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紅の装甲竜騎兵
作:YZA

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3 儀式




 窓の外から子供たちの声が聞こえてくる。どうやら戦争ごっこをしているらしい。

 「やあーっ。僕はエラーニア騎士団の聖騎士だ。かかってこい」

 「なにをーっ。僕は大魔道士ゲーレンだぞ。おまえの剣なんか僕には通用しないぞ」

 「わたしは王立竜騎兵団の装甲竜騎兵よ。わたしの乗る竜は剣も魔法も届かないぐらい高いところを飛ぶことができるんだから」

 「おい、グナン、おまえは何なんだよ。早く決めろよ」

 「えっとね、えっとね、僕はね」

 「早く早く」

 「じゃあ、僕も竜騎兵にする」

 「わはははは。おまえ何言ってんだ。竜騎兵は女じゃないとなれないんだぞ」

 「えーっ?ほんとーっ?」

 「そうよ、竜を操ることができるのは女だけなのよ」

 「知らなかったぁ」

 「恥ずかしい奴。そんなの赤ん坊でも知ってるぜ」

 その様子を、薄手のガウンを肩に掛けた少女が、ベッドの上から呆然と眺めていた。彼女は、子供たちが「敵はあっちだ、行くぞー」と言って走り去って行くのを見届けると、ため息を一つついてから、ベッドの傍らに立つ白魔道士父娘にうつろな視線をよこした。

 「ごめんなさい」ルーミアがその日その言葉を口にした回数は、すでに数十回に及んでいた。「男の竜騎兵がいるなんて知らなかったの」今にも泣き出しそうな悲痛な表情だった。

 そこでベッドの上の少女はまたため息をついた。

 「よく考えてみれば」ルーミアの父は眉間にしわを寄せ、言った。「ルーミアが君の魂を再生しようとしたとき、魂が示した反応は確かにいつもと異なっていた。炎で長時間焼かれたため魂の力が弱まっていたのだろうと思っていたが……。今にして思えばあれは、男の魂のかけらを無理矢理女の魂として再生しようとしたことによる抵抗反応だったようだ」

 少女はおずおずと尋ねた。「あたしを男に戻す方法は……ないの?」

 ルーミアの父は、これが上級白魔道士バーン・クフールツとして患者に答えてあげられる回答のすべてだ、と言わんばかりに、無言のまま首を横に振った。

 しかし少女は引き下がらなかった。「もう一度あたしを魂のかけらだけの状態にして再生するとかできないの?」

 仕方なく、ルーミアの父は口を開いた。「細胞がほんの少しでも残っている限り、肉体は再生前の性別に戻ろうとするし、肉体が100%失われて魂のかけらだけが残っているというあのような状態を意図的に作り出すのは不可能だ。仮にできたとしても、魂が壊れてしまう可能性もある。それ以前に、性別がわからなくなるほど小さくなってしまった魂のかけらを元通り再生できたこと自体、奇跡に近い」

 ルーミアが付け加えた。「魂の性別を慎重に見極めてから再生すればよかったんだけど……時間がなかったし……竜騎兵は女だっていう先入観があったから……」

 すると少女は、拳を握りしめ肩をわなわなとふるわせた。一度沈静化していた怒りがまた活性化してきたらしい。ルーミアは、彼女の口から放たれるであろう怒号の矢を、的となって受け止める覚悟をした。

 ところが少女は急にがっくりと肩を落とし

 「もういいわ」

 と言った。

 「クフールツ先生やルーミアを恨んでみても始まらない。先生たちはこの世界の常識に従って行動しただけだし……」

 うつむいていたルーミアは顔を上げた。「マヤ」

 少女──マヤはほんの少しではあったが口元をほころばせた。「それにあたしの命を救ってくれたことは確かだしね。命の恩人のことをこれ以上悪く言ったらばちが当たっちゃうわ」

 ルーミアの目から遂に涙がこぼれた。「マヤ、あなたって優しいのね、そんなふうに言ってくれるなんて……。あたし……あなたに何をしてあげたらいいのか……」

 「取り敢えず今は……一人にしてくれない?」

 「でも、マヤ」

 「お願い」

 「わかった」ルーミアの父が言った。「もしどこか調子の悪いところがあったらそこの呼び鈴を鳴らしてくれ。わたしかルーミアがすぐに駆けつける」

 少女は無言のままうなずいた。

 「行こう、ルーミア」父は、まだ名残惜しそうにしている娘の肩を抱き、病室の外へと促した。

 病室の扉が閉ざされると、しばらく喧騒が支配していたクフールツ白魔道院の建物の中に、病院本来の静寂が訪れた。





 「おめでとう、山矢君」

 山矢健太の背後から聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ってみると、そこには小麦色に日焼けした相良美玖の顔があった。

 「優勝おめでとう」

 美玖はにこやかに微笑みながら、再度祝辞を述べた。

 山矢が辺りを見回してみると、そこはアクロバット飛行競技会会場の駐機場だった。

 ──俺は優勝したのか?──山矢はいぶかった──そうだったっけ?それ以前に何か重要なことを忘れているような──

 そう思いつつも、彼は美玖に「ありがとう、美玖」と言葉を返した。いつもは日本語がなかなか口から出てくれず、「おう」などと返すのが精一杯なのに、その時はどういうわけかすんなりと言葉を発することができた。

 美玖はその反応がとても嬉しかったようだ。「ねえ、山矢君」と言いながら彼の腕を取り、まるで別の誰かのように──誰だったか思い出せないが──唇を山矢の顔の十センチ手前まで近づけてきた。「演技が終わったらあたしに言いたかったことって、なあに?」

 ──そうだ、俺には言わなければいけないことがあったんだ──

 山矢は勢いにまかせて、大胆にも美玖の肩を抱いた。そして以前から言おうと思っていたその一言を喉から絞り出そうとした。

 ところが美玖は、彼の声が口から出るより前に、笑顔のまま「いやよ」と言った。「あたしにはそんな趣味ないもの」

 「そんな趣味?なんのことだ」

 山矢が訊き返すと、美玖は山矢の腕をふりほどき、黙って彼の胸の辺りを指さした。山矢はゴミでもついているのかと思い、視線を下に落とした。

 彼はなぜか服を着ていなかった。しかもその胸にはこにはこんもりとした二つの膨らみがあった。

 「うわああああああぁぁぁっ」





 夢から覚めたとき最初に目に入ったのは、この三ヶ月間、眠っているとき以外ほとんど見上げっぱなしだった、あの天井だった。

 しばらくは起きあがろうとしなかった。目が覚めても体は起こさない(起こせない)ということに慣れてしまっていたからである。しかしすぐに、もう体は動くようになったことを思い出し、ゆっくりと上半身を起こした。そのとき胸が衣服にこすれる感覚が伝わってきたが、努めて無視した。

 山矢健太──マヤが体を動かせるようになってから三日目の朝が訪れた。

 あの日、衝撃的な事実を知ってしまったあと、彼、いや彼女は自由になった体を動かそうともせず、ベッドの上に座ったまま日が暮れるまで窓の外を眺めていた。

 夜、ルーミアが食事を運んできた。もちろん流動食などではなかった。魔法の力で肉体を健康だったときの状態のまま保存していたのだから、術を解きさえすればすぐに普通の食事ができるはずだった──本人にその意思さえあれば。

 しかしマヤにその意志は全くなかった。彼女が少しでも手を付けることを期待してか、ルーミアは料理の入った食器をなかなか片づけに来なかった。しかしマヤは頑として手を付けようとはしなかった。数時間後、食器を下げに来たルーミアが病室を去るとき、彼女はいつものようにお休みを言ったが、マヤは応えなかった。

 昨日もマヤは夕方までベッドの上でじっとしていた。朝食も昼食も食べなかった。

 ところが夕方、ルーミアが様子を見に病室を訪れたとき、マヤの腹が大きな音を立てた。あまりにも大きな音だったため、ルーミアはびっくりしてマヤの顔を覗き込んできた。マヤはちょっと可笑しくなって、思わず口元をほころばせた。ルーミアが「何か食べる?」と訊いてきたので、マヤは久々に「うん」と言葉を返した。

 マヤはルーミアの出した料理を残さず食べた。食事をするのが四ヶ月ぶりだということにも、この世界の食べ物を食べるのが初めてだということにも、特別な感慨はわかなかった。

 就寝直前、ルーミアが様子を見に来た。病室を出るときルーミアの言った「お休み」に対し、マヤはその日は「お休み」と応えてあげたのだった。

 いま悪夢から目覚めたばかりしては、気分は悪くなかった。どうやら昨日摂った栄養が、マヤの全身にエネルギーをみなぎらせているようだった。これ以上じっとしていると、血管がはち切れてしまいそうな、そんな気さえした。

 もともと山矢健太は家でじっとしているようなタイプではなかった。過去二日間に自分がとった行動をいま振り返ってみると、身の毛がよだつ思いだった。たとえ脅されたとしても、もうベッドの上に座っているのはごめんだった。

 そのとき彼女は、どうしてもクリアしなければならないある問題の存在に気づいた。いや正確に言うと、その問題は昨日の就寝前から存在していた。それは栄養を摂ってしまったことによる当然の帰結であった。彼女はその問題を、衣服と胸の摩擦から生ずる問題と同様、敢えて思考の対象にしないよう努力していたのだった。しかし、ことここに至っては無視し続けることは不可能だった。

 考えてみればその病室は、彼女がこの世界で知っている唯一の場所だった。意識を取り戻してからさきほど目が覚めるまでずっとベッドの上にいたのだから無理もない。しかしいま彼女は初めて、病室以外の場所を知ろうとしていた。その場所の位置は、三ヶ月間ベッドに縛り付けられていた間に聞いた足音や物音によって、大体の見当が付いていた。

 案の定、その場所は、彼女の病室のすぐ横にあった。扉を開いてみると、幸いにしてもといた世界のものとさして変わりはなかった。

 マヤは覚悟を決め、そこに腰掛けた。彼女は──当然のことだが──生まれて初めてその感覚を味わった。それは尿が、長い尿道を経由することなく、膀胱の近くにある尿口からすぐに排出されるという感覚だった。

 昨晩から我慢していたその欲求を解消すると、今まで彼女の精神に重くのしかかっていた何かが、ふっ、と消えてなくなったような気がした。もう怖いものはなかった。

 マヤは便座に座ったまま、不動の術を解かれた直後に一度見てしまって以来、頑として視界に入れないようにしていた部分に目を向けることにした。

 まず、身につけている薄いガウンのような衣服の前をはだけて自分の胸を見てみた。よくわからないが、それほど大きい方ではないように思えた。次に両手でその膨らみを軽く鷲掴みにしてみた。以前より、その先端付近が敏感になっていることがわかった。

 そこで一旦目を上げ、側に置いてある紙を右手に取った。もといた世界のものと比べるとかなりごわごわししている。その次に、再び視線を下へやり、今度は下腹のほうを覗き込んだ。胸のほうは、言ってみればただ膨らんでいるだけで、男だったときに想像しようと思えばできなくはないくらいの変化にすぎなかった。しかし陰部の方は違った。紙を当ててみたが、視覚と、自分の手のほうの触覚と、その部分が紙に触れる触覚の三つを、一つの事実として脳の中でうまく結びつけることができなかった。紙を捨てたあと、今度は直接、右手を下腹部から陰部に当ててみた。五秒ほどして、ようやくその部分に起こった形状の変化を実感できるようになった。すると彼女の目から涙が溢れた。

 涙が十分乾いてから、マヤはトイレを出た。そこで運悪く、と言うべきか、ばったりとルーミアに出くわした。ルーミアはマヤにかけるべき言葉がすぐには思い浮かばなかったらしく、一瞬口をぱくぱくさせた。マヤはわざと嬉しそうな顔をして「トイレに行って来たの」と言った。ルーミアは更に二、三回ぱくぱくさせたあとで「そ、そう。じゃあ、腎臓や尿管や膀胱に異常はなさそうね。お父さんに報告しておくわ」と、あたかも医学的な問題にしか関心がないかのようなセリフを述べた。

 朝食はルーミアの父とルーミアと三人で、白魔道診療院と自宅を兼ねるその建物の、いわばダイニングキッチンにあたる部屋で取った。食後にルーミアが案内してくれたところによると、その建物は実はそれほど大きなものではなく、一般の民家に毛が生えた程度のものだった。白魔道が発達しているため、大抵の病気や怪我は入院せずに直すことができ、入院施設はほとんど必要ない。そもそもこの診療院のあるアヴニ村は鄙びた寒村にすぎず、患者がそれほどいないのである。

 それからしばらく、ルーミアが父と共に白魔道士の仕事をあれやこれやとこなしている間、マヤは建物の前に出て、そこから見える範囲の村の様子を観察した。途中、村の子供たちが彼女に気づいてそばに寄ってきた。ところがマヤが何か声をかけようととすると、子供たちは逃げてしまった。子供が見知らぬものに好奇心と恐れを同時に抱くのは、どこの世界でも同じだった。

 そのうち、仕事を終えたルーミアがマヤと話をしにやって来た。

 「ねえ、マヤ。この地方には不動の術を解かれた人が必ずやらなければならない儀式のようなものがあるの。マヤもやる?」

 マヤがうなずくと、ルーミアは一旦自分の部屋に戻って、何かが入った鞄を持ってきた。それからマヤの手を引いて、彼女を村へと連れ出した。

 村の街路や広場を通るとき、数人の村人と出くわした。村人はみな、ルーミアが連れている東洋人の少女を一目見て一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻り、ルーミアにだけでなくその少女に対しても「こんにちは」と言った。愛想の良い人たちばかりだった。

 マヤとルーミアは村を出、森に入った。森の中には足で踏み固められてできた道がたくさん枝分かれしていたが、ルーミアは全く迷うことなく道を選んでゆき、マヤをどんどん森の奥へと導いた。

 不意にマヤの目の前の視界が開けた。

 まぶしさに目を細めながら辺りの様子を見渡してみると、そこには、半分はマヤの予想の範囲内、もう半分は予想外という、奇妙な光景があった。すなわち、左手には、磨き上げられたガラスのように透き通った水をたたえる泉、右手には、どす黒く染まった地面と醜く焼けこげた数本の樹木が、異様なコントラストを呈していたのだった。

 「ここはマヤの乗った竜が墜落した場所よ。マヤは覚えていないでしょうけど」ルーミアは、油が地面にしみこんでできた黒い土を指さし、言った。「ねえ、マヤの乗っていた竜は何て言う名前だったの?お墓に名前を刻んで上げたいの」

 見ると、焼けこげた樹木の幹に、文字の彫られた小さな木の板が立てかけてあり、その前に花がたむけてある。

 マヤは応えた。「あたしは竜に乗っていたわけじゃないの。あたしが乗っていたのは……機械なの。飛行機っていう……」

 するとルーミアはとても信じられないといった顔をし、しばらく間をおいてから「そうだったの。鉄の板がたくさん燃え残っていたから、あたしはきっと装甲竜騎兵なんだと思った」と言った。

 「でもよかった」ルーミアは墓碑の前に供えてあった花束を拾い上げ、言葉を続けた。「ここで竜が死んだわけじゃなかったのね。ちょっと後悔していたの。マヤの命を助けるのに必死で竜のことを考えてあげられなかったって。同じ命なのに」

 そして彼女は花束を半分に分け、片方をマヤに渡し、もう片方を自分の胸に抱きしめたのだった。

 それからルーミアはマヤを泉のほうへ案内した。泉はかなりの広さがあり、その中央付近には巨大な岩石がいくつかそびえ立っている。マヤが最終的に連れてこられたのは岩石の陰になって周囲からは見えにくい場所だった。そこには三メートル四方の平らな岩盤が水面から顔を出していて、岸から簡素な橋で渡って行くことができた。

 「ここで何をするの?」マヤは尋ねた。

 「水浴びをするのよ。体を清めるために。ただそれだけ」ルーミアは応えた。

 「あたしがするのよね?」

 「もちろん」

 「服を脱ぐの?」

 「そうよ。恥ずかしい?」

 「少し。でも……別にいいわ」

 マヤはあまり躊躇することもなく、着ていた薄手のガウンのような服と、病室から履いてきたサンダルのような履き物を岩盤の上に脱ぎすてた。考えてみれば、下着を付けていなかった。彼女はいまルーミアの前で素っ裸でいることよりも、下着を付けていない状態で村の中を歩いてきたことを恥ずかしいと思った。

 水面に足をつけてみると、水はやや冷たかったが、耐えられないほどではなさそうだった。そこでマヤは思い切って、ざぶんと全身を水の中に沈めてみた。

 四ヶ月ぶりの入浴は、たとえお湯でなくても気持ちよかった。山矢健太だったとき、彼女は取り立てて風呂やシャワーが好きだったわけではなかった。しかしいま彼女は切実に、この水がもっと温かかったらどんなにいいだろうと考えていた。

 マヤはしばらく水浴びを楽しんだ。ルーミアはその様子を我がことのように満足げに見守っていたが、何を思ったか突然

 「あたしも水浴びがしたくなっちゃった」

 と言って服を脱ぎだした。

 マヤは驚いて、ルーミアから目を逸らそうとした。しかしマヤは思いとどまった。理由はわからなかったが、そうしてはいけないような気がしたからである。

 ルーミアはマヤの面前で全く憶することなく白魔道師服を脱ぎ、下着を脱ぎ、履き物を脱ぎ、最後に、長い髪をとめてある髪飾りを取った。そして足の先で水の温度を確認した後、マヤと同じように一気に水の中へ踊り込んだ。

 水中にしゃがんで全身に水を馴染なせるような動作をしたあと、ルーミアは水面へ顔を出した。長い髪が上半身全体に貼り付いてる。彼女が貼り付いた髪を背中の真ん中に束ねようとしたので、マヤは手伝ってあげた。

 すると出し抜けに、ルーミアは

 「さっきはごめん」

 と謝った。

 マヤは謝られるようなことをされた心当たりが全然なかったので、ちょっとびっくりして

 「何のこと?」

 と訊き返した。

 ルーミアは「今朝トイレの前で会ったときのこと」と応えた。

 マヤはその日の朝の出来事を思い起こしてみたが、思い当たる節は全くなかった。「何かあったかしら」

 「あたし白魔道士失格ね」ルーミアは言った。「あたし逃げちゃった。トイレの中できっとあなたは辛い思いをしたはず。それがわかっていたのに、あなたをもっと気遣ってやるべきだったのに、恐くて、逃げちゃったの。ごめんね」

 マヤはやっとルーミアが何の話をしているのかわかった。「あたし全然気にしてないし、そんなの謝るほどのことじゃないんじゃない?」

 「そう言ってくれるのは嬉しいわ。でも患者のことを気遣うのが白魔道士の仕事だから。それに」

 「それに?」

 「マヤは逃げなかった」

 「え?」

 「さっきあたしが服を脱ごうとしたとき、目を逸らさなかった」

 そうだったのか──マヤは思った──もしあのとき目を逸らしていたら、自分はルーミアの裸体に特別な感情を抱いていることを認めたことになる。そうしたら、ルーミアはもう二度と自分を患者以上の存在として──姉?代わりとして──見ることはできなくなっていただろう。自分の選択は正しかったのだ。

 「あたしね」マヤは打ち明けた「本当は異世界から来たの。墜落したあの飛行機っていう機械はこの世界のものじゃないのよ」

 ルーミアは目を丸くした。「ほんと?」

 「うん」

 「信じられない」

 「三ヶ月間ベッド上で言葉のレッスンを受けたとき、あたし何度も訊いたわよね、『他の世界地図ははないの、他の世界はないの』って。でもルーミアもクフールツ先生も『ない』って答えた。だから、この世界の人たちがあたしの住んでいた世界のことを知らないのはわかってた。自由に行き来することができるわけじゃないんだってことはわかってたわ」

 「でもどうしてそんなことに」

 「その原因をこれから見つけなければいけないの。そしてできれば……元の世界に帰りたい」

 ルーミアは、マヤの心中を思いやってか、悲痛な表情だった。「何か手がかりはあるの?」

 「ううん」マヤは首を振った「あるとすれば紫色の石の付いたペンダントぐらい。ここへ飛ばされる直前に光ったあの石が何なのかわかればね」

 「紫色の石?……あたしにはわからないわ」

 「どのみち、あたしは長期戦を覚悟してるから。そのためにはまず、この世界でどうやって生きて行くか考えないと」

 ルーミアはぱっと表情を輝かせた。「そっか。マヤは竜騎兵じゃなかったんだ。また戦場に戻っていくわけじゃないんだ」

 マヤはいたずらっぽく応えた。「それどころか無職で無一文よ、こっちの世界では」

 「住むところなら……うちに住めばいいじゃない。部屋も空いてるし」

 「ありがとう、そう言ってくれて。もしだめだって言われていたら、今日から早速野宿しないといけないところだったわ。でもそれ以前にあたしの体を治してくれた治療代だって払わなきゃいけないでしょ」

 「治療代なんて別に」

 「ううん、そういうわけにはいかないわ。どういう形になるかわからないけど、いつか必ず払うから」

 「でも……」

 その時不意に、マヤの背中に悪寒が走った。「くしょん」

 「あ、ごめん。マヤの体、冷え切っちゃったわね」ルーミアは水から上がるようマヤを促した。

 マヤに引き続いて、ルーミアは自らも岩盤の上に上がり、すぐさま持参していた鞄から大きなタオルを二枚取り出した。そして、その一方をマヤの肩に掛け、もう一方を自分が羽織ってから、目を閉じてぶつぶつと呪文を唱えると、彼女の胸の前に青い炎が現れた。

 魔法で作られたその炎は、見かけ以上に温かかった。炎のそばに立ってタオルで肌の表面に付いた水分を拭っているうちに、すぐに体が元の体温を取り戻した。

 するとルーミアはとても嬉しそうな表情で「実は『儀式』には続きがあるの」と言った。

 マヤが「続き?」と聞き返している間に、ルーミアは鞄の中から襟の付いた長袖シャツと長袖のズボンと下着のパンティとブラジャーを取り出した。「おろし立ての新しい服を着ることよ」

 「この服、あたしのために?」

 「うん。と言っても、別によそ行きの一張羅なんかじゃないわよ。新しければ普段着でも何でもいいの」

 「ありがとう。着てみるわ」

 マヤはまずパンティを手に取った。山矢健太だったときブリーフ派だったので、彼女はそれほど違いはないだろうと思い、あまり深く考えずにパンティに足を通し腰まで上げた。ところが、布が股間の部分に貼り付くようなその感触は、想像以上に違和感のあるものだった。

 そう思い始めると、マヤは「女物の服を身につけること」を必要以上に意識しだした。しかも次に身につけなければいけないのは、衣類の中で最も男女差の激しい(というか男用の存在しない)ものだった。ルーミアが差し出すブラジャーを前に、マヤは二の足を踏んだ。

 ルーミアは今度は「逃げ」なかった。「付けたくなかったら付けなくてもいいわよ。付けるのならあたしが手伝うわ」

 実際のところ、何かをためらっている人に決断を促す一番効果的な方法は、はっきりとものを言ってあげることである。ルーミアの言葉はマヤの背中を後押しするに十分であった。

 「じゃあ、付ける」

 ルーミアはマヤの後ろに回り、コツなど解説しながら、付けるのを手伝ってくれた。付け終わってみると、マヤは、布が膨らみを優しく包み込んで持ち上げてくれるその快さに舌を巻いた。ルーミアは「今日のために、寝たきりだったマヤの胸のサイズを測っておいたの」と、ブラがぴったりフィットしている理由を説明した。そう言われれば、測られた記憶がある。何かの検査の一環だろうと思い、マヤは全く気にかけなかったのである。

 あとは長袖のシャツを着、長ズボンをはくだけだった。シャツのボタンのかけ方が右が前になっているのも、ズボンを引き上げるとき大きく張った尻が邪魔になったのも、先ほどのブラジャーの衝撃に比べれば取るに足りないことだった。

 ルーミアは、マヤが服を着るのを手伝う合間に、てきぱきと自分の服を着た。

 「これで儀式終了」マヤのいでたちをしげしげと眺めながらルーミアは満足げに微笑んだ。「よく似合ってるわよ、マヤ」

 マヤはいたずらっぽい表情で「十六才の女の子に見える?」と尋ねた。

 「どこから見ても立派な女の子よ」ルーミアもおどけてみせた。「外見も、それに言葉遣いもね」

 するとマヤは怪訝そうな顔をした。「もしかして、今あたしが喋っているアウスグ語は女言葉なの?」

 「もちろん」ルーミアはくすくす笑いながら答えた。「あたしが、十代の女の子が話すような言葉をあなたに教えてあげたんだもの」

 「そうなんだ……」マヤはちょっと言葉を詰まらせた。「寝たきりだったとき、ルーミアが教えてくれる言葉が、ルーミア自身の話す言葉と似ているな、とは思ってたんだけど、でもそれは、アウスグ語では十代の人の言葉使いに男女差がないからなんだろうって思った」

 「じゃあ、男の子の言葉も教えてあげようか?」

 「そのうちにね。でも、教えてもらったとしても、使うべきかどうかわからない」

 ルーミアはマヤの複雑な心中を察し、それ以上その話題に触れるのを避けた。

 別の話題を探すために、ルーミアはぐるりと辺りを見回した。すると彼女は、恰好の「話題」を見つけた、とばかり、ある方向を指さした。

 「見て、マヤ」

 マヤはルーミアの指し示す方向に目をやった。水浴び場を取り囲むようにしてそびえ立っている岩の隙間から、さきほど訪れた墜落現場が垣間見えた。しかし先ほどとは何か様子が違う。

 ルーミアはマヤに「ねえ、マヤの住んでいた世界にも竜はいるの?」と尋ねた。

 そう言われて初めて、マヤは黒ずんだ地面の上に何か巨大なものが鎮座しているのに気づいた。

 「あれが竜……」

 マヤは一瞬言葉を失った。以前、ベッドの上から空を見上げたとき、何度か空高く飛ぶ竜を見たことはあったが、その時は、暇つぶしに時々プレイするTVゲームや、小さい頃見たファンタジー映画に登場した竜と、外見的にはさして変わりないという印象を受けただけだった。しかし実際に目の前で見てみると、その巨大さは彼女を圧倒せずにはおかなかった。翼を広げればおそらく彼の複葉機の二倍にはなるだろう。むしろ、外見が見慣れたものであることが、巨大であることの異様さ、迫力を却って際だたせていた。

 ルーミアは「きっと、このマキナスの森の奥に住む、竜の子供だと思う」と説明した。

 「あれで子供なの?あんなに大きいのに」

 「ううん、体の大きさはあれ以上成長しないわ。子供って言っても、人間で言えばあたしたちぐらいの年齢だから」

 「そうなんだ」

 そのうち、竜は今までじっとさせていた体を右へ左へ揺さぶるように動かし始めた。2Dグラフィックでも3Dポリゴンでもない本物の竜が動くさまは、マヤの心に新たな感動を呼び起こした。

 そのうち竜は首を下へ伸ばし、何を思ったか醜く黒ずんだ地面をぺろぺろと舐め始めた。

 「そんなもの舐めちゃだめ!」マヤは叫んだ。「地面にしみこんでいるのは『ガソリン』なのよ!」

 ルーミアはびっくりして「『ガソリン』って毒なの?」と聞き返した。

 マヤは答えた。「そうよ。あんなもの舐めたら、死んじゃうかもしれない」

 すると突然、ルーミアは何も言わずに走り出した。

 マヤは「どうしたの」と言ってそのあとを追いかけた。

 ルーミアは足を止めることなく「やめさせなきゃ」と応えた。

 彼女は泉のほとりをひた走り、竜からわずか十メートルしかはなれていない地点で足を止めた。

 竜は彼女の存在に気づいていないのか、いまだ地面を舐めるのをやめようとはしなかった。

 マヤはルーミアに追いつくと、彼女の背後から恐る恐る竜を見上げた。その威容には筆舌に尽くしがたいものがあった。

 ルーミアは竜に向かって「地面を舐めちゃだめ。毒がしみこんでいるの」と叫んだ。

 すると竜はゆっくり首をもたげ、不思議そうな顔をしてルーミアを見つめた。

 ──恐ろしそうな姿をしている割に性格は案外おとなしいものなんだな──そう判断したマヤは、小さくため息をついて胸の高鳴りを鎮めようとした。しかし彼女の認識は誤りだった。

 竜の表情は次第に険しいものとなった。そしてその巨大なしっぽを持ち上げ、目の前のルーミアを威嚇するかのようにぶんぶん振り回し始めた。

 ルーミアは一歩も引き下がらず、逆に「食べ物を横取りされると思ってるみたい」と解説する余裕さえ見せた。

 ──勇気があるのか単に竜に馴れているだけのかはともかくルーミアに任せておけば大丈夫だろう──マヤはそう考え、臆病にも彼女の背後に身を隠そうとした。

 その時マヤは気づいた。ルーミアの肩が小刻みに震えている。しかも、背後から見える限りの彼女の頬は蒼白色になっている。彼女は竜を助けたい一心で精一杯の虚勢を張っていたのである。

 もはや女の背後に隠れている場合ではなかった。仮にも──文字通り「仮にも」だが──自分は男なのである。保守的な考え方かもしれないが、ここは自分が前に出ていかねばならない。

 マヤは、ルーミアを半ば押しのけるようにして、怒れる竜の面前へと躍り出た。「よく聞いて。あなたがいま舐めたものは『ガソリン』って言って、この世界のものじゃないの。たぶんこの世界に存在してはいけないものなの。お願い。触れないで。あなたはそれに触れちゃいけない!」

 マヤの叫び声は、悠久の時を刻んできたマキナスの木々の間を響き渡った後、森の彼方へと消えていった。

 暫時の静寂が訪れた。

 次に聞こえてきたのは、竜が振り上げていた尻尾を地面に降ろす音だった。その表情に怒りの色は見られなかった。

 「よかった」マヤは胸元に手をやり、今度こそ安堵のため息をついた。胸の膨らみがちょっと邪魔だった。

 ルーミアはいつの間にか、マヤの背後でへたへたと地面に座り込んでいた。マヤは立ち上がろうとする彼女に手を貸してあげた。

 そこへ突然、竜がいままでもたげていた首をマヤたちのほうへ伸ばしてきた。マヤとルーミアは、強力な頭突きが繰り出されたものと思い、可能な限りの防御姿勢をとった。

 ところが竜は、頭部をマヤに接触させる直前で停止させ、口から舌を出してぺろぺろとマヤの頬を舐め始めたのだった。

 「あたし、気に入られちゃったみたい」

 マヤはそう言ってルーミアと顔を見合わせた。ルーミアはさも可笑しそうにくすくすと笑った。





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