらず、ステージから転がり落ちてバスケットのボール入れに、背中を打ちつけて止まった。

ガシャン…と聞きたくないような嫌な音が響いた。寺島の腰は、その音に比例するような打撃を受けていたが。

腰を押さえ込んで倒れる寺島に、田原が飛んできて叫んだ。

「無理にでも起きて!! 早く!!」

なんて身勝手な幽霊だ…と腹を立てながら、壁づたいに体を起こした。しかしステージの方を見ると、どうして田原がそのような事を叫んだのか頷けた。演劇部の連中が、野次馬のように集まってこっちを見ているのだ。そして一番前には夏本がいた。

「こっち!! こっち!!」

田原は体育館の裏口を必死に指差していた。寺島はちょっと不自然な動きをしながらも、なんとかそのドアの前まできた。そしてドアを開くと、自分の後ろで掠れたような叫びが聞こえた。

「待って!!」

夏本だった。一億円見つけてもそんな表情はしないだろう…といった顔で、なぜか驚き以外に他の感情があるような瞳で、寺島を見ていた。

寺島はついつい振りかえろうとした。

「見ちゃだめ!!」

田原は視線をさえぎるように夏本との間に立った。「…あとですべて説明するから、今は逃げて」

寺島は一度閉めかけたドアを思いっきり押し開き、逃げ出すように走り出た。そのドアはプールの横の、膝丈ぐらいまで雑草が生えそろっている日陰に出た。寺島の足には雑草が切りかかるように当たったが、一目散に田原のあとを走っていった。

一度振りかえったが、演劇部の連中が追ってきている気配はなかった。それに安心したのか、いやそれだけではないが、寺島は走っていた足を止めた。体育館とプールにある更衣室に挟まれたコケの生えた通路でだった。寺島は、ここですべての謎を明らかにしたかった。そしてすぐにでも元の姿に戻して欲しかった。だがそれ以上に心にこびり付いているのは、夏本の姿だった。

田原は寺島が走るのを止めたので、自分も止まってもっと安全な所に移動した方がいい…ようなことを言おうとしたが、無言のまま、すんだナイフのような鋭さを持った瞳が自分をじっと見る姿を見ていると、どんな言葉を言っても寺島を動かすのは不可能だと覚った。

「まさかきみがこんな必死に追いかけてくるなんて、思ってもいなかったよ」

田原が言った。「もしかして怒ってる? じゃあその怒りを静めて、一度だけわたしの話を聞いて」

「そんな事より早く戻してくれ!!」さすがの寺島も声を張り上げ叫んだ。

「早く戻せって…スカートのこと? やだぁ、ずっとそのままでいたの? ただ折り曲げてバックルで止めてあるだけなのに。戻そうとすればすぐ戻せたのよ」

「違う!! この体のことだ!!」

プールの緑色の水が、風に押されて幾段もの波をつくっていた。そして真っ赤な夕日をうけ、宝石箱をひっくり返した様に輝いていた。そこで二度目の放送が入った。

「最終下校時刻10分前です。部活をやっている生徒や、校舎内に残っている生徒は、すぐに下校しましょう」

寺島はじっと田原のことを見ていた。

「戻せって…、きみがさっき飲んだビン、いま青色の液が入っているはずだから、それを飲めばすぐに戻れるよ」

「それならポケットに」寺島は戻れる事に安心した様に言った。

寺島はスカートに手をやった。しかしポケットなどない。いまはいているのはスカートなのだ。

その様子を見取った田原が言った。「まさか、トイレに制服ごと置いてきちゃたの?」

寺島は頷くしかなかった。二人は校舎に入れなくなる前に、急いで便所に向かって走っていった。

走りながら、田原は言った。「きみが飲んだのは、分ってると思うけど異性に体を変化させる薬。本来の性から異性になれるのは六時間、その間にきみは男だから青い液を飲めば元通り男に戻れる。でも六時間たって青い液を飲まなかったら、青い液は赤い液に変化して、あなたも一生女の子のままになるの」

それを聞いた寺島は腕時計を見た。とても女物とは思えない時計が、細い腕にぶかぶかになってはまっていた。薬を飲んでからは約二時間、最終下校時刻まであと七分あった。

二人は、下駄箱で挨拶している先生の間をすり抜け、便所に向かって一気にかけあがった。

最終下校時刻5分前の放送が流れたとき、二人は便所に飛び込んだ。洗面台の鏡の前に一人女子がいたが、もうかまっていられる時間はなかった。寺島は一目散に使用禁止の個室に飛び込んだ。幸い制服は誰に見つかる事もなく元通り散らばっていた。

田原は個室には入らず、こっちを不振そうに見ていた女子が出ていくのを見届けると、ゆっくりと話しはじめた。

「わたしがあなたにした行為について説明するから、口を挟まないで聞いてね。一番知りたいのは女の子に変身させられた理由でしょ? もちろんわたしにもちゃんと考えがあったし、一生あなたを女の子にしようなんて企んではいなかったわ。あなたを女にしたのは、わたしが女だったから。だから女として女であるあなたにならいろいろ説明できるでしょ。そしてあなたが女としてサホ…つまりあなたの好きなナツモトさんに近づけば、友達として彼女を知った上で恋をするには、悪い点なんて一つもないでしょ。女の子のあなたがサホと友達になるために、わたしは十分すぎるほど協力するわ。そしてそれを利用して本当の自分自身の幸せを男の子である自分の力で掴める様に…と思って」

そう言ったか言い終わらなかったか、個室の扉は思いっきり開き、男子の制服を着た男の姿の寺島が立っていた。そして両手に持っていた女子の制服と赤い液で満たされたビンを投げるようにつき返した。

「こんな経験は、今日だけで十分だ!!」

声を張り上げて怒鳴った。そして便所から出るドアを蹴り飛ばすように開けた。

「テラジマ!! 待って!!」田原は叫んだ。

しかし、寺島の足は止まらず、薄暗くなっていく便所に寂しい幽霊を残して立ち去っていった。

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