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 さくら

    作:水無月




  さくら 〜中編〜


 女装は春紀にとって趣味だった。
 心まで女になりたいとは思わない。
 女になって、知加達と友達でいることが楽しかった。
 外に出て、自分も女として見られることがおかしくてたまらなかった。
 高校生になってそろそろ女装も限界だと感じるようになってきた。もう止めようと思ったことも一度や二度ではない。
 止められなかった。
 捕らえられたその心は、まるでクモの糸にでも絡みついたように、拒むことを許さなかった。
 バイトを始めて金銭的にも余裕が出てきた分、その傾向には拍車がかかる。
 自分の服を買った。下着も買った。姉や母のではない、自分の化粧道具を買った。
 後悔はない。
 ただ、漠然とした不安だけが、時に春紀の心を引き戻す。
 僕は何をやってるんだろう……
 いったい、いつまで私は女でいられるのかな……

「春紀ってさ、ヒゲとか全然ねーのな」
 圭吾は春紀の顔を見ながらそう言った。
「俺はもう、毎日ヒゲ剃ってるけどな」
「実はこれ、遺伝なんだ。お父さんも男のくせにすね毛薄いし。お姉ちゃんなんかは剃らなくてもわき毛ないって自慢してた」
 それはホントのこと。
 それでも春紀は女装のために手入れを欠かしたことはない。
「そういう家系なんだ。圭吾はそんなにヒゲはえてくるの? そんなに目立ってないと思うけど」
「剃ってるからな。数日ほっとくと、けっこうのびてくる。そんなに太くないし、俺少し肌黒いから目立ってないのかもな」
「胸毛とかは?」
「ぶっ。胸毛はねーよ」
「なんかね、胸毛ある人は頭ハゲてるんだって。どっかの誰かがそう話してた」
「その意見おもしれーな。今度確認してみよう」
「頭の髪の毛とは違って、胸毛とかは男性ホルモンでしょ? だから、その人たちは女性ホルモンが少なくて男性ホルモンが多いんだよ」
 そう考えると、自分は女性ホルモンがちょっと多いかなと春紀は思う。
「それは聞いたことあるな。そうか、だからうちの親父はハゲてないんだ。よかった〜」
「うん、お父さんハゲてないと、ちょっと安心するよね」
 そんな話に二人は大笑い。
「あ。でもね、胸毛とかない人でも、腹毛はあるから」
「げげっ。腹毛ってなんだよ、腹毛って」
 春紀はたまに不思議に思うことがあった。
 どうして自分は平然と圭吾の友達をやっていられるんだろう。
 意外に、自分では気づかないところでしっかり割り切ってるんだと思う。
 それでも、ごく稀に見せる圭吾の優しい笑顔が、さくらの時と重なって、どう言葉を返していいかわからなくなるときがある。
 気を抜くと、今自分が春紀として圭吾に話してるのかさくらとして話してるのか、混同してしまうことがあった。
 それでも止めることはできなかった。
 圭吾と友達を止めたくなかった。
「俺ね、夏の大会じゃレギュラー無理だったけど、秋の大会にはAチームで試合出れそうだぜ」
「へ〜、すごいね」
「まぁ三年が受験で部活止めたからな」
「それでも、二年生の部員がたくさんいるんでしょ」
「まーな」
 えへへと、自分で言っておきながら、圭吾は恥ずかしそうに鼻をかいていた。


 さくらは少し重い荷物を持ってバスに駆け込んだ。
 それは苦痛ではない、ちょっと心地よい重みだった。
 二人分のお弁当。
 慣れないことしてるなと自分でも呆れてしまう。
 自分はこんな女の子になりたかったんだと思う。
 早起きして、彼氏に手作りのお弁当作って。ドキドキが止まらない。
 バスを降りてしばらく歩くとその会場へ辿り着く。
 そこは大きな体育館。各地区から集まった、秋の全国大会、地方予選の会場。
 体育館の中は熱い歓声と、絡み付くような熱気に包まれていた。中央を走り回る選手達がゴールを決めるたび、それを見守る観客の声援はさらに激しさと興奮を増していく。
 さくらは彼を探した。
 桜台高校男子バスケ部は過去の目立った成績はないものの、地区予選でも必ず上位に食い込む常連だった。今度こそはと全国大会を切望する。
 桜台高校のユニフォームを探して、体育館を端から隈なく見てまわる。
 笛の音が聞こえた。
 振り返る。さくらは力強くゴールを決めた圭吾を見つけた。

 その二人分のお弁当を見て、彼は驚いた。
「これ、全部さくらが作ったのか?」
 さくらはほんのり頬を染める。
 無駄なく整えられたおかず、可愛く一口サイズに握られたおにぎり、ほのかに黄金色に色づいた卵焼きは圭吾の食欲をくすぐる。
「あ、あんまり作らないから、おいしく出来てるかわかんないけど……」
 彼女は自信なさげに言う。
 彼はひとまず、その卵焼きに手をのばした。
「お……。なかなかうまいじゃん」
 たいした感想は言えないが、お世辞抜きでこれはうまいと思う。
 彼の様子に、彼女はひとまず安堵の吐息をもらした。
 おいしそうにごはんを頬張る彼を見つめて、しばらくして自分もお弁当に手をつけ始める。
「少しお弁当作るのに手間取って午前の試合は見れなかったけど」
「大丈夫。試合は午後にまだまだある。勝ったからな」
 圭吾は、にかっと笑みを見せる。
「今年こそは全国大会に行ってやる!」
「今年こそは……って、圭吾去年はまだ何もやってないじゃん」
「いや……その、アレだ。先輩方の抱負だよ。お前ね、せっかくの気合いを削ぐようなこと言うなよ」
 ノリの悪いやつだなぁとふくれる圭吾に、さくらはクスクスと笑って、
「圭吾には負けてもまだまだ来年があるもんね」
「……いや、来年とか言ってたら一年なのに今年から一軍に入れてくれた先輩方に申し訳ないし」
 これは朝練など平気で遅刻してくる二年の平部員とは違って、朝夕サボらず毎日練習に励んだ努力の結果と言える。さくらはそのことをよく知っていた。
 二人がいるのは体育館の外。裏のちょうど体育館の影になっているところで、二人はコンクリートの段差に腰かけていた。
「今日はホントにさくらが来てくれてよかったよ」
「前から、圭吾のバスケしてる姿見たいって言ってたじゃない。何? 口だけだと思ってたの?」
「いや、そうじゃないんだけど。昨日、突然今日の試合見に来るって聞いた時、正直驚いた」
「私が来ること、信じてなかったの?」
「いんや。来てくれると思ったから、今日俺、昼メシ持ってきてないし。午前の試合は、さくら見つけるまでハラハラしてたよ。今日の俺はメシ抜きかぁ〜って」
「アハハ、ごめんね」
「でも待った甲斐があったよ。こんなうまい愛情弁当食えるなら」
 恥ずかしげもなく言う圭吾に、さくらの方が少し赤くなる。
「さくらは普段料理はしないのか?」
「しない〜。めんどくさいもん」
「正直なやつだな……。ここは嘘でも、『私、あんまりやらないんだけど、お母さんの料理少しだけ手伝ってるから』くらい言えよ。……って、何笑ってんだよ」
 圭吾のワザとらしい女口調に、さくらは笑ってしまう。
「くすくす……ごめんごめん。でもさ圭吾、それって女の子に夢見すぎだよ」
「夢であっても、料理のうまい女の子と一緒になりたいっていうのは、男の浅はかな野望なんだよ」
「料理のうまい男の子と一緒になりたいっていうのも女の野望だよ。ちなみに、圭吾の料理の腕前は?」
「学校の調理実習の腕前」
 つまり、ほとんど経験なし。
「ダメだよ〜。今時、男の子も料理できないと」
「う……。で、でもさ、男なのに料理なんて……」
「その考え方は、昭和までの古い日本の男の考え方だね」
「俺の産まれは昭和なのさ」
「圭吾は平成育ちでしょ」
「い、いや、まぁ待て。考えてもみろよ、お前より男が、彼氏の方が彼女より料理上手かったらどう思う? 女としての立場がないだろ! そんな男ってどうだ?」
「すごいかっこいいと思う」
 即答だった。
 これは知加達と意見が一致したことだった。
 圭吾は何やらショックを受けたようで、「そうか。これからは男の料理の時代か……」などと呟いている。
「まぁ、圭吾のは私が作ってあげるから問題ないんだけどね」
 自分は何を言ってるんだろうなぁと、自身の発言にさくらは恥ずかしくなってしまう。
 そのさくらの心情に気づいたのだろうか。キョトンとしていた圭吾だったが、
「期待してるよ」
 嬉しそうに答えた。
 会話は弾み、楽しい時は刻一刻と過ぎてゆく。
 自分の分の弁当を食べ終わって、さくらが彼の方を覗くと、圭吾の方はまだご飯が少し残っていた。
「……あれ? 圭吾って、前に比べて食べるのが異常に遅くなってない?」
「う……」
 指摘され、思わず圭吾は固まる。
 さくらの弁当に比べ圭吾の方が量が多いとは言え、いつもであれば圭吾の方がさっさと食べ終わってしまうのだ。
「どこか体調悪いの?」
「い、いや……そういうわけじゃないんだが……」
 何やら言い訳じみたことを言い始めるが、それを遮ったのはこちらに飛んできたバスケットボールだった。
「あ……」
 圭吾の後方から飛んできたボールにさくらは気づいていたが、声をかける前にボールは見事圭吾の頭に直撃した。
「……いってェ〜っ!」
 使い慣れたボールであっても、油断していれば痛いものは痛い。ボールは弾んでしばらくしてさくらの足元に落ち着いた。
「おっとごめんよ。手元が狂っちまった」
 誤りながら小走りでやってきた男の子。その男の子にさくらは見覚えがあった。
「あ、西田君」
「おー。さくらちゃん、俺のことも覚えていてくれたんだね」
 俺はさくらちゃんにとって圭吾の友人Aじゃなかった! そう喜んでいるが、顔と名前を覚えているのは実は春紀として見覚えがあったからに他ならない。
「ボールがさくらちゃんに当たらなくてホントよかったよ」
「西田、お前なぁー!」
「ああ圭吾、悪ぃ悪ぃ」
「お前、何も悪いと思ってないだろ!」
「何を言うんだ圭吾! お前は友の言葉を信用しないのか? 俺はそこのバスケットゴールで練習していただけで――」
「あそこのゴールで練習してたやつが、なんでこっちにいる俺にボールぶつけられるんだよ!」
 と、数十メートル離れているバスケットゴールをさくらは見た。
「お前、俺に当てたのわざとだろ」
「いや〜さくらちゃん、今日の私服姿は一段と可愛いね。さくらちゃんの、制服以外のプリーツスカート姿は初めて見るけど、すっごく似合ってるよ」
「ありがと。さすが西田君、圭吾とは見てるところが一味違うね。圭吾はそんなこと、気づきもしないから」
 と、そんなことに気づく西田に驚きながらも、さくらは冷静に返す。実はこの服はこの日のために選び抜いて買った新しい服だった。
 そして、その気づいてほしい本人は、「西田お前、わざとなんだな、わざとなんだな……」とブツブツ繰り返している。
「あ、それから圭吾。ミーティング始めるから、そろそろ戻って来いとキャプテンのご指示だ」
 つまり、西田はそれを伝えに来たらしい。
「だったら、普通に呼べよ。ボールぶつけて、もしさくらにでも当たったりしたら――」
「それは大丈夫。図体でかいお前をしっかり狙ったからな」
「やっぱり狙ってたんじゃないか……。俺はともかく、このさくらの作ってくれた弁当に当たってたらどうするつもりだ!」
 食べかけの弁当を見せると、西田は少し驚いたようだった。
「あれ? おっかしーなぁ〜、さくらちゃんは弁当片付けてたから、てっきりお前はもう食っちまってるもんだと。そりゃあ悪かった。ごめんね、さくらちゃん」
 ううん、気にしてないからいいよ、と、しっかりさくらにだけ誤ってくる西田に答える。ちなみに、彼は初めて申し訳なく思ったらしい。
「今日の圭吾、食べるのがすごく遅いみたいなんだけど。圭吾、なんで?」
 さくらが圭吾に聞く。
「あ、ああ……。それはな、前に俺と同じクラスの南谷春紀の話をしたことがあるだろ?」
「うん、覚えてる」
「そいつがな、いつも食べるのが遅いから、付き合ってるうちに俺もだんだん遅くなっちまったんだ。そいつ曰く、早く食べても食べた気にならないし胃にも悪いからゆっくり食べた方がいいぞってことなんだが」
「へ〜、そうなんだ」
「ああ。それに、今日はじっくりさくらの手料理味わいたかったし、さくらとの会話も楽しみたかったから。んで、気づいたらさくらの方が先に食べ終わってたんだ」
 なるほどなと、さくらは普通に納得しようとした。
 だが、西田の言葉を聞いて、その考えは一変する。
「圭吾がメシ食えないのは、さっき試合のない間にメロンパンかじってたからだろ? 腹減った〜って、さくらちゃんの手料理はホントに食えるのか〜って。こいつさっきまで、さくらちゃんは意外に大雑把な性格してるから、あいつに料理ができるんだろうかって戦々恐々と――」
 西田の言葉を全て聞き終わる前に、顔面蒼白の圭吾の顔目がけてさくらは足元に転がっていたバスケットボールを思いっきり投げつけた。



 一人外で人を待つには肌寒い夜。冬になり、日が沈むのも早くなり、夜の冷え込みはいっそう激しさを増した。彼女の吐く息はいつの間にか白い吐息に変わっていた。
 制服姿の彼女は一人石段に腰掛け、マフラーに身を寄せていた。
 駅のすぐ隣。無人の夜のプラットホームはただ誰かが来るのを待つようにぼんやりと蛍光灯を輝かせていた。踏み切りの警告音が鳴り、何本目かの電車が彼女の前を通り過ぎる。
 誰か人が通りかかるたび、彼女は期待し、そして落胆を繰り返す。いつしか彼女は振り返らなくなった。
 ようやく彼女の元へ走り寄る一人の男子がいた。制服を乱して、息を切らして彼女の元へ駆け寄る。
「ごめん、おまたせ……」
 その声に、さくらは顔を上げた。
「遅いっ!」
 ホントは一発殴ってやるつもりだった。
 でも、彼の疲れた顔を見て、怒りより彼に会えたことへの安堵が勝り、口だけ文句を言ってさくらは彼に身を寄せた。
「ごめん、部活が長引いちゃって……」
 圭吾は自動販売機で買った熱いミルクティーをさくらに手渡した。一口だけ飲むと、その温かさはさくらの冷えた身体に芯まで伝わる。
 同じ石段に二人は座る。先ほどまで感じていた夜の寒気は、もうほとんど感じることがなかった。
「部活、大変だね」
 そのさくらの言葉には、さくら自身の苦しみは感じさせない。
 あまり圭吾と会えないのは辛いけど、そのために部活を疎かにしてほしくなかった。精一杯部活もがんばってもらいたかった。
「ああ……。でも俺が辛いのは、なかなかさくらに会えないことだよ」
 会う時間のない二人は、こうやって夜遅くギリギリの時間に待ち合わせるしかない。
「時間、大丈夫か?」
「うん。電車の終電までなら平気」
「そうじゃなくて、さくらの門限とか……」
 もしさくらが普通の女の子であれば、親も門限を気にしたかもしれない。
 しかし、春紀は中学まで苛められてた男の子。毎日楽しそうに学校へ行く姿を見て、親はそれだけで満足だった。春紀は非行に走るような子じゃない、親は子供を信じていたし、春紀がそれほど派手な性格ではないことを親も春紀自身もわかっていた。
「うん、大丈夫。いつもバイトで遅くなってるし、それに今は学校の文化祭の練習もあるから」
「文化祭かぁ。今はうちの学校も文化祭だからな。クラスで合唱やってる。さくらは?」
「私がやってるのは演劇。と言っても、クラスのじゃなくって、演劇部の助っ人みたいな感じなんだけど」
 桜台高校の生徒である春紀。女装姿の方のさくらが北高校に通っていると圭吾には偽っているのだが、この話は本当のことだった。実は今、さくらとして北高校の演劇部に助っ人に行っている。
 女子校である北高へ通っている友達に誘われて、春紀はさくらとして何度も北高に遊びに行ったことがあった。
 姉の制服を借りて桜台高校へ行ったという話を聞いたその子達は、さくらに北高の制服を着せた。何度も遊びに行っているうちに、今度の文化祭に是非出てほしいと演劇部の子に誘われたのだ。
 さくらは自分の演技がうまいとは思っていない。でも、他の子に言わせると普段女を演じている分、何をさせても上手なのだという。
「さくらってさ、もとが男の子だからかな。なんか他の子に比べて、独特のすっごい色気がある」
 さくらに自覚はない。
「俺もさくらの演技みたいなぁ〜」
「ごめんね。うちの高校、部外者は立ち入り禁止だから」
 部外者が何を言う。さくらは、自分でもそう思う。
 今さくらは制服姿だが、これは桜台高校の制服ではなく北高の制服だった。そのため圭吾がさくらのことを疑ったことは一度もない。
「とか言いながら、実はおまえ、俺に演技見られなくて安心してるだろ」
「うん」
「あ、即答しやがった」
「あはは。だって、そんなの恥ずかしくって見せらんないよ」
「女子校だからアレだろ? 男役も全部女で」
「うん、そう」
 最初、さくらは男役として誘われた。
 ホンモノの男なら男役は適任だし、何よりさくらとしての姿を最初に見せれば男としてばれることはない。そういう理由で、半分はおもしろそうだというその場のノリで、さくらは演劇に誘われた。
 しかし実際は、魔王を倒す王子様より、助け出されるお姫様こそがさくらの適役だった。
 これには誘った女の子達も舌を巻いた。
 以来、バイトにも慣れた夏の終わりから、他校生とばれながらもさくらは北高で演劇を続けている。
「すっげーおもしろそうじゃん。俺も見たいなぁ〜」
「実際は桜台高校の子も何人か侵入してきてるよ。友達に制服借りたりとかして。圭吾も女装してみれば?」
「なっ! ……そ、そんな恥ずかしいこと出来るかっ! せめて、もう少し女装の似合いそうなやつならともかく……」
 顔はともかく、圭吾は体格や身長で明らかに男だとばれてしまう。それをわかっていながら、さくらは笑いながら話す。
「くすくす、圭吾なら女装似合いそうだと思うんだけどなぁ〜、顔は」
「顔かっ」
「うん、顔。整った顔してるでしょ。私なんかと違ってもっと大人な感じになりそう。スーツとかで、エリートウーマンっぽい感じ」
「……褒められてる気がしない。ちなみに身体は?」
「ん〜、野生だね」
 さくらは圭吾の足や手を見て言う。
「足なんか私とこんなに違う」
 さくらは、制服からのぞく白い足を圭吾と並べてみせる。春紀も男だがもともと小柄であり、体型を気にして無理に運動をしない分、他の女の子達と比べても遜色ないほどに細く、足をコンプレックスに気にする女の子達に比べても、それ以上に色っぽかった。圭吾はゴクリと唾を飲むが、さくらはそのことに気づいてない。
「特に太いってわけじゃないんだけど、筋肉があって少しゴツゴツしてる感じ。でも、かっこいいよね」
 かっこいいと言われて、圭吾は少し嬉しくなる。
 春紀としてそれは本音であり、それは羨望でもあった。男として、春紀は圭吾のような男が理想なのかもしれない。圭吾へのこの気持ちも、もとは憧れだったのかもしれない。
「背が高くて、足もすっきりしてるから、圭吾はスーツとかスラックスとかが似合うと思う。スカーフとかもして女装してみれば?」
「だから、なんでおまえは女装へ話を持っていくんだ! 俺が女装したって、おまえは笑うだけだろ」
「うん、笑う」
 そう言いながら笑っているさくらに、圭吾は少し憮然とする。
 が、後日、圭吾が本気で春紀に「女装して北高に侵入しないか?」と相談を持ちかけたとき、一瞬呆気にとられたあと春紀は大笑いしてしまったのだが、それはまた別の話。圭吾はそこまでしてさくらの演技を見たかったのだろう。ただし、「いいか春紀、このことはさくらには内緒だぞ!」と念を押してまで言われたことは付け加えておく。
「ひょっとするとね、ローカルテレビが撮影に来るかもって。だから、もしかするとテレビで見れるかも」
「おお、そうなのか! でも、うちの市のローカルテレビだろ? うち、中学の時に撮影にきたけど、機材とか全然なってなくて、演技者の声も全然聞こえてなかったし。あれじゃあ、見たってなぁ〜」
 とは言いながらも、圭吾はそれを過大に期待していた。
「大丈夫だよっ。即席の中学生のクラス演技とは違って、演劇部の劇はもっと練習のやり込み方が違うし、毎日やってる発声練習の効果もあるから――って、圭吾っ」
 さくらは、彼女の白い足にのびた圭吾の手をペシッと叩く。
「あはは……い、いや、さくらの足があんまりにも色っぽかったから」
 圭吾はいいわけする。
 さくらは、表面的には怒っているように見せているが、本心ではあまり怒っていなかった。
 圭吾もそれをわかっていた。だから、
「今はこっちで我慢しておく」
 そう言って、圭吾は身をかがめてさくらにキスをした。
「あ……」
 一度目は軽く、彼女が嫌がっていないのを確認するように、二度目は強く、さくらを求めるようにして彼は舌まで入れてくる。
 さくらは押しに弱い、それには圭吾も気づいている。だからといってそれを利用する気はないし、そのことでさくらを傷つけたくない。それだけ圭吾は本気だった。
 長いキスの後、圭吾から身体を離す。温かい唾が短く糸を引いて、その二人の心を表すように名残惜しむ。
「私、そろそろ行かないと……」
 さくらはボソリと言った。
 踏み切りの遮断機が下り、この駅を通る最後の電車が近づいていることに二人は気づいていた。
 話せたのはほんの数分。
 最近はさくらの演劇のせいもあって、二人が会えるのは少なくなっていた。
 最後に、今度はさくらから圭吾を抱きしめ、彼の唇に軽いキスを残す。
「……また、電話するね」
 そう言ってから、さくらはホームへ走って電車に飛び乗った。
 ローカル線の少し早い最終電車。人は少なく、ぽつりぽつりと会社帰りのサラリーマンや、制服姿の学生の姿がある。空いている席に座り、この電車唯一の暖房器具、シートの暖房の暖かさに気づいて、さくらは初めて二人が寒い冬の屋外にいたことを思い出した。
 罪悪感はあった。
 しかし、それを寄せ付ける何かが、心の中ですっぽりと抜け落ちてしまっているような気がした。



 春紀は明日が待ちどうしくてたまらなかった。早く眠って、早く明日になってほしいのに、逆に目が冴えてしまっていて眠れない。気分はまるで遠足が待ちどうしくて眠れない小学生のようなもの。
(明日はさくらとして圭吾に会える!)
 嬉しくてたまらなかった。
 毎日のように、春紀として圭吾と顔を合わせていても、さくらとして圭吾に会うこととは全く違う。圭吾の接し方も違う。さくらとして恋人として彼に甘えることはできても、春紀ではそんなそぶりさえ見せることはできない。
 春紀として圭吾を見ていることは正直辛かった。
 親友と恋人の二重生活。
 ばれるわけにはいかなかった。さくらとして恋人を失いたくなかった。春紀として親友を失うわけにはいかなかった。
 自分でも驚くほど、春紀とさくらを区別することができていた。
(まるで、私の中で人格が二つに別れてしまっているみたい……)
 男として圭吾が好きな気持ちと、女として圭吾が好きな気持ちと。
 春紀は一人、部屋でウキウキと明日の準備をしながらも、ふとそんなことを考えてボーっとしてしまう。
 いつもは二重三重に隠している女の服を、いざ見つかっても疑われることのないよう下宿して家を空けている姉の部屋に隠している服を前に、明日は何を着ていこうかと悩み続ける。そんなものに彼は気づかないと考えながらも鏡の前で悩み、気がつけばボーっと机の上にあったマニキュアを爪に塗っている。
 そろそろ親に隠し続けるのも限界だった。
(……あ。こんなものしてたら、親に疑われるよね)
 それでも、朝、親に会わなければいいと考え、作業する手を止めることはない。
 ひょっとすれば、親は春紀の性癖に気づいていたのかもしれない。それでも、女装をしてもいいから外へ楽しそうに出て行くのと、中学のときのようにイジメを恐れて家に引きこもりがちになることと、果たして親は選ぶことができただろうか。
 しばらくして、春紀の携帯電話が鳴った。メールではなかったので、誰だろうと画面を見ると、着信の相手は知加だった。
「もしもし! 知加ちゃん、どしたの?」
 最初に返ってきたのは、返事ではなく沈黙。
 不思議に思い、再び声をかけようとすると、躊躇いがちに知加からの言葉が返ってきた。
『春紀。機嫌、良さそうだね……』
「あ、うん。そーかも」
『……それは、明日、圭吾君と会えるから?』
 春紀はビクッと驚いた。
 なぜ知加がそのことを知っているのか。
 知加には、さくらとして圭吾と会っていることは言っていない。
『まだ圭吾君と付き合っていたのね……』
 知加の言葉は、それは疑問ではなく確信に満ちた答えを繰り返しているようだった。
「どうしてそれを……」
『圭吾君から連絡があった。明日少し遅れるから、そのことをさくらに伝えてほしいって』
 さくらは圭吾に連絡先を伝えていなかった。
 携帯番号は春紀として圭吾に教えているから。さくらは未だ携帯を持っていない女の子ということになっている。連絡はこちらから、家の電話ですることが多い。親に疑われるから家には電話しないでほしいと圭吾には伝えてある。圭吾は知加を通して伝えてもらおうとしたのだ。
『ねェ春紀、アンタ自分が何してるかわかってるの?』
 その言葉は春紀にとって脅迫に等しかった。
「……わかってるよ」
『わかってない! わかってたら、最初の一回で止めてる』
 電話のむこうで、知加が声を荒立てる。
『アンタは男なんだよ! 付き合えるわけがないって言ってたのもアンタ自身でしょ』
「そんなのわかってるよ!」
 繰り返す春紀の言葉。知加は愕然とそのことに気づく。
『アンタ、まさか本気で彼のことを……』
 春紀からの返事はない。
 返事のない、沈黙は肯定とみなされる。
『だから、何度もやめなさいって言ってたでしょ! 好きになってからじゃどうしようもないんだって――』
「うるさい! そんなの、私の勝手でしょ!」
 呆れるような怒った知加の言葉に、春紀は逆ギレのように言い返した。
 知加からはこちらを気づかうような落ち着きはなくなる。
『ええ、そうよ。アンタが誰を好きになろうと、それはアンタの勝手。アンタはそれでいいかも知れないけれど……』
 こちらの様子を伺うように、一瞬言葉が止む。
『でも、さくらを好きになった彼はどうなの? 彼、まさかアンタが男だって知ってるの?』
 言えるわけがなかった。
 男だとばれれば圭吾に嫌われる。恋人との破局、そしてそれはまた同時に、親友との別れを意味する。
 最初にさくらは男だと言うべきだったのだ。そのときなら、まだ春紀として友達として付き合えたかもしれないし、それでもさくらのことが好きだと言ってくれれば、二人にはまた違った未来もあったのかもしれない。
 もはや全ては手遅れだった。
『彼も可哀そうね。騙されてるのに、まるで気づいていない』
 覆い隠すものがない、知加のわずかに棘を含む言い方が春紀の心につきささる。
「うるさい、うるさい! 知加ちゃんは、なんでそんなこと言うの!」
『なんでって。そりゃあ、アンタ達のことを思って』
 わざわざ言われるまでもない。それは春紀もわかっていたこと。
 それでも、今春紀の理性と感情はそれぞれ遠いところにあった。頭ではなく、心が言葉を操作する。
「違う! そうじゃないっ! きっと知加ちゃんも圭吾のことが好きなんでしょ! 好きだから、私に別れさせるようなこと言って……」
 その言葉に知加から返ってきたのは、長い沈黙だった。
 自分は何を言っているの?! 気づいてから春紀は愕然とする。
 それは、春紀が本気で心配していたことだったのかもしれない。心の奥底で、わずかばかりの恐怖心が、小さな火種に油が注がれ大きく爆発をした。
『……バッカじゃないの!』
 それだけ言って、電話は切れた。耳に残るのは、ツーツーという感情のない静かな電子音。
 熱が冷めると、そこはぽっかりと大きな穴を空けていス。呆然と春紀は立ちつくした。
 携帯を離して、春紀はベッドの上に広げていた明日着ていく服を手にとった。鏡を前に、エクステンションをつけている今の自分の前に合わせてみる。
 空洞のような自分の心とは裏腹に、ニッコリと笑うと鏡のむこうの自分は可愛らしく笑う。自分でも似合ってると思う。可愛いと思う。
 もし、自分が可愛くなければ、こんなに女装の似合うやつじゃなければ、圭吾は振り向いてくれただろうか。
 それは春紀にとって問いかけてはいけないことだった。
 ふと鏡に映る、自分の服を持つ手の指を見るとピンクのマニキュアが乾く前に歪んでいた。電話を持たなかった左手、電話中に無意識に手を強く握っていた。
 視線を落としてその指を見つめる。あんなに時間をかけたのに。
 惨めだった。
(いったい僕は何をしていたんだろう……)
 一人で浮かれて。所詮、叶うはずのない恋なのに。心配してくれてる知加にまで酷いこと言って。
 春紀は、欠けていたものを取り戻したのかもしれない。
 しかし、それがもたらしたものは、春紀の涙と深い悲しみだけだった。
 皺になるのも構わず、春紀はその服に顔を押し付けて泣いた。
 その夜、春紀は知加に一言だけメールを送った。知加からの返信はなかった。
『ごめん。明日、圭吾と別れる』



 いつものように、圭吾は駅前で待つ彼女のもとに現れた。
「さくらはなんでいつも俺より来るのが早いんだ? 俺だって、今日こそはって急いで来てるのに」
 ブツブツと言う圭吾。
 それは、私が早く圭吾に会いたかったからだよ。
 いつもであれば、自分は恥ずかしげもなくそう言っただろう。そして、少し顔を赤くする彼を見てクスクスと笑うのだ。
「うん、今日はちょっとね……」
 そんなこと言えるはずがなかった。
 今日で圭吾の恋人は終わり。そう自分に言い続けた。
 いつものように、まずどこかの喫茶店に入る。
 いつも、二人のデートは行き先を決めていなかった。最初に喫茶店に入り、ゆっくり話しながらその場の気分で決めていた。それほど遠出する気はなかった。
 これはデートなんかじゃない、友達とちょっと話をするだけだ。そう自分に言い訳をしていたのかもしれない。
「今日はどうするの? また、お昼すぎからは部活なんでしょ?」
 その言葉に、圭吾はニヤリと笑う。
「ふっふっふ。実は、今日は部活に行かない」
「え?」
「少し、来るのが遅かっただろ? 午前中、ちょっと用事があったんだ。んで、今日はそれを理由に部活をサボる」
 さくらは驚いた。さくらが知るかぎり、春紀が知るかぎりでも圭吾が部活をサボったということは一度もない。
「どうして……」
「だって、今日はさくらの誕生日だろ?」
「えっ、あ……」
 さくらは思い出した。
 前にびっくりさせてやろうと思って、圭吾の誕生日に隠して誕生日ケーキを作ってあげたことがあった。自分では会心の出来だったが、圭吾があまりにもおいしいおいしいと連呼してうそ臭かったので、無理矢理本音を言わせたところコンビニのケーキより少し味が劣ると言われ、本気で殴りつけたことを覚えている。
 その日、さくらの誕生日を聞かれ、春紀の誕生日は前に圭吾の誕生日を聞いたときに教えていたため、でっち上げて今日この日にしたのだった。ちらりと言ったその一言を、圭吾はしっかりと記憶していた。
「おいおいなんだよ、自分の誕生日も忘れてたのか! 俺はこの日を今か今かと待ち構えて」
 そんな健気な彼に、さくらは少し笑ってしまう。
「あ、笑いやがったな。俺はさくらみたいにケーキは作れないし、かといってバイトしてねーから、金も無いから実はプレゼントもまだ買ってないんだけど。だけど、せめて俺なりにさくらの誕生日を祝ってやろうと必死で時間も作ったんだからな」
「さすが圭吾、正直者だね」
「あ、こら、笑うなっての。だから、今日は一日さくらとどこにでも行けるぞ」
 さくらは嬉しかった。
 今日で圭吾とは、さくらとしてお別れ。最後という日に、一日圭吾とずっと一緒にいられることが嬉しかった。
「でもさ、さくら。いつもだったら絶対ケーキセット頼んでるのに、なんで今日に限って紅茶だけなんだ?」
 しかも、今日のさくらは砂糖さえ入れてない。
 今日はそういう気分ではなかったのだ。砂糖を入れていないのは、気持ちがそれどころじゃなくて素直に忘れていただけ。
「あ! 実は今日、俺と別れてから、香山達とケーキバイキングに行くとか?」
 おしい! それは先月知加ちゃんの誕生日にやった、そう心の中だけ呟く。
「うん、ちょっとね……」
 その返事はさっき聞いたぞと、圭吾はもう一押ししてくる。
「ちょっと?」
「う、うん……じ、実は私、今ダイエットしてるんだ」
「……ダイエット?」
「うん、そう、ダイエット。ほら、お砂糖も控えてるでしょ」
 反芻するように聞き返して、そして圭吾はゲラゲラと笑い始めた。
「ちょ、ちょっと! なんでそこで笑うのっ!」
「だ、だってさ! さくらが今さらダイエットなんて、あれだけケーキ食べてたやつがいきなりそんな――」
 さくらはダイエットなんてしたことないし、する必要もなかった。女と違って男であり、その上太りにくい体質だった痩せ型の春紀は、少しくらい脂肪をつけた方が女の子っぽくみえる。それとは別に、単に甘いものが好きだっただけなのだが。
「ごめんごめん、笑って悪かったよ。でも、そんなにダイエットするほど、太ってるようには見えないし、さくらって体重は…………あ、い、今のは、なしで……」
 男同士ならこういう会話でも平気で体重を聞いてしまうので、思わず圭吾は口にするが、さくらに睨みつけられ思わず閉口する。
 しばらく二人は沈黙。
 圭吾は心底後悔しているようだったので、沈黙に耐え切れずさくらの方から笑ってしまった。それを見て、圭吾は少し安堵する。
「と、ともかく、もうケーキに話題は振らないとして」
「今、ケーキって言ったくせに」
「ともかくっ! 今日はどこか遠くへ遊びに行こう!」
 動いた方がダイエットになるだろ、と圭吾は付け足す。
「今日は全て、俺のおごりだ! さぁ、好きなところを選べ!」
「好きなとこって言われてもなぁ〜。特に、これと言って行きたいとこはないし」
 そんな答えであっても彼は問題なかった。
「ふっふっふ。さくらのことだからそうだろうと思って、実はデートプランは全て練ってある。行くところは追い追い話すから」
「実は私がどこか行きたいって言っても、圭吾はそのプランを実行したんでしょ?」
「もちろんっ!」
 即答した。
「あ、いや……うん、多少の改善は受け付けてるぞ」
 言い直す。
「私、あの映画が今見たかったんだけどなぁ〜」
「却下ぁ! 映画なんて、さくらと話せない時間がもったいない。映画は香山達と行け」
 そう言い切る彼に、またさくらはクスクスと笑ってしまう。
 そろそろ店を出ないと予定が狂ってしまうと、急かす彼をなだめて、さくらは残りの紅茶を飲む。
「あ……」
「え、何?」
 声をあげた圭吾に、反射的にさくらは聞き返した。
「さくらの小指、それって」
「え? あ……」
 紅茶を置いてその右手、その小指を見ると、一つだけマニキュアが残っていた。昨日全ておとしたつもりが、小指の爪だけ忘れていた。
「こ、これはその……昨日、全部おとしたつもり、だったんだけど……」
 何か無性に恥ずかしくなってしまった。さくらは顔を赤くして、少し慌てる。
 今度は圭吾がクスクスと笑う。
「でも、なんかいいな、それ。桜の花びらみたい」
 彼は優しい笑みを見せた。
 春紀には見せない、さくらの惚れた笑顔。
(……そんなふうに笑わないで)
 さくらの心は泣きそうだった。
 マニキュアを見て思い出した。
 圭吾と話していて一時忘れてしまっていた、そのマニキュアをおとした理由。
 限界だった。
 次に圭吾にキスを求められれば、拒むことなんて出来そうにもなかった。
 突然表情が暗くなって、圭吾は心配する。
「どうしたんだ、さくら? どこか、具合でも悪いのか?」
「……ごめん、圭吾。私……」
「え、何だって?」
 圭吾は聞き返した。
「私、今日、圭吾と一緒に行けない」
 本当は、今日だけは圭吾と一緒にいるつもりだった。最後なんだからと、そう自分に言い訳を作っていた。でも、それは間違っていた。
 さくらの様子を見て、圭吾はすまなそうに謝った。
「そっか。ごめんな、さくら。俺自分のことばっか考えてて。そうだよな、今日はさくらにも予定があるだろうし。じゃあ今日は止めてまた今度にでも」
「違う、そうじゃないの!」
 これ以上圭吾と一緒にいたら、自分の決心がまた揺らいでしまう。
 もう、圭吾の顔が見れなかった。
「ごめんね、圭吾。私達、もう別れよう。私、もう、圭吾とは会えない……」
「えっ……」
 圭吾は耳を疑う。
 予期しなかった突然の別れ。圭吾は驚いた。
「えっ。ちょ、ちょっと待て、さくら! なんで突然――」
「ごめんなさい……」
 慌てる圭吾に、さくらはそれしか言えなかった。
「俺が何かいけなかったのか? だったら、俺はそれを直すから――」
「ごめんなさい……」
 それだけを繰り返して、そしてさくらは店を出た。

 夕食も食べずに部屋に引きこもっている春紀を両親は心配した。
 今は誰とも会いたくなかった。
 喫茶店を出た後、春紀はすぐに駅には行かなかった。
 ちょうどいい電車があるとは思えないし、圭吾が追ってきそうだったから。立ち止まると泣いてしまいそうだったから。結局、春紀は隣の駅まで人気のない道を一人歩いた。
 涙は見せなかった。
 涙は昨日の夜に、思うかぎり泣きたいだけ泣いた。
 ただ、抜け殻のように、自分を心配する母の声を聞いていた。
 女装姿もそのままに、ベッドの上に座っていた。
 後悔はない、しかし、この心に残るモヤモヤは、いったいなんだというのか。
 春紀の携帯電話が鳴った。
 メールの着信。音は、家に帰ってからそのままに放り出してあったさくらの鞄の中から。圭吾にはばれないように、いつも携帯も持ち歩いていた。
 夢遊病者のようにふらふらと立ち上がり、春紀は鞄を掴んで、再びベッドの上へドサッと座り込む。
 携帯を探して鞄を開けるが、見つけたものは携帯だけではなかった。
 着信を知らせ、薄く光る携帯電話の隣。小さな箱とメッセージカード。
『ハッピーバースディ、さくら』
 圭吾からの誕生日プレゼントだった。
「アイツ……誕生日プレゼントはまだ何も買ってないって言ってたくせに……」
 さくらが喫茶店を飛び出す直前に、隠して圭吾が入れたものだった。もともと、圭吾は別れる直前にさくらの鞄の中に入れて、さくらを驚かせてやるつもりだった。
 その瞬間、春紀として心を保っていたものが、さくらとすり替わる。そのことに本人は気づいていたのだろうか。
 プレゼントのリボンは、はずすことができなかった。
 プレゼントを横に置き、その手で今度は携帯電話を開く。メールの相手は圭吾。内容は春紀へ宛てた、何気ない明日の会話だった。
 明日、春紀として学校に行けば、また春紀として圭吾に会える。
「会えるわけが……ないじゃない!」
 さくらは携帯電話を投げつけた。
 投げつけた携帯電話は、辛うじてベッドの端に当たり、跳ね返って、壁にぶつかり砕けることなく床の上に転がった。
 さくらはまた泣いた。
 限界を超えた思いは、枯らしたはずの涙はどこまででも沸いてくる。
 自分は男、なのにこの気持ちはいったいなんだというのか。
 布団に顔を押し付け、必死で嗚咽を隠す。
 自分はもう、壊れてるのかもしれない。
 そう思った。







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