戻る

透明領域

原案、文 West


 第二章  予感

 拘置所というお膝元での事件、真鍋孝志の衝撃的な死を世間に公表するか否かで、警視庁上層部の意見は二つに分かれ、激しく対立した。公表派は今後の捜査のやり易さに主眼を置いて、隠蔽派は立て続く事件に惨敗の続く警察への国民の信頼が薄れつつある現状にさらなる悪化がもたらされる事を恐れていた。
 妥協点の見つからない話し合いは平行線を保ったままに、事件は結局は世間の知るところとなる。どこから洩れたのか、日が昇るまでに詰め掛けたTV局、新聞社の警察詰めの記者達でブースは埋め尽くされた。彼らは砂糖を求めてやって来た蟻のごとく、詳細な情報を社に持ち帰る事が出来るようになるまでその場を離れようとはしなかった。
 ニュースとなった結果、隠蔽派の危惧した通りのシナリオが展開された。
 知らされたのが真鍋の死だけならまだ良かったかもしれない。しかし、その上に近頃目立ちつつある悩みの種、通り魔の頻発があった。多くは怪我をしただけで済んでいたが、被害者や、数少ない目撃者の証言には事件同士で食い違う点も多く、特定が可能な程の犯人像は一向に浮かび上がらずにいた。
 次第にそれは『頼れない警察』という大きなマイナスイメージとして、只でさえ滞りがちだった捜査の行方に晴れる見込みの無い暗雲を呼び寄せる。
 悪化の一途を辿る捜査状況に警察関係者は唇を噛みながらも、地道な捜査活動を続けていた。
 カメレオン本部の通信室は小規模の会議室をも兼ねている。捜査員らの努力の集大成とも言えるデータベースから千尋は幾つかのデータをプリンタに打ち出して、資料の出来上がるのを待っていた恵美達に手渡した。
「死因は鋭利な刃物を用いた首の裂傷による窒息死、死亡推定時刻は22:00〜23:00で、この鑑識結果は第一発見者である見回りに来ていた職員の証言とも一致する、か」
「ここにあるクロロホルムってのは手掛かりにならないのかい?」
 瑞穂が眺めているのは鑑識結果の続きだ。唯一の薬物反応としてクロロホルムが検出されたとしている。
「参考にはなるでしょうね。けれど、相手に真鍋を一発で倒せる見込みが無いとしたら、薬品を用いるのは当然の帰結でもあるわ。何かの拍子に声を上げられたくはない、腕に自信の無い素人なんかはそう考えるでしょ」
 千尋の渡した資料には鑑識や、真鍋についての調査結果のみならず、鍵師の楠田や爆弾魔の小林など、今回の事件に関係のありそうな他の人物についても一通り網羅されている。警察のデータベースで足りない分については民間からも情報を集め、そのせいで、出来あがった資料は所々写真があるとはいえA4用紙に10枚以上と、気楽に眺めるには難しい量となった。
 資料の“真鍋孝志”の項には以下のような記述が並んでいた。

 真鍋孝志
 性別:男
 身長と体重:169.5cm、56.8kg
 生年月日:19XX年7月27日愛知県岡崎市に誕生。現在20歳。
 備考:WBCフェザー級ボクサー。現在の位置は10回戦。
    9勝2敗(うち2KO、4TKO)

 この後に所属ジムが栄協という名前である事や、兄が世田谷で画廊を経営していること、以前の試合が今から約1年6ヶ月前に行われた事などが続いた。警視庁のデータだけあって2年前に麻薬所持の疑いで取調べを受けた経験がある事なども資料には記されていた。
 どちらかと言えば資料を読み解くのは苦手なタイプの瑞穂は興味のある所だけ拾い読みしていた。そして戦績の欄を眺めて言った。
「この真鍋ってやつ、すごいハードパンチャーだったみたいだな」
「瑞穂、ボクシングにも詳しかったんだっけ?」
 彼女とは対照的に恵美は資料の全ての個所にきちんと目を通していた。その恵美が驚いた様子で紙上の字を追うのを一旦中断する。
 瑞穂は少年めいた照れを凛々しい顔立ちに混じらせ、少し得意げに鼻の頭を指で擦り撫でる。
「大して詳しいって程でも無いけどさ。試合数の割にKOやTKOが多い意味ぐらいは見当が付くぜ」
 そこへ横合いから律加が割り込んで来た。僅かながら青みがかった2個の瞳が含むように瑞穂を見た。
「でも、このボクサーの事は瑞穂ちゃん知らなかったのよね」
 急に返答に詰まってしまった瑞穂。口を開けば喧嘩という律加が相手だっただけに、素直に引き下がることができず恨めしさを露にした。
「ぐ・・・だから、スポーツの中では詳しくない分野だって言っただろ・・・」
 くぐもった声のまま睨みつける。
 ライバルの窮地に涼しい顔の律加は威勢を失った瑞穂は無視して、ここぞとばかり恵美に貼りついた。
 好奇心をいっぱいに溜めた瞳は、恵美に対し事件の判りやすい解答を期待していた。
「恵美ちゃんは誰が真鍋って人を殺したと思うの? 鍵師? それとも爆弾魔の方?」
 もう判ってるんでしょと言いたげな笑みで無邪気に恵美を見つめていた。純粋に興味本位の律加にしてみれば警視庁の威信に関わる拘置所内の殺人事件もミステリー小説の犯人当てと大差ない。
「早く教えてよ」回答をせがんで来る。
「知っていれば話してあげたいけど、何とも言えないわね。美術品盗難事件と真鍋の死が繋がるかどうかさえ、今の段階でははっきりしないものがあるし」
 対する恵美は出来得る限りの慎重な物言いを選んだ。
 鍵師や爆弾魔の暗躍の可能性を最初に示唆したのは彼女だが、事件は色々な意味でまだ不明瞭な点が多かった。それが、推測なら可能でもいざ断定となるとしにくい理由でもあった。
 その旨を簡単に説明する。
 だが、好奇心が並外れて旺盛な律加は当然そんな答えでは納得しない。今まで興味を湛えて恵美が口を開くのを待っていた顔が、当てが外れた事で曇った。
「何だ、つまんない」
 可愛らしい唇を不満に尖らせ、踵を返すように身体ごとあらぬ方を向いてしまう。
「・・・」
 恵美が呆れ顔で沈黙した。充分恵美にも理解できているとはいえ、面白いかどうかが主体の律加の行動パターンはいつもながらとても捜査に携わる人間とは思えず、真面目な性格の彼女を戸惑わせるのに充分過ぎた。
 その彼女を置き去りにして、律加はすっかり事件に対する興味を失った様子でさっさと雑誌の鑑賞に戻った。
 代わって調子を取り戻した瑞穂が一旦律加を睨んでから慰めるように言った。
「恵美、いいからあんなノーテンキ娘は放っておこうぜ」
 一見した限りでは椅子に身を預けて本を読むのに没頭している律加。だが能天気という言葉が聞こえて来た途端に、ペンシルで柔らかくアーチを描いた眉が生き物のようにピクピク動いた。
 急にページを繰るスピードが落ちたが、他の2人との会話を始めた瑞穂はそちらに夢中で気付かない。
 今の瑞穂達の関心は犯人がどうやって監房に侵入し得たかという点にあった。死体の状況からして自殺には思えないが、その場合、本物にしろ或いはその代用品でも構わないが、とにかく“鍵”を手に入れておく必要があるのだ。
「爆弾魔の小林はともかく、鍵師の楠田は殺害に関係してると考えていいんだよな?」
「それは、どうでしょうねぇ」
 千尋だ。まるで中学生の少女のような幼い容貌には不似合いな、大人びた疑いの表情を見せている。
「何だよ、千尋」
「鍵は拘置所の人間なら手に入れられる場所にあると思うんですぅ」
「そんなの、当然だろ。現に第1発見者の職員だって」
 急に言葉を切った瑞穂が、不審なものでも見るような目付きになった。
「おい、まさか内部犯行とか言い出すんじゃないだろうな」
「可能性としてはありますよぉ」
 千尋は冷静に彼女の視線を受け止める。
 ドサッ。大きな動作で乱暴に背もたれにもたれかかった瑞穂は冗談はやめてくれという顔をする。
 恵美が特に否定しない所を見ると、彼女もその線を捨て切れないでいるのだと瑞穂は判断した。
 反り返るようにもたれているせいで、特に身体を揺らさなくても椅子が時折軋んだ。
「だけどなぁ・・・」
 警視庁が計画・組織したのを見ても判るように、カメレオンは言わば非合法の警察だ。警察官や裁判官などが犯罪を犯した例を瑞穂は知らないわけではないが、それでも同じ犯罪の撲滅を意図する側である拘置所の人間が殺人まで犯すというのは俄に瑞穂には納得できないものがあった。
 そこに会話に再び興味を引かれた様子の律加がやって来ていた。手には愛読誌をしっかり抱えたままである。
「ふーん、瑞穂ちゃんだけ仲間外れなんだ。かわいそう」
 気味悪いぐらいにこにこしている。
「どういう意味だよ。こっちは年中頭が春のノーテンキなんかに用はないぜ」
「またノーテンキって言うっ。そういう事ばかり言ってると、こうだからね!」
 瑞穂の椅子が不安定な状態にあるのを見て取った律加は渾身の力で椅子の前方を蹴り飛ばした。
 途端にバランスを崩した瑞穂の身体が椅子ごと後ろに傾いた。
 瑞穂の能力はほぼ熱の発生及び冷却に限定されており、ペンや消しゴムのような軽くてあまり運動エネルギーの大きくないものなら念動で動かす事が出来るものの、人間ぐらいの重さとなるとお手上げだ。
 すぐに背もたれごと背中を床に打ち付ける。
 身体をさすりながら再び起き上がった瑞穂に異変が起きた。
「ふっ・・・ふふっ・・・ふふふっ」
 当初はくすくす笑いにも似たくぐもった声音が段々大きくなっていく。
「何がおかしいの?」
 さすがに気になったのか律加が訊いて来た。宿敵である瑞穂の精神構造がショックで破壊されたとでも思ったらしい。
 ただ、それで自分を反省するような性格では勿論ない。
 とうとう瑞穂が大声を張り上げた。
「律加! 今日がテメエの命日だ〜」
「や! 瑞穂ちゃん、何すんのっ」
 両眉を吊り上がらせて襲いかかった瑞穂が、律加の後ろ髪を背後から掴んだ。
 そして力一杯引っ張った。相手が痛さで怯んだ隙に、両手で首を締めに掛かる。
 今日の律加は髪全体にシャギーとレイヤーを巧妙に入れていた。先日美容院で注文した髪型だ。毛先だけが跳ねるイメージだったのだが、今は後ろだけ取れ掛けになって寝癖のように見えた。
 その事に気付いた律加の怒りが数ランク一遍に上昇した。
 幾ら本気で締め付けていなかったとはいえ、彼女よりは力が強い筈の瑞穂の腕を首元から引き剥がして、その腕の一方に噛みついた。
「テェーーーッ」
 今度は瑞穂が悲鳴を上げる番だった。
「ふーんだ。セットしたばかりなんだもん」
 瑞穂を除いた3人、つまりは元は男性だったメンバーの中で、律加が一番お洒落に気を使った。面白いが基本の彼女は、女になったらなったでその境遇を楽しんでいた。
 反対に一番そういった事に関心がない恵美は櫛での手入れこそするものの、髪型はポニーテール一本槍である。そのポニーテールを揺らして、恵美は目線で対応を求めて来た千尋に、放っておきましょうと意志表示をした。
 彼女は千尋と2人だけで本題に戻る事にした。
「実は気になる部分があるの」
 恵美の資料の一部が赤色のマーカーで大きく囲まれていた。そのページを開いて、千尋に手渡す。
「最後の対戦日時ですかぁ。そう言われてみれば、確かに気になりますねぇ」
 手元の資料から一旦顔を戻した千尋が、目の前の恵美の意図を確認するように見つめた。
「でしょう? どうみても開き過ぎだと思う。悪いけど調べてくれない?」
「いいですよぉ」
 返事と共に彼女は席を立って、直に端末の方がカチャカチャ鳴り始めた。
 千尋は、ディスプレイ画面に何かのメニューを表示させた。タイトルロゴからするとどうやら今度は大手新聞社の社内用データベースらしく、そこで千尋は検索機能を用いて“真鍋孝志”と入力した。
 カーソルがアクセス中である事を示すマークに変化し、やがてディスプレイはそこの新聞社が系列に持っているスポーツ紙の集めた情報に書き換わった。
 専門誌だけあってさすがに詳しく、主だった試合の観戦記事まで網羅されていた。
 全部表示しようとすると一画面に収まりきらない。右端に現れたスクロールバーのボタンを千尋は小刻みに下方へ動かしていく。
 量が多く数珠繋ぎになった内容の選別をしばらく続けた彼女は、やがてはしゃいだ声を上げた。
「多分これだと思いますぅ」
 寄って来た恵美に千尋は得意そうに画面内の文章を指差す。
 10回戦で行われたある試合を記者が評したものだった。日時からして、丁度真鍋の最後の試合らしい。

『真鍋孝志VS竜原幸則戦(宮崎県体育館)
 1ラウンド開始早々、ワンツーから強烈な右フックでいきなり真鍋が主導権を握る。ディフェンスは器用ではないものの、桁違いのパンチ力とその割に手数が多い事で、すっかり相手の竜原は飲まれたかに見えた。
 しかし2ラウンド以後、落ち着きを取り戻した竜原は得意のリーチで反撃に転じつつ、スウェーバックで真鍋の力を無効化する。決定打を掴めない真鍋だが、5ラウンド目にバッティングにより竜原の瞼が流血、偶然かどうかの判定に随分もめたが結果は切った側の真鍋が取りあえずTKO勝ちを収めた。
 ただ、バッティングそのものはかなり不透明で、しばらく収まっていたダーティファイトの悪癖が再発した可能性も捨て切れない。当然、負けた竜原側も協会に調査を依頼すると息巻いており、いずれにせよ今日の勝利で日本王座挑戦の切符を手にした筈の真鍋の前途が険しいものであるのは間違いないといえよう』

 画面に見入っていた恵美が呟いた。
「変に実力のある真鍋とやって怪我をするより、ダーティファイトを口実に断る方が相手にとっては得策、か。何だか読めてきたわね」
「ファイトマネーが入って来ないのですからぁ、何か別の事でお金を稼ぐしかないんですよねぇ? それも多分非合法な手段で」
 確認を求めて来た千尋に恵美はにっこりと笑う。
「そういうことね。また、足で捜査する事になりそうだわ」

 変わってカメレオン本部の治療室。
 ここでは機材と薬品の中、作戦会議には参加しない文音が仕事の参考となりそうな医療番組の放送を趣味と実益の両方から楽しんでいた。
 真鍋の死以後、カメレオンは事件の捜査を一旦は警察の手に任せていた。当然、恵美達もこの警視庁ビルから仕事では一歩も出歩かず、怪我をしてくる危険性もない。
 それでもいざという場合に備え、毎日の薬剤のチェックや医療情報の収集を文音は怠らなかった。自分には敵と戦う何の力も無いけれど、その自分が後ろに控えていてこそ恵美達が存分に力を発揮出来るような存在でありたい、それが彼女の願いであり目標だった。
 だから目ぼしい番組はこうやって欠かさずチェックしていた。
「それでは先生、真の多重人格というのは決して本人の演技などではあり得ない訳ですね」
 画面ではさっきから聞き手の女性が権威と呼ばれる医学博士に視聴者の立場からの質問を飛ばしている。
 何回かの放映を組にして各テーマに沿った講義を行う方式で、今日は精神医学の第2回目だった。
「仰る通りです。ただ、二枚舌の人を一般に二重人格とか称するせいで、その手の誤解はまだまだ根強いものがあります」
 答える役を務めるのはまだ40代半ばの男性だ。冒頭の紹介によって彼・斉藤温(あつし)博士は日本の精神生理学の旗手として世界にも名を轟かせつつあると視聴者に知らされた。
 仕事上、時々メンバーのカウンセリングを行うくらいで文音は精神面の医学とはあまり関わりが深くないが、それでも博士の名前ぐらいは耳にした経験があった。
 斉藤博士の話は世界的なベストセラー小説が参考にした著名な症例の紹介に始まり、日本で報告されている例や別人格発現時の脳波や体機能の変化など、多岐に渡った。
 博士によれば、多重人格障害を持つ患者の示す各人格の間に生理学的相違が見られるという事実は既に20世紀初頭には知られていたと言う。
 最後に、現在では人格交代時の通常では説明のつかない機能変化を研究して癌やエイズなどの難病の克服に役立てようという研究なども多重人格の多発する合衆国で進められていると斉藤博士は告げ、番組はそこで締め括られた。
 その後はニュースの画面になった。
 アナウンサーの背後のプレートに“清進党震撼! 与党脱落の危機”という文字が踊っている。
「つい先程入って来た情報によりますと、与党である清進党から党の次代を担うと思われた国会議員達が大量に離党を決意した模様です」
 男性アナウンサーは緊張した面持ちで続ける。
「議員達は離党すると同時に、野党・開明党の川上兼次氏と合流して明後日にも新党を結成する方向で動いており、国民に人気の川上氏の離党に伴って開明党からも離党の意を発表する議員が続出している状況です。このままの展開が続けば結成後の新党は国会第一党となるのは間違いなく、よって政党が求心力を失ったとみて清進党に一層の離党者が出る可能性も・・・」
「・・・たいへん!」
 即座に顔色の変わった文音はすぐに治療室を飛び出して行った。
 通信室の前に設置されたインタフォンで中の恵美を呼び出す。
「はい・・・ああ、文音」
 スピーカのやや緊張感のある声が、相手の素性を認識して柔らかい響きに変わる。
 文音は知らないが漸く瑞穂と律加の争いのけりが着いたところで、これからの捜査方針を恵美は2人に説明しようとしていた。
「国会がすごい事になってます。とにかく早くテレビを付けて!」
 通信室のドアが急にスライドした。それを見た文音は急いで中に入った。
 恵美の素早い指示によってモニタ画面は既に文音の見ていた国営のテレビ放送に切り替わっていた。さっきのアナウンサーが今度は評論家と一緒になって激論と称するものを交わしている。
 本来ならそろそろニュースは終わりに差しかかる筈だが、どうやら放映時間を延長している模様だ。
 皆ニュースの内容にしばし言葉を失っていた。元来が楽天的な律加でさえもだ。
 瑞穂が最初に感想を述べた。
「おい、清進党の連中ってあたし達の最大の敵じゃなかったのか? これ一体どういう事なんだよ」
「それは判らないけど、このままだと逆流が始まるでしょうね」
「逆流?」
 狐につままれたような顔の瑞穂に対し、何かを心配している表情の恵美はヒントを差し出した。
「考えてもみて。権力を失った清進党の議員達に最初に襲いかかるものは何?」
 しばらくああでもないこうでもないとぶつぶつ呟きながら考えていた瑞穂。とうとう「降参」と両手と共に白旗を揚げた。
 恵美に代わって千尋が後を引き継いで説明する。
「今まで清進党の議員を簡単に捕まえられなかったのは桧垣法務大臣が掛けている圧力のお陰ですぅ。でも、その圧力がこれでなくなっちゃうんですよぉ」
 今度は瑞穂にも恵美達が何を口にしたいのか理解できたようだ。
 見る間に驚愕が広がった。
「国会議員の大量逮捕!」
 問いかけて来る瑞穂の顔に恵美と千尋の2人が険しい表情のまま同時に頷く。
「それも私達が何もしなくてもね。清進党は一気に勢力と国民の支持を失い、代わりに出来た新党が全てそれらを手に入れる。川上かそのブレーン辺りが考えたんでしょうけど、清進党が身内に逮捕者が出ないよう圧力を掛けていたからこそ使える巧いシナリオだわ」
 恵美はアナウンサー達の喋りつづけるモニタ画面を睨むように凝視していた。
 その画面が何の前触れもなく変化した。見覚えのある人物がそこに現れる。
 4人は口を揃えて叫ぶ。
「Mr.X!」
 画面内で頷いた彼はわざとらしく咳払いをした。
「皆既にニュースを見た事と思うが、国会にとんでもない党が誕生する可能性が出て来た」
 恵美がすぐ首を縦に振った。
「ええ、驚きました。それで私達は何をすれば?」
「一連の事件の捜査と同時に井上正義という男の動きにも目を光らせて欲しい。清進党を離脱し今は川上の懐刀に収まっている」
「・・・裏で今度の離党劇のシナリオを書いた人物、ですか?」
「そうだ」
 今度はMr.Xが険しい面持ちで同意する。
「川上は政界でも有名なタカ派だ。優れたブレーンが付いた事で、その動きを強めて来るのは間違いない。そしてここからが本題になるのだが、彼は君達の存在についてもどうやら井上から聞いて知っている様子だ」
 恵美達にもMr.Xの意図が飲み込めた。
 程なく川上は総理大臣の座を手にするだろう。そして、代々木代議士という大物逮捕の裏を知った彼は、政権に就くや否や自分達カメレオンを疎ましく思って仕掛けてくる可能性があるというのだ。
「とにかくこれからは今まで以上に慎重に行動して欲しい。以上だ」
 そこで彼の言葉は終わりだった。画面は唐突にニュースのそれに戻った。
 少し経ってから瑞穂が訊いてきた。
「どうする? 別の任務も入ったし、今日の真鍋に関する全員での出張捜査、やめにするかい」
「ううん。気にはなるけど新内閣が組織されるまでは向こうも何も出来ないと思う」
 一旦遠くを見るような目付きで瑞穂の案を検討した恵美は、視線を通常の状態に戻しててきぱきした口調で指示を出した。
「取りあえず出掛けるのは私と瑞穂だけにして、千尋と律加の2人には留守番をお願いするわ」
「はぁい。気を付けて行ってきて下さいねぇ」
 暗に離党劇に関する情報収集を依頼されている意を汲み取って千尋は頷いた。それに彼女は元々出歩くのが好きな方ではない。
 それとは対照的に「えーっ、ずるい!」という叫びと共に足をばたばたやって、捜査の仲間外れを受けたと思った律加は不満を露にする。
 置いてきぼりをくらった彼女の姿に瑞穂が意地悪く笑う。
「変にお前を連れてくと騒ぎの元になるからな。しっかり留守番してろよ」
「ずるい、ずるいよー」
 ライバルの勝ち誇った様子に律加はじたばたを一層ひどくさせた。
 ちょっと言い過ぎよという目で傍らの恵美が瑞穂をキッと睨み付ける。そして
「悪いとは思ってるわ。お詫びとして律加の好きなもの、何でも買ってきてあげるから。但し、銃はやめてね」
 途端にくしゃくしゃになっていた律加の顔が満面輝いた。
「言わないよ、モデルガンじゃつまんないもん。じゃあね、バナナクレープにチョコクレープと・・・」
 評判のクレープ屋が通り道にあたる代官山にあると告げた彼女は、いそいそと計5種類のクレープを紙に書かせた。
 そうなると現金なもので、手を振って恵美達を見送った。
 その後の本部の廊下。
「さすがはリーダー。太っ腹だよなー」
「瑞穂も半分出すのよ」
 当然でしょと恵美。
「ええっ? 何であんなヤツの為に」
「律加をあそこまでいじめたの、あなたでしょう」
 責任取ってよと言わんばかりの凄むような恵美の目線。瑞穂の瞳を強烈に貫いた。
 歩いている2人。エレベータに着いた辺りで瑞穂が言った。
「・・・ちぇっ、わかったよ」

 代官山、p.m. 3:00。
「おい、先に寄っていくのか?」
 踊っているような丸っこい字で“おれんじはうす”と看板に書かれたクレープ店の近くで速度を落とした恵美の姿に、助手席で車外の景色をぼうっと眺めていた瑞穂が不意に身体を起こした。
「評判の店じゃ、女の子達が大挙して押し掛けて来た段階で商品が無くなっちゃうもの」
 平日のまだぎりぎり学校終了前とあって、ここから見る限り店はまだそれ程は混んでいないように見える。ただ店の規模が思った以上に小さく、仕方なく恵美は近くの銀行の駐車場に車を入れた。
 エンジンを止めて瑞穂の方を向く。今の2人は女性のままの姿をしていた。
「すぐに戻ってくるから、瑞穂はここにいて」
 バタンと音がして、早足で歩いていく。
 その後姿を何とはなしに車内から見送っていた瑞穂は、不意に太陽の眩しさを感じて野球帽を被り直した。
 任務などでは仕方がないとしても、あまりじっとしていると退屈になって来る。
 銀行の前を少しずつ車間距離を開けながら自動車が連なるようにして通り過ぎて行く。 やがて周囲をきょろし出した瑞穂。
 かなり各店とも趣向を凝らした、洒落た街並みが目の前にあった。
「・・・こんな所まで通り魔が横行しているなんて信じられないよな」
 ここのところ警視庁にはひっきりなしに通り魔が現れたという情報が寄せられていた。しかし、恐怖のせいか生き残った被害者同士の証言は一致せず、事件の発生場所もまちまちだった。
 他に任務を抱えているから、瑞穂達も通り魔事件に関しては警察に任せて今は静観していた。
 街の様子の観察を続けていた瑞穂は銀行の入口に変わったものを見付けた。
 それはまだ小学校に上がるか上がらないかと言った、割に髪が長い少女だった。
 少女は銀行の自動ドアを通り抜けた途端に左右を見るように首を振って、すぐにまた中へと駆け込んでいった。それを短い周期で繰り返している。
「やれやれ、迷子かよ。恵美が見たら放っておかねぇだろうな」
 呟きながら観察を続ける。無駄な出入りを繰り返すうちに次第に女の子は顔をくしゃくしゃにさせていた。
「親は何をやってんだか」
 今度は建物を見た。こじんまりとした3階建てではあるが、どうせ窓口は1階にしかないだろうから小さい子供でも中をくまなく調べられない程には大きくない筈だ。
 今は女の子は中に消えている。そこに恵美が戻って来た。
「お待たせ」
 手にクレープの沢山入った袋を抱えている。そこから2つ取り出して、1つを瑞穂に渡した。
「アイスクレープよ。瑞穂にはこの方がいいでしょ」
「ああ」
 手に取ったバニラアイスのクレープを齧りながら、じっと建物の前を眺め続ける。
「どうかしたの?」
 固まったままの視線に気付いた恵美もまた、瑞穂と同じ方角へと目を向けた。
「まあ、見てなよ」
 怪訝そうな顔の恵美。
 少し経って、また女の子が走り出てきた。必死に辺りを見回す彼女はもうはっきりべそをかきかけていた。
「迷子なの?」
 振り向いた恵美に瑞穂が頷いた。
 再びドアの閉まるバタンという音がした。
「・・・やっぱりな」
 瑞穂がため息交じりに呟く。
「あたしがおせっかいする必要なんて、恵美とじゃ無いものな」
 そして彼女も車を降りた。

「おねーちゃんたち、ちやを助けてくれるの?」
 べそをかきかけていた女の子はやっと存在に気が付いて貰えた事で笑みを取り戻し、取り敢えず連れられるままに駐車場の辺りまでやってくると、蕾のような唇を動かしてそこに居た事情を口にした。
 少女の名前は水原千也子と言った。一緒に買い物に来た帰りに寄ったこの銀行で母親とはぐれ、探している途中だった。
 恵美達も協力して、呼び出しまで掛けてもらったが結局母親は見つからず、仕方なく付近の探索を彼女らは始めた。
 それでも見つからずに、窓口の受付嬢に千也子の名前と少し迷ったが自分の名前を伝え、恵美は彼女を連れて街を出た。
 “じゆうなんとか”という駅が側にあると千也子は言った。毎晩電車の音が煩くてたまらないらしい。
 おそらく“自由が丘”の事だと恵美は見当を付けた。
 エレベータでいつも“6”の数字を押すと言っていたので、マンションの6階に住んでいると判った。後は名字が水原と判っているから、千尋にしてみれば大手の不動産屋数軒の顧客データに当たるだけの作業だ。
「あー、ここだぁ!」
 見えて来た馴染みのある建物に千也子はかなりはしゃいだ声を上げた。明るく見えても、乗った事の無い自動車の車内では今一つ落ち着かないものがあったようだ。
 けれども、ドアを開ける段階で一瞬躊躇した。中に入っても一人ぼっちだ、幼い彼女はその事に今更ながら気付いたのだろう。
「大丈夫。ママが帰って来るまでお姉ちゃん達がいてあげる」
 恵美は泣きそうになった千也子の髪を優しく撫でた。
 黙って手を頭の後ろで組んでいた瑞穂がそれを見ながら2人に聞こえないよう気をつけて独りごちた。
「・・・ま、仕方ないよな」

 約30分後に母親は帰って来た。ひどく慌てていた様子で、ドアの方までパンプスの片割れが飛んだ。
 居間に愛娘の姿を見つけ、強く抱きしめた。
「ちやちゃん!」
 蒼白というに近かった表情が血の暖かみを取り戻していく。
「良かった・・・最近通り魔が多いし心配していたのよ」
 存在を確かめるように、繰り返し抱いた。
 待っている間、懸命に年齢に似合わない気丈さを保ち続けた千也子の防波堤が抱擁で崩れ落ちた。
「ママ!」まだ小さくか細い腕を母親の首にと回し、傍目も振り返らずに甘える。
「どうも申し訳ありませんでした、この子がすっかりお世話になってしまって」
 漸く落ち着いた様子のまり子が恵美達に向け、娘を抱えたままで頭を下げた。
 彼女の後ろでは買ってきたばかりの雑貨や日用品、それに衣類の入った袋が無造作に散らばっていた。自分が買い物した物の存在も忘れる程動転していた事に気付いて、顔を赤らめる。
「おねーちゃんたち、おやつ食べていくんでしょ? ママ、ちやはクッキーがいいな」
「はいはい」
 やっと自分の腕から離れた千也子の無邪気な囀りに、包み込むような笑みで応えるまり子。
「お二人ともどうぞ召し上がって下さい。何もありませんけど」
 意見を聞くより早く、まり子は長方形のお盆を両手で支えていた。
 上に乗っていた紅茶入りのカップとクッキーの山がすぐに恵美達の前に置かれた。
 卵とミルクの甘やかな香り、それと発酵茶独特の芳香が立ち上る湯気と相まって食欲を刺激する。
 恵美は大人しく席に着くと、品良くクッキーを口にした。
「・・・美味しい!」
 同時にテーブルの影に隠れた肘が皿を眺めたままの瑞穂の脇腹を小突いた。あんたも食べなさい、そういう意味合いである。
 リーダーに横目で睨まれ、おそるおそる手を伸ばした瑞穂だが、一口囓った途端現金にはしゃいだ。
「ホント、うまいや」
 材料のコストを砂糖で誤魔化したような洋菓子など全然受け付けない身体の瑞穂が舌鼓を打つ。それには余程しっかりした店の作品か、出来の良い手作りである必要がある。
 まり子の場合は後者に該当した。
「色々覚えるのが好きなんです。だから暇が出来た時はカルチャースクールにも通って。今は護身術講座と掛け持ちだから、結構時間的にきついんですけど」
 エプロン掛けのままにこやかに微笑むまり子。たおやかな細身から思いもかけない単語が飛び出した。
「護身術?」
「ほら、近頃物騒でしょう? 簡単な割に有効な技を教えてくれるというので大人気なんですよ」
 確かパンフがこの辺にあった筈だわ、そう言ってテレビの横の大きな紙袋から綺麗に重ねられた新聞紙を取り出し、床に置いた。
 日頃から整理整頓を欠かさない性格らしい彼女は、すぐに目的の広告を見つけ出した。“自己防衛術”、カラーの紙面に講座名である黄色の大きな書き文字が踊っていた。
「でも、ママ。もうやめた方がいいよ。みくちゃんのママもそれで」
「ち・や。あれは偶然だって言ってるでしょう」
 有無を言わさずに遮った。口調は変わらず穏やかだが、表情に軽い苛立ちが刻まれ始めている。この話題が親子の間で繰り返されたのは一度や二度では無いようだ。
 その事について恵美が水を向けると、一旦ばつが悪そうな顔になり、俯いて
「ご近所で、一番下の娘さんがこの子と同じ幼稚園に通っている方の行方が判らなくなったんです。ご主人が最近あまり家にお帰りにならなかったようで、ご本人がまた思い詰めるたちみたいでしたから、そのせいだと思うのですけど」
 まり子は自分もカップと紅茶パックを取り出して、ポットに手を伸ばしてお湯を注いだ。そのまま恵美の真向かいに腰を下ろす。
「元々護身術講座は彼女の紹介なんです。そうね、もう2ヶ月ぐらい前の話になるのかしら」
「2ヶ月!」
 地道な学習など性に合わない瑞穂が大きな声を出すと、まり子はくすくすと笑って
「あら、私が一番短いんですよ。お隣の吉住さんで3ヶ月、いなくなってしまったけれど紹介して下さった秋山さんなんか半年は行かれていた筈です」
 聞いてみて驚いた。まり子によれば現在このマンションの主婦は大半が既にその講座に通っているか、または通う事を検討中らしい。
「やっぱり物騒ですから」
 冷めかけた紅茶を一口流し込んだ後、今度は呟くように前に告げた科白を繰り返した。
 15分後、水原家の玄関先。
「どうもおじゃましました」
「いいえ。またいらして下さいね」
 丁寧に頭を垂れるまり子。横合いから千也子が元気良く走り出てきた。
「ちや、おねーちゃんたちをマンションの入口まであんないするっ」
 千也子がぶらさがるようにしてお気に入りの恵美の腕にとくっつく。
「行こっ、行こっ」同じ場所で何度も飛び跳ねた。
「外には出ちゃダメよ」
「はーい」
「それじゃ、よろしくお願いします」
 玄関を開け放したまま、フロアー中央に位置するエレベータが到着するまで、3人の背中をまり子は見送った。
 やがて扉が左と右にスライドした。
 箱の入り口が完全に塞がれた途端、あれ程はしゃぎ続けた千也子に変化が生じた。
 聡明な恵美はすぐにその行動の意味合いを理解した。
「ちやちゃん。私達にお話があるんでしょ」
 まず驚いた様子で顔を上げ、次いで話のきっかけを得た事での安堵、最後にこの先起こり得る出来事への不安へと目まぐるしく表情を変えた。
「最初にみくちゃんが言い出したの、ママが時々いなくなるって。そのうち、となりのシオちゃんもおんなじような事をしゃべるようになって。でも、パパもママも信じてくれない」
 段々声音が小さくなっていく。最後は幼い体格を震わせて、かすれた声で
「・・・ママがずっと消えちゃったらやだよぉ」
 ふと恵美が動いた。左の膝を付いて、不安に押し潰されそうな小さな身体を優しく抱いた。
 眼窩の奥の二つの宝石に強い愛情が宿っていた。まるで彼女自身が千也子をこの世に連れて来た存在でもあるかのように。
「信じるよ」
「おねーちゃん・・・」
 思いも掛けない恵美の応対にびっくりした千也子は、だがはっきり落ち着きを取り戻しつつあった。
 ゆっくりした所作で恵美が立ち上がった。
 機械が音で到着を知らせた。再度開いたドアが今度は1Fと箱の中の空間を繋げる。
「ばいばい、おねーちゃんたち」
 上と下を行き来する箱の前で手を振っている千也子と別れる。
 外に出ると陽光が急に襲ってきた。太陽は西の方にあり、少しずつ夕方のそれに変わりつつある。
 赤い車体に乗り込んだ恵美は再びエンジンを掛けようとした。
「恵美」
「なに?」
「情を移しすぎるなよ」
「・・・何の事よ」
 口調が尖っていた。
 急に険しく変わった視線が、助手席に腰を下ろした瑞穂に突き刺すように向けられた。
「まあ、落ち着けって」
 瑞穂は宥め
「自分じゃ気付いてないだろうけど、あの子と一緒にまり子さんを待っていた時の恵美、肝心の彼女すら絞め殺しかねない形相で秒針の動きを見つめてた」
「心配していただけでしょう。それとも何? 瑞穂はあの子の事が気にならなかったわけ?」
 急激に体感温度が下がった。
 冷ややかに告げる恵美の周囲だけ空気が圧縮されていく。
 それが液体水素よろしく大爆発を起こさない内に慌てた表情で瑞穂が続けた。
「そういう所が情を移しすぎだってんだよ。ったく、未だに“柏木和人”が抜け切ってないんだよな。あー、こわ」
 そう言って大袈裟に身体まで震わせて見せたが、あながち演技ばかりでもないらしい。緊張し、固くなった面持ちがそれを物語っていた。
 思いがけず前身の名前を出された事で、恵美が冷静さを取り戻した。
 本当言えば彼女には瑞穂の忠告は理解出来ていた。ただ過去を引きずるというのは、カメレオンの捜査官にはあるまじき失態で、下手をすればそれが搦め手となって、仲間をも窮地に陥れかねない。
 それが判っているから頭で理解できていても簡単には認められなかったのであり、またそうと認めた今は普段のしっかりした彼女からは想像も付きかねるくらい、小さくなって下を向いていた。
「勘違いするなよな。亡くした娘を今でも想ってる“柏木和人”の部分、あたしは結構好きなんだから」
 瑞穂が顔を少々赤らめ、驚いた恵美の視線に照れた笑いで
「性悪律加や他の人間はどうだか知らないけどね。さ、真鍋の兄貴の所に行こうぜ」

 真鍋の兄、真鍋治樹(はるき)が世田谷で経営している画廊に着くまで、恵美達はラジオから流れる音楽を聞いていた。
 けれども歌手が熱唱する歌の代わりに、恵美の頭の中ではさっきの千也子の言葉が繰り返し再生されていた。
 窓の外には平穏無事な風景が溶けるように後方に流れていた。けれどその奥底には凶悪な牙がじっと獲物を狙って影を潜めている。
『最初にみくちゃんが言い出したの、ママが時々いなくなるって。そのうち、となりのシオちゃんもおんなじような事をしゃべるようになって・・・』
 ほぼ直線の道が続くと見た恵美は運転を片手に切替えた。
 バッグを手に持った。中には一応手にして来たパンフレットと、それに通信機が入っている。
 さすがに両手を離す事の出来ない恵美は顔の向きを変えないで告げた。
「瑞穂、通信機を取り出して」
 帽子を頭でなく顔に被って、役に立たない日よけの代わりとしていた瑞穂が恵美からバッグを受け取った。ジッパーを開けて、中から携帯電話としか見えない装置を取り出す。「本部の番号を入力して」
 瑞穂が頷いてスイッチを入れ、14個のボタンを押していく。これらのボタンが押されると通信内容には特殊な暗号化が施される。
 作業が終わると通信機は恵美の手に戻された。
 左手でハンドルをコントロールしながら、恵美はスピーカーの応答を待つ。
 ややあって千尋の声が流れて来た。
「恵美さん、また何かあったんですかぁ」
 恵美はパンフの内容を思い出しながら告げた。
「“ピープルコミュニティ”という法人団体について調べてくれない? 多分カルチャースクールの類で登録されていると思うんだけど」
「判りましたぁ。こちらから調査結果を連絡しますぅ?」
 返答をするまでに少し間が開いた。瑞穂の視線を感じた恵美は、一旦首を横に振ってそれから申し出を否定した。
「ううん、戻った時に聞くわ。じゃあ」
 やや早口で告げた恵美は通信機の電源を落とす。
 その時だ。ラジオの音楽が唐突に小さくなった。
「何だよ。ここからがいいところなのに」
 後ろの方に倒し気味にしたシートにもたれるようにして好きな歌手の声を楽しんでいた瑞穂が、不満げにシートごと身体を起こす。
 やがて男性の声が重なるように流れ出した。
「番組の途中ですが、ここで臨時ニュースをお伝えします。近頃世間を騒がせていた通り魔事件の容疑者がたった今逮捕されました」
 瑞穂は文句を言っていた事も忘れて、内容に耳を澄ませた。
 男性アナウンサーは一呼吸置いてから、詳細事項を述べる。
「容疑者の名は吉住保恵。目黒区に住む27歳の主婦で・・・」
「・・・」
 アナウンサーは尚も詳しい説明を続けていたが、それ以上恵美の耳には入って来なかった。
 脳裏に水原まり子のおっとりした声が蘇る。
『お隣の吉住さんで3ヶ月、いなくなってしまったけれど紹介して下さった秋山さんなんか半年は行かれていた筈です』
 次に千也子の声が取って代わる。
『ママがずっと消えちゃったらやだよぉ』
 暫く考えていた恵美は、運転に注意しつつ、今度は片手で番号を押していった。
「あ、恵美さん? やっぱり情報要るんですかぁ?」
 千尋が恵美の声を認識した途端、まるで彼女の心を読んだかのように尋ねてくる。
「うん、お願い」
 内心の焦燥を恵美は必死で封じ込める。
「そうなんですかぁ・・・」
 何故だか千尋の口調は歯切れが悪かった。
「どうかしたの?」
「ちょっと情報が手に入りすぎて、口だけで伝えるのは難しそうなんですぅ。本部に着いてからじゃ、まずいですかぁ?」
「・・・ううん。わかった。じゃあ」
 そう言われてしまえば、無理に急がせる理由などない。仕方なく恵美は少し落胆した様子で千尋との会話に終止符を打った。
「いいのかよ、恵美? あの子が気になるんだろ」
 ふと瑞穂が訊いてくる。恵美は激しくなった心臓の鼓動を彼女に知られまいとした。
 真鍋治樹の画廊まで、もう多分1kmも無い。
「恵美の好きにしろよ」
「瑞穂?」
「本部に戻りたいんだろ。顔に書いてあるぜ」
「・・・」
 瑞穂にずばりと突かれた。ハンドルを握ったままの恵美は、リーダーとしての責任感に阻まれ、彼女の問いに肯定する事も出来ずに黙って前を見続ける。
 不意に瑞穂が破顔した。
 驚いた顔の恵美に今度は瑞穂は帽子で顔を隠すように被って
「さっきも言ったろ。あたしは“柏木和人”の部分が好きだって。こういう時まで優等生ぶる必要なんかないぜ」
「・・・瑞穂」
 赤くなった恵美。通りにある飲食店の駐車場に、急ブレーキと共に車体が突っ込まれた。
 再びエンジン音が大きく生き返り、車はさっきとは逆の方向に向かって走り出した。
「迷ったらごめんなさい」
 道に戻ってすぐハンドルが急激に切られた。スピードの出せる裏道の利用に変えたのだ。
 警視庁の白と黒のイメージには相応しくない、ランツアの赤いスマートなボディが建物と建物の隙間に吸い込まれるように消えて行った。

戻る


□ 感想はこちらに □