戻る

明日の天気は晴れのち天使?
作:M3


 そこには異様にそそりたつ悪魔の居城のように少女の瞳に映った。その建物を包む灰色の囲いは何人の侵入を阻む断崖絶壁の難所──はたまた人の侵入を嫌う山のように見えた。居城まで続く四角形と楕円形が重なった形が幾重にも描かれている広大に広がる広場は他に何もなく、延々と続くと思われる荒野に見える。遠方に見えるドーム上の建物はもしかしたら人間専用の屠殺場なのかもしれない。
 ──これはただ、現在のこの少女の心情が実際の映像を過剰表現した姿だ。
 ──ホントはこうだ。
 典型的な鉄筋コンクリートの校舎、校門からも見える校舎は少し古くなり見てくれは悪いが、実は2年前に建築されたばかりのその後ろに新校舎があったりする。敷地面積も広い方でグラウンドは普通200mだが、その外に400m、600mなんて無意味あったりするのだから驚きだ。校舎に隠れてよく見えないが、この高校の体育館は公共の体育館も兼ねてのためか国や県、役所からバカみたいに予算が出たため、それに見合わせてバカみたいに広い。
 これが敷地面積ならば普通高校では指折り(農業学校は除外。農場なんてあるから敷地面積など比べものにならない。)の京光学園である。
「ついに来てしまったか…」
 その校舎を見つめ、一人述懐する雄。
 これが剣と魔法のRPGの一場面であるのならば、数多の試練をくぐり抜け、精悍な顔つきの男性──魔王の城に赴く勇者と言ったところだろうが…、しかし残念ながら剣と魔法のRPGでもないし、ましてや精悍な顔つきの勇者でもなく、それを言ったのはいつも勇者を戦場へ放り込み、高みの見物をしている美の女神か、勇者の帰りをのほほんと待つ美しき王女と思わせる絶世の美少女だ。だが、知っている人によっては戦の女神とか、不幸の女神と言うかもしれない。
「遅刻の上にこの姿…入りにくい…。」
 家から精神的に重い足を引きずるようにのろのろと時間をかけてやってきて、いざ学校に着いたら校門にうじうじとしている雄である。
 ちなみにもうすぐ1時間目のチャイムが鳴ることは時計を30秒ごとにチェックしているので分かっていた。
 その窮地に立たされている雄が考えている作戦としてはまず、チャイムと同時に突撃、何食わぬ顔で校舎を歩き、密やかに職員室へ。まず担任に信じられないような事の顛末を話して、せめてクラスメイトは抑えてもらいつつ授業を受ける。と言うものだ。
 職員室までの道程は問題ないだろう。その次、担任教師──微妙だ。おちゃらけてはいるが果たして天使とか法術で女になったと言って信じてもらえるだろうかはなはだ疑問だった。だが百歩譲って、ここは信じてもらえたとして仮定し、協力も仰ぐことが出来た。だが、多分間違いなく絶対に教師の力の及ばない休憩時間と放課後に質問攻め殺されることだろう。それはもう男…いやいや、人間の性というものだ。
 過剰表現された人の渦に飲まれる自分を想像して、雄の額にたらりとイヤな汗が流れる。
 だが、時間は無情にも過ぎていたようだ。校門の前にいても良く聞こえる聞き慣れたチャイムが雄の耳に飛び込んできた。
 覚悟を決めるしかないようだ──。
 雄は決心し、その長くて細くて綺麗な足を学校の中に踏み込ませた。
 
 
 雄が校内に踏み込んで目立たないわけがない。
 昇降口の下駄箱までは良かった、幸い体育のクラスもなく、閑散としていたのだ、嬉しくもあったが、寂しく思えたくらいだ。
 これならと思ってちょっと妙な自信がついてしまった雄は堂々と廊下を歩く。
 教室がある廊下に入った時に目立った。
 異様に目立っていた。
 男も女ほどではないが、情報のネットワークというものは存在する。大体の話題は雑誌、ゲームに始まるが、結局は誰が可愛い、綺麗だの、つき合っているなど、女とやったのか…と、女に対することばかりである。
 そのため、雄ほどの美少女がそのネットワークに乗らないわけもなく、自分たちの情報にない美少女が突然現れたため、雑草ほどの訝しい目線とラフレシア級のイヤらしい目線を混合させて、雄の方をちらちらと観察していた。
 雄も見られていることに気づいていたが、ここ2,3日で驚異的に鍛えられた自制心で自分をコントロールし、表面上は毅然とした誰も声をかけられないような雰囲気を作っていた。
 それが功をそうし、誰も声をかけてこない。雄はその上にタイミングさえも掴ませない早歩きで廊下をすたすたと歩く。
 そのため、予定より早く職員室の前についた。
 さすがに職員室に出入りする生徒は情報に疎いのか、雄に対してちらりと目線を向けるだけでほぼ無視だ。
 ここまで来ると、ここ2,3日で「人生投げ遣り」をちょっと理解してしまった雄は何となく気が抜けてしまっている感があった。しかし、職員室はさすがに緊張する。
 呼吸を一つ。
「失礼します。」
 扉を開く。担任の席は何度か訪ねて分かっているので、目で探さなくとも、迷わず行ける。
「麻生センセ。」
 前来た時と変わらず、女性用のスーツを着た背中を丸め、思い切り猫背になっている。何かの書類を書類に鼻が触れてしまいそうなくらい食い入るように見て、処理しているようだ。と言うか、こんな風に猫背になって書類を処理するのに真剣になってしまっている時の彼女の癖だ。
「ん〜?」
 どうやら周りの声を聞き取るくらいの神経のポートは空いていたようで、めんどくさそうだが、椅子ごとくるりと回転し、ペンを口で加えた顔を向けてくる。
 彼女が麻生真由(あそうまゆ)。
 整った顔立ちで目が大きく、丸メガネをかけているため童顔に見える。その上、小柄だ。教師のくせに茶髪にしており、見た目20代前半に見えるが、まだ独身で今年で御歳27歳になる。
 その27歳の誕生日をクラスで祝った時に必死で明るくしようとする生徒に対し、「また歳をとった…」と落ち込みブツブツと陰険になり自嘲気味に言っていた。歳にまつわる話と言えば四捨五入して三十路になった誕生日に一人の生徒がその事を言ったら体育館裏に呼び出され、半殺しにされたという伝説が残っている。真実かどうかは怖くて誰も確かめていないので分からないが…
 担当教科は数学──と言うか本人曰く「数学だけは学者なみに出来るが、それ以外はてんでダメ」とのことだ。
 このようにダメ教師ぶりの伝説は他にも色々あるが、基本的には気さくで融通が利くため生徒受けは良い。
 その麻生に雄は一度で反応してもらえ、ホッとした。
 前回にも、ここに来て同じように麻生を呼びかけたのだが、書類に神経の全ポートが持って行かれていたようで呼んでも叩いても気づいてもらえず、最終的に椅子を無理矢理回し、気づかせたのだが、切れてメチャメチャ怒られた。
「あなた誰?」
 と、聞いてくる。一応、京光学園の女子制服を着ているため、ここの生徒だとは認識しているらしく、その言葉に疑いの色はない。当然の反応と雄は思ったが、ちょっと寂しかった。
「えっと…川迫です。川迫 雄。」
 信じてもらえないだろうなと、決めつけてそう答えた。
「あ〜、話は聞いてるよ。うんうん、なんつーか、先生ビックリ?」
 合点が言ったように感心し、マジマジと雄の上から下を調べるように見る。
「印象が全然違うよ。メッチャ美少女じゃない。まさかここまで化けるとは…」
 感嘆し、うんうんと一人納得して頷く。
「え、あの…何納得してるんですか?」
 雄は納得がいってない。信じてもらえないと思っていたことが、何というか頭から知っているような反応だ。
「はい?」
「え、だって…生徒が他人を詐称してるって思いませんか?」
「え?あんた川迫じゃないの?」
「川迫ですけど…」
「なら良いじゃない。」
「いや、あの、何で納得してるんです?」
「あれ?あんたは聞いて欲しいの?電話口であんたのお母さんが女の子になりましたから…でも、訳は聞かないでくださいって泣きながら念を押すように言われた。」
「…」
 その電話口に立つ母親が想像できてしまう雄。もちろんその泣き顔はわざとらしい。
「てっきり冗談かと思ったけど、まあ、面白そうだからと思って、試しに書類の手続きをしようと思ったんだけど、あんた元々女の子?性別の欄が全部女になってた。」
 そう言って、ヒラヒラと机に置いてあった書類を雄につきつけた。性別欄に加え、名前が雄から優になっているし、ご丁寧に今の顔で男装した姿の顔写真と差し替えられていた。ここまで芸が細かく変えられていると、呆れるを越えて、ヴェルを尊敬してしまいそうだ。
「まっ、細かいことを気にしてもしょうがないし、それにちょうど良いじゃない。今まで書類を頭から女と書かれているのに男と見間違われた女の子だったことにしとけば。つーか実際そうじゃない?」
「何でそうなるんですかっ!?」
「あたしが全面的に楽できるから。そして何かと面白そうだし。」
「それで良いんですかっ!?」
「別にあたしは全然困らない。」
「反面教師っ!!」
「何とでも言えばいいわ。ほほほほほほっ、人間楽しく生きなきゃ。」
「くっ…生徒を食い物にするような人が教師で良いのか…」
 雄が呻くが、麻生はサラリと――
「よく言われるわ。それ。」
「…」
 ここまで開き直られると、もはや返す言葉もなく、雄はがっくりと肩を落とす。
「さて、そろそろ授業ね〜。次はあたしの数学でしょ?さっさと行きましょ。」
 そう言って机の脇に放ってあった教材を手に取り、脇に抱え、立ち上がる。
そして──
ぺちーんっ
「いてっ」
 空いた方の手で雄のお尻をぺちーんと叩いたのだ。
「あら、形の良いお尻してるじゃない。安産タイプ?」
 麻生がケラケラ笑いながら言い、雄は突然のことで目を丸くし、口からは抗議の言葉が出ず、顔を真っ赤にさせ、金魚のようにパクパクさせている。
 もしとある会社で中年の男がそれをやれば完全にセクハラになるだろう。
「あーら、その上、ウブで可愛い反応してるじゃない。」
 雄の反応を見て、また笑う。
「ぐ…」
 雄も怒っているのだが、教師に向かって直接怒りの表情をぶつけるのも気が引けていますという、中途半端な顔をますます紅くさせる。
「さ・て、ここで油売り続けるのも楽しいけど、そろそろ行かないと間に合わないわね。」
 麻生はニヤニヤしながら職員室の壁掛け時計を見て、そう言い、スタスタと行ってしまう。
「川迫〜、あたしより早く行かないと二時間目も遅刻にするぞ〜。」
 部屋の出口でそれだけ言い、マジで行ってしまう。
「ケツ叩いたり、セクハラまがいの発言…オバタリアン(死語)みたいな性格だから27にもなって恋人も結婚も出来ないんだ。」
 と、自分にさえも聞こえるか聞こえないくらいの小声で言ったつもりなのだが… 
「何か言った?」
 と、次の瞬間、出ていったはずの出口から顔だけ出し、そう言って雄を凍り付いた笑顔で睨みつけたきた。
 雄の怒りの温度は急激に冷やされ、それどころか背中が凍り付くようだ。必死になって首を横に振り否定すると、麻生はにっこりとして──
「早く教室に行きましょうね。」
 優しい言葉なのだが、その麻生の笑顔──笑顔くせに何故か寒くなる。雄は「聞かれた!?」と、恐怖に怯える心を押さえつけ、麻生の言葉にうんうんと頷いく。そして機敏な動きで麻生に続き、職員室を出た。
 
 
 結局、雄は麻生の後ろにくっついて教室まで来た。先に行かなければ遅刻──と脅されてはいたが先生とタッチの差ぐらいは大目に見てくれるだろう。
 ちょうど教室の前で始業のチャイムが鳴る。
「川迫はちょっとここで待っててね。遅刻は大目に見てあげるから。」
 麻生がそれだけ言うと雄の意思確認もなく、ガラガラッと教室の扉を開け、入っていく。 理由を聞き損ねた雄は言われたとおりに待つしかない。すぐにガタガタと椅子を押しのける音がする。
 そして「お願いします」という全体の声が聞こえた。外で待つ雄は待っていろと言われ、正当な理由があるのに仲間はずれみたいでかなり寂しい。
 今度のガタガタと言う音は椅子に着席しているようだ。
 そこからは麻生が何か喋っているが、窓を閉め切ってしまっているため何を言っているのか全く聞き取れない。だが、しばらくしてクラスから驚異的な歓喜の声と獣の雄叫びが聞こえる。
 突然のことで雄はビックリして数歩下がってしまった。
 そんな中、麻生がキッチリ統制したようで、ピタリと声が聞こえなくなる。それでも雄は何事かと教室を怪物を見るような目で見ながら、ビクビクしていた。
 それからちょっとして麻生が出てきくる。
「川迫〜、入って。」
 何があったかは分からないが、含みがある笑顔で雄に入室許可を出す。雄もそれを感じとってか、疑問と疑いの目線を向けるが、にこにこしている麻生に変わりはない。さっきはしたたかに怒っていたのに…と、それが余計に雄を怪しませる。どうもここ2,3日で自制心に加え、疑心暗鬼も強い雄であった。
「どうしたん?」
 いっこうに入ろうとしない雄に麻生が訝しむ。
「いえ、何となく…すごくいやな気が…」
「だいじょーぶ。スバラシイ級友たちがそんなに信じられないの?」
 そう言われると、心が痛む。だが、それに対抗し、経験が先ほどの騒ぎからそのスバラシイ級友たちを信じられないと言っていた。
「もう、さっさと入る。」
 麻生がしびれを切らして、雄の手首を掴み、ぐいぐいと教室に引っ張った。雄も引っ張られ、抵抗もせず、ついていく。
 が──
 雄はこのあと、ひたすら後悔するはめになる。麻生に引っ張られ、力の限り抵抗し、力尽くでも逃げるべきだと。
 
 
 その一歩は雄の中で地獄への一歩として心の奥深くに刻み込まれることとなる。
 
 
 左足だった。教室に最初に入った足は…。そのまま歩く勢いで体がついていく。目線はすぐに教室の様子が分かるようにちょっと横を向いている。
 雄が教室に入ったという認識を持った瞬間──
 教室──いや、校舎を揺るがすような歓声。
 歓声と言っても絶叫、奇声、喘ぎ声と、大声で出せる言葉なら何でも良いという感じで叫んでいた。
 雄は驚いた。心臓が飛び出そうなくらい驚いた。本能的に恐怖を感じとって数歩後ずさってしまう。
 その頃、第一声の巨波は過ぎ去り、多少トーンは落ちたが、それでも教室を揺るがしている叫び声は言葉になっているものは少なく、口笛も加わり、うるさいことこの上ない。
 雄も何がなんだか分からなくなり、引きつった顔をし、固まってしまっていた。 
 もうこの教室で人として人間としての統制がとれているか怪しい…
 すると──
「だまれっ!!」
バチンッ
 鞭のような音と一喝が澄み渡ると、一瞬にして叫び声が収まる。音の発生源である麻生が仁王様のような怖い顔をして教壇に立っていた。鞭のような音は教鞭を教卓の上に思い切り叩きつけたらしい。
「川迫、さっさと来る。」
 ぎろりと睨まれ、雄の硬直が解ける。しかし、叫び声がやんでもジットリと雄を観察している多く目が気になって仕方ない、なるべく目を合わせないように教壇にいる麻生の元に早足で寄った。
「こほん、さて──二限目はあたしの数学の授業なのですが〜」
 気を取り直してか、仰々しく咳払いしてみせるが、全く威厳がない。ただ単なる仕切り直しのつもりだが、なんか怖い。
 多くの目が怖くて正面を見れない雄は横目で麻生を見ているのだが、その目は普通に授業をやってくれと切実に語っていた。
 麻生もその視線に気づいているのだが、クラス全員対一人である。教師として、民主主義の国民として、そして自分が楽する、楽しむするためにどちらを採るかは一目瞭然である。
「一部──つーか、この時間の全部の授業内容を変更いたしまして──」
 麻生がそこで一旦言葉を切り、目配せで雄を見る。やたらにやけているその目に雄巨大な不安を覚えた。よからぬ事を企んでいるのは明白である。
「今日日に生まれた、我が学園の京光学園の新アイドルにして、今年のミス京光は間違いなし!!いや、学校始まって以来の美少女っ!!まさにその姿は美の女神の愛娘!!!」
 どこかのアイドルのキャッチフレーズか?と冷静にも雄は考えてしまう。と言うか何だミス京光って…この学校にそんな美女コンテストなどなかったはずだ。などと自分のことだとは全く理解していない雄はその事をつっこもうとしたが、麻生の勢いは止まらない。
「さあっ!いざ見られよっ!!新世紀アイドル川迫優ちゃんだぁぁぁぁぁ〜っ!!」
 麻生はそう金切り声に近い感じで叫びながら、黒板を目一杯に使い、族っぽい字で『びばっ!川迫優ちゃん』と書く。
 そこに来て、今までクラスメイト達の我慢してきたうっぷんが解放されたようで雄が入ってきた時の俗っぽい歓声とは違い、「わっ」と至極まっとうな歓声が今までの最大ボリュームで沸き上がった。今度こそ声だけで校舎を揺るがした。構えもなく直撃をくらった雄は引く暇もなく、耳がバカになり、半ば意識が吹っ飛びんで当分戻ってこれそうにない。
 だが、それは一瞬のこと…観衆は沈黙していた麻生の次の言葉を待つべくシンとなる。「ふっふっふっ…聞かれよ、諸君。優ちゃんと諸君らのスキンシップのために我が時間を割こうではないか…。この期を逃すと彼女を巡る争いは熾烈になり、当分近づくことさえ敵わなくなるぞ。」
 沸き上がる歓声。麻生はそれに納得してうんうんと頷いている。悪の参謀という感じで本人はそれを言ったつもりなのだが、様になってない。
ガタリッ
 歓声が止んだ頃、突然椅子を蹴ったような音がする。
 クラスの目が一斉に音をした方を向く。雄はまだ復活していないので放心状態。
「あ…」
 集中した目線の先には一人だけ立ち上がり、いかにもオタクと言うのを体現している太り気味の男子学生が手には何故かデジカメを手にしていた。
 クラスでは知らぬものがいないほどのアイドルオタクである。新人のアイドルは必ずチェックを入れ、その中で売れそうと彼が直感するとまず間違いなく、万人が知るアイドルになると言われれていた。
「…その気持ちは分かるけど…フライングはダメよ…」
 麻生は腕を組み、いかにも仕方なさそうに審判を下している裁判官のような表情と冷め切った口調でそう言い、ツカツカとその生徒に歩み寄る。
「うあ…お許しを…久々に…芯からきたんです…」
 その生徒は顔を恐怖に歪め、数歩下がろうとするが、教室の中だ、自分の椅子と他人の机によって逃げることなど出来なかった。その中でこける。
「うふふふ…知ってる?校則ではこういうものは禁止よっ!!」
 麻生はサッと男子生徒のデジカメを掠め取る。スリ顔負けの技量だ。
「バケツ持って退場っ!!」
 食い下がろうとする男子生徒にビシッと出口を指し示す。だが、麻生にどう言ったって自分の意志を曲げないのを分かっているのだろう、掃除道具からバケツを二つ取り出すと、素直に廊下に出ていった。
 しかし、今さらバケツを持って廊下で反省など…古典的すぎる。
「さて、このデジカメはわたしが使おうっと。」
 そう言って数枚試し撮りのつもりか、固まったままの雄を撮る。
 取り上げたものを自分のために使うなんてホントに教師か…
 雄はまだ復活していない。視線の合わない虚ろな目で後ろの壁を凝視したままだ。
「さて、そろそろ優ちゃんを起こさないと、みんなが餓えるわね。」
 そう言って辺りを見回す。女子生徒の大多数は優の容姿に見惚れているか、睨め付けており(中には妖しい視線を送っている者もいるが…)、男子生徒はお預けされた犬のような惨めな状態の者が多い。
 それを見て麻生は苦笑すると、優に近づき、手を目の前に掲げ、催眠術を解く要領で思い切り叩く。
「ほえっ!?」
 そして催眠術が解けたような復活をする雄。
「さて〜、それではまずは質問タイムと行きましょうかっ!優ちゃんに質問したい人っ?」 と言うと、一斉にクラスの大多数の手が上がった。中には両手を挙げているヤツや少しで目立とうと椅子から腰が離れている者もいる。
「え、え?一体何んだっ!?」
 当の本人の雄だけが現状を飲み込めておらず、当惑していたが、周りは当然無視である。
「じゃあ、そこの君っ!」
 麻生は無数に上がる手の中からどれを指そうかと逡巡した結果、ピシッと指の先まで伸ばされた美しい挙手を指す。その瞬間、毒づく声も聞こえたが、手は下がり、静かになった。
「はい。」
 指されたヤツが立つ。そいつはクラスで超マジメでガリ勉と名高いヤツだ。女性にも疎く、その手の会話には全く参戦したことがない。そんなヤツが雄の方を恥ずかしそうにチラチラと盗み見ており、ほんのりと頬を赤く上気させていた。
「…あの、す、す…すき…きな…だん…ん…せせせ…いの…タイプは…?」
 ちぐはぐの上に小声で聞き取りづらい。
「は…今なんつった?」
 雄はそのガリ勉からの視線で自分への質問というのは理解したようだが、内容までは理解できなかったらしい。小首を傾げると、訝しい目線でじっと見つめながら思いっきり聞き返す。本人は自覚していないが小首を傾げる仕草がかなり可愛い。
「はうっ…!!??」
 直ガリ勉は元々、その手の会話の参加していないため女性からの視線を守るはずの装甲は極端に薄い。そのくせ雄の強力な視線付き攻撃をくらい、その直撃に耐えられなかったようだ。一発で爆砕してしまう。しかし、爆砕したにも関わらず、ガリ勉は満面のにやけた幸せそうな笑みを浮かべ、ばたりと倒れてしまう。その表情を見て誰もが本望で逝ったのだと、理解した。   
「相手が弱かったとはいえ、恐ろしい…。しかも半数以上の男子が瀕死ではないか…」
 小首を傾げる仕草にやられたのだろう、直撃でないとはいえ、装甲の薄い連中は半ば放心状態だ。その現状に麻生は驚嘆し、何故ガリ勉が急に倒れたのか分かっていない雄を横目で睨め付けた。
「が、皆の衆!この犠牲を無駄にするなっ!屍を越えていけっ!!彼女をモノにし、真の『彼女』にしたいかぁぁぁぁぁぁっ!!?」
 某外国横断うるとらクイズばりの煽り声だ。しかし『彼女』という言葉の効果は絶大だったようだ。
「うおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおおお!!!!」
 見事にほぼ全ての男子が独占欲を煽られ、放心状態から復活し、これでもかというくらいにボルテージを上げた。
その瞬間、男子達の灼熱の熱い絶叫は雄の背筋に耐え難い極寒となり、背筋を走る。身の危険を感じ、こっそりと教室から逃げようとするが、麻生に笑顔でガシッと手首を捕まれて逃げられなかった。
「この猛獣どもを何とかしてってね。」
 煽ったのは麻生のくせにさも雄がやったと言わんばかりに言い切った。雄も麻生には怒る気も失せ、呆れを超え、もう尊敬してしまいそうだ。
 雄は苦し紛れに苦笑いをするしかない。そして自制を失い、獣の本能のまま雄叫びを挙げ続けているクラスの男子どもを呆れた目線で見回し、自分の運のなさを大いに呪った。
 
 
 魂が抜けるとはこういうことなのではないのだろうか?と雄は思ってしまう。
 2時間目は猛る獣たち(男女共通)に襲われはしなかったものの色々な質問を根ほり葉ほり聞かれた。例えば――
質問項目(ここには雄の考えたこと、実際に口に出したか、思ったにこと。)
彼氏いる?(女になったばっかだ。それに気持ち悪くて出来るかっ!)歓声が起きた。
スリーサイズは?(デパートで正確に計り、覚えていたが、黙りを決め込んでやった。)
身長・体重は?(身長は知っているが、体重は量ってないからこれも黙り。)
何カップ?(上記と一緒)
女の子になったわけは?(俺の方が聞きたいわ。誰かバカ天使をとっちめて聞いてくれ。)
芸能界にデビューするの?(これ以上騒がれたら死んでしまう。気持ち悪い。)
今の下着の色は?(顔を真っ赤にして――し…知るかぼけっ!)
好きなモノは?(誰も干渉してこない平穏。)
欲しいモノは?(個人的な平和。)
好きな食べ物は?(何でそこまで答えにゃならん…)
初体験は?(顔を真っ赤にしながら…貴様…死ね。)睨まれた男は満面の笑顔で逝った。
女の子でも好きになってくれます?(ああ…そう言う趣味はないんで…でも微妙…)
髪の僅かなウェーブは天然ですか?(あ、多分…すぐにストレートに直せるみたいだけど)
化粧してみない?(もういいです…やめて…)
ドレスアップしてみない?(人間として扱ってください…)
etc…
etc…
 という感じだ。襲われなかったのは麻生と言う絶対的な権力のおかげで雄も何とか1時間、晒し者の状態を我慢していた。
 そしてそれが終わり、雄が席に戻るまで猛る獣たちを麻生が統制していてくれたため、自分の席にはすんなりと戻れた。
 席に着いた雄はのっそりと上半身を机に預け、だらりとしていた。
 しかし、授業中に根ほり葉ほり聞かれたおかげで元々雄と交友の少ない連中はキッカケになるような質問を持ち合わせていないようで休み時間は思ったよりも平穏で過ごせそうである。
「よ〜うっ雄!俺の彼女にならねぇかっ?」
 その声に反応して持ち上げようとした頭をガシッと掴まれ、押さえ付けられた。勢い余って雄のおでこは机に逆戻りし、ゴンッと言う音が証明するように勢いよくぶつけてしまう。
「いてえ…」
 そのまま復帰できない雄。
「ダメよっソウちゃん!優ちゃんは女の子なんだから優しくねっ!」
 そう言って椅子を無視して後ろから抱きついてくる。男であれば余裕で耐えられる重みのはずだが、如何せん女性になり力も弱い。抵抗できず押し潰されてしまう。 
「カナ…重い…」
「そーだよねっ!カズちゃん?」
「そうだな。聡一朗、女性には優しく、だ。」
「カナ…重いって…」
「テンちゃんもそう思うでしょ?」
「そうね、男なんて虐げられてなんぼの世界よっ!おーほっほっほっほっ」
「カナ…死ぬ…」
「わ…テンちゃんの世界って危険…」
「そうだな。天恵(あまえ)の世界は危険だな。」
「たすけて…」
「和馬…その女性に対して相づちを無条件でうつのはやめろって言ってるじゃない。」
「そうだな。それは無理な相談だ。」
「さすがだな…相づちを打ってから反論してる…」
「た…す…」
「当然だ。」
「これはもう病気よね…和馬は…それだから泣いた女は数知れず…」
「え?カズちゃん…病気なの…?」
「可奈子…和馬が病気なのは体じゃなくて頭だから心配いらん。」
「そうだぞ。聡一朗の言う通りだ。可奈子、心配しなくて良いぞ。」
「…け…て…」
 話題がとぎれ、数瞬の沈黙――
「…可奈子…下の物体、そろそろ死ぬわよ?」
「ほえ?」
「多分、そろそろヤバイとじゃないのか?一応それだって女だし。」
「うみゅ…?」
「可奈子、どいてやれ。目の前で女性の死に目を見るのは忍びない…」
 そう言われ、可奈子はやっと下を見やる。上半身の全体は机に乗せていると思ったのだが、それはなく、彼女の視界に映ったのは自分と同じ服のテーブルクロス。と言うか制服そのものだ。
 彼女は考える。
「わかった。これ、雄ちゃんだ!」
「あたりね。」
「あたったな。」
「えらいぞ、可奈子。」
「えっへん。」
 胸を反り返らせ、自慢げだ。だが、そのおかげで雄はやっと解放される。
「生きてるか〜?」
 聡一朗が僅かな義理でそう言い、白目を向き、ぐっだりとし、ぴくりとも動かない雄を指先でちょんちょんとつつく。
「死んじゃった?」
 天恵の口調も全く心配してない。逆に楽しそうだ。
「女性が――」
「うるせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
 ガバッと起き上がる。
「あ、復活した。」
「復活したな。」
「良かった…」
「雄ちゃん、おはよ〜」
 ガバッと起き上がった時、最後に可奈子と目を合わせてしまったのを雄は深く後悔する。この天然少女の悪意のない瞳に雄の怒りは有耶無耶になってしまい、ピタリとその動きを止めてしまう。
 彼女が村上可奈子(むらかみかなこ)。高校生にしては小学生か中学生と見間違えそうになるくらいに童顔で可愛い。先ほどから行動を見ての通り、やることなすこと雄の妹である恭子に似ているのだが、あっちはやろうという悪意がしっかりあるが、こっちは全くの天然である。忘れているか、良かれと思って失敗するか、理由は様々だが本人に悪意はなく、場合によってはこちら方が驚異であった。雄とは幼少の時にプロポーズし合った仲だが、今のところ二人とも忘れてる。
「う…おはよ…」
 振り上げている手を下ろし、挨拶を返す。すると可奈子はにっこりと笑った。
「ふ、相変わらず可奈子に弱いな。」
 そう言ったのが古谷野聡一朗(こやのそういちろう)。中肉中背でソバカスが残り、ひょうひょうとした顔立ちだ。性格もその顔つき通りひょうひょうとしており、かなりの楽観主義者である。別段背が高いとかカッコイイと言うわけでもないのだが、しなやかな体つきで運動能力が異常とも言えるほど飛び抜けおり、雄曰く「まさにスポーツの申し子」とのこと。そのわりにはまだ部活には所属しておらず、各運動部から激しい争奪合戦の中心であった。雄とは幼稚園以来の腐れ縁だ。
「似非フェミニストよね。」
 バカにしたようにへらっと笑っているのが源天恵(みなもとあまえ)。全国2位の秀才――だが、その結果をもらった瞬間に全国1位に殴り込みに行ったり、宿題の写しを売るのを生業(顧客の学力によって5段階くらいの答えを用意してあるらしい…)としていたり、男を下僕だと思っていたり、思いついたらどんなことでもつい試してしまうそんな性格。ド近眼で常に眼鏡をかけているが、秀麗でキツイ感じの美人であるためその手の人たちには結構人気がある。雄とは中学時代にイジメやすそうだからと理由で下僕扱いしていた仲。雄は未だに反発しているが…。
「むぐっ…ど、ど、ど、どどどどちらに…!?」
 頭を抱え、雄と天恵、どっちの意見に賛成すべきか己の人生と威信をかけて悩んでいるのが上和馬(かみ かずま)。背が高く、スラリとした体躯。甘いマスクに端整な顔立ちから早くもミスター京光を冠せられている。だが、それに比例して性格が壊れており、普段は無口で何を考えているのかわからないようなヤツだが、女性の言ったことが全て肯定してしまい、とりあえずイヤとは言わない。そのため今まで泣かした女は桁三つで足りるかどうか…16歳とは思えない。雄とは中学時代に雄の女友達であった人物が和馬に告白し、まあその後山あり谷ありで和解し、現在に至る。
 こいつら3人とも雄が京光に進学すると言ったら、「じゃあ自分も」と後先考えずについてきたのだ。天恵と和馬は中学の成績は良かったので、もう一つか二つ上の高校にも行けたのだが、「面白くない」と一蹴しここに来た。可奈子と聡一郎は入るために今までの人生で一番頑張ったらしい…。
「てめえら…少しは労ると言うことを知らないのか…?」
 そう毒づきながらも雄は心の中でつき合い方を変えない4人が嬉しかった。
 まあ、若干2名ほど過激になったり、過剰反応を示したりしているが――
「知ってるけど、あんたの場合は知らないわね。」
「天恵に同感。」
「ぐお…どうすればいんだっ!!オレッ!!!」
「雄ちゃん、あたしは同情するよっ!でも女の子になったらスゴク可愛いっ!」
 天恵と聡一朗は笑い飛ばし、和馬はさも人生最大の二択と言わんばかりの苦悩をし、最後にワンテンポ遅れて可奈子が雄に抱きつく。
 何か一瞬にして嬉しい気持ちも吹っ飛びいつもやっていたように怒鳴り、ツッコミをしている雄がいた。
 
 
 その2時限目の休憩時間は親友――いや、悪友達の悪意の壁で興味本位の輩たちはシャットダウンできた。雄にとってはまあ、悪意の壁の方がちょっとマシかと言うくらいだが…
 3時限目の授業は古典。教師は堅物で雄に遅刻しないように注意しただけで普通に授業を行った。
 さすがに一週間も学校を休んでいたおかげで雄には授業の内容がちんぷんかんぷんで授業には全く集中できない。さっさと誰かにノートを貸してもらうことに決めて、外を眺めながら今後どうするか大雑把なことを頭でぐるぐる回していた。
 当然ながらあっという間に授業が終わる。
「うぐ…授業何もわからんかった…」
 聞いてもいない授業に対してそう言うと再び、机につっぷす雄。
「あら、それは可哀想に、お一ついかが?」
 つっぷしたまま、顔だけ上げると、営業スマイルを浮かべながら各種ノートを差し出している天恵がいた。
「…ただか?」
「うふっ!解ってるくせに〜。」
 そう言って持っていたノートを扇のようにして自分を扇いでいる。
「じゃあ、いらん…聡一朗にでも…」
 そう言って二つとなり向こうの席である聡一朗の席の方を向く。何かイソイソと準備をしていた。が、そんなことはお構いなし。
「そういちろー、俺が休んでた分のノート貸してくれ。」
「あー、ほとんど寝てたからノートなんてとってねぇや。」
 準備に一生懸命で面倒くさげに聡一朗は答えた。
「残念ね。」
「じゃあ、和馬にでも…イヤとはいわねえはずだし…」
 そう言ってちょっと複雑な気分になった。
「和馬〜!ちょっとこーい。」 
 和馬の席は結構離れているためちょっと大声で呼ぶ。和馬も何か準備しているらしいが、呼ばれ、ピタッと動きを止めると、信じられない早さでやって来た。
「何か用か?」
 息も乱れず、抑揚のない声でそう言う。
「ノート貸してくれ。」
「…別に良いが…」
「うん、ありがと。」
「一度も使ったことないぞ。」
「ん、分かってる…って、おい…」
「ノートは持っているが、使ったことはない。」
「ダメじゃねぇか…」
「そうだな、俺はダメだな。」
「もう行って良し…」
 雄が頭を抱え、手をヒラヒラさせると、速攻に自分の席に戻っていった。
「うふ、覚悟を決めた?」
「むぐ…まだだ…可奈子〜!」
「は〜い!」
 そいつは机の正面から突然飛び出した。
「早かったな。よしえらいぞ。」
「…何かしらね…この子は…」
 天恵は突然出てきた可奈子に慣れていないのか、少々驚いている。雄は毎度のことなので普通だ。と言うかその早さを誉めていた。
「考えない方が良いぞ。」
「不可思議なことが起きるといつもはマッドな研究者根性が疼くんだけど…この子に関してはダメだわ…本能が拒否してる…」
 そう言って頭痛がするのか、天恵は顔を渋くしてこめかみの部分を抑えている。
「で、雄ちゃん、なあに?」
 ぴょこぴょこと言った感じで可奈子がそう言う。
「おう、ノート貸してくれ。」
「うん、良いよ。はい。」
 そう言ってどこからともなく全十数教科のノートがどさっと雄の机の上に置かれる。
──沈黙
「…気にするな…おれ…」
「気にしちゃダメよ…あたし…」
 可奈子の不可思議な行動に雄と天恵は目を丸くした後、何かを沸き上がってくる感情を抑え込んでいるようで二人揃って頭を痛めていた。
「よっし…良いな…おれ…」
「いいわ…OKよ…あたし…」
 どうやら二人とも決着がついたようで一度大きく深呼吸した後、可奈子に向き直る。その間、可奈子は二人の行動の訳が分からず、小首を傾げて頭の上に疑問符を浮かべていた。「可奈子、ありがとうな。明日までには何とか返すから。」
「うん。分かった。」
 二人の言葉の隙間をぬって天恵の手が雄の机の上に置かれているノートに伸びる。そしておもむろに一冊を取り上げると、ペラペラとめくり始めた。そしてニヤリと笑う。
「ちょっと…ゆう?」
 にやけた顔のままそう言うのでまるで魔女の呼びかけようだ。
「あん?」
「この子のノート見てみなさい。」
 天恵は持っていたノートを元の位置に戻すと、次のノートを手に取り、同じようにペラペラとめくり始めた。そしてまたニヤリと笑う。
「どうしたんだ…何があるんだ…?」
 天恵の笑みに訝しみながらも雄は彼女が一度手に取ったノートを取り上げると、彼女がしているようにペラペラとめくった。
「…がっ…」
 雄ショック。
「分かった?」
「うん、何かあるの?」
 天恵は再度にやけた笑顔で、可奈子は再度小首を傾げた。
「全く…」
 肺から空気を絞り出すような声。
「読めねえ…」
 苦痛を吐き出すような口調。そしてがっくりと肩を落とす。
「でしょ〜?」
 そう言って天恵は持っていた可奈子のノートを片端だけ持ってヒラヒラさせていた。
 古文書学や古代歴史学をかじり、古代人のミミズの這ったような字から、絵にしか見えないような文字でさえも解読してきた天恵でさえその文字は解読できなかったのだ。可奈子の字体は相当なモノだというのがうかがい知れる。
「カナ…やっぱいいわ…」
 雄はノートを戻し、その束を可奈子に返した。
「そう…」
 返され、悲しげな表情をするが、使えないノートなのだからどうしようもない。 
「ていうか、この子の字…新文字よね…カナちゃん語…」
 そこまで言われ、可奈子はシュンとなった。
「否定してやりたいが…否定できん…」
「あたしの場合はお金で済むわよ?」
 そう言って親指と人差し指で○を作り、ウィンクをしてくる。
「…世話になりたくない…」
「なによー、せっかく下僕特別価格枠を作ってあげようと思ったのにー。」
「イヤだ…借りを作りたくない…」
「あー、その気持ち分からないでもないわ。あたしも貸しは一杯作りたいけど、借りは作りたくないもの。」
「だがっ…背に腹はかえられん…一冊いくらだ…?」
 苦渋の選択だったらしい。
「うん?覚悟を決めみたいねー。そうね、特別価格でまとめて2000円でどうかしら?」
「高い…」
 値切る雄だが――
「あら、これでも譲歩してあげたつもりよー。何ならもっと高くしようか?」
 純粋な客商売でないため立場は天恵の方が圧倒的に有利。
「2000円で良いです…」
「おっけー。素直ね〜。その素直さを認めて、一回ただ券を進呈してあげるわ。今後ともご利用よろしく〜。」
 そう言い、自分のノートをどさりと雄の机に置き、そしてポケットから紙切れを一枚だし、それも置く。その紙切れには「一回ただ券」と書かれていた。雄も財布を取りだし、夏目漱石さんが書かれている紙幣を2枚だし、天恵に渡した。
「商談も成立したことだし、あんたもそろそろ準備しな。」
 天恵がひい、ふうと紙幣を数えると、そう言った。
「は?」
 素っ頓狂な声で返してしまう。
「次は体育だよっ!」
 既に体操着姿に着替えていた元気よく可奈子がそう言う。
「へ?」
 そう言って周りを見回してみると、元男であるはずの雄には全く躊躇せず、男を追い出した教室で制服を脱ぎ、下着姿も堂々と、体操服に着替えている女生徒たちがいた。
「がっ…!!?」
 女性の下着姿を見てしまったという男らしい罪悪感がこみ上げ、一瞬にして顔を真っ赤に染める。
「ごめっ…!!」
 そう言って顔を伏せ、見ないように廊下に駆け出そうとする雄を天恵が左手首を可奈子が右手首をガシッと掴み、逃られない。
「あんたは――」
「――女の子でしょ?」
 笑顔で言う二人が悪魔に見えた。
「俺…っ!たいそ…うぎも…ってないっ!!」
 ちぐはぐで何言っているのか解りづらいが…
「はいはい、体操着を持ってないんでしょ。そう思ってちゃーんと真由ちゃんに頼んでおいたからそろそろ…」
 天恵がキレイに訳す。
「ゆ・う・ちゃーん!」
 噂をすれば影を刺す。
「来た来た。真由センセこっちこっち。」
 いつの間にか教室にいた麻生は天恵に呼ばれ、雄の席まで来た。
「ほれ、頼まれたモノ。」
 そう言い、麻生はニヤニヤした笑顔で紙袋を差し出す。
「さっすがセンセ。抜かりなし〜。」
 パチパチパチと可奈子が拍手している。
「でも、ウチのに余りがなかったから、ちょっと特別ルートで入手したのよ。きっと喜ぶわよ〜。」
 ちなみに京光学園の体操着は男女とも共通でジャージがワンセットと、体操着はハーフパンツである。女子の昔の物は男性が非常に喜ぶモノであったが、性差別言って早々に撤廃していた。
 そんなことはまあどうでもいい。雄は差し出される紙袋にイヤな予感はしつつも麻生から紙袋を受け取り、がさがさと中身を調べてみる。
がさがさ…
がさがさ…
「ふっ…」
がさ…
「カナ、お前にやる。俺は今日の体育、休む。」
 ポイッと紙袋を可奈子に放り投げた。
「ちょっと、折角用意したのよっ!感謝してちゃんと着なきゃダメじゃない!体育の単位をこれ以上落とすつもり!?」
 雄の行動に麻生がくってかかる。
「いや、そう言われても…絶対にイヤですし…」
 雄が釈明している時に紙袋を受け取った可奈子がガサガサと中身を漁り始めた。天恵も興味本位にその行動を覗く。
「うわ…」
「げ…」
 中身を見て二人して驚く。それは京光に今はなき、あの物だった。その物を可奈子は取りだし、パッと広げてみせる。下着を大きくしたような紺色の六角形の物体だ。
「あたしは普通ののつもりだったんだけど…これはまた…これでくるとは…」
「テンちゃん…これってブルマってヤツだよね…」
「そう…ブルマってヤツよ…あたしは大嫌いだけど…!」
 天恵はこういう男性が「萌える!」と叫ぶような服装は大嫌いである。そのため露骨に顔を歪めていた。対する可奈子は不思議そうにそれを眺めている。
「どうよ、優ちゃんが着たら可愛いと思わない?」
「今…さり気なく優しい方の優の字で俺のこと呼びませんでしたか?」
 麻生の微妙な口調の変化にそんなことを感じ取った雄は半眼で麻生を睨む。
「気のせいよ。それより着なさい。じゃないと体育の代わりにあたしの授業を全て欠席にするわ。」
 脅し文句がメチャメチャ職権濫用であるが、今さら麻生が気にするはずもない。彼女がやると言ったら自分がクビになろうともマジでやってのけるだろう。
「さっすが、真由センセね…言うことが違うわ…」
 天恵は麻生に対し羨望の眼差しを向けている。
「横暴だ…」
 雄がそう唸り、項垂れた。
「ふふん、誉め言葉と取っておくわ。」
「またそれか…」
「あの〜、そろそろホントに準備しないと授業に遅れちゃうよ?」
 ブルマを広げたまま、怖ず怖ずと可奈子が言う。
 雄と天恵がはっとなり辺りを見回すが、既にほとんどの生徒がその教室にいなかった。「ヤベッ!?」
「さ!これ着て!!」
 麻生はいつの間にか可奈子の手から奪い取ったブルマを雄に押しつけた。そして――
「じゃ!あたしは授業あるからッ!あ、源!これ渡しとく。意味は…分かるわね?」
 そう言い、天恵に小包を渡すと、あっという間に教室から消え去っていった。
「ホントに素晴らしい先生ね。」
 麻生は小包の中を誰にも見られないように確認すると、そう感嘆した。
「それは何だ?」
 手に持たされているブルマから現実逃避をしたいのか、雄が質問する。
「うん?そんなこと良いじゃない。さ、さっさと着替えるわよ。」   
 天恵は小包を大事そうに抱え、着替えるためか自分の席に戻っていった。残された雄はブルマを手に途方に暮れる。
「ゆうちゃん、あたしが手伝うよっ!」
「…もういやだ…」
 元気よく言う可奈子に雄はそれだけ、力無く呟いた。
 
 
 その日の体育の授業、グラウンドに集合している男子たちの主な話題は当然のことながら雄であった。
 それこそ、時代を席巻している大アイドルのような興奮っぷりである。
 その集団の中、話の途中に一人の男子が何かを見たようでピタッと固まってしまう。
「お、おい!あ、…あれをみろっ!!」
 その男子…男子Aと呼称するが、ちょうど下駄箱のある昇降口が遠目ながら見える位置に立っていた彼は急に慌てだし、まずは両脇にいた男子Bと男子Cを乱暴に揺すり、昇降口を指さした。
「ぐあっ…!!?」
「ぐふっ…!!?」
「げふんっ!!!」
 昇降口を見た男子が次々とその光景を見てに討ち死にしていき、その死に方はまるで人生を全うしたんだと言わんばかりの幸せそうな笑顔で、その場に倒れていく。
「何か、すげえな。」
 少し離れた位置からバタバタと倒れていく級友の男子たちを見て、冷めた様子で隣にいる和馬に向け、聡一朗が言った。
「…ぐあっ…」
 和馬が急に胸を押さえて蹲る。
「って、お前もかっ!?」
「貴様…っ!あれを見て何とも思わないのか…っ!?」
 和馬が苦しそうにそう呻く。
「いや、可愛いと思うけど…元が元だし…あ、何かこっち睨んでる。こえ〜な。」
「ぐあああああっ…!!はあっ…はあっ…はあっ…何という眼力…その容姿でさえ俺がこの様なのに…っ!くっ…」
「いや、だからたかだか雄のブルマ姿くらいで…そう苦しまなくても…」
 和馬が呆れたようにそう言うが――
「何を言うかっ!!?この学校では既に絶滅し、全世界規模で絶滅寸前のブルマ姿だぞっ!?それをあの優ちゃん着ているのだぞっ!!?それもあの恥じらっている初々しい姿を見て何も思わないのかっ!!?」
 柄にもなく和馬が怒鳴り返した。顔が大人びているだけに迫ってそう力説されると妙な迫力があった。それに今日の彼は異常に饒舌である。
「今日のお前…ヘンだ…」
 聡一朗が化け物を見るような目で和馬を見て、一歩下がった。
「俺も数多の女たちを見てきたが、あそこまで美少女している女はいないっ!どんなアイドルよりも女優よりも可愛いっ!断言するっ!」
 ぶちっと壊れている和馬がほえた。
「完全に雄に感染されているぞ…まあ、良いか…こいつのことだ…そのうち冷めるだろ…」 男子の中で一人冷静な聡一朗は妙な疎外感を感じながら、可奈子と天恵に匿われるように女子の集合場所に歩いていく雄を見ていた。
 
 
「や…やっぱりやめるっ!」
 雄は聡一朗を睨んだ後、急に足を止め、そんなことを言い出した。それの言葉に甘えが返した言葉は──
「あら、以外にもったわね。」
 と、あっけらかんと言う。
「は…?」
 意味が分からず、つっけんどんな反応をしてしまう雄。
「いやいや、着てくれるだけでも良いかな〜って思ってたんだけど、連れ出そうとしたらそのままで来たから、着てるつもりなのかな〜?っと思ってて。」
「そうそう、雄ちゃん、寒くない?」
 雄が混乱した頭で天恵と可奈子の言葉の情報整理を必死に行い始める。その答えは考え始めれば至極簡単に出されるモノだった。
「それって…コイツを着てここまで来なくても良かったってことか…?」
「単純に言えばそう言うことね。」
 天恵はそう言った後に雄に聞こえないような声で商売人の天恵が「外の方がリアリティーがあって良いけど」と呟いた。
「な、それだったらもっと早く言えよっ!!」
 事実の理不尽さのあまり、睨め付け、掴みかからんとする勢いだ。
「そりゃ、当然、聞かれなかったからに決まってるじゃないの。イヤならイヤと最初から言っておくべきよ。」
 しれっと答える天恵。
「俺は最初からイヤと言ってたぞ。」
 と、反論する雄。
「あら、そんなこと聞いた覚えはございませんけど?」
 敬語をわざと演技っぽく言う天恵。
「なにがだ…着る前にイヤだとハッキリ言ったぞ。」
「ああ、だってブルマを着せるのはその『最初』の範疇外に決まってるじゃない。」
「はあ…?」
「だから、あなたの言っている最初って言うのはブルマを着る前でしょ。あたしの言ってる最初はブルマを着た後。ブルマを着せるのは必須項目だから最初のウチには入らないの。OK?」
 得意げに語る天恵に雄、絶句。
「詭弁だ…」
 唸るように言う。
「ま、その通りなんだけどね。あたしの中じゃ正論よ。ほっほっほっ。」
「ん〜、何だか良く分かんない…」
 さっきから傍聴者だった可奈子は何を言っていたのか、最初から理解できなかったらしく、必死に理解しようと頭を抱えている。が、どうも無理っぽい。雄も同じように頭を抱えているが、これは沸々と沸き上がる怒りを必死に我慢しているところだ。
「まあ、気付いちゃったことだし、そろそろ本題に入りますか。」
 3人の中で一人、正常状態の天恵はそう言うと、麻生から渡された小包を取りだし、ガサガサと中身を取り出しにかかった。厳重に梱包されているわけではないのですぐにその姿を現す。
「じゃーん。」
 この言葉…言うと空しくなるだろうなと天恵は分かっていたが、言ってしまった。言った後にやっぱり自分の世界へ突入している二人に向けて言っても反応せず、予想通り空しかった。
 それはいいとして――
 天恵が持ち出したる小包の中身、それは大まかな形と大きさはは立方体を横長にした感じで、側面には一杯に広がって丸い突起があり、手のひらにフィットするくらいの大きさである。安っぽい金属メッキのような外観をしており、取っ手と思われるところはプラスチック製の黒色。機械的だが、鋭角はなく、洗練されたフォルムでどっしりとしていているが、丸っこい感じだ。
 そして間違いなく、それは生徒からの没収品である。 
 いつの没収品か、麻生のクラスの生徒なら分かるはずだ。
 何故なら朝、麻生が生徒から没収したあのデジカメだ。
 天恵は空しい気分を追い出し、ニヤニヤしながら、そのデジカメをサッと構える。
「雄、こっち向いて。」
 雄がそれに答えたようで、一応怒りの沸点を抑え込むことに成功した雄がのっそりと顔を天恵の方に向ける。
「…何だそれは…?」
 雄は天恵が構えているモノがなんなのか、分かっていながらも聞いてしまった。
「ん?見て分からないの?デジカメよ。あ、可奈子、ショック受けてないで雄と並んで、笑ってみ。ほら、雄も笑う。つーか、笑え。」
 デジカメにかかっている天恵の指先が細かく動いている。デジカメなのでシャッターの音は聞こえないが、その指の動きを見ればパシャパシャと撮っていることが分かる。
「うん、笑う〜」
 可奈子は本当に素直だ。天恵が言われるがまま雄に抱きつき、デジカメ向けて笑顔でピースなどをし始めた。
「おお、可奈子良いねぇ〜。ほら、雄も笑う。」
 雄は怒りの沸点を通り過ぎ、自意識とプライドと言う名の混合液体を一瞬にして蒸発させ、その怒りが空回りしてし、感情というモノが失せてしまっている頭で唯一考えられたこと──
「笑えるか。」
 
 可奈子の後日談
「ひっく…優ちゃんの目…怖かったよぉ…ホントに怖かったよぉ…何か違うんだよぉ〜、あんな化け物みたいな優ちゃん…違うっ!」
 
 天恵の後日談
「いやー、あの目は危なかったわね…ちょっとやりすぎだったかも。ん〜でも、言い値で売れたし、センセとアタシ的には万々歳よ。ほほほほ。」
 
 と、まあ描写不可能までに陥った雄だが、しばらくして開始の鐘が鳴ると、可奈子はジャージを手渡し、ごめんと謝った。彼女なりに罪の意識があったのだろう。そのおかげで怒りも異常状態からは脱し、そのあとの体育で体を動かすと、抱えていたストレスはほぼ解消されてしまった。つくづくこの2,3日でストレスの解消が巧くなってしまった雄である。
 だが、女性体になって体力の限度を知らなかった…
 
 
「疲れた…」
 雄はその単語による同じつぶやきを十数度、繰り返し、横を歩く可奈子も苦笑いを浮かべながら、横を歩いていた。
 彼女らが歩いているのは京光学園からほど近い繁華街である。それほど大きな街ではないため繁華街と言っても些細ななものでアーケードの中に大小の商店が十数、軒を並べ、そして3,4のビルがあるくらいだ。しかし今の時刻が夕方であるため、買い出しの主婦や、まっすぐ家に帰らない道草目的の学生集団の姿が多く見られ、喧噪を装っていた。
 ちなみに彼女らの目的はここに遊びに来たわけではない。今の雄にはそんな気力は分子レベルでないだろう。
 ただ二人の帰り道上、この繁華街を通るのがベストなのだ。雄としては人が多くいるところにはあまり出たくはなかったのだが、ほかの道だと大きく遠回りなってしまうため体の耐久と精神の耐久を天秤にかけたときに体の耐久に偏ったためだった。
 ちなみに天恵と和馬は自転車、聡一郎至っては逆方向である。
「ゆうちゃん、大丈夫?」
 雄が極度に疲労してしまってた責任の一端を感じているのか、眉をひそめ、心配している口調だ。
「ちぬ…」
 聞かれて、よけい疲れを感じたようだ。落ちている肩をさらに一段ガックリと落とす。
「あう…うちで休憩してく?」
 確かにここからの距離だと、可奈子の家の方が近い。だが、可奈子と雄の家など離れていて100mである。実はあまり大差ない。
「大丈夫だ…」
 言っている側から雄の体がぐらりと揺らぐ。倒れはしなかったものの、バランスを崩し、街頭に頼ってしまう。
「あんまり大丈夫そうじゃないね…」
 その姿を見て、可奈子。
「うるせぇ…うっぷ…」
 唸る。しかし、それがたたったようで吐き気が込み上げ、青白くなっている顔がさらに青白くなると、その口元を手で押さえ、俯いてしまった。こんな体調でなければ絶世の美少女のはずなのだが、こうなると形無しで、酔っぱらった中年親父と同等だ。
「大丈夫じゃなさそうだねぇ…」
 可奈子は雄の様子を見てそう言う。
「あ、そう言えば近くに公園があったよねぇ、そこで休憩していこうよ。確かそこそこ広いしさ。」
 数秒後…
「…そう言えば…そんな公園があったな…」
 何とか落ち着いた雄が公園について思い出したようだ。
「うん、昔よく遊んだよねぇ。」
「ああ…そうだな…」
 雄と可奈子は前途の通り、非常に近所であり、同年代である。その上親同士が知り合いと言うこともあり、幼少期よく一緒に遊んでいた。その中、二人が外で遊ぶにあたって、公園という場所が適度に広く、遊具があり、子供らが喜び、親にとって一番安心できる場所であろう。しかし、その条件に適合したような公園は彼らの近所にはなく、今、彼らの話に出てきている公園しかなかったのだ。
「…そう言えば、公園に行かなくなってから改修されたんだよな…」
「ほえ、そうなの?」
「ああ、まあでも…休憩がてら行ってみようか…」
「ん、行きたい〜」
 そう言って、可奈子はピョコピョコと跳ねるように歩いていってしまう。雄はそれを追いかける形でして街頭からゆっくりと体を離し、フラフラしながらその後をついていく。他人と体をぶつけていないのが奇跡としか言いようがない。そして、分かれ道にくると、可奈子は道が分からないのか、立ち止まり「うーん…」と唸りはじめる。その間に雄が追いつき、迷うことなく道を進んでいき、可奈子がそれに続く。そして、基本速度の遅い雄はあっという間に可奈子に抜かれ、また次の分かれ道で追いつき、追い越す。
 それを繰り返すこと3,4度。
「ついた〜」
 公園の入り口を見つけ、可奈子が走って入っていき、子犬のように走り回っている。雄も続いて中に入りるが、可奈子を無視して近くに設置されていたベンチに行く。
 ベンチには新聞という先客がいた。しかし雄は厳めしく顔を歪めると、トップの記事に『無差別殺人』と書かれた新聞を乱暴に掴み、近くにあったゴミ箱に押し込んだ。そして綺麗になったベンチにぱたりと倒れ込む。すでに体力の限界らしい。
「だいじょーぶ?」
 ひとしきり走ってきた可奈子が倒れた雄に気付き、そう言ってきた。
「あんまり…」
 そう言って俯せに近い状態から体を反転させ、仰向けになる。すると視界いっぱいに可奈子の顔があった。
「近い。」
 雄は咎めて言ったのではない、感想だ。
 確かに雄と可奈子の顔の距離は形容ではなく、本当に目と鼻の先である。見慣れすぎた顔のため動揺もない。
 こいつは昔から変わらない…──雄はそう思う。
 確かに体は多少なりとも成長しているが、精神は世間でガキと言われるそのままだ。可奈子のこういう大胆な行動も変わっていない。いや、ほとんどの人がこういうことをしていたのだろうが、忘れたり、戒めていたりしているはずだ。それが出来ていない…雄は危うさもあり、良いところでもあると思う。
「この公園変わったねぇ」
 少し寂しさが感じ取れる口調で言うと、可奈子が顔を引き離し、周りを見回す。
「そうだな…」
 雄はそう答えて、首と目だけを動かし、辺りを見回してみる。昔は雑木林に近い雰囲気を持っていたが、今は完全に整備され、舗装され、タイルが埋められ、木製の遊具が全て鉄製に変わってしまっており、昔の陰も面影もない。そうなってくると、思い出が壊されたと言う憤りはあるが、楽しい思い出を振り返る懐かしい感慨はなかった。
 雄がそう思っていると、視界の端にいた可奈子が動き、並木の一本の枝に手をかけ、木登りをしようとする。足をあげようとしているためスカートの中が見えそうなのだが、気にするつもりはないらしい。
「その木…無理だって。」
 木を上から下まで見た雄が、そう言う。
「枝の間隔が広すぎて無理。ただでさえ難易度の低い木でも登れなかったお前が登れるか。」
「ううう…ダメかな…やっぱり。」
 雄の指摘に可奈子は泣きっ面になる。その顔も昔と変わらない。
「それよりも…、自販機で飲みもんでも買ってきてくれ…。」
 その言葉は泣きっ面の可奈子を意に介さない。感情の方向が変わるから、可奈子はこれだけで機嫌が直るはずである。たとえ雄は今さら可奈子に大泣きされようとも雄は動転しないだろう、その気力もない以前にすでに耐性が出来てしまっている。可奈子をなだめすかすなど、雄にとって歩くことと同じくらい簡単なことだ。まあ、今の雄は歩くことも億劫なのだが…
「え…うん、りょーかい。」
「冷たいやつなら何でも良い。」
 代金を取り出し、可奈子に渡す。
「わかった〜。何が良いとかは、ないんだよね?」
「ああ」
 ちなみに可奈子に品名で頼むと、絶対に別のを買ってくる。下手をすると暖かい飲み物を買ってくる可能性もあるのだ。今の雄にそれは避けたい。冷たい、暖かいくらいの指定ならば間違えないと、雄は長年の経験で分かっていた。ほか3人がいたのならわざと品名を頼み、いつも何を買ってくるのか、予想し合っていたりしていた。
 よく考えると、鬼だ。
「いってくるね〜」
 可奈子は雄から受け取った小銭を握ると、公園の中心の方に早足で行ってしまった。雄は普通なら外だろうと、思うのだが、どうせ可奈子の行動である。言い咎める気力も、つもりもなく、そのまま見送った。どうせ、いつかは戻ってくるだろう。
 可奈子がいなくなり途端に辺りが静かになった。
 いや、雄がそう感じているだけだ。公園には親子やペットの散歩に来ている人たちもいるし、繁華街が近いため、その喧噪も耳に入ってくる。
「どこか遠い。」
 雄はそう呟いた。その途端、視界が、いや意識が反転し、視界は真っ黒に覆われた。
 
 
 僕は枝に手をかけると、精一杯の力を込めて、幹を蹴った。枝に手をかけたところが支点になり、その反動を利用して、一気に体を持ち上げる。その勢いを殺さずに今度は腕に体を引きつけるように力を入れると、上半身は枝より上にあがれた。
 きをつけと同じような体勢から今度は体を少しずらし、枝に足をかける。これの動作、最初、すごく怖くてなかなかできなかったけど、慣れてしまえば楽だ。手の位置をその時その時に変えて、枝の上に立ち上がる。ヒュオッと少し強めの風が吹いてバランスを崩しそうになったけど、慌てずバランスをとりなおす。余裕が出てくると、その風も手荒な祝福のように思えて、嬉しくなる。
 回りを見渡すといつもとは違う世界が広がっていた。同じ風景なんだけど、少し変えるだけでがらりと変わってしまう世界、僕はそれが好きだ。もっと上へ。と思い、次の枝に手をかけたとき──
「ゆーうーちゃーん!」
 声らしき幻聴が下から聞こえたけど、僕は下を見ないでおくことにした。
「あーぶーなーいーよーっ!」
 たぶん…本人は必死で警告してるんだと思う…。でも、間延びしている声だから真剣さがあんまり伝わらない。…って、さっきは無視しようとしてたのに思いっきり声のこと認識してるじゃん、僕。
「何だよ。」
 少し不機嫌そうに答える。まあ実際そうだし。
「危ないのダメ!」
 そこで僕はやっと下を見た。そこには幼い小柄な少女が眉根を寄せ、口をへの字に曲げ、眼には涙まで溜め、僕を見上げていた。
 
 
 雄は意識が戻る。何か夢を見ていた気もするが、何の夢だったかすぐに忘れた。
 どうも人の気配で目を覚ましたらしい。疲れてはいるが、ずっとそう言う状態にさらされたためか、人の気配や、視線には鋭敏になっていたようだ。
 警戒しながらも、寝たふりをしたまま、もぞりと動いてみる。
 何かにあたった。たぶん…。結構大きいかもしれない。
 雄は警戒を強めたが、このままでは埒があかないと思い、目を少しだけそっと開ける。ぼやけた視線に蒼天の空は見えず、何か、人の顔のようなものが写った。雄はびっくりし、すぐに目を閉じる。ぼやけ、一瞬であったため性別も年齢も、表情も確認できなかったが、間違いなく人の顔だった。
(これは…あれか?男が女を寝込みに襲うという…)
 雄はそれを考え、背筋にザザザッと並々ならぬ不快の虫が蠢く。それと同時に本能は貞操の危機、身の危険と言う警鐘を必死で鳴らしていた。
(いやいや、可奈子が戻ってきたんだ…うん、そうに決まっている。)
 本能の警鐘をあえて無視するかのようにそうこじつけ、雄は恐怖から自分を解放しようとするが、本能が警告する警鐘を完全に無視できない。ただ、楽観したことで目を開ける勇気だけは雄の中で準備できたようだ。
 寝息のような、ゆっくりとした呼吸をすると、目を開いた。
 
 そこには幼い小柄な少女が眉根を寄せ、口をへの字に曲げ、眼には涙まで溜め、雄を見下げていた。
 
「ぐあ…」
 雄は唸る。
 頭の中に何かがよぎったが、すぐに安堵が来て、忘れ、そして急に疲れた。
 とにかく、目の前の子は全く知らない子だが、雄を見つめるその表情は何かを咎めるような感じも伺える。しかし、雄にはこんな子に恨みを買うような覚えは全くない。 
 よくよく状況を確認してみると、仰向けになって寝ている雄の上にその少女は馬乗りになるように跨り、両手を雄の顔の位置でつき、四つん這いになっていた。そのため、少女と雄の顔の距離は今にも触れ合ってしまいそうなくらいしかない。
「とにかく、どいてくれ…」
 雄は混乱する頭でようやく出した結論を声を使って、絞り出す。
 それを聞いて少女はさらに顔を歪め、いよいよ泣き出しそうになる。それを見て、雄の方が余計に慌てた。どうにもこうにもまずはどいてもらわねば、雄は対応しようがない。「あ、悪い、おい、泣くな。泣くなよ…とにかくだ。どいてほしい。それから。」
 雄の言葉もちぐはぐだが、少女の方はそれで渋々ながら納得したようた。泣き出したいのを必死にこらえ、たどたどしい動きで雄から離れ、ベンチの前に立つ。 
 見るからに疲れは抜けておらず、重々しい動きだが、雄は何とか体を起き上がらせる。「で…?」
 雄は少女をまじまじと見た後、迷った末に訝しんでそう言ってしまう。幼児とあまり相対したことのない雄にはどいてもらっても対処のしようがなかったのだ。
 雄の無節操な一言に少女はいよいよ顔を歪め、涙をぽろぽろと流し始めてしまう。しかし、声を出して泣くのは必死に我慢している様子で、それがかなり痛々しい。
「あ〜、泣くな泣くな…頼むから。」
 雄は慰めようとするが、要領を得ない。少女の方ももう声を出していないだけで大泣きしているのとさして差がない。
「ふえ…えっぐ…えっぐ…おふぁあ…たん…」
「は?」
 少女が初めて口を開いたが、涙声の上に、声が小さいため、雄は何を言っているのか聞き取れない。
「まあ、いいや、ほら、泣くな。」
「あうあうあう…」
 雄は乱暴にだが、頭をなでてた。雄の今の力でも小柄な少女には大きな力だ。乱暴になでられ、大きく体が揺れたのだ。まあ、幼児の扱いを知らない者には壊れ物のように大事に扱うか、こうして加減を知らないからのどちらかである。ほとんどが前者であるが、今日日の雄のように疲れてしまってうまく加減ができないし、意識もしていないだろう。
 雄になでられる少女はまるで逆についている振り子のようである。
 「ふあ…」
 しかし、少女の方はそれほど嫌がっていてはいないようだ。一時、惚けたような表情をしたあと、キャッキャッと笑ってくる。
 その笑顔が何とも可愛く、雄もついほころんでしまう。
 
──数分後──
 
 その少女は泣き疲れたのと、遊び疲れたようで雄に膝枕をしてもらい、すやすやと寝入ってしまった。別段、少女がわがままを言ったのではなく、少女がウトウトとし始めたら自然とこうなったのだ。
 雄が柔和な微笑みで少女の頭を優しくなで、髪をすく。
 その時──
「たっだいま〜!」
 突然の声に雄はビクッと肩をつり上げ、思いっきり驚いた。すぐに声した方をむく。
 背後の茂みだ。そこにはに満足げにへら〜と笑い、両手にジュース缶を握りしめた可奈子がいた。雄を脅かすために背後の茂みをのそのそと移動してきたようだ。服のあちらこちらに葉っぱや小枝を拾ってきている。
「うお…」
「あ、驚いた〜えへへ〜」
「何自慢げになっている…」
 雄が渋面になって唸る。
 いつもならこの驚かそうとする行動パターンが読めていて、効かないはずの雄だったのだが、膝の少女に気をとられていて、全く、可奈子を使いに出したことさえも忘れていた。
「だって〜、あれ?」
 可奈子も雄の膝の上でもぞもぞと動く少女に気付いたようだ。少女は起きあがり、雄の隣にちょこんと座ると、寝ぼけ眼を手の甲でゴシゴシとふく。そしてまた欠伸した。
「かわいい〜!」
「ぐあ…、てめ、起こしたな…」
「えっと、この子…ゆうちゃんの子?」
 0.01秒後──
「違うっ!」
 と、速攻否定する。
「だよね〜、じゃあ迷子かな?」
「ああ、多分な…」
 当の少女は雄と可奈子の顔を交互に不思議そうに眺めている。まだ眠そうな顔をしているが、可奈子に好奇心を持ったのか、今の状況に好奇心を持ったのかは分からないが、もう眠れないといった様子だ。
「ねえねえ、あなたお名前なんて言うの?」
 可奈子が少女の前に立つと、しゃがみこんで視線を同じくらいにしてそう聞く。
 その時、少女は助けを求めるような眼で雄を見たが、雄の状況を静観している態勢を感じ取ったようで──
「…あきは…秋葉って言うの…」
 と、おずおずと言った。
「秋葉ちゃんか〜、かわいいねぇ」
「うん…。」
 少女──秋葉は俯き、上目遣いのままだが、気恥ずかしさと、ほめられた嬉しさから小さく笑う。
「秋葉ちゃんはどこから来たのかな?」
「ん…」
 秋葉は表情が暗くなり、黙りしてしまう。
「じゃあさ、お母さんと一緒に来たの?」
 その問いに秋葉はうなずく。
「じゃあ、お母さん、どこかな?」
 秋葉は一瞬だが、逡巡したようだった。しかし、すぐに視線を雄に送る。
「ん?」
 傍観していた雄。それに追い打ちをかけるように秋葉が指さす。
「おかーさん。」
「はあ?」
 雄は理解できず、素っ頓狂な声を上げる。
「おかーさん!」
 秋葉はそう嬉しそうに叫ぶと、文字通り雄にタックル…いやいや抱きついた。
「あ、そうか、なるほど…」
 と、可奈子は突然のことで目を丸くしつつも、納得している。そして一言。
「やっぱりゆうちゃんの隠し子か〜」
 可奈子の中では謎か解けたためか、やたらスッキリした笑顔で、そう断言する。彼女はやはりこういう納得の仕方であった。
 一方の秋葉は雄の胸の中が居心地が良いのか、満面の笑顔のままそこに顔を埋めていた。
 当の雄は動転のあまり、頭が思考回路を吹っ飛ばし、思考は現実逃避を奨励したためか、物を見てそれを洞察するという思考も停滞したらしく、雄は目の前が真っ暗になった気がした。







後書き。
   1──今回、題名には「天使」という言葉が入っている割には天使など出てきません(爆)
   2──2ヶ月も空きました。その間に2度、PCがクラッシュしました。ごめんなさい。(泣)
   3──オンラインゲームをやっている方、興味がある方、一緒にガディウスやりましょう。
       本体はvectorに転がってます。DLしませう。
       既にやっている人はキャラ名教えてください。一緒にガディりましょうw
   4──ここまで読んでくださり、誠に御礼申し上げます。今回、えらい続きなので次もがんばりまふ…(たぶん)

戻る

□ 感想はこちらに □