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紅の装甲竜騎兵
作:YZA

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8 王都




 マヤは、東京にいたころ国語の授業で習った「胡蝶の夢」の話を思い出していた。蝶になって飛ぶ夢を見ていた男が目を覚ましたとき、ふと、人間の姿をした今の自分は、本当は蝶の見ている夢に過ぎないのではないかと考えるという、有名な中国の古典である。

 アメリカで育ったため日本語の知識が不足し、結果、国語の授業がどうしても好きになれなかった彼女が、そんな古くさい逸話のことを考えたのは、その話に出てくる男が何となく今の自分に似ているような気がしたからである。すなわち──自分はもともとマヤ・クフールツという女の子であり、異世界で男として暮らしていた時の記憶は、クフールツ診療院で目覚める前に見た夢にすぎないのではないか──

 女としての生活を始めて半年が過ぎていた。今では自分の肉体に違和感を感じることもなくなり、また他人から女として扱われることにもすっかり慣れていた。言葉に関しても、最初はルーミアから教わったのが女言葉だとは知らずに使っていたが、今でははっきりと意識して女っぽく話していた。それに、今さら男言葉を覚える気にもなれなかった。仕草や振る舞いはといえば、こちらの方はまだまだ男っぽかったものの、この軍隊生活の中では、それが周りの人々の目に奇異と映ることはなく、むしろ女性兵士としての頼もしさ、凛々しさを醸し出していた。しかも彼女の話す言葉がルーミア仕込みのやや少女っぽいアウスグ語であったため、仕草や振る舞いとのギャップが、却って彼女の神秘的な魅力を高める役割を果たしていた。お陰で何度か男性兵士から言い寄られたこともあったが、そのたびに彼女は「故郷に好きな人がいるから」と、その申し出を断ったのだった。東京に、かつて告白しようとした相良美玖という人がいるのは事実なので、嘘は言っていない。

 実際、彼女は今でも美玖が好きだった。客観的に見ればまるで同性愛のようだが、もちろんそうではない。なぜなら、東京のことを思い出す時、夢に見る時、彼女はまだ山矢健太だったからである。そして山矢健太はアクロバット飛行競技会の日、美玖との別れ際にした約束──「演技が終わったらお前に言いたいことがある」というあの約束をまだ果たしていないのである。

 ──だから、俺は元の世界に帰らなければならない──彼女は思っていた──これほどまでにこちらの世界での女としての生活に馴染んでいても、帰らなければならないのだ。そう、たとえ男に戻れなかったしても。たとえルーミアやピムと永遠に別れることになるとしても!──しかし、それは彼女にとってあまりに辛い別れである──果たして俺にそれができるのか?いや、やらなければならない。俺はこの世界では異分子だ。ピムと出会った時だって、ピムはあやうくガソリンを舐めるところだった。やはり向こうの世界のものはこの世界にあってはならない。いてはならない。「胡蝶の夢」の話でいうと、現実の自分は山矢健太でなくてはならず、マヤ・クフールツは、山矢健太の夢の中に出てきた女の子でなければならないのだ──

 竜騎兵隊入隊当初は漠然としたものでしかなかったそんな願いが、ここへ来て少しずつ目に見える形となって現れ始めた。いま彼女の手の中には、デイン砦近くの森でモーラという大女からもらったペンダントがある。このペンダントが、こちらの世界に引き込まれる直前に手の中で光ったあのペンダントと同一のものだという確証はない。しかしモーラが去り際、このペンダントは珍しいものだと言っていたことからすると、その確率は高い。仮にそうでなかったとしても重要な手がかりであることには変わりない。

 またモーラは、このペンダントのせいで妹が何か月間もあちこち飛び回るはめになったとも言っていた。いろいろな話を総合した結果、あの大女がヤグソフ四姉妹のモーラであることは間違いないと思われたが、だとすると、その妹ニーナが数カ月前、アヴニ村周辺やファクティム近郊をうろついていたことと何か関係があるのだろうか?

 モーラは確か、このペンダントはシカの腹の中から見つかったとも言っていた。このペンダントが例のペンダントと同一だと仮定した場合、これは本来、山矢健太が持っているべきものということになる。マヤ自身、クフールツ診療院を退院した後、これが重要な手がかりであることを認識し、一応、墜落現場やその周囲を探してみたが、どこにも見つからなかった。そのため、飛行機とともに燃えて灰になってしまったか、墜落の際、どこか遠くに落としてしまったのだろうと判断し、捜索を断念していたのである。だがもしも後者の推測が正しいとすれば、森のどこかに落ちたペンダントをシカが誤って飲み込んでしまうことは十分考えられる。そしてもしもこのペンダントに、いわば発信器のような機能があったとしたら、ニーナはこのペンダントを頼りに山矢健太を見つけだそうとして、結果的に、森の中を移動する習性を持つシカの一群を追いかけていたとも推測できる。

 もちろんマヤはこのペンダントを手に入れてすぐ、ルーミアや、ギール城に駐在する物知り魔道士たちに調べてもらった。彼らが異口同音に「このペンダントに付いている宝石は見たことないものなのでよくわからないが、少なくとも現在、この宝石から魔法の気配は感じられない」と言ったことから、とりあえず今この瞬間にこのペンダントの「発信器機能」によって誰かが彼女の居場所を監視しているなどということはなさそうだった。それ以前に、このペンダントを受け取った時の状況からして、モーラがそのような目的でマヤにこれを渡したとも思えなかった。

 いずれにせよ、これらはマヤの推測に過ぎない。このペンダントは彼女がこちらの世界に引き込まれたこととは何の関係もないのかもしれないし、関係があったとしても、このペンダントからその原因を探り出してゆくことは不可能なのかもしれない。それにもともと、彼女はこのペンダントを見つけることを切望していたわけではない。彼女が竜騎兵隊に入った第一の目的は、彼女がこちらの世界へ引き込まれた原因を作ったハバリア帝国や、その事実を把握していると思われるエラーニア王宮へ少しでも近付くことにある。

 もしこの世に神がいるとすれば、マヤを異世界へ放り出した向こうの世界の神は、彼女にあまり優しくなかったといえるかもしれない。しかしこちらの世界の神は決して彼女を見放さなかった。ギール攻城戦の後、軍上層部は、ファクティム竜騎兵隊に対し、エラーニア王宮のある王都エランへの配置転換を通達してきたのである。





「舞踏会?」

 マヤはいかにも怪訝そうな顔をしてラウラにそう訊き返した。

 ファクティム竜騎兵隊の面々とともに、王都エランのはずれにある竜騎兵基地に到着した彼女が兵舎に手荷物を置いた途端、隊長のラウラが「エランでの最初の任務」を与えると言ってきたのだった。

「舞踏会って、みんなで集まってダンスを踊るあの舞踏会?」

 ラウラは笑いながら答えた。「そうだ。ついさっき軍上層部のほうから命令があった。『ファクティム竜騎兵隊は今夜の舞踏会に参加のこと』ってな」

 マヤは戸惑った。「そんな、いきなり言われても……。だいたいエランって、エラーニア王国の王都だけど、今は最前線のすぐそばにあって、いつ敵の攻撃を受けてもおかしくないんじゃなかったの?舞踏会を開く余裕なんてあるの?」

「確かに、戦(いくさ)の始まったおととしには、ハバリア軍は怒濤の進撃でエランのすぐ近くまで迫った。しかしそれ以降は、ハバリア側の戦力が不足してきたことと、こちらの防衛体制が整い始めたことから、ここの戦線はずっと膠着している。避難していた住民が戻ってきて普通の生活を始めてるぐらいだからな。つまり、同じ最前線でもギールとは状況が全く違うってことだ。ギール攻城戦に勝利した今、お偉いさんたちが舞踏会を開くのは、逆に余裕のあるところを敵に見せつけてやりたいっていうことなんだろう」

「でもあたし、ダンスなんか踊れないし、それに、そんな公(おおやけ)の場でどう振舞ったらいいのか……」

「ああ、大丈夫だ。あたしもオクタヴィも舞踏会は始めてなんだから。ルーミアだって、そうだろ?」

 マヤとともに話を聞いていたルーミアは、ラウラにそう訊かれ、こくりとうなずいた。

 ラウラはそれを見届けた後、言葉を続けた。「舞踏会に出る王族やら貴族やら軍のお偉いさんだって、あたしたちのダンスが見たくて呼び出すわけじゃない。彼らが見たいのは、ギール戦線で装甲も付けてないくせに装甲竜騎兵隊と互角に渡り合ったファクティム竜騎兵隊の隊員が、どんな面(つら)してるのかってことさ。とにかく、さっきも言ったように、これはれっきとした任務だからな。エラーニア王宮への出撃だと思えば、向こうが攻撃してこないぶん気も楽だろ?」

「え?エラーニア王宮?」マヤは隊長の言葉の最後の部分に敏感に反応した。「舞踏会は王宮で開かれるの?」

「ああ、そうだよ」

 今まで乗り気でなかったマヤは、態度を一変させた。「そ、そう?王宮で開かれるの?王宮なんて普通なら絶対に入れないところよね。何となく興味が湧いてきたわ」

 ラウラはマヤの変化を別に気に止めることなく続けた。「それは結構。では今すぐ支度を調えてくれ。まだ三時過ぎだけど、いろいろ準備があるから、すぐにここを発たないと間に合わないんだ」

「わかったわ」

 マヤはそう言うと、手早く飛行服を脱ぎ、制服に着替えた。

 戦い続きだったギールでは寝る時以外ずっと飛行服姿だったので、制服を着るのはファクティム離任式典以来四か月ぶりである。当然、履き慣れないパンプスが彼女の歩行をぎこちないものにしたが、例によってルーミアが杖代わりとなってくれた。マヤはルーミアの魔道マントにつかまりながらなんとか兵舎を出、ラウラとオクタヴィとともに、王宮側が用意してくれたという馬車に慌ただしく乗り込んだ。

 馬車は一路、王都エランの中心部を目指して大通りを走り始めた。窓から外の景色を眺めてみると、整然と整備されたその町並みは、たとえ自動車や四階建て以上の建物が見当たらなくても、マヤに東京の街角を思い出させずにはおかなかった。

 このままこの街角を通り抜けて王宮へ直行するのだろうというマヤの予想に反し、馬車が止まったのは、意外にも一軒の店の前だった。他の三人が当然のような顔をしてそそくさと馬車を降りてしまったので、マヤも慌ててそのあとについて車外へ出た。彼女の目の前には、エラン文字で「貸し衣装屋」と書かれた看板と、華やかなドレスに彩られたショーウィンドーがあった。

 更に驚いたのは、今まで「頼もしい同僚の兵士」だと思っていたラウラとオクタヴィが、店に入るや否や、東京の街でもよく見かけたような普通の女の子に豹変してしまったことだ。次々とドレスを手に取っては色や柄がどうのと言って元のところに掛け直し、こっちもかわいいと言ってはまた別のドレスを手に取るのである。ルーミアまでもがマヤのことをほったらかしにしてドレスの物色に没頭している。彼女は今まで、マヤに対する気遣いを忘れたことは一度もなかったのに……。

 半年間、女として生活してきたといっても、そのほとんどを戦場で過ごしたマヤには、彼女たちのそういった行動はやや理解しがたいものに感じられた。マヤは心密かに「やっぱり俺は今でも男なんだな」と日本語で独り言ちた。

 ところが、である。マヤの存在をようやく思い出したルーミアがドレスを一着持ってマヤのところにやって来た。そしてそのドレスをマヤの前で広げ、彼女の体に合わせるようにして「お姉ちゃん、これ、どう?」と言った。胸の部分が大きく開いたそのピンクのドレスには小さなフリルがたくさんついていて、とても愛らしかった。もし自分がこれを着たらどうなるのだろう──そう思った瞬間、マヤの心の奥底から、今まで経験したことのない感情が溢れ出してきたのである。

 マヤの口から無意識のうちに「あ……、このドレス、いい」という言葉が漏れた。

 それから三十分ほどの間、貸し衣装屋の店内では、女たちの上げる楽しそうな声が絶えることはなかった。もちろんその中にはマヤの声も含まれていた。彼女たちはいつまでもドレス選びに興じていたかったが、ラウラが「そろそろ決めないと舞踏会に遅れるな」と言い始めたためやむを得ず三十分で打ち切ったのだった。

 結局、マヤは白地にところどころ深紅をあしらったドレスを選んだ。胸の部分が大きく開いている。ルーミアによると、胸がそれほど大きくないマヤのような女の子の場合、着ている服の胸の部分が大きく開いていた方が見栄えがいいのだという。当のルーミアの選んだドレスはといえば、ピンクを基調にしたもので、彼女のやや大きめの胸を、フリルをちりばめた布で覆うことによってさり気なく強調している。オクタヴィのドレスは薄緑色のわりとシンプルなものだったが、不思議なことに、彼女の細身の体にはよく似合っていた。一方、ラウラは落ち着いたベージュ色のドレスを選んでいた。二十八歳という年齢にふさわしいシックなデザインだった。背の高い彼女には大人っぽいドレスがひときわよく似合うのだ。

 マヤは胸の高鳴りを抑えることができなかった。ドレスにコーディネートした真っ赤な靴が制服のパンプスに比べヒールの高いものだったので、着替える前よりも更に歩きにくくなってしまったが、ドレス姿の淑女は、誰もがスカートの裾を持ち上げてゆっくりと歩くものである。マヤだけが歩くのが遅くて置いてけぼりにされる心配はもうなかった。彼女たちの乗ってきた馬車の御者も、軍服姿の彼女たちには見向きもしなかったというのに、ドレス姿で店の前に出てきた「淑女たち」には、打って変わって優しい態度を取った。彼女たちが馬車に乗り込もうとする際、一人一人にうやうやしく手を差し伸べてくれたのである。

 マヤの興奮は、次に彼女たちが向かった先の美容院でその度を極めた。ギール駐留の間にぼさぼさに痛んだ髪は、きれいに切りそろえられた上につややかにトリートメントされ、汗と泥がしみついていた顔も、きれいに洗われた上に化粧が施された。夢見心地とはまさにこのことだった。鏡の中で変わってゆく自分を見つめながら、マヤは心密かに「やっぱり今のあたしは女の子なのかな」とアウスグ語で独り言ちた。

 興奮冷めやらぬマヤたち一行を乗せた馬車は、遂にエラーニア王宮前に到着した。白亜の壁をまとった王宮は、日も沈んですっかり暗くなった王都の空に多数のかがり火で照らし出され、その偉容を誇示していた。

 瀟洒(しょうしゃ)な制服を着た若い男性の従僕が、彼女たちを王宮の中へと導いた。入り口から大広間へと続く長い廊下を、普段の五分の一ぐらいの速度でしずしずと歩いてゆく間、マヤの胸は、先ほどから続いている興奮に加え、この廊下の先に待ち受けているものに対する期待感で一杯になった。

 果たして、大広間への扉が開かれた時に彼女の目に飛び込んできた光景は、彼女の期待を裏切らなかった。天井には豪華なシャンデリアが三つ吊るされていて、そのガラスの装飾には無数の光の粒がきらきらと輝いていた。そして、広間にたたずむたくさんの紳士淑女たちが、それら光を、その身にまとう宝石や貴金属で反射し、更に、鏡のように磨きあげられた大理石の床が、それらの光と、紳士淑女たちの姿と、天井のシャンデリアを映し出していた。

 今朝まで戦場の町にいたマヤたちにとって、そこはまさに別世界だった。あまりの美しさ、きらびやかさに声も出なかった。

 マヤたちの目が光のまばゆさに慣れ始めた頃、大広間の一番奥、楽団が陣取っている一角に、妙に愛想の良い小男が現れ、その体の大きさからは想像できないほどの大声を張り上げた。

「紳士淑女の皆様、今宵は、当エラーニア王宮における舞踏会にお集まり頂き、誠にありがとうございます。ご存じの通り、この王都エランはいまだ、門前から敵軍の掲げる軍旗が望める状況下にあります。しかし、我らが王国軍は、先日のギール戦で見せた武勇を必ずやこのエランで、ひいては王国全土で鳴り響かせ、野蛮なる敵の将兵どもを残らず蹴散らさんものと信じております……」

 その小男の口上は、マヤの耳には少し気取った言葉のように聞こえた。それは、その男の話し方自体のせいでもあったが、それ以上に、エランの人たちが話すエラン語のアクセントが、マヤたちアウスグ語を話す者たちには気取った口調に聞こえる性質を持っているからだった。

 小男が「さあ皆様、今宵は楽しみましょう。そして、記念すべき偉大なる勝利を祝いましょう」」と口上を終え、楽団の指揮者に目配せすると、楽団は華やかなワルツを奏で始めた。それを合図に、フロアにたたずんでいた紳士淑女たちは、一部が男女ペアになって踊り始め、他の者たちは邪魔にならないよう壁際へ退散した。

 マヤは他の三人とともに大広間の隅へ移動した後、しばらくの間、踊り手たちの華麗なステップに見とれた。そこには何か言葉に尽くせない、調和のとれた美しさがあった。指で弾けばすぐにも壊れてしまいそうな、そんな繊細な美しさにも見えた。マヤはこの調和を壊したくなかった。ダンスなどやっとことない自分は、間違ってもこの踊りの輪の中に参加できそうにないと思った。

 そのうち、軍服姿の中年男性が彼女たちの方へ歩み寄ってきた。背はそれほど高くないものの、歳の割には脂肪の少ない、精悍な体つきの男だった。彼はラウラに微笑みかけると、友人とでも会話するように親しげに話し始めた。

 言葉がいくつか交わされた後、ラウラはマヤたちのほうを向き、「この方が、今度あたしたちの上官になったアイリゲン大佐だ」と言った。

 マヤは慌てて、背筋を正して敬礼しようとしたが、敬礼は軍服を着ている時だけの表敬動作であって平服を着ている時にはやってはならないということを思い出し、オクタヴィやルーミアに習って、スカートを両手で持ち上げ、ひざを少し折る仕草をした。

 アイリゲン大佐は言った。「ファクティム竜騎兵隊のギールでの活躍は本当に素晴らしかった。エランへの配置転換を上層部に頼んだのは実はこの私なんだ。ラウラの率いるこの優秀な部隊を、ぜひ私の指揮下に入れて使わせてほしい、とね。今後の活躍にも期待しているよ」

 マヤは、オクタヴィとともにその言葉に会釈で応えながら、彼の言葉にはアウスグ語訛りがある、きっとルーミアたちと同じアウスゲント地方の人なんだろうと考えた。

 大佐はそこでマヤに目を止め、ほんの少しではあったが怪訝そうな顔をした。「君がマヤ・クフールツか。ラウラから聞いている。ファクティム竜騎兵隊の中でも飛び抜けて優秀だそうだが」

 マヤは一応、型通りの謙遜をした。「それほどでも」

「とにかく頑張ってくれたまえ。これからもまた大変な戦いが続くかもしれないが」

 大佐はそう言って、最後に再びラウラに微笑みかけてから、その場を後にした。

 やがて、一曲目のワルツが終わった。人々は踊り手たちに惜しみない拍手を送った。拍手が鳴り終わると、男たちは、楽団が次の曲の準備をしている間を利用して、新たなパートナーとなる女性を探し始めた。

 ところが、新たなペアが配置につき、楽団が今まさに次の曲を奏で始めようとした時、先ほどの小男が再び現れ、楽団の指揮者に演奏をやめさせたのだった。

 小男は人々に向かってまた大声を張り上げた。「皆様にお知らせしたいことがあります。先のギール攻城戦を勝利に導く原動力となった、勇猛なる竜騎兵のお三方が、今宵、この舞踏会に、来ておられます」

 彼は芝居がかった大げさな仕草で、広間の片隅に突っ立っているマヤたちの方を指し示した。すると、広間にたたずんでいるすべての人々の目が一斉にマヤたちへ向けられた。

 あまりに唐突なことだったので、マヤは面食らった。

 人々は、次第に賞賛の言葉を口にし始めた。マヤたちの近くに立っていた者は直接、ねぎらいと激励の言葉をかけてきた。引き続き小男が「ファクティム竜騎兵隊のお三方、どうか広間の中央へ」と促してきたので、マヤは、ラウラとオクタヴィとともにフロアの真ん中付近へゆっくりと歩み出た。人々は暖かい拍手で彼女たちを迎えてくれたが、マヤはそれでもどぎまぎするばかりだった。

 しかも、マヤの驚きはそれだけでは終わらなかった。小男が更に「皆様、エラーニアの誇りである彼女たちに、より一層の拍手を。特に、我らが王国のエース竜騎兵、マヤ・クフールツには最大級の拍手を!」と言って、また大げさな身ぶりで彼女を指し示したのである。

 マヤはようやく声を絞り出した。「あ、あたしがエース竜騎兵?嘘……」

 ラウラは娘を思う母のような笑顔をマヤに向け、言った。「撃墜した竜の数ぐらい数えとけって言っただろ。おまえの撃墜数は、ファクティムから通算六十四匹だ。あたしがちゃんと数えて上層部に申告しておいた。おまえは間違えなくエース竜騎兵だよ。おめでとう」

 オクタヴィも拍手をしながら「おめでとうございます、マヤ」と言った。

 今や大広間では拍手と賛辞が大きな渦となって、マヤたちを飲み込んでいた。マヤはもうどうしてよいかわからず、ラウラとオクタヴィがスカートを両手でつまみ上げてひざを少し折る例の仕草で拍手に応えるのを、ただただ真似るしかできなかった。

 しばらくして彼女たちが広間の片隅へ戻ってきた後も、人々は彼女たちへの賞賛の言葉を口にし続けた。中には賞賛というよりはむしろ、下心みえみえでラウラやオクタヴィに言い寄ってくる男性もいた。マヤはそれでも半ば呆然としていたが、ルーミアに「おめでとう、お姉ちゃん」と声をかけられて、やっと我に帰り、人々の賞賛の言葉にまともに受け答えできるようになった。

 その後、ワルツが何曲か奏でられるうちに、ラウラとオクタヴィはパートナーを見つけて踊りの輪に参加するようになった。ダンスなんかやったことがないと言っていたくせに、二人とも結構、上手だった。相手の男のリードが良いのかもしれない。よく見ると、ラウラのパートナーはアイリゲン大佐だった。先ほどもそうだったが、二人がお互いを見つめ合う時の目は、単なる上官部下ではなくもっと親しい人間同士が見つめ合う時の目のように見えた。マヤは、もしかしたら二人は大人の関係なのかもしれないと思った。ひょっとしたら大佐は、ラウラをそばに置いておきたいためにファクティム竜騎兵隊をエランへ呼んだのかもしれないとも思った。

 その次のワルツが始まった時には、ラウラたちに加えて、遂にルーミアにまでダンスへの誘いが舞い込んだ。ルーミアは、マヤに対する気遣いからその誘いを断ろうとした。しかし、マヤが「ルーミアのダンスがぜひ見てみたいから」と言って誘いを受けることを勧めたため、ルーミアはしぶしぶ承知して、相手の男とフロアの中央へ出て行った。

 ルーミアがたどたどしくも懸命にステップを踏んでいるさまを見つめているうちに、マヤは何となく疎外感を感じ始めた。よく考えてみると、先ほど人々が自分を賞賛してくれた時も、表面上は愛想の良い笑顔だったが、どことなく、奇異なものに対する恐れや好奇が混ざった表情だったような気がする。単にエース竜騎兵の自分に畏怖を感じたからなのか。それともやはり、自分が東洋人だからなのか。ファクティムやギールでも、そのような目で見られたことはなくはなかったが、ここではそれがより顕著に感じられた。王都という土地柄のせいなのかもしれない。

 次にワルツが終わった時、例の小男がまた現れ「国王陛下、王妃陛下のお出まし」と言った。広間の一番奥の壁に付いているバルコニーに、人影が二つ現れると、人々は拍手と「国王陛下万歳、王妃陛下万歳」というかけ声でそれを迎えた。マヤはこれほど国民に慕われている国王夫妻がどのような人物なのか知りたくて目を凝らしたが、彼女の立っている場所からはバルコニーの中をはっきり見通すことはできなかった。

 ──遠い──マヤは思った──エラーニア王宮の中枢部はあまりにも遠い。今まで漠然と「王宮に近付けば、自分がこの世界に飛ばされた理由と、元の世界へ帰る方法がわかるかもしれない」と考えてきた自分は、あさはかだった。東洋人の自分が簡単に近付くことができない場所だということは、ちょっと考えればわかったろうに──

 華やかなドレスときらびやかな大広間がマヤにかけた陶酔という名の魔法は、解けつつあった。国王夫妻臨席の下(もと)、楽団が次のワルツの準備を始めると、ラウラもオクタヴィも、それにルーミアさえも、新たなパートナーとともにフロアの中央へ出ていってしまった。マヤは、自分はやはり「調和」していないと感じた。これ以上ここにいる意味も目的もない、もう帰りたいと思った。いま抜け出したところで誰も文句は言わないだろうし、仮に咎められても気分が悪いとでも言えばよいのだ。彼女は、未(いま)だまばゆい光を放つシャンデリアに背を向けて、出口の方へ足を一歩踏み出した。

 すると。

 彼女の前に誰かが立ちふさがった。うつむいていた彼女の目にはその下半身しか見えなかった。それが軍服のズボンらしいとわかると、彼女は顔を上げ、道をあけてくださいと言おうとした。

 そのとき彼女の目に映ったのは、見覚えのある顔だった。

「お嬢さん、僕と一緒に踊っていただけますか?」

「ジュート……?」

 ジュートは以前と変わらないにやけた笑みをこぼしながら、マヤに手を差し伸べていた。





 それから四日後、マヤはエラーニア王国最大の魔道研究機関、王立エラン魔道学校を訪れていた。

 この学校で教鞭を執る最上級女性白魔道師ホトは、二年前までルーミアがここに通っていた時の恩師である。ルーミアがマヤに、もしエランへ行くことがあったらホト師のもとを訪れようと提案したのは、数カ月前、ギール城でマヤが例のペンダントをルーミアに見せた時だった。二人はエランに配置転換になった時、いの一番にここを訪れるつもりだったのだが、舞踏会という任務を与えられてしまったため、実際に訪問の機会を得たのはその翌日だった。ホト師は、間もなく重要な実験を始めるところだが、それまではいささかの暇がある、ほかならぬルーミアと、その姉の頼みとあらば、このペンダントについてできる限り手を尽くして調べてみよう、と言ってくれた。ただし、実験が始まったら、ルーミアは軍務に差し支えない範囲で実験の手伝いをしに来るように、という条件付きだった。

 マヤが期待に胸を膨らませながら三日ぶりに「ホト研究室」を訪れると、ホト師はマヤを来客用のソファに座らせ、自分自身は身長百三十センチほどしかないその体を別のソファに預けた。

「残念ながら、なんにもわからんかった」師は、九十歳という年齢を感じさせないハキハキした口調で言った。「図書館でも調べたが、どの書物にもこの宝石に関する記述は見つからんかった。魔宝石が専門の魔道士たちにも聞いてみたが、こんな宝石は見たこともないと言っておった」

 マヤはがっくりと肩を落とした。「そうですか。ホト先生や専門家の先生がたにも……」

 ホト師は、鎖の環に紫色の宝石のついた例のペンダントをマヤに差出した。「この王立エラン魔道学校にはこの世界のありとあらゆる魔道学的知識が貯えられておる。ここで調べてわからないものは、他のどこに行ってもまずわかるまい」

 マヤはペンダントを受け取って手のひらに乗せ、独り言のように言った。「また振り出しか」

「本当なら、そのような珍しい宝石は研究のためにぜひこのエラン魔道学校に譲っていただきたいと言うべきところじゃが、それはマヤにとってとても大切なものなのじゃろ?」

「ええ」

 ホト師は、そのしわくちゃの顔に暖かい笑みを浮かべた。「では、無理は言わぬ。私は、どんなものにもあるべき場所が与えられていると思っておる。マヤがその宝石をどこで手に入れたのかは知らぬが、それがいまマヤの手の中にあるということは、そこがその宝石のあるべき場所なのじゃ」

「すみません。無理言って調べてもらったうえに、こちらからは何もお返しとなるようなことができなくて」

「お返しなど必要ない。私はルーミアを本当の孫娘のように可愛がってきた。マヤがルーミアのお姉ちゃんになったのなら、私にとっても孫のようなものじゃ。孫の頼みに見返りを求める祖母などおらぬ」

「そう言えば」マヤは研究室の中をぐるりと見回し、言った。「ルーミアはどこにいるんですか。今日から実験が始まるからって、朝早く基地を出ていったのですが」

「ルーミアはさっき倉庫に薬草を取りに行った。もうそろそろ……」

 ちょうどその時、研究室の扉が開いた。

 ホト師は「おお、『噂をすれば影』じゃ」と言った。

 ルーミアは研究室に足を踏み入れるや否や、姉の存在に気付いた。そして胸の前に抱えていた薬草の箱を机の上に置いてから、マヤのもとへ歩み寄り

「残念だったわね」

 と言った。口振りからすると、ホト師からすでにペンダントの調査結果を知らされていたようだ。

 マヤは悲しげな表情でうなずいた。

 ホト師はソファから立ち上がった、というより、飛び下りて床に着地した。「では、マヤ、私はこれから実験の準備を始めさせてもらうよ。魔道学のことでまた何かわからないことがあったら、遠慮なく訪ねておいで」

 マヤも席を立ち「ありがとうございました」と言った。

 ところがルーミアは、立ち上がったマヤのいでたちを見て目を丸くした。マヤは何と、腿の大部分があらわになった超ミニスカートをはいていたのである。「お姉ちゃん、どうしたの?その格好?」

 マヤはちょっと照れながら「変かしら?」と言った。

「ううん、とてもよく似合ってる。似合ってるけど……」

「同じ基地の竜騎兵隊の女の子に訊いたり、ファッション雑誌で研究したの。今のエランではどんなのが流行ってるのかって。でね、ミニスカートが流行ってるらしいってわかったから、ここに来る前にこれを買って着てきたってわけ」

「そう言えば、三日前にエランの中心街──カスリン通りとかスレダー公園の方に案内してあげた時も、お姉ちゃん、お店で服とかアクセサリーとか熱心に見てたわよね。あ、確かその時リップスティック買わなかった?」

「つけてるわよ、ほら」マヤはルーミアの方に顔を突き出して見せた。リップスティックとっても、結構、濃いピンク色だ。「『郷に入っては郷に従え』だもん。しばらくはエランに駐留するわけだから、ファッションもエラン風じゃないとね。それに、聞いた?ファクティム竜騎兵隊が装甲竜騎兵隊に改編されるっていう話」

「今朝、基地でオクタヴィに偶然会って、そのとき聞いたわ。竜の装甲を新しく作るのに二週間ほどかかるので、その間はよほどのことがない限り出撃は無しだって」

「だからあたしも、空き時間が増えてエランの街に出ることも多くなるんじゃないかって思ったから、ますますエランのファッションを勉強しとかなきゃってね」

「あたしとしてはお姉ちゃんがきれいになってくれるなら、それはそれで嬉しいんだけど……、でも……」

 マヤは冗談めかして高飛車に「なによ、何か不満?」と言った。

 ルーミアも冗談で返すことにした。「いいえ、何の不満もございませんことよ、お・ね・え・さ・ま」

「ならば結構です。聞き分けの良い妹でよかったですわ」

「わたくしも、理解ある姉が持てて幸せですわ。……そうそう、流行といえば、お姉様、いまエランでは、リップスティックの色はピンクよりも緑色ですわよ」

「え?ほんと?」

「嘘に決まってるじゃない」

「こら、ルーミア」

 その時、今まで横で面白がって聞いていたホト師が「ルーミア、そろそろ始めたいんじゃが」と言った。

 ルーミアはマヤに微笑んで「じゃあ、あたし、今から実験にかかるから」と言った。

 マヤも微笑み返し、「じゃあね」と言った。そして傍らに置いてあったジャケットを羽織り、ホト師に会釈をした後、短いスカートの裾が万が一にも捲れ上がっていないかどうか確認しつつ、研究室を出た。

 マヤはその後、乗り合い馬車でエラン中心部へと向かった。

 窓の外を流れる夕暮れ時の街角を眺めながら、マヤは先ほどのルーミアとの会話を思い出していた。ルーミアはあの時、しきりにマヤがおしゃれすることが納得いかない素振りを見せていたが、マヤにはその理由がわかっていた。女言葉でしゃべったり女として扱われることに慣れていたとは言え、マヤが仕草まで女っぽくしようとしたり、女しかやらないようなことを敢えてやろうとしたことは今まで一度もなかった。それは、彼女が男に戻る希望を捨てていない証だった。そんな彼女が自らの意志でミニスカートなど穿(は)いたとなると、その希望を捨ててしまったのではないかとルーミアが心配するのは無理からぬことだった。

 乗り合い馬車は、終点のカスリン通りに到着した。カスリン通りは比較的若者向けの店が立ち並ぶ一角で、規模こそずっと小さいものの、東京の渋谷のような街だった。そして、渋谷のような場所があるのなら、当然のごとくハチ公前のような場所もあった。もっとも、そこに立っているのは犬ではなく竜の銅像であったが。

 マヤが竜の銅像の前に着いた時、近くの時計塔の時計がちょうど夕方六時を告げた。周囲を見回すと、若い女性の多くはミニスカート姿だった。マヤは事前に行ったファッション・リサーチが正しかったことを安堵しつつ、今一度、自らのジャケットやスカートにしわなどないかチェックした。

 彼女が今日、このような格好をしたのは、先ほどルーミアに述べた理由もあったし、先日の舞踏会でドレスを着たことで着飾ることに「味をしめた」という理由もなくはなかった。しかし、一番の理由は他にあった。

 そのとき彼女は、四日前の舞踏会のことを考えていた。

 ──お嬢さん、僕と一緒に踊っていただけますか?──

 ──ジュート……?──

 ──ほら、音楽が始まった。さあ、こちらへどうぞ──

 ──ちょっと、ジュート、そんなに強引に手を引っ張らないで──

 ──おや、これは失礼──

 ──もう、ジュートったら──

 ──僕が元来、強引なたちだということはご存じでしょう、お嬢さん──

 ──お嬢さんって呼ぶのはやめて──

 ──ははは、君が僕にそのセリフを言ったのは二度目ですね、マヤ・クフールツ嬢──

 ──その妙に丁寧な口調もやめて──

 ──ちぇっ、せっかくこの俺様が舞踏会の雰囲気に合わせて、騎士(ナイト)みたいなしゃべりかたで話してやったってのに──

 ──ジュートが自分のことを『僕』なんて言うのは気持ち悪い。それに『ナイトみたいな』じゃなくて、あなたはナイトそのものでしょうが──

 ──やっと笑ってくれたな、マヤ。さあ、踊ろう──

 ──あたし、ダンスなんかやったことない──

 ──大丈夫だ。俺の動きに合わせてステップを踏めばそれでいい──

 ジュートと一緒に踊ったあの数分間にマヤの胸に去来した想いが一体どういう種類のものだったのか、マヤ自身にもよくわからない。ひとりぼっちだった自分に手を差し伸べてくれた彼の優しさが単に嬉しかっただけのような気もするし、下手なダンスを彼に見られることが恥ずかしくてドキドキしていただけのような気もする。わかっているのは、あの時、自分はこちらの世界に飛ばされて以来、もっとも幸せな気分だったということ、それと、彼がたった一曲一緒に踊っただけで大広間を去ってしまった時、ものすごく寂しい気分だったということである。そして、あの時の想いがどういうものだったかを確かめるには、別れぎわ彼が口にした言葉──四日後の夕方六時、カスリン通りの竜の像の前で会おうという、あの誘惑の言葉に乗ってみるしかないということである。

 そうこうしているうちに、時計塔の時計の針が六時二十分を回ってしまった。マヤは携帯電話がないことをもどかしく感じた。しかし冷静に考えてみれば、この世界には携帯電話どころか、普通の電話どころか、腕時計すらないのである。当然、時間の感覚も元いた世界とは違い、ルーズなのだろう。彼女はそう思い直し、辺りの景色でも眺めながら気長にジュートを待とうと思った。

 ふとマヤは、三メートルほど離れたところに立っている女性に目を止めた。髪はショートカット。服装は、今のエランの流行に背を向けるかのようにパンツルック、上半身には水色の薄手のジャケットを羽織っている。身長は、エラーニアの人間にしては低め、百六十センチ弱と言ったところか。体つきは、ジャケットの上から判別できる限り、どちらかというと筋肉が多めで脂肪分の少ないスポーツウーマン体型に見えたが、だからといってたくましすぎて男と見間違えるほどではなく、むしろ適度な筋肉がプロポーションを引き締めている。ただ、もう日が沈んでいたために、街灯の明かりだけではその顔つきまでは見て取ることはできなかった。

 その女性は、先ほどからしきりに時計塔の方を伺っている。マヤと同様、誰かと待ち合わせをしているのは明らかだった。マヤはその女性のことを横目で観察しているうちに、何となくその女性が気になり始めた。なぜならその女性の体つきが、相良美玖を連想させたからである。

 更に三十分が経った。竜の像前広場ではひっきりなしに人がやってきては待ち合わせの相手と去ってゆく。中には十五分待たされたことに対し不満を述べながら広場を後にする者もいる。どうやらエランの人々は決して時間にルーズではないらしい。なのに、マヤと美玖似のあの女性だけは相変わらず時計塔とにらめっこである。マヤはその女性に、美玖似ということに加え待たされている者同士ということからも、妙に親近感を覚え、心の中で、お互い頑張りましょうと激励した。

 するとその女性も、マヤが自分と同様一時間近く待ちぼうけていることに気づき、親近感のようなものを感じたらしい。微笑みながらマヤのほうへ歩み寄ってきたのだった。

 近付くにつれその女性の顔立ちがはっきりと見えるようになった。マヤは驚いた。その女性は、体つきだけではなく顔つきまでもが美玖に似ていたのである。いや、正確にいうと、美玖の四、五年後の顔に似ていた──つまり年齢はマヤより四、五歳上のように見えた──のである。

 しかも、マヤを驚かせたのはそれだけではなかった。すぐそばまでやってきたその女性が苦笑いしをして

「お互い、待ちぼうけね」

 と言った時、マヤはその女性の胸に、紫色の宝石をはめ込んだペンダントがぶら下がっているのを発見したのである。

 マヤは思わず「そのペンダント!」と叫んでしまった。

 女性はきょとんとした表情で「え?」と訊き返した?

 マヤはその女性の表情に、驚きとともに困惑が混じっていることを見て取り、「あ、ごめんなさい、いきなり変なこと言ってしまって」と謝った。

 女性は「いえ、別に気にしてないわ」と言って元の愛想の良い表情に戻った。「それで、このペンダントがどうかしたの?」

 マヤはしどろもどろに「あ、いえ、きれいだなと思って」と応えたが、直後に、そんな応答をしてしまったことを後悔した。きれいだと思ったぐらいで叫び声を上げるなどどう考えてみても不自然だ。

 しかし女性は「そう?ありがとう」と言っただけだった。

 マヤは考え直し、正直に事実──といっても事実のすべてではないが──を話すことにした。「いえ、本当のことを言うと、そのペンダントに興味があるんです。あたし、竜騎兵なんですけど、任務中に偶然、そのペンダントにそっくりなのを手に入れたんです。でね、変わった宝石が付いているなって思ったから、知り合いのつてでエラン魔道学校の先生に会って、その宝石について調べてもらったんですよ。そしたら、魔道学校にも知っている人が一人もいないぐらい 、すっごく珍しい宝石だって言われたんです」

「へえ、この宝石、そんなに珍しいものなんだ」

「あの、あなたはどこで手に入れたんですか」

「どこだっけ?誰かからもらったんだっけ?ええと……確か……」

 マヤは、その女性の口から次の言葉が出てくるのを、今か今かと待った。

 と、その時。

 背後から

「よう、待たせたな、マヤ」

 という聞き覚えのある声がした。

 振り返ると、そこにはジュートのにやけ顔があった。

「あ、ジュート……」

 マヤは一瞬、言葉に詰まった。胸の中に彼に対するいろいろな感情が込み上げてきて言葉にならなかったのである。

 ジュートのほうは相変わらずの口調だった。「ほう、ミニスカートをはいて来たのか。こりゃ脱がせやすくていいかもな」

 マヤはむくれて見せた。「遅れた言い訳ぐらいしたら?」

 ジュートに悪びれる様子はなかった。「遅れたって言ってもたった一時間じゃないか。マヤは知らないかもしれないけど、ここエランでは一時間ぐらいは遅刻のうちに入らないんだぜ」

 マヤは信用できなかったので、例のペンダントをした女性に尋ねた。「って言ってるけど、本当?」

 女性は首を振った。「ここに住むようになって三年以上経つけど、そんな話聞いたことない」

 ジュートはとぼけた。「さて、マヤにも納得してもらえたようなので……」

 マヤはすかさず「納得してない。全然してない」とツッコミを入れた。

 そこでペンダントの女性が「じゃあ、あたしはこれで」と言って立ち去ろうとした。

「待ってください」マヤは引き止めた。「あたし、ペンダントのことがどうしても知りたいんです。もし差し支えなければ、ペンダントの話を聞かせてくれませんか。……いえ、今すぐじゃなくて、後日」

「別に構わないけど」

「じゃあ、いつがいいですか?あたし、しばらく仕事が忙しくないので、夕方以降ならいつでも空いています」

「じゃあ、さっそく明日、夕方の六時にここで待ってるわ」

「わかりました」

「じゃあね」

 女性はそう言って、またマヤから三メートル離れたところに戻っていった。

 するとジュートは「今のは誰?」と訊いてきた。

 マヤは応えた。「うん、ちょっとした知り合い」

「彼女、少し訛ってたな。どこの訛りだろ?ギーラントのほうかな?それともハバリアに近いエールデラントかな?」

「彼女のことが気になるの?」

 ジュートはマヤの言葉にほんの少し嫉妬が含まれていることを感じ取り、意地悪を言った。「そりゃあ、大人の女性だからなあ。誰かさんと違って」

 マヤはまた膨れっ面をした。「どうせあたしはガキですよーだ」

 ジュートはそれでも「全然大丈夫。俺、守備範囲広いから」と言ってのけた。「じゃあ、そろそろ、飯でも食いに行くか」

「うん」

 二人は竜の銅像前広場をあとにした。

 ジュートと肩を並べて歩きながら、マヤは思った。先ほど、あの女性がペンダントをどこで手に入れたかを思い出しかけているちょうどその時にジュートがやってきた。あの場面で自分は、ジュートを待たせておいてその場ですぐに女性から話を聞き出すこともできたはず。なのにそうしなかった。無意識のうちに、元の世界へ帰る手がかりを得ることよりも、ジュートと早く二人きりになることを優先してしまったのだ。今まで一番大切なことは元の世界へ帰ることだと思っていたのに。舞踏会で彼と一緒に踊った時に胸の中に溢れた想いが何だったのか、これではっきりした……

 その夜のデートは、マヤにとって舞踏会以上に楽しいひとときだった。





 翌日、マヤは約束どおり夕方六時に竜の像前でペンダントの女性と落ち合うことができたが、その時ちょっとした出来事があった。

 マヤが六時ちょうどに待ち合わせ場所に着いた時、例の女性は竜の像前でうずくまるようにしてしゃがんでいたのである。マヤは、女性が気分でも悪くなって立っていられないのかと思い、彼女の横に自分もしゃがんで介抱してあげようとした。見ると、女性は確かに痛々しそうな顔をしていた。しかしそれは自分の体の痛みに対してではなかった。彼女の目の前の地面には白い子犬がちょこんと座っており、その前脚にぱっくり開いた傷口から血を流していたのだった。

 マヤがやって来たことに気付いた女性は、マヤに、この子犬は野良犬のようだ、怪我の手当をしてあげたいが、自分の家はここから歩いて数分のところなので、マヤにも一緒に来て欲しい、話は家でしよう、と言ってきた。マヤが承諾すると、女性は子犬を抱き上げ、竜の像前広場から四方へ伸びる街路のうちの一本へとマヤを導いた。

 女性の家は三階建ての古ぼけた小さな共同住宅の中にあった。マヤの元いた世界で言えばワンルームマンションのような感じだろうか。女性は家の鍵を開け、マヤに中に入るよう言った。入ってみたところ、部屋は八畳ぐらいの広さで、家具やカーテンの色が水色に統一されていた。水色が好きなのだろう。彼女は、まずマヤに手近な椅子に座るよう勧め、次に暖炉に火をおこしてそこにやかんを掛けた。そして棚から布切れを取り出し、子犬の脚に巻いた。子犬は、脚に布が結わえ付けられる間、痛そうに小さな悲鳴を上げたが、結わえ終わった時には嬉しそうに尻尾を振って応えてくれた。

 女性は濡れ手ぬぐいで手を拭った後、暖炉のやかんから二つのカップに湯を注いでマヤの前のテーブルに置き、その一つをマヤに勧めた。それから、マヤの向かい側の椅子に自らも腰掛け、話を始めた。

「まずは自己紹介。あたしはナターシャ・リュコー」

「マヤ・クフールツです」

「このペンダントは」ナターシャと名乗った女性は胸元のペンダントを首に掛けたまま手のひらに乗せ、言った。「姉からもらったものなの。あたしがこのエランで働くために故郷を出ることになった時、プレゼントしてくれたのよ」

「お姉さんからですか……。あの、お姉さんがそれをどこから手に入れたかわかりませんか」

「うーん、そんな話はしてなかったな。……いや、聞いたような気もするけど、もう三年も前の話だから。うちの姉はね、魔道士なの。昔からいろいろなところへ旅をして珍しいものを手に入れては、故郷に持って帰って来てたわ。あたしもたくさんの物をもらってそのたびにいろいろな話を聞いたから、その一つ一つまでは、ちょっと思い出せない」

「お姉さんは今どちらに?」

「相変わらず旅をしてるわ。今はずっと遠い国にいる」

「そうですか……。あ、見せてもらってもかまいませんか」

 ナターシャは、首からペンダントを外しマヤに手渡した。マヤはハンドバックから自分のペンダントを取り出し、手のひらの中に二つを並べて見比べた。どちらの宝石も怪しげな光を放っている。専門家でないマヤにはっきりしたことはわからなかったが、こうやって見る限り、二つの宝石は全く同じもののように思えた。

 ナターシャは言った。「エラン魔道学校で調べてもなんにもわからなかったって言ってたわよね?不思議よねえ。そんなことってあるのかしら。なんか、あたしまで興味が湧いて来ちゃった。……ねえ、クフールツさん、あたしもこのペンダントのことを調べるお手伝いをしちゃだめ?」

「手伝ってくれるんですか?」マヤはナターシャから借りたペンダントを返し、言った。「それは嬉しいですけど、何か当てがあるんですか?魔道学校の先生たちにお手上げだって言われたぐらいなのに」

「当てって言うほどじゃないけど、魔道学校って、結局は魔道学の権威みたいな人たちの集まりでしょ?このエランには正式な魔道学の知識から外れた、そう、『裏の魔道学』っていうのかな、そういうのに精通した人がたくさん住んでるわ。たとえばミエンテ小路っていうところにはそういう人たちがやっているまじない小屋が立ち並んでるの。そんなところで聞いてみるっていう手もあるんじゃない?」

「『裏の魔道学』か……」マヤは思った。確かにそういう場所は、『表の魔道学』の王道を歩いて来たルーミアには考えの及ばないところかもしれない。「そうですね。それはいい手かもしれませんね」

「でしょ?じゃあ、一緒に行こうよ。あたしが案内してあげる」

「いいんですか」

「ええ。さっきも言ったけど、あたし自身も興味が湧いて来たの。それに、面白そうじゃない。ミステリー小説みたいで」

「助かります。あたし、エランには不案内だし、ここには知り合いもあまりいないし」

「じゃあ、今から、って言いたいところだけど、ワンちゃんを放っておく訳にはいかないから、今日はちょっとだめね。明日、朝一番に白魔導師に診せにゆくけど、それまではずっと一緒にいてあげたいもの」

「それにあたしのほうも、あんまり夜遅くなるわけにはいかないんです。一応、軍人ですから、門限があります」

「そっか。本当は、まじない小屋のようなところは夜中が一番、営業が盛んなんだけど、そういう事情なら仕方がないわね。じゃあ、いつ行こうか?」

「あたしの仕事が暇なのはあと二週間ぐらいなので、できるだけ早いほうがいいんです。リュコーさんとワンちゃんの都合がつくなら、明日の夕方にでも」

「ナターシャって呼んでいいわよ。あたし、明日は仕事が夜遅くまで入ってるの。あさっての土曜日は?」

「じゃあ、あたしもマヤって呼んでください。あの、あさってはちょっと」マヤは顔を少し赤らめた。「あたしのほうが都合が悪いんです」

 ナターシャはいたずらっぽく「もしかして昨日の彼氏と?」と尋ねた。

「え?」マヤは一瞬、絶句した。彼氏という響きは彼女にとってあまりにも刺激的だったのである。「ええ……まあ……そうなんですけど……」

「あ、気を悪くした?ごめんなさい、いきなり立ち入ったことを訊いてしまって」

「いえ……、ちょっと照れくさかっただけです」

「じゃあ、その次の日、日曜日ね」

「ええ」

「お昼の一時に、竜の銅像前で」

「わかりました」マヤは椅子から立ち上がった。「では、今日はこれで失礼します」

「それじゃ」

 ナターシャがそう言って席を立ち、マヤを玄関まで送っていこうとした時、先ほどの子犬が駆け寄って来て彼女の足にぶつかった。

 彼女は子犬を抱き上げ「だめじゃない。あなたは怪我人なんだから、おとなしくしてなきゃ」と言った。

 マヤはナターシャの腕に抱かれている子犬を撫でてあげながら言った。「明日、白魔導師に診せた後、この子どうします?ここ、アパートだから、本当は動物を持ち込んじゃだめなんでしょ?」

 ナターシャは「とりあえず怪我が完治するまではここに置いてあげるつもりよ。もちろんこのアパートはペット禁止だけど、怪我が治るまでの間だけなら、きっとばれやしないわ」と言って微笑んだ。

 マヤは思った。ナターシャは笑顔の時が一番美玖に似ていると。





 それから十日間、マヤはナターシャとともにたびたびまじない小屋や市井の魔道研究家のもとを訪れたが、ペンダントに付いているの宝石のことを知っているという者は一人もいなかった。

 十日後の昼下がり、マヤは駐留している竜騎兵基地の兵舎でラウラとオクタヴィに呼ばれた。竜の装甲が完成し、装着が終わったらしいので、竜のための駐機場──駐竜場に様子を見に行こうというのである。

  ファクティム隊のために割当てられている駐竜スペースに着いた時、濃く明るい赤色、いわゆる緋色の色彩がマヤの目に飛び込んで来た。ピムをはじめとするファクティム隊の竜たちが、体に緋色をまとっていたのだった。

 ラウラは

「知っているとは思うが、装甲竜騎兵隊は、同じ隊の竜の位置を確認しやすいように装甲に隊固有の色を塗ることになっている。ファクティム装甲竜騎兵隊のシンボルカラーは、隊長権限で緋色に決めさせてもらったよ。マヤの乗るピムは以前から頭部にだけ緋色の装甲を付けてただろ?それに合わせたんだよ。エース竜騎兵、マヤ・クフールツ殿に敬意を表してね」

 と言ってマヤにウィンクしてみせた。

 マヤはピムのすぐそばまで歩み寄り、改めてその勇姿を見上げた。装甲は、ピムの頭部と胴体の大半と翼の一部を覆い、その表面に塗られたばかりの赤い塗料の光沢によっててらてらと輝いてた。ただどういうわけか、頭部の装甲だけは、光沢がないばかりか、塗料がところどころはげ落ち、表面に小さな傷がたくさん付いていた。よく見てみるとそれは、アヴニ村を経つときルーミアが鍛冶屋のお爺さんに頼んで作ってもらったあの装甲のまま、新しいものと交換されていなかったのである。

 そのうち、ルーミアも駐竜場に姿を見せた。おそらく彼女も装甲完成の話をどこからか聞き付けて、様子を見に来たのだろう。

 マヤは歩み寄ってくるルーミアに尋ねた。「もしかして、頭の装甲を新しいものに交換しないように手配してくれたのは、ルーミア?」

 ルーミアはマヤのすぐ隣に立ち、ピムを仰ぎ見ながら答えた。「うん。だって、あれはお姉ちゃんの大切な『ひこうき』の一部でしょ。それに、あたしにとってもアヴニ村の思い出の一部だもん」

「そっか。そうよね」マヤはルーミアの肩を抱いた。「ありがとう、ルーミア」

 ルーミアは微笑みでそれに応えてから、言った。「ねえ、お姉ちゃん、ここのところ毎日、ペンダントの調査に出かけてるわよね。調査は進んでるの?」

「全然」

「そうなの……。あーあ、あたしもホト先生のお手伝いするのを断って、お姉ちゃんと一緒にペンダント調査のほうに加わろうかな」

「それじゃホト先生が困るでしょうに」

「それはそうだけど……。でも、魔道学の実験よりもお姉ちゃんが元の世界へ帰る手がかりを見つけることのほうが重要だと思う。調査に加わる人の数は一人でも多いに超したことはないでしょ?それに……」

「それに?」

「なんか、調査に出かける時のお姉ちゃん、いつもとっても楽しそうだから」

「そ、そう?」

「ねえ、一緒に調べてくれてる女の人って、どんな人なの?」

「故郷から出て来てエランで一人暮らししてる二十歳の人。喫茶店の店員をやってるって言ってたかな」

 ルーミアは「へえ」と相づちを打ったが、その表情はなぜか怪訝そうだった。

 マヤは言葉を続けた。「彼女は……ナターシャはいい人よ。この間、怪我をした子犬を拾ってきてね、住んでるのがペット禁止のアパートだから傷を治す間だけ面倒を見てあげるとか言ってたのに、結局そのまま飼っちゃったの。ほら、動物好きの人に悪い人はいないって……こっちの世界では言わなかったかな」

「ふーん……」

「それにナターシャはね、あたしが向こうの世界にいた時、告白しようと思ってた女の子に似ているのよ。顔とか体つきとか、それに性格もどことなく。それで親しみが湧いたっていうか」

 するとルーミアは、怪訝そうなというより、何か恐ろしいものを見るような目でマヤを見つめた。

 マヤはその時、妹のその表情の意味をようやく理解し、苦笑いをした。「あ、もしかして変な意味に誤解したでしょ?」

「え?」

「あのね、ルーミア、あたしは確かに元は男の子だったから女の子を好きになったことはあるし、そのとき好きになった娘(こ)は今でも好きよ。でも女の子になってから出会った娘(こ)は、同性としてしか見れないわ」

「そ、そんなふうに思ったわけじゃないけど……」

「別にいいのよ。ルーミアがそう思うのは無理もないことだから」

 ルーミアはたとえ一瞬にせよ妙な考えにとらわれてしまったことを恥じ、正直に「ごめん」と謝った。

 マヤも妹に余計な心配をさせてしまったことを反省しつつ、「じゃあ、ルーミアにもそのうちナターシャを紹介してあげる。きっとルーミアも気に入ってくると思う。三人で一緒にペンダントの手がかりを探しましょ」と言った。

 ルーミアはやっと納得の表情になった。「うん」

「ただし!ホト先生の実験の手伝いが終わったら、ね」

「はーい」

 マヤは今一度、ルーミアの肩を抱いた。

 ルーミアもマヤの腕にすがりついた。「そっか。お姉ちゃん、向こうの世界に好きな人がいたんだ」

「向こうの世界の話はほとんどしてあげたことがないものね」

「そうね……」

「これからはもっと話すようにするね」

「うん。でも話せる範囲でかまわないから」

「ルーミア、本当は聞きたかったんでしょ?でも、あたしが異世界から飛ばされてくるときに味わった恐怖とか女になってしまったショックをあたしに思い出させないために、聞かないようにしてくれてたのよね。ルーミアはいつも優しいから。けどあれからもう一年近く経っているもの。あたしもこっちの世界でいろいろな経験をして、もうほとんど吹っ切れたわ」

 マヤはそう言って、晴れやかな笑顔を見せた。

「そう。それはよかった」ルーミアは姉のそんな表情を見ていると嬉しくなった。何があったのかは知らないが、姉は本当に吹っ切れたのだろう。「そういえば、あたしもお姉ちゃんにのそばにずっといながら、プライベートなことはあまり話さなかったわよね。じゃあ、あたしも意を決して、誰にも言ったことのない秘密をお姉ちゃんに打ち明けるね」

 マヤは好奇心に満ちた瞳を妹に向け「え?何?何?」と言った。

 ルーミアは少し恥ずかしそうに「あたしの好きな人のこと」と言った。

「好きな……人?」

 その瞬間、マヤの脳裏に、ある言葉がよぎった。

 ──それがどういうわけか、ルーミアのほうも俺にそういう輝きみたいなものを見るようになっちまってな──

 それは去年の夏、ファクティム城に拉致されてジュートの相手をさせられそうになった時、彼の口から聞かされた言葉だった。

 ルーミアは続けた。「あたしが好きなのは」

 マヤは心の中で言わないでと叫んだ。

 しかしルーミアは無情にもその言葉を発してしまった。「ジュートって人」

 マヤの顔色がみるみる青ざめた。まるで街を歩いているときにいきなり通り魔に脇腹を刺されたかのように。

 ルーミアは更に言葉を続けた。「お姉ちゃんがうちの診療所を退院した日、お姉ちゃんをファクティム城にさらって行った三人組の一人よ。覚えてる……わよね?お姉ちゃんにひどいことしようとした人だから」

 マヤは心がちくちく痛むのを感じた。

 先日の舞踏会の折、ジュートはマヤと一曲踊っただけで大広間を去ってしまった。だからルーミアは、彼が舞踏会に来ていたことを知らない。ましてや彼がマヤと一緒に踊ったことなど知る由もない。また、先ほどルーミアは、ペンダント調査に出かけるときのマヤが楽しそうに見えると言った。それは、マヤがペンダント調査と称して出かけたうちの何回かは、実はジュートとのデートだったからである。そんなことなど、ルーミアは露ほども知らないのである。

 もちろんマヤは、ルーミアがジュートのことを好きだという事実を、今までずっと忘れていたわけではない。現にこの十日間、マヤの意識の表層に何度も現れそうになった。だがそのたびに、彼女はその事実を記憶の奥底へ沈めることで問題を先送りにしてしまったのである。

 ルーミアはマヤの様子がおかしいことに気付いた。「ご、ごめん。嫌なことを思い出させちゃった?やっぱり言うべきじゃなかったわ」

 マヤの心は更に痛んだ。ルーミアはきっと、さらわれた時のことをマヤが思い出さないですむようにとの気遣いから、ジュートの話をいっさい口にしないようにしてきたのだ。実際は嫌な思いどころか、あの時すでに、彼への恋心とは言わないまでも、好意のようなものが芽生え始めていたというのに。

 しかし、マヤの口からはその場しのぎの言葉しか出てこなかった。「ううん、大丈夫よ。ジュートはあのとき結局、あたしにひどいことは何一つしなかったから……」

「そう?」

「うん。それに彼、結構いい人だったと思うし……」

「よかった、そう言ってもらえて。あのね、この間、知り合いから聞いたんだけど、彼、いまエランにいるんだって。ほら、アウスゲント地方で男の竜騎兵を探す任務に就いてたでしょ?たぶん、あれが打ち切りになったんだと思う」

「へえ……」

「いまごろどうしてるんだろ」ルーミアはとても寂しそうに言った。「今は戦時下でしょ。軍人がどこでどうしてるっていう情報は、場合によっては機密事項になるから、軍のほうに問い合わせても絶対に教えてくれないわ。だから、噂で聞くか、本人にばったり会える偶然を期待するしかないの」

 マヤはその時、もはやルーミアにすべてを打ち明ける以外ないと思った。

「ルーミア……」

 ところが、マヤの喉はまるで十ヶ月前にクフールツ診療院で目覚めた時のようにこわばり、どうしても真実の言葉を発することができなかった。それは無論、不動の術のせいではなかった。喉をこわばらせたのは、妹の憧れている人を横取りしてしまった罪悪感と、それを今まで隠してきたことに対する後ろめたさだった。

 ルーミアは「ペンダント調査のときにもしジュートに会ったらよろしくね」と言った。

 マヤは「わかったわ……」と応えるのが精いっぱいだった。

 見るとルーミアは、さっき一瞬見せた寂しげな表情を、早くも笑顔に作り替えていた。

 彼女のその作り笑顔は、マヤの心に痛かった。マヤはこれ以上妹と一緒にいるのが辛かった。いますぐその場を逃げ出したいと思った。

 その時。

 マヤに意外な「救いの手」が差し伸べられた。

 カンカンカンカンカン……

 それは竜騎兵基地に鳴り響くけたたましい鐘の音だった。

 「敵襲?」

 マヤとルーミア、それに少し離れたところで自分の竜の世話をしていたラウラとオクタヴィたちも、その表情に緊張感をみなぎらせた。つい半月前まで駐留していたギールでは、このような警報が鳴るのは日常茶飯事だった。しかし、エランに配置転換となってから今まで、このような警報は一度も聞いたことがなかったのである。

  それまで静かだった駐竜場の動きがにわかに慌ただしくなった。ファクティム隊の隣に駐竜スペースを割り当てられていたエラン第二竜騎兵隊は、おそらくスクランブル・ローテーションに当たっていたのだろう、警報が鳴り始めて二分と経たないうちに、三匹の竜がそれぞれ竜騎兵を背に乗せ、次々と基地を飛び立った。 更にそれから十五分ほどの間に、休暇中の一隊を除いて、すべての隊がいつでも飛び立てる態勢を整えた。

 もしそこで警戒態勢が解除されていたなら、警報の原因は、敵の偵察竜がエラーニア側の警戒空域にたまたま迷い込んだだけということで片付けられていただろうが、事態はその逆の方向へと進み始めた。指揮のために駐竜場に現れたアイリゲン大佐が、指令塔から伝声管で送られてくる指示の下(もと)、一隊、また一隊と発進を命じていったのである。

 臨戦態勢にあった最後の隊が遂に飛び立った後、大佐はマヤたちファクティム隊のところにやって来て、言った。「ヤグソフ四姉妹のモーラ率いるアマゾネス隊が単独で戦線を突破して来た。いま友軍の騎士隊と魔道士隊が竜騎兵隊とともに応戦中だが、敵はエラーニア王宮へ迫る勢いだ。王宮から、この基地の竜騎兵隊を全部投入してでも阻止せよとの指示があった。 君たちの竜は装甲を付けたばかりだ。本当なら少なくとも二、三日、馴らし飛行が必要なことは重々承知している。が、これは非常事態だ。悪いが、今すぐに出撃の準備を始めてほしい」

 マヤたちはすぐさま兵舎に戻って飛行服に着替え、武具を装備した。彼女たちが駐竜場に戻って来て竜の背中に飛び乗るや否や、アイリゲン大佐は待っていましたとばかり直ちに出撃を命じた。

 ラウラの「ファクティム装甲竜騎兵隊、出撃せよ」とのかけ声が駐竜場に響き渡ると、緋色の装甲をまとった三匹の竜は、アイリゲン大佐たち地上スタッフとルーミアを残して一斉に王都の空へと飛び立った。

 前線の状況は、五キロ離れた基地上空からでも一目瞭然だった。エラン市街北部に広がる麦畑は現在、両軍が睨み合う最前線となっているため耕作が行われておらず、単なる平原となっている。うっすらと雪の積もったその平原を、装束や甲冑を黄色に統一したアマゾネス隊が一つの黄色い塊となって、行く手を塞ぐエラーニア軍の騎士たちを蹴散らしながら猛進しているのが見える。その様子は、さながら鋭利な黄色いナイフが白布を切り裂くさまに似ていた。

 王宮方面への飛行を続けている最中、マヤはふと眼下に広がるエラン中心街、特にその中のカスリン通りに目を止めた。自分はつい数日前にも、あそこでジュートと会い、楽しいひとときを過ごした。その時も心の奥底に、もしルーミアにばったり出くわしたらどうしようという思いがないではなかった。しかし、ジュートの笑顔を見ているうちにそんな懸念は消し飛んでしまった。いや、自分で消し去ったのだ。そうやって問題を先送りにして目先の快楽へと逃げ込んでいるうちに、先ほどのような事態が起こってしまった。これからいったいどうすればいいのだろう。ルーミアにどう接したらいいのだろう。もしジュートの口から自分との関係をルーミアにばらされたら、ルーミアに何と言ってあげたらいいのだろう……

 それに、今日はピムの動きがどうも重いように感じられる。装甲のせい?いや、今までにもこの装甲よりずっと重い荷物を運んだことがあるが、操縦テクニックで難なくカバーできた。もしかするとこれは、ピムの動きではなく、自分の心の重さに原因があるのではないか。相手はあのモーラだというのに、このような精神状態でうまく戦うことはできるのだろうか……

 やがて、ファクティム装甲竜騎兵隊はエラーニア王宮上空に到着した。モーラ隊の勢いはさすがに当初と比べると鈍くなっていたが、すでにエラン市街北側に侵入を開始しており、このまま大通りを進撃して王宮の北門に到達するのは時間の問題のように思えた。王宮で働いている人たちのてんやわんやしている様子が上空からでもはっきりと見て取れた。

 ラウラはマヤとオクタヴィに対地攻撃を命じた。まずは油の入った革袋に火をつけ、上空から敵兵目掛けて落下させるのである。この攻撃は命中率も悪く、当たったとしてもそれほどダメージがないことから、攻撃と言うよりは、敵の足留めという意味合いが強い。それに、このような敵味方入り交じっての乱戦では味方に被害を与えてしまうことも考慮する必要があった。油袋が底をつくと、次は弓矢による攻撃である。当然、ある程度高度を下げねばならず、そのために相手からも矢で狙われる可能性が出てくる。投擲(とうてき)用の槍を投げ付けられる場合もある。弓矢が不得意なマヤにとっては、これも足留めに毛が生えた程度でしかなかったが、得意なオクタヴィにとっては、ここが彼女の見せ場だった。彼女の放つ矢は次々とアマゾネスたちに命中した。ところが、身長が百八十センチから二メートル近くある彼女たちがまとう黄色い甲冑は、常人なら重くて動けなくなるほど分厚い鉄板でできていた。そのため、オクタヴィの繰り出した矢はことごとく跳ね返され、アマゾネスたちの進撃速度を下げることにはならなかった。ラウラは早々に弓矢戦をあきらめ、近接戦闘への移行を指示した。剣、槍、および竜の爪、牙による地上すれすれの高度からの攻撃である。マヤは小剣を、ラウラは普通の長剣を腰の鞘から抜き、オクタヴィは槍を構えた。

 ラウラの号令一下、三匹の竜は一糸乱れぬ見事なコンビネーションでアマゾネス隊の隊列の先頭に突入し、そのうちの数人にダメージを与えることに成功した。弓矢や投擲槍による敵の反撃は、装備したばかりの装甲が弾いてくれた。敵の足並みがわずかではあったが乱れ始めた。

 そのときマヤは、敵の黄色い隊列の中にモーラの姿を発見した。敵の指揮官を狙うのは戦(いくさ)の定石である。数カ月前、デイン砦近郊の森で彼女に助けてもらった恩があるものの、この場面ではそうも言ってられない。いまモーラをガードしているアマゾネスたちは、地上の敵に気を取られている。一方、ラウラとオクタヴィの乗る緋色の竜は、先ほどの突入の影響でピムから少し離れた位置にある。陣形を組み直している暇はない。単独でもいますぐに攻撃をかけないと!

 マヤの様子に気づいたラウラとオクタヴィが身ぶりでマヤに自重するよう求めたが、無駄だった。マヤは、数カ月前、崖の上からやったのと同じように小剣を構え、モーラ目掛けてピムを突入させた。

 果たして、モーラはマヤの小剣を寸でのところでかわしてしまった。そればかりか、ピムが自分のすぐそばを通り過ぎた時、振り向きざまに愛用の長槍を投げ付けてきたのである。普通なら、装甲に覆われているピムの体を槍で刺し貫くことは容易ではない。しかしモーラは、マヤより二、三歳年上に過ぎないのに一隊の隊長を任されるほどの女戦士である。そんな彼女にとって、槍を装甲の隙間に命中させるのはさほど難しいことではなかった。

 ピムの受けたダメージは甚大だった。マヤのコントロールを全く受け付けてくれなくなったのである。ピムは大通りの路面に激しく墜落し、その拍子にマヤはピムの背中から振り落とされた。彼女にとって幸いだったのは、ピムが低空から墜落したため、墜落の衝撃はあまり強くなく、結果、彼女自身は軽い打撲程度の怪我ですんだことである。

 マヤは痛みをこらえながら状況を確認した。アマゾネス隊の黄色い隊列から数十メートルほど離れた地点に墜落したらしい。隊列の中から、モーラが敵味方の兵をかき分けるようにしてマヤに近付いてくるのが見える。マヤは小剣を手に取ってよろよろと立ち上がった。すると、モーラはマヤとの間に数メートルの距離を置いて立ち止まり

「おまえはマヤだな。東洋に帰らなかったのか」

 と言った。

 マヤは「あたしにはこの世界に帰る場所なんてない」と叫んだ。

「そうか」モーラは腰から短剣を抜いた。「では仕方がない。俺がおまえを、すべての人の魂が帰るべき場所、黄泉(よみ)の国へ送ってやろう」

 モーラの瞳は獲物を狙うハゲタカのように鋭い光を放った。以前、森の中でマヤと立ち会った時の余裕に満ちた瞳とは全く異なっていた。マヤに本気でかかってくるつもりなのは明らかだった。マヤは剣を構え、持てるすべての力をその手に込めた。

 モーラは短剣を繰り出した。その剣筋はあまりに速く、マヤの目にとらえることはできなかった。絶体絶命だった。

 と、その瞬間。

 建物の影から何か白いものが飛び出してきてマヤの目の前に立ちふさがり、モーラの剣を受け止めた。マヤが唖然としている間に、その白いものは更に二度、三度とモーラの繰り出す剣を受け止めた。よく見ると、その白いものは騎士装束を着た男の背中だったのである。

「よう、マヤ」

 男は振り返らずにそう言った。しかし、その声はマヤの聞き慣れた声だった。

「ジュート……」

 ジュートはその後も、自らの長剣で三回、四回とモーラの短剣を受けた。

 やがてモーラは剣を引き、数歩引き下がった。

 ジュートはモーラに向かって「おい、まさかこれっぽっちの戦力でエランが陥(お)とせるなんて、本気で思ってる訳じゃないだろう」と言った。

 モーラは応える代わりに剣を構え直し、無言のまま再びジュートに襲いかかった。

 ジュートはまたもモーラの剣を受けとめたばかりか、モーラに話しかける余裕すら見せた。「こんなところでやけくそ攻撃なんか仕掛けてる暇は、おまえたちにはないんじゃないのか。この間のギール戦でハバリア軍が戦力を使い果たしちまったってことは、こっちもお見通しなんだぜ」

 マヤはジュートの強さを初めて知った。今まで彼のことをにやけ顔のお調子者としか思わなかった。彼が騎士としてどの程度の者なのかなどとは考えたこともなかった。軍隊に入ってからこれまで数ヶ月間、剣を扱う練習をずっとやってきたマヤにも、少しは剣を見る目がある。ジュートが相当な剣の使い手だということは疑いようがなかった。

 モーラは最後に渾身の力を込めて短剣を繰り出した。それがまたもジュートに受け止められると、彼女は諦めたようにゆっくりと後ずさった。彼女の瞳はもう鋭い光を放ってはいなかった。

 マヤは今一度、辺りを見回してみた。アマゾネス隊は王宮北門の少し手前でエラーニア軍の騎士たちに進撃を阻まれ、先ほどまで一枚岩だった隊列もバラバラになりかけていた。

 モーラはマヤたちに、満足と自嘲の入り交じった微笑みを投げかけてから、隊列のほうへ戻っていった。彼女がハバリア語で何か叫ぶと、アマゾネス隊は進路を反転させ、北の方向へ撤退を始めた。

 ジュートはそれを見届けた後、マヤの肩を抱き

「ちょっと遅くなっちまったが、まあ、お姫さまを守る英雄ってのは土壇場に現れるって相場は決まってるからな。どうだ?なかなかかっこ良かったろ?」

 と、相変わらずの軽口をたたいた。

 ところがマヤは、ジュートと目を合わそうとしなかったばかりか、彼の手を振りほどいてしまった。

 ジュートは怪訝そうな表情で「どうしたんだ、マヤ?」と尋ねた。

 マヤは「ごめん。ジュートの手が傷に触れて痛かったの」と嘘を言った。

 ジュートは珍しく「そ、そうか。そりゃ悪かった」と謝った。

 するとマヤは

「ずっと言い忘れてたけど、ルーミアも一緒にエランに来てるの。お願い、彼女に会ってあげて」

 と言い残し、墜落の衝撃で動けなくなっているピムのほうへ歩き去った。

 ジュートはマヤを追いかけることができなかった。彼女の背中がついてこないでと訴えているように見えたからである。





 その夜遅く、マヤはカスリン通りにほど近いナターシャの部屋を訪ねていた。

「そう、そんなことがあったの?」ナターシャは、赤ん坊のように胸にすがりついてくるマヤの頭を撫でながら言った。「辛かったのね、妹の好きな人を横取りしてしまったことが。それをずっと隠していたことが」

 マヤは言った。「あたし、ルーミアのいる部屋には帰りたくない……」

「じゃあ、今晩はここに泊まってゆきなさい」ナターシャは、優しく、妖しく微笑んだ。「マヤが打ち明けてくれたお返しに、あたしもマヤに秘密を打ち明けるわ。ハバリアでは人が名乗る時、名字が先で名前があと、しかも女の人は、名字の最後に a を付けることになっているの。そしてあたしがこのあいだ名乗ったリュコー(Liukow)という名字は、ハバリア人の名字、リュコフ(Liukov)をエラン語ふうに読んだものなの。あたしの本当の名前はリュコワ(Liukova)・ナターシャよ」







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