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原案、文 West


 第一章  蠢く者共

 秋めいた涼やかな風に乗って潮の香りが運ばれて来る。手入れなどされていそうにない、見るからに建て付けの悪そうな倉庫が斜め前方に見える。
 男は吸っていた煙草の火を、革靴の踵で揉み消した。ざらざらしたコンクリートの床に白い灰で出来たシミが広がった筈だが、灯火もろくに無い小さな埠頭の、それも深夜と来ている。星明かりの下、靴底の擦れる音だけがその事実を伝えた。
40代後半といった風体にいかにも名門大学の輩出であると感じさせるトレードマークの彫りの深いインテリ顔。一見人当たりの良い笑みを浮かべているものの、その笑顔は毒を含んでいる。
 彼に付き従うようにして、数人の黒服の男達が一斉に短銃を構えていた。銃口は全て二人の少女にと向けられていた。容貌からするとどちらも20前といった様子で、割と長身である。
 飛び道具を前に観念しているのか、命の灯火が吹き消される寸前となっても彼女達の態度に変化は見られなかった。状況が状況だけに不敵にすら感じたが、男はそれを精一杯の強がりと見て取った。
 ややあってポニーテールの娘の方が口を開いた。髪型の命名の由来である馬の尻尾のような長い一房が背中の中央近くまで垂れ下がっていた。
「では、どうあっても自首はして頂けないという事ですね?」
 上質の絹糸を思わせる程細く、僅かな光の下でも艶やかに輝く髪。洋装も似合ってはいるものの、形が着物であればさぞかし目を引いた事であろう。手入れの行き届いた髪と言い、同じ濃い黒をした瞳と言い、今時珍しく和風美人と言う表現がしっくりくる。
 2対の夜の色の宝石が相手を凝視する。慎ましげな外見とは裏腹になかなかに気の強そうな娘だ。
 男は侮蔑の視線で少女を見、次いで尊大な様子でツンと上向いた鼻を鳴らす。一体誰と話しているのだとでも言いたげである。
 それもその筈、男は現文部大臣で連立内閣の第一党・清進党のNo.2、代々木草伸その人だった。代議士は告げた。
「我が党は徐々に勢いを盛り返しつつある。まだ数字の上では開明党の協力が必要となるが、実質上は今度の総選挙で政権を回復できる見込みだ。大麻との関わりを今、国民に知られては困るのだよ。
「その国民の中にはね、麻薬中毒で未だに病院を出られない人だっているんだよ。あんた達のせいでね!」
 尖った声の主はもう1人の少女である。男の子のような凛々しい顔立ちを怒りに歪めつつ、正義感を身体一杯にして叫んだ。
 途端に今まで代々木を護るように付き従っていた黒服の男達がずらりと前に進み出た。
 ガチャリ。自分達以外には気配の無い夜の埠頭に銃の撃鉄が起こされる。
 重々しい静寂を破り、代議士が哄笑した。
「本当に勇ましいお嬢さん方だ。だが、目上の者と話す時には口の聞き方に気を付けた方がいい」
 代議士の笑みがぞっとする程酷薄な微笑へと変化する。
「もっともこの助言は最早役立ちはしないだろうがね」
 胸ポケットから煙草を箱ごと取り出し、中に一本だけ残っていた煙草に火を付けると、空箱を部屋の隅に投げ捨てた。
 すっかり冷えた空気に白煙の雲が広がって消える。
 屈強な体格の男が早足で近づいて来た。見るからに体育会系の身体だが、精悍な顔立ちに浮かべているのは強者に媚びるような嫌らしい笑みである。
「山村か。積み込みの方は終わったのか」
「へい」
 山村興産社長、実は広域暴力団山村組組長の山村実はそう言って大きな体を揺すった。彼の話の通り、遠くで段ボール相手の作業を続けていた男達が、今はいなくなっていた。皆20メートル程向こうに止まっている2台のトラックに乗り込んだに違いない。
 重なり合うようにして複数のエンジン音が聞こえて来た。どれも荷台に幌のように見える大きな麻製の覆いが被せられている。あの下には内部に大量の大麻を隠した工業製品の類が置かれているのだろう。おそらく、最近ならパソコン関係と言ったところか。
 山村はトラックがトラブル無く埠頭を後にする事が出来るかどうか確認していた。代議士も同じだ。
 二人がトラックに気を取られている間にボーイッシュな少女がすかさず何事かを仲間に耳打ちした。すぐさまもう1人が頷く。彼女らもまた、埠頭を出ていくトラックを真剣な表情で見送っていた。
 代議士と山村が視線を戻す。今度も二人の大物の発する威圧感を平然と少女達は受け止めた。
 多少はプライドが傷ついたか、習字の細筆を用いて丹念に書き上げたような代々木の眉が顰められた。しかし、すぐに
「まあいい。冥土に着いてからも退屈しないぐらい、土産話は聞かせた」
 洒落たチタンフレームの眼鏡の奥の双眸が鈍く光る。
「では、お別れだ」
 摘むような仕草で火のついた煙草を右手に持ったまま、居並ぶ部下に向けて顎をしゃくった。
 すぐにも黄泉からの迎えが幾筋もの条線となり、銃どころか単純な武器すらも持っている様子の無い少女達を襲う、計算上はそうなる筈だった。
 いつの間にか少女の1人が瞼を閉じていた。
 165cmはあろうかという長身から常人には見えぬ波長の輝きが生まれ、見る間に周囲の空間に波及を始めた。炎を連想させる紅蓮の光。俗にオーラと呼ばれる霊光であり、それが陽炎の如く揺らめき、重なり合って立ち上るさまはさながらお伽噺に語られる精霊である。
 構えた拳銃に黒服達が異変を感じた時、既に遅かった。
「うぁっ」
 すぐに呻いた声があちこちで生まれ、次々拳銃が床のコンクリートの上へと落下する。負傷した掌をもう一方の手で押さえ、のたうち回る黒服の姿も見られた。
 どちらかと言えば切れ長な構成の代議士の目が大きく見開かれていた。常識を遙かに超越した不可解な事象に戸惑いを隠せないでいる。
 そしてそれは今まさに籠に閉じこめるばかりだった小鳥に逃げられたという憎しみとなって現れた。
「貴様ら・・・」
 唇の端を歪めた。囁くようなテノールであった筈が、随分としわがれた声に変わっていた。
「そんなに熱かった? 随分と手加減したつもりだけど」
 力を放った娘があっけらかんと訊き返して来た。どうやら頬が緩みそうになるのを堪えている様子で、自信家の代々木のプライドは一層傷付けられた。
「幾ら金の成る木の入荷の確認の為とは言え、不用意に港までいらしたのは間違いでしたわね。代々木先生」
「お陰で屋敷に潜入する手間は省けたけどさ。あんた達の負け。神妙にしなよ」
 出会った時と変わらぬ余裕を浮かべ、平然と二人は立っている。
 抗おうにも実力の違いを既に見せつけられている。
 代議士はすぐには口を開かなかった。やがて俯き加減で訊いた。
「何故トラックがいるうちに捕まえなかった? それだけの腕だ、いつでも反撃出来ただろうに」
「桧垣法務大臣を通じて先生は特捜部の動きを抑えておられます。証拠だけあった所で仕方ありません」
 ポニーテールの少女が変わらない口調と声で告げた。
 代議士の顔色が僅かに陰った。だがすぐに冷静さを取り戻し、「知らないな」とうそぶいた。
「仮にそれが本当だとしたら、私を捕らえた所で無駄じゃ無いのかね」
 声にやや張りが戻った。おくびにも出さないが、活路を見出した事でほっとしかけていた。相手の少女は何か考えているようにも思えたが、表情に目だった動きは見られなかった。
 一頃程の隆盛は無いが、まだまだ代々木の属する清進党は内閣の主要ポストをきっちりと押さえていた。彼女達の存在そのものは手強いが、警察官か或いは特捜部の所属の者であるのは間違いあるまい。それならば代々木の、ひいては清進党の掌中とする事が可能だ。
 けれどもそう思う反面、気に掛かる事項もあった。
(何故、この娘達が圧力の事を知っているのだ? それもこんなに詳しく)
 一介の警官がそんな情報を耳にする機会は無いだろうから、彼女達は恐らくは中堅、あるいは幹部クラスという事になる。しかし彼らの動向については、大臣を通じ清進党本部に逐一報告が届くようになっている。特捜部についても同様だ。それらには超能力を操る事が出来るなどという人物の存在は記されていなかった。
 もう1人の方は未だ力を見せていない。彼女も仲間と同じく不可思議な能力を使うのだろうか。
 代議士の傍らに立ち、ずっと娘達の隙を伺っていた山村が動いた。骨太でずんぐりした感じの右手には刃の細いナイフ、それを意外にも超能力者と判っている娘の喉笛目がけて切り付ける。超能力が恐ろしいなら、それを使う暇を与えないという戦巧者ならではの作戦だ。愚鈍にすら見えかねない大きな体格が滑るように近づいて、無慈悲な一撃が娘を襲う。
 しかし不気味に煌めく刃は鮮血に染まりはしなかった。ナイフは喉に達する前に突如その進行方向を変え、半径の小さな回転軌道を描きつつ虚空へと弾け飛んだ。埠頭の頑丈なコンクリートで出来た地面とぶつかって華やかな金属音を立てる。
 下方からいきなり蹴り上げられた山村は、その正体がもう1人の少女の脚だと気付くまでに多少の時間を要した。
 驚いたのは当の山村だけではない。代々木もまた、自ら目撃した光景を信じる事が出来ずにいた。
(山村はヒットマンとしても一流の筈だ。それを・・・)
 思わず後ずさろうとして、脚が震えている事に気付く。自分達よりも小柄な筈の娘達の体格を妙に大きく感じた。
 ポニーテールの方の少女が手錠を持って近づいて来た。抵抗しようにも筋肉が神経系統から切り離されたように動かなくなっていた。 
 手錠は無骨だが頑丈な造りで、もう片方の娘も同じ型のものを所持しており、計2組の犯人護送の図が夜の海に完成した。
「さてと」
 二、三回引っ張って手錠が外れないことを確信したポニーテールの少女が独りごちた。通信機を取り出し、スイッチを入れる。見た所は携帯電話のようにも思えるが、電話番号にはあり得ない14桁の数字を押して繋がった先は、静寂さからして室内のようだ。
「恵美さん?」
 数秒程して小型のスピーカーから流れ出したのはやはり少女のものらしき音声だった。ただ、二人に比べずっと幼い。
「代議士達は捕らえたわ。トラックが出ていったのは9分30秒前で社名は東西通運」
「判りました。調べておきますねぇ」
 電波の向こうの女の子は口調にこそしまりが無いものの、内容そのものはテキパキと応答している。
 通信機のスイッチを落とし、振り向いた彼女と代議士の視線が交錯した。
 時間が多少経過した事もあり、落ち着きを彼は取り戻しつつあった。冷静になって考えれば、今回警察は動けないだろう。直に総選挙を控えた清進党は、身内に犯罪者が出るのを極力防ごうとするに違いない。そして警察のパートナーである検察の方の動きは桧垣法務大臣が既に抑えている。
 ほくそ笑みつつあった彼は、その目先の幸福のせいで娘達が何を考えているか、汲み取ることが出来なかった。
 「証拠だけ揃えた所で意味が無い」きめ細かな絹糸のような黒髪を夜風に揺らしながら少女は確かにそう言ってのけたのだ。

「・・・強盗団は輸送トラックを装っている。盗品の美術品は小さく、荷物の中に隠し持っていると思われる。銃を所持している可能性有り。付近の警官は厳重に警戒に当たること」
 無線機が喧しく、緊急連絡と称する情報をがなり立てた。この連絡の内容は皆既に熟知している。だからといっていちいちスイッチを切る訳にもいかない。居並ぶ警官達はまたかといった表情に緊張したままの面持ちを歪め、防弾用メットにこれまた凶悪犯と対決する為の丈夫な防護盾という重装備に身を固めていた。
 眼前には片側2車線の道路が双方向へ殆ど真っ直ぐに伸びていた、狭いようでこれでもこの辺りでは幹線道路だった。事実行き交う車の量は多い。
 只でさえ渋滞が生じやすいのにそんな所で検問などやっていれば、ドライバーのストレスは極限に達する。検問を出ていく時にあからさまに警官を睨み付け、急発進で走り去る存在もあった。
 それでも根気よくドライバー相手の尋問と観察を繰り返す警官達を上空から真剣な面持ちで眺める姿があった。彼女は狙撃用の長銃を携えている。
「どうですかぁ、律加さん。これで狙えそうですか」
 操縦席に陣取った少女は自ら律加と呼んだ相棒の方へと振り向いた。
こうやって腰掛けていても小柄なのが判り、中学生か、いいとこ高校1年ぐらいにしか見えなかった。だが小さな手で操縦桿を器用に操った。
 機体が右に傾くのが感じられた。千尋ほどではないものの比較的小さな体躯を慎重に乗り出し、機体に貼り付くようにしながら律加は外の様子を観察した。
「ちびちゃん、後10度左回転ね」
「判りました。でも、律加さん? 私には一応、千尋という名前があるんですからねぇ」
自動車のハンドルやミッションギアより遙かに難度の高い操縦桿を狂い無く動かしながら、操縦席の少女は無駄だとは思いつつもという口調で、それでも念の為にと付け加えた。
 やがて回転が停止した。先程よりも風が強くなったようだった。真っ直ぐに空気の流れが内部へ侵入してくる。向かい風に近い状態のようだ。
「OK、ちびちゃん。ここでいいよ」
 操縦席の千尋がため息を吐く。
 今度はいちいち機体に貼り付かなくても開いたドアから検問所付近を見て取る事が出来た。
 PSG−1の銃口が検問所の方へと向けられる。
 この銃はアメリカの『SWAT(Special Weapon And Tactics)』や、新しい所でペルーの軍特殊部隊なども採用した、速射性と命中精度の双方に優れたライフルだった。難を言えば少々高く、予算が無い部隊では、人数分揃えるという事は不可能に近い。
 道路の両側に設置された黄色の回転灯が2個の点にしか見えなかった。律加はスコープのスクリーンに顔を当て、同時にエベレーション・アジャスティング・ノブの表示を“6”に合わせた。これで対象距離として600メートルが設定された事になる。
 円の中のミニチュアのようだった視界が急に拡大された。
 アクセサリを何も身に付けていないセミロングの髪が突風にはためいた。
 弾丸に与えられるエネルギーは相当な物だが、その為に気象条件を無視できるのはあくまで標的が近い場合に限られる。おまけに今回の場合、足場そのものが揺れている。
 だが、その苦労も一向に該当車両が通りかからなければ水泡に帰してしまう。
「ちびちゃん、本当にトラックなんて来る?」
 銃を前に構えたままの律加が顔だけを操縦席の千尋に向け、訊いた。
「東西通運は山村組の息の掛かった会社なんですよぉ。確認の為にスケジュールを覗きましたが、それらしい荷物が入ってましたっ」
 少々膨れた様子の千尋は、大人しい彼女には珍しく勢いに乗って付け加える。「目的地である山和電機に着くにはここを通るしかないから、多少の渋滞でも途中で別の道に逃げる可能性は無いんですぅ」
 警視庁のメインデータベースに虚偽の情報を登録し、罠を千尋達は仕掛けた。美術品強盗としたのは、警察の情報を逐一チェックしているだろう清進党に張っているのを勘付かれないためだ。
 彼女はすぐに自説の正しさを証明した。5分後に「ほらぁ」と道路の一点を指さす。
 風向きと強度、それに重力加速度とヘリの揺れ等を計算に入れ、律加は理想とする弾道を即座に弾き出す。
 千尋の言葉通り一般自動車の列に混ざって標的であるトラックが近くまでやって来ていた。灰色の地に赤の角張った書体で、”東西通運”と書かれているのが読み取れた。
「あれ?」
 意外にも組員らは検問の存在に気付いて大人しく車を止めた。数人がかりで警官が荷物の検分に忙しく務めている。美術品強盗だと思っているから、その捜査に手心は加えられない筈である。彼らはボードを一つ一つ、丹念に調べている。
 いかにも暴力団らしい無理矢理な検問突破を期待していた律加の方は、味気ない展開にいたく不満な様子だった。彼女にとっては作戦の成功よりも堂々と銃を撃てる事が大切らしい。
「エミーさんの言った通り、一般市民の前で大麻が見つかる事が重要なんですよぉ。そうなれば政界の力で足枷を填められていた警察も動きを取り戻す事が出来ますから」
 子供っぽい外見に似合わない秩序だった説明が、千尋のまだ未発達な唇から紡がれる。
「そんなの、知ってるよォ」ぶっきらぼうに呟く律加の頬は依然膨れたままだ。
 これで大麻が発見されれば、今回の任務はあっけなく終了である。
「あ、あそこ」
 千尋が前方下の光景を指して言った。
 取り調べを続けていた警官達が1ヶ所に集まっていた。ここからでは聞こえないが何事かを話し合っているのは間違いない。彼らは一斉に散り始めると、振り返ってドライバーである組員達にぺこぺこと頭を下げた。
「・・・確証が持てないから、壊してまでは調べないんですねぇ。」
 期待の目で一部始終を観察していた千尋が、見るからに肩を落として言う。
「もう少し細かい情報に代えておくべきだったかも」
 一方、律加はくすくすと笑い始めた。千尋が驚いたように彼女を見た。
「ここはあたしに任せて」
「律加さん?」
 取り出された製品はまだ元の箱には回収されていない。再びPSG−1を律加は構え、素早くトリガーを数回引いた。
 すぐさま連続で7.62mm口径の弾が飛び出した。律加が狙ったのはCPU上に取り付けられたファンだった。丁度20枚近くにのぼるマザーボードが確認の為静電防止材のパッケージから出されていて、その内の5枚が標的にされた。ファンなら着脱は簡単で、動かなくなるのを覚悟で内部を取り払ってしまえば結構スペースは広い。麻薬の隠し場所には持って来いだろう。
 すぐに幾つかのマザーボードが無惨に弾け飛んだ。どれだけ遠くの目標を確実に破壊できるかを示す有効到達距離はPSG−1の場合実に700メートル。狙ったのはファンとはいえ、例え向かい風であっても600そこそこしか離れていない基板などひとたまりも無い。
 俄に警官達の動きが慌ただしくなった。それは不明の銃弾の着弾によるものでは無く、何かとんでも無い代物が中から現れたという雰囲気だった。一度は解放した組員達相手に尋問を再開したらしき様子がその事を物語っていた。
「やったぁ!」
「律加さんに掛かればこんなもんだよ」
「さすがぁ・・・じゃないっ。うまく大麻が出てこなかったらどうするつもりだったんですかぁ!」
 一時は作戦成功に随分嬉しそうな顔をしていた千尋が、すぐに怖い顔で振り向いた。
「その時はその時。あそこにあるやつ、全部壊せばいいんだから」
 怖い事をあっさりと口にすると、気味悪い程にこにことしている律加は再度銃口をトラックへと向けた。
 数秒後、風が硝煙の匂いを運んで来た。
「OK。終わったよ」
 千尋はなおも何か口にしたそうな様子だったが、何も言わなかった。代わりに大きな吐息が可愛い唇から洩れた。
 ドライバー達の中には渋滞のイライラも忘れて車を降り、遠巻きに一大捕り物を見物しようとする姿も見られた。逃げようにも銃弾で穴の空いたタイヤでは組員達もどこにも逃げられない。
 直に応援のパトロールカー、そして新聞やテレビの記者団達が先を争って駆けつけるだろう。後は通常の警察、そして検察庁の管轄内だった。
「それでは帰還します」
 千尋が厳かに宣言した。自ら引き起こした騒動を後目に、黒色の部隊名も何も記されていないヘリは静かに高度を上げていった。

 大麻を押収された山村はすぐに代議士との共謀を自白した。大物議員が絡んでいた事で人々の事件に対する関心は一層高まりを見せた。
 自ら汚職議員を出した清進党の権威は失墜し、大麻が発見された後の展開は急速そのものだった。くびきから解放された特捜部は警察と協力して、大麻のみならず脱税や収賄等の汚職を白日の元に晒した。
「腐敗しきった現内閣に正義の鉄槌を!」
「今こそ清進党の人民を省みない政治にとどめを刺すときです。どうか我が皆生党に温かい一票を」
 街宣車がひっきりなしに通り過ぎていく。丁度総選挙が近付いているとあっては、他党の攻撃の矛も否応なしにその厳しさを増していった。
 一方。
「……全く困った事をしでかしてくれたものだ」
 まだ真新しい新聞が長机に叩き付けられる音がした。石黒篤防衛庁長官である。
 彼は“お手柄特捜部”の見出しがデカデカと入った朝刊を憎々しげに見つめた。記事によれば捜査チームは一年近く代々木代議士の足取りを追っていた事になっていた。
「これで今度の清進党の議席(いす)は間違いなく減る。開明党との連立も取り付け、漸く政権は回復基調にあったのにどう責任をとるのかね、代々木君は」
「石黒君はこういう事件を起こさないでくれたまえよ」桧垣法務大臣が皮肉った。
 急に言葉に詰まった様子の石黒長官である。自慢の口髭を小刻みに震わせている。どうやら彼にも随分と後ろ暗い所があるらしい。
「そんな事はどうでもいい! それよりも特捜部のお目付けは法務の桧垣君の仕事じゃないのか」
「何っ。私のせいだと言う気かっ」
 そこへ戦後の日本を支えて来た大御所・戸塚代議士の叱責が飛んだ。
「いい加減にしないか! 仲間同士いがみ合う為に集まった訳ではなかろう」
 二人の世間で言う大物議員はたちまちしゅんと萎れてしまった。
 清進党本部、第一会議室にはそうそうたる顔ぶれが集まっていた。皆現在入閣を果たしているか、そうでなくても過去に入閣経験がある人間ばかりだった。僅かにそうでない者達も出席を認められてはいるが、彼らにした所で次代の幹部と目されている。
「……代々木君を捕らえたという者達は一体何者なのです。記事では特捜部の者となっているが、実際にチームが動けた筈は無い。それは私が一番良く知っています」
 桧垣法務大臣が早口で尋ねて来た。
 別の幹部が同意した。厚生大臣を務める鏑木昇である。
「山村は一見愚鈍に見えるが、その腕、特にナイフ捌きはかなりのものと聞いております。こう申しては法務の桧垣君に失礼だろうが、頭でっかちばかりの特捜部のエリート連中にあの者を倒す技量があるとはとても思えない」
 残りの幹部達も皆同様に考えていたのだろう。戸塚代議士に視線が集まった。
「カメレオン、と言っても解るまいな。最近売り出し中の警視庁内部の非合法捜査集団について聞いた事は?」
「カメレオン? SAT(警視庁特殊急襲部隊)の別名ですか?」
 戸塚代議士がゆっくりとかぶりを振った。
「SATの存在が一般に発表された事自体はついこの間の話だが、政治の世界では既にその存在は当たり前だった筈だが? 第一カメレオンは対テロ部隊ではない。まあ、テロ行為に対しても、お飾りのSATなど比べるべくもない働きをするだろうがな」
「まさか」
 代議士は会議室の扉を開けて外で待機していた青年を呼んだ。ただ、青年と言っても少々トウが経ちすぎていて、あくまで衆議院立候補が25歳からという政治家社会の物差しに照らしての話である。
「何でしょうか」
 ほぼ一定の速度を保ってその青年が近づいてきた。なかなかに几帳面らしい。
「例の資料を開いてくれ」
 判りましたという簡潔な受け答えと共に、カーテンが引かれ、小型のテーブルに乗ってプロジェクターが運ばれてくる。
 ノートパソコンが開かれる。マウスで何か操作した途端、天井からぶら下がっている真っ白だったスクリーンに、ぱっと色が付いた。
 画面にはセミロングの髪に緩くウェーブを掛けた、まだ17,8の少女が映し出されていた。髪が小麦色に見える。光の加減だろうか。
「志堂律加と名乗っている。可愛い見掛けをしているが、射撃の腕は超一流、1キロ以内なら外す確率は0に近いそうだ」
 そこかしこで唾が飲み込まれた様子だった。
 代議士はホワイトボードに5つの長方形を描いた。そしてそれぞれにボード上のある一点からの矢印を引いた。
「今回の事件では大麻が見つかったという5つの基板は少なくとも500メートル以上離れた所から狙撃されたと専門家は述べている。それも殆ど同時にだ」
 言いながら矢印の下に500という数字を書き加える。
 そこで一旦言葉を切った。代議士の一服は近頃とんと見掛けなくなったパイプを用いて行われた。どうやら一般の煙草は好みに合わないらしかった。
 ぶかりとやると、環状の煙が幾つも室内を漂った。その内の一つがスクリーン上の少女に掛かり、歪んで空気に溶けた。
 ここでは動かない映像でしかない彼女は見せている愛くるしい容貌のせいか、全員に笑いかけているようにすら思える。
 それだけに彼女が稀に見る腕のスナイパーだという意外な裏面が居並ぶ者を戦慄させた。
 軋むようなクリック音の後、マウスカーソルが砂時計に変わった。数秒後、スクリーン上に別の少女が現れた。
 ここに代々木代議士がいれば、彼女があの時見せた人外の業の威力を否応なしに思い出させられた事だろう。あの、凛々しい顔立ちの娘である。
「大神瑞穂。psi能力者、所謂エスパーだな。炎を操る。念力だけで民家の柱を燃やした事もあるそうだ」
 再びクリック音。画面が小柄な少女の映像に変った。
「戸田千尋。まるっきり容姿は中学生だがこれでNASAのシステムの侵入歴もあるというから恐れ入る。一応情報担当、しかし機械の扱いには乗り物も含め長けているという。怖い存在だ」
 最後にスクリーン上には代って大柄な娘が登場した。長めに垂らした髪をバンダナで結び、ポニーテールを作っている。
「渡恵美。カメレオンのリーダーだ。大人しげな娘に見えるが、運動能力は野生の猛獣だ。家屋やビルの内壁程度なら易々と拳で打ち抜くそうだ」
 画面が急に消えた。プロジェクターのスイッチが落とされたようだった。
 スタンバイ状態を示す細長い赤ランプが点灯していた。プロジェクター内部の光源が冷え切るまで暫くこのままにしておかなくてはならない。
 とはいうものの、再び美少女達の顔をしげしげと拝みたい者など、この場には誰1人存在しない。
 「以上の四人は遊撃隊を組んでいる。昨日の逮捕劇も恐らく彼らの仕事だろう。カメレオンの構成員は他にもいるらしいが、皆が皆超一流と考えた方が良いそうだよ」
 戸塚氏は説明を終えた。黒カーテンがまた元のように巻かれ、部屋に昼の陽光が戻って来る。
 時間にして僅か十分足らず。けれど代議士達の表情だけは先程のまま、まるで通夜にでも招かれたかのように、一様に悄然となってしまっている。
「代々木君がやられたのも無理も無い。VIPに付けるSS(シークレットサービス)でもこの者達に対抗できるか怪しいものだ。 ウチで飼っている用心棒などものの役にも立たんだろう」
「警視庁もなんというチームを作ってくれたのだ」
「何とか活動を規制する手段は無いのか」
 口々に洩らし、そして嘆息する幹部達をしり目に見、戸塚代議士は付け加える。
「結成したのは警視庁だが、組織構成上は組み込まれていない。存在しない組織に圧力など加えようがない」
 充分予想し得た内容だが、それでも代議士連中ははっきりと肩を落としていた。構わず戸塚氏が続けた。
「まあ、諸君。暫くは襟を正し、公明正大な生活を心がけることだ。臑に傷の無い者までカメレオンも逮捕して回らないだろうからな」
 会議が終了した。あちこちでパイプ椅子が賑やかな金属音を立てた。
 戸塚の最後の科白が聞こえたのかどうか判りかねる程に、魂の抜けた様子で列席者達はのろのろと会議室を後にしていく。
 ずっとパソコンを操作していた秘書の青年だけが驚いたように、まっすぐ上司の方角を見据えていた。
 一人になると彼は足早に戸塚の所にやって来た。
 井上正義。30そこそこと若いが衆議院への立候補も間近いのではと噂される切れ者だ。
「カメレオンに対する共同戦線を張るものとばかり思っていました」
「さっきも言ったように、カメレオンは組織図上存在しないのだ。運営の費用すら国から直接出ていない。従って権力で押さえつけても無駄であるし、経済面で圧迫しようとしても無意味だ」
 代議士はかぶりをふった。
「組織図上は無い組織?」
「こればかりは信じてもらうしかない。だが現に代々木君は逮捕された。それで充分ではないかね」
「先生は連中の好きにさせておくしかないとお考えなのですね。戸塚幸三ともあろうお方が随分と臆病風に吹かれたものだ」
 穏やかだった口調がくっきりと塗り変わった。代議士の表情が険しくなる。
「井上君、私がカメレオンの事を皆に話したのは清進党の原点を思い出して欲しかった為だ。国民を第一に考える清い政治、人心が離れつつある時こそあの心構えが必要なのだ」 井上が戸塚を見た。だがその視線はいつもの尊敬する上司に向けてのものではなく、底冷えのする、敵対者に対する殺意にも似た鋭さを秘めていた。
「言いますね、政治をカネの掛かる世界にしてしまった張本人が」
 声に侮蔑が籠もっていた。相手が直属の上司だという事実も忘れ、憮然とした足取りで出て行こうとする。
 彼の言っている事も半分は当たっていた。戦争という凶悪な爪に身体中を引き裂かれた日本を再生させるのに、戸塚氏らは経済復興の道を選んだ。
 遠ざかる若武者の背中を老齢の獅子は複雑な顔で見送っていた。

 千代田区霞ヶ関にそびえ立つ警視庁本庁ビル。
 地下鉄桜田門駅から徒歩1分のここではパターン化されたエレベータの到着音が職員達の行き交う1階エントランスに響いている。
 今もまた、到着した四角い箱の全面が横にスライドし、男達を招き入れた。一様に背広である為階級は判らないが、全員が平の刑事などでは決して醸し出せない威厳を放っていた。
 中に入ってから階を示す数字を決められた順番に押す。電光の文字が1階を示す“M”から目まぐるしく変わり、“Z”に落ち着いた。
 最後に“閉”ボタンが押される。動き出したエレベータの中で、二人は何かの携帯装置を取り出した。エレベータ独特のくぐもった重低音に混じって軽快な電子音が狭い室内にこだました。
「幾ら幻と言っても自分が40過ぎのおじんに見えるなんて気持ち悪いな」
 そう言ったのは眼前の多くの銃口を持ち前の能力で無効化して見せた娘だ。装置を操作した途端40過ぎの恰幅のいい男性の姿が急速にぼやけ、彼女が現れた。
 服装の方も動きやすそうなジーンズスタイルに変化していた。
「私達の存在を一般職員に知られる訳には行かないもの。仕方ないでしょ」
 瑞穂同様女の姿に戻った恵美はじっと階の表示を見ていた。B2、B3と数字の部分だけが増えていく。ずっと続いている身体毎浮き上がるような感覚がエレベータが確かに下に向かって進みつつある事を示した。
「エミーはいいよ、元々そうだったんだしさ」
「・・35よ、正確には」
 恵美は瑞穂の言葉をやんわりと訂正した。ただ、幾分眉の方は吊り上がり気味で、傍目には二十歳前の娘が膨れているように映る。
 恵美に睨まれた後も瑞穂の愚痴は止まらなかった。
「いつもこんな泥棒猫みたいな真似をして帰って。仮にもお国の為に働いてるんだぜ?」
「そうね」
 瑞穂とのお喋りの間に電光表示が再び“Z”に置き変わっていた。さっきは二人を招き入れたドアがスライドし、外へと誘う。
 急に開けた廊下では数人の女性達が忙しく動き回っていた。彼女らもカメレオンだが、恵美達のように前線に出る事は無い存在だ。
 その1人が恵美達を見つけ、「お帰りなさい」と声を掛けて来た。工藤文音(あやね)、メンバーの治療担当である。
「Mr.Xがお待ちです。急いで通信室の方へ」
 ありがとうと恵美。もう一方の瑞穂はあからさまに迷惑だと言いたげな様子で、告げた文音を睨んでいる。
「おいおい。24時間も経ってないうちに、それで次の仕事か?」
「それだけ悪どい存在が世間には多いという事、仕方ないわ。第一、ヤマを終えたと言い張るけど、正確には律加達が帰還するまで続行中でしょ」
「・・・ホント、優等生なやつ。ま、能力(ちから)を適当に使うのはいい憂さ晴らしになるけどな」
「素直じゃないわね」
 あの時の瑞穂と代々木草伸代議士の会話を恵美は思い返した。瑞穂は何と口にしたか。
 銀鈴を転がすような笑い。それが隅々まで掃除の行き届いた廊下に流れていく。
「何がおかしいのさ」
「べつに」
 しきりに首を傾げる瑞穂をよそに、真顔になった恵美は軽快な足取りで歩き始めた。

 通信機から重々しい雰囲気の声が流れてくる。60インチの大画面には50前後の風格有る男の姿が映っていた。非合法捜査集団カメレオンを束ねる元締めである。
 メンバーはMr.Xと呼んでいた。恐らくはお偉方の1人だろうが、声と外見は合成か、或いはオリジナルを加工したか、いずれにしても作り物らしく、以前律加にそそのかされた千尋がハッキングで入手した上層部の一覧には該当する容貌が無かった。
 今でもカメレオン達の間では彼の正体についての様々な憶測が飛び交っている。
「遅いよー、2人とも。どこ行ってたの」
 目下定期購読中のミリタリー雑誌に没頭していた律加が、恵美達の姿を見つけ、紙面から顔を上げて手を振った。
 瑞穂がムッとした顔で
「お前が暴走しないか恵美と見張ってたんだよ」
「じゃあ、あたし達の活躍見てたんだ」
「このガンフェチ娘はまた無茶苦茶やりやがって。怪我人でも出たらどうするつもりだったんだよ」
「ふーんだ。放火犯の瑞穂ちゃんよりましだよ」
「ほ、放火だぁ? 上等じゃねえか。今日こそ、その性悪口ごと消し炭に変えてやる!」
 この二人は顔を合わせると喧嘩という状態にある。残る者はうんざりした顔で暫く互いの拳のやりとりを見ていたが、ふとMr.Xが真顔になり
「大麻事件の証拠固め、御苦労だった。一仕事終えたばかりの千尋達には済まないが早速次の任務について説明させてもらう」
 ピタリと瑞穂と律加の言い争いが途絶えた。両者とも相手を赦した雰囲気は感じられないが、最後に睨み合うと取り敢えず顔だけはMr.Xの方へ向けた。何だかんだといって、二人は腕利きのコマンドではあるのである。
「やっぱり仕事かよ。普通ならここで休暇だぜ。特別ボーナスぐらい出るんだろうな」
「考えておこう。ただ、今度の任務は少々長引きそうなので、払いは随分と後になるかもしれないが」
 Mr.Xが傍らの葉巻に火を付けた。今時葉巻を吸う者の数は大きく限られているから、これも謎の元締めとしてのイメージを崩さぬが為の演出だろう。
「皆が出ている間に、丸亜デパートで起きた事件だ」
 画面はニュースのそれに切り替わっていた。
 まず出て来たのが半壊状態になったビルの姿だった。大勢のパトカー、それに一部救急車らしき車影も映った。画面の端に位置するレポーターがいかにも深刻そうな表情と声色で
「白昼堂々の爆破事件という事で、負傷者の数はかなりの数に上っています。幸い死者こそありませんでしたが、未解決の事件が相次ぐ中、警視庁の対応の遅さを指摘する声も聞かれ・・・」
「おい、恵美。どうしたんだよ」
「・・・まさか!」
 食い入るようにニュースの画面を凝視する恵美は夢の最中の譫言のように一見何も関係なさそうな二つの単語を口にした。それは怪訝な顔つきを向ける瑞穂の耳に「爆弾・・・博物館」と聞こえた。
「はぁ?」
 瑞穂のみならず、千尋や、果ては珍しく律加までが恵美の方を向いて、彼女の頭にあるものを汲み取ろうとする。 彼女らは次の言葉を待った。
 ややあって口を開いた時、黒色にしては透明感のある瞳を恵美は不安げに瞬いていた。
「2週間くらい前かな、目黒の博物館でちょっとした盗難騒ぎがあったの。結局、その犯人は内部関係者らしく直に捕まったのだけど・・・」
「だったら、いいじゃない」
 すっかり興味を失ったらしい律加がさっきまで読み耽っていた雑誌に再び手を伸ばした。話を聞く内に瑞穂との言い争いについて忘れてしまったようだ。
「ところが彼は自分は品物を盗んではいないって言い張ったの。それだけじゃない、入り口も含め鍵の解除も一切していないって。実際警察の尋問でも彼はどこにどんな鍵があったかを、きちんと答える事が出来なかったらしいわ」
「単に、惚けてるだけじゃないのか?」
 今度は恵美の正面に位置する瑞穂が椅子に座ったまま大きく後ろに反り返った。その体勢でため息を吐き、胡散臭そうに再びリーダーの方を伺った。千尋だけが真剣な眼差しで恵美の話を聞いている。
「そう考えるのも無理ないと思う。けれども彼が逮捕されて3日後に絵は唐突に元の場所に戻されていたの。すぐさま複数の専門家による鑑定が行われ、元絵に間違いないと結論付けられたわ。結局警察側は誤認逮捕と言う事で彼を釈放せざるを得なかった」
 冗談を口にしている様子は恵美には無い。瑞穂の腰掛けている椅子が前触れもなく軋み、絞り出すように
「・・・プロの仕業ってわけか」
 見ると律加は再び雑誌に没入していた。恵美は急いで首を縦に振って
「およそ1ヶ月前、楠田啓介という鍵師が1千万近くの保釈金を積まれ、釈放されたわ」
「鍵師の釈放に錠前の解除ですかぁ。つじつまは合いますねぇ」
 千尋は早速端末の操作を始めていた。ここから警視庁内部のデータベースへ直接アクセスが可能だった。キーボードの上をほっそりした指が休み無く走り回り、ひとしきり一筆書きを描くように滑らかに動いた後、画面には沢山の文字主体の情報が表示された。
 その手の動きが止まった。
「うそぉ・・・どういう事なの、これぇ」
 しきりに目をしばたいて、口を大きく開けていた。
「そう。鍵師は亡くなっているの、3週間近く前に」
 2種類の音が同時に生じた。薄手の本が床に落ちる時のばさりというには幾分軽めの響き。そして急激な震動を受けた椅子の発する金属的な悲鳴。
 早口の瑞穂には珍しい所々途切れた口調で
「お、おいっ まさか・・・爆弾の方も」
「10日前に小林良治という男が釈放されている。元はある組織の工作兵で、目的の為には人を何人吹っ飛ばそうと気にも掛けないタイプだ。奴は5日前にこの世を去った」
 恵美の柔らかなアルトに代わり威厳のある声音が空間を支配した。全員の真面目な面持ちが声の主であるMr.Xに向けて集められた。
「つまりは犯人グループは君達のような存在かもしれないと言う事だ」
 場を緊張が走り抜けた。
 4人は生まれ落ちた姿とは全く違ったレールを歩いていた。それは他のカメレオン達にも共通していた。
 元の身体の特徴を消す手法としては整形手術などが真っ先に挙げられるが、彼女らに施されたのはDNAレベルでの改造だ。特殊な遺伝子書き換えウィルスでもって、オリジナルの能力と記憶を残したまま、活動適齢期の女性へと転身させる。女に変えるのは男性ののままだと細胞内のX遺伝子に寄生したウィルスが暴れ出して、最悪、遺伝子崩壊にも繋がりかねないからである。ウィルス自体は埋め込まれたDNAコードと宿主のそれとを置換する働きしか備えていない為、安定性を無視すればXY型の構成も可能ではある。
 恵美、律加、そして千尋はこうして可憐な少女の姿に生まれ変わった。3人は新しい肉体に馴染もうと努力を重ね、唯一オリジナルが女性だった筈の瑞穂が今ではどういうものか性格も姿も一番男っぽく映った。
「・・・マジかよぅ」
 両手で頭を抱える仕草のまま、瑞穂が呻いた。過去を消し去った彼らが堂々と街中を闊歩しているかもしれないのである。人々は自分達の傍らに凶悪犯が潜んでいるのに気付きもしないだろう。
 何の予告も無くMr.Xの画像が消え、長身とは言い難いが鍛え抜かれた筋力を誇る20そこそこの青年が無表情のまま画面の中から睨んでいた。
「真鍋孝志。世界タイトル奪取も夢ではないと囁かれた元フェザー級ボクサーだ。横恋慕した女性の恋人を殺害した容疑で取り調べを受けていたが、この程保釈金が積まれた。釈放は明日の予定だ」
「この男の人をあたし達に追跡しろってこと?」
 律加が愛銃であるCz75ショートレールを撫でた。知らない者が見れば物騒に思うだろうが、こうして集中力を高めているのである。
 空気の張りつめた通信室にMr.Xの声音が一際大きく響いた。
「釈放と同時に発信器が付けられる。君達カメレオンは誰と接触を取るか確認し、もし命を狙う存在があればそれを排除すること。以上だ」
「ラジャー!」

 その夜、東京拘置所。
 牢獄への案内を務める建物の中、深夜の静寂に満ちた薄暗い廊下を、懐中電灯の光、そして革靴の音が近付いて来る。見回りの職員だ。
 彼はこれで順路の最後となる監房の前に立った。
 ここの容疑者はそうしないと眠り付けないのか、頭の方まで毛布を深々と被っていた。寝息は全く聞こえて来ない。
 確認のため、電灯の光をベッドに当てる。そして回すように動かす。寝所付近、そして所々大きな黒い斑点模様の入った毛布に不自然に膨らんだ様子は見られず、安堵して職員はきびすを返そうとする。
 2、3歩歩いた所で急に立ち止まった。少々皺の刻まれ出した全体に肉付きの少ない顔だけが振り返って周囲を観察した。
 彼は嗅覚を鋭敏にするよう務めた。
 監房独特のすえた空気が鼻孔の奥を刺激した。2時間前に来た時と同じだ。
 どこにも異変の起きた様子は見られない。少しだけ頬の緊張を緩めた。
 職員は再び元来た方に歩き出そうとして、急に振り向いた。素早く光を操作し、毛布にと当てた。斑点は円というよりはいびつな多角形をしていた。まるで何かの染みだ。
 彼は持っていた鍵で監房の扉を開けた。それ程大きくはなかった筈だが、辺りが静まり返っているせいか鍵の開く音がやけに鼓膜にこびりついて聞こえた。
 急いでベッドに駆け寄ると、毛布を勢いを付けて引っ張った。静かに横たわっていた容疑者を見て、正気を保っていた職員の表情が恐怖に歪んだ。
「ひっ」
 鍵も掛けぬまま、前後もおぼつかない足取りで後ずさった彼は、ようやく監房を出、そのまま廊下の入り口の方へと走り去って行った。
 騒ぎの間中容疑者の目も口も動く事が無かった。大きく見開かれた瞳は彼岸に旅立つ時の苦悶の色を、克明に現在も映している。
 こうして、拘置所内という前代未聞の場所で起きた凶行により、首を鋭利な刃物で斬られた真鍋孝志は20歳という若さでその短い一生を閉じた。それはまるで愚鈍な対応を嘲笑うかのごとく、警察組織に叩き付けられた挑戦状だった。

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