戻る



 机の奥から、初恋を見つけた。
 思わず手が止まる。
 辺りが突然静かになったような気がした。窓から入る朝日が眩しく感じる。気にもしなかった時計の音が、コチコチと大げさに時を刻み、外からは車の通り過ぎる音が聞こえてくる。
 息を呑んだ。右手に取った鉛筆を置き、その手を伸ばす。
 呼吸を止めていたせいかもしれない。手を触れた瞬間に、それは確かな暖かさと共に、彼の全身にトクトクと血を巡らせた。
「懐かしいな……」
 大仰なその紺色のケースは、昔母にもらったもの。子供ながらにそれを大切に扱っているのを見て、冗談めかしてそのケースを二人にくれた。
 小さな指輪ケースの中には、淡い思い出が詰まっていた。
 指輪を手に取る。昔は重いと感じたリングも、こんなものかと素っ気ない手ごたえ。普段つけているシルバーリングの方がズシリと重い。右手中指に合わせてみると、昔は親指でもスカスカだったのに、今では第一関節でギリギリだった。
 右手を上にかざす。それは数年ぶりの光を佩びて、嬉しそうに輝いてみせた。小さなハート型の刻まれた銀のリング。本物の銀ではないのだろうけど、それは純銀のように暖かな輝きを放っていた。

「キョウくん! ご飯できてるわよ!」
 階下から母の声が聞こえてくる。今日は休日だというのに、その母の声はいつものように忙しない。今日も仕事なのだろうか。慌てて返事をする。
「今行くよ!」
 そして、右手中指に左手をかけて……。
「……あれ?」
 痛くならない程度に、力を込めて指を引く。
 血の気が引いた。
 ギクリと嫌な予感に背筋が凍る。
 数年の月日は、彼を想像以上に成長させていたらしい。自分ではあまり意識がないものの、身長はおよそ三十センチも伸びている。体重も二十キロは増えた。
「ぬ、抜けない……」

 そして、奈津木杏の長い一日が始まる。




 アプリコットドロップス 

   水無月




   〜前編〜

 二階の杏の部屋から下りて一階のキッチンへ向うと、いつものように父が皿洗いをしていた。
「おはよ」
「ああ、おはよう。キョウは急がなくていいのか?」
 父も母も、すでに朝食は食べ終えたらしい。食卓の上には杏の分の朝食だけが残されている。誰も見ていないつきっぱなしのテレビからは、スポーツニュースが流れていた。
「うん。出かけるのは、昼でいいから」
 そう答え、「いただきます」と小さく言って杏も朝食を片付け始めた。
 ここ奈津木家では、朝の出かける時間に順番があった。
 最初に家を出るのは母、明子。明子は慌てた様子でキッチンに顔を覗かせた。
「じゃあ、あたし行くわね。パパ、今日は資源ゴミだけ出してきてね!」
「ああ、わかったよ」
「いってきまーす!」
 その明子に、杏はテレビを向いたまま無言で手を振った。テレビ番組は朝の芸能ニュースへと変わっている。口にご飯を入れていたので喋れなかった。
 明子は少し離れた街へと通う会社員。バスで通勤する彼女は、この時間の便でないと間に合わない。洗い物とゴミ出しを家族へと託して、先に家を出る。休日でも出勤することも多く、休みは不規則になりがち。奈津木家の一番の働き者。
 次に家を出るのは父、雄治。
「キョウ、僕も出るから。洗い物は水につけておいてくれればいいからね」
「……ん」
 味噌汁を口に含みつつ、箸を持った手で了解と合図を送る。ついでにいってらっしゃいの合図も送る。
「いってきます」
 鞄とゴミ袋を両手に持って、明子より幾分のんびりとした様子で雄治は家を後にする。彼は近所の役所に勤める公務員。さほどの大きさもない町役場で、彼は歩いて通勤する。この為、家を出るのも明子より遅く、また彼は化粧の必要もないため、朝の家事全般は雄治が担当する。夕食の準備も彼が行うことが多い。息子としては「尻にしかれてるなぁ」と思うのだが、彼自身は至って気にしていないようだ。
 今日は休日、おそらく彼はその足でゴルフへと向かうのだろう。休みごとに役場の同僚らとクラブへ向かっているのを杏は知っている。
 朝食を終えた杏は、汚れた食器を水につけると冷蔵庫から牛乳を取り出してコップ一杯だけ飲んだ。平日だと食器もそのままに慌てて学校へと向かう。でも今日は休日。こんな日くらい、自分の使ったものはしっかりと洗っておきたい。
「今日は夕食いらない予定だし」
 洗い物をしながら、テレビの音に耳を傾ける。
『今週の週末占い! 一位は山羊座、金運恋愛運ともに星5つ、朝からいいことが起こりそうな予感――』
 ふと手を止めて、杏は右手中指を見た。
「……ま、そんなもんだよな」
 占い師の戯言は聞き流し、さっさと洗い物を片付ける。
 ついでに、洗剤を泡立てて指につけたが、それでも指輪は外れなかった。

 呪いの指輪はひとまず置いて。
 自室に戻った杏はパジャマを脱いで、パンツ一枚でタンスを前に腕を組む。
「さて、今日はどうすっかな……」
 いつもであれば、思い悩む間もなく適当に選んで服を着る。いや、適当といっても、それなりに自分のポリシーは貫いているつもり。
 洋服ダンスの扉を開け、備え付けの鏡に目を向けると男の裸体が目に映る。
 思わず腕立て伏せを始めてしまうのは男の性というもの。
(シャワー、浴びる……かな…………)
 髪をセットすることを考えてもシャワーを浴びる方が良いだろう。湿らせた髪にワックスとドライヤーでバッチリ決まる。
 三ヶ月も前なら、間違いなく全身隈なく、足の指の間まで綺麗に洗ってから出かけていただろう。
 これが、今のアイツとの距離。
 腕立て伏せは三桁を前に力尽きる。シャワーは面倒なのでやめた。
 息を整え、運動中に決めた服をタンスから取り出す。服を着て、ジャラジャラとゴツイベルトで腰を締め付け、もう一度鏡を覗く。鏡が小さいので、顔を見るときは中腰になってしまう。
「でかい鏡がほしいなぁ」
 友人の誰かが、部屋の隅に腐らせているのがあるだろう。類友と言うべきか、杏の友人には割と派手な性格の者が多い。お洒落を気にして等身大サイズの鏡を持っているやつがいる。しかし、そんな鏡が必要になるほどの素材もセンスも持ち合わせていない者が多いというのは禁句である。
 頼めば誰かくれるかもしれない。わざわざ自分で買う気もないので適当に考えておく。
 小さな鏡には、めんどくさそうにしている自分の顔が映っていた。今日の相手にこの表情は見せられないだろう。両頬をパンと叩いて気を引き締める。髭は大丈夫、ニキビもない。日々のトリートメントのおかげである。
 髪を染めたいと思う。
「赤とか……」
 それは父が泣くだろうか。友人達は笑うだろうが、アイツは間違いなく引く。
 ワックスを手に取り、ベタベタと手のひらに広げ髪に馴染ませる。母似のこの髪は多少クセのある髪なので、ドライヤーを使わなくてもそれだけで十分に動きをつけられる。個人的な好みとしては、父の直毛の方がワックスで立てるとカッコイイのだが。
 洗面所ではなく、部屋で髪をセットするのは、洗面所に整髪料を置いておくと父に勝手に使われるからだ。
(中年親父が、ガキと同じのを使うなって)
 このワックスも中年の七三を固めるために使われるとは思いもしなかったことだろう。
 髪のセットがきまると、財布、携帯電話ともう一つの箱をポケットにつっこみ、リンゴのウォークマンを首にかけて準備完了。休日は手ぶらが基本スタイル。今日は余計なアクセサリーも身につけない。ごちゃごちゃと細かい荷物をつっこんだバッグを持ち運ぶのは女の仕事、帰りの手荷物が男の仕事。
「そして、後はこの指輪か……」


 指輪が外れなくなったのは笑い話であるが、笑えない事情がある。
「その指、どうしたの?」
 杏の指に巻かれた包帯に気づいて、彼女は心配そうに尋ねた。
「久しぶりにバスケして脱臼した」
「大丈夫?」
「……俺の食事が大丈夫じゃないかも?」
 この指では、箸を持つのは辛そうだ。
「誰かに食べさせてもらえたらなぁ〜」
 少し甘えた声で言ってみると、彼女の目が点になった。
「今日行くのは、イタリアンだよね?」
「……ちっ」
「こらそこ、舌打ちしない」
 クスクスと笑った彼女を見て、杏も軽く笑う。
 そして、包帯のしていない左手を彼女に差し出した。
「それじゃ行こうか、灯里」
「うん……」
 杏は灯里の手を取り、二人は並んで歩き始めた。
 初夏の風が漂い始めたこの季節、幸運にも天気にも恵まれ、日曜日の午後は絶好のデート日和となった。待ち合わせとなったのは大きな池のある公園、人影はまばらで、小さな子供を連れた家族も何組かいるようだ。スーツ姿の人が見られるのは、ここがオフィス街の近くにあるからだろうか。
「あれ?」
 彼女の横顔を見て気づいた。
「灯里、髪型変えた?」
「あ、やっぱり分かっちゃうんだ」
「……」
 思わず沈黙した。
 それでいて、彼女はまたクスクスと笑っている。
(なんだろう、この微妙な返答は……)
 お約束の言葉をかけるのが引ける。
「……それはなんだ? セミロングの後ろ髪じゃなくて、女友達でもなかなか気づいてくれないような前髪少しいじったくらいの変化にも気づく、まるで小姑のような男は――」
「違うよ。素直に感心してるだけ」
 ニコニコとしている彼女に返す言葉もない。
「……」
「で、それだけなの?」
「……」
「何か言うことは?」
 言おうか言わないか。結局、根負けしたのは杏。
「……似合ってるよ」
「ありがと」
 ここで違うセリフを言える勇気のあるやつはいないと思う。
 灯里の黒髪は日の光を受けて、まるで美しい絹糸のように艶やかに輝く。その髪同様に、彼女の少し地味な色合いの服が、彼女の心をそのままに表現しているように感じる。
「キョウくんって、そういうセンスあるよね?」
「そういうセンスって?」
「髪型とか、服装とか。キョウくんは、美容師とかスタイリストが似合いそうだよね」
「今さら専門学校、行けってか?」
「そうかもしれないけど。でも、よく街でも声かけられるでしょ。雑誌の素人モデルになってくれとかって」
 笑顔で言う灯里に杏は苦笑いで答える。
「それは違うって。たまたま二人でいる時にかけられるだけだ。それは俺じゃなくて、灯里が人の目を惹きつけてるんだよ」
「そんなことないよ。私一人の時は、声かけられたことなんてないもん」
 灯里の握る手に少し力が入るのを杏は感じた。
 強く言い返すこともできず、二人の間には沈黙が生まれる。
 ちらりと見る灯里の横顔は、不機嫌というわけではない。前を見ながら、ただ事実を語るように静かに呟いた。
「キョウくんって、少しナル入ってるよね」
 何も言わずに、空いている手で灯里の額にチョップした。
「あいた!」
「おい、誰がナルシストだって?!」
 可愛らしく額を擦りながら、口を尖らせて灯里は言う。
「自覚ないの?」
「こら! 俺のどこがナルだ!?」
「よく髪の毛触るとことか、鏡やガラスで必ず自分をチェックしてるとことか」
「……」
 それは否定できなかった。
「皆よく言ってるよ? 今まで言われたことない?」
 何度も言われたことがある。その度に過剰になるくらい反応してきて、最近ではもう諦めてしまっている。
 灯里にまでそう見られていたことがショックだ。
「……いや、でも、間違いなく俺はナルシストなんかじゃない」
 人になんと言われようが、自分のことは自分が一番理解している。
「むしろ、俺はその対極に位置する人間だよ」
「……?」
 意味が分からないとでもいうように、灯里は小首を傾げていた。

 駅前まで来ると人影も多くなり、自分達以外のカップルも目につくようになってきた。ここもそれなりに栄えた繁華街であるとはいえ、これといったデートスポットがあるわけでもなく、また電車を乗り継げばすぐ近くにもう一つ大きな街があるため、若い人達はそちらへ向かうことが多い。
「それで、そのお店はどこにあるの?」
 お昼をやや過ぎた時間であるとはいえ、休日のピーク時であることに変わりはない。大きな隣街へ人が流れるとはいっても、この時間はどこも人でいっぱいだった。通り過ぎる店によっては外にまで行列が続いている。
「さすがに、行列にまでは並びたくないんだけどな」
 夏が近いこの季節、日差しもきつく、少し歩いただけで汗がにじみ始める。
「店はこの通りを越えた商店街の端っこにあるってさ」
「名前は?」
「確か『イタリアン・麻里亜』だったかな?」
「そんなところに、そんなお店があったんだ」
「ああ、俺も徹平に聞くまで全然知らなかったんだけど」
 通りを越え、街の繁華街を抜けた所にある小さな商店街は、駅周辺の開発に伴い客が遠のき、今では寂れかけた場所だった。
「徹平くんに聞いたの?」
「灯里は徹平のこと知ってるのか?」
「うん、今日この後行くライブに出る人でしょ。話したことはないけど、何回か顔合わせたことある」
「この辺りで、どっかいい店ないかって聞いたら、そこがいいって言ってたんだけど。あんまり期待しない方がいいかも」
「なんでもいいよ。私、この辺りのお店って来たことないから」
「そんなにいい店ないって。学生向けの安い洋食屋とか、学生服で行くとチャーハンおまけしてもらえるラーメン屋くらいで……と、この店かな?」
 商店街の入り口、信号を通り過ぎたところにその店はあった。
 外観はなかなか良かった。どことなくイタリアを思わせる落ち着いた色のレンガの壁に、店の中まで見渡せる大きな窓、赤白緑のお馴染みの色は無く、こじんまりとした小さな看板とたたずまい。気軽に入れそうな外観のわりに、中の人影は少なかった。
「空いてるね」
「まぁ、混雑してて外に並ぶよりはましさ。とにかく入ろう」
 扉についた小さなベルを鳴らして店内へと入る。エアコンの効いたひんやりとした空気が気持ちいい。奥から地味なエプロンをつけた店員がやってくる。
「いらっしゃいませ。二名様ですね。喫煙席と禁煙席がございますが?」
「あ〜っと、喫煙せ――」
「禁煙席をお願いします」
 灯里にセリフをかぶせられる。
「……」
 店員はチラリとこちらの様子をうかがった後、「お席へご案内します」と言って、二人を奥の窓際の席へと案内した。もちろんそのテーブルに灰皿はなかった。店員の賢明な判断である。
「何にする?」
 灯里がメニューをテーブルの上に広げ、杏は覗き込むようにメニューの小さな字を見る。店の奥の厨房からはおいしそうな香りと食欲を誘う心地よい音が聞こえてくる。周りを見渡しても、すぐ近くのテーブルにお客がいないため、どのような料理なのか様子を伺うことはできなかった。
「種類、多いね。迷っちゃう」
「……おい」
「これとか、おもしろそうだね」
「……ていうか、このオススメとか、なんだ?!」
 目に付くのは一番上に大きく書かれたオススメメニュー、その枠の中に書かれたイチゴの文字。
「イチゴパスタって何だ!」
「おいしそうだね」
「いや……」
 他にもメニューにはバナナや新発売抹茶金時の名前が並ぶ。
 結局、灯里は果敢にもイチゴを、杏は無難にぺペロンチーノを注文した。
「……やっぱ徹平に聞いたのは間違いだった」
「あはは。まだ食べてみなくちゃ分からないよ」
 灯里は楽しんでいるようだが、店を紹介した彼氏としては心中複雑なところ。
「ところで、今日のその徹平くん達のライブは何時からなの?」
「あ、ああ、ライブは午後から、そろそろ始まってる頃だけど、徹平達の出番はもう少し後だな」
「何組もいるの?」
「ああ、対バンだってさ。確か十何組も出るらしい。とりあえずの目的はあいつらだけだから、もう少し時間を潰してからでも大丈夫だ」
「私、ライブって行くの初めて」
「靴はしっかりしたのはいてきたか?」
「大丈夫、今日はスニーカー」
「サンダルとかだと危険だからな。まぁ、今日は単独のライブじゃないし、最前まで近づかなければ大丈夫だと思うけど」
「キョウくんは、よくライブとか見に行くの?」
「たまにね。ホントは、もっと有名なバンドのライブに行きたかったんだけど。今日は付き合いみたいなもんだしな」
 徹平達にチケットをさばいてくれと頼まれたのだが、余ったので杏達も来ることになった。何組も参加する対バンなので客が少ないということはない。知人を誘う招待券が少し余ったのだ。
「灯里は、バンドのメンバーと面識あるのか?」
「ボーカルの子は知ってるよ、いつも徹平くんと一緒にいる子でしょ。あと、井上くんも知ってる」
「あれ? 井上知ってるのか?」
「うん、前に同じクラスになったことある。井上くん、音楽できたんだ」
「あいつはベースだったかな?」
「キョウくんは、バンドに入らなかったんだね」
「……ん?」
 灯里の問いに、おしぼりで手をふいていた杏は顔を上げる。確かにバンドのメンバーはいつも杏がつるんでいる連中なので、そこに杏の名前がないことが不思議なようだ。同じ質問をしてきた友人もいる。
「まぁ、ね……。俺にバンドなんて無理だし」
「そうかな? 歌だって上手いよ。キョウくんって器用だから、練習すれば楽器も大丈夫だと思うけど」
「それは褒め過ぎ。俺が入ったって、足引っ張るだけだよ」
「誘われなかったの?」
「いや……最初に誘われたけど」
「入らなかったんだ」
「そう」
「なんか、もったいないね」
 残念そうに話す灯里。
 しばらくして、二人の前に料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。こちら、イチゴパスタとペペロンチーノになります」
 二人の前にお皿が並べられる。
「それでは失礼します」
 店員は杏の横にさり気なく伝票を置くと、笑顔を崩さぬまま奥へと戻っていった。
「……」
「……」
 料理を前に、二人の目は点になった。
 思わず黙って目を合わせる。
「……」
「……」
「……と、とりあえず、食べてみないことには……」
「そ、そだね……」
 二人は恐る恐る、ゆっくりとフォークでパスタを巻き始めた。


 CDショップで適当に時間を潰していると、突然後ろから声をかけられた。
「よう、奈津木!」
 二人で振り返ると、そこには見慣れた知人の顔があった。
「なんだ、マサか」
「こんにちわ、将也くん」
「おう、こんちわ、灯里ちゃん」
 将也とその連れらしい男二人がいた。杏は将也としか面識がなかったが、灯里は後ろの二人とも知り合いらしい。それぞれに挨拶を交わしている。
「こんな何もないところでデートか?」
「マサはこんな何もないところで、男二人とデートか?」
「うるせーやい!」
「両手に花じゃないか」
「どこが花だ!」
 連れの二人は、将也と比べて確かに美形なので花と言えなくもない。濃いバラの花。
 つっかかってきたのは将也の方なのに、彼の方が杏に遊ばれている。灯里や他の二人も笑っている。
 灯里達が向こうで話し始めた隙に、将也が小声で杏に話しかけてくる。
「なんか今日は機嫌悪いな。お邪魔だったか?」
「いや、機嫌悪いには違いないが……正直、助かった。礼を言う」
「……?」
 意味が分からないと彼は首を傾げる。
 麻里亜を出てから、灯里との間の空気が気まずくなっていた。将也達と話すことで、固かった空気が少し和らげられたような気がする。
「ところで、マサ達もこれからライブなのか?」
 三人に向かって杏が聞くと、彼らは顔を見合わせ「何それ?」と聞き返す。
「これから徹平くん達がライブなんだって」
「俺達はこれから行くんだが……何も聞いてないのか?」
 灯里と杏の言葉に、三人は知らないと首をふる。
「俺らはホントに暇潰してただけだよ。最近、あっちの連中とは連絡とってないからなぁ」
「暇ならライブに行ってみれば? チケット余ってたみたいだから、徹平達に聞けば安く入れるかもしれないぞ」
「そうだなぁ〜……」
 気のない返事をする。
「ま、気が向いたら行ってみるよ」
 そう言って、将也達は去っていった。
 三人が店から出て行くのを見送って、杏が灯里に声をかける。
「灯里って、意外に交友範囲広いのな」
「そう?」
 ライブの時間にはまだ早いので、もう少し店内を見て周ることになった。
「キョウくん、ライブに出る他のバンドは見なくていいの?」
「う〜ん、そんなに興味あるバンドが出るわけじゃないしな。それに、灯里だって見てもつまんないだろ?」
「そんなことないよ」
「そこそこ有名なバンドは出てるみたいだけどな」
「例えば?」
「灯里はほとんど知らないと思うよ。全部インディーズバンドだしな」
 話しながら、店内のJPOPインディーズコーナーの前に立つ。いくつかあるCDの中から、下に平積みにされた新譜のCDを一枚手に取る。
「例えばこの『スカルチョコレート』っていうバンド」
「……わかんない」
「最近出てきた、この地元のバンドだよ。駅前でストリートライブやってたりもしたんだよ、何度か聞きに行ったことがある。やっとCDが出たんだなぁ」
「ふ〜ん……」
「ま、まぁ……もっと有名なところで言えば、この『プリ→ン』っていうバンド」
「それは知ってるよ。いつもキョウくんがカラオケで歌うバンドでしょ?」
「そう! こいつらはいいよ。前に俺が地方ライブまで追っかけて行ったら、そのライブでボーカルがテンション上がりすぎてステージから落下して骨折したっていう――」
「キョウくん、その話は何度も聞いたよ」
 灯里の視線が少し冷たい。
「……と、とりあえず、そんなとこかな。あとのは、俺も知らないバンドばっかだったし」
「徹平くん達のバンドは、何ていう名前なの?」
「『エンジェルチェイス』っていう名前。理由は知らんけど」
「ふ〜ん」
 と、灯里の視線を追いかける。
「言っておくけど、やつらはまだCD出してないぞ」
「えっ!? あ、あれ、そーなの?」
 陳列棚のタ行を追いかけていた視線が宙をさまよう。
「自費製作や、委託販売にもそれなりに費用がかかるのさ。聞きたいなら、ライブの後にグッズ販売ブースに行けばデモCDが買えるから、募金してやれ」
 結局、散々冷やかした後、何も買わずに二人は店を後にする。
 ここからライブハウスは目と鼻の先。繁華街の隅にその小さなライブハウスはあった。入り口には何組もの若者がたむろっている。すでに目的のバンドの演奏を見終わった客達だろうか。出待ちのファンはおそらく裏に回っている。ライブハウスの中は禁煙なので、外で休憩をしている者が多いようだ。
「灯里、いいか? ちょっと寄り道」
「うん、いいよ」
 ライブハウス手前のコンビニに立ち寄る。
「トイレ?」
「違う」
 コンビニに入ってトイレに直行、というわけではなく、カゴを取って店内の奥へ。
「てゆーか、ライブハウスのトイレは込むから、今の内に行った方がいいのは確かだけどな」
「…………行ってくる」
 パタパタと小走りで、灯里は化粧室へと向かった。
 しばらく店内を見て回った後、杏はドサドサといくつかのペットボトルジュースをカゴに入れ、レジに並ぶ。戻ってきた灯里がその隣につく。
「お待たせ…………あっ!」
「……ん?」
 驚いた声を上げた灯里を見る。口をあの字に開けた彼女の視線は、正面のレジを打つ店員の顔に注がれていた。店員の男も同じく驚いた顔をしている。
 プレートには『おくむら』と書かれている。杏の知らない男。灯里は知り合いのようで、驚いた顔は少し苦笑いのような表情に変わっている。
「久しぶり……だね」
「あ、ああ」
「こんなところで働いてたんだね」
「少し前からな……」
 それで、会話が途切れてしまった。
「……」
 微妙な空気に、男と面識のない杏が口を挟めるわけもなく、少し大げさに小銭をカウンターの上に置く。
 チャリン!
 慌てて店員は動き出す。
 無言のままお釣りを受け取り、レジ袋に入れた商品を受け取る。包帯をしていない左手に袋を持ち替えると、そそくさと杏は店の出口へと向かう。その後を慌てて追うように動き出した灯里は、
「じゃあ……」
 軽く視線だけを交わし、杏に続いて店を後にした。
 しばらく沈黙が続いたが、諦めたように杏の方から質問を投げかける。
「今の男は?」
 少し迷う素振りを見せて灯里は答えた。
「……うん。私の前の元カレ……」
 予想した答えだった。
「別れてから、連絡取ったりはしてたのか?」
「そ、そんなことは!」
「いや、別に気にしなくていーよ。俺、そんなに嫉妬深くないし」
 そこまで彼女を拘束する気はない。
「灯里は、別れた前の元カレとすぐに連絡取ったりはしないんだ?」
「キョウくんはするの?」
「いや、俺も差し迫った用がない限り、連絡は取らないよ」
「ケイタイ番号は消す?」
「そこまでやったことは、ない……かな?」
「そう……」
「灯里は?」
「……別れ方、によるかな?」
「たぶん俺も同じだ」
「もらったプレゼントとかは……どうしてる?」
「さぁ、どーしたっけな……」
 これも答えは別れ方によりけり、だ。安いものであれば捨ててしまうし、値段が高く実用的なものであればそのまま使うことも多い。
「ただ、男は女に比べて未練がましいからなぁ……」
「そう……」
 そう言って、灯里は杏の右手、包帯をした中指のその上から手をつないで歩き始めた。


 『エンジェルチェイス』は男ばかりの4人組バンド。ジャンルとしては、ヒップホップやパンクではなく、顔に似合わずメロコアを歌う。
 薄暗いライブハウスは、すし詰め状態の観客と、それ以上の熱気に覆われていた。初めての灯里などは露骨に嫌そうな顔をしていたが、慣れてくればこの熱気とテンションが快感になってくる。耳に痛いほどの演奏とそれ以上の声援と野次は、大きな有名アーティストのライブではない一種の独特の空気を持っている。杏はその雰囲気が好きで、徹平達の招待にも喜んで受けているところがある。
 バンドの交代のタイミングを見計らって、杏は灯里の手を引いてステージの見やすい中程まですばやく移動する。後列や端でも良いのだが、それだと若干背が低くヒールの高い靴を履いていない灯里には見えないだろうという判断による。ちなみに、これより前の最前線はモッシュ(つまり、押し競饅頭)が激しい危険地帯。手荷物――コンビニ袋と彼女――のある杏は、ダイブの被害も避けたいところ。
 隣から腕の裾をクイクイッと引っ張られる。見ると、灯里が何かを話しかけていたようだ。周りの音がうるさくてほとんど聞こえない。杏は頭を下げて灯里に耳を近づける。
「すごい熱気だね!」
「演奏が始まるとこんなもんじゃないぞ。どうだ? ここなら徹平達の顔も確認できそうだろ?」
「うん!」
 周りの空気にやられて、灯里のテンションも上がっているようだ。もともと大人しい性格の灯里にとって、こういった場は新鮮に感じるのだろう。興奮して目を輝かせている様子にひとまず安心する。
 しばらくして、見慣れた友人達が、あまり見ない派手なメイクと衣装を着て、まるで別世界にいるような錯覚を思わせて、観客達の視線を一身に浴びて演奏の口火を切った。その瞬間お客達も、そして杏と灯里もその世界へと引き込まれ、膨れ上がった熱気は一気に爆発した。

 会場の外、販売ブースの一角に『エンジェルチェイス』の面子を見つけると、中に入るなり杏は怒鳴り声を上げた。
「くぉら、徹平!」
 販売員、兼バンドのギタリストの胸倉を掴みあげる。商品を見ていたお客達は驚いているが、灯里は苦笑い。他のバンドメンバーに至っては呆れ顔と大笑いに二分される。ちなみに、掴みあげられた本人はムカつくほどにとぼけた顔をしている。
「おう、どしたキョン?」
「キョン言うな! てゆーか、なんだあの店は?!」
「おお! 行ったのか? おもしろかっただろ?」
「おもしろくないわい! 名前と外観に完全に騙された!」
「だろ〜! マリアとか言いながら、清楚さの欠片もない」
「ニンニクの上に生クリームかかってたぞ!」
「ペペロンチーノ頼んだのか?! お前、勇気あるなぁー」
「知るかっ! すっげー胃がもたれる上に後味が最悪で、ライブハウスの熱気をくらったら思わず吐き気が――」
「皆さん、差し入れです」
 灯里が買ってきたジュースを皆に配り始める。それぞれが灯里に礼を言い、最後に取り残された徹平にもジュースが差し出されると杏も諦めて彼を解放した。
「おお、ありがとう。さすが灯里ちゃん」
「……買ってきたのは、俺だけどな」
「灯里ちゃん、俺らのライブどうだった?」
「すっごくかっこよかったです」
「そうだろそうだろ」
 シカトされ、本気でこいつら殴ろうかと考え始めたところ、今度は徹平にグイッと肩を組まれベシベシと頭を叩かれる。
「いや〜、それにしてもちょうどいいところに来た」
「……なんだよ」
「灯里ちゃん、ちょっと彼氏借りるね。井上、後は任した」
 灯里は頷き、井上は「げっ!」と一声上げる。
 バンドのボーカリストは外でファンの女の子達と写真を撮っている。やはりボーカルが一番もてるのだろうか、それともあの歌声を聴いた影響か。任せるというのはグッズ販売のことらしい。徹平に引きずられ、杏達はブースの外へと出て行く。
「どこ行くの?」
「充電」
「あ、俺も」
 もう一人のバンドメンバー、飯田も含めた三人はブースを離れ、ライブハウスの裏へとやってくる。
「いやー、ホントいいところに。助かったよ」
「と言って、俺からたかるんだな……」
「ライブ前に最後の一本吸っちゃってさぁ」
「飯田にもらえよ……」
「あんなマニアックなの吸えるかよ。俺ってノーマルだから」
「……悪かったな、マニアックで」
 拗ねたように飯田は言うが、その意見には杏も同意する。
「ライブ中にニコチン切れんで助かったな」
 と言ってポケットから箱を取り出し、一本を徹平にくわえさせる。自分もくわえると、もう一度ポケットを、そして全身をまさぐる。
「火、忘れた」
「俺の使えよ」
 飯田に火を借りる。
「今日、吸ってなかったのか?」
「ああ、灯里がいたからな」
「よくもつなぁ」
 徹平も火を移しながら、本気で感心したように言う。
「俺はお前らほど中毒になってないからな」
「お前、アレだろ? 元カノに散々禁止されてたからな」
「……灯里はそこまで禁止しないよ。できるだけ吸うのは控えてるけど」
「どうせ差し入れするなら、こっち持って来いよな」
「いや、俺もそのつもりだったんだが……それどころじゃなかった」
「……?」
 買うつもりが、コンビニで買いそびれてしまった。
 ここにはニコチンを求める出演者達の駆け込み寺となっているようで、表で見た連中に比べメイクの濃い者が多い。裏の出入り口から死角になっているところで、少し先に出ると出待ちのファンに見つかってしまう。暗黙の了解で、皆が小声で話しているのがなんとも切なかった。
「それにしても、よく灯里ちゃん連れてここに来れたなぁ」
「まぁ、本人も一度来たがってたし」
 灯里は性格的にも派手な交友関係は持っていないので、ライブハウスに入り浸るような友人はいない。ライブに行くとしてももっと有名アーティストのツアーなどばかりで、こういう世界とは縁がないはずだった。
(俺みたいな彼氏を持つまでは……)
「キョウもバンドに入れば良かったのに」
 そう呟いた飯田は、再び杏に問いかける。
「なんで入らなかったんだ?」
「……俺に音楽は無理だよ」
「そーか? 俺でさえできてるんだし、歌だって俺より十分上手い」
 真顔でそんなことを言われると、少し気恥ずかしくなってしまう。
「キョウは、顔はいいからな。舞台の端に立たせてタンバリンでも叩かせてりゃ自然とファンも……あちちっ! おい、灰をこっちに飛ばすな!」
 徹平のように言われるのは、それはそれでムカつく。
 声を上げると他の喫煙者達に睨まれ、思わず平謝りする杏と徹平。
「ところで、その指どうした?」
 徹平が杏の右手を指して言う。
 いつもなら人差し指と中指で挟むのに、中指が使えないので親指を使う。そうすると、目の前に包帯を巻いたやたら太い指がくる。うっとうしいので、慣れない左手に持ち替えた。
「……いや、昨日久しぶりにバスケして」
「昨日は夜中まで俺と一緒に飲んでただろ?」
 飯田が口をはさむ。
「……」
「あ。その後酔っ払って、何かしでかしたのか?」
 ニヤニヤと飯田が話すと、その推測に徹平が悪乗りする。
「推測その1、酔った勢いで自宅帰って一人バスケ。推測その2、帰る途中で不良とケンカ。推測その3、電柱とケンカ」
 その3に「ぶっ」と飯田が吹き出す。
「ひょっとすると、灯里ちゃんとケンカっていう線も――」
「そろそろ、お前らとケンカしたくなってきたな……」
 灰皿にタバコを押し付ける。
 杏の視線がヤバイと感じたのか、慌てて徹平達も灰皿にタバコを入れる。
「さ、さぁ……そろそろ戻らないと」
 販売ブースにもどると、井上達が必死でお客の対応をしていた。ライブの方で大きな入れ替わりがあったため、客層も動いているらしい。どこかの有名バンドの演奏が終了したようだ。ここだけでなく、他のバンドの販売ブースも一気に客が押し寄せているようだった。
「遅いぞ、お前ら!」
 見ると、灯里まで売り子をやっている。
「はい、ありがとうございます! はい、こちらの値段は……」
 井上達より手際良くお客をさばいていく。徹平も「灯里ちゃんすげ〜」と呟いている。
 三人も加勢し、徹平達はファンとの会話も大事にしながら、自作のCDやグッズを販売していった。

「もらっちゃって良かったのかな」
 手に持った袋の中には、『エンジェルチェイス』のCDやTシャツが入っている。
「安いバイト代だ」
 憮然とした表情で杏は答える。
 二人がそのTシャツを受け取った時に言われた。
「そのTシャツを二人で着て写真撮らせてくれないか? Tシャツの宣伝用に、HPにアップしたいから」
 それは断固拒否した。
「こんなダサいTシャツ着て晒し者になれるかっての」
「あはは。私はそれでも良かったよ」
「どうせなら、もっとカッコイイデザインにすれば良かったのに」
「そうかな? これはこれでカッコイイと思うけど」
 Tシャツにはバンド名のロゴと天使の後姿が描かれている。
「コンセプトはいいが、絵心がない」
 きっとデザインしたのは徹平に違いない。
 灯里はクスクスと笑いながら、
「手厳しいね。キョウくんがデザインすれば良かったんだよ」
「……いや、俺、バンドと関係ないし」
「専属プロデューサーやってみたら?」
「ふむ……」
 それは一理ある。
「なんていうかさ、キョウくんってあの子達の母親みたい。子離れできないママって感じ」
 無言で灯里にチョップした。
 ライブハウスを出て二人は歩く。繁華街を抜け、駅前を通り過ぎ、最初の待ち合わせをした大きな池のある公園へとやってきた。夏が近づき日が長くなったとはいえ、この時間になると日も傾き心地よい風が夜の闇を運ぶ。公園の中央にある池が西日を浴びて暖かく輝いている。
 端のベンチに腰掛けると、ドッと疲れが吹き出してくるようだ。
「今日は、なんか無駄に疲れたような気がする」
 あれから、数組のライブを見学した後、まだまだライブの続くライブハウスを後にした。夜の部もあるのでライブはまだまだ続く。出番を終えた『エンジェルチェイス』はこの後打ち上げをやるそうで、誘われたのだが二人は断った。
「これから、どうする?」
「……」
 隣に座った灯里は黙ったまま。
 公園には子連れの親子や、犬の散歩をしている人がいる。杏達のようなカップルは他にいないようだ。休日であればいるはずのたこ焼き屋やクレープ屋もいない。今日はもう撤収したのだろうか。
 この後のプランがないわけではない。
 まだ夜には早いので、電車に乗って隣の街まで遊びに行ってもいいし、どこかでご飯を食べるのもいい。今日はうちの親も帰りが遅いので家に来てもらってもかまわない。
 もう適当に決めてしまおうか。そう考え始めたころ、突然灯里が話し出した。
「……キョウくんは、私のどこが好きになったの?」
「最初は、顔」
 間髪入れずに即答すると、驚いたように灯里の目が点になる。
 やはり、人間第一印象が肝心である。
「……というのは冗談で」
 言い直す。
「どこだろうな。一番は、一緒にいて気が楽、安心できるってとこかな」
 納得したのか、していないのか。灯里の表情が微妙なので、もう一声かけてみる。
「あと、少し天然入ってるところ」
「……」
 灯里はキョトンとした顔をしている。
「灯里は?」
「……え?」
 聞き返すと、慌てたように頭を上げる。
 もう一度聞きなおす。
「灯里は、俺のどこが気に入ったんだ?」
 少し悩むような素振りを見せて、それでもすぐに灯里は答えた。
「面倒くさそうにしてて、意外に面倒見のいいところ」
「……」
 褒めているのかいないのか。
(灯里、それは素直に喜べない……)
「あと、一緒にいて、楽しいところかな」
 付け足したように言う。それでも、灯里の表情は晴れない。
 灯里はまた向き直って杏に問う。
「キョウくんの将来の夢は?」
 突然聞かれて驚いた。
「さぁ、なんだろうな……」
 夢と言われても、昔のように自分の全ての可能性を信じれるわけでもないし、進む道も限られたものしか選択肢はない。全てを捨てて賭けられるほどの情熱も度胸もない。
 適当に答えようと口を開く。
 が、その口はすぐに閉ざされた。
 ベンチから腰を上げ、杏の目の前まで来た灯里が先に口を開いた。その表情はわずかに暗い。夕日で影っているだけかもしれない。
 それはまるで、杏の答えを知っていたかのよう。
「キョウくんって、肝心なことになると、すぐに話を誤魔化しちゃうよね」
 灯里は少しだけ諦めたような表情をしていた。
「こんなこと言うと、怒るかもしれないけど……」
 間を空けて、息を呑むような時間を取って、十分に意識を傾けたあとに彼女は話す。
「私はキョウくんが好き。一緒にいて安心できる大切な人。これからも、ずっと仲良くしていきたいって思うけど……」
 予期せぬ告白。
 全く身に覚えのない、理不尽な怒りも感じる。
 それでも、心のどこかでついにきたという虚脱感が存在した。
 やはり自分はそれを心のどこかで予想していたのかもしれない。
「私、やっぱり、キョウくんの恋人にはなれないよ」


 原因なんてわからない。
 理由なんて知りもしない。
 それを嘆くような悲しみもない。
 泣きたくなるような感情の洪水が押し寄せてくることもない。
 ただ、静かに波打つ理不尽な怒りが、火種のように存在する。
 それは歩くたびに、手足に震えるような寂しさを湧き上がらせる。
 犬の散歩をしている人影は見えなくなった。遠くの街並みも暗く、近くに感じた虫達もその身を潜めている。すれ違った子供達の無邪気な笑い声が、意味もなく癇に障った。
「なんだよ、それ……」
 握った拳に力が入る。
 ふと右手の違和感を思い出し、それを目の前につきだした。
 別れ際に言った灯里の言葉。
「ところでキョウくん。その右手、ホントはどうしたの?」
 何も言えなかった。
 いつから気づいていたのだろうか。
 結局、灯里は特に気にした様子もなく、答えを知ることなく、二人は別れた。
 その包帯の中にまで気づいたとは思えない。彼女なりに何か違和感を感じ取っていたのだろう。
 立ち止まり、白い包帯を外し、風に靡くそれを池の柵のところに引っ掛けた。
 中指のそれは、夕日の僅かな光を浴びて、杏の心を気にした風もなくキラリと美しく輝く。
「やっぱり呪いの指輪だな、これは」
 掻きむしってでも、その指輪を外してしまいたかった。
 指輪は取れず、怒りに身を任せられるほどの感情の高ぶりもなく、それでも通りすがった他人の目を気にしてあくまで冷静を装う。
 前から来た女の人を避けるように、何気なく池の柵に手を当てた時、その違和感を感じた。
(あれ? 感触が軽い……)
 気づいた時には遅かった。
 池の柵が倒れ、杏の身体ごと池の方へと吸い込まれる。
 もう一歩の力が入らなかった。
 咄嗟に動くほどの気力も残っていなかった。
「……っ!」
 息を呑むような声、それが自分の発したものなのか、すれ違った女の人の驚きの声なのかも分からない。
 それを意識した時、体は宙に投げだされていた。目の前に涼しげな水面が揺れる。思わず、悲鳴も上げずに目を瞑った。
 そして……。


 気がつくと、杏はベッドの上にいた。
「……」
 心臓の鼓動に肩で息をする。血の気が引いた全身に、足の先から順に熱が伝わる。背中にかいた冷や汗が気持ち悪かった。
「……?」
 水にも濡れていない。
 病院や見知らぬベッドではない。
 それは、過ごし慣れた自分の部屋のベッド。
「…………あれ?」
 まるで夢から覚めた瞬間だった。







戻る


□ 感想はこちらに □