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紅の装甲竜騎兵
作:YZA

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9 シュラース




 モーラ隊によるエラン王宮急襲の二日後、マヤは駐留する竜騎兵基地の兵舎に割り当てられた自室で、昼間だというのにベッドに仰向けになり、ただぼーっと天井を見つめていた。

 彼女がクフールツ診療院で不動の術を解かれてからもうかなりの月日が経つ。なのにこうやって仰向けになると、今でも自分の体が動かないのではないかという錯覚に陥(おちい)ることがある。

 入院中の三ヶ月間、彼女は体を動かせないことが苦痛で仕方がなかった。ましてやそれは、術を解いてもらえる日が来るのを待つ以外、自分の力では全くどうすることもできない苦痛である。彼女にしてみれば、自分はひょっとしてこの世に存在する最高の苦痛を味わっているのではないかとさえ思えたのだった。

 ただ、いま思い返してみると、あの時自分は、実はそれほど不幸ではなかったような気もする。待つことしかできないのは確かに苦痛だったが、体の自由を取り戻せたら自分がこの世界に飛ばされた原因と元の世界へ帰る方法を一刻も早く見つけてやろうという希望に溢れていた。何も思い悩むことなど無かった。

 それに傍らにはいつもルーミアがいた。山矢健太はもともと人見知りする性格だった。もちろん友達は何人もいたし、その中に親友と呼べる者もいた。だがルーミアのように、自分の心の内をすべてさらけ出してもよいと思えるような人間は、山矢の周りにはほとんどいなかった。特に日本に帰ってきてからは皆無と言ってよかった。だから、山矢――マヤは、ルーミアと一緒にいられることそれ自体に対してだけでなく、彼女とそういう絆が築けたことに対しても、喜びを感じていたのである。

 しかし、そういう絆が今となっては重荷だった。心が通じ合っている以上、ルーミアに隠しごとなどできはしない。今度ジュートの話を持ち出されたら、また自分は平常心を失うだろう。そうなればきっと、自分が単にジュートにさらわれたことを気に病んでいるのではなく、もっと別の理由で動揺していることに、ルーミアは気づくに違いない。

 それ以前に、ルーミアがジュートとどこかでばったり出会うかもしれない。あるいはジュートのほうからルーミアに会いに来るかもしれない。モーラとの戦いの直後、マヤ自身がジュートにそのように勧めたのだから、そうなる可能性は高い。もし自分とジュートの関係がルーミアにばれたら?――何度となくその問いを自分に問いかけた。だが、どうしても的確な答えを見つけられなかった。

 マヤが二日前、ナターシャの部屋に転がり込むなどという大胆な行為に及んだのは、一人では解決できないこの問題について人生の先輩であるナターシャに助言を仰ぐためだったに他ならない。

 ナターシャにハバリア人であることを打ち明けられたときは、さすがに少し驚いた。だが、ナターシャはすぐに

「エランには、あたしみたいにハバリア帝国が嫌で逃げ出してきた人がたくさん住んでいるのよ」

 と説明してマヤを安心させた。エラーニアは排他的な国ではない。マヤのような東洋人が軍隊にいさせてもらえることからも、それは明らかである。ならば、王都に他国の民が居住していても不思議はなかろう。それに、何ヶ月か前、デイン砦近くの森の中でサハラカンと戦った時にモーラがマヤたちにしてくれたことを考えれば、ハバリア人が悪い人たちだとも思えなかった。

 その夜、マヤは一つのベッドにナターシャと一緒に横になり、ナターシャに話を聞いてもらった。するとナターシャは

「妹さんに打ち明ける必要なんかないわ。マヤは考えすぎよ」

 と言った。いくら姉妹だからといって、いや姉妹だからこそ、お互いの恋愛のことにまで口を差し挟むべきではないのだ、マヤのように好きな相手がたまたま妹と同じだった場合でも違いはない、自分にも姉がいるからよくわかる、というのがその理由だった。マヤは、ナターシャの考えはちょっとドライすぎる気がしたものの、一理あるとは思った。

 翌朝、マヤはナターシャに相談に乗ってくれた礼を言い、ナターシャの部屋をあとにした。ルーミアにジュートとのことを打ち明けるべきなのか、このまま放置するのか、それとも他に取るべき道があるのか、結論が出たわけではなかったが、悩みを聞いてもらえたので少しは気が晴れた。もっとも、このような大胆な行為に及んだ以上、彼女はその代価を支払う必要があった。

 マヤは天井を見つめるのをやめ、うららかな春の陽(ひ)が差し込む窓に背を向けるように寝返りを打って、ため息まじりに

「三日間の自室謹慎、か」

 とつぶやいた。

 ナターシャの部屋から竜騎兵基地の自室に帰ってみると、意外なことに、ルーミアは不在で、しかも彼女の代わりに、隊長のラウラが部屋の中央に仁王立ちしていた。ラウラは、ルーミアは無断外泊をしたマヤが心配でいても立ってもいられず、捜しに出かけてしまったと説明した後、マヤを詰問し始めたのだった。

 結局、マヤは、無断外泊に加え、王宮前でのアマゾネス隊との戦いの際にラウラの制止を無視して単独でモーラに突進したという「命令造反」の咎(とが)により、一晩牢に監禁され、今日、審問室で審問にかけられた。幸いにして、無断外泊のほうは、今まで負け知らずだったマヤが初めて撃墜されたショックで精神的混乱をきたしたことが原因とされて酌量の余地を認められ、また命令造反のほうも、あの乱戦の中ではやむを得ない面があったと認められたため、きわめて軽い処分ですんだ。

 命令造反については、マヤ自身、反省することしきりだった。彼女はいままで、竜騎兵戦で勝つにしても負けるにしても、それはすべて自分一人のことで、他人はあまり関係がない思っていた。確かに、ラウラとオクタヴィは頼もしい同僚であり、これまで何度もお互いに助け合ってきた。だが助け合うということは、余力のある者が他者の足りない部分を補っているにすぎず、つまるところ、三人がそれぞれ一の力を持っているとすれば、それをすべて足しても三にしかならないと考えていたのである。マヤが今回撃墜されたことから得た教訓は、一掛ける三が常に三になるわけではなく四にも五にもなり得るし、逆に四とか五だったものから一引いただけで二に、あるいはそれ以下になってしまう場合もあるのだということである。

 隊長という立場上、上官や審問官の前では厳しいことを言ってきたが、二人きりになると笑顔で励ましてくれたラウラ。監禁中も審問中も終始優しい言葉を掛けてくれたオクタヴィ。マヤは二人の同僚のことを想い、もう二度と彼女たちに迷惑を掛けるまいと誓った。

 また、重傷を負ったピムをほったらかしにして外泊したことも後悔し始めていた。もちろんモーラとの戦いの後、救護班の竜たちが大きな網を使ってピムをちゃんと竜騎兵基地に運んでくれた。基地にさえ帰すことができればそこには竜のための十分な医療設備が整っているので、何ら心配の必要はない。だがピムは、アヴニ村から今まで苦楽をともにしてきたいわば親友である。親友が傷の痛みに苦しんでいるときに自分だけ苦しさから逃げ出すなど、裏切り以外の何ものでもないと彼女は思ったのである。

 そこでマヤの頭の中に、再び妹の顔が浮かんできた。

 昨日、マヤを捜しに行っていたルーミアは、基地に戻ってきてマヤが牢に入れられていることを知るやいなや、すぐさまマヤの元に飛んできた。そして今日、審問が終わるまで、ホト先生の実験の手伝いをほっぽり出してマヤのそばにずっと付き添ってくれたのだった。その間も、マヤは何度か、ジュートとのことを打ち明けようかと思った。だが牢には牢番がおり、とてもそのような込み入った話ができる雰囲気にはならなかった。

 また審問のとき、審問官はルーミアに、マヤが妹と同室では謹慎したことにならないのでマヤの謹慎期間中、ルーミアはラウラの部屋で寝起きするようにと言った。ルーミアは姉の処分が決まって安堵すると、昨日さぼった実験の手伝いに再び参加すべく、先ほど魔道学校へ出かけて行ったが、審問官にそう言われているので、今日の夕方、基地に帰ってきてもマヤの部屋には戻ってこない。つまりマヤは、謹慎期間があける三日後まで、一日に数度許されている短い面会時間にだけルーミアと顔を合わせればよいことになる。だからこの謹慎期間は、マヤが妹との問題に正面から向き合うためのまたとないチャンスだった。少なくとも、そうなるはずだった。





 三日後、ルーミアは朝一番にラウラの部屋から、まだ起きたばかりのマヤのところへやってきた。このときばかりはマヤも、問題を抱えていることを半ば忘れて、自由の身になれたことを妹と喜び合った。ルーミアに引き続き、ラウラとオクタヴィも祝辞を述べに来た。その後、彼女たち四人は連れだって兵舎の食堂へとおもむき、朝食に付いてきたミルクで乾杯をすることとなった。

 その席でルーミアは

「今日から明日にかけてホト先生の実験が最終段階を迎えるの。それでね、先生から今夜は魔道学校に泊まるように言われちゃった。せっかくお姉ちゃんと同じ部屋に戻って来られることになったのに、明日までお預けなんて、残念」

 と言った。

 するとラウラは、マヤとルーミアを見比べ、あきれたように言った。「おまえら、ホントに仲がいいよなあ。あたしにも兄貴がいるけど、おまえらぐらいの歳の時は、喧嘩ばっかりしてたぜ」

 オクタヴィも同感だった。「それもあなたたち、本当の姉妹ではいらっしゃらないのでしょう?親しい友人同士でもずっと一緒にいれば喧嘩ぐらいはいたしますのに、わたくし、あなたたちが喧嘩したところを見たことございませんわ」

 マヤは応えた。「喧嘩なら一度したことある。あたしが竜騎兵隊への入隊を勝手に決めちゃったときにね」

 ルーミアはちょっと申し訳なさそうに言った。「あれはあたしが悪いの。お姉ちゃんの気持ちを理解してあげられなかった。今思うと、あたしってなんて意固地だったんだろうって気がする。でも、あんなのはもういや。もう二度と喧嘩したくない」

 ラウラは「まあ、あたしとしても、マヤの謹慎があけたと思ったら今度は姉妹喧嘩が原因でルーミアがあたしの部屋に転がり込む、なんてのは御免こうむりたいからね。せっかくギール城のあのカビ臭くて狭っ苦しい部屋をおさらばできたんだ。次はどの戦線に回されるのかわからないけど、せめてここにいられる間は部屋を一人で伸び伸びと使いたいじゃないか」と言って笑った。

 オクタヴィが応えた。「あら。正直に、殿方をこっそり部屋に招くことができなくて困るとおっしゃればよいのに」

 これにはマヤもルーミアも笑うしかなかった。真顔で、しかもあの口調でこんな冗談をさらりと言ってしまうオクタヴィの性格は、彼女たちにとって謎以外の何ものでもなかった。

 ラウラは胸を張って言った。「あたしはこれでも栄光あるファクティム装甲竜騎兵隊の隊長だぞ。そのあたしが男子禁制のこの兵舎に男を招くわけがない。……というか、そんな男がいたら紹介してくれ」

 一同はまた大笑いした。

 マヤは、アイリゲン大佐という人がいるんじゃないのと言ってやろうかと思ったが、ラウラを本気で怒らせそうな気がしたので、それは諦め、代わりに、ちょっと悪戯っぽく「でもあたしの謹慎があけてせいせいしているのは、ラウラだけじゃないわよ。ルーミアの方もさっき、ラウラの部屋で寝泊まりするのはもうこりごりだって言ってた。ラウラのいびきがうるさくて眠れないって」と言った。

 ラウラはルーミアを睨みつけ「何?おい、本当か、ルーミア?」とすごんで見せた。

 ルーミアは必死の形相で「あたし、そんなこと言ってない!もう、お姉ちゃん、嘘ばっかり!」と訴えた。

 マヤはウィンクをして「この間、あたしに『エランでは緑のリップスティックがはやってる』なんて嘘を教えてくれたお返しよ」と言った。

 オクタヴィは笑いながら「まあ、いよいよ姉妹喧嘩の始まりですわ」と言った。

 その時、マヤは思った――今、自分と妹の関係は良好だ。妹によけいなことを打ち明けてこの関係を壊さなければいけない理由が、いったいどこにある?妹も先ほど、もう二度と喧嘩したくないと言っていたではないか。ナターシャの言う通り、自分は少し考え過ぎだ。妹には何も言わず放置しておいたほうがよいのかもしれない。もしジュートのことがばれたとしても、案外、『ジュートとつきあい始めたの。いま話そうとしていたところなのよ』とでも言えば納得してもらえるのでは――

 やがて、朝食パーティーはお開きとなり、ルーミアは先ほど言っていた実験の最終段階の手伝いのために魔道学校へと出かけ、残りの竜騎兵三人は駐竜場へと向かった。竜を装甲に慣れさせるための訓練飛行を行うことが目的だった。

 もっともピムは、先日の傷をまだ治療中である。マヤが基地に駐在する竜専門の男性白魔道士に訊いたところ、ピムの傷はもうほとんど回復しているが、明日までは大事をとって飛行を差し控えた方がよいとのことだったので、マヤはその日、訓練そのものには参加せず、ラウラたちの訓練の様子を見学したり、地上に降りてきた彼女たちとフォーメーションの確認をしたりして訓練時間を過ごした。

 夕方、マヤは訓練を終え、ピムの世話などの雑務を一通り片づけてから、カスリン通りへと向かうべく五日ぶりに基地を出た。五日前にファクティム隊の竜たちが装甲を装備し終えるまで、マヤたちは昼間は剣や弓矢の訓練を課せられていたが、夕方以降はある程度の自由行動が許されていた。マヤはその時間を利用してペンダントの調査をしていたのである。装甲の装備が終わった今、マヤたちは本来の任務に復帰し、たとえスクランブル当番に当たっていなくても、敵の襲来に備えて基地で待機していなければならず、自由行動などできなくなる。しかし相棒のピムが治療中のマヤは、待機していても出撃しようがないことから、ピムが完治するまでの今日と明日に限り夕方以降の外出許可を取ることができたのだった。

 カスリン通りで乗合馬車を降りた彼女は、ナターシャの部屋のある建物へ足を向けた。と言っても、今日がナターシャの仕事が遅く終わる曜日だということを、マヤは以前、彼女から聞かされていた。ナターシャの部屋の扉をたたいてみたが、案の定、彼女は不在だった。そこでマヤはあらかじめ用意しておいた紙片を部屋の扉に挟んでおくことにした。紙は、この世界では一般庶民にとってそれほど安い品物ではない。だが竜騎兵基地の事務所には、上層部に提出する書類を作成するのに使う便せんが山積みになっている。マヤは先ほど謹慎処分終了報告書を提出した際、そのうちの一枚をくすねてこう書き付けておいたのだった。「ナターシャ、この間はいきなり押しかけてごめんなさい。そして一晩泊めてくれてありがとう。私は明後日から本来の任務に復帰します。ですから一緒にペンダントを調査することはもうできなくなります。明日はまだ会えますので、明日の夕方にまた来ます」

 マヤはその後、まじない小屋の立ち並ぶミエンテ小路でもう一度ペンダントのことを聞いて回った。カスリン通りなどの繁華街では日没の時刻に街灯がともされ、夜遅くまでその油が絶やされることはないが、広場を離れ路地へ一歩足を踏み入れると、周囲を照らすのは月明かりだけとなる。もちろん、夜空に毎日満月が昇るこの世界では、曇らない限り真っ暗になるということはない。しかし、南側の高い建物に月光を遮られるこのミエンテ小路は例外だった。マヤはさすがに身の危険を感じ、懐の小剣から手を離すことができなかった。これまでは、ミエンテ小路に詳しいナターシャが一緒だったからそれほど怖くはなかった。だが本来、ここはこんな時間に女が一人でうろつくような場所ではない。マヤが仮に自分のことを女だと思っていなかったとしても、他人はそうは見てくれない。せめて彼女が小剣を人並以上に使えるというのならよかったのだが、彼女の剣の技量はシロウトに毛が生えた程度でしかなかった。実のところ、いくら竜の操縦がうまくても、地上に降りてしまえばかよわい少女にすぎないのである。マヤは今、改めてそう思い知らされた。

 結局、その日もペンダントのことを知っているという者は見つからなかった。彼女は苦労が報われなかったことを心密かに嘆きつつ、竜騎兵基地方面へ向かう最終乗合馬車へ飛び乗った。彼女の頭の中には、はたしてこのペンダントを頼りに元の世界へ帰る手がかりを探すことは可能なのだろうかという疑念が生じ始めていた。

 基地に帰り着いたのは門限ぎりぎりの午後十時だった。彼女はルーミアに自分の苦労話を聞いてもらえば少しは気が晴れるだろうと考えながら、基地の門をくぐり、竜騎兵用の兵舎へと歩を進めた。ところが、マヤとルーミアに割り当ている部屋を外から見ると、窓の中にランプの光は見あたらなかった。マヤはルーミアが今晩、魔道学校に泊まると言っていたことをようやく思い出し、一層もやもやした気分になった。

 兵舎の扉を開くと、自室へ続く廊下は、わずかな月明かりが差し込んでいるのを除けばほとんど真っ暗だった。電気などないこの世界では夜、建物の中が真っ暗なのは、当たり前のことである。これまでもペンダント調査から帰ってきたときはいつもこうだった。なのに、今日に限ってはなぜかその暗闇に多少の不気味さが感じられた。先ほどミエンテ小路で怖い思いをした余韻を引きずっているせいなのか、あるいは、自室でルーミアが迎えてくれないことからくる心細さのせいなのかもしれない。マヤはそう考えながら廊下を通り、自室の扉の前までやってきた。

 するとマヤの耳に、自室の中で物音がするのが聞こえたような気がした。一瞬、彼女の心臓が高鳴った。しかし冷静になってみれば、ここは軍事基地のど真ん中である。敵が攻めてこない限り、ここほど安全なところは他にないと言ってよい。今のはきっと空耳か何かだったのだろうと思い直した彼女は、別に警戒することなく、思いっきり扉を開いた。

 その時、マヤの目に信じられない光景が映った。窓から差し込む月明かりが、部屋の中央に一人の男の影を浮かび上がらせていたのである。

 驚きのあまり、マヤの口からは声が出てこなかった。

 男は、マヤが体をこわばらせた一瞬を見計らって、すかさず手で彼女の口を塞いできた。マヤが抵抗しようとすると、男は彼女の体を後ろから抱きかかえるようにして彼女の動きを封じた。

 マヤはそれでも手足をじたばたさせ、男の拘束を逃れようと努力した。男は、自らの腕力に限界を感じたのか、背後から声を掛けることで彼女の動きを止めようとした。

「おい、静かにしろ!」

 マヤはその声を聞いて「おや?」と思った。なぜならそれは聞き覚えのある声、というより、ここ数日間ずっと、心の奥底で聞きたいと願っていた声だったからである。

「ジュート?」

 振り返った彼女の目の前には、案の定、ジュートのにやけ顔があった。

「よう、マヤ」ジュートはマヤを抱きかかえたまま言った。「久しぶり、ってほどでもないか。モーラとの戦いの時以来だもんな」

 マヤは、自分の心臓がさきほどの恐怖と驚きせいでまだまだどきどきしているのを感じながら言った。「ちょっと、ジュート、こんなところでいったい何やってるの?」

「何って、おまえが帰ってくるのを待ってたんじゃないか」

「そういうことじゃなくて、ここは竜騎兵用の兵舎なのよ。男の人は入っちゃいけないことになっているのに」

「まあ、そう堅いことは言いっこなしだ」

「基地にこっそり忍び込むだなんて、見つかったら大変なことになるわ」

「見つかりはしないさ。第一、俺は今夜、この竜騎兵基地にちゃんとした軍の仕事で滞在しているんだ。『こっそり』じゃない。もし見つかったら、小便しに行ったはいいが自分の部屋への帰り道がわからなくなってここに迷い込んだとでも言えばいい」

 マヤは笑いながら「そんな言い訳、通用するはずないじゃない」と応えた。彼女の胸の鼓動は、驚きによるものから、もっと情熱的なものへと変化しつつあった。

 ジュートは彼女のそんな感情の変化を感じ取ったのか、あまり見せたことのない優しい笑顔で「そう言えば、モーラとの戦いの時、傷が痛むって言ってただろ。怪我の具合は、どうなんだ?」と訊いてきた。

 マヤは「うん、大丈夫」とだけ答えたが、心の中は、彼のそういう気遣いに対する嬉しさでいっぱいだった。

 ジュートは「そうか。そりゃよかった」と言った。

 マヤはその時ようやく、自分がジュートの胸に抱かれていることに気づき、照れくさくなって、ジュートの腕を引きはがすようにして一歩後ずさった。

 ジュートは名残を惜しみつつも、再び強引にマヤを抱きしめたりはせず、ただ黙ってマヤのはにかむ様子を眺めていた。

 彼の瞳を正視していると心が溶け出してしまいそうな気がしたマヤは、窓の方へ目をそらした。

 ジュートはマヤのそんな反応を見て更に話題を変える必要があると思ったらしい。彼女と同じく窓の外に目をやりながら「ところで、ルーミアは一緒じゃなかったのか」と尋ねた。

 たちまちマヤの表情が曇った。「ルーミアは……今日は魔道学校に泊まってる。恩師の先生がやってる実験を夜通し手伝うんだって」

「なんだ。タイミングが悪かったな。マヤがこの間、ルーミアに会いに来てくれって言ったから、この部屋まで来てやったんだぜ」

「うん……」

 ジュートは、マヤの冴えない表情を見て、その意味するところを察したようだ。「ひょっとしてマヤ、ルーミアが俺のことを好きだからって、彼女に遠慮してるのか?」

 マヤは、ジュートに他人の感情を読みとる敏感さがあることを意外に感じつつも「別にそう言う訳じゃ……」と無理に否定して見せた。

「気に病むほどのことじゃないだろ。ルーミアはルーミア、マヤはマヤなんだから」

「でもこの間、ルーミアにジュートのことが好きだって打ち明けられたの。なのにあたし、『ジュートはいい人だったと思う』としか応えられなかった。本当のことが言えなかったのよ」

「じゃあ、俺が言ってやる。ルーミアは、俺にとってはいい友人でしかないってな」

「だけど、ルーミアの気持ちを考えたら、そんなこと……」

 ジュートは突然、マヤの肩をひっつかみ、乱暴に彼女の体を揺すった。「じゃあ、俺の気持ちはどうなるんだ?マヤが好きだっていうこの俺の気持ちは?それとも、なにか?俺がルーミアに会って、ルーミアに好きだって言われたら、俺は『はい、そうですか』とでも応えればいいってのか?」

 マヤは「ジュート、痛い」と言って彼の手をふりほどこうとした。

「すまん」ジュートは本当に申し訳なさそうに謝り、マヤの肩から手を離した。「考えてみたら、そうなってしまった原因の一端は俺にもある。三年前、俺がルーミアの気持ちに気づいた時点で、もっとはっきりと拒むべきだったんだ」

「ジュート……」

「それじゃ、マヤ、一緒にルーミアに打ち明けよう。ルーミアは聞き分けの悪い娘(こ)じゃない。マヤも知ってるだろう?正直に話せば、きっとわかってくれるさ」

 マヤは気持ちがすーっと楽になった。「うん……。わかった」

 ジュートはマヤを再び抱き寄せた。マヤは初めて自分の意志でジュートの胸に体を預けた。ジュートがマヤの頬に手を添えると、マヤの唇は自然とジュートのほうへ引き寄せられていった。

 ところが、その時。

 なんと、廊下の方から声が聞こえてきたのである。

「お姉ちゃん、まだ寝てないでしょ?忘れ物を取りに来たの」

 マヤは慌ててジュートの腕の中から抜け出そうとした。だが彼女がそうするよりも一瞬早く、部屋の扉が開かれてしまった。

 マヤとジュートは、おそるおそる扉口の方へ目をやった。そこにはルーミアが立っていた。窓から差し込む月明かりに照らし出された彼女の顔色は、まるで蝋人形のように蒼白だった。

 三人はしばし見つめ合った。

 十秒ほど後、ルーミアはその場を走り去った。兵舎の廊下には、更にその後、数十秒間にわたって、ルーミアの足音がこだまし続けた。





 翌日、日が沈んですっかり暗くなったミエンテ小路を、マヤとナターシャが肩を並べて歩いていた。

「そう。そんなことがあったの。それは大変なことになったわね」ナターシャはマヤから昨夜の顛末を聞かされ、率直に同情の意を示した。「それで、そのあとどうしたの?」

 マヤは表情に苦渋の色をにじませ、言った。「ルーミアを追いかけようとしたわ。でも彼……ジュートに『今度、無断で基地を出たことがばれたら謹慎ではすまなくなるぞ』って言われて、追いかけるのをやめたの。ううん、本当は追いかけるのが怖かっただけなのかもしれない」

「妹さんは、今、どうしてるの?」

「ジュートがね、あたしの代わりにルーミアを追いかけてくれたの。と言っても、ルーミアを引き留めるためじゃなくて、彼女が無我夢中で走っているうちに万が一にも危険な場所へ迷い込んだりしないか、見届けるためにね。もう夜も遅かったから。でもルーミアは、基地の前で待たせてあった馬車に乗り込んで、そのまままっすぐ魔道学校に向かった。そして、無事にホト先生の実験室のある建物に入っていったって。彼、軍の仕事の関係で、そうやって尾行したりするのは慣れてるんだって。それで、今日の夕方にもう一度、魔道学校へルーミアの様子をこっそり見に行ったら、実験の手伝いの仕事をちゃんとこなしてたって、さっきナターシャに会う前に竜の銅像前で報告してくれたわ」

「マヤはこれからどうするつもり?」

「ルーミアは今夜、帰ってくるわ。その時にはちゃんと話し合いたいと思う」

「そう。……ねえ、あたしのこと恨んでる?この間、マヤの相談に乗ってあげたとき、あたし、『ほっといても大丈夫』なんて無責任なことを言っちゃったでしょ?今回のことは、マヤがあたしの助言の通りに行動したために起こったわけだから」

「恨むなんて、とんでもない。ナターシャはナターシャなりに、よかれと思って助言してくれただけだし。それに、どんなことを助言されたにせよ、実際に行動したのはあたし自身だもの。結局はあたし自身の責任」

「よかった、そう言ってもらえて。無責任なのはもう嫌だから余計なことは言わないけど、とにかく妹さんとの話し合いがうまく行くよう祈ってる」

「ルーミアにはありのまますべてを話すわ。それで、もし許してくれなかったとしても」マヤはうつむいていた顔を上げ、言った。「それは仕方のないことだと思ってる。種をまいたのはあたし自身だから、あたしは罰を受けなきゃならない」

 ナターシャは優しい笑顔でマヤを包み込み、言った。「マヤの考え方は、きっと正しいわ。いくら大切な妹でも、してあげられることとあげられないことがある。マヤにできるのは事実を打ち明けて誠心誠意謝ることだけ。それを妹さんがどう受け止めるかは、結局、本人次第なのだから。……って、結局、また偉そうなこと言っちゃった」

 マヤは、ナターシャに自分の言葉を肯定してもらえたことが嬉しかった。最初は、美玖に似ていることから彼女に親近感を覚えた。彼女にハバリア人であることを打ち明けられた後は、故郷を遠く離れてエランで暮らす者同士という共感も加わった。ルーミアと今のような関係になってしまった以上、マヤにとってナターシャは心の置けない唯一の存在だった。

 しかし、残念なことに、マヤは明日から通常の軍務に復帰せねばならない。

 ナターシャの方もマヤと同じ気持ちだったようだ。「話は変わるけど、寂しくなるわね、しばらく会えないなんて」

「そうね」

「きっとビュアラも寂しがるわ」

「ああ、このあいだのワンちゃんね。あたしもすごく寂しい。ナターシャに会えないのも、ビュアラに会えないのも」

「ねえ、マヤ、これを機会に軍隊を辞めて、エランで暮らすなんてのはどう?」

 ナターシャに意外なことを言われて、マヤはちょっとびっくりしたが、ナターシャがいたずらっぽい表情をしていたので、冗談だと判断した。「そうね。悪くはないわね。でも……」

「竜騎兵やってる今の生活が充実してる?」

「そういうわけでもないんだけど」

「でも愛着はあるんでしょ?東洋から出て来て、志願して竜騎兵をやってるぐらいなんだから」

「ううん、あたしは志願兵じゃない。入隊したのはクフールツ家に割り当てられた出征義務を果たすためよ」

「ああ、そうか。エラーニア人の白魔道士の養女になったって言ってたっけ。大変ね。出征義務期間はあとどれぐらいなの?」

「実を言うとね、義務期間はもう終わったの。『大きな戦果を上げた者は、出征期間をその戦果に応じて短縮される』っていう特例が設けられていてね。あたし、半年で六十匹も撃墜しちゃったから、出征義務からはもう解放されたわ」

「そう。それはよかったわね。だけど……それでもマヤはまだ竜騎兵を続けてる。なぜ?正義感から?……あ、あたしはハバリア人だけど、故郷を捨ててここエラーニアに来たような人間だから、ハバリア帝国のことを悪く言われても別に気にしないわよ。前にも言ったでしょ。あたしだけじゃない、エラーニアに住んでいるハバリア人はみんなハバリア帝国を良く思っていないわ」

「正義感とか、そういう理由でもないの」

 ナターシャは、今度は少し真面目な顔をして「それじゃあ、どうしてまだ竜騎兵を続けるの?」と訊いてきた。

「それは……」

 マヤは一瞬、返答をためらった。彼女が軍に入った理由は当初、二つあった。クフールツ家に割り当てられている出征義務を果たすためという一つめの理由は、いま言ったようにすでに効力を失っている。もう一つの理由、すなわち、エラーニア王宮かハバリア帝国に近づき、元の世界へ帰る方法を見つけ出すという、こちらの理由こそが、真の、そして現時点での唯一の理由である。しかし、先日の舞踏会の折、エラーニア王宮に近づくのは容易なことではないとはっきりと思い知らされた。となれば、このまま軍隊に居続け、軍務としてハバリアに侵入する機会が訪れるよう期待するしかないということになる。気の長い話だが、閉鎖国家であるハバリア帝国領内に、それ以外の方法で入り込むことができる可能性は、今のところ皆無だった。ナターシャも、戦(いくさ)が始まってからはハバリア人である自分さえ故郷へ帰ることを禁じられるほど閉鎖政策が厳しくなってしまったと嘆いているぐらいなのだ。しかも、もしこのまま戦(いくさ)が終わり、そのあとにハバリアが閉鎖政策をやめなければ、永久にハバリアに入れなくなってしまうかもしれない。

 もっと簡単な方法もないわけではない。単に、ハバリア軍に寝返ってしまえばよいのである。だがこの場合、彼女の養父、クフールツ先生と義妹、ルーミアは、裏切り者の家族としてエラーニア軍に捕らえられ、牢獄にでも放り込まれるのは間違いない。命を救ってくれた恩を仇(あだ)で返すようなまねが出来るほど、マヤは冷酷ではない。

 もっとも、そういう込み入った事情までナターシャに話すつもりは、マヤにはなかった。いくらナターシャが自分に親しみを感じてくれていても、異世界に帰るなどという話はあまりにも荒唐無稽で、信じてくれないだろうと思ったからである。そこでマヤは

「あたし、ハバリアに行きたいの。そうしなければいけない理由が、あたしにはあるの」

 とだけ答えておいた。

「そうなの」ナターシャは、マヤが言葉を不自然に濁したことを特に気に留めるでもなく、話を続けた。「知ってる?あたしの故郷、ハバリアはね、二十年前までエラーニア王国の領土だったのよ」

「へえ。ハバリアにはエラン語を話せる人が多いって聞いたけど、そのせいなのね」

「そう。でも二十年前、ハバリア候グロウツがヤグソフっていう怪僧を側近に加えてから、事情が一変したわ。グロウツはヤグソフの進言に従って軍隊を動かし、エラーニア王宮にハバリア皇帝としての地位を認めさせたの。更にそれから、ハバリア地方をすべて自らの版図に加えるまでに三年とかからなかったわ。その後もハバリア皇帝は、いろいろ理由をつけてゆっくりと、しかし確実に、エラーニア領内のハバリア人居住地域を自国領に加えていった。そして一昨年、遂に王都エランの北側に広がる最後のハバリア人居住地域、エールデラントを武力で制圧した。でもエールデラントには、多数のエラン人がハバリア人と入り交じるように居住していた。エラーニア王宮も、ことここに至っては黙っていられなかった」

「それで、今度の戦(いくさ)が起きた」

「そうよ。あのね、マヤ。こういう言い方をしたらマヤは気を悪くするかもしれないけど、マヤは東洋人で、この戦(いくさ)とは直接関係がないでしょ?極端な話、もしマヤが東洋からやってきたときハバリア領内で墜落していたら、今頃ハバリアの竜騎兵になっていたかもしれないじゃない?さっきあたしがマヤに竜騎兵をやっている理由を訊いたのは、そんなマヤがどうして命の危険を冒してまでエラーニア軍のために働くのか疑問に思ったからなの。もしかしたら、誰かにだまされてやらされてるのかな、なんて」

 マヤはナターシャの言葉の真意を測りかねたが、とりあえず「気遣ってくれるのは有り難いけど、そんなんじゃないわ。さっきも言ったけど、あたしにはエラーニア軍にいなければならないちゃんとした理由があるの」と答えた。

「そうね。ちょっと変なこと訊いちゃったわね」ナターシャは自嘲気味に微笑んでから、「あ、あのまじない小屋よ。あそこのまじない師、魔石に詳しいんだって。行ってみましょ」と話題を変えた。





 ミエンテ小路での調査最終日となったその日、マヤたちは例のペンダントにはめられた紫色の宝石を見たことがあるという者にやっと巡り会うことができた。ただ、そのハバリア人のまじない師から聞かされたのは、彼がハバリアにいたころ、マヤたちのペンダントとよく似たものを誰かが首に掛けているのを見たような気がするという、曖昧模糊とした事実だけだった。確かに、何の収穫も得られないよりはましである。しかし、その程度のことが明らかになっただけでは、少しも事態を進展させることにはならない。ハバリアが関わっていることは、言われなくてもわかっているからである。

 マヤは半月ほどミエンテ小路に通い詰めた苦労が実らなかったとことを残念がりながらも、案内してくれたナターシャには礼を述べた。ナターシャは自分はこれからも調査を続けてみると言い残し、別れを惜しみつつ、マヤの前から去った。

 カスリン通りでこれまで通り最終乗合馬車に乗り込んだマヤは、これから竜騎兵基地で待ち受けているであろう困難を思い、陰鬱な気分になった。もっとも彼女の心は、さきほどナターシャに話したとおり、すでに覚悟が決まっている。ルーミアがマヤのところにいるのが嫌で、たとえばそのまま魔道学校に泊まり続けるとか、アヴニ村の実家に帰ってしまうようなことになったとしても、引き留めることはできないだろう。マヤが心配したのはむしろ、ルーミアがヤケを起こして怪しげな男のあとについていったりしないかということだった。

 基地に帰り着いたマヤは、まっしぐらに自室へと向かった。ところが彼女の部屋の前にはラウラが立ちはだかっていたのだった。

 マヤが「話はあとにして」と言って自室の扉を開こうとすると、ラウラはマヤの動きを遮って「まず話を聞け」と言った。ラウラの表情がとても真剣だったので、マヤはとりあえず隊長の話に耳を傾けてみることにした。

 ラウラは言った。

「用件は二つ。一つ目は、先ほどアイリゲン大佐から聞かされたことなんだが、エラーニア王国軍は、ハバリア軍の占領下にあるエールデラントを奪回すべく、近々作戦行動を開始する予定であり、ファクティム装甲竜騎兵隊はその準備行動の一環として、数日中にエラン近郊のマグンへ移動することになった。マヤも、その心づもりをしておいてほしい。そして二つ目は」

 そこで彼女は、真剣な顔をやめ、ちょっとやるせない表情をした。

「今日からあたしは従者をつけることにしたので、マヤに紹介しておきたい。……おい、出てこい」

 すると、マヤの部屋の隣にあるラウラの部屋の扉が開き、中から白魔道士服を着た少女が姿を現した。

 ラウラはため息を一つついてから、少女の肩に手を置き、言った。

「これが今日からあたしの従者になった白魔道士、ルーミア・クフールツだ」

 マヤはびっくりしてしまい、文字通り開いた口がふさがらなかった。

 ルーミアは無表情のまま、感情のこもらない冷たい口調で「よろしくお願いします、マヤ・クフールツ竜騎兵」と言った。





 それから十日後、エラーニア王国軍とハバリア帝国軍が対峙する全戦線において、エラーニア竜騎兵隊による一斉攻撃が行われた。目的は、ハバリア側の竜騎兵基地を空襲し可能な限り破壊すること、および、その際迎撃に出てくるハバリア竜騎兵隊に打撃を与えることであった。

 エラン近郊の小さな町、マグンに進出していたマヤたちファクティム装甲竜騎兵隊は、この作戦に際し、エールデラント南東方面空襲隊の護衛という任務を与えられた。この「護衛」という言葉は、わかりやすく言うと「盾代わり」のことである。しかもマヤたちの担当した地区は、敵が最精鋭の竜騎兵を優先的に配置している場所の一つだった。ファクティム隊はギール戦以降、エラーニア軍の中でも精鋭部隊の一つに数えられるまでになっていたのだから、このような大役を与えられたのは当然のことである。とは言えこれは、マヤたちが上層部から掛けられる期待に応えなければならない初めての任務だった。ギール戦のように、攻撃してくる敵からただ城を守っていればよかったのとはわけが違った。つまりマヤたちは、敵と戦うのと同時に、責任の重さから来るプレッシャーとも戦わなければならなかったのである。

 戦況は、当初こそ一進一退だったが、次第に物量で勝るエラーニア軍が優勢となっていった。マヤたちも、出撃を繰り返すたびに敵の迎撃が少なくなるのを実感した。モーラとエラーニア王宮前で戦ったとき、ジュートはハバリア軍がギール戦で戦力を使い果たしたと言っていたが、今、マヤの目の前でそれが事実だということが証明されつつあった。それでもマヤは、そのとき撃墜された反省から、この戦いでは常にラウラとオクタヴィとの連携を意識し、決して油断することも増長することもなく、着実に護衛の任をこなしていった。お陰でマヤの撃墜スコアは、遂に八十匹を超えるまでになった。

 戦果の芳しさとは裏腹に、マヤの心は晴れなかった。理由は、もちろんルーミアとのことだった。マヤは最初、ルーミアは記憶喪失にでもなってしまったかと思った。しかし、ラウラがルーミアを従者だと言って「紹介」してくれたとき、マヤが名乗る前にルーミアの方からマヤの名を呼んだことから、マヤのことがわからないわけではなさそうだった。現にラウラやオクタヴィには、今までと全く同じように接していた。ではなぜマヤと話すときだけ無表情で、冷たい口調の敬語を使い、しかも「マヤ・クフールツ竜騎兵」と階級で呼ぼうとするのか。単にマヤへの痛烈な皮肉のようにも解釈できたが、マヤはそうでないような気がした。ルーミアはもともとそんな陰湿なことをする娘(こ)ではない。とすれば、先日「お姉ちゃんとはもう二度と喧嘩しない」と誓っていたことから推測するに、どうやらルーミアは、今のマヤを「お姉ちゃん」ではないと見なすことによってその誓いを破らないようにし、そうすることで精神のバランスを取っているのではないか。

 もちろんマヤは、今までに何度もルーミアを呼び止め、ジュートとのことを謝罪しようとした。だがそのたびにルーミアは、忙しいと言って足早に立ち去った。それでもマヤがルーミアを追いかけ、背後から無理やりにでもことの次第を説明すると、ルーミアは表情一つ変えず、「へえ。マヤ・クフールツ竜騎兵も大変ですのね。どなたのことをおっしゃっているのか存じませんけど」などと応える始末だった。

 こうなってしまっては、マヤとしてはほとぼりが冷めるのを待つ以外、どうすることもできなかった。幸いにして、と言うべきか、今は作戦中であり、妹とどう接するかなどということを考える余裕もなかったし、またそんなことを考えることが許される状況でもなかった。

 エラーニア竜騎兵隊による一斉攻撃は三日間続いた。その結果、半数のハバリア竜騎兵基地に壊滅的な打撃を与え、敵竜騎兵戦力も三割程度を行動不能に陥らせたと見積もられた。一方、エラーニア側の竜騎兵戦力は一割程度が損害をこうむったにすぎなかった。エラーニア王国軍は、開戦時のハバリア軍の奇襲によって奪われた制空権を一年五ヶ月ぶりに奪回することに成功したのである。

 しかしこの一斉攻撃は、実のところ、エラーニア軍による次なる反攻作戦の序章でしかなかった。軍上層部は二日後、エールデラントの南東、南方、南西の三つの方面に待機させてあった地上軍にエールデラントの中心都市シュラースへ向けての進軍を命じた。

 制空権を奪われたハバリア軍は、あまりにももろかった。中にはエラーニアの大軍を見ただけで戦わずして白旗を揚げる部隊すらいた。ハバリア軍が撤退した町や村にエラーニア軍が進軍すると、エラン人だけでなくハバリア人の住民までもが歓声を上げて彼らを迎えた。ハバリア軍は残存兵力をとりまとめ、シュラースへと撤退するのが精一杯だった。

 進軍開始のわずか半月後、エールデラントに残ったハバリア軍はシュラースに包囲された。彼らの頼みの綱は、ハバリア領内から竜騎兵によって運ばれる補給物資だけだった。だが、制空権を奪われている現状では、それも日に日に少なくなっていった。

 マヤたちファクティム竜騎兵隊はシュラース近くの村にまで進出し、そこからシュラース守備部隊を攻撃したり、彼らに補給物資を投下しようとする敵竜騎兵を追い払う任務に就いた。もっとも、ハバリア軍上層部がシュラースを奪回する気はないらしく、シュラース戦線に回されてくる敵は、歳を取ってやせ衰えた竜に乗った未熟な少女竜騎兵ばかりだった。そのためマヤの撃墜スコアは更に上昇したが、そのような竜騎兵を撃ち落としてスコアを稼いでも、マヤは喜ぶ気になれなかった。

 ところが、マヤは一度だけ、哨戒飛行中にとてつもない強敵と遭遇した。相手は装甲をつけていない普通の竜に乗っていた。だがその竜は、この戦線に回されてくる他の敵の竜とは明らかに異なっていた。体が一回りも二回りも大きいのに、動きがとても敏捷だったのである。ピムをはるかにしのぐ運動能力を持つ、年若い竜であることは間違いなかった。竜だけではなかった。それを操る竜騎兵の飛行テクニックも並はずれていた。マヤと互角かひょっとするとそれ以上とも思えた。マヤはあっさりと後ろを取られた。敵の竜は牙をむき、ピムをはじめとするすべての飛行竜の弱点である翼の付け根に、今まさに噛みつこうとしていた。マヤは初めて空中戦で撃墜されるかに見えた。

 彼女の窮地を救ってくれたのは、ラウラとオクタヴィだった。少し離れた別々の空域を哨戒していた彼女たちはマヤが苦戦しているのを見つけると、すぐさま駆けつけてくれたのだった。ファクティム竜騎兵隊がフォーメーションを組んだ今、たとえマヤ&ピム以上の能力を持つ敵であっても一匹ならば怖くはなかった。たちまち形勢は逆転した。不利と見た敵竜騎兵は、ハバリア語で何か叫んで竜に頭を北へ向けさせ、戦闘中の敏捷さそのままに、信じられない速度で戦闘空域を離脱した。マヤたちに追撃のいとまなど与えてはくれなかった。

 この強敵との戦いの折、マヤは不思議に思ったことが二つあった。一つ目は、相手の竜騎兵が恐ろしく無表情だったこと。その無表情さたるや、今のルーミアがマヤに接するときの冷たい表情が、愛想のよい笑顔に思えてしまうほどだった。エラーニア王国竜騎兵隊の中でも精鋭のうちに数えられるファクティム隊の三匹の装甲竜と対峙すれば、普通、冷静ではいられないだろう。なのにその敵竜騎兵は、表情に焦りの色を見せなかったばかりか、眉毛一つ動かさなかった。彼女は非常に肝の据わった竜騎兵だったのだと言われればそうかもしれない。だがマヤの目には、その女が状況を冷静に分析しているようにさえ見えなかった。言ってみれば、マネキン人形が竜に乗っているかのような、そんな印象を受けたのである。

 二つ目、これはマヤの思い違いかとも思われたが、マヤはその敵竜騎兵の顔を以前、どこかで見たような気がした。それも一年以上前、つまりこの世界に飛ばされる前に目にしたような覚えがあったのだ。もしその記憶が正しければ、マヤ以外にこの世界に飛ばされた者がいるということになる。となれば、その者を追求することであるいは元の世界へ帰る方法がわかるかもしれない。マヤは、どこで、どういう状況で、その顔を見たのか、そしてそれが誰なのかを思い出そうと記憶の糸をたぐってみた。しかし結局、思い出すことはできなかった。

 エラーニア王国軍がエールデラントに進軍を開始して二十日後、シュラースは陥(お)ちた。作戦開始前に軍上層部が定めた二ヶ月以内という攻略目標期日を、大幅に下回っての大勝利だった。





 シュラースが陥落すると、マヤたちファクティム装甲竜騎兵隊はすぐさまシュラース市内への進駐を命じられた。エールデラントがハバリア軍の支配から解放されたと言っても、いまだシュラース周辺でゲリラ化したハバリア軍残存兵との小競り合いが断続的に続いている現状では、エラーニアの竜騎兵の大部分は、ゲリラによる襲撃を避けるために、なおシュラースのはるか南方に留め置かれざるをえない。最精鋭のエラン第一装甲竜騎兵隊に至っては、やっと王都エランの北隣の町に進出したばかりにすぎないのである。その中でファクティム隊が先陣を切ってシュラース進駐を命じられたということは、エラーニア軍上層部がファクティム隊を優秀な部隊としてよほど信頼しているのか、さもなければ逆に、秀でているのをよいことに厄介ごとを押しつけているのかどちらかなのだろう。

 マヤたちは当初、シュラース城の駐竜場に進駐しようと考えた。ところがそこは、先日行われたエラーニア竜騎兵隊による一斉攻撃の折、徹底的に破壊されており、駐留するには修復工事が必要だった。そこで仕方なく、彼女たちはエラン上空を飛び回り、駐留が可能なスペースを探した。竜を三匹駐留させるには、かなりの面積を必要とする。特にシュラースのような街中でそのようなスペースを確保するのは、容易なことではなかった。結局、シュラースのはずれにある農場に程よいスペースを見つけ、農場主との交渉の末、ようやく仮の駐竜場として使用することを認めてもらうことができたのだった。

 日没後、ラウラはマヤに仮眠を取るよう命じた。シュラースに複数の竜騎兵隊が進出してくれば、寝ずに夜間の敵襲に備える当番を隊ごとに交代で務めることができるようになるのだが、今はまだ一隊しか進駐していないため、隊の中でそのような当番を務めるローテーションを組む必要があったのである。

 マヤは仮の兵舎として使わせてもらうことになった農場の納屋で、干し草の山をシーツで覆って作ったベッドに横になり、目を閉じた。しかし日没して間もない時間に眠れと言われても、そう簡単に眠ることなどできはしない。そこで彼女は仮眠を諦め、納屋の周囲をぶらぶらと歩き始めた。

 すると。

 彼女の目の前に、意外な人物が現れたのだった。

「お久しぶり、マヤ」

 その人物は水色のジャケットを着、髪をショートカットにした若い女性だった。

「ナターシャ!?」マヤは驚きを隠さなかった。「どうしたの?どうしてナターシャがこんなところにいるの?」

 ナターシャは満面の笑みをたたえ、言った。「さっき赤い竜が空を飛び回ってたのを見かけたのよ。ほら、この間、マヤ、話してくれたじゃない、マヤたちの隊の竜は装甲を赤い色に塗ってるって。だからきっとマヤたちだって思って、追いかけてきたの」

「そういうことじゃなくて、どうしてシュラースになんか来たの、って。ここはまだ危ないのに」

「そう言えばマヤには言ってなかったかな?あたしね、三年前にエランに移り住む前はこのシュラースに住んでいたのよ。たった一年間だったけど、それでもそのときお世話になった人が何人かいたから、安否を確かめたくて、それで、五日前にここがもうすぐ解放されるっていう話を聞いて、ビュアラを近所の人に預けてエランから出てきたの」

「そうだったの。それは大変だったわね。あ、こんなところで立ち話も何だから」

 マヤはそう言って、ナターシャを納屋の中へと案内した。

 ナターシャはマヤに勧められるまま、太い丸太を輪切りにして作った椅子の上に腰掛けた。見ると、納屋の中央には火が焚かれ、その上に小さなやかんが掛けられていた。マヤは井戸から汲んでおいた水で手をすすぐようナターシャに勧めてから、自分も手をすすいだ。次に、片隅に置いてあった自分の背嚢からカップを二つ取り出し、やかんの湯でいったんすすいで湯を捨てた後、改めて湯を注ぎ、ナターシャの座っている隣の丸太椅子の上に置いた。

 マヤは言った。「それで、こちらの知り合いの人たちは、無事だったの?」

 ナターシャは答えた。「ええ、おかげさまで」

「それはよかったわね。でもびっくりしたわ、ナターシャがこんなところまで訪ねて来てくれるなんて。それに、ここひと月ほど、ずっと戦ってばかりだったから、こんなふうに誰かとくつろいで話すなんてほとんどできなかったの。だから、すっごく嬉しい」

「彼氏とも全然会ってないの?」

「ええ。作戦が始まってからは一度も」

「寂しいわね」

「まあね。でも今は戦時下だもの。軍人の彼とエランで何度も会うことができたのが不思議なぐらいよ」

「じゃあ、妹さんは?」

「シュラースに来てるわよ。今は隊長のラウラとオクタヴィと一緒に小川の向こうの牧場で竜の世話をしてる」

「あれ?あれだけ仲がいいって言ってた妹さんが、ここに一緒にいないってことは、もしかして……?」

 マヤは苦笑いしながら応えた。「ええ、まだ仲直りできてないわ。って言うか、向こうがとりつく島を与えてくれない」

 ナターシャはマヤに同情した。「ひと月も経っているのに許してくれないなんて、それって、ちょっとひどくない?」

「そうかもね。でも、いつか許してくれるかもしれないし、もうずっとこのままなのかもしれない。ルーミアね、あたしのことを他人扱いするのよ。おかしいでしょ?まあ、面と向かって嫌みを言われるよりはましよね」

「かわいそうに」

「なんか、もうどうでもよくなってきちゃった。ルーミアのことも、ジュートのことも、竜騎兵の仕事も。あーあ、この間、ナターシャに言われたみたいに、軍を辞めてエランにでも住もうかな」

「軍にいなければならない理由があるんじゃなかったの?」

「うん、それも最近、ちょっとね……。ねえ、ナターシャ、エランって住みやすい?あたし、生まれたのも育ったのも大きな街だったから、本当言うと、アヴニ村ってあまり住みやすいとは思えなかったの」

「どうかな。あたしは、ドゥムホルクで生まれ育って、このシュラースに一年、エランに三年住んだけど、どの街もそれなりにいいところはあったから」

「そう言えば、ナターシャってハバリアの首都のドゥムホルク出身だったのよね」

「マヤはなんていう街の出身なの?」

「あたしは……」

 マヤは言葉に詰まった。彼女はこの世界では東洋のブンゴリアという国から来たことになっている。彼女がクフールツ診療院を退院した日、彼女をファクティム城へさらうべくアヴニ村にやってきたジュートたち一行に、ルーミアが口から出任せでそう応えてしまったからである。マヤは、自分の出身地を人から尋ねられてもよどみなく答えられるよう、あらかじめ地図でブンゴリアの首都の名前を調べておいたのだが、このようにいきなり尋ねられると、やはりなかなか口をついて出てくるものではなかった。だからといって黙っているわけにもいかなかいと思った彼女は、ブンゴリアの地名などナターシャはどうせ知らないだろうと判断し、

「『東京』っていう街の出身よ」

 と答え慣れた地名を答えた。

「へえ」案の定、ナターシャは何の疑問も持たなかったようだ。「『トーキョー』か。いかにも東洋的な響きね」

 マヤは怪しまれなかったことに安堵しつつ、「そうかな」とあいまいな返事をしておいた。

 するとナターシャは、不意にマヤの顔をまじまじと見つめ、言った。「ねえ、マヤ、『トーキョー』ではすごくもてたんじゃない?」

 マヤは首を振った。「まさか」

「だって、マヤってかわいいもの。よく言われたでしょ?」

「ううん。言われたことない」

「じゃあ、あたしが言ってあげる。マヤはかわいい。とっても」

 マヤはどう答えてよいかわからなかった。

 今、納屋で焚かれている火の中で、まきがパチッとはじける音がした。

 ゆらゆらと揺れる炎を見つめているうちに、マヤは何となく不思議な気分になった。以前ルーミアにも話したとおり、マヤは女性の肉体を得て以降、女性を異性として見ることができなくなっている。いま考えてみれば、その兆候は、クフールツ診療院に入院していたころから現れ始めていた。ルーミアはマヤ――山矢の入院中、皮膚の再生具合を確かめるために彼(女)の体をなで回したり、彼(女)の顔の再生具合を見極めるために自分の顔をすぐそばまで近づけてきたりしたことが何度もあった。山矢はそのとき、確かにちょっと恥ずかしいとは感じた。しかし、十六歳の少年がルーミアのような女の子にそのようなことをされたら普通どのような感情を抱くかを考えれば、山矢の精神的女性化はその時点でかなり進んでいたことがわかる。その後、マヤとなった彼が、ルーミアとともに裸で水浴びをしたときには、もうすでに、自分が女性の裸を見ているのに特別な感情を抱いていないことにすら気づいていなかった。そして今、ジュートを彼氏と呼ばれて少しも違和感を覚えないほど、マヤは自分を女性だと自覚するようになっていた。それは、単に精神を女性の肉体に移し替えられたわけでも脳を移植されたわけでもなく、魂自体を女性として再生されてしまったことによる、当然の帰結であった。だから彼女はこの時、ナターシャに対して異性に抱くような衝動を感じていたわけではない。だが、そういうものとは異なる種類の、最も深い想いが胸に溢れていたのは確かだった。

 ナターシャは、どうやらマヤのそういう想いを肌で感じ取ったらしい。マヤの座っている隣の丸太椅子に座り直し、その体をマヤの体へぴったりと寄せてきたのだった。

「ハバリアではね」ナターシャは言った。「仲のよい女の子同士がディープ・キスをしたり抱き合ったりすることは、全然変なことじゃないのよ」

 マヤはちょっと驚いて、身をこわばらせた。ナターシャは大人っぽい、妖しい微笑みをたたえ、マヤの瞳をのぞき込んできた。そうしているうちにマヤの体のこわばりは、まるで熱したチョコレートのように柔らかくほぐれていった。

 ナターシャはマヤの体をその腕で包み込んだ。マヤが体をナターシャの胸に預けると、ナターシャは自分の唇をマヤの唇の上にそっと重ねた。それはマヤにとってファーストキスだった。

 何秒か何十秒か後、ナターシャの唇は、甘酸っぱい余韻を残してマヤの唇から離れた。それからしばらくの間、二人はじっと、相手の瞳に自分の姿が映るのを見つめ合った。やがてナターシャは着ている服の胸の部分をはだけ、マヤの手を取って自分の胸のふくらみに触れさせた。マヤはその時、ほんの一瞬だけ、魂の奥底に宿る男性の感情に支配された。

 するとナターシャは突然、自分の体をマヤから引き離した。マヤは何か間違ったことをしでかしたのかと思い、おそるおそるナターシャの表情を伺った。しかしナターシャは、先ほどと変わらない大人の微笑みのまま

「マヤって、なんか男の子みたい。時々そう思うことがあるわ」

 と言った。

 マヤは内心、どきっとした。だがナターシャの笑顔を見る限り、彼女がそのセリフを本気で言ったとは思えなかったので

「軍隊になんかいるからなのかな」

 とだけ応えておいた。

 ナターシャは、はだけていた服を直し、カップに注いであった湯を一口飲んでから、言った。「ごめん。さっき『ハバリアでは女の子同士が抱き合ってもかまわない』なんて言ったけど、あれは嘘。マヤがあんまりかわいかったから、ちょっとからかってみたくなっただけなの」

 マヤは今になって、自分たちがいかに恥ずかしいことをやろうとしていたかに気づき、顔から火が出そうになった。「もう。ナターシャったら」

 ナターシャは、今度は子供のようにいたずらっぽく微笑み、言葉を続けた。「ねえ、マヤ。ずっと前、あたしは、エラン語のナターシャ・リュコーと、ハバリア語のリュコワ・ナターシャっていう二つの名前を持っているって話したわよね」

 恥ずかしさによる動揺を鎮めるためにカップの湯を一口飲み込んだマヤは、ナターシャのその話題転換の方向性がよくわからなかったものの、そういう話があったことは思い出し、とりあえず「ええ」と相づちを打った。

「本当のことを言うとね、あたしにはもう一つ名前があるの」

「もう一つ?」

「そうよ。それは四年前、結婚してこのシュラースに住むようになるまで名乗っていた名前なの。いわゆる旧姓ってやつね」

「ナターシャ、結婚してたの?」

「ええ。あたしは四年前、家出同然でドゥムホルクを出た。そして放浪の末にこの町に流れ着き、ハバリア系住民の彼と出会ったの。あたしはすぐに彼に夢中になり、ほどなく結婚した。彼と一緒に暮らした一年間は、今思い返してみても本当に楽しかった。あたしの人生で最も幸せな時間だった」

「あの、じゃあ、旦那さんは、今は……?」

 ナターシャはゆっくりと丸太椅子から立ち上がり、マヤに背を向け、言った。「死んだわ。狂信的反ハバリア主義者のエラン系住民に殺されてね。もちろんあたしも一緒に殺されるはずだった。でもあたしはその時たまたま不在だった」

「そんなことがあったなんて……」

「その後、あたしはエランに移り住んだ。エランのような大きな街にいた方が、自分がハバリア人だとばれずにすむと思ったから。だけどね、マヤ、あたしはエラン人を恨んでいるわけじゃないのよ。もちろん夫を殺した犯人には憎しみを抱いたわ。でも逃亡していたその犯人は、おととしハバリア軍がエールデラントに侵攻してきた時、真っ先にハバリア軍にとらえられて、留置所に連行される間になぶり殺しにされたって聞いた。だから今は誰も憎くないし、誰も恨んでいない」

「ごめん、ナターシャ。その話、あまりにもショッキングすぎて、あたし、ナターシャにかける言葉が見つけられない」

「別にいいのよ。同情のセリフは聞き飽きたから。でもその事件を境に、あたしは変わったわ。それまでは、エラン人とハバリア人の対立なんてあたしには全く関係のないことだと思ってた。この戦(いくさ)が始まる少し前に姉や妹たちが連絡を取ってきてあたしにある仕事を命じたとき、その仕事を何のためらいもなく引き受けたのも、その変化のせい」

「妹?ナターシャにお姉さんがいるって話は聞いたことがあるけど、妹さんもいたの?それにお姉さんたちの命じた仕事って?」

 ナターシャはマヤの方を振り返り、言った。「あたしの下の妹の名前はニーナ。上の妹の名前はモーラ。そしてあたしがそのとき引き受けた仕事は、スパイよ」

 マヤは愕然となった。

「ヤグソフ……四姉妹……なのね」

 彼女の口からはそれ以上の言葉が出てこなかった。また敢えて口にする必要もなかった。訊き返さなくてもすべて明らかだったからである。

「お願い、マヤ」ナターシャはいきなりマヤの手を取り、言った。「あたしと一緒にハバリアに来て。あなたならハバリアでもきっとエース竜騎兵になれるわ。だってあなたはそのためにこの世界に呼ばれたのだから」

「やっぱりあなたたちだったの、あたしをこの世界に呼び込んだのは」マヤは苦渋の表情を浮かべ、言った。「ナターシャ、あなたはずっとあたしをだましてたのね」

「確かにあなたに近づいた目的は、あなたの正体が異世界から飛ばされてきた男の子じゃないかって疑ったからよ。ニーナと二人でこっそりマキナスの森の墜落現場を訪れたあたしは、ひょっとしたら、燃え尽きかけた男の子の魂が女の子の魂として再生されたんじゃないかって考えた。だけどニーナはそんなことあり得ないって言って、はなからあなたをマークしなかった。本当に東洋から来た女の子だと思ってた。あたしも最初、確信が持てなかった。そこであのペンダントを首にかけて、カスリン通りの竜の広場前で待ち合わせをしているあなたの前に現れた。あなたが異世界から来た男の子ならペンダントを見て何か反応するだろうと思ったから。あなたは確かに反応したわ。でも、それは、あたしが予想した反応とは違った。話がややこしくなったのは、モーラが偶然、あなたにあのペンダントを渡していたせいよ。お陰で、あなたが本当に東洋人の女の子で、モーラからもらったペンダントがただ珍しかったから興味を持っただけっていう可能性がずっと捨てきれなかった。そう、さっきあなたの口から『トーキョー』っていう異世界の街の名前を聞かされるまでね」

「あたし、あなたのことを本当の友達だって思ってたのに……」

「あたしだってそうよ。きっかけはどうあれ、今はあなたがあたしにとって一番の友達だってことは事実だもの。だからこそこうしてお願いしてるんじゃない。マヤ、ハバリアへ来て。戦うのが嫌なら、別に竜騎兵をやらなくたっていい、エラーニア軍を辞めてハバリアへ来てくれるだけでもかまわないの。ハバリアにさえ来てくれればあなたを元の世界へ帰してあげられるんだから!」

「え?」その言葉はマヤにとって青天の霹靂のごときものであった。「本当?本当に元の世界へ帰れるの?」

「もちろん」ナターシャはマヤの手を更に強く握りしめた。「呼び込んだのはあたしたちなんだから、逆に向こうへ飛ばすことも当然、出来るわ」

「帰れる……、元の世界へ……」

 マヤは虚空を見つめ、今までこの世界で自分がしてきた苦労を想い、向こうの世界で自分を待っている人たちの顔を思い浮かべた――父、母、友人たち、アクロバット飛行のコーチや仲間たち、そして相良美玖。

 ナターシャはマヤの肩を抱いて椅子から立ち上がらせ、言った。「ね、一緒にハバリアへ行こ」

 マヤはナターシャの瞳を見つめた。

 ナターシャの顔に、美玖さながらの笑みがこぼれた。「ね?」

 ところが。

「いや」

 マヤは首を横に振った。

 予想外の答えに驚いたナターシャは声を荒げて「どうして!」と叫んだ。

 マヤは言った。「あたし、やっぱりあなたたちが信用できない」

「どうして!?どうしてなの!?どうしてそんなことを言うの?」

「あたしがこの世界に飛ばされてしまったのも、女になってしまったのも、竜騎兵なんて仕事をしなければいけなくなってしまったのも、元はと言えばみんなあなたたちのせいなのよ。考えてみて。医者に殴られて大怪我をさせられた上にタダで入院させてやるって言われたら、どんな気持ちになるか」

「あたしのことを友達だと思ってるんじゃなかったの?今そう言ったじゃない。それなのに信用できないの?」

「ナターシャのことは全く信用していないわけじゃないわ。だけど、ハバリアに行けば、あたしを迎えてくれるのは自分たちの都合であたしを異世界に飛ばすような身勝手な人たちなのよ。そんな人たちを信用するなんて、できるわけない」

「でも、でも、マヤはさっき、妹さんのことも彼氏のことも竜騎兵の仕事もどうでもよくなったって言ったわよね。ハバリアに来れば、異世界に帰れば、そんな嫌なことももう忘れられるのよ」

「確かにさっきはそう思った。でもあたし、やっぱりルーミアが大事。ジュートが大事。一緒に戦ってくれる仲間のことが大事」

「じゃあ、どうしてもあたしと一緒に来てくれないの?」

「行けない」

「どうしても?」

「どうしても」

 ナターシャは、マヤの肩を抱いていた手を離し、半歩あとずさった。「そう……残念ね……」

 そのとき急に、マヤの視界が、ピントのはずれたカメラのようにぼやけ始めた。

「え?」

 彼女はその場に立っていられないほどひどいめまいを覚え、へたへたとしりもちをついた。

 ナターシャはそんなマヤを見ても、表情一つ変えず、また助け起こそうともしなかった。「手荒なことはしたくなかった。でももうこうするしか他に方法がなかったの」

 マヤは叫び声を上げようとしたが、彼女の喉はもう思い通りの声を発することができなかった。

 友人という仮面を脱ぎ捨て、今や一人の女スパイとなったナターシャは、冷たく言い放った。「さっきマヤがお湯を飲んだカップの中に、こっそり薬を混ぜておいたわ。あなたがあたしとのキスに夢中になっている間にね。ハバリアへ来ると言ってくれれば、効果を打ち消す薬を渡すつもりだったんだけど」

 その間にも、マヤの意識はどんどん遠のいていった。

「マヤ、あなたと友達でいられたこのひと月半、本当に楽しかった。ありがとう。そして、さようなら」

 数秒後、マヤの意識は真っ白なもやの中に完全に埋没した。その直前、彼女の目に愛するジュートの幻が見えたような気がした。





 マヤは夢を見ていた。長い長い真っ白なトンネルをただひたすら歩いてゆく夢だった。

 しばらく行くとトンネルの出口が見えた。彼女は走り出した。出口の向こうで誰かが自分の名前を呼んでいるような気がしたからである。

 出口から勢いよく飛び出したと思った瞬間、彼女は目が覚めた。

 彼女の目の前には、ルーミアの微笑む顔があった。

 マヤは不思議な気分だった。体がだるくて頭もぼーっとしているのに、なぜか過去の記憶だけははっきりしていた。

 彼女は、自分は今、天国にいるのだと思った。記憶によると、ルーミアとは喧嘩中だったはず。妹が自分に笑顔を見せてくれるはずはない。ここはきっと、慈悲深い神様が死後の自分に与えてくれた理想の世界なのだ。

 しかし、やがて頭の中にかかっていた霞が晴れ始めたとき、マヤは自分がまだ地上にいるのだということを知覚できるようになった。

 すると目の前のルーミアは「お姉ちゃん、気がついたのね」と声をかけてきた。

 マヤはまだうまく動かせない喉と舌を最大限駆使して声を絞り出した。「ルーミア……」

「本当によかった。ちゃんと魂を呼び戻すことができて」

「ここはどこ?それに、あたしはいったいどうしたの?」

「ここはシュラースのはずれにある農場の納屋の中よ。そしてお姉ちゃんは気を失ってたのよ」

 体にほんの少しだが力がはいるようになったので、マヤは首だけを起こしてみた。どうやら彼女は、干し草のベッドの上に寝かされていてるらしかった。更に辺りを見回してみたところ、納屋の中には、すぐ傍らに付き添っているルーミアの他に、少し離れてラウラとオクタヴィが立っていた。

 ラウラが言った。「大丈夫そうだな」

 オクタヴィも声をかけた。「よかったですわね、マヤ」

「ラウラ、オクタヴィも……。でも……あたし……いったいどうして気絶なんか……そう言えば……、そう、ナターシャ!ナターシャは?」

 ルーミアが答えた。「あの女スパイのことね。彼女なら逃げたわ」

 マヤは言った。「そうよ、あたしはナターシャに変な薬を飲まされて、そしたら意識が遠くなって……」

 ラウラが言った。「本当に危ないところだったんだぜ。あたしにはよくわかんないんだけど、おまえの飲まされた薬ってのが、なんでも体を生かしたまま魂だけあの世へ飛ばしちまう薬らしくてな」

 オクタヴィが付け加えた。「ルーミアが白魔法であなたの魂を呼び戻してくださったの。本当に必死でいらっしゃいましたわ。それに、呼び戻すことに成功した途端、大声でお泣きになって、それからしばらく泣きやみませんでしたのよ」

 マヤは改めてルーミアの顔を見た。確かに妹の目には泣きはらした跡がある。「ルーミア、ルーミアがあたしを助けてくれたの?」

 ルーミアは答えた。「肉体を生かしたまま魂だけ消し去るなんて常識では考えられないことよ。あの女スパイがそんな薬を飲ませていったいどうするつもりだったのかわからなかったし、そんな薬のせいで遠くに行ってしまった魂を呼び戻せる自信もなかった。でもとにかくやってみた。無我夢中だったわ」

「ありがとう、ルーミア。あたし、またルーミアに命を助けられたのね」

「ううん、お姉ちゃんを本当に危機から救ったのはあたしじゃない。ジュートがここに踏み込むのがあとほんの少し遅かったら、お姉ちゃんはあの女にどこかへ連れ去られていたんだから」

「ジュート?彼が来てたの?」

「ええ。彼、ここ何ヶ月かずっとスパイ狩りの任務に就いてるんだって。それであのナターシャって女スパイがマヤと関わりがあることを知ってマヤが心配になって、本来の任務をほっぽり出してナターシャをエランから追いかけて来たんだって言ってた」

「ジュート……。あたしのために、そこまで……」

 マヤの心の中は甘く切ない想いで一杯になった。彼に会いたい。彼の声が聞きたい。少し前までは男に対してそういう感情を抱くことにまだ違和感があったのに、今ではそのような感情が彼女の精神の主要な部分を占めるまでになっていた。もはや、心の中にジュートへの想いが存在しない自分を想像することができなかったし、またそのような想像をするのが怖いとさえ思えた。

 しかし、彼女には、この想いを確かなものとするためにやらなければならないことがあった。「ねえ、ルーミア、お願い。あたしの話をもう一度ちゃんと聞いて」

 ルーミアはすべてを悟りきったかのように静かに「何?」と訊き返した。

「あたしルーミアに謝りたいの。ジュートに対するルーミアの気持ちを知っていながら、彼を横取りしてしまったことを。そしてそれを隠していたことを」

 ルーミアは首を振った。「そのことはもういいの、お姉ちゃん。もういいのよ。あたし、白魔導士として、治療した患者さんから感謝してもらえるぐらいには仕事をこなせるようになったつもりだった。だけどやっぱり、十六歳の女の子でしかなかった。人間的には未熟だった。だから、怒りとかねたみとかそういう感情に捕らわれてしまって、お姉ちゃんやジュートの気持ちを考えてあげることができなかった。お姉ちゃんのジュートに対する想い、ジュートのお姉ちゃんに対する想いをわかってあげることができなかったの。

 でもさっきわかった。彼のあんな表情、初めて見たわ。竜の世話をしていたあたしのところに駆け寄ってきて『マヤが死にそうなんだ。どうにかしてくれ』って言ったときのあの必死の表情。彼は本当は、誰かのために何かをしてあげるなんてことはしない人。そんな彼がお姉ちゃんのためになら自分をかなぐり捨ててもいいって思ったのよ」

「ルーミア……」

「彼だけじゃないわ。いまお姉ちゃんが彼のことを考えてたときの表情、とっても切ない表情だった。あたし考えたの。あたしは今までこんなに彼のことを想ったことがあったかなって。そしたら、気づいた。あたしの彼への想いは、単なる憧れ。恋じゃなかったって」

 マヤは妹の手を握りしめ「ごめん、ルーミア」と言った。

 ルーミアは微笑みながら姉の手を強く握り返した。

 姉妹はそれからしばらくの間、無言のまま見つめ合った。

 やがて彼女たちは握り合っていた手を名残惜しそうに離した。だが、かたわらで見守っていたラウラとオクタヴィの目には、マヤとルーミアがいまだ姉妹の絆という手でつながり合っているのが見えるような気がした。

 そのときラウラは、ふと納屋の外に何かの気配を感じ取った。にもかかわらず、彼女は他の三人に警戒を促すどころか、むしろ嬉しそうに「さて、そろそろあたしたちは退散する時間だな」とつぶやいた。

 マヤは「え?」と訊き返した。

 オクタヴィはすぐにラウラの言葉の意味を察し、「ルーミアも一緒に退散いたしましょう」と言った。

 ルーミアは一瞬、不思議そうな顔をしたが、オクタヴィがウィンクするのを見て納得の表情になった。「そうね。あたしもそろそろ退散するわ」

 ラウラたちの言動の意味がひとり呑み込めないマヤは、上半身を起こし「ちょっと、どうして?まだここにいてくれてもいいのに。って言うか、誰か一人ぐらいここにいてよ」と懇願した。

 しかし、ラウラたち三人は、マヤを無視して、そそくさと納屋を出て行こうとした。

 納屋を出る間際、ラウラは「にやけ顔の嫌な奴だと思ったが、姉妹の和解シーンをぶち壊さないように外で待っててやるぐらいの神経は持ち合わせてるんだな」と言った。

 三人が出て行った後、入れ替わりにジュートが納屋に入ってきた。いつも通りのにやけた笑顔だった。





(第10章に続く)





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