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 満開の桜の木の下で、彼を見つけた。
 長身の身体は、手を伸ばせば桜の花に手が届きそう。彼は桜に見惚れていた。考え事でもしていれば凛々しい顔が見れるのだろうけれど、口を半開きにしてボーっと桜を見上げている姿はなんとなくおかしい。
 ふわっと春の暖かい風に呼応して、桜はその命の灯火を燃やす。舞い散る桜の花びらはまるで魂の雪のよう。
 しばらく見ていると、彼はこちらの存在に気がついた。
 こちらに顔を向ける。
(あ、桜の花びらが……)
 ごっくん。
 こちらを向いた拍子に、彼は口に入った花びらを飲み込んでしまった。
 驚いた彼と目が合ってしまう。彼はその少し間抜けな顔を恥ずかしそうにして伏せた。
 そんな彼を見て笑ってしまった。
「……笑うなよ」
 拗ねたように言う。
 彼は表情を少しまじめな顔に変えて、もう一度桜を見ながら話し始めた。
「桜の花びらがどうしてほんのり桃色なのか、知っているか?」
「……知らない」
 彼に答える。
「桜の木の下にはね、人の死体が眠っていて、その血を桜の木が吸い上げるから桜は奇麗な桃色になるんだよ」
 予想もしなかった答えにちょっと驚いた。
「うそ……」
 そんなまさかと驚くこちらに彼は、
「うん、ウソ」
 あっさりと答えた。
 なんとなくムッとしてしまう。
 そんな様子に今度は彼の方が笑っていた。
「キミも桜台高校の生徒だろ? 一年生?」
 こちらの制服を見て気づいたのだろう。小さく頷く。
「俺も今年一年生。よろしくな」
 彼は屈託のない笑みを浮かべた。
「俺は伊藤圭吾(いとうけいご)。キミは――」
 今の姿に名前はなかった。でも、この自分にも名前があっていいと思う。
「私の名前は……さくら」
「そっか。その名前と一緒で、この桜のことも好きなのかな」
「え? そういうわけではないけど」
 突然言われて驚くけれど、慌てて言い直す。
「うん。桜は、好きかな……」
 その答えに満足したように頷くと、彼はまた申し訳なさそうに誤った。
「ごめんな。そんな桜に、おかしなこと言っちゃってさ」
「ううん、気にしてないよ」
 彼はもう一度桜の木を眺めて話し始めた。
「でも、そういう文学作品だって実在するんだよ。作者がそう感じたのも、きっとこの桜が怖いほど奇麗だからだろうね」
 話に頷きながら、話す彼を眩しそうに見つめていた。




 さくら

    作:水無月





  さくら 〜前編〜


 小高い丘の上、神社の敷地内の道、電車で学校へ通う南谷春紀(みなみたにはるき)は、この道を通るのが駅から学校への一番の近道だということを知っていた。
 この道を利用する生徒はあまり多くない。
『ここの神社の桜の木には幽霊がとりついている』
 こんな噂が囁かれている。神社の入り口の、人を寄せ付けないような鬱蒼とした林の雰囲気がその噂の流布に一役買っている。
 ここを通ったところで普通の道から進むのと時間的にもほとんど変わらないため、知っていてもこの道を通る生徒は少ない。正規の道なら、近くにコンビニがあるというのも一つの理由だろう。
 コンビニへ用もない春紀は、毎日好んでこの道を進んでいた。
 もともとお化けを気にするような性格でもない。
 それよりも入学式の前の日に見た、ここの桜の美しさが気になって、花の散った今でもこの道を通い続けていた。
 薄暗い神社の入り口とは違って、敷地内の道は意外に太陽の光が差し込んでいて明るい。その光を受けて、桜の木の若葉は鮮やかな緑色に輝いていた。
「……さくら?」
 誰かの呟く声が聞こえて、春紀は振り返った。
 神社を取り囲む大きな杉の木、その木の下に背の高い彼はいた。
 伊藤圭吾、春紀と同じクラスの同級生。春紀とは同じ年のはずなのに、春紀より大人びた印象があった。少なくとも春紀はそう感じた。
 その彼は、春紀を見つけて少し驚いているようだった。
「こんにちは。同じクラスの伊藤圭吾君、だよね?」
「あ、ああ……」
 目を丸くしていた彼は、しばらくしてゆっくりと歩いて春紀に並んだ。
「南谷春紀、だったっけ?」
 春紀は頷く。
 入学したばかり、クラスで自己紹介も一通り終わっている。春紀と圭吾がこうやって話すのは初めてだった。
 二人は、どちらかともなく歩き始めた。
「伊藤君も、電車通学なの?」
「いや、違う。それより、伊藤君って言うのは止めてくれないか? うちのクラス、伊藤が三人もいるし。俺のことは圭吾でいいよ。俺も、春紀って呼ぶから」
「うん、わかった」
 頷きながら、春紀は大きなリュックを背負いなおした。それほど大きなリュックではないが、小柄な春紀や隣に並ぶ大きな圭吾と比べると、春紀の背には少し大きく感じてしまう。
 圭吾は、スポーツバッグを肩からかけていた。
「春紀は、電車通学なのか?」
「うん。圭吾君――圭吾は、徒歩通学なの?」
 君付けで言うと圭吾が露骨に嫌そうな顔をしたので、春紀は慌てて言い直した。
「今のところはね。家は、すぐあそこの家だ」
 といって、丘の下を指した。
 少し高い丘の上に神社や学校はある。神社の端に行くと、そこからは坂と階段になっていて、階段を下ったところに駅がある。
 長い階段の上に立つと、ちょうど町並みや駅のホームが見渡すことができる。
「あの駅のホームの向こうの、あの赤い屋根の家が俺のうちだ」
「学校に近くていいね。自転車は使わないの?」
 こんな徒歩で行ける距離であっても、自転車を利用する生徒がほとんどだ。圭吾の場合、自転車だとこの近道は使えないが、少し遠回りでも自転車を使った方が早いのは間違いない。
「使うつもりだったんだけどな。実は今、自転車が壊れちまってて。直るまでは俺も徒歩さ」
「もともと自転車を使うような距離じゃないよ。僕は更に、駅から電車で三十分なんだし」
「そりゃそーだ。でも、最近は俺も徒歩通学の良さが分かってきたぞ」
「何それ? 足を使うってこと?」
「いや、違うぞ」
 圭吾はニヤリと笑う。皆目検討のつかない春紀は不思議そうに圭吾を見上げている。
「それはな、朝の込み合う電車を降りた生徒の何人かは、俺達と同じようにここの神社を通っているだろ?」
「うん、僕も通るよ」
 朝の場合、電車から大勢の桜台高校の生徒達が降りてくるため、もともとあまり広いとは言えない正規の方の道は、電車の中と同じく非常に混雑する。その人ごみを避けるために、こちらの神社から通う生徒たちも何人かいるのだ。
「後ろを振り返ってみろ。何か重大なことに気づかないか?」
 圭吾につられるようにして、春紀は今降りてきたばかりの階段の上の方を見上げた。
「この角度だ、ここから見る女の子達のお尻は絶景だぞ!」
「不純な動機だね……」
 力説する彼に、春紀は少し呆れた。
「春紀はそう思わないのかっ?! 男の風上にも置けんやつだな」
 確かに、朝この道を通っていると、女の子達はスカートがめくれない様お尻に手を当てて階段を上っている姿をよく見かける。でも、
「でも、実際は、中まで覗けることはないよ。みんな手で押さえちゃってるし」
「そこがまた可愛くていいんじゃないか! 中まで見えることに期待はしてねーよ。ま、見えるに越したことはないけどな」
「ふ〜ん。そんなものなのかなぁー」
「ふっ……春紀はまだまだお子様だな。それとも何か? 春紀は中重視ってやつ?」
「べ、別に、そういうわけじゃないけど……そ、それよりさ!」
 恥ずかしさを隠すように、春紀は話題を変えようとする。先ほど疑問に思っていたことを、思い切って聞いてみた。
「さっき、桜の木のところで僕を見た時、どうしてあんなに驚いていたの?」
 その問いには、圭吾も表情を変えた。彼も話していいかどうか少し悩んでいるようだった。
 苦笑いのような顔をして、圭吾は話し始めた。
「う〜ん……実はな、春紀の横顔が、前に一度見かけた女の子にあまりにソックリだったんだ。だから、ちょっと驚いちまって」
 春紀の心臓がまたドキリと揺れる。
「ここで入学式の前に見た、さくらっていう女の子なんだけどさ。うちの高校の生徒だと思うから、また会えるとは思うんだが……」
「探してるの?」
「いや、特別に探してたわけじゃないんだが、なんとなく思い出して、な。少し話しただけだから、むこうもこっちのことを覚えているかどうか……」
「そうなんだ……」
 考え込んでいる圭吾に、春紀は小さく頷いた。
「あ、僕こっちだから」
 階段を下りきり、春紀は駅の方を指して別れを告げる。神社の林に隣接するようにその駅のホームはあった。
「ああ。じゃあな」
 手を振って、圭吾は家へと歩いていった。
 圭吾から逃げるようにして駅へ急ぐ。春紀はまだ誰もいない駅のホームの上へとあがった。
 もう見えないだろうか、春紀は心配そうに圭吾の姿をうかがう。彼の歩き去った方にもはや影形は残っていない。完全に見えないところまできて、春紀はやっと一息ついた。
 圭吾の見た女の子と姿が似ていて当然だった。
 なぜなら、その女の子はもう一人の自分なのだから。
 もしかしてバレたかなという不安に駆られるが、春紀の親友、香山知加(かやまちか)の言葉を信じればほとんどバレることはないという。
 その言葉を信じて、春紀は気持ちを落ち着かせた。



 それは春紀にとって、もう一人の自分になれる魔法だった。
 春紀は昔からイジメられがちだった。友達も少ない。積極さを欠く内気な性格と反撃のできないその弱気な性格は、イジメの大きな悪循環を生む。
 とはいえ、そのイジメもクラス全体が一丸となってと言うほど残忍なものではなかった。助けてくれる友達も何人かいた。
 香山知加はそんな数少ない友人の一人。春紀と幼なじみの女の子。春紀にとって親友と呼べる相手かもしれない。
 それはイジメという現実から逃げる、心を庇う防衛手段の一つだった。
 最初、それはイジメ行為の一つとして始まった。
 女装。
 文化祭、演劇の題目を決めるとき春紀は理由もなく、強いてあげれば小柄で似合いそうだという理不尽な理由によって、女装を強要された。強要した者達はその春紀を見てまた笑いのネタの一つにするつもりだった。しかし、それを見て笑う者はいなかった。
 完成したのは、涙を見せる弱気なただの女の子。
 とても男には見えなかった。
 イジメていた子達は誰もが驚き、口を閉ざすしかなかった。
 この一件が、春紀の心を大きく変えた。
 初めは他の女の子達に誘われるようにして、いつしかそれは自分の一つの趣味になった。
 春紀には3つ上の姉がいる。この春桜台高校を卒業し、遠くの大学に下宿した姉。その姉の着れなくなった昔の服をひっぱり出して使用していることを、姉も母もまるで気付いていない。夢だった桜台高校の制服も着ることができた。
 知加も同じ桜台高校の一年。
 知加と春紀は親友だった。それぞれが一番の理解者だった。
 男女間の親友なんてありえない、友情と恋は極めて似たものなのだから。そんな意見もあるけれど、二人の関係は確かに恋より友情に近いものだった。
 知加の親友は、本当の春紀ではなく、さくらだったのだから。
 二人は、片方が欠けることなく、見事二人揃ってこの高校に入学できた。
 でも、二人が一緒にいられるのは、こうやって授業のない休みの日に顔を合わせるしかなかった。
 二人は学校の中庭、その中庭の端にあるベンチに座って、部活動中の生徒達の掛け声をBGMに休憩をしていた。
「う〜ん……」
 ここにはそのベンチとセットになるように大きなテーブルがある。知加はそのテーブルの上にだらりと上半身を崩し、持て余した両手でジュースの入っていない紙コップを玩んでいた。
 二人は、春紀も知加と同じ、ここ桜台高校の女子制服を着ている。
「う〜ん……」
 うなるように、ぬぼ〜っと紙コップを見つめてストローを咥えている知加を、春紀はおもしろそうに見つめていた。春紀の前には、同じくすでに飲んでしまった空の紙コップが置かれている。
「う〜ん……。何ていうか、アレよね、アレ」
 一人頷いた知加は、重たそうに身体を起こした。
「中学の時に比べて勉強も難しいし宿題も多いし、受験で鈍った身体は鍛えないといけないし。何かとやることは多いんだけど、な〜んか身体がついていかないっていうか――」
「つまり、五月病なんだね」
 ちなみに、暦はまだ五月に入っていない。
「受験中はさ、あそこの高校は入れたなら勉強だってなんだってがんばっちゃう〜って感じだったのに」
 別にその高校に入って学校の風紀に幻滅したのではない。やりたいことが何もないのではない。ただ、五月病とはそういうもの。
「知加ちゃん、何か部活に入れば?」
 見るに見かねて、春紀は提案してみる。
「ほら、今度は体育会系の部活じゃなくて文化系の部活に入るって言ってたでしょ」
 去年の終わり頃、そんなようなことを呟いていたのを覚えている。
「知加ちゃんなら、軽音部だって演劇部だって料理部だって――」
「アンタね、他人事みたいに……」
 軽く笑って話す春紀に、知加はうんざりとした表情を見せた。
「あたしはね、文化系の部活だったらアンタの性別誤魔化して活動できるんじゃないかって思ったのよ」
 アンタはあたしの気持ちを分かっているの? と、少しムスッとする知加。
「ごめんね〜。私、不器用だから。オンチだし〜、演技ヘタだし〜、料理だって――」
「アンタはやる気があるのかぁー!」
 手に持っていた紙コップを、力に任せてグシャリと握りつぶす。
 あいかわらずのほほんと話し続ける春紀に、知加はちょっとキレた。
 春紀が女装をしていない時、春紀と知加はあまり会話することがない。
 面と向かった時、互いに多少の異性を感じてしまい、あまり打ち解けて話すような気にならないのだ。普段学校で会っても、たいした会話もせず素っ気なく別れるだけ。
 変な噂が立つのは避けたかった。何より今の知加との関係を崩したくない、そう思っているのは春紀だけではないはず。
 それに知加の方はともかく、春紀としては今さら知加を恋愛対象として見ることはできない、そう改めて感じたのはつい最近のことだった。
「私、部活はやらないよ」
 春紀は落ち着いて答えた。
「私なんかを受け入れてくれるかどうか分からないし」
 何も言わずに黙って、女として入部して隠し通すのはどうか? そんなことも考えたがそんなことは不可能に近いし、何より親しくなった相手に嘘をつき続けるのは辛い。
 嘘をついていて、ばれた時が恐い。
「嘘つかなきゃいい。最初っから『自分は男で〜す☆』って開き直っちゃえば、嫌がる子は現代っ子にほとんどいないでしょ」
「みんながみんな、知加ちゃんみたいな子じゃないよ。それに……」
 春紀は、知加の握りつぶした紙コップをひょいと取り上げる。
 自分のゴミとまとめて、最後に知加の咥えていたストローを取り上げる。
「それに、もう中学の頃とは違って、男の子の友達も何人かできたしね」
 明るい声でそう言うと、知加に背を向けるようにして春紀は数メートル横のゴミ箱へと近づく。
 春紀は元の居場所へ戻らなければならない。このままイレギュラーで居続けることは、春紀にとっても知加にとっても非常に辛いことなのだ。
 知加はその春紀の背中にかけるべき言葉がなかった。
 ゴミを分別してボックスに捨てている春紀の姿を黙って見つめる。長いカツラの髪が風に揺れ、その表情まで伺うことはできない。
 何事もなかったように、元の位置へ戻ってきた春紀は再びのほほんとした声で話し始めた。
「同じクラスのね、伊藤圭吾っていうすっごい背の高い子なんだけど。見た目も話し方もすごい大人っぽいんだけど、実は行動とかやってることはすっごい子供っぽくてね」
 嬉しそうに話す春紀。
 今まで男友達のいなかった春紀に友達ができたことはとてもいいことだ。知加も嬉しい。
 しかし、その心まで晴れやかではないのは親友を取られることへの嫉妬なのか。
「ん、どーしたの?」
「ううん。なんでもない。ところでさ――」
 一旦会話を止め、改めて知加は春紀を見つめなおす。
「なんで、いきなり『さくら』なの?」
 ギクリ。
 知加はその表情の変化を見逃さなかった。
「今までずっと、ハルーとかハルちゃんーとか、そのまんまハルキって呼んでたのに、なんで突然」
「あ、いや……そ、それは、その……」
 意外な反応を見せる春紀に、知加は興味をそそられる。
「一応、この姿の方にも名前がほしかったから……。変、かな……?」
「ううん、そんなことない。すっごい似合ってると思う」
 一見この可憐で大人しそうなさくらという少女を、いったい誰が男だと思うだろうか。
「そう。よかった……」
 安心したような、優しい笑みを浮かべる春紀を見て知加は呆れている。
 正直、たまに知加でさえこの少女が実は男だということを忘れてしまっているのだ。初めてみた人が完全に騙されるのも無理はない。
「やっぱりさ、さくら! なんかの部活に一緒に入ろうよ! 大丈夫、さくらが男だろうと女だろうと、アンタを毛嫌いするようなやつはいないって」
 男だろうと女だろうと、可愛いものは愛されるのである。
「えっと……」
 ちょっと目がマジになってる知加にどう反論しようかと、春紀は少し言葉に詰まった。
 そもそも、今日は部活見学という名目で学校にやってきたのだ。外へ遊びに行くなら、わざわざ制服で行く必要はない。
「それに、私がまた制服を着たかったの」
 そんなことを言う春紀。今日も春紀は、ここの卒業生である姉の制服を拝借してきた。
 買ったばかりの真新しい知加の制服とは違って、春紀の着ている制服にはどこか着古した感がある。それでも、春紀にとってはこれで十分満足するものだった。
「私ね、何かバイトするつもりだよ」
「へ〜」
「うん。今みたいに、お姉ちゃんの古着でもいいんだけど、少しは自分の服もほしいし」
 自分の服というのは、男物ではなく女物。制服はこのままでもいいけど、さすがに普段着はもう少し良いものがほしい。
「なるほどね〜」
 たしかにバイトという選択肢もあるのだ。
 頷く知加。しかし、知加が本当に気になるところは、
「で、アンタはいったいどっちでバイトしたいの?」
「……」
 それは春紀も悩んでいるところだった。
 履歴書の改ざんに罪悪感はないが、本当にそれでも大丈夫だろうかという心配は否めない。
「…………お、男で」
「ふ〜ん。やっぱ女でやりたいんだ」
 ぼそりと呟いた春紀の一言は、あっさり本音を見抜かれサラリ流される。
「……」
「それで、どこでバイトしようとか具体的なことは決めてるの?」
「そ、それはまだだけど……」
 春紀もあいまいにしか考えていなかったこと。そもそも、男でやろうか女でやろうか悩んでいたことだったのだ。
「う〜ん……。あたしも一緒にバイトしようかな〜」
 そう呟いている知加。それは春紀にとって願ってもないこと。
「さくらはどんな仕事がいいの? やっぱウェイトレスとか?」
 やっぱアルバイトやるなら接客業よね〜、とすでにやる気満々の知加。
 実は春紀もそういう仕事をやってみたかったのだ。
 でも、一人ではなかなか踏ん切りがつかない。知加の後押しは、春紀にとってとても心強いサポートになるのだ。

 とりあえず、二人でアルバイト雑誌を見て検討することになった。
「コンビニ行けば、雑誌や無料の情報誌手に入るしね」
 二人は学校の外のコンビニへ向かう。
 ここ桜台高校は、生徒は全面的にバイトが禁止されている。にもかかわらず皆が平然とバイトを続けているのはある意味仕方のないことだろう。
「圭吾もね、バイト始めるって言ってた。部活、バスケもやりたいんだけど、お金もほしいんだってさ」
「部活とバイトの両立ね。それで勉強の方は大丈夫なのか?」
「あ、圭吾はね、この前の実力テスト学年10位だったよ」
「ふ〜ん。やっぱいい男ってのはなんでもできるものなのね」
 知加の素っ気のない返事。
 実は先ほどから春紀は、圭吾、圭吾と彼のことばかり話すので、知加としてはなんとなくおもしろくない。
「さくら、その圭吾君ってさ、身長高いんだよね」
「うん、男らしくてちょっと羨ましいかも。あとね、鼻の横のところに一つホクロがあるの」
「ふ〜ん。それってさ、あんな感じ?」
 知加につられるようにして視線を前方に送ると、向こうから歩いてくる伊藤圭吾を見つけた。
「あ……」
 思わず声をあげる。
 しまったと思いながらも、気づいたときには遅かった。
 こちらの声で気づいたのか、圭吾も女装した春紀――さくらのことに気がついた。二人のところへ圭吾は近づいてくる。
「キミはさくらちゃん、だったよね。俺のこと、覚えてる?」
「あ、うん……。圭吾君、だよね」
 覚えていてくれたことが嬉しいのか、圭吾は嬉しそうに顔をほころばせた。その無邪気な笑顔には大人びた風貌とは違ってやんちゃなイタズラ小僧のような印象があった。
「今日学校へ来てるということは、部活か何かやってるのか?」
「ううん。今日は見学だけのつもりで、まだ何も決めてないよ」
 小さく首を横に振って、圭吾に親しげに応答する。
「圭吾君は何かの部活に入ったの?」
「ああ。中学の頃からやってたバスケをやりたくてね。まだ俺も見学の段階だけど、たぶんこのまま入部することになると思う」
 知っていた。
 でも、春紀はそんな様子をおくびにも出さずに受け答える。
「バスケかぁ。背の高い圭吾君ならピッタリだね」
 その言葉に大げさに笑って圭吾は言う。
「そりゃあ、さくらちゃん達から見れば俺も大きいかもしれないけど、まだまだデカイやつはいっぱいいるんだぜ」
 まだ百六十にも達していない春紀と知加から見れば、身長百八十を超える圭吾は、近くから見ると見上げるように高い。それでも、百九十近い男子もけっこう多いので圭吾が飛びぬけて大きいわけでもないし、なにより圭吾もまだ高校生になったばかりの少年、身長はまだまだ伸び盛りである。
「それに、デカくたって技術がダメならレギュラーにはなれないし。身長より技術だよ。結局は練習あるのみだ」
「ふ〜ん、すごいね。レギュラー取れるようがんばってね」
 話が一区切りついたところで、親しげに話す二人の間に割り込むようにして、知加が春紀に小声で尋ねた。
「ちょ、ちょっと! なんでそんなにアンタが親しげに話してるのよ? アイツ、まさかアンタの女装知ってるんじゃないでしょうね?」
「まさか、それはないよ」
 慌てて否定する。
 春紀はこの女装のことを、知加達数人の女友達以外にもう教えるつもるはないし、まして春紀の一番の友達に教えられるはずがなかった。
「実はね、前に一度、春紀が圭吾に出会う前にこの格好で会ったことがあるんだ。圭吾は私のことをここの高校の生徒だと思ってるみたいなんだけど」
 知加は驚いた。
 そして、漠然とではあるが、そのことに対して少し危ういものを感じた。
「ねぇ、さくら。それって大丈夫?」
「え……。ま、まぁ、なんとかなるでしょ」
 二人の様子を見ていると、知加はそれに対して強く言うことが出来なかった。
「紹介するね。私の友達の、香山知加ちゃん」
「俺は伊藤圭吾。よろしくな」
 よろしくと知加も言葉を返す。
 それぞれがあいさつしたところで、さすがに道の真ん中で長話をしているわけにもいかず、自然と圭吾と春紀達は別れた。バイバイと春紀は小さく手を振る。
 圭吾と別れてから、校門を出た後も、知加はいろいろと気にしているようだったが春紀はそれほど気にしていなかった。
 男としてできた友達が女としても自分の友達になってくれた。そのことに素直に喜んでいた。



「春紀、メシ食おうぜ」
 いつものように、圭吾は弁当を持って春紀の席に来る。
 お昼休み。学校に食堂はなく、唯一購買でパンと飲み物の販売を行っている。よくジュースだけ購買へ買いに行く生徒も多いが、毎日のお金の浪費を避けることもあって、春紀と圭吾はあまり購買へは行かなかった。いつもペットボトルに入れたお茶を持参している。
「結局、お茶一本持ってきていても、また後でジュースは買うんだけどな」
 圭吾はそう言って苦笑いをする。
 朝練も休むことなくこなしている圭吾は、お茶一本では水分補給が足りないのだ。放課後、部活の前後に購買へ行くのが習慣になっていた。
 圭吾は毎日、朝も放課後もバスケの練習に明け暮れていた。土日もほぼ毎週のように練習や大会があった。圭吾は本気でバスケをやっていた。
 それに対して、春紀は結局何も部活には入らなかった。
「春紀も何か部活しよーぜ」
 圭吾は毎日のように誘ってくれる。
 誘ってくれるのは嬉しいが、春紀はあまり運動を積極的にはやろうとしなかった。運動は嫌いじゃない、ただ、春紀は自分の身体に筋肉をつけたくなかった。
 女装が出来なくなるから。
 春紀はもともと少食な方なので、太ってしまう心配はあまりない。しかし、少しでも筋肉がついてくると、小柄な春紀であっても女装は難しくなってしまう。
 最近、また春紀の身長は伸びた。
(身長なんて、伸びなければいいのに……)
 今なら少し背の高い女の子程度で見てもらえるが、これ以上大きくなると、顔はともかく体型の方で男だとばれてしまう。
 春紀はいつまで自分が女装できるのか心配だった。
 女装ができなくなることも、それはそれで仕方のないことだと思う。普通の男は女装なんてしないんだから。これを機会に女装なんて止めてしまった方がいいのかもしれない。しかし、それでも春紀はこのまま女装を続けたかった。
 このまま、成長なんてしたくないと思う。
 そう思うと、自然とごはんを口へと運ぶ手は重くなってしまう。
 春紀はごはんをボソボソと食べながら、いつものように圭吾と話をする。
「僕、バイト始めたよ」
「へー、いいなぁ。どこでやってるんだ?」
「地元の方の飲食店。圭吾はバイト始めないの?」
 圭吾は悔しそうに顔をしかめた。
「俺もしたいんだけどなぁ〜。部活が忙しくてやってられないよ」
「やらないの? 同じバスケ部の子もいろいろとバイトしてるみたいだけど」
「それはあいつらが練習をサボってるんだ。キャプテンに言わせると、もうそういうやつらは戦力外とみなしてしまっているらしい。俺はそうなりたくない」
 笑って、圭吾もゆっくりとごはんを食べる。
 圭吾がごはんをゆっくり食べるのは、これは春紀のペースに合わせているらしい。もともと圭吾は食べるのが早い。二人で食べ始めた最初の頃は、春紀がまだ半分以上も残っているのに圭吾はいつも食べ終わってしまっていた。
「急いで食べても仕方ないよ。もっとゆっくり食べようよ」
 春紀に言われ、圭吾は徐々にペースを落としていった。
「早く食べても、それじゃああんまり食べた気がしないでしょ?」
「それは言えてる」
「食べ足りないからって、それで毎日購買へパン買いに行ってたら、それこそお金がもたないでしょ」
「そりゃそうだが。春紀って、意外にケチだな」
「……」
「ま、ゆっくり食うのも悪くはないな。しっかり食べたっていう気にはなるし」
 実は、春紀が食べるのが遅いのにはもう一つ理由があった。
 今まで春紀は食べるのが早い男の子より、食べるペースが極端に遅い女の子達と食べることの方が多かったのだ。自然に周りに合わせて、春紀のペースも遅くなっていった。
「圭吾も彼女と食べるとき、自分だけあっさり食べちゃうのはダメだろ? 彼女の方にこっちがペースを合わせてやんないと」
「なるほどな」
 女の子にも食べるのが早いのはいるが。
「まさか、春紀から女について勉強させられるとは」
「……」
 実際に女をしている分、知識は豊富なのかもしれない。
 少し恥ずかしくなってしまった春紀は、誤魔化すようにごはんを口へ運ぶ。
 圭吾とは反対に、最近春紀の方はごはんを食べるペースが早くなっていた。
 二人がそろそろ食べ終わるという頃、春紀は教室の外に見知った顔を見つけた。
 教室入り口に、香山知加がいた。知加は誰かを探しているようでキョロキョロと教室の中を見回している。
 ひょっとすると自分かな〜と考えていると、案の定、春紀を見つけた知加はすぐこちらに近づいてきた。
「春紀ぃー、今日、英語の授業ってあった?」
「うん? あったよ、ついさっき」
「よかったぁー。今日あたし、英語の教科書忘れたの! 教科書貸してくんない?」
 うんいいよ、と言って春紀はごそごそと机から教科書を出す。
「ノートは?」
「できればノートもお願い! 実は今日、当たりそうなのよ」
 よく英語の先生は、今日の日付けで生徒を当てたり、出席で順番に当てていくことが多い。つまりぶっちゃけ言ってしまえば、当たりそうな日だけ徹底的に予習しておけばみんなの前で恥をかくことはない。
「よりによってこんな日に忘れちゃってさ〜。ありがと、借りてくわ」
 と、急いで戻ろうとする知加を呼び止めたのは、圭吾だった。
「香山?」
 ギクリとしたように、固まる知加。
「なぁ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
「う、うん。いいけど……」
 圭吾はもう少し人の少ないところで話をしたいと言って教室の外へいこうとする。
「へー。圭吾と香山って、知り合いだったんだ」
 アンタ白々しいわね、と知加は春紀を睨みつける。
「ああ、ちょっとな。春紀と香山は、同じ中学?」
「うん、そんなとこ」
 何か助けを求めるような視線を春紀に残し、圭吾に連れられて知加は教室の外へと出ていった。
(あの二人がいったい何の話だろう?)
 春紀としては非常に気になるところ。人のプライバシーに立ち入るわけにもいかず、盗み聞きに行くわけにもいかず、とりあえずもう少し残っている弁当を片付けようと春紀は口を動かしはじめた。
 春紀がそのわけを知るのは、もう少し日が経ってからだった。



 その日圭吾は、彼にしては珍しく緊張していた。
 バスケの試合でも、桜台高校の入試でも、ここまで緊張することはなかった。
 我ながら情けないな……。
 自覚はあるが、自分の心臓の鼓動は自分でどうにかなるものでもない。近づくにつれて、その音ははっきりと自分の耳に届いてくる。
 彼女が来たら、最初になんて話せばいいんだろう。
 彼は驚いた。
 俺はこんなにも臆病だったなんて。
 駅に着くまで、彼は必死で最初の言葉を考えていた。
 しかし、その最初の言葉は使うことがなかった。
 駅に着いた、待ち合わせの駅の石の彫像の前。
 待ち合わせ時刻の十五分前、彼女はそこにいた。
 朝日のように輝く笑顔でこちらに振り返る。
「おはよっ、圭吾君」
「あ、ああ。おはよう」
 声をかけたさくらが見たのは、少し驚いている圭吾の顔だった。
「よかった。少し早く着いちゃって、どうしよかなって思ってたの」
「さくらちゃんは――」
「私のことはさくらでいいよ」
「ああ。俺も圭吾でいい。さくらは、待ち合わせに来るのが早いんだな。これでも俺、先に来たつもりなのに」
「うん、電車がそれしかなくって。実は待ち合わせ時間ちょうどに来る電車があったんだけど、それじゃあちょっと遅刻かなって思ったの」
「なんだ、少しの遅刻くらい。そっちでよかったのに」
 照れたように、さくらはえへへと笑う。

 数日前、春紀が知加に聞いたのは、圭吾がさくらに会いたがってるということだった。
 何度も断ってるんだけど、圭吾は本気で、もうこれ以上断れないということだった。
「さくら、どうするの?」
「どうするって言っても、私は男だよ。付き合えるわけないじゃない」
 一度本人と直接会って話がしたいそうだ。
 結局、こちらが折れて二人を引き合わすことになった。
「大丈夫? その日、あたし用事あって保護者として付き合えないけど」
「うん、大丈夫。その日は私もバイト入ってるから、少し話したらすぐに別れるつもり」
「わかった。そう伝えとく」
 こうして、さくらと圭吾は待ち合わせをすることになった。

「私、このあとバイトがあるから、そんなに長くは話せないんだけど」
「ああ、聞いてる。俺もこのあと部活だから」
 二人は近くの喫茶店に入った。
 私服姿のさくらも可愛いな。メニューを眺めている彼女を見ながら、圭吾はそう思う。
 さくらと話しているうちに、圭吾の緊張はいつの間にかなくなっていた。
 不思議だった。
 彼女といると、圭吾の心は落ち着く。
 まるで、彼女のことを自分がよく知っているようだ。馴染みの友達と話しているような安らぎがあった。
「さくら、ちょっと聞きにくいんだけど……。さくらって、ホントに桜台高校の生徒?」
 後ろ暗いこともなく、彼女はあっさりと認めた。
「えへへ……ばれちゃった?」
 彼女の様子に、圭吾は少し安堵する。
「やっぱりそうなんだ。他のクラスのやつに聞いても、誰も知らないって言うから」
「うん。実はね、私、隣の北高校の生徒なんだ」
 隣の北高校は女子高。これは準備されていた答えだった。
「お姉ちゃんの制服借りて、知加ちゃんに会いにいってたの」
「そうだったんだ」
 これも予想していたことなのか、圭吾に落胆の色はない。
「バイトって言ったよね。さくらはどこでバイトしてるんだ?」
「地元の方の喫茶店」
「喫茶店? もしかして、ウェイトレスとか?」
「アハハ、そんなんじゃないよ。制服はあるけど、そんな可愛いやつじゃないよ。ってまさか、可愛い制服だったらうちのバイト先まで見に来たとか?」
 可愛い制服じゃなくても、さくらのバイト先なら行きたいなと圭吾は思う。
「ウェイトレスは見てみたいよな。男にとっては、それはそれだけで目の保養になるから」
 クスクスとさくらは笑う。
 しばらくして、注文したメニューが運ばれてきた。アイスコーヒーは圭吾、セットの紅茶とケーキはさくらの前へ。嬉しそうにさくらはケーキを食べ始める。男の春紀も実は甘党だった。そのため、知加達と行くケーキバイキングも嫌いじゃなかった。
「圭吾はケーキとか嫌い?」
「いや。嫌いじゃないけど、あんまり進んで食べようとは思わないね」
「そう? でもさ、男の子でもケーキ好きな子もいるよね」
 それが自分のことだと思いながら。
「そりゃあそういうやつもいるけど。俺はケーキ一個なら喜んで食うけど、二個目には手は出せないな」
「ふ〜ん。圭吾はさ、そんなコーヒーだけとか、よく飲めるよね」
 圭吾が注文したのはアイスコーヒーだけ。砂糖もミルクも入れずに飲んでいる。
「そうか? さくらはコーヒー飲まない?」
「飲まない。なんでそんな苦いの飲めるのって感じ。私は紅茶の方が好きだなぁ」
 そういうさくらは、紅茶にしっかり砂糖を入れている。
「俺の場合、ケーキとかチョコとか食べたら、絶対コーヒーが恋しくなるタイプだな。昔から親が好きで、よく俺も飲んでたんだ」
「えー。私はちょっと考えられないなぁ」
「なんていうかさ、シュークリームなんかでも、食べると口の中に甘ったるいのが残るだろ? あの後味が俺は許せないんだよ」
「アハハ、なにそれ。それがいいんじゃないの」
「コーヒーがあるとすっきり流せるんだけどな。シュークリームは、俺はコーヒーがないと食べれないぞ」
「でもそれはわかるかも。私、シュークリーム食べると、牛乳飲みたくなる」
「牛乳? なんだそりゃ?」
「お饅頭とか、和菓子だったら熱〜い日本茶だけどね」
「俺は和菓子でもコーヒーかも」
「えー、なんでェ〜? あんまりね、コーヒーブラックで飲めるって自慢する子は嫌われちゃうぞ」
「なっ……俺はそんなにガキじゃねーよ!」
 子供っぽく怒る圭吾を見て、さくらは笑う。圭吾はさくらの笑顔を見ていた。
 他愛のない雑談が続く。
 圭吾はなかなか話を本題に持っていけなかった。
 居心地が良かった。この、さくらとの雰囲気を壊したくなかった。
 楽しい時は気がつかないうちに過ぎていく。
 さくらも時間を気にし始める。
「あのさ、そろそろ私、バイトの時間が……」
 席を立とうとするさくらに、待ったと圭吾は腕を伸ばした。彼女の手を掴む。
 さくらは少し驚いた。
「あ、いや……ごめん。でも、ちょっと待って」
 慌てて圭吾は手を離す。
 ここでは話せないな。そう感じた圭吾は、外に出てから少し話そうとさくらに提案する。
「あ、私の分のお金……」
「いいよこれくらい。俺が誘ったんだ。代わりにさくらにはまた今度おごってもらうからさ」
 そう言って、圭吾は二人分のお金を支払いに行く。男の面子と言おうか、さくらは黙ってそれに従う。
(また今度、か……)
 先に外に出たさくらは、一人その言葉を反芻していた。
 しばらくして、圭吾も店から出てきた。
 二人は店の横の駐車場の端、壁際のところに行った。ここならあまり人は来ないし、表の道からも死角になっていてすぐ見られることはない。
 さくらからは話し出すことができなかった。
 深呼吸をするような二人の沈黙の間。彼女は壁にもたれるようにして、今度ばかりは圭吾の言葉を待つ。
 さくらの姿を確認するように目で追った後、圭吾は話し始めた。
「また、俺と会ってくれないか?」
 落ち着いた声だった。
 自分でも驚くほど、彼は落ち着いていた。昨日の夜の緊張が嘘のようだ。
 ただ思うことだけを、圭吾は口にした。
「まだたいして話したわけじゃないのに、こんなこと言うなんて信用ないやつだなって思うかもしれない。でも、今日を逃すと、次なんていつ会えるかわからないから。多分香山に話しても取りついてくれない。街で偶然会うことなんて期待できない」
 圭吾は最初からそのつもりだった。
 そして、さくらもそれはわかっていたこと。
 圭吾はさくらの目を見つめる。
「俺はさくらが好きだ。付き合ってほしい」
 さくらは胸が締め付けられるような気がした。
 圭吾の気持ちは伝わってくる。彼が本気だということもよくわかる。
 それだけに、さくらの心は苦しかった。
 圭吾の言葉は続く。
「すぐにはさくらの返事、聞けなくてもいい。さくらも驚いてると思う。また二人で話していたら、さくらは俺のこと嫌いになるかもしれないし、俺がさくらと付き合いたくないって思うかもしれない」
 正直な、圭吾らしい言葉だと思う。
「絶対はない、でも、このままじゃ終われない。時々でいいんだ。俺と会ってくれないか?」
 さくらは、彼の顔を直視できずにいた。自分でもどこを見ているのかわからない、曖昧な空間を見つめていた。
 彼の顔を見る。
 圭吾は、今まで春紀でも見たことないような、優しい顔をしていた。
 見ていることができず、さくらは再び視線をそらした。
「私は……」
 結論など最初から出ている。
 それでも、さくらは返事をすることが出来なかった。
 明らかに、今までとは全く違う感情が自分を支配していた。
 言えなかった。
 これは圭吾に対する同情なのか。
 これは同情なんかじゃない、これは春紀の中に生まれたさくらの心だ。そんな風に思う。
 悩む自分とそれを冷静に見つめる自分がいる。そんな気がした。
「私は……」
 さくらは、その先を言うことが出来なかった。







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