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紅の装甲竜騎兵
作:YZA

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6 ファクティム




 妹ルーミアと共にファクティムにやってきたマヤ・クフールツが、一人前の竜騎兵なるまでには、いくつかの「試練」を乗り越える必要があった。

 実際のところ、マヤは山矢健太だったとき一介の高校生でしかなかったわけだし、また、竜騎兵への入隊も、竜の操縦テクニックが生かせそうだという安易な動機と、何となくヤグソフとやらに近づけそうだという漠然とした目的があったからに過ぎない。しかし言うまでもなく、彼女はこれから軍隊に入隊しようとしているのである。アクロバット飛行競技選手だったころは、飛行テクニックを磨きさえすればコーチや周りの人間が「ちやほや」してくれた、という面がないではなかった。そのうえ、彼女はそれまでアルバイトすらやったことがなかった。やや大袈裟な言い方かもしれないが、彼女の前には竜騎兵以前に、軍隊以前に、「世間」という壁が立ちはだかったのだった。それが彼女にとっての第一の試練だった。

 上空からファクティム城を見下ろすと、城壁の内側にだだっ広い空き地のような場所があった。マヤはそれがいわば「竜のためのヘリポート」なのだろうと判断し、ピムをそこへ降下させた(後で聞いたことだが、そのような場所のことをこの世界では単に飛行場と言うらしい)。すぐさま背の低い、恐ろしく無愛想な中年男がやってきて、竜を待機させておくスペース──駐竜場──を指さし、ピムを移動するよう命じた。マヤは言われた通りにした後、これから自分はどこへゆけばよいのかとその男に尋ねた。ところが男はあからさまに面倒臭そうな顔をして城の建物の入口を顎で指し示しただけだった。マヤとルーミアは小声で礼を述べてから、不安をうち消し合うようにぴったりとお互いの肩を寄せて入口のほうへ歩いていった。

 入口の前に立つ兵士には入口横の詰め所へ行くよう言われ、詰め所では文官と思しき男に入隊書類の提出を求められた。書類を提出した後、今度は椅子以外何もない個室に案内され、しばらく待つよう言われた。一時間近く経ってからやっと、これまた愛想のない中年の女官が現れた。彼女は自分の仕事の忙しさについてぶつぶつと不平をこぼしながら、二人を城のずっと奥のほうにある部屋へ連れてきた。部屋は二段ベッドが一つ置かれただけの粗末な二人部屋だった。女官は「この部屋があんたたちの部屋だ」と言って、しかめっ面のまま足早に去っていた。

 マヤは不安で一杯の胸をおさえながらルーミアと顔を見合わせた。するとルーミアはちょっと苦笑いをして肩をすくめて見せた。「世間」ってこんなものよ──マヤは妹のその仕草がそんな意味合いを帯びているような気がした。ルーミアはすでに白魔道師として働いているのだから、たとえ年下でも、社会人としてはマヤより先輩ということになる。マヤはようやく、自分はクラブ活動のためにここに来たわけではないのだということを思い知った。

 第二の試練──それを試練と呼ぶべきかどうかは別として──はそのあとすぐに訪れた。先ほどの女官が一抱えほどの大きさの箱を持って戻ってきて「これからすぐに入隊式がある。この箱の中に制服が一着入っているからそれに着替えて中庭へ向かえ」と言ったのである。

 マヤは息つく暇さえない慌ただしさを嘆きながらも、受け取った箱を開き、中に入っている服を広げてみた。

「これが制服……」

 彼女はしばし絶句した。それは確かに、軍人が公式の場で着るような制服だった。かつてアメリカに住んでいたとき、ニュースや、軍隊を舞台にした映画の中で何度も見たことがある。問題なのはその制服のうち、上半身に着るブレザーの腰の部分がくびれていることと、下半身に穿(は)くものが二股に分かれていない──つまりズボンではない──ということだった。そう、それはれっきとした女物の制服だったのである。当然と言えば当然なのだが。

 とはいえ、いつまでも絶句しているわけにはいかなかった。何事も初めが肝心、入隊式に遅刻するなどもってのほかである。女官が「サイズは大丈夫そうだね」と言って部屋を出て行った後、マヤは意を決してその制服を身につけ始めた。

 ルーミアの手助けもあって、予想外に手際よく身につけることができたことはできたのだが、いかんせんマヤはスカートを穿(は)き慣れていない。ましてやそれは、以前一度だけ着てみたワンピースと違い、丈が膝上までしかないタイトスカートなのである。そのうえ靴までパンプスとくれば、マヤにしてみれば、わざと自分を歩きにくくさせて面白がっているのではないか、などと思ってみたくもなる。

 幸いにして、靴のヒールはそれほど高くなかった。マヤはルーミアに支えられながら部屋を出、足取りを確かめるように一歩一歩、廊下を踏みしめた。タイトスカートに邪魔をされて今までのように大股には歩けなかったものの、歩いているうちに、一歩を小さく取り足を素早く動かして歩くというコツを、すぐにつかむことができた。実際、それまでのマヤは、肉体や言葉遣いの女っぽさとは対照的に、仕草や振舞いはお世辞にも女性的とは言えなかった。しかしいまタイトスカートとパンプスをはいて小股に歩くマヤは、ルーミアが見る限り、ごく普通の、女性らしい女性だった。ちなみにルーミアには制服は与えられなかった。彼女はマヤの従者としてファクティムに来たに過ぎないのだから、正規の兵士と異なる扱いを受けるのはやむをえないことだった。

 二人は廊下で人と出会うたびに道案内を乞いつつ、二十分もの時間を費やして、やっとの思いで中庭に辿り着いた。そこに待ち受けていた第三の試練は、マヤも今までに何度か経験したことのある、比較的ありふれた試練──すなわち人間関係──だった。

 意外にも、中庭には数名の人間がたたずんでいるだけだった。「入隊式」と聞いて学校の入学式のような規模を想像していたマヤは、拍子抜けすると同時に、心の中にわだかまっていた不安感が少し薄らぐのを覚えた。

 中庭の中央に突っ立っていた三名はマヤと同じ制服を着た女性だった。一人は背が高くて肌の浅黒い女、一人は色白でほっそりした女、もう一人はやや背の低い女だった。マヤは彼女たちに見覚えがあった。なぜなら彼女たちは、半月前、マヤがファクティム城から脱出した際にピムを追いかけてきた竜騎兵たちだったからである。一時的にせよ敵だった者たちを同僚としなければならないとは皮肉なものだが、マヤは意を決して彼女たちのほうへ歩み寄り、できるだけ愛想の良い笑顔で話しかけようとした。

 しかし、マヤが近づいてくるのに気づいた途端、竜騎兵たちのうちの一人、背の高い女がいきなり

「整列せよーっ!」

 と叫んだのだった。ハスキーだがとてもよく通る声だった。

 すると、色白の女と背の低い女がマヤのほうを向いて横一列に並び、直立不動の姿勢をとった。一方、いま叫んだ背の高い女はマヤに背を向け、並んだ二名の前に立ってこれまた直立のまま微動だにしなくなった。

 突然のことだったので、マヤは驚きのあまり足を止めてしまった。マヤに背を向けている女は、目が後ろについているかのように、振り向くことなくマヤの様子を察知し

「見習い竜騎兵マヤ・クフールツ。直ちに整列せよ」

 と言った。今度は静かな口調だった。

 マヤは不安で不安で仕方なかったが、取り敢えず言われたとおり、すでに並んでいる二名の横に立って「気をつけ」をした。

「入隊式」はまず隊長──状況から判断して背の高い女が隊長であることは間違いなさそうだった──に対する敬礼で始まった。次に隊長が、本日付けで新たな隊員が着任する旨を、たった二人、マヤを含めても三人しかいない隊員たちに報告した。続いて隊長は新入隊員マヤに自己紹介を命じてきた。マヤはぎこちなく簡単な自己紹介をしたが、隊員たちはみな、とても無愛想だった。

 マヤは不安の極致に達していた。もしかしたら東洋人の自分はあまり歓迎されていないのだろうかと思った。それともこの間、ピムに撃墜されたことを恨んでいるのだろうか。中庭の隅で入隊式の様子を見守っているルーミアのほうに目をやると、彼女も心配そうにこちらを見つめている。マヤは、安易に軍隊への入隊を決めてしまったことを、すでに後悔し始めていた。

 隊長は最後に「以上で入隊式を終わる」と言った。マヤはその場に居づらかったので、とにかくルーミアのもとへ向かうことにした。彼女なら自分のこの不安を少しでも和らげてくれるだろうと思ったからである。

 ところが。

 マヤが足を一歩踏み出そうとした途端、三人の竜騎兵たちは声を上げて笑い出した。マヤは自分が何かとんでもない間違いを犯したような気がして、不安げな表情で彼女たちの顔色をうかがった。

 するとだしぬけに、隊長が馴れ馴れしくマヤの肩を抱きしめ

「いやあ、すまんすまん」

 と言ったのだった。

「新入隊員をこうやって『歓迎』するのがこのファクティム竜騎兵隊のしきたりなんだよ」

「びっくりした?」背の低い竜騎兵が言葉を続けた。「あたしも二年前に入隊したときは不安で不安で泣きそうになったわ」

「心配しなくても大丈夫ですわよ」色白でほっそりした竜騎兵が言い足した。「わたくしたち歳は離れておりますけど、いつも友達みたいに和気あいあいとやっておりますから」

 再び隊長が言った。「軍隊って言っても、竜を自由に操れる能力を持った女なんてそうたくさんはいないから、それなりに戦果さえ挙げていれば、軍のお偉いさんたちも、あたしたちに規律だとか秩序だとかそんなものを求めたりはしないのさ。気楽なもんだぜ」

 マヤはそこでようやく笑顔を取り戻すことができた。

 隊長はマヤの笑顔を確認すると

「あたしはラウラ・アガリカ。ラウラって呼べよ。『隊長』なんて堅っ苦しい呼び方で呼びやがったら承知しねえからな」

 と自己紹介し、ガハガハ笑いながらマヤの体をぎゅうぎゅう抱きしめた。彼女はたぶんマヤより十才は年上だろう。姉御肌という言葉がぴったりの女性だった。

 次に背の低い女が「あたしはサーラ・フィングステンよ」と、あどけない笑顔で言った。よく見ると彼女は、マヤよりも二つほど年下と思しき、幼い顔立ちをした少女だった。

 続いて色白の女が「わたくしはオクタヴィ・アドレアーヌと申します」と言って、こちらは上品で清楚な微笑みをたたえた。口調がおっとりしていたため彼女が何歳ぐらいなのかわかりづらかったが、おそらく二十才前後だろうと思われた。

「さて」隊長は大きな手でマヤの背中をどんと叩き、言った。「こんなしゃっちょこばった制服なんかとっとと脱いじまって、早いとこ飛行服に着替えようぜ。着替え終わったらすぐに飛行訓練だ。この間、あたしたちプロの竜騎兵を撃墜したあの飛行テクニック、さっそく見せてくれよ」





 それから一週間、マヤは毎日、竜騎兵としての訓練に明け暮れた。

 彼女の飛行技術が他の隊員と比べてもずば抜けいるのは確かだったが、彼女の乗る竜が軍隊の一部として機能するには、やはり習得しなければならないことがいくつもあった──城から上がる狼煙(のろし)の意味、同僚の竜騎兵が竜の体を使って送る合図の意味、編隊の基本的な陣形、所属不明の竜が飛行している場合どう扱うか、などなど。またラウラ隊長は、マヤに弓や剣術の訓練も課した。竜騎兵は竜を武器として使うだけでなく、自分自身が武器を持って戦わなければならないときもあるのだという。お陰でマヤは朝起きてから夜寝るまでほとんど休む間もなかった。

 もっとも、それは彼女も覚悟の上だったので、辛くて耐えられないと思うようなことはなかった。むしろ彼女を悩ませたのは、竜で飛行する時に必ず着用することになっている飛行服だった。なぜなら飛行服は、いわゆる全身レオタードのように、布が体にぴったり張り付くデザインだったからである。最初のうち、男性兵士たちがすれ違いざまに彼女の体のラインをなめまわすように見つめるたびに、彼女はそれこそ顔から火が出そうなほど恥ずかしい思いをしたのだった。もっとも、空中で余分な布が風の抵抗を受けないという意味では、確かに飛行するのに最も適したデザインではあった。

 一方、ルーミアはあまりやることがなかった。実戦に出ない限り、彼女の白魔法が威力を発揮することはないのだから無理からぬことではあった。彼女は仕方なく、マヤの身の回りの世話をしたりして過ごした。たまには魔法で他の竜騎兵や城に勤務する者たちの軽い怪我や病気を治療してあげたりすることもあった。

 マヤはどの隊員ともうまくつきあっていたが、一番仲良くなれたのは、サーラという名の背の低い竜騎兵だった。彼女に親しみを覚えたのは、やはり彼女がまだ十四才ということで、歳が比較的近かったからであろう。彼女は毎夜、マヤにとって唯一の自由時間と言える就寝直前の時刻に、マヤの部屋におしゃべりをしに来た。そうしているうちに、サーラはマヤだけではなくルーミアとも仲が良くなった。ルーミアも彼女を妹のように可愛がった。

 サーラはおしゃべりが大好きな娘(こ)だった。本当にいろいろな話をしてくれた。いまエラーニア王国はハバリア帝国竜騎兵隊に制空権を奪われており窮地に立たされている、といった軍事情勢から、自分はもうすぐ二年間の出征義務を終え故郷に帰ることができる、故郷で自分を待っている彼氏と再会できるのが楽しみだ、といったプライベートなことまで、ざっくばらんに話した。

「ねえ、マヤ、ルーミア。あなたたちにも彼氏はいるんでしょ?彼氏とはどこまで進んでいるの?あたしの彼なんか、出征前、キスしかしてくれなかったのよ」

 マヤとルーミアはびっくりして異口同音に「それって二年前の話でしょ?」と訊き返した。

「ええ、そうよ。十二才の時の話」

 それを聞いて、マヤは相良美玖との関係を、ルーミアはジュートの関係を思い起こし、自分がいかに奥手だったかを反省するはめになった。

 マヤにとっての次なる試練は「予兆」と「本番」という二つの部分から成り立っていた。その「予兆」が訪れたのは、入隊してから一週間後の朝のことだった。

 いつものようにマヤが訓練のために「飛行場」に顔を出すと、そこには背の高いラウラ隊長と背の低いサーラの姿はあったが、もう一人、色白でほっそりしたオクタヴィという隊員が来ていなかった。

 折り目正しく几帳面な性格の彼女が単に寝坊して遅刻するとは思えなかったので、マヤはサーラに

「オクタヴィはどうしたの?」

 と尋ねた。

 するとサーラは珍しくぶっきらぼうに

「たぶん女の子の日」

 と答えた。

 そのアウスグ語の意味が全く分からなかったマヤは、しばらく考えた後、サーラにその意味を訊き返そうとした。ところが、その日たまたまマヤと一緒に飛行場に来ていたルーミアが、慌ててマヤとサーラの間に割り込んだ。マヤはますます訳がわからなくなってしまったが、ちょうどそのときラウラ隊長の「訓練を始めるぞ」という声がしたため、ルーミアにもサーラにも説明を求めることはできなかった。

 ルーミアのその行動の意味が理解できたのは、その日の夜だった。おしゃべりに来ていたサーラがマヤたちの部屋を去った後、ベッドに潜り込もうとしたマヤをルーミアが、話があると言って呼び止めたのである。

「お姉ちゃん、最近、体の調子がどこかおかしい、なんてことはない?特にお腹のあたりとか……」

 マヤはそう言われてやっと、かつて学校の保健の授業で習った、女性特有の現象のことを思い出した。

 ルーミアは、マヤは生理についての漠然とした知識を持っているようだと判断し、敢えてやや医学的な側面から説明してあげることにした。

「月経周期は普通、二十八日から三十五日ぐらい、そして周期の長い短いに関係なく、次回月経開始予定日の約二週前に排卵があるの。つまり月経周期が長い人は月経開始日から次の排卵までの期間が長く、短い人はその逆ってことになるわけね。もちろん女の体は機械じゃないから、周期が長くなったり短くなったりすることもあるわ。

 それと、何か重要なことが予定されている日と月経日が重ならないように魔法である程度遅らせることはできる。もっともあまりやりすぎると体に良くないけど。

 でね、お姉ちゃんは不動の術を解かれてからそろそろ一ヶ月経つでしょ?男の魂から女の体を再生したお姉ちゃんのような場合どうなるのかよくわからないけど……いろいろと精神的なストレスもあったから多少遅れても不思議はないと思う」

 マヤはその話を聞いてやるせない気持ちになった。とはいえ、それは女である以上避けることのできない運命なのである。ルーミアだってサーラだってオクタヴィだって、おそらくラウラ隊長だってみんな経験していることなのである。マヤは覚悟を決め、すでに何回も経験しているであろう妹に、実際にそれが起こった場合どうすればよいのか尋ねた。するとルーミアは生理用ナプキンの使い方を懇切丁寧に教えてくれた。もちろんこの世界では吸水性ポリマーなどという化学物質の合成方法は発見されていない。ナプキンは当然、布製であり、それを煮沸(しゃふつ)消毒して何度も使うのだという。





 その次の試練は、先ほどの試練の「本番」と渾然一体となって現れた。マヤがファクティムに着任してからちょうど二週間後に訪れたその試練は、彼女の人生の中で最も重苦しい記憶の一つとして残ることになる、重大な試練だった。

 それまでの間、マヤたちファクティム竜騎兵隊は相変わらず訓練の毎日だった。そもそもこの竜騎兵隊は前線から遠く離れたところに駐留する、いわば予備部隊に過ぎない。いくらエラーニアの防空網が弱体化して穴だらけだと言っても、こんな南の地方にまで敵の竜騎兵が飛んでくることはさすがに困難だし、またそんな危険を冒すメリットも通常はなかったのである。

「もっとも」ラウラ隊長は言った。「またヤグソフ四姉妹のニーナがこの間のように防空網を突破してくる可能性はあるな」

 彼女をはじめ竜騎兵隊の面々は、先日、ニーナたちがアヴニ村上空に来襲した際、自分たちが駆けつける前に、当時民間人だったマヤが撃退してしまったことも、ニーナたちの目的が男の竜騎兵を見つけることだったということも、マヤからの報告を受けて知っていた。しかしラウラ隊長にも他の竜騎兵隊員にも、マヤが一番知りたいと思っていること──ニーナたちが男の竜騎兵を見つけてどうするつもりなのか──はわからないらしかった。

 「試練」が訪れることになるその日の朝、ラウラ隊長は訓練の開始時刻に飛行服姿ではなく、ゆったりとしたズボンをはいて飛行場に現れた。マヤはもうその理由を誰かに尋ねたりはしなかった。全身レオタードのようなあの飛行服の下にナプキンを付けるのは無理がある。仮にできたとしても、激しく体を動かさなければならない飛行訓練に参加するのは困難だろう。

 案の定、隊長はその日の訓練では竜に乗らず、地上から指示を与えるだけだった。

 空中で、サーラは自分の竜を、マヤの操るピムに寄せ

「なんか訓練に身が入らないわね」

 と言って苦笑した。

 隊長みずからが陣頭で指揮を執(と)るのと執らないのとでは、士気に差が生じるのもやむをえない、とマヤは思った。

「ラウラあってのファクティム竜騎兵隊だもんね」

 マヤがそう応えると、オクタヴィも竜を近づけてきて冗談交じりに

「これが実戦でなく訓練でよかったですわね。もしいま敵が攻めてきたりしたら、なんて思うとぞっとしますわ」

 と言った。

 ところが、オクタヴィのその悲観的な推測は見事に現実のものになってしまったのである。

「所属不明の竜の編隊を発見!」

 物見の塔の頂上で上空を監視していた兵の叫び声と共に、ファクティム城に臨戦態勢がしかれ、ただちに竜騎兵隊にスクランブル指令が下された。

 このような非常事態においては、たとえ生理中であってもラウラ隊長が指揮を執らねばならないのだが、そのとき彼女はたまたま飛行場にいなかった。自室のトイレかどこかでナプキンを換えているのかもしれない。そこで竜騎兵隊の指揮は一時的に年長のオクタヴィの手に委ねられることになった。

「いきますわよ」

 彼女のかけ声を合図に、ファクティム竜騎兵隊は、所属不明の竜の編隊が発見されたという東の方向へと飛び立った。

 ファクティム東方の上空を漂っていたのは、七匹からなる編隊だった。マヤはすぐ、それらの竜が、先日アヴニ村上空で接触した竜と同じ装甲を身にまとっていることに気づいた。操縦する竜騎兵たちもそのときと同じ飛行服を着ている。しかも編隊の指揮官と思しき人物もまた、先日と同様、薄緑色の派手な飛行服に身を包んでいた。ヤグソフ四姉妹の末妹、少女竜騎兵ニーナに間違いなかった。

 前回と違っていたのは、マヤが近づいてくるのを察知しても、相手の竜騎兵たちはわざわざ包囲して身分を確かめたりはしなかった、という点である。つまり、いきなり攻撃態勢をとったのだった。今回、マヤの乗るピムはエラーニア王国軍の紋章を首に付けている。しかも同じ紋章を付けた竜を二匹従えている。相手から見ればマヤたちが敵国エラーニアの正規軍であることは一目瞭然だったのである。

 空中戦が始まった。とはいえ相手は精鋭装甲竜騎兵、こちらは実戦の機会の少ない予備部隊、数的にも半分以下で、おまけに隊長不在。これでは最初から勝負にならなかった。

 臨時指揮官オクタヴィはすぐさま撤退を指示した。こちらは装甲を付けていないぶん身軽なので逃げ切れると踏んだのである。しかし相手の竜たちは重い装甲を背負っているとは思えない速度でマヤたちの編隊に追いつき、一番後方を飛んでいたサーラの乗る竜にいっせいに襲いかかったのだった。

「サーラ!」

 マヤは叫び声をあげながら、直ちにピムの体を、サーラの竜に取り付こうとしている敵の竜にぶつけた。ダメージこそ与えられなかったが、サーラを危機から救うのには十分だった。

「ありがとう、マヤ」

 サーラは竜の背中でそう叫び、小さく手を振った。

 その後もピムは健闘した。敵の放った矢が一本、体に突き刺さったのにもかかわらず、マヤの制御を失わなかったばかりか、敵の竜三匹にダメージを与え、うち二匹を戦闘不能に陥らせた。マヤの活躍に勇気づけられて、サーラとオクタヴィも反撃に転じ、マヤがダメージを与えた一匹を戦闘不能にまで至らしめるという戦果を挙げた。

 いまファクティム城からラウラ隊長の竜が遅ればせながら飛び立つのが見えた。これで四対四の互角となる。マヤたちは逃亡をやめて竜の向きを変えた。

 相手の装甲竜たちはそれでもひるむことなくマヤたちの前に立ちはだかった。ニーナに至ってはマヤに話しかけるほどの余裕を見せた。

「おまえは、この間アヴニ村上空で我らと戦った女だな。竜騎兵隊に入っていたとはな」

 マヤは彼女を睨み付け

「あなたたち、また男の竜騎兵を捜しているのね。男の竜騎兵を見つけて一体どうするつもりなの!?」

 と声を張り上げた。

 ニーナは応えた。「敵であるおまえにそんなことを喋ってしまうほど我はお人好しではない。が、今日のところはひきあげることとしよう。戦力を失いすぎた。もっとも……」彼女はそこで不敵な笑みを浮かべ、部下の竜騎兵たちに目配せをした。「手ぶらで帰るわけにも行かないので、一つだけ戦果を挙げさせていただく」

 その言葉が終わるか終わらないうちに、敵の装甲竜たちはいっせいに散開した。

「しまった!」

 マヤがそう思ったときにはもう遅かった。一旦散開した四匹の装甲竜たちはあっという間にサーラの乗った竜を上下左右から取り囲み、同時に攻撃を加えたのだった。

「きゃーっ!」

 サーラの口から金属を切り裂いたような声があがった。

 その次の瞬間の光景は、マヤの目にはスローモーションのように映った──敵の竜のふるった尻尾がサーラを直撃する。彼女は気を失い、空中に投げ出される。そしてダメージを受けた彼女の竜もろとも、彼女の体は重力に任せて落下を始める──

「サーラ!」

 マヤは叫び声をあげたがその声はサーラに届かなかった。

 すぐさまピムに、落下するサーラの体を追いかけるよう命じた。とはいえピムにはジェットエンジンがついているわけではない。自由落下以上の速度が出るはずないのである。マヤの視界の中でサーラの体はどんどん小さくなってゆき、やがてファクティム城近くの森の中へと消えた。

 そのときには、すでにニーナたちは北の空へ飛び去っており、またラウラ隊長の乗った竜もマヤたちのいた空域に到達していたが、マヤはそんなことには目もくれず、ピムにファクティム城へ帰還するよう命じた。そしてピムから飛び降りるや否や、自室にたたずむルーミアのもとを訪れ、乱暴にその手を引いてファクティムの城門を出、森へ向かい、サーラの落下地点まで彼女を連れてきた。マヤに命じられるまま、ルーミアは冷たくなったサーラの体の前で再生の術の呪文を唱えた。だが彼女の魂はすでにこの世になかった。

 マヤはその場でがっくりと膝をついた。悲しいのになぜか涙は出なかった。

 その日の昼以降、マヤは自室に閉じこもった。サーラの死にショックを受けたのはもちろんだが、それに追い打ちをかけるように、彼女にとって初めての生理が始まったからである。夜、ルーミアは再生の術で魔力を使いすぎたためいつもより早くベッドに入ってしまった。マヤは同僚を失った心の痛みと生理による下腹部の痛み、その両方に、たった一人で耐えなければならなかった。





 マヤが竜騎兵として一人前になるために乗り越えなければならなかった最後の試練、それは先ほどの試練と密接な関連があった。いや、マヤ自身が関連づけた、と言ってもよいかもしれない。

 ファクティムに来てから一ヶ月が経っていた。マヤはその日、正式に「竜騎兵」としての辞令を受けた。それまでの「見習い竜騎兵」という身分から昇進したのである。もちろん通常は一ヶ月で正規隊員になるなどということはできない。彼女の飛行技術が桁外れだったことに加え、慢性的な竜騎兵不足を補うための戦時特例措置による、例外的な昇進であった。

 エラン文字で書かれた辞令交付書を見つめているうちに、マヤは心がちくちくと痛むのを感じ始めた。本来なら自分が正規の竜騎兵に昇進するのと入れ替えに、サーラが出征義務を解かれ、故郷に帰ることができたのである。その心の痛みは悲しみによる痛みであったが、同時に、同僚を救えなかったことに対する自責の痛みでもあり、同僚を死に追いやった敵に対する、張り裂けそうな憎悪の痛みでもあった。

 日々の生活は、相変わらず飛行訓練の繰り返しだった。暇を持て余したルーミアは、二日間だけだったが、アヴニ村に帰省した。ファクティムからアヴニ村までは馬なら六時間、歩いても十二時間ほどの距離でしかない。彼女がマヤへの土産話を持って嬉しそうにファクティムに帰って来たのを見ると、マヤも養父が恋しくなった。アヴニ村へはピムにのってゆけばわずか三十分しかかからない。竜騎兵としての仕事に慣れたらそのうち休みを取って自分も一度帰省しよう、などと考え始めた。

 そんなある日、またも所属不明の竜の編隊が、ファクティム城を中心とするアウスゲント地方上空に姿を見せた、という報告が入った。

 当然の如く、ファクティム竜騎兵隊にスクランブル命令が下った。今回はラウラ隊長もオクタヴィ隊員もいつでも出撃できる体勢にあった。

「出撃!」

 隊長の号令一下、三匹の竜は大空へと舞い上がった。

 頬をなでる風が冷たかった。季節は初秋から中秋へと向かおうとしている。マヤはこちらの世界に来て初めて、季節の移り変わりを意識した。エラーニア王国は緯度の高い地域に位置し、しかもこのアウスゲント地方が高原になっているため、夏の間、さほど暑くなかったのである。もちろん、女になってしまったり竜騎兵隊に入隊したりと、矢継ぎ早にいろいろな事件が起こったため季節など感じている暇がなかった、というのが一番大きな理由ではあった。

 やがて、前方の空に、握り飯の上にふった黒ゴマのようなものが見えてきた。その数は前回と同じ、七つ。

 ラウラはそこでマヤとオクタヴィに一旦、竜の速度を落とすよう命じた。もし相手がこの前と同様、ニーナ率いる精鋭装甲竜騎兵だったとしたら、数的にも質的にもこちらが劣っていることになる。隊長としてしかるべき判断だった。

 マヤたちはしばらくの間、相手の出方をうかがった。しかし相手はこちらに向かってくることも、逆に遠ざかろうとすることもなく、マヤたちから見て左から右方向へ、ゆっくりとしたペースで飛行を続けている。目的地に向かっているというよりは、そこを飛行すること自体が目的のように見える。例えば何かを探しているときのように……。

 マヤは思った。あれがもしニーナたちだったとして、その目的が「男の竜騎兵」を探すことだったして、彼女たちは上空からどうやって一人の人間を見つけるつもりなのだろう。上空からでも特定の人物が見つけだせる何か特別な方法が彼女たちにはあるのだろうか。

 そのとき突然、マヤの視界の中で「黒ゴマ」の動きが慌ただしくなった。

「来るぞ!」

 ファクティム竜騎兵隊の中で一番視力のよいラウラが、真っ先に敵の動きの意味を察知し、そう叫んだ。

 先程まで黒ゴマほどの大きさだったものがあっという間に碁石ほどになった。大きくなるにつれ、マヤの目にもその一つ一つが、細部にいたるまで認識できるようになった。翼と胴体の一部、それと頭部全体を覆う装甲の形状は、やはり彼女にとって見覚えのあるものだった。そして横一列に並んだ七匹編隊の真ん中に位置する竜の背には、ひときわ目立つ薄緑色の衣装を身にまとった竜騎兵の姿があった。

「ニーナ……」

 マヤは歯ぎしりをしながらそう呟いた。たちまち彼女の全身が憎悪ではちきれそうになる。

 オクタヴィはマヤの様子にいち早く気づき

「マヤ、冷静にならなくてはいけませんわよ!」

 と声を張り上げた。

 マヤは何とか自制心を保とうとした。しかし、敵編隊の中央でニーナがにたにたとにやけているのが目に入った途端、彼女の憎悪は遂に爆発してしまったのだった。

「マヤ、よせ!」

 ラウラの制止する声は、もう彼女の耳には届かなかった。

 ピムは立て続けに三匹の敵を蹴散らした。これには敵だけではなく、味方であるラウラとオクタヴィさえも、驚愕せざるを得なかった。いや、驚愕というより恐怖と言ったほうがよいかもしれない。

 勢いづいたマヤは更に、ラウラとオクタヴィと共に、残りの四匹の敵のうち三匹に手傷を負わせた。それでも精鋭装甲竜騎兵たちは、苦痛を訴えもがく竜を巧みに操って、自ら楯となるべく、ニーナ隊長の乗る竜の周りにぴったり貼り付いた。しかしもはや大勢は決していた。

 ラウラ隊長の放った矢が敵の二匹の竜の腹に一本ずつ命中した。腹にダメージを喰らった二匹は撤退し、ついに隊長を守る「楯」は一枚となった。

 ラウラはマヤとオクタヴィに、残る二匹の敵竜をがっちり包囲させた後、ニーナともう一人の敵竜騎兵に捕虜になるよう勧告した。さすがのニーナも悔しさを表情ににじませた。

 と、その途端。

 いきなりもう一人の敵竜騎兵が、手負いの竜の背中からピムの背中へと跳び移ってきた。

 敵兵がこのような行動に出ることなど予想だにしていなかったマヤは、完全に不意を突かれた。敵兵はハバリア語で何か叫びながら、世にも恐ろしい形相でマヤの体に掴み掛かってきた。マヤは恐怖にかられ、それこそ無我夢中で敵の腕を降りほどこうとした。

 マヤが体を激しく揺さぶった拍子に、彼女を組み止めていた敵兵の腕がすぽっと外れた。敵兵はバランスを失ってピムの背中から転がり落ちた。

「あっ」

 マヤはそのとき初めて気づいた。敵の竜騎兵が、サーラとそれほど歳の違わない、あどけない少女だということに。

 敵兵の体は風にあおられたのか、一瞬ふわっと浮き上がったように見えたが、次の瞬間には自由落下を開始した。数秒後、その体が地面に激しくたたきつけられるのが、上空からでもはっきりと見てとれた。

 気が付くと、辺りにはラウラ隊長とオクタヴィの乗った竜と主を失った竜の姿しか見当たらなかった。ニーナはマヤが格闘している間にピムが制御不能になったのを見計らって包囲の輪を抜け、飛び去ったのだった。

 今、一陣の秋風が、さっきまで戦闘空域だった空を吹き抜け、激戦で火照ったマヤの体を撫でた。冷たかった。しかしマヤは、その秋風よりももっと冷たい、もっと空虚な何かが、自分の心の中にあるのを感じた。







7 ギール




「あ、雪」

 ルーミアは窓の外を見つめながら、マヤにとも、独り言ともなくそう言った。

 マヤは、部屋に設(しつら)えられた粗末なベッドに腰かけたまま、今まで往復させていた腕の動きを止め、ルーミアの言葉に誘われるように目を上げて、窓際に立つルーミアの肩越しにガラスの向こうの灰色の空を見上げ

「ほんと。どおりで寒いと思ったわ」

 と応えた。

 今は陽はさしていないが、晴れた日に太陽が南へ昇った時の高さから推測して、エラーニア王国が東京に比べるといくぶん高緯度にあることは確かだった。しかし、マヤが体感する限り、寒さはそれほど厳しくなかった。ほんの一瞬、この世界のこの地球が全体的に温暖なのだろうか、それともエラーニア地域だけが特別に暖かいのだろうか、という疑問が頭に浮かんだものの、彼女の関心はすぐに、科学の未発達なこの世界の住人は誰も答えられないようなそんな疑問から離れ、自分のひざの上に横たわって鈍い光を放っている一振りの小剣のほうに戻った。

 十秒ほどのあいだ途絶えていた乾いた音色が、また一定のリズムを刻み始めた。ルーミアが横目でちらっとマヤのほうを伺うと、案の定、マヤは砥石を小剣に擦り付ける作業を再開していた。

 ファクティム竜騎兵隊が最前線の町、ギールへの配置転換を命ぜられてから、まもなく二ヶ月が過ぎようとしていた。

 ファクティム城駐留軍の公式的なコメントによると、配置転換は、ファクティム上空において敵精鋭竜騎兵を二度も撃退したことが軍上層部に評価された結果だということだったが、ルーミアはそれとは別の噂話も耳にしていた──曰く「後方に予備部隊を置いておけるだけの余裕が、エラーニア軍にはもうないのだ」と。そして、得てしてそのような噂話のほうが信ぴょう性が高いということも彼女は心得ていた。

 この二ヶ月の間に、ルーミアがもう何度白魔法を使ったか知れない。もちろん名目上、彼女はマヤの従者という身分なので、マヤ以外の兵士の命を助ける義務はない。しかしそこは責任感の強い彼女のこと、死にかけている兵士を放っておくはずはなかった。そもそも従者などという制度は、古き良き騎士時代の名残りでしかなく、事実上、徴兵制が敷かれているに等しい現状ではそれほど意味はない。それ以前に、軍からもらえるなけなしの給料でわざわざ従者の食い扶持(ぶち)の面倒まで見てやろうなどと考える物好きは、上級将校はともかく、一般兵の中にはそう多くはいない。そのうえ彼女は、制服を着ていないことを除けば正規の軍属白魔導士と全く同じように振舞った。そのため、ギール城の兵士のほとんどは彼女が実は従者に過ぎないのだという事実を知らずにさえいた。

 ルーミアがこの前線の町の現実に戸惑いを見せたのは、着任早々、両腕と両脚が剣で切られたのではなく明かにもぎ取られた兵士がギール城に運ばれてきたのを見かけたその一瞬だけだった。次の瞬間にはもう、どこか遠足気分の抜けていなかったファクティム城での日々に別れを告げ、白魔導士としての職務を全うする覚悟ができていた。

 実際、彼女に命を救われて、その後戦闘に復帰できるまでになった兵士も数多くいた。生来、献身的な気質の持ち主である彼女のような人間にとって、そんな兵士たちの「ありがとう」の言葉こそが何にも代えがたい報酬だった。ファクティム城で暇を持て余し、マヤの従者になったことを少し後悔していたあの頃の自分が、ひどく怠惰な、愚かしい人間のように思えた。

 とは言え、辛いことも多かった。一般の患者と違い、兵士は命が助かるとまた戦場へ命をすり減らしに行ってしまうのである。「今日から戦列に復帰なんだ。ありがとう」と言って出撃した兵士が、その日の夕方、魂を完全に失った冷たい遺体となって帰って来た、などということもあった。

 それに、白魔力の使い過ぎからくる恒常的な疲労にも苛(さいな)まれた。精神的にも緊張状態が続き、たいした怪我でもないのに我れ先に応急処置を求めてくる若い男性兵士に対し、何度か大声を張り上げそうにもなった。それでも彼女が笑顔を保つことができたのは、彼女の精神力と、職務への責任感のなせる技としか言いようがなかった。

 しかしそんな彼女にも克服しきれない問題が一つだけあった。自分自身のことなら我慢すればよい。全くの他人ごとなら無視するか、適当にあしらえばよい。厄介なのはそのどちらにも属さない問題である。

 ルーミアはそこで、もう一度マヤのほうを振り返った。ギール城の片隅にあるこの薄暗くカビ臭い小部屋で、マヤの瞳と、彼女が研ぐ小剣の刃だけが異様な光を放っていた。

 二ヶ月前、マヤがファクティム城上空でヤグソフ四姉妹の末妹、ニーナの二度めの襲撃を撃退してルーミアの元に帰還した時、開口一番放った言葉は「敵兵を殺した」だった。さすがにそれからしばらく、マヤは少し元気がなかったが、二、三日後にはもう本来の彼女──同僚の竜騎兵だったサーラが死ぬより前の彼女──に戻ったように見えた。少なくともそのように振舞っていた。ルーミアはとりあえず安心すると同時に、姉が自分一人の力で困難を乗り越えられる強さを持っていることを心密かに賞賛していた。

 その後のギールへの配置転換により、マヤは度重なる出撃、自分は白魔法治療に追われることが多くなり、じっくり自分たちのことを話す余裕がなくなった。マヤたちファクティム竜騎兵隊に数日に一度の割りで夜間のスクランブル・ローテーション──敵竜騎兵の襲来に備え待機する当番──が回ってくる一方、城が夜襲を受けた時などは逆にルーミアが夜通し白魔法治療の仕事をこなすこともあったので、生活のペースもすれ違いがちだった。

 ところが最近、そんな毎日の中でふとマヤのほうに目をやると、彼女はいつも、今やっているように剣の刃を磨いたり、弓の手入れをしたりしているのだった。もちろん彼女が竜騎兵である以上、敵襲もなく待機当番でもない今のような空き時間に念入りに武具の手入れを行うのは当然のことである。 ルーミアが心配したのはむしろ、マヤが武器を見つめる瞳が、ほの暗い光を宿していることだった。

 ──本当は辛いんじゃないの?本当は恐いんじゃないの?──ルーミアはそう尋ねようとしたが、思いとどまった。姉はああ見えて繊細なところがある。自分が心配していることを打ち明ければ、却って心配させることになりかねない。だからこそ、四ヶ月前、自分の魔法のせいで彼女が女になってしまったことが判明した時にも、謝罪した以外、敢えて彼女を気づかう言葉をかけなかったのである。

 そうする代わりに、ルーミアは姉にもっと別の質問をすることを思いついた。

「ねえ、お姉ちゃん、今日は十二月七日よね?」

 マヤは、妹がちょっといたずらっぽい笑みを浮かべながら顔を覗き込むようにしてそう話しかけてきたのをちらっと見やり

「そうね」

 と応えただけで、すぐに視線を手もとの小剣に戻してしまった。それでもルーミアは笑顔を崩すことなく、更に

「じゃあ、ちょうど一週間後の十二月十四日が何の日だか知ってる?」

 と尋ねてきた。

「なんだっけ」

「あたしの十六回目の誕生日」

 マヤはやっと、砥石を往復させていた手を止め

「ああ、そうだったわね」

 と応えた。「確かずっと前、言葉のレッスンの中で一度、そんな話をしたわよね」

「うん、お姉ちゃんが十六歳になったばかりだって言うから、じゃああたしのより半年年上ねっていう話になったのよね。それであたしはマヤがお姉ちゃんになってくれたら嬉しいなって思ったの」

「あたしはお兄さんのつもりだったんだけどな」

 マヤはそう言って、ちょっと口元をほころばせた。ルーミアは、姉の笑顔を見るのはずいぶん久しぶりのような気がした。

「お姉ちゃんの誕生日は六月の何日なの?」

「あたしの誕生日は日付けの上では十二月四日よ」

「え?どういうこと?」

「こちらの世界と、あたしが元いた世界では、どうも日付けが半年ずれてるみたいなの。だから向こうでは、今は多分六月。あたしの誕生日の十二月四日は半年前ということになるわ」

「へえ、そうなの」

 その時不意に、マヤの脳裏にアクロバット飛行競技会の時の記憶がよみがえった。美玖の笑顔、弁当箱の入った巾着袋、赤い複葉機、青い秋空、そしてあの得体の知れないどす黒いもや。墜落してルーミアたちに助けられ、目を覚ましたのは一ヶ月後。更にそれから三ヶ月たって体の自由を得た時にはもう夏だったことから、日付けが半年ずれているのだろうという推論を導き出していたのである。それにしても、あの競技会の日がなんと昔に感じられることか。

 二年生になった美玖は今、どうしているのだろうか、ちゃんと部活には出ているだろうかなどと思いを巡らせたい衝動をぐっとこらえ、マヤはルーミアとの会話を続けることにした。

「ルーミアが十六才になるってことは、あたしはもうルーミアのお姉ちゃんじゃなくなってしまうってことよね」

「だめ」ルーミアはわざとだだっ子のように首を振った。「誕生日が半年しか違わなくてもでもお姉ちゃんはお姉ちゃん」

「もう、ルーミアったら。どうしてもあたしをお姉ちゃんにしたいのね」マヤは笑いながら、大げさに肩をすくめてみせた。「年上の女の人なら、同じ隊のラウラ隊長もいるし、オクタヴィだって、ほらこの間、ファクティム城で二十歳の誕生日を迎えたでしょ」

 そう、このギールへ配置転換になる前、まだサーラが生きていた頃、ファクティム城でささやかながらオクタヴィの誕生パーティーが開かれたのである。マヤは「こちらの世界にもケーキを作ったり、プレゼントを渡したりしてお祝いする習慣があるのね」などと驚きつつも、とても楽しそうにしていたのだった。

 ルーミアは

「お姉ちゃんはちゃんとあたしのお父さんの養女になったんだから名実共にあたしのお姉ちゃんでしょ。それに、もしそうでなかったとしても、やっぱりあたしのお姉ちゃんはマヤじゃないとだめ」

 と応えながら、のどかだったファクティム城での日々と、誕生パーティーなど望むべくもないこのギールでの生活とのギャップを、改めて実感した。そして半年後、姉が次に誕生日を迎える時には、誕生パーティーを開いてあげられるような状況下に自分たちがいられればいいなと思った。

 しかし、目の前の現実は過酷だった。

 マヤが次に「ねえ、ルーミア……」と言いかけた瞬間、城内にけたたましい鐘の音とともに

「敵襲!敵襲!」

 という怒鳴り声が響いたのである。

 マヤはもうほとんど反射運動のように、鐘が鳴り始めた次の瞬間には立ち上がって、壁にかけてある防寒着を手にとり、その次の瞬間には袖に腕を通し終え、部屋の扉を開いていた。そして、小剣を素早く、しかし丁寧に腰の鞘に納めた後、ルーミアに一瞥(いちべつ)もくれることなく廊下を走り去った。

 ルーミアはそれを見届けてから、今までこの部屋を支配していた暖かい雰囲気が消えゆくのを惜しみつつ、てきぱきと身支度をし、自らの持ち場である医務室へ向かうため、部屋をあとにした。



 ラウラ隊長の号令の下(もと)、マヤがギール城の駐竜場から、雪のちらつく灰色の空へとピムを上昇させた後、辺りを見回してみると、ギール北側の平原とその上空はただならぬ気配に満ち溢れていた。ギールに着任して間もない頃、敵の大軍が押し寄せてきて城壁の一部が破壊されるほどの苦戦を強いられたことがあったが、今、目の前にいる敵の数は、どう見てもその時の倍近いと思われたからである。

  数だけではなかった。ひときわ視力のよいラウラ隊長が、腕信号──旗を使わない手旗信号のようなもの──で伝えてきたところによれば、敵の主力部隊はハバリア皇帝直属である近衛(このえ)師団の団旗を掲げており、さらにその先鋒隊はヤグソフ四姉妹の一人、モーラに率いられた精鋭アマゾネス(女怪力兵)の一隊らしいというのである。敵がギールを本気で陥(お)とし入れるつもりなのは明らかだった。

 ギールを守るエラーニア側の兵は誰もが戦慄を禁じ得なかった。

 しかしだからと言って、敵がこちらの戦慄がおさまるのをじっと待っていてくれるはずはなかった。敵竜騎兵隊がギール側の警戒空域に突入してきたのを合図に、激戦の火蓋が切って落とされた。

 戦いの焦点は、制空権にあった。いくら敵が大軍といえど、何百年もの間、敵国の兵や蛮族の攻撃を跳ね返してきたこの堅牢なギール城は、包囲されてもそう簡単に攻めとられることはない。だがもし制空権を奪われれば、水や食料などの補給物資を空から供給することができなくなってしまうのである。

 当然、敵はかなりの数の竜騎兵を投入してきた。マヤたちはそれこそ死に物狂いで応戦したが、それにも限界があった。同じ隊のオクタヴィをはじめ、多くの竜騎兵が手傷を負って戦列からの離脱を余儀なくされた。気が付けば、まともに戦えるのはマヤと、ラウラと、ギールに配属されているただ一つの装甲竜騎兵隊、エメンツ装甲竜騎兵隊だけになっていた。

 ありがたいことに、エメンツ隊が獅子奮迅の活躍をして敵の主力装甲竜騎兵隊に大ダメージを与えてくれ、またエラーニア王宮にある軍上層部が、王都エランの守りが手薄になることを承知で、最精鋭装甲竜騎兵の一隊を一時的にギール戦線に回すという大英断を下してくれたため、寸でのところで制空権を奪われずにすんだ。

 制空権の奪取に失敗した敵軍は、力押しによる迅速なギール城攻略を一旦諦め、長期的な攻城戦へ移行すべしと判断したらしい。昼夜を問わずほとんどひっきりなしに続いた敵の総攻撃は、五日後、ようやく停止した。



 その夜、マヤとルーミアに割り当てられているギール城の一室をオクタヴィが訪ねていた。

「そうなのですか、ルーミアはもうお休みになってしまわれたのですか。わたくしの怪我を治してくれたお礼を言おうと思ったのですが」

 オクタヴィがいつもどおり丁寧すぎる口調でそう言うと、マヤは、ベッドの上ですやすやと小さな寝息を立てているルーミアの寝顔を眺めながら

「白魔力の使い過ぎで、疲れがたまっているみたい。この娘(こ)、仕事のことになると頑張り過ぎちゃうところがあるから」

 と応えた。

「確かにそうですわね。敵の攻撃がいつまた再開されるかわかりませんけど、それまではできるだけゆっくり休ませて差し上げましょう」

「そうもいかないの。明日、デイン砦に白魔法治療をしに行くように言われたんだって。死にかけている人がたくさんいるからって」

「まあ、大変ですわね。でも、もちろん誰かに竜でつれて行ってもらうんでしょう?城は包囲されているのですから……」

「だからあたしがつれて行くことにしたの。さっきラウラ隊長の許可を取ったわ」

「それはご苦労様。では、マヤも早めにお休みにならないといけませんわね。わたくし、これでおいとまさせていただきますわ」

 オクタヴィはそう言い残し、戦下のこの城塞の雰囲気に全く似つかわしくない優雅な身のこなしで、バレリーナのような細身の体をするりと部屋の出口へ滑り込ませようとした。が、そこで

「あ、そうそう、うっかり忘れるところでしたわ」

 と言って、また部屋の中に戻って来た。

「これ。マヤに頼まれていた例のものですわ」

 彼女は、飛行服の腰にぶら下げてあるポシェットから、手のひらに包むことができるくらいの大きさのものを取り出し、マヤに手渡した。

 するとマヤは、さも嬉しそうに「間にあったのね。よかった」と応えた。「ありがとう、オクタヴィ」

「どういたしまして」

「本当に助かったわ。あたしこういうことを相談できる人がルーミアしかいなくて、でも今度ばかりはルーミアに相談することができなかったから」

「喜んでいただけるかしら」

「オクタヴィの見立てだもの、きっと大丈夫よ」

「そうなることを祈っておりますわ。……では、失礼させていただきます。おやすみなさい」

「おやすみ」



 翌朝、マヤとルーミアはまだ暗いうちに──といっても、緯度の高いこの地域で十二月に日が昇るのは午前九時頃だが──ピムの背中に乗り込み、城を取り囲んでいる敵の警戒網を縫うようにして、一旦、比較的安全な南東の空域に出た。そこで進路を北東に向け、哨戒飛行中の敵竜騎兵に見つからないよう、山の稜線に身を隠しながらデイン砦を目指すのである。

 ルーミアは体をマヤの背中に密着させ、自分の口をマヤの耳のすぐそばにもって来て

「どれぐらいかかる?」

 と訊いてきた。風を切る音がうるさくて声が聞こえにくいだろうと思ったからである。

 マヤは顔をほんの少しルーミアのほうへ向けて応えた。「本当ならギール城からデイン砦までは三十分もかからないわ。でもこんなふうに迂回しながら、それも、上昇気流に乗れないこんな低空を飛ぶとなると、一時間半ぐらいはかかっちゃうんじゃないかな」

「そう」

「寒くない?」

「風が少し冷たい」

「じゃ、少し速度を落とすわ」

「ううん、それじゃ、着くのが遅くなる」

「大丈夫。その代わり少し近回りするから」

 マヤはピムの速度をやや落としてから、山沿いを離れて森の上空を横切るルートをとることにした。

 ところが、この判断が結果的に思わぬ災難を引き起こすこととなってしまった。

 デイン砦の物見櫓が遠くに見え始めるところまでたどり着いた時、眼下に絨毯のように広がる森の樹木の間から、突然、握り拳ほどの大きさの火の玉のようなようなものが飛んできて、ピムの翼を直撃したのである。

 ピムは叫び声を上げ、激しく体を揺さぶった。

「ピム!」

 マヤは必死になってピムをなだめ、なんとかしてコントロールを取り戻そうとしたが、ピムはどんどん降下してゆき、遂に森の中へ墜落した。

 幸いにも、ピムが完全に我を失うことはなく、最小限のコントロールを受け入れてくれたため、マヤはピムに安全な着陸態勢をとらせることができた。おかげでマヤもルーミアも、かすり傷一つ負わずにすんだ。

 しかしピムの怪我のほうは深刻だった。火の玉が直撃した部分の皮膚は直径三十センチほどの大きさにわたって完全にはがれ落ち、むき出しになった内皮から絶えまなく鮮血が吹き出しているのだった。

 ルーミアは白魔法治療を試みた。止血には成功したものの、はがれ落ちた皮膚を完全に再生することはできなかった。女性白魔導士である彼女は、魂の再生は得意でも、肉体の欠損部位を再生する能力は持ちあわせていないのである。

 マヤは一応、ピムに翼を動かすよう言ってみた。予想どおり、ピムは苦しそうにそうに喘ぎ声を上げ、すぐに動かすのをやめてしまった。

 彼女は「無理をさせてごめん」と謝りながら、赤い装甲に覆われたピムの頭部を撫でた。そしてやるせない表情で天を仰ぎ、

「もう、最悪」

 とぼやいた。

「なんなの、あの火の玉みたいなの?敵があんな武器を持ってるなんて聞いてないわよ」

 ルーミアも、彼女にしては珍しく不快感をあらわにして

「あれは敵じゃなくて、サハラカン──竜落としとも呼ばれているモンスターが撃った火の玉よ。そんな危ないモンスターがいるなら、出発前に一言忠告してくれればよかったのに」

 と、彼女にデイン砦に行くよう要請してきたギール城駐留軍のお偉さんを暗に批判した。

 とは言え、いつまでもこのような場所で悪態をついているわけにはいかなかった。まずはこれからの行動計画を練り直さなければならない。

 最初、ルーミアは

「デイン砦であたしの到着を待っている人たちのことが心配なの。ここから砦まで歩いても三時間ぐらいだから、あたし一人でデイン砦に行くわ。マヤはピムがモンスターに襲われたりしないようにそばにいてあげて。あたしは砦で白魔法治療をした後で、ピム傷を治す薬を手に入れるか、それができなければ男性白魔導士をつれて戻ってくる」

 と主張したが、マヤはこんな危険な森でルーミアに一人歩きをさせるわけにはいかないと反対した。

 そこでルーミアは、この森の中でピムの傷につけるペペという薬草を探すこと提案した。ペペは森の中にわりとよく生えている植物なので、手負いのピムをひとりぼっちにしないように付近を探せばすぐに見つかるだろうというのである。

 二人はその提案をすぐに実行に移した。

 しかし、ルーミアの予想に反し、ぺぺはなかなか見つからなかった。マキナスの森より北にあるこの森では、気候が少し違うのかもしれない。

 仕方なく、二人は捜索範囲を広げることにした。

 そうしているうちにマヤは、高さ三メートルくらいの崖の上に出た。ペペは日陰に生えていることが多いというルーミアの話を思い出し、マヤは崖の下を覗き込んでみた。

 すると。

 崖の下には、二人の人間が立っていた。

 一人は薄緑色の派手な色の衣装を身に付けた、マヤと同じ歳ぐらいの少女。

 もう一人は、これまた派手な黄色い衣装を身にまとった大柄な人物だった。身長は百九十センチ、体重も百キロぐらいあるのではないか。

 そのそばでは、彼らが乗ってきたと思しき馬が二匹、足下(あしもと)の草を食(は)んでいた。同じ向きではなく、睨み合うように立っていることから、その馬の主たちは別の方向からやってきてここで落ち合ったのではないかと思われた。

 彼らは何やら熱心に話をしている。マヤは耳を澄ましてその会話を聞き取ろうとしてみたが、どうも、彼らの話している言葉は彼女の知らない言葉のようだった。

 いつの間にか、ルーミアもマヤの傍らで同じように崖の下をじっと覗き込んでいた。別の場所で薬草を探しているうちにマヤの様子に気付き、何かあると思ってこちらに来ていたらしい。

 崖下の二人をよく見ると、マヤは薄緑色の服を着た少女に覚えがあった。あれは確か、ヤグソフ四姉妹の末妹、ニーナではないか。

 マヤの胸は一瞬、サーラを殺された怒りで張り裂けそうになった。しかし、マヤは深呼吸をして気持ちを落ち着け、自分の感情をコントロールした。二か月前、敵兵と組み合って結果的に敵兵を転落死させてしまって以来、マヤはもう二度と、怒りで我を忘れて敵と戦うようなことはするまいと心に誓ったのだった。

 そのうち、ニーナと思しき少女は、ふところから何かを取り出し、黄色い服をまとった人物に手渡した。そして、更に二言三言、言葉を交わしてから、馬にまたがり、風のように去っていった。

 残された黄色い服の人物は、それを見届けた後、いま手渡されたものを目の前にぶら下げてしげしげと眺めた。それは銀色の鎖の環に紫色の宝石が付いたペンダントだったのである。

「あれは!」

 そう、あのペンダント、あれは、マヤがこちらの世界に引き込まれる直前、マヤの手の中で光輝いた、あの不思議なペンダントとそっくりではないか!

「あのペンダントだ!」

 マヤは思わず小さな声で叫んでしまった。

 ところが、マヤがあくまで小声で上げたつもりの叫び声は、しっかり眼下の人物の耳に届いていたのだった。

 その人物はマヤたちのほうを振り返り、マヤたちには分らない言葉で一言、何か言った。それがマヤたちに通じていないとわかると、今度はマヤたちに分かる言葉で

「誰だ!」

 と言った。

 その人物がさきほどまで横を向いていたためわからなかったのが、いまマヤたちの方へ向けられたその胸には、防寒着の上からでもわかるほどの大きな二つの膨らみが付いていた。どうやらその人物は女らしい。

 彼女は、崖の上のマヤがエラーニア王国軍の飛行服を着ていることにすぐに気付いた。すると、馬の腹に結わえ付けられていた長い槍を手に取り、無言のまま、その切っ先をマヤの方目掛けてくり出した。

 マヤは機敏に身を翻してその切っ先をかわすことができた。しかし隣にいたルーミアの方は、よけようとした拍子に崖下へ転落してしまった。

「きゃっ!」

 崖の高さが三メートルほどだったため、ルーミアはそれほどダメージを受けなかった。とは言え、崖を背にした今のルーミアは、槍を手にした大女にとっては格好の槍の的だった。ルーミアは文字どおり窮地に立たされた。

「ルーミア!」

 躊躇している暇はなさそうだった。マヤは防寒着を脱ぎ捨てて、いわゆる全身レオタードに似た、飛行服のみの姿となり、腰の革ベルトにぶら下がっている小剣を抜いた。そしてその刃を大女に向けて、崖下へ勢い良く飛び込んだ。

 しかし大女は、マヤが渾身の力を込めてくり出した剣をいとも簡単によけてしまった。

 崖下に降り立ったマヤはそれでも必死になって剣をくり出し続けた。ルーミアを守りたい一心だった。だが大女は、その大きな体のどこにそんな敏捷性が備わっているのか不思議なぐらい、やすやすとマヤの剣をかわした。

 マヤが剣を振り回し疲れた頃を見計らって、大女はマヤの胸目掛けて槍の一撃を放った。マヤはぎりぎりよけるのが精いっぱいだった。マヤの飛行服は胸の辺りで切り裂かれ、そこから血が滲み出した。彼女は万事休したと思った。

 ところが大女は何を思ったのか、突然、槍を捨て、マヤの方へ歩み寄った。マヤが剣で抵抗しようとするとその腕を鷲掴みにして動きを止め、手から剣を取り上げた。そしていきなり、彼女の飛行服の胸の部分の布を、乱暴に破って取り去ったのだった。

 マヤの胸の二つの膨らみは、鮮血に染まって真っ赤になっていた。

「な、何するの!」

 マヤは四か月前、ジュートの相手をさせられそうになった時以来の貞操の危機を感じた。

 彼女が自分の勘違いに気付いたのは、大女がポケットから小瓶を取り出し、その中のペースト状のものをマヤの胸の傷口に塗ってくれた時だった。

 大女は

「これは俺の姉貴が作ってくれた薬だ。よく効くぞ。姉貴は故郷では結構有名な魔道士なんだぜ」

 と、訛りのあるエラン語で話した。数カ月前、ニーナがマヤと話したときにもこれと同じ訛りがあった。おそらくこれがハバリア訛りなのだろう。

 マヤはどう応えてよいかわからずただ黙って薬を塗られるままにしていた。

 薬を塗り終えた大女はマヤに

「名前は?」

 と尋ねてきた。マヤはそのとき大女の顔を間近で見て初めて、その大女が、実はマヤたちよりも二つか三つ年上にすぎない、若い女性だということを知った。

 マヤが名乗ると、大女は微笑んで

「マヤか。それは東洋ではよくある名前なのかな」

 と言った。マヤは何も答えかったが大女は気にも止めず

「俺の名はモーラだ」と言葉を続けた。「おまえ、東洋から来た傭兵(ようへい)だろ。おまえみたいな小娘が何もこんなところまで戦(いくさ)なんかやりにこなくたって、ほかに稼ぎ口ぐらいあるだろうが」

 それでも黙り続けるマヤを半ば無視して、モーラと名乗ったその大女は独り言のように

「おまえがあの白魔道士を守ろうと必死になって戦った、その頑張りに免じて見逃してやるよ」

 と言い、少し離れたところに立っているルーミアを、あごで指し示した。

 それまで恐怖で足がすくんで動けなかったルーミアは、その時、やっと我に帰り、崖の上から落ちてきたマヤの防寒着を拾って、マヤのところに駆け寄った。そして、防寒着を彼女の肩にかけてやった。

 と、その時。

 ルーミアの顔が蒼白になった。

 マヤとモーラは、こわばって動かなくなってしまったルーミアの視線の先を、目で追いかけた。五十メートルほど離れたところに立っている高さ十メートルほどの二本の木の幹の間に、二階建ての建物ぐらいの大きさの巨大なこんにゃくのようなものが挟まっているのが見えた。

 三人とも、しばし言葉を失った。

 よく見ると、その物体は挟まって止まっているわけではなく、木々の幹に引っかかりながらも、その柔軟性のある体を幹のあいだの幅に適応させつつ、こちらへ向かって少しずつ前進してきているのだった。

「サハラカンだ!」

 モーラがやっと声を絞り出した。

 その物体──サハラカン──はそこで一旦停止した。マヤとルーミアは次に何が起こるのか全く予想できず、口を半ば開いたまま、ただただ呆然とその物体を見つめていた。やがてその物体の上部が濃いピンク色を帯び始め、次にその中心部が深紅から赤褐色へと変化していった。

 一方、モーラの方は次に何が起こるか予測がついたらしい。いきなりその大きな手で二人の頭を抑え、

「伏せろ!」

 と叫んだ。

 二人は訳が分からないまま言われた通り地面に突っ伏した。その次の瞬間、サハラカンの赤褐色に染まった部分から、野球のボールほどの大きさの火の玉が撃ち出されたのだった。

 幸い、火の玉はマヤたちのいる地点から二十メートル以上離れた地面に命中した。

 サハラカンは命中確率を上げる必要を感じたのだろう、再びその柔軟な体をぶよぶよと動かしてマヤたちのいる方へ前進を始めた。

 マヤは素早く立ち上がり、傍らでうつぶせになっているルーミアが立ち上がろうとするのに手を貸した。そしてその手を引っ張って、モーラとともに近くの大きな木の幹の陰に逃げ込んだ。幹の陰から様子を伺うと、サハラカンはまだ三十メートル以上離れたところうごめいていた。どうやら動きはかなり緩慢のようだ。

「きっとピムにとどめを刺しにきたのよ」ルーミアが言った。「サハラカンは火の玉で竜を撃ち落として、動けなくなったところをあの体で包み込んで溶かして食べちゃうて。書物で読んだことがある」

「どうすればいい?」マヤが言った。「あのモンスターには何か弱点とかはないの?」

 応えたのはルーミアではなくモーラだった。「上の方に目が二つついていてその間に脳がある。そこにダメージを与えればいい」

 マヤは、その言葉の真意を測るために、モーラの目を見た。そこに偽りの光がないとわかると

「目のあいだね。わかったわ」

 と応え、走り出した。そして、先ほど小剣を落とした地点で剣を拾い上げてから、一旦、手近な木の幹に隠れ、腰のベルトに付いている鞘に剣を納めた。

 するとモーラは、どういうつもりか、いきなり木の陰から飛び出して、サハラカンの前に立ちふさがり

「俺が囮になってあいつの注意を引く。マヤは木の上からやつの弱点を狙え」

 と叫んだ。

 マヤは一瞬、無関係のモーラに協力してもらう筋合いはないと断ろうと思ったが、やはりどうしても囮役は必要だと考え直し、何も言わず彼女の指示に従うことにした。

 ルーミアは木の陰から固唾をのんでその様子を見守った。

 マヤは、モンスターの視界に入らないよう注意しながら、立ち並ぶ樹木伝いにモンスターの方へ二十メートルほど近付き、様子を伺った。サハラカンはどうやら、前に立ちふさがるモーラに攻撃の矛先を向けることにしたらしく、前進を停止して、その巨体の上部をピンク色に染め、今まさに火の玉を打ち出そうとしていた。

 数秒後、火の玉がモーラ目掛けて飛んでいった。

 モーラは先ほどマヤと戦った時に見せた敏捷性を、今度も如何(いかん)なく発揮し、鮮やかな身のこなしで火の玉をかわした。

 それを見て安堵したマヤは、更に樹木二本分、サハラカンの方へ近付いた。

 数メートルほどしか離れていない場所からモンスターを見上げてみると、改めてその巨大さに圧倒された。モーラの言っていた目の在り処を見極めようとしたが、五メートルにも及ぶと思われるその体の上部の様子は、下からでは伺い知ることができなかった。

 彼女はモーラに指示されていたとおり、木の幹をよじ上り始めた。東京生まれでシアトル育ちの彼女は木登りなどやったことがなかったが、幸い、その木の幹には多数の突起がついていたため、そんな彼女でもどうにか登ってゆくことができそうだった。

 ところがその時、サハラカンの動きに変化が現れた。サハラカンは次の火の玉の準備をするために体の上部をピンク色を染め始めていたのだが、射出口となるはず赤褐色の部分は、モーラの方ではなくマヤの方を向いていたのである。

 すでに木の中腹まで登り終えていたマヤは、下に降りることもできず、木の幹にへばりついたまま可能な限りの防御姿勢をとった。

 火の玉が撃ち出された。火の玉はマヤがつかまっている幹をかすめ、背後にある木に直撃した。振り返ってみると、その木は根の部分を残して跡形もなく消え去っていた。彼女は背筋が凍り付くのを感じた。

 モーラは少し離れたところで大声を上げ、モンスターの気を引こうとした。サハラカンの注意は再びモーラの方へ逸れた。

 その間を利用して、マヤは木登りを再開した。やがて建物の三階ぐらいの高さまでたどり着いた時、ちょうどそこに太い枝がせり出しているのが見つかったので、彼女はそこに立って見下ろしてみることにした。

 モンスターの体の上部に赤いひし形が二つ、モーラのいる方向を睨んでいた。どうやらあれが目らしい。

 マヤは腰の鞘から小剣を抜いた。モンスターの弱点である目の間の部分は、マヤの立っているところから二メートル以上離れていた。腕を伸ばして刺し貫くには距離があり過ぎる。

 そのうちサハラカンは再び火の玉を打ち出す準備を始めた。体の上部がピンク色に染まる。しかもそのひし形の目は、モーラのほうからマヤのほうへと、見据える方向を再び変えつつあった。一刻の猶予も許されなかった。

 マヤは、先ほど崖の上からモーラに対してやったのと同じように、モンスターめがけて身を投げ出した。

「やーーーーっ!」

 今度こそ、彼女は小剣の刃を突き立てることに成功した。目の間の部分を刺されたモンスターは激しく体を揺さぶり、マヤを振り落とそうとした。そのためマヤは手を剣から離してしまい、雪山のようなモンスターの巨体の上を、ごろごろと転がり落ちた。

 柔軟性のあるサハラカンの体がクッションのような役割を果たしたため、マヤは地面に激しく叩き付けられることはなかった。

 サハラカンはしばらくの間、ぶよぶよと体を揺さぶり続けたが、やがて力尽き、その場にどっさりと崩れ落ちた。

 マヤのもとに、モーラとルーミアが駆け寄ってきた。

 モーラとルーミアは異口同音に「やったな」「やったわね」と言った。

 マヤは「ええ」とだけ応え、とびきりの笑顔を二人に返した。

 するとモーラは、またポケットから、今度は何やら紐のようなものを取り出し、それをマヤの首にかけた。それは先ほどモーラがニーナから受け取ったあのペンダントだった。

「そのペンダントはシカの腹の中から見つかったものだ。俺の妹を何か月間もあちこち飛び回らせた厄介物だ。もう魔力も消えているから俺たちには不要だが、珍しいものなので金(かね)にはなる。お前はそれを売って東洋へ帰れ」

 彼女はそう言って、マヤの肩をポンとたたいた。そして先ほどマヤと戦った場所まで歩いてゆき、地面に捨ててあった長槍を拾って馬の腹に結わえ付けてから、派手な黄色い衣装をひるがえして馬にまたがった。

 マヤはモーラに聞こえるよう大声で

「ありがとう」

 と言った。

 馬上のモーラはマヤたちの方を振り返って微笑んだ後、前を向き直り、馬の尻に鞭を当てた。彼女を乗せた馬は一目散にその場を走り去った。

 その後、マヤたちは無事に薬草ペペを見つけることができた。ペペをすり潰してピムの傷口につけると、その鎮痛効果により、ピムは翼を動かすことができるようになった。



 デイン砦に着いた頃には日没時間の午後三時をだいぶ過ぎていたため、辺りは真っ暗だった。

 ルーミアはすぐさま、死にかけている患者を死の淵から救う白魔法治療を開始したが、治療を必要としている患者はかなりの数にのぼっていたので、全ての治療を終えたのは、夜中の十二時半だった。

 ルーミアはくたくたになった体を休めるために、彼女とマヤのために割り当てられた寝室へと向かった。昼間、モーラやモンスターと戦ったマヤもきっと疲れて寝ているだろう思い、寝室の扉はそっと開いた。

 ところが意外なことに、部屋の中ではマヤがまだ起きて彼女を待っていた。

 マヤは腰のポシェットから何かを取り出し、ルーミアの手のひらにのせた。それは貝殻の形をかたどった、小さなイヤリングだった。

「お誕生日おめでとう」マヤは満面の笑みを浮かべ、言った。「本当は朝、起きてから渡そうかとも考えたんだけど、待ちきれなくて、いま渡そうって思って、待ってたの」

 しかしルーミアは不思議そうに

「でも、こんなイヤリング、いったいどうやって……?ここ二か月、ずっとあの最前線の町、ギールに駐留していたのに」

 と尋ねた。

「オクタヴィのお父さんがファクティムで銀細工師をしているって知ってるでしょ?あたしたちがギールに配置転換になってしまってたから、オクタヴイのお父さん、届けるのに苦労したみたい。注文したのは、もう三か月近く前かな、ファクティムにいた頃にやったオクタヴィのお誕生パーティー。あの後すぐよ」

「そんなに前?」

「そう。ルーミアには誕生日当日まで内緒にして、驚かせるつもりだったの。だから先週、ルーミアが誕生日の話をした時も、あたし、とぼけてルーミアの誕生日なんか覚えてなかったふりをしたのよ。本当は、言葉のレッスンの中で教えてもらったあの時から、一日たりとも忘れたことはなかったわ」

「もう!意地悪!」ルーミアはそう言いながら、マヤに抱きついてきた。「でもありがとう、お姉ちゃん」



 ギール攻城戦は二か月に及んだ。

 ハバリア軍は第一次攻撃の後も、制空権を奪わんと、次々とギール戦線で竜騎兵戦を仕掛けてきた。しかしそのたびごとに、彼らの前にエメンツ装甲竜騎兵隊とファクティム竜騎兵隊が立ちはだかり、 鬼神のような戦いぶりでハバリア竜騎兵を蹴散らした。そのため、制空権を得てギールを孤立させ奪取するというハバリア側の目論見はもろくも崩れ去った。

 その中でもファクティム竜騎兵隊所属のマヤ・クフールツ竜騎兵の活躍は目覚ましいものがあった。それまで飛行技術は優れているものの、竜騎兵としてはあまり評価の高くなかった彼女が、ある日を境に、重しがとれたかのように軽快な動きを見せるようになったのだった。その「ある日」がルーミアの誕生日であったことは、無論、誰の知る由もない。

 結局、ハバリア軍は、ヤグソフ四姉妹の一人、モーラの率いるアマゾネス隊がまたも城壁に大ダメージを与えた以外、得るものもなく、二月初頭、包囲を解いて撤退した。

 開戦以来、連戦連勝を続けていたハバリア軍が勝利を逃したのは、この戦いが初めてであった。





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