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紅の装甲竜騎兵
作:YZA

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1 東京




 その日、東京郊外のその地点から見上げた空は、真っ青に晴れ渡っていた。

 本来ならやや濁って見えるその空も、都心から流れてくる排気ガスが昨日の雨と冬の先触れかと思われる冷気によって流されてしまったせいか、その青色の鮮やかさだけが強調されて見えた。まさに「天高く馬肥ゆる秋」などという使い古された言葉を実感せざるを得ない、そんな空模様だった。

 とは言え、その日の空は気象学で言うところのいわゆる快晴ではなかった。なぜなら、ほんの二つ、三つではあったが、白い綿雲が空の片隅から中央へと、時ならぬ寒風に吹かれて漂っていたからである。

 その場所の周囲には、あまり建物が建て込んでいない。電柱のたぐいも少ない。だから、ひとたび空を見上げれば、その視界には吸い込まれそうな青空と雄大な白い雲の見事な競演しか目に入らなくなる。

 また、大きな道路からも離れているため、車のエンジン音や、気短なトラック運転手が鳴らすクラクションの音に聴覚を邪魔されることもなかった。耳に聞こえてくるのは、少し離れたところにある住宅地からの、かすかな生活音だけだった。

 いや、違う。

 よく耳を澄ますと、ごく小さくだが、どこからか低い唸り声のような音が聞こえてくる。

 しかも、だんだん大きくなってゆく。

 大きくなるにつれ、その音がどこから発されたものであるか、明瞭に知覚されるようになった。それは、西の方向、しかもやや上方から聞こえてくる音であった。

 ふと西の空に目をやると、先程まで白い綿雲が陣取っていた空を、一筋の赤い矢のようなものが切り裂いていた。

 もちろん、本物の矢ではい。なぜならその赤い一筋は弓から放たれたかのようにまっすぐ的をめがけて飛んでいるわけではなく、むしろ、画家が青いキャンバスに赤い絵の具の付いた筆を走らせるがごとく、複雑な曲線を描いていたからである。

 そう、それは、真っ赤な複葉機だったのである。

 「すごい……」

 言葉を発したのは、高校生と思しき制服姿の少女であった。

 「ほんと……」

 相づちを打ったのは、やはり制服姿の少女だった。

 二人はぴったりと肩を寄せ合って西の空を見上げている。まるで気を許すとこの青空に吸い込まれてしまいそうだとでも言わんばかりである。もっとも、片方の少女は背がやや低く、もう片方はむしろ長身なので、肩を寄せ合っていると言うよりは肩と肘をくっつけ合っていると言うべきかもしれない。

 そんな二人のつぶやきを聞いてますます得意になったわけでもなかろうが、赤い複葉機が描く模様は更に複雑さの度合いを増した。楕円や8の字は単純な方だった。少女たちは今まで、飛行機がV字型の軌跡を描くなど想像したこともなかった。

 「ああっ、落ちちゃう!」

 複葉機が機首を下に向けたまま地面すれすれまで落ちてきたとき、背が低い方の少女は悲鳴を上げ、口に手を当てたまま身をこわばらせてしまった。背の高い方の少女はすでに喉さえ凍り付いてしまっていた。

 と、その途端。

 「大丈夫よ」

 少女たちの背後から柔らかな女声が響いた。

 すると、あたかもその声が合図であったかのように、複葉機は機首を下に向けたままふわっと浮き上がったかと思うと、カクンと機首を上に向け、今度は勢いよく、それこそ赤い弾丸のように一気に青空を駆け上がっていったのだった。

 「びっくりしたぁ」

 背の低い少女は自分の感情を素直に言葉で表現した。他方、背の高い少女は手を胸で押さえながら控えめに安堵のため息をついた。

 赤い複葉機が東の空の彼方に小さくなり、辺りに再び静かな秋のひとときが戻ってきたことを確認すると、少女たちは、背後にいるはずの、先ほどの声の主を求めて振り返った。

 そこに立っていたのは、これまた同じ制服を着た少女だった。

 肩のあたりで切りそろえられた髪、日焼けした肌、恐らく体育系のクラブ活動をしているのだろう、見るからに活発そうである。

 視線を向けられたというのに、その少女は依然として小麦色の顔を東の空のほうに向けいていた。

 背の低い少女はそんな彼女の様子にはお構いなしに、あくまでも自分のペースで

 「ほんと、すごいんだね、山矢君って」

 と言った。その大きな瞳は、喜び、楽しさ、興奮、好奇心といった、すべてのポジティブな感情ではち切れんばかりにきらきら輝いていた。

 一方、背の高い少女は

 「ほんと。でもちょっとびっくりしたわ」

 と、口の中でつぶやくように言った。背の低い少女とは違い、自分の心の中にある弾け出しそうな興奮をどう扱ってよいのか判じかねている様子だった。

 そこでやっと小麦色の顔をした少女は視線を天空から地上へと降ろし、

 「でしょ」

 と言って、心底嬉しそうに微笑んだ。

 背の低い少女は即座に言葉を返した。

 「うん。あたし、山矢君のこと見直した。あんなすごいことが出来るなんて」

 背の高い方もそれに続いた。

 「あたしも。だって山矢君って、普段はあんまり目立たないでしょ。いつも教室の窓辺でぼーっと空を見上げてばかりで」

 小麦色の顔をした少女はちょっといたずらっぽくそれに応えた。

 「目立たない、とかじゃなくて、変な奴って、はっきり言ってくれてもいいんだよ」

 背の高い方が「そんなつもりは」と言い返す前に、背の低い方が言葉を挟んだ。

 「ははは、変な奴か。でもほんとに変な奴だと思ってた」

 このはっきりしたものの言い方に背の高い少女はいつもはらはらさせられている。

 しかし、小麦色の顔の少女は、むしろ我が意を得たりといった様子で

 「そうなんだよねぇ。なんか得体の知れないやつなんだよね」

 と応えた。「それに顔がとりたてていいわけでもないし、背もあまり高くないし」

 「なのに」背の高い少女はおそるおそる口を挟んだ。「なのに『あの人』なの?」

 普段口数の少ないこの少女にペースを合わせたつもりなのか、小麦色の顔の少女は少し間をおいてから無言のままゆっくりとうなずいた。

 「あ、帰ってきたよ」背の低い少女はそう言って東の空を指さした。

 見ると、やや茜色を帯びてきた陽の光をその機体に反射させながら、赤い複葉機が軽やかに、優雅に舞い降りてきた。

 「いこ」

 小麦色の顔の少女はそう言って二人の友を促しながら、すでに駆けだしていた。

 その間にも複葉機は見る見る高度を下げ、やがて柔らかくなでるように滑走路へと滑り込んだ。

 小麦色の顔の少女の走るペースは、普段のクラブ活動で鍛えているせいか、はたまた別の理由からか、小走りと言うにはいささか速すぎた。

 「ああん、美玖、速い。ちょっと待ってよ」

 彼女の二人の友が息も絶え絶えに不平をこぼしているのが、彼女の耳にはもう届かないらしい。彼女の関心は駐機場に入って行く赤い飛行機を目で追うことにのみ注がれている。活発な彼女と、運動がそれほど得意でない二人との間の距離は開く一方だった。

 数分後に追いつくことが出来たのは、彼女が友の要求を聞き入れたからではなく、何か他の理由でぱったりと足を止めたからである。そこは駐機場のど真ん中だった。

 駐機場と言っても、もちろん旅客機の飛び立つ大空港のそれとは違う。この飛行場にあるのは大きくてもせいぜい個人所有の小型ジェット機にすぎない。それも頻繁に出入りするわけではない。辺りは閑散としていて、プロペラ機が一、二機、エンジン音を響かせてはいるが、案外静かなものだ。

 美玖と呼ばれた小麦色の顔の少女が足を止めたのは、先ほど舞い降りた赤い複葉機から三十メートルほど離れた場所だった。

 「美玖ったら」

 やっと追いついた二人の友は改めて不平をこぼそうとした。しかしすぐにやめた。相手にその不平を受け入れるだけの余地がないことに気づいたからである。そう、美玖という少女の視線は複葉機に──と言うよりも複葉機の操縦席横の扉を開けて出てこようとする人物に──釘付けとなっていたのである。

 それは、小汚い野球帽をつばを後ろにしてかぶり、ゴーグルを目ではなく額にかけ、真っ白なTシャツの上に古ぼけた革のジャケットを羽織り、黄土色のゆったりしたズボンをはいた少年だった。

 彼は地面に降り立つや否や周りの様子には目もくれず機体の前に回り、慣れた様子で今し方停止したばかりのプロペラをいじり始めた。

 「山矢君」

 美玖は声をかけた。そして、山矢と呼ばれたその少年がちらっと自分のほうを見、またすぐに視線をプロペラのほうに戻したのを確認してから、ゆっくりと複葉機のほうへ歩みだした。

 美玖の二人の友人には、その様子がまるでビデオのスロー再生のように映った。次の瞬間に何が起こるのか予想がつかなかったからである。

 美玖はどんどん進んでゆき、山矢少年のほんの一メートル手前でやっと足を止めた。

 しかし山矢の視線は完全にプロペラに固定されているようだった。

 「ちぃーっす」少し腰をかがめて山矢の顔を覗き込むようにしながら美玖は言った。「調子どう?」

 山矢はそこで再び視線を美玖に向け

 「ああ、いつもどおりだ」

 と応えた。

 「そっか」

 美玖はとても嬉しそうにそう言った。

 「ああ」

 山矢もわずかに口元をほころばせながらそう応えた。

 その瞬間、美玖の友人たちの心のVTRは、スロー再生から通常の再生へと変わった。

 「今日ね、友達連れてきたんだ」

 美玖はそう言葉を続け、友人たちのほうに視線をよこした。

 「同じクラスの川名理恵と本多智美。知ってるでしょ」

 すると山矢もつられて視線を向けてきた。ちょっと怪訝そうな顔をしている。

 「山矢君、こんにちはーっ」背の低い少女は待ってましたとばかりに複葉機のほうへ駆けだした。

 一方背の高い方は小さな声で「こんにちは……」と呟きながら、ためらいがちに飛行機のほうに近づいた。

 山矢は二人の挨拶に対しぶっきらぼうに

 「おう」

 と応え、またすぐに機械いじりに戻った。

 アクロバット飛行による緊張の余韻なのか、それとも、先程まで熱く燃えていたエンジンのすぐそばにいるせいか、山矢の額には大粒の汗が光っていた。一心不乱にエンジンを見つめるその眼差しは、普段学校では決して見ることのできないものだった。

 しかし、美玖の友人たちをもっと驚かせたのは、山矢の眼差しよりも、むしろそんな山矢を見つめる美玖の眼差しだった。

 まるで、持てるすべての感情を、想う相手にぶつけようとしているかのような……。

 彼女たちが機体のそばまでやってくると、山矢は機械を見つめたまま

 「相良、おまえ、部活はいいのか?」

 と美玖に尋ねた。

 美玖はちょっとばつが悪そうに

 「うん……。今日はサボリ」

 と答えた。

 「出なくていいのかよ」

 「いい……ことない」

 「じゃあ出ろよ」

 「うん……」

 さっきから何か言いたくてうずうずしていた背の低い方の友人はここぞとばかり口を挟んだ。

 「ねえ、山矢君、美玖が山矢君の飛行機の練習を見に来たら迷惑なの?」

 背の高い方の友人は、あまりにも直接的なその言い方に仰天し小声で「ちょっと、理恵ったら」と囁きながら彼女の制服の袖を引っ張った。

 しかし、当の本人はおろか、山矢も美玖もさほど気にしていない様子だった。美玖など逆に、いいことを訊いてくれたと言わんばかりの表情だった。

 山矢は答えた。「いや俺のほうは別に構わないんだけどさ、相良が部活続けられなくなったらやばいじゃないか」

 「なるほどね」背の低い少女の応えは意外にも素っ気なかった。しかしその表情が何かに納得したことを物語っていた。

 そこで山矢は機械いじりの手を止め、やにわに歩き出した。「部品が足りない。取ってくる」

 彼の姿は、五十メートルほど離れたところにある倉庫の中に消えていった。

 その途端、背の低い少女は美玖に向かって

 「許可します」

 と言った。

 美玖は当然「何を?」といぶかった。

 「美玖が山矢君に告白することを、です」

 友人はわざとくそまじめな表情を作ってそう答えた。

 美玖は呆れたように肩をすくめて

 「理恵、あんたいつからあたしの保護者になったの」

 と訊いた。

 「小学生の頃、あなたと同じクラスになったあのときからです」

 「はいはい、それはどうもありがとう」

 「ではもう一人の保護者の許可もいただきましょう」

 「はぁ?」

 背の低い理恵は、背の高い智美を見上げ発言を促した。

 「どうですか、保護者その二」

 智美はいきなりコメントを求められ、狼狽した。

 「え?いえ、そんな、許可とかそんなのじゃなくて、その……、ただ、美玖が好きな人がどんな人なのか、ちょっと見てみようと思っただけで、別にそんな……」

 「そういうこと」美玖はいかにも納得したと言いたげにうんうんとうなずいて見せた。「それで突然、山矢君の飛行機の練習を一緒に見に来たいなんて言いだしたわけね」

 「そうです」理恵はまだ保護者口調だった。「それでたったいま許可を与えてもよいという決定を下しました」

 「はいはいありがたく頂戴いたします」美玖はおどけて、何かを受け取り拝むような仕草をして見せた。

 「でも……」智美は申し訳なさそうに、大きな体を縮こめながら言った。「山矢君がどんな人かはわかった。その……ちゃんとした人だって。だから……あたしも許可を与えてもいいかな……」

 美玖はちょっと嬉しくなった。口調は依然として「わかりました、保護者様、ありがたく頂戴つかまつります」などとおどけていたが、自分のことを心配してくれる友人たちに感謝したい気持ちで一杯だった。

 「山矢君ね」美玖は語り始めた。「実は帰国子女なんだ。飛行機の操縦もアメリカで覚えたんだって。山矢君自身はずっとアメリカに住みたかったらしいんだけど、親に反対されたみたい」

 「じゃあ、あんまり喋らないのは……」理恵が美玖を見上げた。

 「うん、小さい頃は日本に住んでいたし両親も日本人だから発音は全然普通なんだけど、単語があんまりわからなくて、からかわれたことがあるらしくて」

 「そうだったの……」智美はまるで我がことを悲しむかのような表情をした。

 そこへ、山矢が戻ってきた。山矢は三人がいままで何か真剣な話をしていたらしいことに気づいているふうではあったが、敢えてそれを無視して再びエンジンいじりに取りかかった。

 智美は思った。山矢は決して鈍感ではない。ただ、いま美玖が語ったような事情でぶっきらぼうになってしまっただけだ。さっきだって美玖の部活のことを心配してくれたではないか。

 一方、理恵は美玖がなさなければならないある重要な仕事を思い出した。

 「ねえ、美玖、あれ、渡さないと」

 理恵に肘をこづかれて、美玖もその用件を思い出した。

 その用件。それは、その日の昼休み、気の弱い家庭科教師を丸め込んで(脅して)半ば強引に調理実習室を借り切り、こっそり持ち込んであった食材で作り上げた手作り弁当だった。山矢がいつも飛行機の練習の後、ファーストフードやコンビニのサンドイッチを頬張っているのを見て思い立った作戦だった。

 「そ、そうね、渡さなきゃ」

 美玖はめずらしく緊張気味だった。料理の腕にそれほど自身があるほうではなかったからである。

 しかし彼女はうじうじとした行動を好まない。何事に付けてもやるときは思い切ってやってしまう。それが彼女の持ち味なのである。

 美玖は覚悟を決め、弁当箱の入った巾着袋を山矢の目の前に差しだそうとした。

 ところがその瞬間。

 「やまやくぅぅぅぅぅん」

 どこからか、ねばねばと糸を引きそうなほど粘っこく甘ったるい女の声がした。

 美玖とその友人たちは、声の出所を探るべく首をぐるりと一周させた。しかし少なくとも背後には誰の姿も見あたらなかった。

 発見できたのは、首を体と共に三百六十度回転させ、元の向きに戻したときだった。驚いたことに、いつの間にか美玖と山矢の間の二メートルほどの空間に一人の女が割り込んでいたのである。

 美玖たちはあまりの唐突さに、文字通り呆気にとられた。

 女は確かに美玖たちと同じ制服を着ている。しかし彼女のことをここで「少女」と表現するのはいささか無理がある。なぜならその制服が描き出すボディーラインがあまりにも成熟したものだからである。いや体だけではない。女の顔立ち自体が、少し日本人離れしているせいもあってか、艶っぽい、大人の色香を醸し出していたのである。

 しかし美玖たちを驚かせたのはその登場の仕方や容姿だけではなかった。

 女はあろうことか、馴れ馴れしく山矢の腕を取ってその豊満な胸に包み込み、あげくその唇が相手のそれに触れてしまいそうなほど、顔を接近させたのだった。

 「ハーイ、山矢君。お元気?」

 女のなまめかしい唇から甘ったるい吐息とともにそんな言葉が漏れた。

 山矢はそれに対し、無表情のまま「おう」と答えただけだった。

 「山矢君たら、相変わらず素っ気ないんだから」女は不満げだった。「ねえ、『ケンタ』って呼んじゃだめ?同じ帰国子女同士なんだから、別に構わないでしょ。そしたらもっと親しくなれると思わない?」

 「やめろよ」山矢はあくまでもクールだった。「苗字でいい」

 美玖の友人たちはようやく初期の混乱から立ち直りつつあった。冷静になった頭でよく考えてみると、あの女には見覚えがあった。確か彼女はスペイン人だったかイタリア人だったかのハーフで、今年の四月に美玖たちの高校へ転校してきたばかりの二年生だったはず。一応、美玖たちの一年先輩ということになる。

 「あの」理恵は、智美よりもさらに十センチ背の高いその女を見上げながら訊いた。「山矢君のお知り合いですか」

 女は大袈裟に驚いて見せた。いま初めて美玖たちの存在に気づいた、と言わんばかりに。「山矢君、彼女たちは誰?」

 「同じクラスの女子たちだ」

 「ふーん」

 女は彼女たちを値踏みするような目つきで、美玖、理恵、智美の順に眺めた。そして最後にもう一度美玖の顔を睨み付け、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

 「わたしは八木沢ソーニャ。山矢君の最も親しい友達。そしてたぶん……恋人候補」

 さっきからずっと固まったままだった美玖が体をぴくりとさせた。

 「ち、ちがうだろ」さすがの山矢も少し狼狽したようだった。

 ソーニャと名乗った女は「うふっ」と妖艶な笑みをこぼした。

 美玖たち三人はまず理恵がはっきりとした口調で

 「川名理恵です」

 と名乗り、次に智美が消え入りそうな声で

 「本多智美です」と続き、最後に美玖が、彼女にしては珍しく呟くような声で

 「相良……美玖です……」

 と自己紹介した。

 「よろしくね」ソーニャは感情のこもらない口調でそう答えた。もはや彼女の関心は美玖たちにはないらしい。「ねぇ、山矢君」

 「なんだ」

 ソーニャは手にした小さなバッグの中から何かを取り出し「これ」と言って山矢に手渡した。「プレゼント」

 山矢はそれを手でつまんで目の前に垂らした。それは銀色の鎖にぶら下げられた紫色の小さなペンダントだった。

 「あなたにあげる」

 「俺に?」

 「もうすぐアクロバット飛行競技会があるでしょ。この紫色の石は値段は高くないんだけど、わたしの生まれ故郷では幸運と安全のお守りとして大事にされているものなの。山矢君の実力なら史上最年少優勝は間違いなし。でも万が一ってことがあるから」

 山矢は瞬時、黙り込んだ。そして、ペンダントとソーニャの瞳を見比べた。きっとそれは時間にすれば一秒にも満たなかっただろう。しかし、美玖たちにしてみればそれは永遠にも等しい長さだった。なぜなら山矢が次にとる行動が予想できなかったから──いや、本当は、予想はできていたのだが、その予想通りのことが現実に起こって欲しくないという願望があったから──だった。

 「わかった。もらっとくよ」山矢は無情にも、それを受け取ってしまった。

 理恵の傍らで再び美玖の体がぴくりと動いた。

 「あ、あの……、山矢君……」美玖はなんとか声を絞り出した。「あたしたちそろそろ帰るね……」

 山矢は視線を久々に美玖のほうに向けた。

 「そうか……」

 山矢の反応は相変わらずぶっきらぼうだった。しかし理恵と智美にはその口調が、いつも通りの素っ気なさにも思えたし、いつもとは違う、何か余韻めいたものを残しているようにも思えた。

 「じゃね」美玖はくるりと向きを変え、来たときと同じ勢いで駆けだした。

 理恵と智美はその場で一礼をしてから美玖の後を追いかけた。

 二人が次に美玖に追いつくことができたのは飛行場にほど近いバス停のベンチ前だった。一分ぐらい前に到着していたはずの美玖は、すでにベンチに腰掛け、弁当箱入りの巾着袋を手に提げたまま、がっくりと肩をうなだれていた。

 そんな彼女を前にして、友人たちはかけるべき言葉を見つけあぐねた。

 「ふふっ」突然、美玖が小さな笑い声をあげた。「あたし、何やってんだろ」

 「美玖……」

 「なんか、バカみたい。一人ではしゃぎまくって。山矢君はあたしにアクロバット飛行競技会のこと教えてもくれてなかった。でもあのソーニャって女は知ってた。あたしは山矢君の練習を見に来るようになってからまだ二ヶ月。きっとあの女はもっとずっと前から山矢君と親しかったんだよ」

 「そんなことわからないじゃない」理恵が言った。

 「だってあんなに親しそうだったし」

 「彼女は外国育ちなのだから、きっとあれが普通なのよ」智美が反論した。

 「いくら外国育ちでもあれは特別だよ。バカみたい、あたしバカみたい。理恵や智美にも迷惑をかけてお弁当作るの手伝わせたりして、ホント、バカみたい」

 「ううん、それは違うわ」智美が珍しくきっぱりと言った。「迷惑なんかじゃない。あたしたちがあなたの世話を焼いたのはそうすることが楽しかったから。うまく言えないけど、あたしたちはあなたと喜びや楽しみを共有したかったの。決して迷惑なんかじゃないわ」

 「でも」

 「智美の言うとおりよ」理恵はいつも通りはっきりとものを言った。「あんたにバカなところがあるとすれば、それは現実を見てないところよ。山矢君、あのソーニャって女に抱きつかれて喜んでた?恋人候補って言われて肯定した?美玖、あんたは勝手な想像を膨らませてうじうじと思い悩むようなタイプじゃないでしょうが」

 「理恵、智美……」美玖は顔を上げ二人の友の目を交互に見つめた。

 「きっと大丈夫よ」智美が応えた。

 「今日はお弁当渡し損ねたけど、次は必ず、ね」理恵もそう励ました。

 「うん……、わかった」

 美玖は自嘲に満ちた作り笑いを捨て、やっと本来の晴れやかな笑顔を取り戻した。





 その後、理恵が学校でそれとなく探り出したところによれば、実は山矢はアクロバット飛行競技会のことを美玖にもソーニャにも誰にも言わないつもりだったのに、山矢がコーチと話すのをソーニャが立ち聞きして知ってしまったらしい、とのことだった。

 もちろん美玖は山矢に、競技会に応援に行くことを申し出た。山矢は、こちらも当然のごとく難色を示した。競技会の会場が遠くて交通の便が悪いことがその理由だった。しかし、美玖は持ち前の積極性でなんとか山矢から同意を取り付けた。ただそれと引き替えに美玖が部活をさぼって飛行場へ練習を見に来るのを控えるよう約束させられた。その結果、先日失敗に終わった弁当作戦に再チャレンジする機会が、競技会の当日まで訪れないこととなってしまった。

 それから十日後の日曜日、遂にその日が来た。

 美玖は朝三時に起きて弁当の支度にかかった。関東の某県にある競技会会場までは電車バスを乗り継いで二時間半ほどかかる。その上、日本の競技会に出るのが初めである山矢は、新人扱いのため、演技の順番が早いのである。もっともそのおかげで、演技が終わった後にお昼ご飯としてゆっくり弁当を食べてもらうことができるのだが。

 五時に最寄りの駅前で理恵、智美と待ち合わせていつもの路線に乗る。普段はお目にかかることのできない閑散とした都心を抜けるころ、ようやく陽が昇り始めた。某県方面へ向かう電車は対面式クロスシートだったため美玖と理恵は遠慮なく体を伸ばして居眠りをした。智美も眠くて仕方がなかったが乗り過ごすことを心配して結局、一睡もしなかった。

 某駅から乗り継いだバスの中で、智美は持参してきた雑誌を拡げて美玖に見せた。そこには『史上最年少で優勝を狙う天才パイロット山矢健太』という記事が小さく掲載されていた。この前ソーニャが言っていた「山矢君なら優勝間違いなし」という言葉は、決して大袈裟ではなかったのである。

 そのうち美玖と理恵がうつらうつらし始めた。心配性の智美は乗り過ごしはしないかとまたやきもきした。しかしそれは杞憂だった。

 「見て」

 理恵が窓の外を指さした。

 三人で山矢の練習を見に行ったあの日と同様、いやあの日以上に晴れ渡っている真っ青な空に、セスナ機が一機、ぐるりと輪を描いたのだった。

 バスを降りた後も美玖たちは会場までの道のりを迷うことはなかった。青空の中で優雅に舞踊する飛行機を目指して歩けばよかったからである。

 彼女たちは一般の客席を通り過ぎ、関係者以外立入禁止という看板の前で睨みをきかせている係員に、山矢に昨日渡されていた通行証を見せ、奥へと進んだ。

 山矢たちが陣取っている場所はすぐにわかった。観客にアピールするために派手に塗装された無数の飛行機の群の中にあっても、あの真っ赤な複葉機はひときわ目立つ存在だった。

 「山矢君」美玖は機体のそばに立つ山矢の背中に声をかけた。

 山矢はすぐに振り向き「おう」と、いつも通りぶっきらぼうな相づちを返してきた。

 美玖は彼のそばまで歩み寄り

 「頑張ってね」

 と言った。

 「おう」

 「あの、山矢君」美玖は今度は一瞬もためらわなかった。「これ、お弁当。演技が終るころちょうどお昼でしょ」

 「ああ」山矢は、美玖が差し出した巾着袋をまじまじと見つめた。

 「食べてね」

 理恵と智美はそのとき初めて見た。あの山矢健太が本当に嬉しそうに微笑むところを。

 「ああ、わかった」

 瞬間、山矢と美玖の存在するその空間が、暖かい色で包まれた。理恵と智美にはそう感じられた。それは本当に心地よい空間だった。本来第三者にすぎない彼女たちにとってさえそうなのである。美玖本人の感じている喜びが一体どのようなものなのか、彼女たちには想像もつかなかった。

 しかし次の瞬間、その空間の調和は、突然流れ込んできたドぎついピンク色によって乱されてしまった。

 「やまやくぅぅぅぅん」

 ソーニャだった。ド派手なピンク色の超ミニワンピースを着たソーニャが、その大きな体からは信じられないような敏捷さで、山矢と美玖の間にするっと割り込んだのである。

 「ハロー、山矢君」

 「お、おう」山矢もびっくりした様子だった。

 「頑張ってね。絶対優勝してね」ソーニャはこの前と同様、山矢の腕を取って胸の谷間にに押しつけ、彼の顔から十センチほどのところにまでその唇を近づけて話した。

 「ああ、頑張る」

 「ねえ、わたしのあげたお守り、持ってる」

 「あ?あの紫色の石のついたペンダントか?たぶんどこかにあると思う」

 「お願い、演技中は必ず首に掛けて。大切なお守りだから」

 「ああ」

 「絶対よ」

 「わかったよ」

 山矢とソーニャが仲むつまじく話すさまを他人が見れば、まず間違いなく恋人同士だと思うだろう。理恵と智美は心配になって、恐る恐る美玖のほうに目をやった。

 ところが美玖は、堂々と胸を張ってソーニャを睨み付けていた。口元に不敵な笑みさえ浮かべている。

 理恵と智美は取り敢えず安心した。ただ、ここでもう一つ別の心配事が生じた。美玖のあの挑戦的な視線にソーニャがどう反応するか、ということである。

 ソーニャも美玖の視線に気づいた。まさかこんなところで修羅場を演じることになるのだろうか。智美の心配症はその度を極めた。

 ソーニャはしかし、その視線を軽い微笑みでいなし、山矢に「じゃあね」と声を掛けてから、出現時と同じ敏捷さで、するりとその場を去っていったのだった。

 後に残された四人は呆然とその背中を見送った。

 彼らがようやく我に返ったのは「おい健太」という、男の人の声がしたときだった。

 「コーチが呼んでる」山矢が言った。「俺、そろそろ準備しなきゃ」

 「うん、わかった」美玖が応えた。「頑張ってね」

 「ああ」

 「じゃあ、またあとで」美玖はきびすを返そうとした。

 「あ、相良」山矢は唐突に美玖を呼び止めた。

 美玖はちょっとびっくりした。「何?」

 「俺、演技が終わったらお前に言いたいことがある。ずっと前から言いたいと思っていたことなんだ」いつも伏し目がちに話す山矢が珍しく美玖の目を見つめていた。

 美玖は最上の微笑みを返した。「うん」

 「じゃあな」山矢はくるりと背を向け、複葉機のほうへ歩いていった。

 「さて」美玖は友のほうを振り返った。「あたしたちは観客席のほうへ移動しよ」

 「うん」理恵と智美はうなずいた。





 いよいよ山矢の演技の順番が回ってきた。

 「エントリーナンバー三番。山矢健太。東京」

 DJふうの場内アナウンスがそう告げると、それほどたくさんはいない観客たちの間から控えめなどよめきがわき起こった。山矢健太の名は結構有名らしい。

 「山矢君」

 美玖は祈るように独り言ち、弁当箱入りの巾着袋を握りしめた。そして少し離れたところにある飛行場からあの赤い複葉機が飛んでくるのをじっと待った。

 ところがどういう訳か、いつまで経っても山矢の機体は現れる気配を見せなかったのである。







2 マキナスの森




 その日、アヴニ村近郊のその地点から見上げた空は、真っ青に晴れ渡っていた。

 いつもはやや霞がかって見えるその空も、近隣の山々から流れてくる湿気が、真冬の再来かと思われる冷気によって流されてしまったせいか、その青色の鮮やかさだけが強調されて見えた。まさに「春爛漫」などという使い古された言葉を実感せざるを得ない、そんな空模様だった。

 とは言え、その日の空は魔道学で言うところのいわゆる快晴ではなかった。なぜなら、ほんの二つ、三つではあったが、白い綿雲が空の片隅から中央へと、時ならぬ寒風に吹かれて漂っていたからである。

 その場所の周囲には、あまり樹木が立て込んでいない。立っていたとしてもまだほとんど葉を付けていない。だからひとたび空を見上げれば、その視界には、吸い込まれそうな青空と、雄大な白い雲の見事な競演しか目に入らなくなる。

 また、川のせせらぎからも離れているため、水が岩の間を流れ落ちる音や、村の女たちが洗濯がてら発する陽気な話し声に聴覚を邪魔されることもなかった。耳に聞こえてくるのは、カッコーの巣で小鳥たちがたてる、かすかなさえずり声だけだった。

 いや、違う。

 よく耳を澄ますと、ごく小さくだが、どこからか低い唸り声のような音が聞こえてくる。

 しかも、だんだん大きくなってゆく。

 大きくなるにつれ、その音がどこから発されたものであるか、明瞭に知覚されるようになった。それは、西の方向、しかもやや上方から聞こえてくる音であった。

 ふと西の空に目をやると、先程まで白い綿雲が陣取っていた空を、一筋の赤い矢のようなものが切り裂いていた。

 もちろん、本物の矢ではなかった。なぜならその赤い一筋は弓から放たれたかのようにまっすぐ的をめがけて飛んでいるわけではなく、むしろ、親鳥から飛び方を教わったばかりの小鳥のように、ふらふらと危なっかしい軌跡を描いていたからである。

 「あれは……?」

 言葉を発したのは、白魔道士と思しき少女だった。

 「竜騎兵……」

 問いに答えたのは、少女自身だった。と言うより、その場には彼女一人しかいなかった。

 「こんな田舎に竜騎兵が現れるなんて……珍しいわね……」彼女は独り言を続けた。「ここもそのうち戦場になるのかしら……」

 やがてその危なっかしい赤い一筋は、ぐにゃりとぎこちなく向きを変え、少女の立っている場所へ向かって降下を始めた。

 「こっちへ来る……。アヴニ村に用があるのかしら」

 その途端。

 「あっ」

 その赤い物体から黒い煙が上がった。よく見ると、その物体は頭と思しき部分を下に向けていないばかりか、むちゃくちゃに回転しながら高度を下げつつあったのである。

 「降下じゃない。墜落しているんだわ!」

 そう叫ぶや否や、彼女は脱兎の如く走り出した。

 彼女の推測によれば、その物体はおそらく村の向こう側、マキナスの森の辺りに落ちるはずだった。

 彼女は一目散に村へ駆け戻った。

 村ではすでに、異常事態を察知した村人たちが多数、広場や街路に出て西の方向を仰ぎ見ていた。

 「お父さん!」

 少女は、村人の群の中に自分の父親を見つけ、そう叫んだ。

 「ルーミア!」父親はそう言って少女に一瞥をくれたが、すぐに赤い物体のほうへ目を戻した。

 ルーミアと呼ばれた少女は「竜騎兵の乗った竜が墜落するわ」と言い残して駆け足のまま父のそばを通過した。

 「わかった、お父さんもすぐ行く。おい、ルーミア、待て、危ないぞ……」ルーミアが足を止めなかったため、父親の声は背後でフェードアウトしていった。

 彼女が反対側の村の出口を出、マキナスの森の入口に達したとき、地響きと共にどーんと大きな音がした。

 「泉の近くに落ちたみたいだわ」

 アヴニ村の村民にとって、マキナスの森は食糧の供給源であり、憩いの場であり、子供の遊び場でもあった。自分の家の裏庭と同じくらいマキナスの森を知っていた。ルーミアの足は、ルーミア自身が知覚するよりも前に泉への最短進路をとっていた。

 しかし彼女は、泉があったはずの場所に彼女の知っている光景を発見することができなかった。

 「すごい火……」

 彼女の足は、山のように巨大な炎の前で、すくんで動かなくなってしまった。

 火の周りでは、彼女に先んじていた勇気ある若者たちが、すでに消火活動を開始していた。ある者は人手の不足を、ある者は泉の水を汲み出す桶の不足を、ある者は森の樹木へ引火することの危険性を叫びながら、まさに決死の覚悟で炎と格闘していた。

 そこへ、数人の男たちと共にルーミアの父親が追いついてきた。

 「ルーミア!」父は、身をこわばらせているルーミアの肩を抱き、火から遠ざけようとした。「危ないからルーミアは村へ戻れ」

 「お父さん」

 「あの火は油が燃えている火だ。きっと敵の城に火をかけるつもりで油をたくさん積んでいたのだろう」

 「油?」

 「そうだ。油の中には爆発する種類のものもある。そうなったら辺り一帯は火の海だ。早く戻れ、ルーミア」

 そう言っているうちにもルーミアの父は二歩三歩とルーミアを火から遠ざけていた。

 そのときルーミアは見た。炎の中で人の形をした物が、ばさっと崩れ落ちるのを。

 「お父さん、人!」

 父は炎には一瞥もくれず、更に五歩六歩と我が娘を後退させた。「あの竜騎兵には可哀想だがあれだけ炎が強くては骨の髄まで黒焦げになるだろう。もはやおまえが『再生の術』を用いたとしても助からん」

 突然、ルーミアは

 「だめ!」

 と叫んだ。

 「あたしが助ける!」

 父は文字通りびっくり仰天してしまった。「何を言い出すんだ、ルーミア。爆発するかもしれないんだぞ。火の海になるんだぞ。向こうを助けるとか言う前にこっちが助からないかもしれないんだぞ」

 ルーミアは激しく首を振った。「あたし、お母さんの命を病気から救ってあげることができなかった。ずっと悩んでいたの。これじゃ何のために白魔道士になったのかわからないって。お願い、お父さん、助けに行かせて。あたしこれ以上人が死ぬのを見たくない」

 「ルーミア……」父親はこれ以上止めても無駄であることを悟った。「わかった、ルーミア。一緒に火を消そう。一分でも一秒でも早く火を消せば、残った魂のかけらからあの竜騎兵の肉体を再生できるかもしれない」

 「ありがとう、お父さん」ルーミアは父親の腕をふりほどき燃えさかる炎へ向かって駆けだしていった。

 父もそのあとに続いた。

 魔法が使える彼ら父娘の仕事は、念動力で複数の桶をいっぺんに操って泉から水をすくい、その一部を若者が腕力で運ぶのに委ね、残りをそのまま念動力で炎にぶちまけることだった。

 父は思った。我が娘はいつの間にこんなに責任感の強い人間になったのだろう。ついこの間まで、人見知りする、気の弱い小さな子供にすぎないと思っていたのに。それに引き替え、人の命を救うという本来の仕事を放棄して真っ先に逃げようとした自分は白魔道士失格だ。もし万が一のことがあったらこの命に代えても娘のことを守ってやろう、と。

 その後数時間に渡って、アヴニの村民たちは炎との死闘を繰り広げた。





 夢には二種類ある。

 一つは現実に起こったことを回想する夢、ないしありふれた日常の光景を見る夢。

 もう一つは全く起こりそうにない、非現実的な光景を映す夢である。

 山矢健太がそのとき見ていた夢は前者、それも現実に起こったことをVTRのように忠実に再生する夢であった。

 夢の中で、彼は愛機である真っ赤な複葉機の操縦席に座っていた。目の前にはコーチの顔、次に誰かが出発の合図をする光景が映し出された。

 ──そうだ。俺はいまアクロバット飛行競技会の演技を始めるところなんだ──

 彼がペダルを踏み操縦桿を引くと、彼の愛機は軽やかに大空へ舞い上がった。

 機体のコンディションは完璧、体調も万全だった。程良い緊張感が集中力を高める役割を果たしていた。

 そしてその精神の真ん中には闘志が、静かに激しく燃えていた。

 更にその奥、彼の本能が存在する部分に、もっと根元的な、別の感情が陣取っていた。もちろんその感情が集中力や闘志を邪魔することはなかった。むしろ彼の心身にエネルギーを注ぎ込んでいるようにすら感じられた。

 彼は不思議だった。今までこんな気分になったことはなかった。と言うより、このような感情は肉体的にも精神的にも妨げにしかならないだろうと想像していた。

 ふと、彼は胸に何かがぶら下がっていることに気づいた。

 ──ペンダント──

 そう、複葉機に乗る前に誰かに言われて首に掛けたのだった。誰に言われたのか今は思い出せない。

 彼は演技のための十分な高度を確保するために愛機をどんどん上昇させていった。もちろん上昇と言っても、地上にいる観客や審査員が演技を見られる高度までである。その程度の高さでは、空気が薄くなって息苦しくなるなどということもないはずである。

 なのにどういう訳か、彼は息苦しさを覚えていた。

 ──どうしてこんなに息苦しいのだろう──

 すると彼の心の奥底から、聞き覚えのあるようなないような声が囁きかけた。

 《ペンダントを外して》

 ──そうか、息苦しさの原因はこのペンダントか──彼は声の命ずるまま、ペンダントを右手でひっ掴み、首から取り去った。

 と、突然。

 右手の中でペンダントが紫色の光を強烈に放ち始めた。

 ──なんだこれは?!──

 次の瞬間、彼の目の前の青空が裂け、どす黒い割れ目が現れた。

 彼は身の危険を感じ、その得体の知れない割れ目を避けるため操縦桿を右へ倒そうとした。

 ──操縦桿が動かない!──

 彼の愛機はすでに前方に進むことさえやめていた。右とも左とも上とも下ともわからない方向へ、とてつもなく強大な力で引っ張られていたのである。

 ──ぐわああああぁぁぁぁっ──

 割れ目から噴出した真っ黒いもやのような物が彼の体を包み込んだ。やがて彼の肉体から徐々に感覚が失われていった。

 もやのような物は、次に彼の精神を浸食し始めた。だんだん意識が遠のいて行く。

 彼の脳裏からすべての感覚とすべての記憶とすべての感情が消えつつあった。

 意識を完全に失う直前、精神の中に最後に残されていたものが実体となって見えた。それは見覚えのある顔だった。

 ──相良……美玖……──

 そこで彼の意識はすっぽりと黒いもやの中に埋没してしまった。





 山矢が意識を取り戻したとき、彼はまだ暗闇の中にいた。

 一瞬、まだあの黒いもやの中にいるのか思い、叫びだしそうになった。彼をパニックに陥る一歩手前で引き戻したのは、遠くから聞こえてくる、朗らかなカッコーの鳴き声だった。

 聴覚によって、取り敢えず自分があの忌まわしい黒いもやの中にいるわけではないことを理解すると、彼の関心は視覚のほうへ移った。

 しかし、目を覆っていると思われる何かを取り払うために本能的に手を動かそうとした瞬間、彼の精神は新たなパニックを引き起こしそうになった。

 ──手が動かない──

 手だけではなかった。腕も肩も、膝も足も、首も唇も、いやうめき声を上げるために喉や舌を動かすことも息を送り込むこともできなかったのである。

 彼は心の中で声にならない叫び声をあげてわめいた。しかし、心をどんなに大きく揺さぶってみたところで、彼の肉体は一ミリの百分の一すら動かなかった。ショックのあまり彼の精神は崩壊寸前かと思われるところまで興奮の高みに上り詰めた。

 ふと、そのとき。

 彼は、鈴を鳴らしたような優しい柔らかい音色を聞いた。

 最初それが何の音なのかわからなかった。やがて落ち着きを取り戻すと、それがどうやら人の声──恐らくは若い女の声──だと理解できるようになった。

 次に女が声を発したとき、山矢はその声が何と言っているのか理解しようと耳を澄ませた。

 彼は小さい頃から言葉に苦労させられていた。両親の仕事の関係でアメリカに移り住んだときは英語に悩まされ、帰国してからは日本語に悩まされた。そう言う経験があったから、彼は相手の言っていることが理解できない場合、それは相手のしゃべり方の問題ではなく、自分の聞き取り能力の欠如によるものだと考える癖がついていたのだった。

 ところが女の発した音声は、彼の脳裏にあるいかなる単語とも──英単語とも日本語の単語とも──符合しなかったのである。

 声のほうはわからなかったが、彼女の発した足音が彼のすぐそばまで近づいてきたことはわかった。続いて、彼女が彼に覆い被さるような体勢を取り、体のあちこちをいじっているらしいことも理解できた。幸いにして、感覚神経のほうは手や足の先を除けばほとんど問題ないらしかった。

 女がまた何か言った。改めて聴覚を研ぎ澄ませてみたが、やはり理解できなかった。

 そのうち女は彼の目の辺りをさわり始めた。目の周りの皮膚感覚から判断すると、どうやら目の周りに包帯が巻かれているらしかった。いや、目の周りだけではなかった。全身の皮膚感覚を最大限に動員して感知したところによれば、彼は頭のてっぺんから足の先まで包帯でぐるぐる巻きにされているようだった。

 そこで女の足音は一旦、彼のそばを離れた。そのときにも二言三言喋ったようだったがもちろん山矢に理解はできなかった。

 山矢はふと考えた。女の話す言葉、よく聞くとポリネシア系の人たちが話す言葉に似ていなこともない。両親と共にハワイを訪れたとき聞いたことがある。もしかしたら自分は何かの事故に巻き込まれて太平洋に墜落し、そのまま南の島にまで流されてしまったのではないだろうか。

 その次に聞こえてきた音はカーテンを閉めるような音と、再び女が近づいてくる音だった。引き続き、女の手が彼の目の周りをまさぐる感覚が伝わる。彼女が目を覆う包帯をほどこうとしているのは間違いなかった。

 遂に包帯は解かれた。瞼が周囲のひんやりした空気に触れた。しかし山矢はそれで見えるようになるとは考えていなかった。瞼も眼球も自分の思い通りに動いてくれないことは、先ほど嫌と言うほど思い知らされたからである。

 ところが、女が手のひらを彼の目に当て、口の中で経文のようなものをぶつぶつ呟くと、だんだん目の周りが温かくなり、こわばっていた神経が、ピザの上のチーズのように、柔らかく溶け出していったのである。

 女が何か言った。恐らく目を開けて見ろ、という意味なのだろう。言葉ではなく彼女の心が伝わってきた。そんな気がした。

 山矢はゆっくり目を開けた。目の前には、ヨーロッパ人ふうの顔をした少女が自分を見つめながら微笑んでいる光景が映し出された。





 ルーミアが墜落現場で助けた竜騎兵と思しき人物は、順調に回復しているようだった。

 ほとんど完全に肉体が焼け焦げてしまった状態からわずか一ヶ月後に意識が回復するまでになったのは、ひとえにルーミアの父の白魔道治療のたまものだった。少なくともルーミアはそう考えていた。父は、ルーミアのかけた再生の術が素晴らしかったからだと珍しくルーミアを褒めた。でもルーミア自身は自分など亡き母の足下にも及ばないと思っていた。

 肉体的な回復の順調さとは裏腹に、医術に携わる者のもう一つの務めである患者の精神的なケアのほうは、あまり芳しいとは言えなかった。なぜならその患者には言葉が全く通じなかったからである。

 ルーミアは、地元のアウスグ語と、魔道学校に通うために三年ほど王都エランに滞在していたとき覚えたエラン語は問題なく理解でき、あと魔道書を読むために習ったガング語と古代ヒルバニア語なら何とか理解できた。しかしそのいずれの言語で話しかけても、その患者は反応してくれなかった。もっとも、古代ヒルバニア語などという、とっくの昔に使われなくなった言葉が通じるとは、最初から思っていなかったが。

 患者が竜騎兵であるとすれば、ルーミアたちと同じエラーニア王国民の兵士か、さもなければその敵対国であるハバリア人の兵士である可能性が高い。エラーニアのいわば「標準語」であるエラン語が全く通じない以上、患者はハバリア人と考えるのが筋だろう。

 ルーミアは父に、ハバリア語ができる人が知り合いの中にいないか、さもなければハバリア語の辞書を手に入れる方法はないか尋ねた。

 しかし父はルーミアの推論に異を唱えた。回復状況を確かめるために何度か包帯を解いてみたが、顔の皮膚が再生するにつれて、患者の顔立ちが東洋系のものであることがはっきりしてきた。なぜ東洋人がこんなところを竜で飛行していたのかはわからないが、もしかしたらハバリア帝国では戦力を補うために東洋人の傭兵を雇うこともあるのかもしれない、と。

 ルーミアは考えた。意思を疎通させるには、自分が相手の言葉を覚えるか相手に自分の言葉を覚えさせるしかない。自分が相手の言葉を覚えるためには相手に主導権を握ってもらわなければならないが、あの患者はいまそういうことができる状態ではない。とすれば、こちらの言葉を相手に覚えてもらうほうがよいということになる。たとえ寝たきりでも自分や父の話す声、窓の外で誰かが会話している言葉を漏れ聞いているうちに覚えるということもあるだろうから、きっとそっちのほうが早いはず。

 そう思い立つと、ルーミアはすぐさま身の回りのものを手当たり次第かき集めて例の患者の病室に持ち込み、それらを床に並べた。患者はまだほとんど体を動かすことができなかったが、ルーミアが何か騒々しい音を立てているのを聞き取って、目と瞼だけで怪訝そうな表情をした。

 ルーミアはまず「これ」「あれ」という最も基本的な単語から始めた。患者は最初戸惑っていた様子だったが、すぐにルーミアの意図を察し、積極的に反応してくれるようになった。とは言え、相手はまだ声が出せない。反応といっても、ルーミアが身振り手振りで「わかった?」と尋ねるのに対し、「YES」の合図として瞼を一回閉じる、ということしかできないのである。

 ルーミアの父はその話を娘から聞いて、できるだけ早く患者の喉を再生して、声を出せるように努力しよう、と申し出た。ルーミアはその日が一刻も早く来ることを祈った。

 父の努力の甲斐あって、それからわずか五日後に患者の声が出るようになった。ただその声は、白魔法の力によって無理矢理繋げた声帯が不安定なため、かすれていると言うよりは、カエルを踏みつぶしたような奇妙きわまりない音声だった。あまりの奇妙さに、ルーミアは思わず腹を抱えて大笑いしてしまった。ルーミアの父でさえ笑いをこらえるのに必死だった。患者はせっかく出せるようになった声を使わずに目の動きだけで気分を害したことを表現した。父は、声帯を酷使しなければすぐに元通りの声が出せるようになるから、ということを身振り手振りで伝えた。患者はやっと機嫌を直し、最後には、ルーミアを笑わせるためにわざとゲコゲコ鳴いてあげるほどの余裕を見せるようなった。結局のところ患者の精神的ケアに一番有効なのは意志疎通なのである。ルーミアの父は改めてそう思った。

 その翌日から、アウスグ語のレッスンは急速にはかどり始めた。やはり、反応をすぐに見ることができるのとできないのでは雲泥の差だった。

 ルーミアの生徒はかなり優秀な生徒だった。レッスン一日目から床に並べてあった日用品の類を彼女が指さすと、患者は次々とその名をカエル声で呼び上げた。三日後には家の中にあるものと病室の窓から見えるものはすべてその名を言えるようになっていた。ルーミアは家の中にまだ何か覚えていない単語はないかとぐるりと見渡してみた。

 そのとき彼女はふと、本来最も早く覚えさせるべき単語をまだ教えていないことに気づいた。彼女は自分の愚かさを呪わずにはいられなかった。

 ルーミアは患者から見えやすい位置に立ち、自らを指さして

 「わたしはルーミア・クフールツです」

 と言った。

 すると患者はたどたどしく、しかしはっきりした口調で

 「ヤマヤ・ケンタ」

 と応えた。





 開け放たれた病室の窓から見える青空を、今日も一匹の竜が横切っていった。

 自分を看護してくれている少女──確かルーミアと名乗った──の説明によると、あの竜は一週間に二度、近隣の町から遠くの町へ定期的に郵便物を運ぶために往復しているのだという。

 あれがヘリコプターでも飛行船でもなく、本当に生きている竜だと知ったとき、山矢健太はそれほど驚かなかった。なぜなら、アクロバット飛行競技会でのあの「事故」以来身の回りに起こったことを総合的に判断すると、どう考えてみても、現在自分のいる場所が今まで住んでいた世界ではないことは明らかだったからである。

 最初、ルーミアやその父が自分を治療するのに手から緑色の光を出したり、物に手を触れることなく動かしたりするのは、奇術か何かだと考えることにした。言葉のレッスンの中でルーミアが世界地図だと言って見せてくれた紙片に、山矢の全く見たことのない形が描かれているのも、この地では、衛星写真から作られた正確な地図ではなく、いまだに何百年も前の古地図を使っているのだろう、と自分自身を説得した。しかし、毎夜、病室の窓から夜空を見上げているうちに気づいた事実は、決定的なものだった。夜空に浮かぶ月が、形は満月のまま欠けることがなく、表面の模様だけが毎日少しずつ変化していたのである。

 山矢は覚悟を決めた。というより、他にどうすることもできなかった。こうなった以上、一刻も早く体を治し、自分がこの世界に迷い込んでしまった原因を探り、そしてできるならば元の世界へ帰る方法を見つけなければならない。

 とは言え、二十四時間ベッドに縛り付けられているという今の状況は拷問に近かった。有り余る時間を少しでも効率よく消費するためには、言葉を覚えることに没頭するしかなかった。

 小さかった頃、周りの子供たちにからかわれながら英語を習い覚えた経験が、こんなところで役に立った。幸い、アウスグ語は発音が難しくなかった。実のところ、彼の英語の発音はあまり流ちょうなものではなく、それがからかわれる主たる原因となっていたのである。しかし今覚えつつあるこの言語は、少なくとも発音の点で彼を悩ませることも、からかいの原因となることもなさそうだった。

 しかも昔と違い今は周りに自分をからかう者はいない。いつも傍らにいるのは、自分が単語をたった一つでも覚えるたびに、お世辞ではなく心の底から祝福してくれる、優しい少女だけだった。

 山矢は最初、ルーミアは自分よりも年上だと思った。彼女は責任感が強く、看護士──山矢はそう思っていた──という仕事に対しとても勤勉で、また誇りを持っていた。すごく大人びて見えたのである。

 かと思えば、とんでもなく幼いことをするときもあった。昨日、山矢が発音練習中に不意にゲコゲコッとした声を出してしまったときなど、彼女は例によって大笑いしたあげく、何を思ったか突然緑色の服に着替えてきて、カエルのような作り声で「わたしはあなたの妹ガエルよ」と言い出す始末だった。

 そこで山矢は、女性に年齢を尋ねるのは失礼かとも思いつつも、まず自分は十六になったばかりだと告げてから、思い切って彼女に歳を訊いてみた。この世界の一年が彼の世界の一年と同じ長さなのか確信はなかったが、今までに聞いた話から判断すると、大きな違いはないだろうと思われた。

 すると彼女は、自分は十五歳だと答えた。

 山矢がルーミアは年上だと思っていたことをうち明けると、彼女は自分はそんなにおばさん臭いのかと言ってわざとむくれて見せた。

 しかし最後には笑顔に戻り、こう付け加えたのだった。

 「あたしは一人っ子で、近所に歳の近い子供もいなかったから、小さい頃は少し寂しい思いをしていたの。ヤマヤがあたしの兄弟代わりになってくれたら嬉しいな」





 患者が意識を取り戻してから二ヶ月経った。経過は順調だった。少なくともルーミアや父親の目から見ればそうだった。

 しかし、患者は不満だった。いまだに喉と口と目しか動かすことができず、おまけに声もカエル声のまま元に戻っていないことが患者には納得できないらしかった。

 ルーミアはまず、声のほうは父の言いつけを守らず患者に声帯を酷使させた自分の責任だ、と謝罪し、きっと肉体が完治する頃には治るはずだ、と見通しを述べた。次に体が動かない理由を説明するため、エラーニア王国の民なら小学生でも知っているような、白魔道の基礎知識を教えてあげることにした。どうもこの患者の故郷ではあまり魔道学が発達していないらしい、と考えたからである。

 男性白魔道士の役割と女性白魔道士の役割には違いがあり、男性のほうの仕事は肉体の再生、女性のほうは魂の再生である。自分のかけた再生の術によって患者の魂は再生したが、肉体を完全に再生するには、父のような優秀な魔道士でも三ヶ月から半年を必要とする。それまでは『不動の術』をかけて肉体の活動を完全に凍結させなければならないのだ、と。

 患者は一応納得したが、すぐに別の不平を漏らした。三ヶ月も体を動かさなかったら筋肉が完全に衰えてしまい、歩けるようになるまで更に半年も一年もリハビリしなければならないだろう、と。

 ルーミアは更に説明した。不動の術は肉体を、健康だったときの状態のまま、時間軸を越えて保存する。物理的に拘束しているのとは訳が違う。だから肉体が完治し、術を解きさえすれば、患者は怪我をする前と全く同じように活動することができる、と。

 すると患者は、辛うじて動かすことのできるすべての部分を使って喜びを表現した。叫び声の一部は患者の地元の言葉だったためルーミアには何を言っているのかわからなかったが、とにかく、患者の笑顔を見ることができたことは彼女にとっても無上の喜びであった。

 そこでルーミアは、いつものようにアウスグ語のレッスンを始めた。レッスンといっても患者はもうほとんどエラーニア王国の住民と同じように話せるようになっている。数週間前からレッスン内容は、言葉そのものを教えると言うよりも、雑談を通してアウスグ語の言語習慣──この単語はイメージが悪いのでこういう場面では使うべきではないといったような──を身につけさせるものになっていた。

 その中で、患者はこんなことを質問してきた。前から思っていたのだが、窓の外で男の子たちが話す声を漏れ聞くと、「わたし」を意味する単語が、ルーミアが使っているのともルーミアの父が使っているのとも違う。これはなぜなのか、と。

 ルーミアは説明した。アウスグ語では「わたし」を表す言葉が何種類もあり、年齢、性別、身分によって、使い分ける必要があるのだ。いままで一つしか教えなかったのは、混乱を避けるためだ、と。

 すると患者は言った。自分の故郷にも同じ言語習慣がある。「わたし」のことを男は『ボク』と言ったり『オレ』と言ったりするが、女は『ワタシ』か『アタシ』と言う。その他、語尾にも『〜デス』、『〜ダ』、『〜デアル』などがあり、状況によって使い分けることになっているのだ、と。

 ルーミアは応えた。アウスグ語も同じだ。年齢や性別に応じて別の言い回しを使わなければならないことさえあるのだ、と。

 患者は少し不安そうに尋ねた。ではいま自分の話しているアウスグ語は、自分の年齢や性別に合っているのか、と。

 ルーミアは

 「全然大丈夫。あたしがちゃんとあなたの年齢と性別に合った言葉使いを教えてあげたのだから」

 と応えた。

 「ただ一つ問題があるとすれば」彼女は付け加えた。「ヤマヤっていう名前は、あたしたちには少し発音しにくいの。ねえ、『マヤ』って呼んでじゃだめ?」

 患者は少し怪訝そうな顔をし、本当はヤマヤは苗字であって、ファーストネームではないのだ、とうち明けた。

 ルーミアが、ではケンタと呼ぶべきかと尋ねると、患者は、自分はファーストネームで呼ばれるのが嫌いなので苗字の方がいい、「マヤ」は自分の故郷ではどちらかと言うと……の名前だが、ルーミアたちが呼びやすいなら別にそれで構わない、と答えた。

 患者の発音が少し乱れたため聞き取れない部分があったが、構わないと言っているのだから問題ないだろう。ルーミアはそう判断した。

 「じゃ、これからは『マヤ』って呼ぶわね」

 ルーミアがそう言うと「マヤ」は嬉しそうに目だけの微笑みを返してきた。





 それから一ヶ月後、遂に患者の不動の術を解く日がやってきた。

 ルーミアは患者に調子はどうかと尋ねた。すると患者は調子はよい、ただ一点を除いて、と答えた。

 その一点とは声のことだった。ルーミアが聞く限り、もはやカエル声ではなく、あるべき普通の声のように思えたが、本人は依然として違和感を訴えていた。

 ルーミアは改めて、声帯を酷使させ完治を遅らせてしまったことをしまったことを詫びたが、患者は気にするな、と優しい言葉を返してくれた。

 父の指示に従い、ルーミアが、患者の全身をぐるぐる巻きにしている包帯──実はこれは包帯ではなく白魔法の効果を高めるための魔力が込められた魔布だったのだが──を解いていった。患者はしきりにルーミアに素っ裸を見られるのを恥ずかしがった。ルーミアは、マヤは意外と恥ずかしがり屋さんなのね、と言いながら、手際よく、しかし丁寧に包帯──魔布を解いた。

 続いて、ルーミアと父が声をそろえて呪文を唱え始めた。いよいよ不動の術の解除を始めるのである。患者は、高ぶる興奮を抑えるためか、じっと目を閉じたまま呪文が終わるのを待った。

 今まで青白い色だった患者の全身がピンク色を帯びてきた。やがて手足が小刻みに震え始める。肉体の活動が再開されつつあるのである。呪文を唱えながらルーミアはその様子を見守った。白魔道士の彼女にとって、それはもっとも喜ばしい、充実した瞬間だった。

 呪文が終わった。

 ルーミアはすぐさま患者のそばに歩み寄り、問題はないか尋ねた。

 患者が問題ないと答えると、ルーミアの父は、ではゆっくり上半身を起こしてみてくれ、と言った。

 患者は言われたとおり、ゆっくりと起きあがった。ルーミアは固唾をのんで患者の反応を待った。

 ところが患者が次にとった行動は、ルーミアはもちろん、経験豊富なルーミアの父にさえ、全く理解できないものだったのである。

 患者は、まず自分の胸に手をやり、怪訝そうな顔をして一言何か呟いた。次にその手を下へ滑らせて陰部に当てるや、突然わめきだした。

 「マヤ、どうしたの!」

 ルーミアは患者の肩を抱いてやることで精神を沈静化させようと試みた。しかし患者は鬼面ような恐ろしい形相でルーミアを睨み付け、アウスグ語で

 「どうしてあたしが女になってるのーっ!?」

 と叫んだのだった。





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