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原案、文 West


 第四章  奇妙な符合

 恵美と瑞穂の2人は案内を務める刑事とともに留置所へと続く廊下を黙って歩いていた。
 一応は警察組織に務める職業柄、双方とも留置所での被疑者の面会は今回が初めてではない。もちろんその際に名乗るのはホログラムの力を借りての仮の身分ではあるが。
 一歩間違えば自分達ですら無実の人間を裁きかねないことをカメレオンになる際に恵美は叩き込まれた。非合法のうちに犯罪を処理するからこそ、逆にカメレオンにはカメレオンなりのルールが必要なのだと殊更にMr.Xは繰り返した。
 未だ気持ちのふっきれる様子の見られない恵美だが、ルールの必要性は充分理解出来ている。そうであればこそ、どういう言い方をするにせよ、本来は単に犯罪事実の有無を捜査するだけの機関である警察に、表現は異なれどれっきとした牢獄が存在する点が、非合法のうちに犯罪を裁く事になる自分達の存在を、いつも逆に戒めているような気にこの一角にやって来る度させられるのだ。
 真鍋など被疑者がいかにもという人物の場合はまだ良かった。が、吉住保恵のように本来は犯罪の意志がなかったものと推測される場合、面会はただでさえ気の進まないものとなる。
 だが今は、理性よりも本当はこんな所に来ている場合ではないのにという始終繰り返される思いの方が強い。それが、恵美の足を生き物のそれではなく彫像か何かの一部のごとく固く動かしにくいものに変えていた。
 とにかく今の彼女は大きくなる一方の焦りをなんとか少しでも食いとめようと懸命に努めるしかなかった。ともすればすぐに後ろを向きがちになる爪先に絶えず言い聞かせ、まるでこれより生き様の審判に向かう亡者のごとく、目的の一室に向けて歩く。
 真面目な性分から、それでもきちんと逮捕記録には目を通していた恵美。
 記録によれば保恵は果物ナイフを煌かせながら通行人を襲おうとしているところを、新宿警察署に通報され逮捕された事になっていた。その際、止めに入ろうとした大学生1人が腹部に傷を負っている。
 水原まり子の言っていた“お隣の吉住さん”はやはり保恵の事だった。記録に記載された住所ははっきりその事を示している。
 凶器となったナイフはハンドバッグに忍ばせて来たらしく、他に所持していたのは使い込んだ様子のある多少の化粧品類、ティッシュやハンカチ、現金の入った財布、印鑑、腕時計、運転免許証など。
 目黒に住む彼女が新宿に来ていたのは何か訳があるのだろう。もちろん気にならないはずがない。
 しかしながら、それ以上考えるのを恵美は止めていた。続けたところでより一層ピープルコミュニティに潜入捜査を行うべきだという思いが募り、ただでさえやるせない気分をより不安定にさせてくれるだけだ。
 例え保恵の凶行が誰かに操られてのことだとしても、証明できなければ何の意味もないのである。
 思うようにならない足を頑張って動かすうちに、傍らの瑞穂の瞳が何事かを言いたげにじっとこちらを見つめていることに気づく。今の瑞穂は男の姿をしているものの、表情にはいつものボーイッシュな少女と同じ豪胆かつお人よしな性格が見え隠れした。
 今は自分が"上司"なこともあり、案内の刑事の目を考えてそれ以上の行動には出て来ないが、普段なら「なに思い悩んでのさ」と思いっきり背中を叩くくらいしたに違いない。
 同じく目線だけで謝罪と感謝の念を表明した恵美は、それこそダッシュで駆け戻りたい気持ちを無理にでも抑えてあと少しの道程を進んだ。
 それから直に刑事の足が止まる。
「9番はここです」
 留置所に寝泊りする身となった段階で外の世界で言う名前は失われ、代わりに無機質の極みである番号が整理の為に与えられる。彼女の忌むべき新しき呼び名は“9番”。
 恵美には警察一寂しく映った一室、そこに吉住保恵は囚われの身を悄然と置いていた。
 容貌を気にする女性としての性(さが)か、与えられた櫛で髪そのものは綺麗に整えられているが、異様な状況を前に生気を失いつつある顔色の前には何の意味ももたらさなかった。
 思いもかけぬ闖入者の来訪は彼女に希望と不安の両方を与えた。小動物を思わせる眼差しが震えつつ恵美達を見つめていた。
「ごゆっくり」
 まだ30代前半の容貌を少なからず憮然に歪めつつ言うと、ここまで案内した男が足早に去って行く。吉住保恵の事件を担当している刑事だ。
 容疑者の拘置期限は2度に渡る拘留を含めても22日、その終了を前に起訴を焦り、自供、下手すれば証拠そのものの捏造に走る捜査官の数は悲しいことだがいつまで経ってもゼロにはならない。
 せっかく逮捕にまで漕ぎ着け、これから色々と締め上げようというのに、ここで警視正の立場を利用した横槍など入ってはたまらないというのが彼の偽らざる心根だろう。ただでさえ大物の面会ということではりきって始めようとした事情聴取をストップされているのだ。
 当初は事情聴取の間自分も付いていると言い張ったが、恵美はあっさりそれを一蹴した。彼の気持ちは理解できないでもないが、ガチガチの刑事が側にくっついていては聞くもものも聞けない。
 どのみちまだ調書を取っている最中だっただろうからそのまま取調室で会わせてもいいようなものなのに、こうやってわざわざ恵美達を留置所まで引っ張って来たのは、被疑者である保恵に対して自分の立場を知らしめ、余計なことを喋らせまいという彼のささやかな抵抗だろうと密かに考える恵美。
「ふんっ。現行犯なのに、今更何を調べる必要があるってんだか」
 自分ではかなり距離をとってから吐き捨てたつもりだろうが、鍛錬により常人よりも遥かに発達した恵美の聴覚はその一言を聞き漏らさなかった。
 しばらく横目で担当刑事の消えた方角を強く睨む。そして、完全に彼がこの界隈から去ったのを気配で確認すると、視線を戻した恵美は第一声を放った。
 その際、警視正としての雰囲気を壊さないように口調に留意する。
 千尋特製のホログラムの効果により、今の恵美は木田警視正というエリート警察官として人の目には映った。
「吉住保恵さん」
 恵美はわざと本名で呼び掛けた。
「心配しないで下さい。貴女に危害を加えるつもりはありません」
 それだけを告げると、後はじっと相手の反応を待った。
 たたでさえ保恵は一般の主婦からすれば異常な空間にその身を監禁されている。やたら派手にまくし立てたところで警戒心を煽るだけだ。
 ただの受講者とはいえ一応は彼女もピープルコミュニティ関係者である。もしかして新たな事実がわかるかもしれない、ともすればすぐに元来た方に足が向こうとする自分自身に言い聞かせつつ、遅い雪解けをひたすらに待つ。
 やがて保恵を取り巻くバリアに少し緩みが見えた。
「あなたは・・・」
 まだ声に力はないが、ずっとはっきり聞こえた。恵美は出来る限り優しい所作で頷きながら
「木田和人警視正です。少しだけお話を伺いたいのですが、よろしいですか」
 同時に身分を示す黒い手帳を提示した。
 手帳そのものは紛れもなく本物だ。もちろん人事データベースへの登録も完璧であり、それどころか誰かが警視庁内のどういうデータをひっくり返してみても、木田和人という人間がしっかり存在する仕組みがチーム発足時より既に動いていた。
 単なる偽装ではないから、ホログラムが破れでもしない限りは少々派手な行動を取っても外見その他から同一人物だとバレる危険はない。それだけに言葉遣いや仕草には気を付けないといけないが。
「・・・・」
 やっと反応が現れたと思った保恵。それでも僅かに視線を泳がせるだけで、恵美の問いかけに対し肯定も否定もしなかった。全身にくまなく張り巡らされている障壁も、恵美が警察関係者だという思いが抜けないせいなのか、期待した程の薄さには変わってくれずじまいだ。
 しかしながら、警察という単語を出しただけでひどく反発心を露にする者も巷には少なくない中、黙認でもこの際御の字だろう。取りあえず敵意を持たれてはいない事に満足した恵美である。
「では勝手に喋ります。答えたくない個所があれば、応答無しで構いませんので」
 ドラマなどのお陰で最近では子供でも黙秘権の存在を知っているのが普通だ。しかし、保恵をさらに安心させる為、その行使が可能なことを微笑とともに前置きすると、早速幾つかの質問に入った。
「失礼ですが、普段から免許証をいつも持ち歩いていらっしゃるんですか?」
 沢山の裏道を知るか、相当の渋滞を覚悟しなければ新宿駅付近に自動車でやって来ることは難しい。その為、あまり時間をかけずに来ようと思ったら、むしろ電車を使うのが一般的だ。
 きっと保恵もそうしたに違いない。だとすれば、何故必要でもない免許証を携帯したままだったのか。身分証明などの為に普段から用いているというなら、別に詮索するようなことでもないのかもしれないが・・・。
 犯行現場が彼女の住む目黒ではなく新宿になっていることが恵美にはどうしても気にかかっていた。
 捕まった際に持っていたバッグは1つきり。その中身には買い物をしたような様子もない。
 もちろん人待ちやどこか特定の場所に行くのが目的だった場合は別だ。あるいはまだ買い物をする前だった可能性もあるだろう。しかし特に明確な否定材料はないものの、そのどれとも違う気がして恵美はならなかった。
 せっかくの機会だ。どうせなら当人の口から確かめておいた方がいい。
「?・・・・・いいえ」
 もっと犯罪事実そのものについての話題を振られると思っていたらしく、恵美がどうしてそんな質問を試みたか真意を測りかねた様子の保恵。力なく首を横に振るまでにかなりの間があった。
「今日は友達のところに出掛けるつもりだったから」
 ぽつりと呟くのが聞こえた。けれども、恵美が本当に耳を大きくしたのはその後の言葉だ。
「私、どうして新宿なんかにいたんだろう・・・・・彼女、世田谷なのに」
 世田谷。目黒からすればすぐ隣の区である。新宿とはまるっきり正反対とは言わないまでも、ほぼ逆方向であるのは否めない。
「! ご友人は世田谷に住んでいらっしゃるんですか?」
 驚きから念を押すような尋ね方をした恵美に保恵はコクンと首を振った。事件そのものについて何も聞こうとしない恵美の態度に取りあえずは自分でも警戒心を解き始めてくれたらしい。
 もしかしたら普段は割によく喋るタイプなのかもしれない。舌の方も少しずつだが、本来の滑り具合を取り戻そうとしているようにも映った。無論、そうだとしてもまだ本調子とはとても表現出来ないが。
「短大時代の友人で、今でも月に1、2回は直接会ってるんですけど、会いに行く時は車で行くことにしてるんです。彼女、世田谷と言っても向こうよりだし、都心と違って道もそんなに混まないから」
「・・・・・」
「今日はどうしても直接相談に乗って欲しいことがあったみたいで。さなちゃん、きっと心配してるでしょうね・・・・」
 一旦別の方角を振り返った保恵は鉄格子どころか壁の向こうさえ見つめるように遥か遠くを眺めていた。
 恐らくはそのさなちゃんとかいう友人宅を向いたつもりなのだろうが、悲しいかなろくに景色も見えない留置所内では方角があっているかどうか誰も確かめようがない。
 しばらくそうしていた彼女だが、不意に顔を覆う。
「ダメ! どうしても思い出せない・・・・」
 泣き出す一歩手前を思わせるほど、細い造りの顔立ちをこれ以上はないくらいくしゃくしゃに歪めていた。
「そりゃあ、少しは法律違反だってしてます・・・・善人だなんてお世辞でも言えません。でも、刃物で人を傷付けるなんて、そんなのって」
 そう言って悔しげに唇の端をかみ締めた。
「いつの間にかナイフを持って、誰かを刺そうとしてただなんて」
 そう言ってじっと右掌を見つめる彼女。きっと今もナイフの柄の冷たい感触が生々しく手に残ったままなのだろう。ひどく両手が震え出していた。
 一度目配せで傍らの瑞穂と状況を相談し合った恵美は、視線を戻すとうずくまったままの保恵に声を掛けた。
「吉住さん。無理に思い出さなくても、きっとそのうち自然に戻る時がやってきます」
 もちろん気休めに過ぎない。が、時には嘘も真実以上に必要とされる場合があり、今は充分その場合に当たりそうだ。
「そうですね」
 恵美に優しい言葉を掛けられたことで、保恵の顔は依然血の気が引いているものの、一応は落ち付きめいたものも生まれ始めてはいた。が、力の無い笑みに混じって悔しげな表情は依然見え隠れを続けている。
 何があったかさえ思い出せれば。記憶という本来100%自分を信じる為の手立てを封じられた彼女にとって、そればかりが頭に思い浮かんで仕方ないのだろう。
 保恵の精神状態だけを考慮に入れれば、恐らくはこのまま放置しておいた方が賢明だ。
 しかしながら、せっかくほぐれかけていた保恵の舌の筋肉に変に時間を置いた事で再びブレーキが掛かってしまってはたまらない。多少内容を変化させつつ記憶についての解明を続けることに決めた恵美である。
「丁度の相手の子と電話をしている時で、いけないと思って何かの電気を消そうとした覚えはあるんです。でもその先がどうしても」
「・・・・・」
「気が付いた時は手にナイフを持っていました。とにかくすごく怖くなって、誰かが私に向かって来たような覚えはあるんですけど、後は何がなんだかぼやけてしまってわかりません」
 彼女が大学生を傷付けることになったのはどうやら恐怖心からの強度のパニックが原因らしい。
 それはそれとして、推測通り、彼女を操った者の持つ記憶を消す術は完璧に近いものがあるらしく、自力で思い出す事はまず不可能だと恵美は判断せざるを得なかった。
 黙って彼女の話を聞きながら、判明したわずかな情報を元にまずは急いで脳細胞を動かした。
 この場合幸いにという言い方は変かもしれないが、保恵の記憶は全く整合性が取れていない。従って、偽の記憶を与えられた可能性は逆に0に等しいと仮定していいと思われる。
 後催眠状態起動の為のキーワード程度だったら、その気になればそれこそテープだろうが何だろうが機械さえあれば吹き込める。実際、音声や画像はトリガとしては使い易いだろう。
 テレビかラジオ、しかしこちらは公共の電波なので一旦は除外する事に決めると、残るはプレーヤーの類だが・・・・。
 ただ、疑問点も残るには残っていた。指令の発動がいつになってもいいのであればともかく、テープやCDに吹き込む方法はまず聴いてもらえなければどうにもしようがないのである。
 幸いにして今までの通り魔騒ぎは回復可能な怪我で済んで来たが、事件そのものはもう何件となく続いており、今回負傷した大学生に至っては今も安否が気遣われる状態にある。彼の今後の経過次第では、都民の不安感への配慮も兼ねて、意外に重い刑罰が課される可能性だって絶対ないとは言えない。
 悪い言い方かもしれないが、今やスケープゴートが必要になって来つつある。
 いくら誰かに操られていたとしても、それを立証できなければ罰を受けるのは保恵1人。それを避ける為にも、いくら抑えても突き上げてくる焦りと内心激しい闘いを繰り広げつつ、質問を続けた。
「吉住さんは音楽はよくお聞きになりますか?」 
「え、音楽ですか? そ、そうですね」
 どちらかと言えば細長いタイプの目が見事な丸に開かれる。一拍置くことでなんとか質問の内容に付いて来た保恵は
「私はあんまり歌とかには興味がなくて。そりゃあ人並みに好きな歌くらいはありますけど、テレビやラジオから流れているのを聴いたり、自分で時々口ずさむ程度なんです」
 つまりはショップに行って買ったり借りたりといった経験は家族にせがまれない限り皆無なのだと告げた。ただ、小学校1年の娘の方はアニメがすごく好きで、よくねだり倒されては借りに走るのだという。
 娘の話題に考えまいとしていた状況を思い出してしまったのだろう。遠くを見ながら呟く。
「主人と志緒、今頃どうしてるんでしょうか・・・」
 鉄格子越しに、ずるずるとうずくまってしまった保恵の声が聞こえた。まり子同様、保恵にも千也子より1歳だけ上の娘、志緒(しお)がいる。
 千也子の言葉が不意に思い出された。
『そのうち、となりのシオちゃんもおんなじような事をしゃべるようになって。・・・ママがずっと消えちゃったらやだよぉ』
 まだはしゃいでばかりの筈の年頃に似合わず、はっきり肩を落としていた千也子。
 恵美の脳裏に1人の少女が浮かんだ。千也子に似てはいるが見た目も行動も良く言えばもっと活動的、とどのつまりお転婆だ。
 その側では女性がまだ和人と呼ばれていた自分と娘を見ながらにこにこ春の日差しのように微笑んでいる。
「桜・・・・まひる」
 自分の唇からうめきにも似た声が洩れ出ていたことにすら恵美は気づかなかった。
 “リーダー・渡恵美”でもなく、“警視正・木田和人”でもない。それこそどこにでもいそうな父親がそこにいた。
 “交通事故”というには非常に不透明な死に方で妻と子供を一遍に失った過去の自分。やっきになって真実を追い求めるうちに、カメレオンという存在を偶然知った。
 全く別人になり、それこそ元の自分は戸籍上生きていない事になってしまうと聞かされた時、不安感よりは安堵感の方が先に立ったのを思い出す。もうこれで何も失わずに済む、あの時は本気でそう考えていたのだと思う。
 カメレオンに入隊したことで一応は仇も取れた。けれども一度深く切り裂かれた胸の奥は思うように癒えてくれず、今でも恵美の意志と関わり無いところで暴走を繰り返す。
 水原家を立つ時に瑞穂に注意された内容にしても本当は充分飲み込めていた。が、どうしてもいざその場に立つとダメなのだ。
 もう2度と戻らない記憶の中だけの平和な日々。それでも白昼夢が破れた後、悲しいより先に懐かしさが込み上げて来てしまうのだから、とてもじゃないが自分が信じられない。
「? 刑事さん?」
 恵美の視点のまだ上手に定まらない目が、気遣わしげに自分を見つめる保恵の姿を視界に見つける。
 同時に不意に後ろから背中を思いっきり叩かれた。
「しっかりして下さいよ、警視正。事情聴取はまだ済んじゃいませんぜ」
 痛みに思わず振り向いた恵美を瑞穂、いや光崎警部がにやりと笑いながら迎える。視線が合うや否や、照れたと言わんばかりの大きな咳払いを見せた。
「ああ、そうだった。済まない、警部」
 出口の無い白昼夢などに溺れている場合ではなかった。自分にはまだやるべき事が残されている。
 ようやく恵美はカメレオンのリーダーとしての顔に戻っていた。
 むしろ皆の手綱を率先して握る立場なのに何たるザマだ、内心恵美はひどく自嘲したい気分だった。
 だが今は、できることをやろうという決意に偽りも曇りもない。
 一方、恵美がようやっと本来の自分を取り戻したのと入れ替わりに、再び保恵の線の細い顔立ちを翳りが支配し始めていた。どうやら現在自分の置かれている立場を先程の一言でまたも再認識させてしまったらしい。
「事情聴取・・・・・やっぱりそうですよね」
 失態を自覚すると同時に、あのいけすかない刑事やその仲間を脅してでも無理やり鍵を借りてくるべきだったかと恵美は自問自答を始めた。
 あの刑事にしろ判っていないのだ。いつ家に戻れるかもわからない、考えてみれば不安でいっぱいの保恵。鉄でできた仕切りはその真の重量以上に重く、そして冷たいものに感じられる事を。
「ごめんなさい。刑事さんをさっきの刑事さんなんかと比べちゃいけないのに」
 シュンとなって頭を下げる保恵。気の利いた言い訳を思い付く事もできず、黙ったままで恵美は成り行きを見守る。
 けれど、ありがたい事にそれなりには平常心を取り戻す事が保恵の方も出来た様子だ。思い出したように次のように告げた時、遠くを眺めるかのように泳がせた視線には不安に混じって怒りも確かに刻み込まれていた。
「さっきの刑事さんは私と会うなり、話したら家に帰してやるの一点張りで。嘘でもやったって言わないと、それこそ暴力を振るわれそうだった」
 最後の方は大きな身震いに変わって言った。彼女の言葉を待つまでもなく、先程の捨て台詞からしても、まともな捜査態度ではないだろう。
「きちんと何をやったか話すまでは家族との面会も禁止させてやるって・・・・私、噂には聞いていたけど、警察がこんなに横暴なところだなんて思いませんでした」
「・・・・・」
「カラスも禁止かよ! ひでぇ・・・・」
 瑞穂が今だけは素の自分に戻って吐き捨てた。
 カラスというのは警視庁・検察独自の隠語で、接見禁止になった場合に許可してもらう特別事項の事だ。“{ }”というカラスの足跡に似た括弧内に必要事項を書くのでこの名がある。
 証拠隠滅や特別な監視を必要とする状態でもなければ、よほど妙な頼み事でも出さない限りはまずOKが出るのが普通だ。先程の捨て台詞から見当が付かないではなかったが、仮にも警察組織の一員として、それでも“同僚”の捜査ぶりにニの句が継げない恵美と瑞穂。
 一方、保恵は限界まで目を見張りつつ、不思議そうに二人を交互に眺めていた。瑞穂の方はつい自分の地を出したことが気恥ずかしくなったのか、視線に気付いた途端しどろもどろになって
「あ、いや・・そのですなぁ・・コホン」
 慌てて役どころを取り戻そうと試みたが、顔を赤くしてポリポリと頭を掻いているところは最早いつもの彼女である。
 多少は滑稽だったとはいえ、その様子がそれ程面白かったとも思えないのだが、次の瞬間、思いもかけぬところから、かすかながら笑い声が洩れていた。怪訝そうに集まって来た二組の眼差しを前に、吹き出した当人の保恵が今度は逆に当惑した様子を作る。
「あ、その・・・・ごめんなさい」
 けれど彼女のしおらしい反応も長くは続かなかった。
「だけど、警察の中にもいい人はいるんですね」
 今度こそしっかりした笑みを浮かべつつ、目をこすりながら告げた保恵。緊張の糸が解けたせいもあるのだろうと恵美は自身も微笑を浮かべながら思っていた。
「早く帰ってあげたかったら、覚えのない自白はしないことです。楽になるように見えて却って家が遠くなる」
「・・・・・」
 恵美のアドバイスに朗らかさを取り戻しつつあるにしては少々力なく頷いた保恵。何を犠牲にしても帰りたい気持ちの方がやはり強いのだろうと思った。
 だから恵美もそれ以上は強く勧めなかった。
 暫くすると今度は保恵の方から口を開いてきた。
「刑事さん。きっとあまりお役には立てないでしょうけれど、私でわかることならお話します」
 協力を断言してくれた保恵。礼を述べた恵美はいよいよ核心であるピープルコミュニティについて切り出した。
「ピープルコミュニティ? カルチャースクールのですか?」
 どうしていきなりそんな内容を尋ねられるのかという疑問で最初保恵の瞳は埋められていた。自分が容疑者である以上、普通なら何故通り魔などという行為をしたか、それについて質問を受ける方が変な言い方かもしれないが筋というものだ。
 ピープルコミュニティのきな臭さに関してある程度の情報を得ている恵美は犯行は保恵の意志でないと信じているのだが、無論保恵の側はそんな事は知らない。その辺りの認識のずれがこの場合ひどくもどかしい。
 が、保恵の側も約束通り、聞かれた事に自分なりに答えようとはしてくれた。まずは彼女がどうして例のカルチャースクールに通う事になったか、そこから話は始まった。
 とは言っても、水原まり子の場合と殆ど差は無く、彼女の場合は紹介者が秋山かなみに変わるくらいものではあったのだが。
「秋山さんとはとても親しくして頂いていて、講座の紹介があった時も2つ返事でOKしたんです。実際、最近ひどく物騒ですから」
「・・・・・」
 黙って耳を傾けながら、まり子も似たような事を話していたのを恵美は思い出す。自己防衛の為に始めた行為が逆に自らを追い込んでしまったのだから、保恵にとってなんと運命は皮肉に作用した事だろう。
「実際とてもいい講座だったんですよ。私、主人の勧めもあってコンピュータに興味があったから、それこそ1講座分の料金で両方学べるなんて願ってないお話でしたし」
 千尋が調べた通り、実際巷のパソコン講座にも負けないほどのサービスぶりがやや興奮ぎみの口から語られた。この手の講座にはセットと称した割高なパソコン販売が付きものだが、それでさえそこそこパソコンに詳しい者でも目を丸くするくらいの買い得値だったらしい。
 当初「護身術はともかく、PCなら俺が教えてやる」と言い張っていた自称中級者の夫・芳春も値段を見て折れたという。芳春は家に居ればパソコンを触っているような男だったから、使用時間を確保するためにも保恵は2台を欲しがっていたのだ。
 ちなみにメインの護身術講座だが、千尋の調査通り電子ドキュメントを画面上で見る形で講義は行われていた。
 他にも必要に応じて3Dアニメーションなども使われ、視点を好きに変化させる事で本で眺めるよりも手足の動きがすんなり頭に入るよう工夫を凝らしていたという。
 裏側で蠢く不気味な存在を嗅ぎ取ってさえいなければ、まさに至れりつくせりの現状を前に簡単に相槌を打てていたろうにと、恵美は自身の職業が少しだけ皮肉に思えた。
「ホントにこんなのがあっていいのかと思うくらいでした。だから、なんで秋山さんは急にあんな事を言い出したのか・・・・・」
「秋山さんが一体何を口にしたっていうんです」
 弾かれたように質問を飛ばす。自分でも気が付かないうちに鉄格子に身体を押し付けるようにしていたらしく、鈍い衝撃の後、気味の悪い音で大きな格子がガシャリと揺れた。
 理由の方はよくわからない。強いて挙げればこんな風にして秋山かなみの名前が再度飛び出して来るとは思いもしなかった事くらいだろうか。
 何故かは知らないが、絶対にこの質問の答えだけは聞いておかなければならないような気が恵美にはしていた。
 が、恵美の気負いとは裏腹に、望むような答えは目の前の保恵からは返されては来ない。それどころか、すっかり協力的な態度に変わってくれたはずの保恵の周りに再び警戒心という名のバリアが張られ始めているようにさえ思えた。
「え? い、いえ、ちょっと仲違いしただけです。大したことじゃ・・・・」
 それだけを言うと、後は何か慌てた様子で口篭もる保恵。懸命に平静を装おうとしているが、当然恵美達をその程度で欺く事は不可能である。
 まるで知らずに起爆スイッチを押してしまったような感が恵美を襲っていた。展開からして話せない程の内容ではない筈なのにさっぱり訳がわからない。
「大したことじゃないなら、なおのこと教えて下さいませんか」
「・・・・・」
 協力を約束してくれた保恵の口は依然頑ななまでにだんまりを保っていた。こうなれば根比べだ。
「吉住さん!」
 焦る気持ちを懸命に抑えて告げたが、保恵は俯いたきりでやはり答えは返って来ない。自分に何事かを言い聞かせているようにも思えるその表情はひどく虚ろだ。
 動揺は見て取れるが、逆にそれが彼女の口を重くしてしまっていた。
「とにかく、大事な手掛かりかもしれないんです。貴女を助けられるかどうかの。一体何があったか答えて下さいませんか」
 このままではラチがあかないと踏んで、“警視正”という立場を少々超えての交渉を始める。
 助けるという言葉に、伏せられたままの保恵の睫が一瞬揺れた。恵美はここぞとばかりに今までの捜査で得たある事項を切り札として突き付けた。
「吉住さん、今回のように記憶を失うことは実は以前にもあったのではないですか?」
「!」
 伸ばされたバネが勢い良く戻るように一瞬で顔が持ち上がる。今度こそ整った容貌ははっきりした動揺に支配されていた。
 小刻みに震えつつ恵美を見つめる眼差しには恐怖めいた光さえ宿っている。先程垣間見せたような親しみは、再び蒼白に変化しつつある表情からは最早微塵も漂っては来ない。
「わ、私」
 歯と唇がすっかり持ち主の保恵の意志を離れ、激しくぶるぶる、ガチガチ言い始めた。あたかも彼女の周囲だけ氷点下近くまで気温が低下したかのようだ。
 恵美達がここにやって来た時と同じ、いや、状況はむしろ悪化の途を辿っていると表現した方が既に正しそうである。
「私、知らない。本当に・・・・何も知りません!」
 恵美にと言うよりはまるで自分を相手にするかのごとき口調で叫んだ後、両手で顔を保恵はすっかり覆い隠してしまっていた。
 こうなっては最早言葉は通じない。一時は意外に薄いものに感じ出していた格子が再度冷たく重い牢獄の仕切りとして、双方の間を厳重に仕切っていた。
 恵美も瑞穂も暫く無言で立ち尽くす。一縷の希望を抱いてみたものの、一旦硬化してしまった保恵の態度には全く改善の徴候が見られなかった。
「・・・・吉住さん」
 どうやら留置所を去るべき時間のようだ。無駄と知りつつも最後にもう一度だけ呼び掛ける。
 元々大した期待など抱いてはいなかったにも関わらず、現在ひどく処理し難い思いを抱えている自分に驚いた。
 尋問の仕方にもまずいところはあったのだから無理のないことだと思いつつも、表現するとすればまるで裏切られたかのような暗い情念が恵美の内面でくすぶり続けているのは自分でも否めなかった。
 来た時と同様、あるいはそれ以上に重たい足を引き摺るようにして警察一やって来たくない場所を後にする恵美達。しばらく駐車場に放ったままにしておいたせいか、車中の湿った空気が外界のそれに比べれば、かなり呼吸し辛いものに感じられた。
 無事に新宿署を出たことで、ホログラムはその役目を終えていた。生まれた時には縁の無い、しかしながら今は見慣れた少女の姿が景色に入り混じって薄くフロントガラスに映り込んでいる。
 もやもやした気持ちでハンドルを右左に切りながら、留置所の出来事を振り返っていた。
 間違いなく保恵は何か手掛かりに当たるものを思い出せていた。しかしながら、恵美達に話して聞かせてくれるどころか、協力を約束しておきながら結果としてより一層自分の殻に閉じこもる方を彼女は選んでしまった。
 男の姿になっていた事で恵美自身も今にして思えば柏木和人としての面が強く現れ過ぎていたように思う。お互い娘を持つ、あるいは持っていたからこそ、何か通じ合えるという期待を知らず抱いてしまっても不思議ではない。
 おまけに、確かに一度は向こうも心を開き掛けてくれていた、だから尚更失敗が重く圧し掛かってもいる。
 ひどく静かなエンジン音設計のはずのランツァがいつもよりはやかましく自身の心臓を奏でていた。恵美と瑞穂のどっちも本来お喋りとは言えない性質なのに普段はあまり気にならないものが気になるということは、より一層二人の間の会話が弾んでいなかった、そういう意味にならないだろうか。
 もやもやした気持ちで運転を続けていると、不意に横合いから声を掛けられた。
「どうした? もしかして昔の自分でも思い出していたのかい」
 自分でさえうまく説明のつかないはずの戸惑い。しかしながら、実際にはそんな事実はないと思ったにも関わらず、瑞穂の一撃は悩みの本質を的確に言い当てている気がしてならなかった。実際保恵に過去の自分の姿をなぞらえていたには間違いないのだから。
 運転している事を理由に恵美が黙ったままでいると、見た目とても10代の少女とは思えない格好で助手席で寝そべり気味になりながら瑞穂はこうも告げた。
「いいか悪いかは置いておいて、あたし達には力がある。たとえばあたしの場合、物をそれこそ一瞬で燃やしたり、あるいは凍らせたりする力が」
 右の手の平を上に向けると、瑞穂が一瞬その上に炎を出現させて見せていた。
 身体を沈める際に帽子のつばを一度前向きに直していたこともあり、恵美がこのまま真横を向いたとしても瑞穂がどんな表情をしているかは現在読み取ることができない状態にある。
 なおも気付かぬ振りで運転を続けていると、帽子の向こうから再度声が聞こえた。
「きっとあの講座のだって、恵美からすれば子供だましの護身術なんだろうな。それでも、あの人達にとっては身を守る為の唯一の手段なんだ。言い替えれば普通の人間はそれだけ弱い存在ってことさ」
「・・・・・」
 だとすれば瑞穂は自分達が強いとでも主張したいのだろうか。だとすればそれは大きな間違いだと恵美は考えた。少なくとも彼女に限っては。
 水原まり子を待っていた時もそうだ。女性の姿をしていてさえ、小さな子供、特に女の子が絡むと、“柏木和人”を抑えられない瞬間があるのを恵美はいつも思い知らされる。
 依然前を向いたまま睨むようにして黙っていた恵美に、再び声が聞こえた。
「だからって、恵美も知っての通り、あたし達は精神の改変は受けていない。いざという時の脆さはそこらの連中と同じなんだぜ。それだけは忘れないでくれよな」
「・・・・・・」
「向こうの荷物は向こうに背負わせときゃいいのさ。何も恵美が千也子や志緒とかいう子の事まで責任を感じる必要はないんだ」
 片目を瞑りながら、いかにもいたずらっ子を思わせる態度を向けて来た。視界の端に移るその姿があまり屈託がないので、全く相手の意図が掴めないながらも思わず「わかってるわよ」と相槌を打ってしまっていた恵美である。
「さ、本部に戻るのか、それともピープルコミュニティ直撃か? あたしはどっちでもいいぜ」
「!・・・・瑞穂」
 あまりの驚きに、運転など慣れたものの筈の恵美はもう少しで余計なブレーキを踏んでしまうところだった。
 返事の代わりに身体を起こした瑞穂が帽子のつばを後ろに回してからにぃと笑う。
「ちなみに、律加のバカはどうだか知らないけど、少々無鉄砲なリーダーをサポートする覚悟くらいあたしも千尋もあるって事、忘れてんだろ」
 まっすぐ自分を見つめて来る瑞穂に恵美はまたもや言葉を返せなくなっていた。
 けれど、結果は同じでも、さっきまでの触られて欲しくなかった場所を突かれた感覚とはまるで違う。
 どんより立ち込めた雲のように重く圧し掛かっていたものが、なくなったとは言わないまでも半分ほどは溶けるようにして消えて行くのを感じた。
「恵美しか入り組んだ謎を解けるやついないと思う。頑張って川上を始めとする連中に一泡吹かせてくれよ」
 それだけを言うと、目的地に着くまでの時間を今度こそうたた寝で過ごすことに決めたのか、瑞穂の身体は後部に傾けられた座席に先程以上に沈んでいく。
 一方、本当はこの面会が終わったら、すぐにでもどこかのピープルコミュニティの校舎に生徒希望を装って調査を開始する心づもりだった恵美。しかし何故か今も運転は本庁ビルの方を向いたままである。
 一旦道路の端に車を停めると、通信機を取り出して本部の番号をプッシュする。
 すぐに千尋が応答した。彼女もきっと恵美がそのまま突っ込んでしまうと思っていて、それだけに連絡を心待ちにしていたのだろう。
「恵美です。うん、面会はなんとか終わった。それでちょっと調べて欲しいことがあるの」
 ちょっと見には眠ってしまったように見える相棒を横目に捉えながら、恵美は必要事項を通信機越しに伝えた。それからアクセルをぐいと踏み込む。
 赤いボディはもはや夕闇というにはさすがに暗い帳の降りた中を、傍目には疾走を繰り返す形で消えて行った。

 さすがは千尋と言うべきか、ものの10分と経たない間にカメレオンの誇る情報担当は必要な情報をかき集めて来た。
「やっぱり大学のサーバーはセキュリティなんて全然考えてない場合が多いから楽ですよぉ」
 少々得意げな千尋に相槌を打ちながら、さすがに電話を続けたまま長く運転するのはまずいと思い、一旦車体を適当な場所に停める。
 恵美が頼んだのは保恵が通っていた短大の名簿の入手。それを基に電話相手を特定するつもりだった。
 彼女は保恵が出掛ける前にしていた電話に何か豹変の鍵となるものがあるのではと踏んでいた。そうでなくとも相手の女性が何か異変を感じ取っていた可能性は充分考えられる。
 無論保恵に聞けば一発の情報だが、あそこまで態度が硬化してしまうと再び話をしてくれるまでには恐らくかなりの時間が掛かる。そこで千尋の技能を利用しての調査に切り換えた。
「後は手に入ったデータを現住所である世田谷区で絞り込めばいいんですよねぇ」
 調査を頼んだ時、恵美が次を説明するより早く、キーを叩く音が聞こえて来た。さすがは千尋、思うところを読んで動いてくれていた。
 保恵のしていた“相手の子”という言い方から、この際先に年上を除外する。が、その上で絞り込んでも候補者は20人近く残ってしまう結果となった。どうやら地元の女性の多く通っている短大らしく、学校の隣にある世田谷区ではそれは無理からぬ現象だった。
「総勢18人か・・」
「恵美さん、どうしますぅ? 多いと言ってもこの間みたいに膨大なデータじゃないから、そっちでも見れない範囲じゃないとは思いますけどぉ」
 言われて恵美は通信機を眺めた。番号入力部の上にちょっとした液晶ディスプレイが付いているのが見える。
 大きさそのものは大したものでもないが、これでもインターネットのページの閲覧程度は充分に可能だ。当然、人物とそのプロフィールの受け取りくらいはお手のものである。
「そうね。じゃ、お願い」
 表の送付を依頼するや否や、通信機がデータ受信モードに入った。暫くして送られて来た一覧をボタンを押しながら下に繰っていく。
 送る前に気を利かせてくれたらしく、データは氏名、それにあれば旧姓の2種類のみに絞られていた。これなら閲覧も簡単である。
 ディスプレイに女性の名前が現れては上に押し出されるように消えて行く。

 乾 涼美(旧姓・藍原)
 伊藤 陽菜
 大塚 虹穂(旧姓・加藤)
 野村 園生(旧姓・北原)
 渡辺 明里(旧姓・日下)
 原 繭子(旧姓・小島)
 小磯 涼子
 今野 智佐子
 成瀬 由加(旧姓・佐々村)
 真鍋 史佳(旧姓・真田)
 浅香 千晶(旧姓・清水)
 高橋 冴
 羽生 芙紀
 藤井 歩
 本田 まりや
 長谷川 有夏(旧姓・槙野)
 宗近 くるみ
 安井 見咲

「該当者はないですねぇ」 
「・・・・・」
 見落としの可能性もあると思って、もう一度、今度はより一層慎重に恵美は名前一覧をスクロールさせた。それでも千尋の呟き通り、“さなちゃん”と呼ばれそうな人物はリスト上に存在しない。
「もう少し対象とする年度を広げた方がいいんでしょうか」
 ため息を交えながら提案する千尋。
 さすがに多くはないだろうが、年上でもちゃん付けする場合が存在する。今回もそちらに該当するのだろうかと思ったが
「そうかも。あ、でもちょっと待って」
 その瞬間とある考えが閃いた恵美は急いで画面を逆スクロールさせた。

 真鍋 史佳(旧姓・真田)

「??? 恵美さん、何かわかったのなら教えて下さいよぉ」
 千尋の可愛らしく膨れた声が聞こえて来る。
「名字よ。だけど、世田谷区・・・・・」
 恵美はその彼女の声もまともに耳に入らないほど、全身で画面を食い入るように見つめていた。
「千尋、まさかとは思うけど、真鍋史佳という人の配偶者を調べてくれる?」
「え?・・・・・・・・あ、わかった! もしかしてそういうことですかぁ」
 データが少ない状況ではただの思い付きでさえ貴重だ。
 賢い千尋はそれだけで意図を全て理解してくれた様子で、「まかせて下さいよぉ」と胸を張った後今度は戸籍情報その他の取得に奔走を始めた。
 さすがに前よりは時間が掛かったものの、こちらも程なく送られて来る。
 それによれば配偶者の名前は真鍋治樹(まなべはるき)。この名前を見た瞬間、恵美の目が一段大きく見開かれた。
 あの時ちらりと資料で見かけただけではっきりとは思い出せないが、獄死した真鍋孝志の兄が確かこんな名前じゃなかったろうか。
 すぐに千尋が叫び出す。
「恵美さん、さすがですぅ! やっぱりあの真鍋ですよぉ」
 早速彼女はこの前集めて来たデータで裏を取ってくれたらしい。
「そう、誉められてもね。もしかしてと思っただけなんだから」
「それでもスゴイですぅ」
「・・・・」
「だけど、一体どういうことなんでしょうねぇ?」
 千尋のにしては訝しげな声に、スピーカー越しにさえ千尋が小首を傾げる様が見えるようだ。謎の氷解はさらに大きな謎を生む事に繋がってしまった。
 通り魔として逮捕された保恵。その彼女の友人は、恵美達の推測が正しいとすると、なんと真鍋孝志の義理の姉という事になる。
 ただの偶然かもしれない。それでも二人には依然“真鍋”という2文字が気に掛かったままだった。

 一方、世田谷の一角にこじんまりとしていながらも割と奇麗な店を構える“アート・オブ・マナベ”。
 店内の美術品に対する効果を巧妙に計算しつくした人工の明かりの中、グレーの電話が先刻から着信を告げていた。相手が番号を隠している為、電話に付いている液晶ディスプレイには発信者を特定出来るような情報は何も示されていなかった。
 電話が掛かってきた途端に真鍋治樹は全体に角張っているせいで少しムスッとした印象を与えがちな容貌を一層険しくしていた。
 発信者不明なら着信を拒否すればいいと他人は思うかもしれない。しかし画廊を経営していると客の中には番号を知らせて来ない人間も珍しくない。名画集めというと聞こえはいいが、実際は骨董品と大差なく、財産隠しの面も伴う。
 だが今の真鍋治樹(まなべはるき)にはオーナーとして以上に発信者不明の電話を跳ね除ける事が不可能な理由があった。
 かれこれ20回近くコールした筈だが、音は一向に鳴り止む気配が無い。とうとう恐る恐る手を伸ばして受話器をカチリと取り上げる。
「はい、アート・オブ・マナベです」
「真鍋サン、心当タリハ見ツカリマシタカ」
 こちらから名乗った途端単刀直入にスピーカーから流れ出る声と口調にやはり聞き覚えがあった。男とも女とも、大人とも子供とも付かぬ、明らかに機械で処理されたと判る現実にはあり得ない空気の振動。
「あんたか・・・・・」
 内心一番話したくない相手だと知って真鍋はこっそりと舌打ちした。
 だが、同時に彼は謎の人物の口からとある言葉が飛び出すのをひどく恐れてもいた。だからこそ顔の見えない電話に苛つき、同時にひどく狼狽しつつも、こうやって受話器を置く事が出来ずにいるのだ。
 苛立ちと不安に苛まれつつとにかくこれ以上の声の震えだけは悟られまいと、彼は振動の続く指で普段は吸わない煙草を掴み、火を灯す。
 急いでそれを咥え、自分を落ち着かせるように何度も煙を吸い込んだ。含有物質のタールは有害かもしれないが、この場合は精神の薬として必要だった。
 棒状の部分が段々と灰に変わり、煙が肺腑に染み渡るに連れ、失い掛けていた平常心が取り戻されて行く。
「今調べている。そうだな、きっともう少しで何か掴めると思う」
 嘘だった。努力しているのは紛れもなく真実だが、成果どころか希望的観測さえ得られてはいない。
「だから、あと少しだけ時間をくれないか」
 自分では精一杯取り繕ったつもりの言葉。それでも謎の相手を騙すには至らなかった。
「モウ待テナイトイッタラ?」
「ま、待ってくれ!」
 全身が切り裂かれたような錯覚に真鍋は襲われた。こうなってしまえばニコチンやタールによる武装など最早無きに等しい。
 本当だ、そう言おうとして続きが全く出て来ない事に気づく。破滅の2文字が目の前を絶えずちらついていた。
 尚も何か叫ぼうとしたが、無機質なガチャリという響きと共に受話器の向こうが無人になった事に気付く。
「ああ・・・・・」
 喉が数度ひくついた。両手で頭部を抱えた真鍋がまるで溶けるようにしてずるずると床にうずくまるまで大した時間は必要としなかった。

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