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 さくら

    作:水無月




  さくら 〜後編〜


 春紀はずっと家に引きこもっていた。
 学校には行けなかった。一年はもうすぐ終わる三学期も末、春紀はこのまま四月まで学校に行く気はなかった。
 四月になれば、二年になれば圭吾と毎日顔を合わせないで済む。それだけが救いだった。
 春紀のまた悪い病気が再発した、そう両親は心配したが本人が言うには、また本人の様子からイジメではなさそうだった。結局、親としては手の施しようがなかった。四月からは学校へ行くという春紀の言葉を信じるしかなかった。
 春紀を心配してくれる友達が何人もいた。
 最初に春紀を家から連れ出したのは、やはり知加だった。
 一時ケンカをした二人。しかしそれから数日、春紀が塞ぎ込んでいると聞いて真っ先に駆けつけてくれたのは知加だった。初めは電話やメールから、今では知加達となら外出もするようになった。それでも、春紀は頑として学校へ足を向けることはなかった。
 春紀を心配するのは何も知加やその周りの女の子達だけではない。クラスメートや圭吾も春紀のことを心配していた。圭吾からは連日のように、早く学校に出てこれるといいな、と、いろいろなメールを送ってくれた。嬉しかった。
 でも、圭吾にだけは会いたくなかった。
 次に圭吾に会ったとき、自分が何をしてしまうかわからなかった。恐かった。
 たとえ、春紀として顔を会わせたとしても、その表情にさくらの心が浮かび上がってきそうで。喜ぶかもしれない、悲しむかもしれない。自分でも、どんな顔で圭吾を見つめるのかわからなかった。
 圭吾には会えなかった。四月までというこの期間は、春紀にとってさくらの圭吾に対する気持ちのケジメをつけるために必要な期間だった。
 何度か知加達に連れられて、春紀は外へ出た。
 またさくらとして女装をして、女の子として知加達と遊びに行く。
 知加は、ひょっとすると春紀はもう女装しないのでは、という懸念があった。しかし、春紀は女装を止めなかった。
 止めることはできなかった。これだけが、今の春紀の心の傷を癒す唯一の手段だったのだから。それを知っている知加は、また春紀と一緒にいられることを素直に喜ぶと同時に、春紀はいつまでこちら側のレールを進んでいけるんだろうと、不安に感じていた。
 そして、ようやく春紀の気持ちが立ち直ってきたころ。暦はまた四月の時を刻み始めた。

「さくら! たまにはさ、外でパーッとお花見でもしよう!」
 そう知加に誘われた。
「うん……。今年はまだ桜見てないからそれはいいけど。でも、どこで?」
「ま、妥当なところと言えば、あの中央公園の桜の木じゃない?」
 市の中央公園。桜台という地名に相応しく、この季節だけは数十本の桜の木によって鮮やかなピンク色に染まる丘があった。花見のシーズンになれば、花見を楽しむ数多くの見物客が集まり、また多くの露店などが立ち並ぶ。
「う〜ん、それはそうなんだけど。でも、私はあそこ行きたくない。人多いし、なんかお酒とか飲んでる人達もいてあんまり好きじゃない」
「ふっふっふっ。どうせさくらはそう言うと思って、とっておきの場所を確保してあります! あのね、桜の木は一本しかないんだけど、それはもう見事な花を咲かせるという、誰も知らないとっておきの穴場……」
 なぜ知加も圭吾も、そうやって嬉しそうに含み笑いをするのか。一瞬圭吾の笑顔が頭に過ぎった。
 もったいぶるように、知加はその場所を告げた。
「……え? あの、神社のとこ?」
「なんだ。さくら、知ってたの。あそこの木ね、この桜の咲く季節になるとね、なんと幽霊が出るって噂なのよ!」
「知加ちゃんは肝試しがしたいの?」
「あ〜、さくらそれはヒドイ。第一、幽霊なんているわけないでしょ?」
「うん」
「誰にも邪魔されないで静かに桜を楽しめるんだから。むしろ、その噂話に感謝したほどだわ」
 確かにその通りだった。
「……まぁ、感謝はしたくないけどね」
 でも桜の木に変な噂がつくのは嬉しくない。
「んで、せっかくなんで、皆をあそこに集めて花見をすることにしましょう」
 なんとなく流されるままに、花見をすることになった。
 知加や北高の子達は何か用事があるとかで現地集合ということになり、さくらは一人電車に揺られてこの神社にやってきた。
「ここ来るの、久しぶり……」
 通い慣れた神社の入り口は、相も変わらず人を寄せ付けない鬱蒼とした両手を広げている。なんとなく苦笑しながら、森の門番に挨拶でもするようにして、いつものように通過する。
 あの時以来、電車に乗ってこちらに来るのも久しぶりだった。ひと月空けたからと言って劇的な変化があるわけでもなく、少しデコボコな水溜りの跡も、手入れの足りない砂利道の雑草も何も変わらない。
(神社の神主さんは何やってるんだろ?)
 多少手入れがしてあることから、放置されているわけではないのだろうけど、さくらはこれまで神主の姿を見たことがなかった。
(勝手にお花見してていいのかな……?)
 変化のない景色の中で、ただ一つだけ大きく変化をしているところがあった。
 厚い林の壁を越えた先、春の暖かい日差しを受けて、眩しいほどに満開の花をつけた大きな桜の木があった。
 花をつけるのは一年の内のたった数日。これさえ見れればそれだけで十分に価値があったと思わせる、圧倒的な迫力。
 さくらはゆっくりと近づいた。
 他に人影はない。
(まだ誰も来てないのかな?)
 いや、よく見ると、木の根元に一人だけ先客がいた。やってきたさくらに気がつくと、彼は嬉しそうに手をあげた。
「よっ、さくら」
「…………私、帰る」
「あ、おい、こら! すぐに帰るなよ、せっかくなんだから花見してけ」
 引き返そうとする彼女を、圭吾は慌てて引き止めた。
 圭吾には会いたくなかった。
 それでも、圭吾に軽口をたたけるほどには回復していた。
「他の子達は……?」
「おう! 香山も、皆用事があるとかで、今日は来れないみたいだぞ」
 圭吾は嬉しそうに言う。
(騙された……)
 さくらは頭を抱えたくなった。
「どうしてキミがここにいるの?」
「おう! 俺がさくらに会いたかったから」
「私は会いたくなかった……」
 メソメソと話すさくらに、圭吾はクスリと笑った。
「そりゃヒデーな。俺はさくらに、こんなに話したいことがあるっていうのに」
「私はもう話すことなんてない……」
 さくらは膝を抱えて、不機嫌な小学生のように決してこちらを見ることはなく、ポツリポツリと呟いている。そんなさくらの様子に、圭吾としては怒るというより苦笑するしかなかった。さくらの横で、木にもたれて座り込みながら圭吾は話す。
「おまえにはなくても、俺にはあるの」
「聞きたくない……」
「おまえね。あれでホントに俺が諦めると思ってるのか?」
「……」
「理由もわからず、いきなり別れろだなんて。なんでなのか、やっぱり理由は言えないのか?」
「……」
 言いたくなかった。
 本当のことを言ってしまえばいい、そうすれば間違いなく二人は別れられる。
 言えなかった。
 圭吾に、嫌われたくなかった。
 圭吾とは別れなくちゃいけないのに、嫌われたくはない。
 なんてわがままなんだ、自分でもそう思う。
 それでも、圭吾にだけは知られたくなかった。たとえ親や他のクラスメート達にばれたとしても、圭吾にだけは知られたくなかった。
「正直言って、理由がわからない限り、こっちとしても簡単に諦めるわけにはいかないな」
「あのね、圭吾……」
 さくらは躊躇うように話し始めた。
「私、他に好きな人ができたの」
「嘘だね」
 きっぱりと圭吾は否定した。
「どうしてそう思うの?」
 さくらとしても、こんな嘘が通じるとは思っていなかったが。
「だって、さくらの顔に書いてあるもん。私の好きな人は今目の前にいますって」
 はっきりと言い放つ彼に、さくらは呆れてしまう。
「ふっふっふっ。図星だったな」
 ニヤニヤと笑う彼にさくらは苦笑して、もはや彼に嘘で誤魔化し通すのは無理だと悟った。
 ため息をついてから、さくらは少し開き直って話し始めた。
「そうだよ。私が好きな人は、今目の前にいる。私って、嘘下手だなぁ」
「さくら、それはちがうぞ。さくらは嘘がヘタなんじゃなくて、図星を指されるとそれがすぐ顔にでるんだ」
「そう……なのかな?」
 言われてから、そんなような気もする。それが証拠に、春紀としてもさくらとしてもずっと圭吾を騙し続けてきたではないか。
「でも、それが嘘下手ってことなんじゃ」
「そりゃそうだ」
 さくらは少し落ち込み、圭吾は笑う。
「俺はさくらが好きだ。さくらも俺が好きだ。さぁ、これで何か文句あるのか?!」
「うん、何も問題ないね」
 相思相愛、文句のつけようもない。
「でも、ごめんね。それでも、私とあなたは付き合えないの」
 圭吾にしてみれば、開き直ったさくらの方が性質が悪かったかもしれない。
「だから、なんでなんだよっ!」
「ごめん。理由は言えない」
 下手に嘘をついても仕方ないので、さくらは言えないことだけ言わないことにする。
「せめて、おまえが理由言ってくれないと、俺は改善のしようもないじゃないかっ! なんとかならんのかっ!」
「うん、無理」
「だから、なんでおまえはそこで笑うんだ!」
 それはね、悩んでる圭吾が可愛いからだよ。さくらは横目で彼を見ながら微笑む。
 圭吾は立ち上がり、さくらの少し前に出て、こちらに背を向けたまま桜の花を見ながら話し始めた。
「最初にここで会ったときのこと、覚えてるか?」
 忘れたこともなかった。
「うん。桜の花びらはおいしかった?」
「……余計なことは思い出さなくていい!」
 軽く咳払いをして、彼は話を続ける。
「さくらはその名前と一緒で、桜が好きなんだろ?」
「うん」
「おまえはここに立って、桜に見とれてた」
(圭吾、それは違うよ)
 心の中で呟く。
 今だからわかる。
(私は桜じゃなくて、圭吾に見とれてたんだよ)
 その日を再現するように、圭吾はあの日のさくらの立っていた位置に立った。
「俺はそこに立っていて、制服姿のさくらを見て驚いた」
「なんで驚いたの?」
「さくらが、最初幽霊かと思ったからさ」
「え?」
「ここ、桜の咲く季節になると幽霊が出るって噂があるだろ? 幼心に俺はそれを聞いて育ったからな。信じちゃいなかったが、さくらの姿を見て、一瞬信じそうになった。さくらに笑われて、すぐにそうじゃないってわかったんだけどな」
 圭吾は苦笑する。
「あの日以来、俺はさくらのことが忘れられなかった。また一年後にあの子と一緒に桜が見たい、そう思った。その夢が、今やっと叶った」
 再び圭吾はさくらのもとへ近づいてきた。
 さくらも立ち上がる。近づけば、木の根っこで少しさくらの方が高い位置にいるというのに、彼の姿は見上げるように大きい。背丈だけではない。肩幅、腕の大きさ、同じ男の子とは思えない、春紀の憧れるたくましい男。
「どうしても理由は言えないのか?」
「……うん」
「俺は覚悟してる。どんな理由があろうと、俺にできることならなんでもする」
 まっすぐな彼の視線を受けて、さくらの決意は揺さぶられる。
「俺を信じてほしいだなんて、そんな単純には言えないけど。どんなショックなことでも、聞かずに終わって後悔するより、聞いて苦悩した方がよっぽどマシだ。絶対さくらを嫌いになったりなんかしない。俺に、話してほしい……」
 それは懇願だった。
 押しに弱いさくらであっても、これだけはそう簡単に話すわけにはいかなかった。
 さくらは迷った。
 でも、結局、先に折れたのはさくらの方だった。
「……うん。わかった」
 さくらは、全てを圭吾に打ち明けようと思った。
「驚かないで聞いてね」
 もう、全てを知られて、それで圭吾に嫌われてもいいと思った。
 私は圭吾に話すから、私は圭吾のことを信じているよ、好きだよ。そう思いを伝えたかった。
 さくらは口を開く。
「あのね、圭吾。私……」
 大丈夫、彼は受け止めてくれる、そう心に言い聞かすが、なかなか言うことはできなかった。
 圭吾はさくらを抱きしめた。
 そのまま彼はキスをする。
(あ……)
 舌まで入れてくるその濃厚なキスを、さくらは控えめに受け止めた。
 キスだけではなかった。
 彼はさくらの身体を強く抱きしめた。後ろに回した手で、グッと腰を寄せる。
(あ、れ…………)
 何かが違う。
 どこか、おかしい。
 さくらは気がついた。いつもと同じ華奢な身体、なのに違う。
 彼女の動揺に構わず、彼は熱いキスをむさぼる。甘噛みするように唇を這わせ、後ろにまわした手で彼女の腰を引き寄せ、もう一つの空いている手はさくらの胸にあてる。
 そこはダメ!
 熱いキスにとろけそうになりながら、意識の片隅では警告を発するが、彼になされるまま止める事はできなかった。
 彼が優しく胸をさわる。
 ピクンと身体が震えた。
(え……)
 予期しなかった、今までに感じたことのない甘い感覚。
(う……そ…………)
 あるはずのない胸の膨らみ。
 腰にまわされた彼の手は、優しく彼女のお尻をさわる。
 彼の身体にすりつけられた彼女の腰。
 あるべきものはなかった。
 やわらかいお尻の膨らみが、心地よい弾力を彼の手に伝えている。
(私、女の子に、なってる……?)
 疑うような現実。とても信じられるようなことではなかった。

 もう一時の夢であっても構わない。今目の前には愛する人がいるのだから。
 嬉しかった。
 夢なら、このまま覚めないでほしかった。
 長いキスの後、ようやく彼は唇を離す。
 圭吾はさくらの顔を見て驚いた。彼女は泣いていた。
「ご、ごめん。ホントは、抱きしめるだけだったんだけど。あ、あんまりにもさくらが可愛かったから……その……ごめん」
 謝る彼。
 違う、そうじゃないの! 声に出したくても言えなかった。募る思いのせいで、何もしゃべることができなかった。ただ、首を横に振る。
 嬉し泣きの、泣き笑いの顔。自分でもどうしたいのか分からない。
 今度はさくらから唇を求める。今まで遠慮がちにしかできなかったこと、今だけはもう二人を隔たるものは何もない。驚いた彼も、すぐに優しく応えてくれる。
 唇を離した後、二人はギュッと抱きしめあった。
 彼の耳元でさくらは呟く。
「圭吾、私……」
「何?」
「私ね、圭吾のことが、ずっと好きだったの」



 隣に座る圭吾は、桜を見ながらこんなことを言う。
「やっぱり、あのおまじないが効いたんだな……」
 なぜさくらが付き合えないと言ったのか、圭吾にはわからない。理由はわからない、彼はそれでもいいと思った。さくらは俺のことを好きだと言ってくれた、キスを受け入れてくれた、それで十分だった。
「おまじないって?」
 彼の隣に、彼に肩を預けるようにして座っているさくらは不思議そうに尋ねた。
 いつも以上に甘えてくるさくら。圭吾の腕にあたるさくらの肌の暖かさや鼻孔をくすぐる甘い香りに、彼の心拍数は上がり続けていたが、そんな彼を面白がるように彼女はくっついてくる。からかわれてはいるのだが、彼は心地よくて嬉しかった。
「ああ……さくらと一緒になれるおまじないだ」
 そう言って圭吾は桜の木を指差した。
「さくら。今日の俺、初めてさくらより早く待ち合わせ場所に着いてたってことに気づいてたか?」
「えっと……そうだっけ?」
「そうだった。今日はさくらより早いかなって15分前に着くと、さくらは必ず20分前にはそこにいる。今日、俺が初めて勝ったんだ」
 初勝利に握りこぶしを作る圭吾に、さくらはクスクスと笑う。
「勝ったって言っても、私は別に勝負してるわけじゃないよ」
「なんでそんなに、さくらは来るのが早いんだ?」
「さぁ。たまたまなんじゃない?」
「たまたまって……。さくらって、授業とか遅刻したことないんじゃないか?」
「えっと……そういうわけではないんだけど」
 さくらだって遅刻するときはある。ただ、圭吾との待ち合わせは遅刻したくないと思った。
「俺は今日初めてさくらが来るのを待っていたんだ」
「バスケの試合の時は?」
「あれは別。さくらが来るまで、俺はバスケの試合をしていたからな」
 桜の木を見ながら圭吾は話す。その視線の先に目を向けると、木の幹には小さなキズがあった。
「初めて、何もやることがなくたださくらを待つだけになった。本当にさくらは来てくれるだろうか、最初に何話せばいいだろうかと心配に思いながらな。俺はもう、彼女を待たせる彼氏は許せないと思ったぞ」
 人を待つのは暇で何もやることがなくて、不安だった。
「暇だったから、俺はラクガキしてた」
「……ん?」
 よく見ると木の幹にあるそのキズは、キズではなくラクガキだった。
 二人の相合傘。左にサクラ、右にケイゴと刻んである。
「小学生の頃から、一度はやってみたかったんだよなぁ。あの頃は、こんなの書くとからかわれて嫌だったんだけど」
 今はもうからかわれることもないと言って、圭吾は胸を張る。大人びた圭吾の、子供じみた可愛いラクガキにさくらは笑ってしまう。
「あ。だから、なんでさくらは笑うんだよ」
 少し圭吾は憮然とする。
「これはおまじないだったんだ。今日、さくらに会えるかどうかって。さくらに俺を認めてもらえるかどうかって」
「それで、その効果は?」
「抜群だったよ。また、さくらと一緒になることができた」
 圭吾はさくらの髪を優しく撫でた。
「それはきっと、桜の木に書いたから効果があったんだね」
「ん? どうしてだ?」
 突然、思いつきのようにさくらは言ったが、圭吾は聞き返した。
「うん、なんとなくね」
 どうしてそう思ったのかさくらにもわからなかった。
 ただ、桜を見ていてそう感じた。桜には、見ている人にそう何かを感じさせる強い魔力があった。
「ねぇ、圭吾。どうして桜がこんなに奇麗なのか知ってる?」
 さくらは、彼の手を握った。
「さぁ……どうしてなんだろうな」
「桜にはね、その美しい花を思い続けた人の心が宿っているから。だから、桜は美しいの」
 恐いほどに美しい、曇りのない純粋な輝きを持つ桜。
 こんな陰りのない心でさくらは圭吾を愛したかった。そうすれば、いつまでも私は輝いていられる。そう思った。
 思い続けたさくらの願いはついに叶った。
 彼へ伝えたい思いは、まだまだ途切れることはない。
 しかし、美しい桜は咲き続けるわけではない。その事実を見せ付けるかのように、春の風は少し冷たさを増し、また桜の花びらを大きくつかみ取る。
「……風が出てきたな」
 圭吾が呟いた。
 すぐに散ってしまう桜。だからこそ桜は美しいのかもしれない。
 心の片隅に沸いた不安を代弁するかのように、晴れ渡っていた空には少し雲の影が現れ始めた。さくらはギュッと圭吾の腕を抱いた。
「残念だな。今夜は雨が降るらしいよ。明日には、桜は散ってしまうかもしれない」
 桜と雲を見ながら圭吾は話す。
「まだ、もう少し桜を楽しみたかったんだけどな」
 まだたいしてお花見してないし、と圭吾は呟く。
「圭吾。家ってこの近くにあるんだよね?」
「ああ。あそこの、神社を出てすぐ角のところの家が俺の家だ」
「今から、遊びに行っていい?」
「…………へ?」
 圭吾は驚いた。
「私、前から圭吾の家に行ってみたかったんだよね」
 春紀の頃からそうだった。春紀のときも、まだ一度も圭吾の家に行ったことがなかった。
「ね、いいでしょ」
「そ、それはまぁいいけど。今日は両親もいないし……」
 甘えるようなさくらの言葉に、圭吾は慌てて答える。いつも以上にさくらが色っぽくて、そして、今家に行くとずっと二人っきりだということに気づき、更に圭吾の心は動揺する。そんなことを想像してはだめだと思いながらも、さくらの甘い女の匂いに圭吾の理性は否応なく打算的に働いてしまう。
「もうすぐ雨降り始めるんでしょ。早く行こ」
 彼の腕をひっぱる。
 さくらは、自分から彼を誘っていることに気づいていた。無意識ではない、自分の意思で彼の腕に胸を押し付ける。そのたびに、彼が身を固くするのをおもしろがっていた。
 さくらに迷いはなかった。
 いつまで女でいられるのかわからない。ひょっとするとこのまま男には戻らないかもしれない。ひょっとすると明日の朝には男に戻っているかもしれない。
 今しかない。



 どうして女になったのか、さくらはわからなかった。
 さくらは超常現象を信じていない。神様がいるとは思わない。幽霊が、悪魔が存在するとは思えない。しかし、ならこの現象をどうやって説明すれば良いのだろうか。
 たとえ悪魔の仕業であっても構わなかった。
 悪魔の気まぐれ、今日一日だけ願いを叶え、明日からはさくらにまたあの絶望を与え続ける。悪魔はさくらの生命力を奪っていくのかもしれない。
 女として圭吾に愛され死んでいけるならそれで構わなかった。彼に抱かれ後悔はない。
 夕方から降り始めた雨は、満開の桜を全て散らしてしまうのだろうか。
 しんと静まり返る窓の外。降り続けていた雨は、いつの間にか止んでいた。
 カエルの鳴き声さえ、何も聞こえない。
 夜の静けさが、さくらに何か足場のない不安を感じさせる。偽りのような現実、今自分の見えてるものが全て幻のよう。頬を軽くつねってみると曖昧な痛みが伝わってきた。まだ眠り続けている痛覚神経を必死で這い上がってくるように。
 まるで夢から覚めるときが来たようで。
 眠れなかった。
 眠りたくなかった。
 これが夢なら、ずっと夢の中にいたかった。

 突然、ベッドの横にあった携帯電話が鳴った。
 その瞬間、さくらの意識は一気に現実世界へ引き戻されたような気がした。
 隣に眠る、彼の静かな寝息が聞こえてくる。ううんと寝返りはうったものの起きる気配はまるでない。
 薄暗い彼の部屋の中。山積みになっているCD、棚がいっぱいになり置き場を追われたマンガ本、床に転がる彼の鞄とバスケットボール。少し乱れた布団も、先ほどから何一つ変わっていない。
 少しウトウトとしていたのかもしれない。
 バクバクと直接耳に聞こえるような大きな心臓音。さくらは胸に手をあてる。手が感じるのは、激しく胸を上下させる鼓動と、女を感じさせるわずかばかりの胸の膨らみ。
 よかった……私はまだ、女のままだ。
 鳴っているのはさくらの携帯。春紀の頃から使っている、飾りっ気も何もない携帯。ストラップも何もつけていなかった。
 携帯電話は、まるで夢と現実を繋ぐ一つの橋のようだった。天国と地獄を結ぶ、細い一本のクモの糸のよう。主が見つかるまで、微かな声で鳴き続ける小さな子犬のよう。
 電話が鳴り続けているのに、隣で眠る彼が起きる様子はない。
 彼と話をしたかった。自分が女であることを、もっと感じさせてほしかった。
 でも彼の幸せそうな寝顔を見ていると起こす気にはなれなかった。
 着信の相手は知加。
 電話に出るのは恐かった。また現実に引き戻されそうで。
 でも、今は誰でもいいから話をしたかった。隣に彼がいるのに、一人異世界に取り残されているようだった。電話を持っていないもう片方の手で、さくらは彼の手を握る。
 さくらは携帯をとった。
『もしもし! さくら、今日はどうだった?』
 電話の向こうから聞こえてくるのは、いつもと変わらない知加の声。いつも自分を励ましてくれる、親友の明るい声。
「知加ちゃん……」
『どうだったの? 彼とはうまくいったの?』
 こちらの呟きは聞こえていないのか、知加の声は止まらない。
 話してしまうことに躊躇いはあった。何を言っているのと知加にバカにされるかもしれない。信じてもらえないかもしれない。
 それでも、こんなことを話せる相手は知加以外にいない。家族じゃない、さくらを一番に理解してくれている親友。
「……知加ちゃん」
『ん、何?』
 さくらは、ギュッと圭吾の手を握った。
「私ね……女の子に、なっちゃった」

 しばらくあと、知加からの返事は、さくらの全くの予想外のものだった。
『……え? 何言ってんのよ、アンタは産まれた時から女でしょ』
 え……
 耳を疑った。
 親友がからかっているとは思わない。でも、知加の言葉が信じられるはずもなかった。
「私は、男の子……だよ? ……だったんだよ?」
『アンタのどこが男よ。その胸についてる立派なものは偽物なのか?!』
 偽物だったよ。今のも、そんな立派なものじゃないけど。
 胸にある膨らみは、今さくらが女であることの確かな証拠。彼に触られて、敏感に反応を伝えてきた。偽物であるはずがない。
 白昼夢でも見てたんじゃないの? 知加は笑っている。親友の言葉に悪意があるとは思えなかった。
「そんな……私は男の子で……私は、春紀っていう名前で……」
『春紀って誰よ? あたしの親友は南谷さくら、アンタしかいないっつーの』
 うそ……
 心臓のドキドキが止まらない。そんなまさかと、震えるように気持ちが込み上げてくる。
 太ももに当たるわずかばかりの胸の感触と、手から伝わる彼の暖かさが、浮き足立つさくらの気持ちを後押しする。
 私って、女の子なんだ……
 嬉しかった。彼と手を離し、布団を引き寄せる。布団越しに膝を抱いて、さくらは顔を押し付けた。瞳に滲む嬉し泣きの涙に耐え、布団の端を握りしめて声を堪える。
 電話越しに聞こえる知加ちょっと呆れたような声が、さくらに確かな光を与えている。
「そっか……」
 本当に、私は女なんだ……
 理由なんてどうでもよかった。悪魔の仕業だって構わない。明日からの生活なんて、もうどうでもよかった。ただ、圭吾と一緒にいられることが嬉しかった。
 しばらくして顔を上げ、ポツリポツリと知加に話し始めた。
「私って、女の子なんだよね……」
 呟くように、何度も何度も確かめるようにさくらは話し続けた。
「そーなんだよね…………私って、ホントに……女の子、なんだよね……」
 何を今さら言ってるのよと知加がおかしそうに笑っている。
 隣で眠る圭吾は、さくらの気持ちなんてカケラも知らずに幸せそうに眠る。寝返りをうった彼の手がさくらの足にあたる。
 人の気も知らないで。さくらは少し間抜けな彼の寝顔を見つめていた。
 さくらは、今までの気持ちの全てを打ち明けるように、親友へ、彼への思いを話し続けた。



 翌朝になっても、さくらは女のままだった。
 朝になったら全ては夢で自分は男のまま、いつもの春紀の部屋で目が覚める。そんな心配は杞憂に終わった。
 まるで、今まで自分が男だったことが夢みたい。
 違和感のない身体、産まれたときから自分は女だったみたい。
(もしかすると、本当に私は産まれたときから女だったのかも……)
 そんな思いにドキリとするが、ではこのさくらの心に残る圭吾への痛烈な思いはいったいなんだというのか。説明のつかないこの春紀としての鮮明な記憶は、さくらとしての人格の中枢をなす。幻であるはずがなかった。
 朝、確認するように知加に電話をしたところ、知加はやっぱりさくらのことを女として扱った。初めての無断外泊を知加の家に泊めてもらったことにしてもらった。
 両親からは、娘の帰りを心配する着信とメールが入っていた。
 これを見たとき、さくらは親に怒られるという心配よりも、親までが自分のことを娘扱いすることにおかしくなった。この世界では、私は女なんだ。
 まるでパラレルワールド。
 正直、不安はあった。
 皆の記憶の中から春紀が消えていた。世界から、春紀という存在が弾き出されていた。
 今までの自分はなんだったのか、春紀としての生きた証はもう消えてしまったのか。いじめられっ子だった、大嫌いだった春紀、そんな自分でも忘れ去られてしまうのは悲しかった。
「どーしたさくら、浮かない顔して?」
 隣の圭吾が、心配そうにこちら顔を覗き込んできていた。
「うん。桜、散っちゃったなって……」
 圭吾と並んで、二人は桜の木を見上げる。
 雨で桜は散ってしまっていた。雨の匂い、神社に現れた大きな水溜りの池は鮮やかな桜色に染まっていた。花びらの隙間、雨上がりの青空を水溜りの池が映し出す。
 桜が散っても、さくらは女のままだった。
「俺達の桜は散らない」
 彼が呟いた。
 なんとなく、彼が聞いてほしそうにしていたので、さくらは素直に聞き返してあげた。
「なんで?」
「ほら」
 嬉しそうにして、彼は木の落書きを指差す。
「俺達は、傘さしてるからな」
 少しだけ、納得した。
「……」
「……ごめんなさい、寒いこと言いましたっ」
 誤る彼を見て、彼女はまたクスクスと笑ってしまった。








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