まるで夢から覚めた瞬間だった。
「……あれ?」
 今日の一日が、全て夢だったとは思わない。
 水に落ちて気を失ったとも思えない。
 ただ、バクバクと揺れる杏の心臓は、悪夢からの目覚めのようにも感じられる。
「確かに、悪夢って言えば悪夢だったけど……」
 夢の世界に迷い込んだ、と言うのが杏の正直な感想だった。いや、感覚的にはどちらかというと、夢の世界から飛び出してきたような、と言った方が正しいのかもしれない。
 違和感があった。
 まず不思議に思うのが、この部屋自体が杏の部屋であって杏の部屋ではないということ。
 間取りや家具、朝日に照らされた机に、ベッドのいつもの寝心地。杏の部屋としか考えられないのだが、不可解な点が多過ぎる。カーテンの色、ベッドシーツの色も違う、杏の部屋はこんなパステルカラーの明るいカーテンではない。端の壁のポスター、自分はこんな男性アイドルの笑顔を眺める趣味はない。
 積み上げられた雑誌にCD、自分の身体にさえ違和感を感じるのに、それが当たり前だと感じる自分もいる。
「アン、起きてるの〜? 朝ごはんできてるわよ〜」
「うん、今行く!」
 いつものように反射的に返事をして、慌てて自分の口を押さえた。
 自分はこんなに高い声ではない。
 母はこんなにのんびりとした話し方はしない。まるで別人のようにも感じる。
 しかし、一方でそれが自然だと訴えかける自分がいる。
 杏はベッドから飛び起きた。
 そして、鏡を前にして彼女は絶句した。




 アプリコットドロップス 

   水無月




   〜中編〜

 一階に下りると、いつものように母が朝食の準備をしていた。恐る恐る、多少ぎこちない動きで杏はキッチンを横切り食卓の席に着く。
「おはよう、アン。起きてたのなら早く降りてくれば良かったのに。私もパパも、ごはん済ませちゃったわよ」
「う、うん……」
 いつもと変わらずパジャマ姿で卓についた杏は、それでも少しだけ他人行儀にして朝食に手を伸ばし始めた。
 ここ奈津木家では、朝の出かける時間に順番があった。
 最初に家を出るのは父、明弘。明弘は慌てた様子でキッチンに顔を覗かせた。
「じゃあ、いってくるよ」
「ちょっと待って」
 慌てて母が明弘の元へ駆け寄る。
「ネクタイが歪んでるわ。毎朝してるのに、なんで上手くならないのかしら」
「いや〜……ははは」
 明弘は照れたように頭をかいた。
「はい、これでよし」
「じゃあ、いってくるぞ! アン、夜はあまり遅くならないようにな」
 そう言って、明弘は颯爽と出勤していった。返事もせずに杏は呆然と見送る。
 明弘は少し離れた街へと通う会社員。バスで通勤する彼は、この時間の便でないと間に合わない。出る時間が早いために、娘と一緒に食事ができないとよく嘆いている。
 次に家を出るのは母……ではなく、娘の杏だった。
「アン、ちょっとゴミだけ先に出してくるわね。早く行かないと、集積車においてかれちゃう」
 杏は無言で首を縦に振った。
 この家で母がゴミ出しに行く日を見ることになるとは夢にも思わなかった。
 母、香澄は、近所のスーパーに勤めるパートさん。明弘との結婚を期に仕事を退職したが、娘が成長したことにより暇を持て余し、いつの間にかパートとして働き始めていた。店の開店がもう少しあとなので、彼女は家事を一通りこなしてから出勤していくことになる。
 杏はご飯があまり喉を通らなかった。
 明子と雄治とはまるで違う、明弘と香澄の夫婦生活。娘としては「なかなかの亭主関白ぶりだなぁ……」と思う。名前と性別が違うものの、確かに二人はその面影を残していた。おっとりとした香澄は、雄治をそのまま女性にした姿だと感じた。
 しばらくして帰ってきた香澄は、熱いお茶を杏に入れると、自分にも入れてテレビを見ながらのんびりと飲み始めた。この母と一緒にいると、こっちが遅刻してしまいそうだ。
「そうそう。今日の夕ご飯、アンに任せていい? 帰りが遅くなりそうなの」
 長くスーパーに勤めているだけに、気が付けばチーフに昇進しているようで、帰りが遅くなることが時々あった。そんな日は杏が夕飯を作ることになる。
「それとも、今日も外で食べてくるの?」
「……わかんない」
「ところでアン、その指輪どうしたの?」
「……へ?」
 箸をくわえた右手、指差された中指を見ると、見覚えあるリングがキラリと輝いた。
「さては彼氏の貢物だな?」
「か、彼氏?!」
「今度の子は、なかなか大人しそうな子よね。パパいない時にまた連れてきてね」
「……」
 杏の目は泳いでいた。
「今日はまたデートなの?」
「今日って……?」
 ふと思い出して、食卓の端に置いてあった新聞を見た。
 テレビでは、ちょうど朝の占いランキングが映っている。
「私、先週は最下位だったのよね〜」
 そんなことを言いながら、香澄はテレビに見入る。
 テレビのアナウンサーの言葉に合わせて、思い出すように杏は呟いた。
「今週の山羊座は……」
『今週の週末占い! 一位は山羊座、金運恋愛運ともに星5つ、朝からいいことが起こりそうな予感。二位は射手座、新しい出会いはないものの金運は絶好調、悩んだ時は迷わず買ってしまっても――』
「射手座が二位ですって。あの新しいハンドバッグも買っちゃおかな〜」
 嬉しそうに香澄は喜んでいた。
 杏はただ呆然とテレビを眺めるのみ。
 右手に光る指輪だけが、記憶と現実とをつないでいるかのようだった。

 ここは現実とは違う鏡の国の世界、パラレルワールド。
 しかし、そう表現するのはどこかおかしかった。
「むしろ、こっちが現実だと言われれば、そうだとも言える……」
 まるで違和感がないことを不思議に感じる。
 こっちの世界は何も知らないはずなのに、全てを知っているような錯覚を感じる。記憶は男の杏のままなのに、魂は女の杏のまま。着替え一つに戸惑うこともなかった。
「それより、己の親の様子に戸惑うなんて……」
 あそこまでそのまんまだと、正直笑ってしまう。名前は若干異なっているようだが、中身は全然変わっていないようにも思う。
 意識は男の杏なのに、記憶は男の杏と女の杏の両方を持っているようだ。やはり肉体は女のものだからだろうか。自分の裸を見ても興奮することはない。理性は男のままなのに、心は女のまま。
 部屋の違いを比べることができる。
 この部屋には、杏のほしかった等身を映し出すことのできる大きな鏡がある。そろそろほしいなと感じていた二つ目の大きなクローゼットが、三年も前に購入されている。女の方が衣装が多いようで、このクローゼットもすでにいっぱいになっているようだ。
 クローゼットを開ける。記憶だけでなく実物を見て、思わず感心した。
「ふむ、さすが俺」
 そこに並ぶのは、女の杏の好みをそのまま表したものであり、男の杏の趣味そのまんまだった。どちらかというと地味めなデザインのものは少なく、ミニスカートも多い。
 それは杏が灯里に着せたかったもの。
 ふと気づいて、タンスの上段を開ける。色とりどりの下着が並ぶ一番奥にそれはあった。
「さすが私……」
 スケッスケの下着を見たときは、思わず赤面してしまった。
「ていうか、こういう思考自体が『お前はナルだ』って言われる原因なんだよな……」
 男の杏も女の杏も、基本行動は何も変わっていないようだ。気づいて少しテンションが下がった。
 机の上には見慣れない小物が並んでいる。いや、それらは全て女の杏の化粧品。
「化粧もいけそう……かな?」
 意識は男であるものの、女としての記憶も存在するためなんとかこなせそうだ。
 化粧用の鏡を開いて、改めて自分の顔を観察する。
 目、鼻、口、個々のパーツだけで見てみれば男の時とさほどの違いは見られないが、全体としての印象は大きく異なる。顔の輪郭は一回り小さいのだろうか、瞳が大きく見える。男の時よりも表情がきつく見えるのは、眉の形のせいだろうか。
「髪は短め、軽く染めた茶色か」
 男よりはやや長い髪。こちらの杏も髪をもっと明るく染めたかったようだ。
「赤とか……って、私にそばかすはないけど」
 髪のセットも部屋で行っているらしい。父似のこの髪は多少のクセがあるので、ドライヤーを使わなくてもきれいにまとまる。彼女としては、母のような直毛のロングに憧れるのだが、それは一度ストレートパーマをかけて懲りている。
 洗面所ではなく、部屋で髪をセットするのは、洗面所に整髪料を置いておくと母に勝手に使われるからだ。
(中年のおばさんが……以下略)
 一通りの観察を終えて、ハッと気づく。
「そうだ、まだトイレに行ってない」
 朝から慌てていたために、今朝は一度も行っていなかった。
 そして、残っているのは己の身体の観察。
 鼻歌まじりに、杏は洗面所へと向かった。


 少し早めに待ち合わせの公園に着いた杏は、中央の大きな池の畔にいた。
 暖かな日差しが降り注ぐ池は、どこからともなく流れる涼しい風を運び、彼女の心とは裏腹に絶好のデート日和を醸し出している。いっそのこと暗雲な天気であれば、彼女もあっさりとデートを諦める決断ができたのかもしれない。わずかに白い雲を残す青空は、灯里と一緒に見たあの空と同じなのかもしれない。
「ここから、落ちたんだよな」
 その池の柵を見ると、確かに釘が外れ、今にも崩れてしまいそうだった。あの時は暗くてよくわからなかった。
 ここから池に落ちて、気がつくと女になっていた。
 もう一度戻るには、どうすれば良いか。
「……やっぱり、ここから落ちるのか?」
 それはちょっと嫌だなぁ〜と、とりあえず身を乗り出して池を覗く。涼しげな水面は、おいでおいでと気持ちよさそうに囁く。今の季節なら水温はちょうど良いかもしれない。
「でも、ちょっと汚そう……」
 落ちる前にケイタイ電話くらいは非難させておいてもバチは当たらないだろう。男の方は沈んだが。
 戻る手段としては、これが一番の有力候補。
 とはいうものの、今からそれを実行する気はさらさらない。
「それで戻らなかったら、バカみたいだし」
 戻る手段を試す前に、来た理由を考える必要がある。
 ここはパラレルワールド。裏側の世界。鏡に映したような、コインがひっくり返ったような世界でありながら、それは対称ではなく虚像のような世界。違っているのは登場人物の性別のみ。性格も性質も、全ての事象が何も変わらない。
 それは今から起こるべき事象においても当てはまる。
 そして、今日が繰り返される。
 その意味とは……。
「やっぱりフラれるなってことなんだろうな」
 未来を変えること。
 杏とその恋人は今日別れるべきではない。そう神が暗示しているのかもしれない。もう一度チャンスを与えてくれているのかもしれない。
「私の未来が変われば」
(俺の未来は変えられる)
 そう考えた。
 手提げの小さな鞄を揺らして、のんびり歩いて彼女は公園の待ち合わせの広場にたどり着く。時間まではあと十分。彼はまだ来ていない。
 つまり、
「俺が男に媚び売って、メロメロにして引き留めるってことか」
 頭を抱えたくなった。
(憂鬱だ……)
 例え女の記憶があろうと、女として違和感をほとんど感じないとしても、それだけは理性の奥に存在すると思われる男としての本能が拒絶している。
「……彼氏に甘えてみるか?」
 いつもの彼女の性格からして、露骨に甘えてアピールするようなことはしないようだった。そういう記憶はない。しかし、やや大人しい印象のあるこの彼氏の場合は特に、むしろ彼女の方から積極的に手を進めていかなければなかなか進展は望めないだろう。
 いい感じになってきたところで、もう今日の予定とか全く関係なしに男に甘えてキスを求め、そのままラブホへ直行――
「絶対ムリ!」
 それは、男としての心だけでなく、女としての杏のプライドが許さなかった。
 ベースとなる杏の性格はほぼ一致する。無理をして他人を偽るわけではないので、今日のデートも基本的には流れに身を任せれば上手く演じられると考えた。男の言葉使いが出ないようにだけ気にすれば、会話もいつものように思ったことだけを話せば良いだろう。気にしなければ、意識さえしなければ自然とあふれる口調は普段の彼女のものになるだろう。
 それにも限度というものがある。
(猫なで声で甘えろとか言われても……)
 そんな自分に怖気付く。
「だいいち、私ってそんなキャラじゃないし」
 そして、もう一つ。
 重要なキーとなりうるものがある。
「呪いの指輪……」
 彼女の細い指を彩る、ハート型の小さな銀のリング。
 右手を頭の上にかざす。
「どうして私は、この指輪をしているの?」
 これだけは彼女の記憶にはないもの。男の杏の記憶にしか存在しない。今朝、彼女は部屋で指輪を見つけていない。気付いたら指にはまっていた。朝目覚めた時からつけていたのだろうか。しかし、彼女の昨夜記憶にはそれはどこにも存在しない。
 あれだけ石鹸で頑張ったのに、テコでも動かなかったそれは、少しだけ小さくなった彼女の指からはあっさりと抜くことができた。
「やっぱりこれは男の指には小さいよね」
 つけているわけにもいかないので、外してポケットに放り込んだ。
 待ち合わせの広場には何組かの親子連れの姿が見られる。あいかわらず通りすがりのスーツ姿のビジネスマンは表情が重い。日差しはやや暑く、そろそろセミの鳴き声が聞こえてくるだろう。
 しばらく待つと、遅れて彼がやってきた。
 灯里の面影を深く残し、それでも灯里とは対照的に爽やかな雰囲気を持つ彼は、彼女の姿を見つけるとニッコリと笑って急ぎ足で近づいてきた。
「ごめん、お待たせ」
「今日は私の勝ちだね」
「珍しいね」
「なにおう!?」
 男は待たせるもの、それが彼女のポリシー。
「じゃあ、今日は奢ってくれるの?」
「奢るのは構わないよ。代わりに、今日のチケット代を踏倒すから」
 思わぬ反撃に、彼女の目が点になった。
 今日のライブのチケットは当然彼女がメンバーから買い付けたもの。
 彼はクスクスと笑って手を差し出した。
「それじゃ、行こうか」
「う、うん……」
 珍しくやり込められたことを悔しく思いながらも、彼――俊輔の大きな手を取った。
 少しだけ新鮮な気分を感じながら。

 二人が駅前を通過する頃には日は高く上りきり、熱い日差しを避けて駅構内や商店街のアーケードの下へとお客達は集まる。寂れかけた商店街とはいえ休日のピーク時であることに変わりはない。むこうでもこちらでも、その光景に変化はない。
 杏の見つめる俊輔の横顔に何かを感じた。
 無意識はその違和感を否定する。しかし、杏の意識は奇妙な既視感とともにそれを肯定する。
(そっか、いつもと逆なんだ……)
 俊輔に手を差し出された時、杏は無意識に右手でその手を取った。彼は左手を差し出した。ところが、灯里はいつも杏の左側にいる。
 今の彼女に違和感はない。これが二人のいつもの並び方。
 些細な違いとはいえ、注意深く観察することによって様々な違いが見えてくる。駅員が違う、お店の従業員が違う、内装は同じなのにお店の名前が違う、駅構内の看板の位置は同じなのに張られているポスターの絵が違う。
 キョロキョロと周囲を見回した後、再び彼の横顔に注意が向く。
(……あれ? じゃあ、キスする時に顔を傾ける向きって……)
 思わず顔を赤くする。
 それは右からやっても左からやっても変わらない。彼とのキスを思い出した。
 ちなみに、どちらの世界でも、このカップルは7:3で杏の方からキスをする。
「ん? どうしたの?」
 見られていることに気づいた俊輔が首をひねる。
「え、あ……その、シュンくん、髪切ったんだなって。似合ってるよ」
 彼女の指摘に、俊輔は空いている右手で恥ずかしそうに髪を触る。
「うん、そろそろ暑くなるし、少し短くしてみようかなってね」
「そろそろじゃなくて、もう十分暑いと思う」
「そうだね」
 軽く笑いながら彼は頷く。
「もう少し早く髪を切りにいくつもりだったんだけどね、なかなか行けなくて」
「こまめに行った方がいいよ。ふた月に一度は来てくださいって言われない?」
「いや、言われたことないけど」
「私は毎月行くけどなぁ」
「そんなに行くの?」
「別に多い方じゃないよ」
 灯里もそれくらいは行っていたはずだ。きっと、おそらく、たぶん……。
「アンは会う度に髪型変えてるから、わからないよ」
「むぅ」
 そんなことはない、と思う……。
「それでも、試行錯誤は減ったと思うんだけど」
「あはは。試行錯誤ってのがアンらしくていいね」
「何それ。褒められてる気がしない」
 杏は前から灯里の髪型をいじってみたいと思っていた。女の杏は見事にそれを実践しているようだった。
「シュンくんは、髪染めたりしないの?」
 杏は自分の髪と見比べながら、まるで染めたことのないような黒髪の俊輔に聞く。
「う〜ん、どうかな? わざわざお金かけてまで染めようとは思わないけど」
「そこはお金の問題じゃないよ」
「それに、僕に茶髪は似合わないって」
 確かにそれは一理ある。同様の理由で灯里は髪を染めていない。しかし、そういうファッションは周囲に馴染んでくれば自然と顔にも慣れてくるものである。
「そうだ。シュンくん、今度はいつ頃髪切る?」
「え? 切ったばかりだから、たぶん次は夏が過ぎてからだと思うけど」
「一度、男の子にやってもらいたかった髪型が……」
 と、思いのたけをそのまま口にしたところで、杏はハッと気づく。
(そういえば、俺は男なんだから、俺がすればいいのか……)
 記憶を引き継いで持って帰れば、そのまま女の杏の試行錯誤を試すことができる。
(いや、でもそれを自分でやるのは微妙だな……)
 それを人にさせようとしていたことは横に置く。
「むぅ……」
 考え込んだ杏を見て、俊輔は首を傾げた。
「髪なんて適当に切ってるから、いいけどね」
「男の子だってさ、もっとファッションを楽しもうよ」
「う〜ん、ちょっと気恥ずかしいっていうか……」
 どうやら男の杏と俊輔とはかなりタイプが違うようだ。
「シュンくんは、いつもどこで髪を切ってるの?」
「うん? 近所の床屋さんだけど」
「一回、美容院行ってみない?」
「……恥ずかしい」
「最初だけだって! 最近は男の子もいっぱい来てるし」
「いや、クルクル回ってるのがないと安心して入れないっていうか」
「何それ」
 そこまで言う俊輔に笑ってしまう。
 ちなみに、男の杏はもうクルクル回っているお店には安心して入れない。
「今度、いつも私が行ってるお店に一緒に予約入れといてあげるから、一緒に行ってみようよ」
「もうカンベンしてください……あ、例のお店に着いたみたいだよ」
 逃げるように話題を変えた。
 俊輔の視線の方へ目を向けると、信号を過ぎたところにそのお店はあった。
 外観はなかなか良かった。どことなくイタリアを思わせる落ち着いた色のレンガの壁に、店の中まで見渡せる大きな窓、赤白緑のお馴染みの色は無く、こじんまりとした小さな看板とたたずまい。気軽に入れそうな外観のわりに、中の人影は少なかった。
 杏は言葉もなかった。
「確か『イタリアン・麻里亜』って言ってたから、ここだよね」
 俊輔は看板を見て頷いている。
 嫌な予感がする。
 街の風景、店、人や雰囲気。些細なものに違いはあるのに、ここだけはまるであちらの世界から切り取ってきたかのように何も変わっていなかった。
 杏は店に入ろうとする俊輔に声をかける。
「ね、ねぇ……やっぱり今日は、他の店にしない?」
「……え?」
 彼は驚きの声をあげる。
「立川さんに聞いて、この店がいいって言ってたのはアンなのに」
「いや、そうなんだけど……」
「なかなか雰囲気良さそうな店だけど?」
「外見に騙されちゃいけない!」
 そもそも、アイツの言うことを真に受けたのが間違いだったのだ。
 あっちの世界では、この店から二人のデートが微妙になっていったのだ。
「そ、それより、あっちの方に学生服で行くと焼きそばおまけしてもらえる鉄板焼きのお店とか――」
「僕たち、学生服じゃないけど?」
 俊輔の腕を引っ張ってその場を後にした。


 本屋で適当に時間を潰していると、突然後ろから声をかけられた。
「よぉ、奈津木!」
 二人で振り返ると、そこには見慣れた知人の顔があった。
「なんだ、マキか」
「こんにちは、真紀子ちゃん」
「こんちわ〜、俊輔くん」
 真紀子とその連れらしい女二人がいた。杏は真紀子としか面識がなかったが、俊輔は後ろの二人とも知り合いらしい。それぞれに挨拶を交わしている。
「こんな何もないところでデートか?」
「マキはこんな何もないところで、女二人とデート?」
「うるさい!」
「両手に花じゃないの」
「これのどこが花なのよ!」
 連れの二人は、小さい真紀子と比べて確かにヅカっぽいので花と言えなくもない。濃いユリの花。
 俊輔達が向こうで話し始めたのを見て、杏は少しため息をついた。基本的に交友関係もあちらと変わりないようだ。三人が談笑しているのを横目に、真紀子が小声で杏に話しかけてきた。
「なんか今日は機嫌悪いね。ひょっとして、お邪魔だった?」
「うんん、そんなことはない……はず、なんだけど」
 最初のミスは回避したので、問題はないはずだった。
 気になったのはちょっとした心境の変化。
 素朴な疑問を口にする。
「ねぇ、マキ」
「何?」
「あの三人って、どういうつながりなの?」
 仲良さげに話す俊輔達を指差す。
「う〜ん、昔のクラスメートとか? あたしは知らないけど」
「むぅ」
「というか、あたしはアンタに紹介されるまで俊輔くんを知らなかったんだけど、アンタらはどこで知り合ったのよ」
「……」
 それは難しい質問だ。
 またこれだけタイプの違うカップルも珍しい。
 黙っていると、真紀子は何かにピンときたようだ。
「はは〜ん、さては奈津木殿、嫉妬ですかな? あたしの知らない彼を知ってるなんて!」
 無言で真紀子の額にチョップを入れた。
「ところで、マキ達もこれからライブなの?」
「何それ?」
「これから麻衣達がライブに出るから、冷やかしに行こうかなって」
 そう話したところで思い出した。向こうの世界でも将也達は徹平達と交流を取っていない。
「最近、あっちの連中とは話してないからねぇ」
「チケット余ってるみたいだし、気が向いたら行ってみれば?」
 ついでに、暇そうにしているのでもう一言かけておく。
「ところで、その麻衣に紹介されたお店っていうのがあったんだけど」
「ほぅほぅ」
「商店街の向こうの『イタリアン・麻里亜』ってお店なんだけど」
「知らな〜い」
 やはり真紀子達も知らないようだ。
「おいしーの?」
「さぁ? 私達はまだ行ってないから」
 とぼけてみる。
 なるほどと頷いたあと、「暇だし行ってみようかな〜」などと呟いて三人は去っていった。
 三人が店から出て行くのを見送って、俊輔が杏に声をかける。
「自分では、行かないんだ……」
「麻衣の紹介だし」
 我ながらヒドイと思った。ご愁傷様。
(それにしても、時間潰しの店を変えたにもかかわらず、またあの三人と遭遇するとは……)
 別に真紀子達に会うのは問題ではない。
 これは一つの実験だった。
(ひょっとして、私らが店に入っていくの見かけて、わざわざ冷やかしに追いかけてきたとか)
 それはそれで考えられる。
 店内を周っていると、ある本が目に留まる。
「『多次元宇宙概論』?」
 手にとってパラパラと眺めている。
 ここに答えが載っているなんて安易なことは考えていない。
「ねぇシュンくん、パラレルワールドってあると思う?」
「パラレルワールド?」
 少し真面目な顔で尋ねた。別の本を眺めていた俊輔は、杏の手に持つ本を見る。
「平行世界、異次元世界か……」
 答えを言う前に、彼は意外なことを言う。
「アンがそんなロマンチックなことを言うとは」
「なっ! ば、ばか!」
 思わぬ不意打ちに顔が赤くなった。
 本を棚に戻して、「もういい」と杏は歩き出す。
 今日はどうも調子がおかしい。朝からなかなか自分のペースがつかめない。きっと男の杏の記憶が混入しているせいだろう、そう気持ちを落ち着かせる。
 遅れて俊輔も歩き出し、杏の隣に並ぶ。
「ごめんごめん、悪かったって」
「笑いながら謝らないで。もういいよ、この話は」
 自分でもガラにないことを聞いたと思う。俊輔はクスクスと笑いながら話を続ける。
「僕は正直、信じてない、かな?」
「そう……」
「信じられないっていうのが正直なところだけど」
 それがある意味、模範解答だ。現代人にそれを信じさせるには、実体験をもって証明するしか方法はない。杏も同じことを答えていただろう、昨日までなら。
 例えば、今自分に起きているこの事態を、正直に俊輔に話そうかとも考えた。
 秘密の共有。二人だけの隠し事を作ってしまえば、それだけで絆は深まる。こんなに心強いことはない。
 信じてもらえるなら。
 もし杏に過去の記憶がないなら、もし全くの別人の肉体へと放りこまれたとしたら、混乱と孤独の窮地に陥った自分は何をするかわからない。今は冷静に装っていられるが、それが決壊したとき、極限にまで追い詰められれば、最後にすがるような思いで誰かにそれを告白するかもしれない。
 しかし、それは非常に困難なこと。
 今日一日が繰り返されているといっても、よほどの重大な出来事を予見しないかぎり、どれだけ気が置けない友人であっても信じてはもらえない。
「でも……」
 俊輔が言葉を続ける。
「でも、未来の可能性ってのは信じたいな」
「未来の可能性?」
「そう、これからの自分には無限の可能性がある、その枝分かれした先の世界がパラレルワールドだっていう理論だよ」
「よくわかんない」
「つまり、ここの世界の僕は、ごく平凡な市民でしかないけど、パラレルワールドの一つでは僕はアイドルかもしれない。別の世界では政治家かもしれない。これが未来の可能性ってこと」
「シュンくんは政治家になりたかったの?」
「いや。僕は政治家にも、アイドルにもなりたくはないけど」
「じゃあ、その時点で可能性は閉ざされてるんじゃ……」
「本人に意思はなくても、何の拍子で運命が転ぶかわからないからね。それも含めた可能性なんだよ」
「……やっぱりよくわからない」
「僕は運命なんて信じてないってことだよ」
「ふ〜ん」
 それがなぜパラレルワールドの話に繋がるのか、杏にはわからなかった。
 ライブハウスに着く前に、近くにコンビニを見つけた。
 無意識に入ろうとして、また思い出した。
 運命なんて信じていない。とはいえ、避けられる運命は避けるに越したことはない。
 俊輔に声はかけずに、今回はコンビニを素通りしてライブハウスへと向かった。
 入り口にたむろっている若者達に引け目を感じているらしい俊輔の手を引いて入り口へと向かう。
 チケットを鞄から取り出し、係員の女に見せる。
「…………あ!」
 最初に驚きの声をあげたのは、その係員の女。
「……ん?」
 係員を見る。その視線は後ろへ、俊輔へと注がれている。
 その女のプレートを見ると、『おくむら』と書かれていた。
 杏は頭を抱えたくなった。
 驚いた俊輔の顔は苦笑いへと変わる。
「久しぶり……だね」
「うん」
 二人の気まずい会話に、思わず俊輔の手を取って逃げ出したくなった。
(てゆーか、これは避けようのないトラップだろ……)
 結局、運命とはそういうものなのかもしれない。


 会場の外、販売ブースの一角に『エンジェルチェイス』の面子を見つけると、中に入るなり杏は怒鳴り声を上げた。
「くぉら、麻衣!」
 販売員、兼バンドのギタリストの胸倉を掴みあげる。
「おお、どしたのアンアン?」
「アンアン言うな! てゆーか、なんだあの店は?!」
「行ったの? おもしろかったでしょう」
「イチゴパスタって何よ!」
「最初はそれ頼むよね〜。一口目はおいしいかなって思うんだけど、後になってこう我慢の限界がくるっていうか」
「やっぱりマズイんじゃないの!」
 アレをマズイと一言ももらさず食べた灯里はやはりすごい。
「ああー! ひょっとして、アンアン行ってないわね!」
「アンアンいってないとか言うな!」
「いきなさいよ! 食べてみないことにはわからないでしょ!」
「食べてきたわよ、別の場所で! 別の口で!」
「別の口ってどこよ? ひょっとして下の口?! そこで味わうのは彼氏のだけに――」
「お前ら黙れ!」
 仲裁に入ったのはバンドのボーカリスト。微妙にエロくなる言い争いに、外野は完全に引いている。それでも止まらない口喧嘩。
 後に二人は正座させられバンドメンバーからこっぴどく叱られることとなる。

 『エンジェルチェイス』は女4人のガールズバンド。ボーカリストの熱意と麻衣の気まぐれにより数年前に発足。そのメンバーのキャラに似合わず、アップテンポな曲よりもバラードのような曲を歌うことの方が多い。
 当初、杏もそのメンバーに誘われたが、自分に音楽は無理と参加を断る。まさかここまで続くとは思ってもみなかったのだが、ボーカルの声量や技量を考えてみると、当然ここからが彼女らの真の実力が問われるところなのだろう。
 人気もそこそこあるようで、販売ブースには入れ代わり立ち代わりお客が交流を求めてやってくる。
「やっぱ、アンもバンドに参加すべきだったのよ」
 そんな客を横目に飯田が話す。
「どうして?」
「アイツのスウィ〜トハニーボイスに、あたしのセクシ〜ナイスバディ、そこにアンタのプリティ〜フェイスが加われば、あたし達のチームに敵はないわ」
 力説する。
「……というか、その力説に自分を入れてるのがすごいな」
 確かに飯田の胸はすごい。エッヘンと胸を張る。
「井上は?」
「井上はメガネ属性だから、需要は他にあるわ。というか、アンタも自分のこと否定してないじゃないのよ」
 赤いフレームのメガネをかけたその井上は、今は俊輔と話している。お客の対応はボーカルに任せっぱなし。
「アンじゃだめよ」
 否定するのは麻衣。
「アンなんて塗りまくってるだけじゃないの。ライブになんて参加したら汗でドロドロになっちゃって、演奏終わる頃にはステージの上に妖怪が一匹――」
「本気で殴っていい?」
 マジで殴ろうかと考えたところを飯田に取り押さえられる。
 麻衣を本気で相手していても疲れるだけ。やり場のない怒りはため息へと変え、いつもの調子を取り戻そうと話を流す。
「てゆーか、麻衣が入ってないぞ」
「麻衣ちゃんはね、麻衣ちゃんを愛してくれる人さえいれば十分なの〜」
「ぶりっこすんな」
 両手を合わせ頬に手をやる麻衣につっこむ。飯田は諦めたように言う。
「コイツは不特定多数じゃなくて、寄ってくる特定の男にしかフェロモン出さないから」
 妙に納得した。
「多数に人気があるわけじゃないのに、コロコロと男替えてるっていうか」
「かえってタチが悪いな」
「コロコロ男替えてるのは、アンも同じだと思うけど」
 麻衣にジト目で言われる。
「アンタほどじゃない」
「そうよ。麻衣と違って、アンは替えたくて替えてるわけじゃないんだから」
「余計なお世話だ!」
 フラれて新しい恋人を探すことの方が多かった。
 麻衣がニヤニヤと話す。
「うかうかしてると、今度は俊輔くんまで離れていっちゃうんじゃないの〜」
「うるさい!」
 言われるまでもなく、すでに危機だ。
 運命の時は着実に近づいている。しかし、解決の糸口はまだ何も見つかっていない。
 今日のデートが失敗だったから杏は灯里にフラれたのではない。それ以外の、もっと別の大きな理由があってフラれたのだ。もしくは、何かのことが積み重なって灯里の心が離れていったのだ。今日はそのきっかけにすぎない。
 この後、例の公園に行かず、プランを変更してどこかへ行けば、杏は今日フラれることはないかもしれない。しかし、それはただ単に問題を先延ばしにするだけだ。
「今日のアンって、ちょっと機嫌悪い?」
 飯田の言葉にギクリとする。
 自分では自覚していなかった。真紀子にも言われた。自分のペースが保てないのは、感情の起伏が激しく感じるのは、きっと杏がずっとイライラしているせい。
 言われて初めて自覚する。
(……私、焦ってる?)
「アンがイライラしてるのは、井上に嫉妬してるからでしょ」
 井上はまだ俊輔と談笑している。
「と言いながら、麻衣も機嫌悪いのな……」
「麻衣が機嫌悪いのは、私が差し入れ持ってこなかったからでしょ」
「わかってるなら、買ってきなさいよ〜!」
「涙目になるな。そんなにほしかったのかよ」
 そこまで求められていたのなら、差し入れのし甲斐があるというもの。
「アン、気づいてて買ってこないのは鬼畜だと思う」
「そうだそうだ!」
 飯田の言葉に麻衣が同意。ふと気がつくと、飯田が敵にまわっている。
「そ、それどころじゃなかったのよ!」
 慌てて言い訳する。
「来る前にコンビニ寄ろうかなって思ったんだけど、コンビニにはシュンくんの元カノがいるから行ってはいけないっていうオラクルを聞いて――」
「やっぱり、今日のアンって変」
 麻衣と飯田は頷いている。ちょっと泣きたくなった。
「ともかく、元カノとの遭遇は回避できたわけなんでしょ?」
「……と思ったら、その元カノはここの入り口でチケットもぎりしてた……」
「……」
「それでアンの機嫌が悪いのか」
 二人の哀れみの視線が痛かった。
「でもさ、俊輔くんって誠実だし、そのあたりのけじめはしっかりしてるから、元カノと会ったからって」
「むしろ万人に優しいタイプだから、笑顔であいさつしてた……」
 それは救いようがないなと、二人は思った。
「でもさ、ここまで嫉妬してるアンは珍しいっていうか」
「だよね〜」
「……」
 自分でもそう思う。
 それは、このあとフラれることを知っているから。不安と焦りが、杏の心を大きく揺さぶっている。俊輔が笑顔を向ける全ての女に嫉妬している自分を、今初めて知った。真紀子と一緒にいた女達、元カノ、そして今は井上に。それはきっと、男の杏も感じていたもの。小さな棘でチクチクと痛みを感じている。
 それでもポーカーフェイスを演じようとしている自分が、すごく嫌だった。
「まぁまぁ、そんな時はエネルギーを充電と行きましょうぜ!」
 麻衣にグイッと肩を組まれる。
「アン、そろそろ時間よ」
 麻衣に言われて、慌てて時計を確認した。
「飯田、俊輔くんのことは任せた。俊輔くーん、ちょっと彼女借りるね〜!」
 何を任せたのだろうか。
 飯田と、そのあと俊輔に声をかけたあと、麻衣は杏を引きずってブースの外へと出て行く。
「アンアン、リストバンドは持ってきた?」
「オッケー! マイマイ、鉢巻は?」
 グッとサムズアップ。
「行くぞ、アンアン! 我らの明日のために!」
「おー!」
 拳を握り締め、二人はライブ会場へと向かう。
「あの二人、どこ行くの?」
 俊輔が飯田に聞く。
「『プリ→ン』っていうバンドのおっかけ」
 こっちの杏達はさらに熱狂的だった。


 左手には鞄を持ち、右手にはもらったエンジェルチェイスのグッズ等の入った袋をぶらさげ、鼻歌交じりに杏は歩く。その時の心境がどうであれ、ライブの後の、祭りの後の余韻に浸るのはとても心地よいもの。
「シュンくんは、ライブ初めてだったんでしょ? どうだった?」
 少し後ろを彼女のペースに合わせてゆっくりと歩く俊輔に、杏は振り返って尋ねた。
「疲れた……っていうのが、正直な感想」
「あはは、そうだね」
「でも、心地よい疲れだよ」
 俊輔は杏の隣へと並び、二人は揃って歩き出す。
「皆、カッコよかったね」
「……」
「歌も上手いし、固定のファンがついてるって感じだった。きっと、もっと有名になっていくと思うよ」
 俊輔の批評に、杏は笑みを浮かべたまま。
 友達のことが褒められ、我が事のように嬉しいと感じる反面、それが素直に喜べない自分を感じていた。
「どうして……」
「……え?」
「どうして、アンは一緒にバンドをやらなかったんだ?」
 顔を上げると、少し背の高い俊輔がこちらを覗き込むようにして微笑みを浮かべていた。
 そんな心中を見透かされるような気がして、スッと視線をそらした。定まらない目的地を見つけるように、道の向こうを見続けた。
「たいした理由じゃないよ」
 それは人が考えている理由とは、杏を知る人が考えていることとは少し違うのかもしれない。
「私、目立つのが苦手なの」
 いつも騒ぎの中心にいる麻衣達に比べ、杏は少し控えめな性格をしている。お祭り騒ぎは好きなのだが、夢中にはなれない一歩引いた冷静な自分が必ずどこかにいる。妙なプライドが情熱的な自分を押さえ込んでいる。
 いつか麻衣に言われたことがある。
「アンってさ、一匹狼な性格してるよね」
 でもそれは、そう上辺を繕っているだけにすぎない。
「そうかな? アンって、そういうの好きそうなんだけど」
「うん、みんなそう言う。いつも麻衣達と一緒にいるから、そう見られてるだけかもしれないけど」
「いろいろ服装や髪型のファッションも気にしてるけど」
「そういうのは好きだし、少しくらいは見られたいっていう思いもある。でも、舞台の上に立つとか、そういうのになるともうダメ」
 自分が舞台の上に立つことすら想像できない。
「麻衣達みたいにステージの上で飛びまわるなんて考えられないよ」
「それは僕も同じかな」
 俊輔も頷く。
「あそこまで人前で騒げるなら、人生の見方が変わってくるよ」
 その彼の言葉に、杏は思わず笑ってしまった。
 暖かい初夏の夕日に紛れ、時折流れてくる涼しい風は、夜を運ぶとともに杏の心に静かな感情を送る。宙に浮いているような、僅かに熱のこもった彼女の心には、それをまるで他人事のように感じる空虚な思いがあった。
 もう焦りは感じていなかった。
 二人は最初に待ち合わせをした公園に辿り着いた。特に目的があったわけでもない、二人で示し合わせて足を向けたのでもない。まるで運命に導かれるように。そして、それに抗うこともなく。
「……シュンくんは、私のどこが好きになったの?」
 突然の言葉に、俊輔は驚いたようにこちらを見る。
 そう口を開かせたのは、ただの好奇心。少しイジワルかなとも思った。
 しかし、その瞬間に気づく。
(私、灯里と同じこと聞いてる……)
 あの時、なぜ灯里があんなことを言ったのか分からなかった。今なら少しだけ理解できるような気がした。
「そうだな……」
 杏のようにすぐに答えることはなく、じっくりと考えるようにして話す。
「最初は明るくて可愛い子だなって思ったよ。その分、僕は戸惑うことも多かったけど」
 俊輔は微笑む。
「でも、付き合っていくうちに、それだけじゃないんだって気づいたよ。冷静っていうか、しっかりした芯の部分を持っててすごいなって思った」
「麻衣には、冷めたやつとか、空気読めないやつとしか言われてない」
「あはは」
 彼はまた笑う。見ていられなくて、思わず足を止めた。
 立ち止まった杏に気づいて、俊輔は振り返った。
 はたして今の自分はどんな表情をしているのだろうか。彼はそれに気づいているのかいないのか。今度は彼の方から聞いてくる。
「アンは、僕のどこが気に入ったんだ?」
 杏は静かに答えた。
「私はね、シュンくんのその優しい笑顔が好きだった」
 あの笑顔を向けられたいと思った。それをただ自分だけに向けていてほしかった。
 でも……。
 結局、彼女は気づいてしまった。
「でも、やっぱりその笑顔は、私に向けられるものじゃなかった」
 言葉の意味を理解できず、彼は表情を戸惑わせる。
 ひょっとすると、こちらの世界の俊輔はまだそれに気づいていなかったのかもしれない。灯里ほど敏感ではなく、そしてこれほど優しい彼だから。
 それでも、そんな彼を引き止めるほどの執着も嫉妬も彼女にはなかった。彼の心が離れていくのも時間の問題なのかもしれない。
 今、彼女を突き動かすのは、醜いプライドだけだったのかもしれない。
 男の杏ではわからなかったに違いない。彼女だからこそ気がついた。最初は小さな疑惑のような火種、それは今日一日で確信へと変わった。きっと女の杏はうすうす感づいていたのだろう。
「シュンくん。私達、別れよう」
「え……」
 俊輔は驚きに目を丸くする。
 戸惑いの表情を浮かべる彼を見て、杏はますます冷静になっていく自分を感じていた。
 そして、少しだけイジワルをしたくなった。
「シュンくんって、他に好きな人いるでしょ?」
 ずっと見ていれば分かる。
 誰を、とは言わない。それは久しぶりに会った友人に向ける笑顔でもなく、予期せぬ出会いに戸惑う笑顔でもなく、杏を見る笑顔に近くて微妙に異なるもの、彼女が本当にほしかったもの。
 その複雑な彼の表情を見て、杏は少しだけ笑った。


 後悔はしていないが、わずかな不安が頭の隅をよぎる。
(結局、何も変わってない……)
 あの日あの時間、あの景色、遠くに聞こえる子供達の声に、杏の心を少しだけ揺さぶる心地よい風。何一つも変わらない。
 全ては整った。
 杏は腕時計をチラリと確認する。
 正確な時刻までは覚えていない。あの時の杏はフラれたショックからかなり動揺していた。灯里と別れた後真っ直ぐにここへ来たわけではないが、特に寄り道もしていない。感覚的には、時間はほぼ同じだと考えた。
 後は流れに身を任せるだけ。
 しかし……。
(ホントに、戻れるのか……?)
 その疑惑が、落ちることを躊躇させる。その戸惑いが一番の不安だった。
 このまま、例え一分一秒の時間まで正確にあの場所へ行ったとしても、落ちることができないのでないか。意識しているかいないかで、些細な行動は大きく変わってくる。
 別に落ちなくてもいいじゃないかという、弱気な思いがあるのも事実。意識としては間違いなく男なのだが、女としての記憶も全て存在するためこのままの生活に支障があるわけではない。
 そんな思いもあって、そこへ向かう彼女の足取りは重かった。
 ケイタイ電話や貴重品は鞄の中へ詰め込む。まさか、鞄まで落とさないだろうと希望的観測で不安に蓋をした。
(確か、このあたりだったよな……)
 日が沈み、外灯もない薄暗い池の畔は、まるで壊れた柵なんて一つもないように錯覚させる。下見は行ったが、明確な印はあえて何も残していない。
 数人の子供達とすれ違う。
 あの時も、同じように子供達とすれ違った。その後、別の女の人を避けようとして柵に手をかけたのだ。
 だが、最後の子供が通り過ぎようとした時。
「……あ」
 子供が杏の鞄にぶつかった。
 杏の右手に持つ小さな鞄。男の杏は持っていなかったもの。その鞄の持つ小さな重力に誘われて体は池の方へと傾く。
 思わず左手で柵を持つ。
 柵が傾いた。
(……うそ!)
 覚悟はしていたはずだった。それでも、反射的に頭は、心は、体は落ちたくないと身を強張らせる。
 そして……。
 夕闇の静かな公園に、水しぶきのあがる大きな音が鳴り響いた。

 杏は目を閉じていた。
 ヒヤリとした感触に背筋が凍る。しかし、それは水の冷たさではなく、驚きから冷めた時の冷や汗のそれだった。
 身構えた衝撃はなかった。暖かな腕が彼女の華奢な体を包み込む。
 杏は落ちていなかった。
「……ふぅ」
 大きなため息が耳元で聞こえた。自分のではない。自分はまだ、ため息をつくほど落ち着いてはいない。ドキドキという大きな心臓の音に、身体はまだ冷たく強張らせている。
 落ちたのは池の柵だけ。その水しぶきからかばうように、杏は男の人に抱かれている。
「危なかったな」
 腰が抜けたように杏はその場に座り込んでしまった。
「……え?」
 杏は自分の体を見下ろした。小さな手、細い足に小柄な靴、彼のためにした精一杯のオシャレな服、右手には可愛らしい小さな鞄。
(……戻って、ない?)
 ふと前を見ると、小さな男の子が一人こちらを心配するように見つめていた。
「お姉さん、ごめんなさい。だいじょうぶ?」
 男の子を見つめて呆然と頷いた。
 その子は杏から離れると、もう一度心配するようにこちらを振り返った後、慌てて前を行く友達を追いかけていった。
 傍にいた人の気配は、落ちてしまった柵の方へと移動する。
「まさか柵が壊れてるなんてな」
 しっかり管理しとけよなと、落ちていない柵の方とを見比べながら呟く。
 杏の記憶にあるのはすれ違う女性の姿なのに、ここには男性が一人いるだけだった。おそらく、あの女性のこちらの世界での姿なのだろう。
 だが、それが決定的な違いをもたらした。
(助け、られた……)
 落ちかけたのが彼ではなく彼女だったから。それに気づいたのが彼女ではなく彼だったから。女が男を助けることは難しくても、体の大きな彼が華奢な彼女を助けることは容易い。
 再び彼がこちらに目を向けると、少し戸惑うような声をもらした。
「本当に、大丈夫なのか……?」
「え……」
 真剣に心配するような彼の表情に、杏は少し驚いた。
 頬に手をあてる。
「え……あ、あれ?」
 彼女は泣いていた。
 涙が止まらなかった。
 泣いているつもりなんてなかったのに。何が悲しいのかもわからないのに。杏の心とは裏腹に、体は落ちなかったことへの安堵に力が抜けていた。
 彼女を覗き込む彼と目が合った。
 その彼の何気ない優しさが、心配するような暖かい表情が、かえって杏の悲しみを助長する。
 感情の洪水がとまらなかった。
 それは戻れなかったことに対する悲しみなのか、落ちなかったことへの安堵によるものなのか。恋人と別れたことからくる寂しさだったのか。
 戸惑う彼は、理由も分からず居心地悪そうに視線を泳がせているが、このまま放っておくわけにもいかずただジッと彼女の傍に寄り添う。その他人の温もりが、杏には何より嬉しくて、寂しくて、悲しかった。
 こんなに泣くのは何年ぶりだろう。感情が制御できないのは、きっと慣れない女の体の中にいるせいだ。そう言い訳のように考えた。
 夕暮れの薄闇の中で、彼女は静かに泣き続けた。