戻る

紅の装甲竜騎兵
作:YZA

シリーズタイトルに戻る



11 ドゥムホルク




 ハバリア地方の雨期は一ヶ月間続いた。

 その間に、エラーニア軍は、ハバリア帝国が自国領と見なして占領していた地域の奪回を着々と進め、雨期が終わる頃には、ハバリアの帝都ドゥムホルクのあるハバリア北部以外の地域をすべてその手中に収めていた。もはやエラーニア王国軍の勝利は誰の目にも明らかだった。わずか五ヶ月前、ギールで王国の存亡をかけた戦いが行われたことが、遠い昔に見た一夜の悪夢のような、かすんだ記憶となりつつあった。

 マヤたちファクティム装甲竜騎兵隊は、休暇が終わった後も、よそへ配置転換になることもなく、雨期が終わるまでザエフ戦線での警戒任務にあたった。警戒といっても、今のハバリア軍の戦力では、ザエフに駐留するエラーニアの大軍に対し、反抗作戦どころか、ごく小規模なゲリラ戦を行うことさえ難しい。マヤたちがここ半年ほどの間、激戦に次ぐ激戦を戦ってきたことを思えば、この警戒任務は彼女たちにとって、事実上、休暇の延長だった。たまの晴れ間に竜たちを出撃させるのも、軍務というよりは、愛犬家が飼い犬を散歩させるのとほとんど変わらない、いわば空中散歩のようなものだった。

 そんなのんびりした日々の中で、マヤは改めて、自分がこちらの世界に飛ばされてから今までにやってきたことを思い返してみた。とにかく必死だった。竜を人よりうまく乗りこなせることしか取り柄もない彼女が元の世界へ帰る手がかりを得るには、必死に戦ってハバリアへ近づく以外、方法がないと思ったからである。その結果、エース竜騎兵と呼ばれるまでになっていたが、彼女自身は軍隊内での昇進とか名誉とかそういうものには興味も関心もなかった。だが、シュラースでナターシャに「マヤはエース竜騎兵になるためにこちらの世界の呼ばれた」と告げられて以降、マヤは時折、自分がエース竜騎兵であることの意味を考えるようになった。

 ザエフ攻略戦のとき投入されたエラーニア側の竜騎兵力は全部で十九隊五十七匹。現在、エラーニア王国軍が保有しているすべての竜騎兵力を合計しても六十九匹にすぎない。一方、マヤの撃墜スコアはすでに九十匹を超えている。もちろん、撃墜スコアとは、敵の竜を一匹撃墜したという事実に対して与えられる数字でしかない。白魔法の発達したこの世界では一度撃墜された敵がすぐに復活してまた立ち向かってくることも珍しくない。だから「九十匹の敵を撃墜した」というのは、敵を延べ九十回撃墜したという意味であって、九十匹の敵をすべて再起不能にした、あるいは亡きものにしたという意味ではない。

 それでも、マヤはたった一人で、エラーニア一国が保有する竜騎兵力を遥かに上回る数の敵を、一時的に戦力として使い物にならない状態にし、そのうちの何匹か何十匹かは再起不能にしたわけである。もし仮にエラーニア軍にマヤがいなければ、今ごろハバリア側にはあと何匹か何十匹かの竜騎兵力が余分に存在している計算になる。まして、ナターシャの言っていたようにマヤがハバリア側のエース竜騎兵になっていたとしたら、逆にエラーニア側の竜騎兵力が今より何十匹か少ないことになる。そうなっていたとしたら、エラーニア軍がハバリアへ侵攻するどころか、ハバリア軍がエラーニア全土を蹂躙していたかもしれない。

 マヤはふと、エラーニア竜騎兵隊の中で自分に次いで第二位の撃墜スコアを持つ者がいったい何匹ぐらい撃墜しているのか知りたくなって、ラウラに訊いてみた。ラウラは二十数匹だと答えた。それを聞いて、マヤは背筋が寒くなった。自分がいかに人間離れしたことをしでかしたのかに、今更ながら気づき、怖くなったからである。と同時に、一年前、ニーナやジュートたちがアヴニ村近郊に墜落した自分を血眼になってまで探しまわっていた理由が、ようやく理解できたのだった。

 七月中旬、ついに雨期が明けた。

 エラーニア軍は満を持してハバリア北部への進撃を開始した。ファクティム竜騎兵隊も、もちろん進撃部隊の序列に名を連ねていた。きっと、アイリゲン大佐に対するラウラの根回しが功を奏したのだろう。これで、マヤが元の世界へ帰ることができる可能性が何倍にも高まった。以前、ラウラやオクタヴィが言っていたように、ドゥムホルクが陥落すれば、ドゥムホルク宮殿はエラーニア軍に接収されてしまうか、最悪の場合、異世界のへの門を開く装置ごと破壊されてしまうことも考えられる。そうなる前にその装置のある場所へたどり着くには、少なくともドゥムホルク攻略作戦に参加させてもらわなければならなかったのである。マヤは特に信心深いわけではない。だがこのときばかりは、良い同僚に恵まれた幸運を神に感謝したい気持ちでいっぱいだった。

 エラーニア兵たちの士気も、敵の本拠地、ドゥムホルク攻略を目指す戦いとあって、俄然、高まった。しかし、今回はハバリア側も満を持していた。エールデラントからザエフを目指してハバリア南部へ侵攻したときのようにはいかなかった。戦いは緒戦から苛烈さを極めた。エラーニア竜騎兵隊は数の上では圧倒的だったが、地中深く掘り下げられた対竜騎兵用陣地に籠る敵を屈服させるのは容易なことではなかった。敵兵が放つ対竜騎兵用石弓は、十分に訓練されていて狙いが正確だった。敵の魔道士隊が繰り出す攻撃魔法も強力だった。

 そのうえ、ザエフ戦でマヤたちを苦しめたあの黒い竜騎兵が、行く手に再び立ちはだかった。エラーニア兵たちは、いつしかその強敵を、装甲の色にちなんで「カラス」と呼ぶようになっていた。カラスは一匹か二匹編隊で前線にやってきては、数匹のエラーニア竜を血祭りに上げて帰って行った。ザエフにおいて、エラーニア側は三匹のカラスのうち二匹を撃墜し、残りの一匹にも深刻なダメージを与えたはず。どうやら、ハバリア側はこのひと月の間にダメージを受けたカラスを再生し、更に何匹かを新たに増強したらしい。

 とはいえ、ハバリア軍のそういった奮戦は、あくまでもエラーニア側の攻撃に対する防御として有効だったにすぎない。戦(いくさ)の形勢を逆転させ、ハバリア軍が攻撃側に回ることができるようにするほどの影響力はなかった。カラスたちも、兵力をまだ再建中のせいか、ザエフ戦のときのような組織的な行動をおこなうこともなかった。それに、勝利を確信して果敢に立ち向かってくるエラーニア軍に対し、敗色濃厚なハバリア軍は、兵力以前に精神面でも劣勢に立たされていた。

 ハバリア軍の戦線は、やがてずるずるとドゥムホルク方向へ下がり始めた。エラーニア軍が進撃を開始して一ヶ月後、ついに戦線は突破された。エラーニアの大軍はなだれを打ってドゥムホルク方面へ殺到した。

 数日後、ドゥムホルクはエラーニア地上軍の重包囲下に陥った。





 ファクティム装甲竜騎兵隊は、ドゥムホルク戦線の最前線にまで進出していた。通常、竜騎兵は相棒の竜を地上で休息させている間に敵地上兵の襲撃を受けることがないよう、味方の地上軍によって安全が確保されている場所に拠点を構え、そこから前線まで飛行して任務をこなす。だが、いまだエラーニアに抵抗する意思のあるハバリア兵がみなドゥムホルク市内に押し込めらてしまった今となっては、拠点を後方に置く意味などなかったのである。

 夕方、前線司令部のウィル・アイリゲン大佐に呼び出されていたラウラが、ファクティム隊の野営テントに戻って来た。めいめいテントにたたずんで隊長の帰りを待ちわびていたマヤとオクタヴィとルーミアの三人は、テントの入口に隊長が姿を現した途端、一斉に彼女のほうに目をやった。ラウラは開口一番、

「『エラーニア王国軍は明日、日の出とともにドゥムホルク総攻撃を開始する。エラーニア竜騎兵隊が敵の竜騎兵力を沈黙させることに成功した場合、ファクティム隊は、地上軍の支援に回る。更に地上軍が市街への突入を果たした場合は、ドゥムホルク宮殿の尖塔に突入し、敵兵の掃討にあたること』との命令を受けた」

 と言った。

 すぐさま、ルーミアとオクタヴィが

「良かったね、お姉ちゃん」

「良かったですわね、マヤ」

 と声をかけてきた。

 マヤは二人に「うん」うなずいてみせてから、ラウラに

「ありがとう」

 と言った。

 ラウラは笑顔で応えた。「なに、たいしたことじゃないさ。次の休暇をウィルと過ごす時、ベッドの上でいつもより余計にサービスしてあげればいいだけのことだから」

 ルーミアはそれを聞いて真っ赤になった。

 ラウラは、今度は高笑いをしながら「冗談だ。ルーミアには刺激が強すぎたか?」と言った。

 オクタヴィは言った。「これでわたくしたちは、軍務として、堂々とマヤを尖塔の最上部に連れて行くことができるわけですわね」

 マヤが言った。「ラウラとオクタヴィには本当に感謝してるわ」

 ラウラは「感謝するのは、実際に異世界への門を開く装置ってやつを拝んでからにしろ、マヤ」と言って、くるりと背を向け、空を見上げた。

 マヤたちも、ラウラの背中越しにテントの入口から空を透かし見た。そこには不気味などす黒い影が、赤い夕空をつんざくようにそそり立っている。

「あの尖塔にたどり着くまでに敵のどんな抵抗を受けるか、まだわからないんだからな」

 ラウラのその言葉を、オクタヴィが補った。「ここは敵の本拠地ですものね」

 マヤは二人の言葉に同意した。「そうね。あたしのことなんかより、まずはドゥムホルク攻略を成功させるのが先よね」

 ラウラが言った。「そういうことだ。とにかく、明日は大変な一日になるだろう。今日は早めに休んでじゅうぶん体調を整えておかなきゃな」

 オクタヴィは真面目くさった顔をして、ラウラに「あら。あなたは今夜、アイリゲン大佐のところで過ごすのではないんですの?」と尋ねた。彼女が真面目な顔をするときは、たいてい冗談を言っているときである。

 ラウラは「んなわきゃねえだろ」と型通りのツッコミを入れてから、ルーミアのほうを向き直り、言った。「ああ、そうそう、体調の話で思い出した。ルーミアに頼みがあるんだ」

 ルーミアは応えた。「『黄光の術』でしょ?」

「お、察しがいいねえ」

「うん。一応、みんなの月経周期は把握してるから。あと三日ぐらいで始まるしょ?」

「さすが、ルーミアだ。このドゥムホルク攻略戦が何日続くかわからないから、念のために遅らせておこうと思ってな」

「じゃあ、かけるわね」

 ルーミアはそう言って、ラウラのそばに歩み寄り、手をラウラの下腹部にかざした。ルーミアの手からは黄色い光が放射され始めた。

 十秒ほどして黄色い光が途絶えると、ラウラは「ありがとな。ルーミアの術は確実に効くからいいんだよ。やっぱり魔力が強いからなんだろうな」と言った。

 ルーミアは微笑みでそれに応えた後、オクタヴィのほうを向き、「オクタヴィは大丈夫よね?」と尋ねた。

 オクタヴィは「ええ、わたくしは大丈夫」と答えた。

 ルーミアは、今度はマヤのほうを振り向き、「お姉ちゃんはどうする?」と尋ねた。

 マヤは「あたしは……まだ先だと思う」と答えた。

「あたしたちぐらいの歳の女の子は、まだ周期が安定しないから、もしかしたら、ってことはあると思うけど、でも、前にも言ったように、かけすぎるのは体に良くないから」

「うーん。どうしよう。じゃあ、あたしにも念のためにかけておいて」

「わかった」

 ルーミアはマヤの手のひらを下腹部に向け、黄色い光を放った。

 妹に術をかけてもらっている間、マヤは以前、妹に聞かされたこの黄光の術についての話を思い返した。なんでも、この術は卵胞ホルモンと黄体ホルモンの量を増やす働きがあるのだという。通常、生理が始まる前にこれらのホルモンは減少するが、妊娠している場合は減少しない。生理が始まる三日から五日前にこの術をかけれておけば、体が妊娠したのと勘違いしてしばらくのあいだ生理が起きないようになるらしい。

 そんなことを考えているうちに、マヤの胸に寂しさと心細さが込み上げてきた。女として生活するためのいろいろな知識を手取り足取り教え授けてくれたのは、ルーミアである。だが、向こうの世界に帰ってしまったら、もうルーミアはいない。向こうの世界で女として生きることになるのか、男に性転換してもらえるのかどうかはわからないが、どちらにせよ、男に生まれながら魂を女のものに再生されてしまった苦悩を、一生、背負って生きて行かなければならないのには変わりない。そんな苦悩を、向こうの世界の人間に容易に理解してもらえるとは思えない。もし理解してもらえなかったとしたら、たった一人でその苦悩に耐えていかなければならないのである。

 ――たとえそうであっても――マヤは心の中で強がりを言った――あたしは元の世界へ帰らなければならない。元の自分を取り戻さなければならないんだ――

 術が終わると、ルーミアはマヤたち三人の顔を順に見回しながら、「他に調子の悪いところ、ない?あたしの魔法で治せるような不調なら、治してあげるけど」と尋ねた。

 三人は首を振った。

 ルーミアはそれを見届けて満足げにうなずいた。

 だがその時、ラウラが不意にルーミアを睨みつけた。

 マヤは不思議に思って、ルーミアのほうに目をやった。ルーミアはラウラとオクタヴィの顔を比べるかのように交互に見つめていた。

 ラウラとオクタヴィがルーミアに更に意味ありげな視線を送った。ルーミアはそれに促されるように、おずおずと口を開いた。

「あのね……お姉ちゃん」

 マヤは、狐にでもつままれたような気分だった。「な、なに?」

「お姉ちゃんたちがドゥムホルク宮殿の尖塔に突入する時、あたしも一緒に連れてってほしいんだけど……」

「え?」

「お願い」

 妹に突然、意外なことを言われ、マヤはいささか驚いたが、妹の真剣なまなざしを見つめているうちに、驚きよりも切なさの方が大きくなっていった。マヤとしても、もしあの尖塔の最上階で異世界への門とやらを開くことができ、そのまま元の世界へ帰ってしまうのであれば、尖塔に妹を連れて行って最後の瞬間まで一緒に過ごしたいのはやまやまである。だが、あの尖塔は危険すぎる。マヤは、戦場の真ん中にルーミアを連れて行けるわけないじゃないと言って妹の頼みをはねつけようとした。

 ところが、マヤの口からその言葉が出る直前、彼女は二つの強い視線が自分に浴びせかけられているのに気づいた。見ると、ラウラとオクタヴィがマヤに無言の圧力をかけていたのだった。

 マヤは苦笑いをした。「もうすでに、ラウラとオクタヴィを懐柔済みなのね」

 ルーミアは素直に「ええ」と答えた。

「まあ、普段は決してわがままを言わないルーミアが、たまに言うとすれば、準備万端、整えてあるのも当然よね。三対一じゃ、勝ち目はないわ」

「じゃあ、連れてってくれるの?」

「あたしが断っても、どうせラウラが『隊長命令だ』とかなんとか言って連れていかせる算段になってるんでしょ?なら、断っても仕方ないじゃない」

「ありがとう、お姉ちゃん」

 ルーミアはそう言って、マヤの腕にすがりついてきた。

「ただし、敵の竜騎兵隊を沈黙させることに成功してからだからね。それまではここでおとなしくしているのよ」

「うん」

 ラウラとオクタヴィはルーミアに「やったな」「うまく行きましたわね」と声をかけた。マヤが彼女たちのほうに目をやると、二人はマヤに、今度は圧力の視線ではなく、祝福と激励の視線を送ってきた。

 マヤは二人に感謝の微笑みを返した。

 その後、ファクティム隊の野営テントをジュートが訪ねてきた。彼はラウラに敬礼をしながら「エラーニア随一の竜騎兵であるマヤ・クフールツ殿と戦略上、重要な話をしたいので、差し支えなければ彼女の身柄をしばらくお借りしたい」と言った。

 もともとにやけ顔のジュートがいつもにも増してにやにやしながらそう言うのを見て、ラウラもオクタヴィもルーミアもすぐに、彼が本当に「戦略上、重要な話」をするためにマヤを呼びにきたのではないことを悟った。ラウラは「許可しよう」と言ってマヤを送り出した。ジュートは「自分の所属する情報部がこの近くに民家を借り上げており、マヤ・クフールツ殿との会談はそこで行うつもりなので、緊急の場合は呼びにきていただきたい」と言った。ラウラはジュートに勝るとも劣らぬほどにやにやしながら、マヤに「明日の朝までに帰ってこい」と言った。マヤは肩をすくめて「すぐに帰ってくるわよ」と応えた。

 ジュートはマヤを連れてテントをあとにし、五十メートルほど離れたところに建っている一軒の民家に彼女を案内した。見たところ、民家はひっそりとしていて、情報部の人員が出入りした形跡も見当たらなかった。ジュートはなぜか、玄関の扉を開かず、代わりに家の裏手にマヤを導いた。そして庭に面した窓を開き、そこから窓枠を乗り越えて部屋の中へ入った。マヤは、窓の中からジュートが差し伸べてくれる手につかまって窓枠を乗り越える時、さっきジュートが言った「情報部がこの民家を借り上げた」という言葉も嘘だったことを察した。この家はおそらく空き家なのだろう。無断で空き家に侵入するという行為がこちらの世界でも犯罪にあたることは、マヤも重々、承知している。それでも彼女は、ジュートを咎めようとは思わなかった。一瞬間だけ、誰かに見つかったらどうしようという懸念が頭をよぎったが、今のマヤには、彼と一緒なら何が起こっても怖くはないと言い切れる自信があった。

 マヤが家の床に降り立つや否や、ジュートは彼女を乱暴に抱きしめ、唇を重ねた。マヤはそれに積極的に応えた。ハバリア北部への侵攻作戦が始まってからここ一ヶ月、彼と一度も会えなかったので、彼女自身も彼に対する欲求が抑えられなかったのである。

 二人がキスの嵐の中に身を委ねている間に、日は落ち、辺りはすっかり暗くなっていた。緯度の高いこの地域では、夏至から二か月経った今の時期でも日没は午後八時頃である。一方、この世界の月は一年中、午後六時に昇って午前六時に沈む。キスと抱擁が一段落した後、窓から空を見上げると、月がもうだいぶ高くまで昇っていた。東に面したその窓から月光のシャワーがこぼれ落ちる中、二人はそれからしばらくの間、とりとめのない話をした。ジュートはマヤに将来の夢などを語って聞かせた。マヤはうんうんとうなずきながら彼の言葉に耳を傾けた。

 二ヶ月前、マヤが異世界から来た人間であることを知っていると彼に打ち明けられた後も、マヤはザエフで何度も彼と会い、そのたびに、自分は元は男だったことや、ドゥムホルク宮殿の尖塔の最上階から異世界に帰ってしまうかもしれないことを正直に話そうと思った。だがどうしてもできなかった。彼女は悩んだ挙げ句、ラウラに相談した。ラウラは、男は夢を見る生き物だ、最後まで夢を見させてあげるべきだと応えた。マヤはそれでは裏切りにならないか、彼を裏切りたくはないと言った。しかし、ラウラは「もし尖塔から異世界に帰ることを彼に告げたら、彼は絶望のあまり、マヤを監禁してでもそれを阻止しようとするんじゃないか。そうなったら、一番可哀想なのは彼自身だ。彼はこの先ずっと、マヤに対して負い目を感じながら生きることになる。男だったことを打ち明けるのも同じことだ。マヤは言いたいことを言って満足できるが、彼は一方的に苦しむだけだ」と言った。それを聞いた時、マヤの迷いは消えた。

 マヤは思った。男が女につく嘘はすぐにばれるが、女が男につく嘘は決してばれないという話を聞いたことがある。まさにその通りだ。せっかく女になったんだから、悪女のまねをして男をだましてみるのも悪くはない、と。

 月が東の空から南の空へ移動し始めた頃、ジュートはマヤにおやすみを言って立ち去ろうとした。明日、日の出とともにドゥムホルク攻略戦が始まる。エース竜騎兵のマヤは、明日の活躍に備えて今日はゆっくり休んだほうがいいというのである。

 ところがマヤは、窓枠を乗り越えて出て行こうとするジュートを後ろから抱きしめたのだった。

 ジュートは何も言わずにマヤのほうを振り向き、いま一度、彼女を抱きしめてキスをした。

 窓が東に面していたため、月光はまもなくその部屋に差し込まなくなった。真っ暗になったその部屋で、その夜、何が起こったのか、知る者は誰もいない。





 この地に二十一年間存在し続けたハバリア帝国という国家が歴史上から姿を消すときが近づきつつあることを、誰もが感じていた。

 エラーニア兵もハバリア兵も、日の出の時刻の一時間前にはすでに準備を整えていた。エラーニア兵は勝利への期待感と故郷で帰りを待つ家族への想いを、ハバリア兵はハバリア人としての意地と先に逝った戦友への想いを、それぞれ胸に秘め、最後の舞台の幕が開く瞬間をただ静かに待ち続けた。

 やがて、地平線の彼方から一筋の日光が地上へと降り注いだ。

 その直後、エラーニア弓兵の弓から、ハバリア軍の陣地に向けて一斉に矢が放たれた。引き続き、魔道士隊の放つ攻撃魔法が陣地の上で炸裂する。最後の舞台は、これまでの多くの舞台がそうであったように、激しく荒々しいシーンで開始された。

 マヤたちファクティム竜騎兵隊は、他の竜騎兵隊とともに、日の出と同時にドゥムホルク上空へ飛び立った。もし敵竜騎兵隊が出てきた場合はそれを殲滅し、全く出てこない、あるいは出てきたとしても兵力が微弱な場合は、地上軍の支援を行うことになっている。そしてもし地上軍がドゥムホルク突入を果たした場合は、昨日、言っていたように、マヤはルーミアを連れて尖塔に向かうことができる。

 エラーニア竜騎兵隊の兵力はザエフ戦のときよりも二隊増強されて二十一隊六十三匹、一方、ハバリア側の竜騎兵力はこれまでの戦いでほとんど壊滅に近い打撃を受けている。と言っても、残存している敵竜騎兵力の中には例の「カラス」がいる。ザエフ戦においてたった三匹で四十五匹の敵を相手に互角に渡り合ったことを考えれば、たとえ数匹が残存しているにすぎないとしても、彼らを無視することは到底、不可能である。エラーニア軍上層部が二十一隊もの竜騎兵力をこの戦いに投入した理由は、そこにあった。

 マヤは敵の動きに対する警戒を怠らないよう留意しながら、目の前で威容を誇示している怪しげな黒い尖塔をいま一度、観察した。尖塔はドゥムホルク市街のちょうど中心に位置するドゥムホルク宮殿から、天を突き上げるかのようにそそり立っている。形は、側面から見る限り東京タワーのように細長い三角形をしているが、断面は東京タワーとは違い円形である。つまりこの塔は円錐形ということになる。高さに関しては、こちらもおそらく東京タワーと同程度、三百メートルはあろうかと思われた。ただ、東京タワーが建設当時の技術の粋をこらした幾何学的な美しさに彩られているのに対し、この尖塔は、表面を覆うのっぺりした壁の色といい、そこから放たれる雰囲気といい、例えようのないまがまがしさに満ちあふれている。マヤの目には、この巨大で異様な塔がこちらの世界の通常の建築技術だけで建築されたようには見えなかった。もしかしたらこれもヤグソフの異呪のなせる技なのかもしれない。

 マヤたちはしばらくの間、ドゥムホルク上空の警戒飛行を続けたが、敵竜騎兵は姿を見せなかった。日の出前にすでに高空に飛び上がっておいて、日の出とともに上から奇襲してくる可能性も考え、東西南北、および上空のすべての空域に目を凝らした。だが、敵の影はどこにも見当たらなかった。

 マヤは思った。ドゥムホルクが包囲されるまでに多くのハバリア兵が戦場から逃亡したという。ザエフ戦の際にカラスに乗っていた竜騎兵がマヤの元いた世界から来た女だったのは、おそらく間違いない。そのうちの二人は撃墜されて戦死したらしいが、一人はまだ残っているはず。彼女とはできれば戦いたくない。願わくば、彼女にもこの戦場から逃亡していてほしい。いや、彼女だけではなく、すべてのハバリア竜騎兵に逃亡していてほしい。そして戦うことなく安全にルーミアを尖塔へ連れてゆかせてほしい、と。

 しかし、そのような淡い期待はまもなく裏切られた。ドゥムホルク宮殿の裏手から、黒い影がゆっくりと浮上してきた。その数は、なんと七つ。しかもそのいずれもが、黒い装甲をまとった大柄で力強そうな竜だった。敵はこそこそと隠れて奇襲するどころか、無敗のボクシングチャンピオンがタイトルマッチのリングに姿を現す時のように、あとから堂々と戦場に登場したのである。

 竜騎兵戦が開始された。これまでの戦いでカラスに対しては密集体形が有効であるという教訓を得ていたことから、マヤたちはすかさず自分の乗る竜をラウラの竜のほうへ近づけた。

 ところが敵は、先ほどの登場時に見せた余裕ありげな態度が決して虚勢ではないことを、すぐに証明した。文字通りあっという間だった。マヤたちが密集体形への移行を完了したときにはもう、五匹のエラーニア竜が血を噴き出しながら墜落しつつあったのである。

 エラーニア竜騎兵たちは多少驚きはしたものの、カラスの並外れた強さは織り込み済みだったので、気を動転させることなく、事前に立てた作戦通りの行動を開始した。すなわち、密集体形を崩さないよう注意しながら、一部の隊がわざと隙を作って敵の何匹かをおびき出し、敵の陣形がバラバラになったところを包囲して各個撃破するというものである。第二次ザエフ戦で有効だったこの戦法でもう一度、事に当たろうというのである。

 だが、今回のカラスは七匹である。そのうち三匹をおびき出したとしても、まだ四匹がおびき出されずに残っている計算になる。それではバラバラになったとはいえず、各個撃破もできないことになる。実際、エラーニアの努力が功を奏して敵は三匹と四匹の二つのグループに割れてしまった。だが、そのどちらのグループをとっても、エラーニア竜三十匹分の力を持っているのである。むしろその二つのグループに対処するためにエラーニア側のほうが二つ手に分かれることを余儀なくされ、その結果、却って攻撃力が分散してしまった。

 しかも、一匹一匹のカラスの動きも、ザエフ戦の時より更に敏捷に、更に複雑なっているように見えた。右斜め上の竜に噛み付いたかと思えば、その直後には左後ろ下方に位置を移して別の竜に頭突きを加えた。そのような複雑な操縦ができるテクニックもさることながら、相手の場所を瞬時に判断できる空間認識力、空間解析力は、まさにコンピューター並といえた。もっと不思議なのは、そのような複雑な行動を通信機もなしに他のカラスたちと連携して行えることだった。マヤは、戦の神が彼らを一本の操り糸か何かで操っているのだろうかと疑いたくなった。

 エラーニア竜騎兵隊は、なんとかしてカラスたちをバラバラにしようと努力した。だが、カラスたちはそんな努力をあざ笑うかのように、近づくエラーニア竜というエラーニア竜をその驚異的な敏捷性で瞬時に包囲して一匹ずつ血祭りに上げた。エラーニア竜が反撃しようとすると、目にも留まらぬ速さで散開してそれを逃れ、またすぐさま他のエラーニア竜を包囲した。エラーニア竜騎兵隊はほとんどなす術もなく、損害だけを増やす結果となってしまった。

 一時間後、ドゥムホルク上空には、四十六匹のエラーニア竜と七匹のカラスの姿があった。エラーニア側がわずか一時間で十七匹も撃墜されてしまった一方、ハバリア側は一匹の損害も出していなかったのである。

 エラーニアの竜騎兵たちは焦燥感に駆られ始めていた。

 マヤは、まずい、と思った。彼女は元の世界にいたとき、テレビゲームのいわゆる戦略シミュレーションを暇つぶし程度ではあったがプレイしたことがあった。戦略シミュレーションでは、全滅するまで戦えと指揮官(=プレイヤー)が命じれば、仮想空間の兵は死を恐れることなくその場に立ち止まって戦い続ける。だが現実の戦いではこうはいかない。生身の兵は全滅するまで戦うどころか、通常は味方が敵の三分の二程度にまで減った時点で劣勢を悟ってパニックに陥り、指揮官の意思に関係なく退却してしまうのである。マヤが見る限り、エラーニアの竜騎兵隊がそのようなパニックに陥るのは時間の問題と思われた。もし竜騎兵隊が退却してしまうようなことになれば、ハバリア側はドゥムホルク上空で局地的な制空権を握ることとなり、カラスたちにエラーニアの地上兵を踏みつぶしたいだけ踏みつぶさせることができる。その際、問題となるのは、ルーミアを前線においてきてしまったことである。マヤは今更ながら、敵の反撃力を甘く見て妹を戦場の近くに連れてきてしまったことを後悔した。

 それだけではない。カラスたちのあの実力があれば、ひょっとしたら、誰もがエラーニアの勝利を確信しているこの戦況をくつがえすことも不可能ではない。確かに地上兵力はエラーニア側が圧倒している。だが、前にも述べたように、一匹の竜騎兵は千人の地上兵に相当する力を持っている。ましてや敵はあのカラスである。ここでエラーニア軍が負けたら、ハバリア軍は奇跡的に息を吹き返し、ハバリアからエラーニア勢力を追い出すことも、いや下手をしたら、エラーニア全土を席巻することさえ、荒唐無稽とはいえなくなるのである。

 カラスに弱点はないのだろうか。マヤはラウラたちとともに敵を揺動したり、反撃したり、包囲された味方の竜を救出したりといった行動を繰り返しながら、カラスたちを改めてよく観察してみた。七匹のカラスのうち、一匹はシュラースとザエフでも戦ったことのあるあの女が操縦している(ということは、ザエフ戦のとき撃墜された二匹というのは、どうやらバーバラ・スターゼンとそのそっくりさんだったことになる)。残りの六匹のうち、三匹のカラスについては、操縦している女の顔を間近に見ることができたが、他のカラスにはそこまで近づく機会がなかった。マヤは、近くで見ることのできたその三人の顔に、見覚えがあるような気もしたし、ないような気もした。いずれにせよ、彼女たちがマヤと同じ世界から来たものだと断定する証拠は何もなかった。ただ、今回遭遇したこの七匹を操る女がみな、ザエフ戦の時のバーバラ同様、恐ろしく無表情なことだけは確かだった。

 更に六匹のエラーニア竜が撃墜された。カラスのほうはと言えば、一匹がエラーニア軍内で最も精鋭の部隊、エラン第一装甲竜騎兵隊の攻撃を受けて多少のダメージを被ったものの、その行動力、攻撃力には何の影響もなかった。

 さすがのマヤも冷静さを失い始めていた。いま敵の攻撃をよけたとき、ドゥムホルク宮殿の尖塔が彼女の視界に入った。だが、もはや尖塔に突入して異世界に帰るどころの騒ぎではなかった。彼女は次第に、味方が退却を始めた場合どうやって自分自身の身の安全を図るか、前線に置いてきてしまったルーミアをどうやって救出するかといったことを考えるのにより多くの頭脳を使い始めた。

 ふとその時。

 尖塔の向こう、遥か遠くの空に一匹の黒い竜が漂っているのを、マヤの目はとらえた。

 ――そう言えば――彼女は考えた――二度にわたるザエフ戦の折、ニーナの乗った竜が、ちょうどあんなふうに、ずっと遠くの空を漂っていた。いまあそこに見えるあの竜、遠すぎて操縦者が誰なのかまでは判別できないが、もしかしたら、あの竜にもニーナが乗っているのだろうか――

 突然、一匹のカラスがピムめがけて突撃を敢行してきた。マヤは持ち前の操縦テクニックでなんとかそれをかわした。彼女は一瞬とはいえ戦場で他ごとを考えたことを反省した。ザエフではそのせいで撃墜されるという憂き目に遭っている。今は、遠く離れていて攻撃してこない敵のことなど放っておいて目の前の敵に集中すべきであろう。

 ――しかし――マヤはそれでも考えるのをやめなかった。何かとても重要なことが頭に浮かんできそうな気がしたからである――もしあれがニーナだったとして、ニーナはあんなところで一体何をしているのだろう。彼女とは一年前、アヴニ村上空で一度、ファクティムの上空で二度、戦ったことがある。彼女は竜騎兵隊指揮官であると同時に優秀な竜騎兵でもあった。いま彼女は、カラスたちの指揮をとっているのだろうか。それにしては遠く離れすぎている。では、ただ部下の竜騎兵たちの戦いぶりを、高みの見物しているだけなのか。指揮官が安全なところに身を置いて部下に戦わせるという状況は考えられなくもない。だが、エラーニア防空網を突破するという危険を冒してまで「男の竜騎兵」を探しにアウスゲント地方へやって来るほど勇敢な彼女が、この場面で高みの見物を決め込むだろうか――

 マヤはどうしてもその竜騎兵が気になり、戦場を勝手に離脱したと咎められるかもしれないのを覚悟の上で、その竜騎兵の姿がはっきり見える位置までピムを近づけてみた。

 ――薄緑色の派手な衣装をまとったあのいでたち、やはりニーナの可能性が高い。竜の首の付け根にまたがらず、背中にぼーっと突っ立っているあの姿勢も、ザエフのときと同じだ。ただ、いまこうやって改めて見てみると、彼女はあそこに突っ立って、単に映画鑑賞のように受動的に何かを眺めているわけではないような気がする。それを証拠に、彼女の肩や腕が小刻みに動いている。彼女のあの目、あれはどちらかというと、離れたところにある何かに対して能動的に働きかけようとしている目に見える。例えば……そう、例えば、ルアーフィッシングとか、ラジコンヘリの操縦をしているときのように……――

 その瞬間、マヤの頭に、ついに「ある考え」が浮かんだ。

 それは途方もない「考え」だった。思いついた彼女自身にさえ大きな衝撃を与えずにはおかなかった。彼女はその「考え」の信憑性を裏付けるべく、いままでに彼女がこちらの世界で見聞きし、体験してきたことを思い返してみた。

 飛行機を操縦中にこの世界に呼び込まれたこと、

 ニーナやジュートたちがアウスゲント地方で自分を探しまわっていたこと。

 ナターシャにおかしな薬を飲まされ拉致されそうになったこと。

 ザエフ上空でバーバラ・スターゼンかもしれない敵と出会ったこと。

 それらすべてが同じベクトルを持ち、ある一点を指し示してるように思えた。その一点が何なのかに気づいた時、マヤは迷うことなくニーナとおぼしき敵竜騎兵めがけてピムを突進させていた。

 敵竜騎兵は、ピムがすぐそばまで近づいたのに気づき、慌てて竜の背中に座り直して竜を操縦する姿勢をとった。この反応は、ザエフ戦でニーナが示した反応と同じだった。マヤはすでに、その竜に乗っている竜騎兵が間違いなくニーナであることを確信していた。敵竜騎兵はピムの頭突きを間一髪のところでかわした。ここまではザエフ戦の時と全く同じ展開だった。しかし、ザエフではこの後、ニーナがピムから少し離れたところにとどまってマヤに話しかけてきたのに対し、今回は、ピムからどんどん遠ざかろうとした。

 マヤはすかさず敵竜騎兵――ニーナを追撃した。それでもニーナは反撃するそぶりを見せず、ただピムの突撃から逃れようとするだけだった。一年前、ファクティム上空であれだけ積極果敢にマヤたちを攻め立てた彼女からは想像もできないほど消極的な反応だった。彼女がこのような反応を示す理由があるとすれば、それは何か反撃に移ることができない事情があるからとしか考えられない。マヤはもう一度、ニーナの挙動を伺った。ニーナが目の前のピムに半分の神経しか集中していないのは明らかだった。では残りの半分はどこに集中しているのか。マヤにはもうそれがわかっていた。

 マヤは振り返り、エラーニア竜騎兵隊とカラスが交戦している空域に目をやった。カラスのうちの一匹がエラーニア竜の突撃をくらって墜落しつつあるのが見えた。

 ピムは更にニーナの乗る竜を執拗に追い回した。しばらくしてからマヤが再びカラスの動向を確認すると、すでにカラスは五匹に減っていた。

 マヤはなおもニーナを追撃し続けた。ニーナは相変わらずマヤに半分の神経しか集中していないように見えたが、それでも、エース竜騎兵であるマヤの追撃をかわし続けることができるのは、さすがだった。とはいえ、ニーナの表情に次第に焦りの色が濃くなりつつあるのも確かだった。

 ピムの何度めかの頭突きをかわした時、ニーナはついにある決断を下したような表情を見せた。マヤはその表情の意味するところを察し、三たび、カラス対エラーニア竜の戦いが行われているはずの空域に視線をやった。案の定、五匹のカラスたちは、先ほどまで相手にしていたエラーニア竜たちに背を向けて、まっしぐらにマヤのほうへ向かって来つつあった。

 あの五匹に囲まれたら、マヤといえどもひとたまりもない。だが、ニーナにあと一歩のところまで迫っているいまこのタイミングで追撃をやめてしまうなど、エース竜騎兵のやることではない。マヤは一か八か、持てるすべての力を振り絞って、ニーナの乗る竜に突撃を敢行した。

 ピムの頭はニーナの乗る竜の腹にもろに食い込んだ。ニーナの竜は苦しそうなうめき声を上げ、地上に落下し始めた。ニーナはその背中からマヤを睨みつけ、

「おのれ、マヤ。貴様、またしても!」

 と、大きな叫び声を上げた。やがて、ニーナの竜の姿はニーナともども、ドゥムホルク郊外の森の中に消えた。

 マヤはそれを見届けるや否や、すぐさま五匹のカラスたちの動きを確認すべく振り返った。カラスたちはピムの近くまで迫ってきていた。マヤは一応、防御態勢をとった。しかしカラスたちは、マヤの予想通り、彼女のいる場所を通り越して、そのまままっすぐ飛び去ってしまった。おそらくカラスたちは、こちらに向かう時に背中の竜騎兵からマヤのほうに向かって飛べと命じられたきり何の命令も受けていないため、ただまっすぐに飛んで行ってしまったのだろう。

 いまマヤのそばを通り過ぎて行った竜騎兵の中に、シュラースとザエフでも会った例の女がいた。シュラースで会ったときからずっと、どこかで見たことがある顔だとは思っていたが誰なのかどうしても思い出せなかったその女。マヤはこの時、ようやく誰なのかわかった。いや、正確に言うと、マヤはそんな女は知らない。ただ、その女の顔からもう少し皮下脂肪をとって精悍な顔つきにし、肌の色から白みを取り去り、更に口の周りに髭をたくわえさせれば、アクロバット飛行競技ヨーロッパ選手権チャンピオンのジュリオ・マルティーニというイタリア人の顔になることに気づいたのだった。

 二十匹ほどのエラーニア竜がカラスたちを追いかけて行った。カラスたちが何らかの理由で突如、撤退を始めたものと思い込み、追撃に移ったらしい。

 ほどなく、ラウラとオクタヴィもマヤのところにやってきた。ラウラはしきりに首を傾げながら、マヤに「いったい何があったんだ?カラスどもはなぜ撤退したんだ?」と尋ねた。マヤは「詳しいことは後で」とだけ答え、すぐさまピムをドゥムホルク市街地の周縁部、エラーニア地上軍とハバリア地上軍が激戦を繰り広げている戦場へと向かわせた。敵竜騎兵を沈黙させることに成功したので、事前の計画通り、地上兵の支援に回ることにしたのである。

 もともと数の上で圧倒的な兵力を誇るエラーニア地上軍が竜騎兵の支援を受けたこの状況は、まさに鬼に金棒という言葉がぴったりだった。市街地周縁部の陣地に籠るハバリア軍は、ハバリア人の意地と誇りにかけて全力を尽くして応戦した。だが、それも長くは続かなかった。

 エラーニア地上軍はほどなく周縁部陣地の突破を果たし、ドゥムホルク市街地へ侵入を開始した。ハバリア兵は市内各所で建物内に潜んでいまだ抵抗を続けていた。とはいえ、エラーニア兵の誰かがドゥムホルク宮殿にエラーニアの旗を掲げてしまえば、帝国は名実ともに消滅する。その時がもうすぐそこまで迫っていることを予感していない者は、もはや一人もいなかった。

 マヤたちファクティム竜騎兵隊は、すでにピムの背にルーミアを乗せて尖塔へ向けて飛行中だった。

 ラウラとオクタヴィは、カラスたちが唐突に撤退してしまった理由をマヤから説明された。その説明にはこちらの世界の人間には難解なところがあったため、二人とも完全には理解できなかったが、マヤがたった一人でエラーニア竜騎兵隊を窮地から救ったことだけはわかった。二人はそんなとてつもないことをしでかす同僚とともに戦えたことを、心からから嬉しく思い、誇りに感じた。

 二人は思った。マヤが異世界に帰れるよう自分たちが手を尽くすことに対して、マヤは何度も何度も感謝の言葉を口にした。けれども実際には、自分たちがマヤから得たもののほうが多いような気がする。そんなマヤに報いるためにも、なんとしてもマヤを無事に尖塔の最上階に届けなければならない、と。

 ラウラは目の前に迫りつつある不気味な尖塔を睨みつけながら、「マヤが異世界へ帰るその瞬間まで、油断は禁物だぞ」と、隊長らしい言葉を隊員たちにかけ、警戒を促した。

 マヤたちは隊長に言われた通り、敵の残存竜騎兵が襲撃してこないかと、前後左右と上方と下方を見回してみた。上空にはエラーニア王国軍の紋章を付けた竜の姿しか見当たらなかった。だが下方、ドゥムホルク宮殿前の広場に、黒い津波のようなものが押し寄せて来ているのが目に入った。どうやら、エラーニア兵の姿を見てようやくハバリア帝国の敗北を確信したドゥムホルクの民衆が、宮殿前広場に立つ皇帝の像を引き倒そうとしているらしい。

 更に地上を見渡してみると、市街各所で民衆が街路に繰り出し、人だかりを作っているのが見えた。その中にはエラーニア軍の兵士の姿も見て取れた。もちろん戦闘している様子はない。民衆たちはエラーニア兵を解放者として迎え入れ、ともに喜びを分かち合っているのである。民衆とはしたたかなものである。こうすることで、この間までの民族対立はみんな皇帝のせいだ、俺たちは必ずしも賛成していなかった、とでも主張しているつもりなのだろう。

 中には喜び方を間違っている者たちもいた。金持ちの屋敷と思われる大きな建物から、金目の品を持ち出そうとしている。しかも悪のりした数人のエラーニア竜騎兵が、相棒の竜を使って屋敷の壁をぶちこわし、盗人たちの手助けをしている姿も見える。

 ドゥホルク市内は今や完全に無秩序状態だった。さすがに盗みのような明らかな悪事を働く者の数は多くはなかったが、ドゥムホルク宮殿やその周辺の皇室関係とおぼしき建造物の破壊に手を貸すものはかなりの数に上った。一般のエラーニア兵は、敵の親玉の所有物を壊すことを犯罪とは見なしていないようだ。その親玉の起こした戦(いくさ)せいで今まで彼らがどんな苦労をしてきたかを思えば、無理からぬことではあった。

 ラウラはしかし、「まずい」とつぶやいた。マヤもオクタヴィも口では何も応えなかったが、隊長の言葉の意味は理解していた。一部の民衆が、宮殿のど真ん中にそびえ立つ尖塔の根元にまで押し寄せ、破壊活動を開始したのである。しかも、ご丁寧なことに、数匹のエラーニア竜が「正義」の名のもとに行われているその活動に加わっていた。この尖塔がいくら巨大でも、数匹の竜が頭突きや体当たりを続ければ、いずれ壁に穴があく。そうなれば、尖塔は直立するために必要な強度を失い、下手をしたら横倒しになってしまうかもしれない。

 民衆は今、狂乱状態にある。彼らに尖塔を破壊しないよう頼みに行くのは、時間の無駄なだけでなく、身の安全という観点からも無意味なことのように思えた。

「尖塔の中へ急ごう」

 隊長が言った。マヤとオクタヴィは力強く「ええ」と応えた。

 彼女たちはもうすでに、尖塔のすぐそばまで到達していた。そこは地上から二百五十メートルほどの高さの場所だった。彼女たちは念のため、尖塔の周りをぐるっと一周してみた。人間が中に入るための設備が見当たらないことを確認すると、ラウラは相棒の竜に、尖塔の壁に弱めの頭突きを加えるよう命じた。

 幸いなことに、たった一回の頭突きで人ひとりが通れる穴をあけることができた。おそらく、尖塔全体が重くなりすぎると直立させることが困難なことから、上に行くほど壁を薄くして軽量化を図っているのであろう。いずれにせよ、地上二百五十メートルのこの場所を選んだのは正解だった。これ以上高いところだったとしたら、竜の頭突きによって壁に大穴があき、塔がそこから折れ曲がるように倒壊していたにちがいない。

 隊長はすぐさま、穴の中に竜の頭を突っ込ませ、竜の長い首を伝って穴の中に入った。彼女がまず塔の内部に侵入し、安全かどうか見極めるためである。しばらく後、彼女は穴から顔を出してマヤに手招きをし、それから相棒の竜に塔の付近を飛び回って待つよう命じた。

 ラウラの竜が飛び去った後、マヤはピムを穴に近づけた。そして、ラウラがやったのと同じようにピムに頭を穴へ入れさせ、まずルーミアに先に穴から中へ入るよう言った。ルーミアは立ち上がり、万が一にも足を滑らせたりしないよう一歩一歩足取りを確かめながら、ピムの首を通って尖塔にあいた穴のほうへ歩み寄った。

 と、その時。

 ラウラの竜が穴をあけた場所より十メートルほど高いところで、突然、尖塔の壁に一メートル四方ほどの大きさの出口が開き、中から薄緑色の物体がピムの背中めがけて落下してきた。

 マヤはびっくりして、自分の背後に落ちたその物体が何なのか確認すべく振り返った。そこにはマヤと同じぐらいの歳の少女が、世にも恐ろしげな表情で仁王立ちしていた。

「ニーナ!」

 マヤの上げた叫び声に、ニーナは

「マヤ……貴様だけは……絶対に許さん」

 と応えながら、腰から短剣を抜きはなった。

 下手にピムを動かすとルーミアが落下してしまうため、ピムを揺さぶってニーナを振り落とすことはできない。しかもマヤは今、ニーナに背中を向けて座っている。腰の小剣を抜いて振り向く間にニーナに切り裂かれてしまう。ラウラに助けを求めようにも、彼女はすでに尖塔の中にいる。

 ニーナはにたにたと嫌らしい笑いを浮かべ、短剣を振りかざしながら、マヤににじり寄ってくる。万事は休したと思われた。

 ところが、その次の瞬間。

 上方から再び何かがピムのほうへ落下してきた。だが今度の落下物はピムの背中の上に乗っかりはしなかった。その落下物はニーナを絡めとるかのようにまとわりつき、そのままニーナともどもまっすぐ地上へ向かって落ちて行ったのである。

 マヤは一瞬、何が起こったのか理解できなかった。首を後ろにひねって視界の片隅にニーナを見ていたため、あまりはっきりとは見えなかったからである。しかし、ピムの頭の上に立って視界の正面で一部始終をつぶさに見つめていたルーミアには、いま起こったことが何だったのかはっきりと理解できた。

 ルーミアは顔面蒼白になって「オクタヴィ!」と叫んだ。

 マヤはピムの少し上方を飛んでいたはずのオクタヴィの竜を見上げた。竜の背中にオクタヴィの姿は見当たらなかった。慌てて視線を下方へ移してみると、落下物はいままさに地上へ激突しようとしていた。

 ルーミアの叫び声を聞きつけたラウラが、尖塔の壁の穴から顔を出した。彼女はマヤたちが地上を見て呆然としている様子と、オクタヴィの竜に誰も乗っていないことから、すぐに状況を察し、

「何があった!」

 と、声を張り上げた。

 ルーミアが答えた。「オクタヴィが……オクタヴィが、敵の竜騎兵と一緒に地上へ……」

 マヤはすぐに我に帰り、いま何をなさなければならないかを悟った。「ルーミア、ピムの背中に乗って!」

 まだ茫然自失状態のルーミアは、姉の言葉の意味もわからないまま、ただ命じられた通りピムの首伝いに背中の上へ戻ってきた。マヤは妹を自分の背後に座らせた後、ピムにオクタヴィが墜落した地点に向かって下降するよう命じようとした。

 だがその時、ラウラが塔の壁の穴から這い出し、ピムの頭の上に飛び移ってきた。そして、首を大きく左右に振りながら、

「ためだ、マヤ」

 と叫んだ。

 マヤは隊長の行動の意味がわからなかったが、とにかくオクタヴィを助けに行きたかったので

「ラウラ、どいて」

 と乱暴に叫び返した。

 ラウラは「オクタヴィを助けに行っている暇なんかない。見ろ」と言って、マヤに尖塔の根元あたりを注目するよう促した。

 マヤは言われた通り、その場所に目をやった。その周辺で破壊活動に従事している竜の数が先ほどの倍、五、六匹にまで増加しているのが見て取れた。

 ラウラは続けた。「やつら、この尖塔を本気で横倒しにするつもりだ。急がないとおまえは異世界に帰れなくなってしまうぞ」

 マヤは言い返した。「そんなこと、オクタヴィの命に比べたら小さなことだわ。そこをどいて、ラウラ。ルーミアを連れて行ってオクタヴィに白魔法をかけてもらうんだから」

「落ち着け、マヤ。白魔道士はルーミア以外にもいる。エラーニアからたくさんの軍属白魔道士が来ているのは知っているだろう?それに、今ならハバリア人の白魔道士だってエラーニア人を助けるのを拒んだりはしない」

「だけど、こんな高さから落ちたら、オクタヴィの体はひどい損傷を受けて、魂がすぐにあの世に行ってしまうわ。あたし、マキナスの森に墜落したときそうなりかけたもの。だから今すぐに、今すぐに助けに行かないと」

「だが、おまえはザエフで撃墜された時、ここよりもっと高いところから落ちた。その時、落ちた場所が敵の前線近くだったので、味方の白魔道士隊に救出されるまで一時間近くかかった。それでもおまえは死ななかったじゃないか」

「でもオクタヴィは死ぬかもしれない」

 するとラウラは、頑固親父のようにマヤを怒鳴りつけた。「おまえはオクタヴィのことが信じられないのか!」

 その語気があまりに強かったので、マヤは反論できなかった。

 ラウラは続けた。「オクタヴィは体つきはスレンダーだが、決してひ弱じゃない。あいつが今までに体の不調を訴えたのを聞いたことがあるか?な?信じてやろう、あいつのことを。あいつの体力を、生命力を」

「ラウラ……」

「それにあいつは、おまえが異世界に帰れる可能性を放棄してまで自分を助けたと知らされても、喜ばないどころか、逆に、信じてくれなかったことに対して腹を立てるかもしれない。ザエフの温泉宿でもそういうことがあっただろ?あいつはそういう奴だ。あいつを本気で怒らせたら怖いぜ。今度こそ、本当に結婚させられちまうんじゃないか」

 ラウラはそう言って、マヤにウィンクしてみせた。

 しばらくの間、沈黙があった。

 不意に、ルーミアが背後からマヤの肩を叩いた。マヤは振り向いた。妹は小さくうなずいてみせた。

 マヤは再び口を開いた。その表情は笑顔だった。「そうね。いくらなんでも結婚せられるのはごめんだわ。あたし、信じる。オクタヴィを信じてあげることにする」

 ラウラは「そうだ。信じよう」と応えた。

「急ぎましょう、ラウラ。尖塔の最上階へ。異世界の門を開く装置のところへ」

「よし、行くぞ」

 隊長のその言葉は、ファクティム竜騎兵隊が進むべき方向を指し示す矢印を、彼女たちの心の中にしっかりと刻み付けた。彼女たちはもう二度と迷うことはなかった。

 マヤは一応、ピムにこの周囲を飛び回って待つよう命じ、ラウラとルーミアに先に壁の穴に入らせてから、自分も穴をくぐり抜け、尖塔内部へ侵入した。

 見ると、内部は、不気味に黒光りしている外面とは対照的に、まぶしいほどの白で覆われていた。と言っても、その白色は清楚な美しさを醸し出すようなものではなく、むしろ冷たさ、無機質感を連想させた。外壁とは別の種類の不気味さ、妖しさを放っていたのだった。

 すぐさま、ラウラが「こっちだ」と言って、付近の壁に埋め込まれている白い扉を指さした。彼女が扉を開いてその大きな体を扉口の中へ滑り込ませたのに引き続き、マヤとルーミアもその中へ踊り込んだ。

 中は、白い壁に囲まれた白い螺旋階段になっていた。天井全体が鈍い白色光を放って階段や壁を照らしていたため、白が強調されすぎて、より一層、無機質に見えた。

 三人はラウラを先頭に、マヤを殿(しんがり)にして螺旋階段を早足で登り始めた。階段は上へ上へとどこまでも続いているかのように思えた。視界には白い壁と白い階段、耳に聞こえてくるのは自分たちの足音と呼吸音だけ。彼女たちは次第に、催眠術にでもかかったような気分になってきた。

 数分後、彼女たちはようやく単調さという名の苦痛から解放された。解放してくれたのは目の前に立ちはだかる大きな黄色い物体だった。

「久しぶりだな、マヤ」

 それは、黄色い派手な装束を身にまとったアマゾネス、モーラの姿だった。彼女は去年の冬、デイン砦近くの森でサハラカンを倒すのを手伝ってくれた時のように、優しい微笑みをマヤたちに投げかけていた。

「モーラ!」

 マヤは、ラウラとルーミアの背中越しにモーラを見上げながら、驚きの声を上げた。

 モーラは応えた。「ナターシャがずいぶんと世話になったらしいな。天国の姉に成り代わって感謝しておくよ」

 マヤは言った。「モーラ、お願い、あたしたちをこの塔の最上階に行かせて。時間があまりないの。あたしどうしても、どうしてもそこへ行かなきゃいけないの」

「異世界への門を開くために、か?」

「そう。お願い」

 モーラの目が、急に激しい光を放ち始めた。エラーニア王宮前でマヤと立ち合った時のあの目の光と同じだった。「気の毒だが、それはできない」

 マヤは「どうして?」と声を張り上げた

 モーラは応えた「俺は近衛アマゾネス兵団の指揮官だ。たとえ部下を一人残らず失ってしまったとしてもな。俺はこの戦いで、部下五百人の命と引き換えにたった一万人のエラーニア兵しか血祭りに上げられなかった。ハバリアで最も腕の立つアマゾネスたちを集めた部隊を任されていたというのに。だが、こんな情けない指揮官の俺でも、部下たちは慕ってくれていた。勝利を信じて戦い続けた彼女たちのためにも、俺は最後までエラーニアと戦い続けなければならない」

 マヤは言い返した。「もう戦(いくさ)は終わったわ!」

 モーラは腰から短剣を抜きながら「俺にとってはまだ終わっていない!」と叫んだ。そして短剣の切っ先を、彼女の目の前に立っているラウラに向けた。まずは手近な敵から片付けようというのである。

 ところがラウラは、何を思ったか余裕たっぷりに「ふふん」と鼻で笑い飛ばした。「ヤグソフ四姉妹のモーラか。相手にとって不足はないな」

 モーラはラウラを睨みつけた。「なに?」

「あたしはたまたま竜を操縦する能力があったから竜騎兵隊に入ったが、本当は格闘術も得意なんだぜ」

「ほう。ハバリアグマを絞め殺したこともあるこの俺とやり合おうというのか。おもしろい」

「得意の長槍を振り回せないこんな狭い階段を待ち伏せ場所に選んだのは間違いだったな」

「ほざけ!」

 モーラはそう叫びながら、渾身の力を込めて短剣を繰り出した。

 するとラウラは、短剣を持つモーラの右腕を下から取り、彼女の突進してくる勢いを利用して後方に投げ飛ばした。

 マヤとルーミアは飛んでくるモーラの巨体をよけるために、その場にしゃがみ込んだ。ものすごい衝突音がマヤの後方から聞こえてきた。マヤとルーミアが振り返ってみると、モーラはマヤより少し下の階段の上で大の字になっていた。

 ラウラは得意げに「格闘戦は力が強いほうが必ずしも有利とは限らないんだぜ」と言った。

 しかし、モーラはすぐにその場で体を起こし、よろよろとではあったが立ち上がり始めた。驚異的な体力だった。普通の人間なら五メートルも投げ飛ばされて固い床に全身を強く打ち付ければ、脳しんとうぐらいは起こすだろう。

 それを見て、ラウラはこのアマゾネスはやはり一筋縄では行かない相手だと悟った。彼女はマヤとルーミアに「先に行け」と命じた。

 モーラはすでに立ち上がり、マヤたちのほうへにじり寄ってきていた。

 マヤは一瞬、躊躇した。ラウラがあのモーラと戦って無事でいられるのかどうか心配になったからである。

 だが、ラウラはマヤの心の声が聞こえたかのように「大丈夫だ。あたしを信じろ」と声をかけてきた。

 マヤは先ほど胸の奥に、進むべき方向を示した矢印が刻み付けられたことを思い出した。彼女はもうためらわなかった。

「わかったわ、ラウラ」

 彼女はそう言って、ルーミアの手を引いて階段を駆け上がり始めた。そして、しばらくして下から格闘が再開された音が聞こえ始めた時、足を止めずに後ろを振り返り

「ありがとう、ラウラ」

 と叫んだ。

 上へ進むにつれ格闘の音は聞こえなくなり、行く手は再び無機質さと単調さだけに支配された。

 白い階段と白い壁の連続。

 マヤとルーミアの感覚は半ば麻痺した。二人は次第に、自分たちがいま何をやっているのか忘れそうになった。頭に浮かんでくるのは、ずっと前の楽しい思い出ばかりだった。平和に満ちたアヴニ村で本当の姉妹のように何気ない日常生活を送っていたあの二週間。たった二週間だけだったにもかかわらず、今ではなぜか永遠の長さを持つ思い出のように感じられた。

 二人は不思議な気分だった。彼女たちがいっしょに過ごしたのは、わずか一年あまりという短い期間にすぎない。なのに、本当の姉妹以上に強い姉妹の絆で結ばれている二人。しかも姉は異世界人で元は男である。そんな二人が今、手を取り合って階段を上っている――なぜ?姉が異世界に帰るため。お別れをするため。なぜお別れしなきゃいけないの?なぜそんなに仲の良い姉妹が離ればなれにならなきゃいけないの?それが姉の望みだから。それはおかしいんじゃない?本当に強い絆で結ばれているならずっといっしょにいてあげるべきじゃないの?――

 マヤはルーミアの手を強く握りしめた。ルーミアはマヤの手を握り返した――絆で結ばれているから、だからこそ別れられる。だからこそ離ればなれでいられる。決して切れない絆だから――

 どこまでも続くかと思われた白い階段は、やがて二人の目の前で途絶えた。最後の一段は白い扉の前にあった。マヤはルーミアを一歩下がらせてから、腰の小剣を抜き、ゆっくりと扉を開いた。

 そこは十五メートル四方ほどの広さを持つ大きな部屋だった。

 マヤはぐるりと辺りを見回してみた。この部屋も壁や床や天井が白で統一されている。床から天井へ向かって伸びている四本の柱も白色である。壁には大きな窓が付いており、そこからバルコニーへ出てゆけるようになっている。今まで登ってきた螺旋階段が無機質で寒々しい感じだったのに対し、この部屋は壁や天井が白い美しい装飾品で飾られているため、少なくとも無機質さはなかった。だが、それらの装飾品はあまりにも繊細すぎ、現実の世界のもののようではないかのように見えた。

 姉に引き続き、ルーミアもその部屋に足を踏み入れた。マヤは敵の気配はないと判断し、とりあえず小剣を腰の鞘に納めた。そして再びルーミアの手を引いて、部屋の中央へ進んだ。

 そのうち二人は、部屋の片隅に白い大きな構造物が置いてあるのを目にした。近づいてみると、それは天蓋付きのベッドだった。二人は手をつないだまま、更にベッドのすぐそばまで歩み寄り、中を覗き込んだ。

 ベッドには初老の男性が目を閉じて横たわっていた。豪華な装束に身を包み、手は宝石をちりばめた短い杖を握ったまま、胸の上に置いている。深い眠りについているのか、微動だにしない。

 マヤはルーミアの顔に目をやった。妹ならこれが誰なのか知っているかと思ったからである。しかしルーミアは姉の言おうとしたことを察し、マヤが口を開く前に、ただ首を左右に振ってみせた。

 すると、突然。

 彼女たちの背後から

「ヤグソフ・ダカイ」

 という女の声がした。

 マヤとルーミアは慌て後ろを振り返った。だがそこには誰の姿も見当たらなかった。

 女の声が再び聞こえてきた。

「それはヤグソフ・ダカイ。ハバリア皇帝付きの僧侶。そしてこの尖塔の本当の主(あるじ)」

 声は、どうやら柱の陰から聞こえてきているらしい。マヤはその柱の向こうにいると思われる声の主に向かって

「誰?」

 と叫んだ。

 ところが、声の主が次に発した言葉はマヤを驚愕させずにはおかなかった。

《久しぶりね、山矢君》

 その言葉は日本語であるばかりでなく、こちらの世界ではルーミア以外、誰も知らないはずの名前を呼んでいたからである。

 声の主はゆっくりと柱の陰から歩み出た。それは魔道士服を着た若い女だった。ただ、その魔道士服の色は、華美な色を避ける傾向のある魔道士たちの習わしに反し、非常にけばけばしいピンク色だった。

 マヤはその女の顔に見覚えがあると思った。と言っても、バーバラ・スターゼンらアクロバット飛行パイロットとは違い、この女には直接、何度も会って言葉を交わしたことがあるような気がした。それを証拠に、彼女の声にも聞き覚えがある。

 女はまた日本語で

《あら、つれないわね。かつての恋人の顔を忘れてしまうなんて》

 と言った。

 この鼻にかかった甘ったるいしゃべり方、こんなしゃべり方をしていた人物と言えば、確か……

《といっても、あたしが勝手に恋人気取りであなたにつきまとってただけだけどね》

 マヤはようやく思い出した。

「八木沢……八木沢ソーニャ!」

 そう、山矢健太の通っていた高校の一年先輩で、スペイン人だがイタリア人だかのハーフと言われていた、大人っぽい女子高校生。なんだかんだと理由を付けては山矢ににつきまとっていた、あの八木沢ソーニャ。この女の顔、この女の声、この女のしゃべり方、間違いなく彼女だ。

 ソーニャは日本語で話し続けた。《ようやく思い出してくれたのね、山矢君》

 マヤはソーニャにつられて日本語で言葉を返した。もちろん男言葉である。マヤは日本語を使っていたとき男だったので、男言葉でしかしゃべり慣れていないのである。《そうか……おまえ、あの八木沢……か》

《元気にしてた?》

《まあ……な》

《あら、あたしと話すときはやっぱりぶっきらぼうになるのね。それとも、日本語じゃうまくしゃべれない?》

《一年以上……話して……ない……から》

《無理しなくてもいいわよ》

《いや……大丈夫……だ》

《本当に?》

《ああ。だが……おまえ……なんで、こ……こんなと……ころに……い……るんだ?》

 ソーニャは見るに見かねて、エラン語で「大丈夫じゃないみたいね。エラーニアの言葉で話しましょうよ」と言った。

 マヤはすぐにアウスグ語で「でも、ソーニャ、あなた、どうしてこんなところにいるの?」と言い直した。アウスグ語はエラン語とアクセントや一部の日常用語が異なっているだけなので、ちゃんと通じる。

 ソーニャは嬉しそうな顔をして「やっぱりそのしゃべり方のほうがいいわ。あなたみたいなかわいらしい女の子が男言葉で話すなんて、なんか変だもの」と言った。

 マヤはかわいらしいと言われたことにちょっと照れながら「あなたみたいに美人でスタイルのいい人にかわいいとか言われても嫌みにしか聞こえないわ」と言い返した。

「あら、エラーニアの言葉でなら、ちゃんと冗談も言えるのね」

「冗談のつもりはないんだけどな。だけど、アウスグ語がちゃんとしゃべれるのには理由があるのよ。ルーミアに特訓してもらったの。紹介するわ。これ、あたしの妹、ルーミア」

 姉にそう言われ、ルーミアはソーニャに「はじめまして」と挨拶した。

 ソーニャは「はじめまして、ルーミア」と応えた。

 マヤはそこで、先ほどの質問を繰り返した。「さっきの質問だけど、ソーニャ、あなた、どうしてここにいるの?あなたもこちらの世界に引き込まれたの?」

 ソーニャはしかし、妖しく微笑んだだけだった。

 その時、マヤはふと疑問に思った。ソーニャはなぜ、女の姿をしている自分が山矢健太だとわかったのだろう。

 ソーニャはいま一度、マヤに妖しい微笑みを投げかけてきた。

 彼女の顔を見ているうちに、マヤはもう一つ、重要なことを思い出した。山矢健太がこちらの世界に飛ばされたとき紫色の光を放ったあの怪しげなペンダント、あれは確か、ソーニャから手渡されたものではなかったか?

 ソーニャはまた一段と妖しく微笑みながら、ようやく先ほどの質問に答えた。「あたしがここにいるのは、ここがあたしの家だからよ」

「家?ここが?」マヤはその微笑みの妖しさに圧倒されながらも、おそるおそる尋ねた。「ソーニャ、あなた、こっちの世界の人間だったの?」

「そうねえ、こっちの世界の人間かと訊かれていいえと答える理由はないわね。ここ以外の場所を自分の家だと思ったことがないのは確かだし」

「でも……さっきあなたは、ヤグソフ・ダカイって人がこの塔の主(あるじ)だって言ったじゃない」

 ソーニャは答えた。「ええ、その通りよ。だってヤグソフ・ダカイは、あなたたちが怪僧ヤグソフって呼んでいるあの人は、あたしの父だもの」

 マヤは愕然となった。「それって、まさか、まさか……」

 ソーニャはマヤのその質問に直接は答えなかった。「妹たちがいろいろお世話になったそうね」

「妹……。ニーナ、モーラ、ナターシャのことね。ソーニャ、あなたは……あなたはヤグソフ四姉妹の一人だったのね。ソーニャ・ヤグソフだったってことなのね」

「ふふ。その呼び方は正しくないわ、山矢君。知ってるでしょ。ハバリアでは名字が先で名前があと、しかも、女は名字の最後に a をつける習慣があるって」

「ヤグソフ(Yagusov)……ヤグソワ(Yagusova)?ヤグソワ・ソーニャ……。八木沢ソーニャ!」

「あたしはずっと本名を名乗ってたのよ。まあ、漢字を当てはめるためにちょっと変えたけど」

「そういう……こと……だったの」

 ソーニャの表情はもはや妖しさを通り越して恐ろしいと言ってよいほど不気味な微笑みになっていた。「そういうことよ、山矢君」

 マヤはその恐怖の表情にほとんど打ちのめされていた。「じゃあ、あたしをこの世界に呼び込んだのも……?」

「ええ、そう。あたしがその張本人」

「で、でもどうして」

「それは、あなたも薄々気づいているはずよ。だからこそ、さっきの竜騎兵戦の時、目の前の敵をほったらかしにして、ニーナのほうに攻撃をかけたんでしょ?あたし、ここから一部始終を見てたわ」

「あれは……あれは『カラス』たちが、あの黒い竜騎兵たちが、ニーナに遠隔操作されてると思ったから」

「その通りよ。ニーナの着ている竜騎兵服には、着ている者の思考を遠くにまで飛ばす力がある。そして遠隔操作される側の着ている服にはそれを受け取る力がある。あたしがそういう服を作ってあげたの。異呪の力でね」

「異呪?ソーニャ、あなたも異呪が使えるの?」

「ええ。あたしがあなたの住んでいた世界に飛んで行くことができるのも、あなたをこちらの世界に飛ばすことができたのも、みんな異呪のおかげ」

「バーバラ・スターゼンやアンドリュー・スターゼンやジュリオ・マルティーニをこちらの世界へ飛ばしたのも?」

「ええ。そういう異呪を封じた宝石をペンダントに付けて、プレゼントしたのはあたしよ」

「アンドリューやジュリオに女の肉体を与えて竜に乗れるようにしたのも?」

「ええ」

「遠隔操作する時に彼らの意思が邪魔にならないよう、彼らの魂をあの世に飛ばして肉体だけで生きていけるようにしたのも?」

「ええ、そういう薬を作って彼らに飲ませたのもあたし。もっとも、あなたにそれを飲ませたのはナターシャだけど」

「じゃあ、もしあたしがこちらの世界の飛ばされたとき、首からペンダントを外していなければ……」

「あなたは、異世界からの転送座標が狂ってアウスゲント地方に墜落することなく、正確にこのドゥムホルクに転送されていた。そして魂を抜かれ、女の肉体を与えられ、ニーナの手足となって大活躍していたでしょうね。そうなっていたらハバリアは、きっと今頃、エラーニアを滅ぼして次の国の侵略に着手していたかも、いいえ、あなたのその飛行技術がハバリア軍にあれば、もしかしたら他国をもう三つか四つは滅ぼしていたかもしれないわね」

 マヤの隣でルーミアが「ひどい」とつぶやいた。マヤはルーミアの肩を抱いてなだめてあげながら「でも、でもどうしてそれがあたしやあたしたちの世界の住人でなければならなかったの?どうしてわざわざ異世界の人間を連れてくる必要があったの?」と尋ねた。

 ソーニャは答えた。「ねえ、山矢君、あなた、こちらの世界に飛ばされて初めて竜に乗ったときのことを覚えてる?きっとあなたは何の苦労もなく、人よりもずっと上手に竜を乗りこなすことができたはずよ。なぜだと思う?それが、あなたたちの世界の人間がこちらの世界に飛ばされる時に得る能力だからよ」

「飛ばされる時に得る能力?」

「そう。理由はわからないんだけど、人は世界を超えるとき、いくつかの特殊な能力を得る。それは、どの世界の人間がどの世界へ飛ぶかによって決まっているの。あなたたちの世界の人間がこちらに飛ぶと、いま言った、竜を巧みに操る能力を得る。そして、あたしやお父様が生まれた世界からこの世界へ飛んだ時は、不思議な魔力を身につけた。それが異呪」

「え?『あたしやお父様が生まれた世界』って、どういう意味?もしかして、ソーニャ、あなたやあなたのお父様は、この世界の人間でもあたしたちの世界の人間でもないの?」

「ええ、そうよ。あたしの父はね、あたしたちの世界にいた頃は考古学者だったの。父は二十二年前のある日、太古の遺跡で偶然、この世界に飛んでくることのできる宝石を発見した。きっと、あたしがあなたに渡したペンダントと同じ力を持った宝石だったんでしょう。そんなものを誰があたしたちの世界に持ちこんだのかは知りようもないけどね。才能はあったのに学閥や身分の低さのせいで学界内で認めてもらえず、絶望しかかっていた父は、故郷を捨て、まだ赤ん坊だったあたしを連れてこちらの世界へ移り住むことを決心した。そして異呪の力を利用してこの世界を思うままに牛耳ってやろうって思ったそうよ。まだ若かったハバリア候に取り入ってハバリア帝国をつくらせたのはそのため。民族紛争を利用してエラーニアに攻め込んだのは、その第一歩だった。

 でも残念なことに、『あなたたちの世界の人間がこちらの世界では竜を巧みに操れる』っていう事実に気づいたのは、今から数年前のことだった。あなたたちの世界の人たちに戦ってくれるよう頼んだり、脅して戦わせることも考えたけど、それでは彼らが裏切ってあたしたちの脅威になる可能性があった。ちょうど今の山矢君のように。だから肉体を生かしたまま魂を飛ばしてしまう薬や、思考を遠くまで飛ばす服を開発する必要があった。それらの開発に成功したのは、一年ほど前。しかも、その服は大量生産のできない品だったから、ドゥムホルクが包囲されてしまうまでに十着ほどしか完成しなかった。もしもっとずっと前にこれらのことが行われていれば、この世界はとっくの昔にお父様のものになっていたわ」

「それじゃあ、アクロバット飛行パイロットばかりをこちらの世界に連れてきたのは……」

「ええ。どうせ連れてくるなら飛行技術に長けた人のほうがいい、ってこと。将来を嘱望されていた天才少年パイロットのあなたに目を付けたのもそのためよ」

 マヤもルーミアも、受けた衝撃があまりにも大きかったため、しばらく何の言葉も口から出てこなかった。

 ソーニャはそんな二人の様子を見て、またいっそう不気味に微笑んだ。「わかった?山矢君。そういうわけだから、あたしはあなたをやっつけなきゃいけないの。あたしはあなたの敵だから。ヤグソフ四姉妹の長姉、ヤグソワ・ソーニャだから」

 マヤは、ソーニャの発する恐怖のオーラに精一杯あらがいながら、応えた。「もう戦(いくさ)は終わったのよ。これ以上あたしたちが戦うことに何の意味があるって言うの?」

「意味ならあるわ。あなたはあたしたちの計画を台無しにした。あなたがペンダントを外さなければ、ドゥムホルクにたどり着いてさえいれば、あたしたちはこの戦(いくさ)に敗れることはなかった。だから、だからあたしはあなたを倒さないと気がおさまらない」

「あたしがペンダントを外したのは単なる偶然よ。意図的にやったことじゃない。それに、もしあたしがドゥムホルクに飛ばされてニーナの言いなりに戦っていたとしても、ハバリアが勝てたとは限らない。誰かがニーナによる遠隔操作だって気づいていたかもしれないし、エラーニア軍が他に何か対策を考え出していたかもしれない」

 ソーニャの顔からついに笑みが消えた。「でも、ハバリアが一発逆転勝利できたかもしれないこのドゥムホルクの戦いで、ご丁寧にニーナの邪魔をしてくれたのは、他ならぬあなたよ!死に行くお父様に、思い描いていた野望が瓦解するところをまざまざと見せつけてくれたのは、あなたなんだから!」

 彼女は右手を前に突き出した。すると、その手のひらの上に直径五十センチほどの火の玉が発生した。何かの攻撃魔法を繰り出すつもりにちがいない。その大きさといい勢いといい、マヤがいままで見た同種の攻撃魔法に比べ、格段に強力な力を持っているのは明らかだった。

 マヤは、竜騎兵たちが護身用に携帯することになっている防御魔法石を腰のポシェットから取り出し、それを自分たちとソーニャの間の床に投げつけた。

 ソーニャの放った火の玉が炸裂した。火の玉は、防御魔法石によって作り出された魔法障壁をものともせず、マヤとルーミアを障壁ごと吹き飛ばした。

 マヤとルーミアは三メートルほど離れた床に叩き付けられた。だが幸いにして、そこに柔らかい絨毯が敷かれていた。

 マヤは妹に「大丈夫?」と声をかけた。ルーミアは「うん」と答えた。どうやら二人とも軽い打撲以上の怪我を負うことはなかったようだ。

 とはいえ、ソーニャが次の攻撃魔法を放つのは時間の問題だった。見ると、もうすでに手のひらの上に火の玉を乗せている。しかもそれは先ほどよりももっとずっと大きな火の玉である。マヤは、焼け石に水と知りつつも、再びポシェットから同じ種類の魔法石を取り出し、それを床に投げつけようとした。

 が、その時である。部屋の片隅にある、螺旋階段へと続く扉から、何か白いものが飛び出してきた。その白いものはソーニャめがけてまっすぐ突き進んでゆき、おそらく長剣と思われる細長い金属を振り回した。

 ソーニャは巧みに身を翻してそれをかわすことはできたが、手のひらに生成されつつあった火の玉を床に落としてしまった。そのため、火の玉は炸裂することなくその場で消えた。

 ソーニャに突進したその白いもの――騎士装束を着た男の後ろ姿――はマヤたちのほうを振り返り、「マヤ、ルーミア!」と叫んだ。

 マヤは「ジュート!」と叫び返した。もう二度と会えないと覚悟していた彼と再会できた喜びの気持ち。こんな場所に彼が現れたことを意外に思う気持ち。ソーニャに戦いを挑んだ彼の身を案ずる気持ち。その叫び声にはいろいろな気持ちが込められていた。

 ソーニャは、またすぐに手のひらの上に火の玉を生成し始めた。ジュートも負けじと彼女に斬りつける。だが今度は、彼の剣はソーニャの体に到達する前に見えない壁のようなものにはばまれ、振り下ろすことができなかった。ソーニャはいつの間にか、防御魔法を展開していたのだった。攻撃魔法と防御魔法を同時に使うとは、やはり彼女は並の魔道士ではなかった。

 火の玉はソーニャの手の上で膨張を始めた。ジュートはそれでも剣を振り回した。防御魔法はそんな彼の努力をあざ笑うかのように、剣を跳ね返した。火の玉はもう炸裂寸前である。マヤたちは、今度こそ絶体絶命だった。

 ところが。

 火の玉は急に勢いを失い始め、やがて小さくしぼんで消えてしまった。

 マヤとルーミアとジュートは何が起こったのか理解できず、唖然となった。

 ソーニャはその場でがっくりと膝をつくと、口に手を当て、激しく咳き込んだ。咳を一回するごとに、口に当てた手の指の間から床に向かって鮮血が飛び散った。

 やがて咳は収まった。だが、彼女は苦しそうにぜいぜいと呼吸をしたまま、その場から立ち上がろうとはしなかった。

 マヤは腰から小剣を抜き、ゆっくりとソーニャのほうに歩み寄った。そして、ジュートのすぐそばに到達した時、立ち止まってソーニャの様子をいま一度、伺った。ソーニャはやはり、苦しそうにうずくまったままだった。

 ジュートがマヤの肩を抱いた。マヤはジュートと顔を見合わせた。ソーニャがいったいどうしてしまったのか、ジュートが知っているかと思ったからである。だがジュートのほうも、マヤに不思議そうな表情を見せるだけだった。

 すると、ソーニャはうつむいたまま「もう限界みたい」とつぶやいた。

 マヤはおそるおそる「どういうこと?」と訊き返した。

 ソーニャは答えた。「異呪はね、術者の命を消費する魔法だったの。そのことが判明したのは半年ほど前、お父様が突然、血を吐いて倒れられた時のことよ。そのせいでお父様は異呪を満足に使えなくなった。戦闘に耐えられるほど丈夫な竜をこの寒いハバリア地方で育てるには異呪の力が必要だったのに、それができなくなってしまった。それ以降、ハバリアの竜騎兵力は衰える一方だった。山矢君も、きっとそう感じてたんじゃない?だけど、あたしはその頃、アンドリュー・スターゼン、バーバラ・スターゼン兄妹をこちらの世界に引き込むために、彼らと親しくなろうと一生懸命だったので、こちらの世界で起こっていることを把握していなかった。だから、こっちに帰ってきて竜騎兵力を再建することができなかった。

 父はさっき死んだ。今までに使った異呪が少しずつ生命力を蝕んでいたのね。最高級白魔道師たちも最後は匙を投げたわ。次はあたしの番」

 マヤは「ソーニャ……」と声をかけるしかできなかった。

 ソーニャは尋ねた。「ねえ、山矢君。あなたが命の危険を冒してまでこの部屋にやってきたのは、異世界への門を開くためでしょ?」

「え?ええ」

「一つ質問させて。あなた、どうしてそこまでして異世界に帰りたいの?あなたはこちらの世界で何不自由なく生活できるはず。確かに、こちらの世界は山矢君の世界ほど機械文明が発達していないから、不便な部分はある。でもその代わり、こっちには魔法がある。白魔法のおかげで、こっちの世界の人たちはほとんどみんな天寿を全うできる。ガンなんて病気はとっくの昔に撲滅されてる。体が不自由になってもすぐに治してもらえる。決して住みにくい世界じゃないでしょ?

 それにあなたには、仲の良い妹さんがいる。アヴニ村に墜落したという東洋人の少女が本当は山矢君なんじゃないかっていう疑念は、あたしたちも持っていないわけじゃなかった。最終的にそうでないと判断したのは、異呪を使わずに男の魂を女の魂として再生できる可能性があまりにも低かったからだけど、それ以外にも、あなたがアヴニ村で妹さんといっしょに生活している様子がとても楽しそうだったからっていうのもあるのよ。ナターシャや他のスパイがしばらくあなたを監視して報告してくれてたの。異世界に飛ばされていきなり性転換された男の子なら、普通、もっとショックを受けるはずだって。でも今は知ってる。みんな妹さんのおかげだったてね。そんな大切な妹さんと別れることを、あなたはどうして選ぶの?

 それだけじゃない。あなた、彼氏だっているんでしょ?あなたの肩を抱いているこちらの男の人、この人とはそういう関係なんでしょ?どうして彼と別れてもかまわないって思うの?」

 マヤは、いつの間にかルーミアがすぐそばに立っていたのに気づき、まず妹の顔を見、次に、かたわらに寄り添うジュートのにやけ顔を見上げた。それから、ソーニャのほうを向き直り、言った。「理由は、いろいろあるような気もするけど、本当のところは、あたしにもよくわからない。ただ、あたし、元に戻さなきゃいけないっていう思いがずっと心の中にあるの。取り戻したい、復帰したい。そんな漠然とした思いがあるの。それが一番の理由かもしれない」

 ソーニャは言った。「できると思う?」

 マヤは答えた。「わからない。でも、そうする。もう決めたの」

 ソーニャはゆっくりと立ち上がった。そして視線をルーミアとジュートのほうに一旦、やってからマヤのほうに戻し、言った。「あたしのこの体では異呪を使うことができるのはたぶんあと三回くらい。そのうちの一回はこの塔がもうしばらく倒壊しないよう支えるために、一回は異世界への門を開く装置を作動させるために、そしてあと一回は性転換の異呪をかけるために使うことにするわ。山矢君を男に戻してあげるためにね」

 その言葉はあまりにも突然だったので、マヤは一瞬、我が耳を疑った。「え?今、なんて言ったの?」

 ソーニャは答えた。「異世界への門は異呪の力がないと動かないのよ。だからあたしが動かしてあげるの。あなたを異世界に帰すために。そして男にも戻してあげる。山矢君がそう望んでいるなら」

 マヤはまだソーニャの言葉が信じられなかった。「どうして……どうして急に、そんなこと……」

 ソーニャは言った。「あたしね、生まれた世界には一度も帰ったことがないの。お父様が自分はもう二度と帰らないって決めてたから、あたしもそうしてあげようって。でも一度だけ聞かされた話によると、山矢君の世界と似たような世界だったみたい。それでも、あたし、何度か考えたことはあったの。もしあたしがこちらの世界に移り住んでいなければ、あたしは元いた世界で今頃、どんな生活を送っていたんだろうって。東京に滞在していた頃、街を歩いていてあたしと同い年ぐらいの、二十代前半の女の子とすれ違うと、ああ、あたしは本当はこんな女の子になっているはずだったのかな、なんて思うこともあったわ。

 うまく言えないだけど、あたし、今の山矢君の話を聞いて、山矢君に託してみようと思ったの。本来の自分を取り戻すっていう願望を」

「だけど、あたしがあなたのお父様の野望を破壊した元凶だって、さっき言ったじゃない」

「お父様の野望がついえた本当の理由は、いま言ったように、お父様が異呪を使えなくなったからよ。最初から無理があったの。異呪の力だけで世界を征服するなんて。さっきあなたに言ったことは、単なる八つ当たり。それはわかってた。でもそうでもしないと気が済まなかったの。バカみたいね」

「ソーニャ……」

 ソーニャの顔に微笑みが戻った。「それにもうひとつ、東京にいた頃は山矢君、あたしがどれだけ頼んでもファーストネームで呼んでくれなかったのに、さっき再会してからは何度もあたしのことをファーストネームで呼んでくれてる。あなたを元に戻すのは、そのお礼」

 マヤの顔も再び笑顔になった。「わかったわ、ソーニャ」

 ソーニャは、何かの魔法をかけるために右手を振った。まもなく天井から、人ひとりがやっと通れるほどの幅しかない小さな階段が降りてきた。「門を開く装置はこの上よ。来て。この塔がしばらく倒壊しないようにする異呪はかけておくけど、こんな大きな塔だからあまり長くは持たないと思うわ」

 マヤは「ちょっと待って。すぐに行くから」と答えた。

 ソーニャはそれを聞いて、先に小階段を登っていった。

 すると、ルーミアとジュートが声をかけてきた。「良かったわね、お姉ちゃん」「良かったな、マヤ」

 マヤは二人にうなずき返してから、ジュートのほうを向き、ちょっとはにかみながら、言った。

「今のソーニャの話、聞いてたでしょ」

 ジュートは答えた。「ああ」

「じゃあ、あたしの正体もわかったわよね」

「ああ」

「怒った?」

「いいや」

「本当に?」

「ああ、だって俺はもともと男のほうが好きだから」

「え?それって、ジュート、あなた本当はホ……」

「本気にするなって」

「びっくりした。でも、そうよね、あなたほどの女好きが、まさかね」

「そうだとも」

「なに威張ってんの。あたしは皮肉を言ったのよ」

「とにかく、俺にとってマヤはマヤ。男だとか女だとか言う以前に、おまえは俺の愛したマヤさ」

「うん」

 ジュートはマヤの頬に手を添えた。マヤは一瞬、かたわらにいるはずのルーミアが気になって、横目で彼女のほうを伺った。だが、ルーミアは気を利かせて、先に小階段を登って行くところだった。

 二人はしばらくの間、唇を重ねた。

 唇を離したあと、マヤはジュートとともに、壁に付いている大窓を開けてバルコニーへ出た。ピムに最後の命令を言い渡すためである。

 マヤが呼ぶと、ピムはすぐに彼女のところへやってきた。

 マヤはバルコニーの欄干越しに言った。「ピム、今までありがとう。もうしばらくしてあたしの存在感がこの世界から消えたら、あなたはここでルーミアを背中に乗せて、マキナスの森に帰るのよ。わかったわね。あ、それと、この赤い装甲はもう必要ないから、アヴニ村の鍛冶屋のお爺さんにでもはずしてもらってね」

 ピムはもちろん何も答えない。しかし、マヤの目にはピムがちゃんと承諾の返事をしたのが見えていた。

 マヤはピムの鼻先に口づけをした。ピムは心なしか、照れくさそうにしている。考えてみれば、ピムは人間で言えばマヤと同じくらいの歳、しかもオスなのである。

 ピムはマヤのもとを飛び去った。マヤはその後ろ姿にいま一度、ありがとうと言った。

 バルコニーから部屋へ戻って行こうとした時、マヤははたと気づいた。「そういえば、ジュート、あなたどうやって地上へ戻るの?あなたは男だから竜には乗れないし、今からあの長い長い螺旋階段を駆け下りても倒壊してしまう前に地上にたどり着けるかどうか……」

 ジュートは「抜かりはない。ほら、見ろ」と言って、騎士装束のマントをはね上げた。

 マヤはジュートが背中に背負っているものを見てびっくりした。「パラシュート?」

「ああ、俺はさっき情報部の上司に、この塔に潜入して破壊される前にできるだけ情報を集めて来る任務に就かせてくれって掛け合ったんだ。マヤたちの竜がこの塔に近づこうとしているのを見て、きっとマヤたちは塔で何かするつもりだって思ったからな。潜入してみると、この塔にはいろいろ珍しい物があってな。あの螺旋階段、途中まではひとりでに動いて人を運んでくれる高速自動階段だったんだぜ。途中で止まってたのは、たぶん下の連中の破壊活動のせいだと思う。とにかく、あの自動階段がなければ、俺はとても最上階まで登って行く気になんかならなかったよ。それで、ここへ来るまでにちょっと塔内を物色してみたら、このパラシュートってやつを見つけたってわけさ。おそらく、おまえたちの世界から呼ばれたパイロットたちの所持品だったんだろう。ご丁寧に使い方の説明図まで置いてあった」

「そうなの。でも使う時は気をつけてね」

「ああ。それと、マヤに知らせておきたいことがある。俺がこの塔に登り始めた時、上からオクタヴィともう一人、敵の竜騎兵服を着た奴が落ちてきた。だが、たまたまそばにいた女性白魔道士が、すぐに二人に再生魔法をかけ始めてたよ。あれだけ処置が迅速なら、死ぬことはまずない。魂はじきに戻ってくるだろう。心配してたんだろ?彼女のこと」

「ええ。それなら助かりそうね。安心したわ」

「もう一つ、螺旋階段を登ってくる途中、体のでっかい女が二人、階段の上で伸びてた」

「それって、ラウラとモーラ?」

「ああ。二人とも殴り合って足腰立たなくなってへばってた。でも、俺が『ハバリア皇帝がさっき、正式に降伏文書に署名した』って話をしたら、モーラは戦うのをやめたよ。ラウラの竜で一緒にここを脱出するって言ってた」

「そう、よかった。ラウラを信じて、本当によかった」

 ジュートは不意にマヤを抱きしめた。マヤもジュートの胸にすがりついた。

 マヤは言った。「ルーミアのこと、お願い」

 ジュートは応えた。「わかった。おまえが姉として彼女にしてやったほどのことは到底、できないが、俺は俺なりのやり方で、彼女のお兄さん代わりをしてあげるつもりだ」

「ありがとう」

 ジュートは更に強くマヤを抱きしめた。

「ここでお別れだ、マヤ。残りの時間はルーミアに譲るよ」

 マヤは言った。「でも、あたしが異世界に帰ってしまっても本当にいいの?ずっと前、ザエフで言ってたじゃない。あたしを異世界には帰さないって」

 ジュートは言った。「さっき、おまえがあのソーニャって女に帰りたい理由を話しているのを聞いてしまったからな。あんなの聞かされたら、引き止めるわけにはいかないだろ」

「うれしい。わかってくれて」

「お前のことは死ぬまで忘れない。いや、死んだって忘れるもんか」

 マヤは「あたしもよ」と言って、ジュートの胸に顔をうずめた。やがてジュートの胸は涙で濡れ始めた。

 二人は最後に、もう一度キスをした。

 キスを終えた途端、マヤは「さようなら」と言い残し、振り返ることなく上の階へ続く小階段を駆け上がっていった。





(最終章に続く)





YZAの小説の部屋
http://www5f.biglobe.ne.jp/~yza/nv/





戻る


□ 感想はこちらに □