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明日の天気は晴れのち天使?(2)ver1.1
作:M3


 雄の女性化してからの土曜日の午後と、日曜日は自分が嵐になったかのように過ぎ去っていった。
 具体的にどんなことがあったかというと、主に買い物とその試着だ。
 土曜日の午後──
 ミニスカートの着用は下着の関係上から免れたが、結局は女性物のジーパンとサマーセーターで身を固めた雄は母親と恭子(以後、雄の強い意志により恭子は愚妹と称す)とおまけのヴェルが同伴で比較的近場のデパートにやってきた。
 そのデパートに入るなり、雄にとっていきなり問題が起こった。
 雄は女性になり群を抜いて容姿端麗である。母親も愚妹も平均以上の容姿を持っていおり、明るく笑っていることで(本当は雄をおもちゃに出来るという邪悪な笑いなのだが)その可愛らしさが数倍となっていた。そして極めつけは金髪碧眼のヴェルだった。田舎のデパートなどに金髪碧眼の超美少年が現れたのだ。それを取り巻く女性陣もどれも容姿端麗であっては、これはもう目立つ事この上ない。雄以外の三人は他人の視線などものともせず歩いていたが、雄だけは周りから注がれる視線が気になって仕方がなかった。
 そんな調子で四人組はまず女性物の下着売り場にやって来た。
 雄はその入り口の前で陳列されている下着に完全に萎縮してしまい、その売り場に入ることを非常にイヤがったが、そこは買い物へ連れ出した愚妹の出番である。ごにょごにょとひそひそ話一つで解決してしまう。
 観念した雄はその愚妹に引きずられるようにその売り場へと入っていったが、そこからが雄にとって本当の地獄への前奏曲だった。売り場の中にあって雄はまともに顔を上げる事が出来ずにおり、下に向けた顔をのぞき込んでも、その顔を真っ赤に染めている状態だ。それに対してヴェルは平気な顔して堂々と売り場の中に入っていく。と言うか、その売り場にいても彼の容姿と相まって妙に様になっていた。
 その売り場でこんなのがいいんじゃない?あんなのがいいんじゃない?と母親と愚妹は薦めてくるが、下を向いてろくすっぽ見ていない雄がまともに答えられるはずもなく──「ああ…」とか「うん…」と気のない返事をするばかりである。
 そんな返事を何度かしているうちについに母親の堪忍袋が切れたようで、おもむろにやたら高級そうな黒色のキワドイ下着をレジに持っていき、さっと会計を済ませると、その足で雄を引っ張り、下着と一緒に試着室の中に放り込んだ。
 そして一言――
「それを着るまで出ちゃダメよ。」
 怒気をはらませ、明るく固い笑顔で言い終えると、カーテンを乱暴に閉める。
 数分後――
 雄は泣きそうな声で「ごめんんさい」と謝ること108度目で何とか許して貰えた。
 その後、心を入れ替え、言われるがまま献身的に試着などをし、全てに置いて元気に「はい」と答えていた雄のおかげで買い物は順調に進んだ。
 このように土曜日の午後は全て買い物に費やされた。だが衣類だけでも大紙袋3袋分も買ったくせにまだ買い足りぬと母親と愚妹が騒ぎだし、日曜日は街へ行って洋服屋・デパート回りをすると言い出すのだ。
 当然、雄は今日購入した分で当分は困らないし、これ以上買う必要はないと断固拒否する。せめて日曜くらいはゆっくりと今後の事を考えたかったし、これ以上女性ものの洋服で外に出るのは精神にも極めて重労働だった。
 しかし、そんな言い訳が母親と愚妹に通用するはずがなく、頼みの綱にもしてないヴェルは彼女らの後ろにニコニコしているだけで本当に役に立たない。結局あれやこれや説得という名の脅迫に屈し、日曜日の買い出し小行脚も決定されてしまった。
 その夜──
 買い出しの成果かやたら豪勢な夕食を済ませると、とうとう風呂の時間がやってきた。
 雄は例え女性のトイレに入って股間にあれがなくて落ち込んでも、不意に胸にふくよかにふくらんだ二つの突起物に腕があたり意識してしまっても、ガラスなどで自分の美少女と言える顔を相対しても、まだ自分の全裸の全身を鏡で見ていないだけにこれは悪い冗談か、これは夢で、まだ自分は男ではないのかという淡い期待感を雄は持っていた。
 そのためこの家で唯一姿見がある風呂場は、その希望を軽く打ち砕いてくれそうな全裸で全身を見てしまうという可能性が一番高く、この時間だけはどうしても避けたいのだ。 そのため、風呂に時間のかかる愚妹と母親を先に入ってもらい、その危険を先延ばししていたが、それもそろそろ限界だった。入らないという選択肢もあるが、今日は色々連れ回され汗を大量にかき、気分が悪い。この不快感のままベッドに潜り込むのはあまり気が進まなかった。
 結局は通らなければならぬ道と雄は意を決し、風呂に入いると家族+αに宣言する。そうすることで自分への逃げ場をなくし、決心を揺るぎないものにしたつもだったが、脱衣場の足取りはとても気が重たく、そのほんの短い道程さえも雄にとっては長い道のりのように思えた。
 雄は脱衣場に入り、そこには母親が用意してくれたのだろう、真新しい女性もの下着と女の子用の可愛いパジャマが1セット、かごの中に鎮座していた。それを見ただけで雄はさらに気が重くなり、その隣にある元自分のパジャマがヴェル用に用意されているのを見ると、頭の中で映し出されるヴェルの爽やかな笑顔が腹の底から憎たらしくてしょうがなく、ヴェルのために用意してあったパジャマをグチャグチャにしてやりたい衝動に駆られる雄だが、大人げないと自分に言い聞かせ、何とか我慢した。
 そして一呼吸ついてあるていど平静を取り戻すと、上着からゆっくりと衣服を脱ぎ始める。まずは上着のサマーセーターをゆっくりと脱ぐ。すると女性物の肌着用シャツが現れた。着替えるときにブラジャーを着けろと愚妹は口うるさく言ってきたが、雄が断固拒否するとそれに関してはあっさり引き下がり、この下着を持ってきた。雄もTシャツに近いそれを嫌々ながらも了承し、着用したのだ。そんなゆったり気味のシャツからでも雄の隆起した二つの胸はハッキリと分かる。
着替えている途中に「お姉ちゃん、胸の大きいし、形良いね〜。」と、ケラケラ笑いながら愚妹に言われ、雄は顔を真っ赤にしながら「悪い冗談だ」と言い返した。その後、「ホントだって」と言ってくる愚妹を無視していたが、元男としてアイドルのグラビアなどを見たことのある雄としては少女16歳という年のわりにその胸は立派に見えた。
 妙なことを考えてしまい、  変な好奇心と嫌悪感が湧いてきてしまった雄はその感情から逃げるかのようにシャツは後回しにして、今度はジーパンを脱ぎはじめる。この時も愚妹はパンティーなるものをはけと強行に言ってきたが、当然のようにブラジャーの時と同様に雄は拒否する。この時はミニスカートをはかせようと愚妹たちの野望があり、それについて数分言い争っていたが、雄はマジで勘弁してくれと泣きつくホンの一歩手前で愚妹は情けなくなったのか渋々引き下がり、トランクスだったらせめてと言って女性物のジーパンを持ってきたのだ。そんな感じではかされたジーパンも脱ぐと、やっぱりトランクスが顔を覗かせ、雄は少し安堵した気分になる。まあ、それは幻なのだが…
 さあ、アンバランスとしか言いようがない下着姿となった雄。それが例え美少女の姿だとしてもアンバランスすぎてどうしようもなく、笑いにしかならない。
 雄はこの脱衣場に来る時に決心したものよりもさらに勇気のいる決心をすると、パパパッとシャツを脱ぎ、トランクスを脱ぐ。そして飛び込むように風呂場の方へ駆け込んだ。
 入った瞬間、その正面にある姿見の鏡を見ないように思いっきり顔を横に向け、風呂の方を凝視する。置いてあった風呂桶で素早く湯船からお湯をくみ、サッと体を洗うとドボンと湯船につかり、自分の体を見ないように天井を睨む。
 数分間は見ないように見ないように気持ちを張りつめさせていたが、男の体でも女の体でもやっぱり風呂は変わらなく気持ちいい。雄の張りつめた心も段々と和んできたようで、ずっと見ないようにしてきた姿見の鏡を不意に見てしまった。
 風呂の熱気のためか頬を少し赤らめた美しい美少女の儚く物憂げな瞳と目が合ってしまう。その瞳に雄はドキンと一瞬だけだったが心臓が高らかに跳ね上がる。まるでその少女の瞳を見ていると、吸い込まれそうな美しい人物画を見ているようだ。
 しばらくその少女と見つめ合っていた雄はその姿が自分の姿だと気づくのにかなりの時間を要した。そのことに気づいたとき、急に可笑しくなり自嘲的な笑いを浮かべてしまう。
「もういいじゃないか…」
 なんだかどうでもよくなってきた雄は自分に対して諦めるように言い聞かせた。
 雄はこの風呂場に入ってきた時とは段違いに薄い決心をすると、風呂からざっと出る。そして鏡の前にスッと立ち、自分の姿を確認するべく、鏡に向けゆっくりと顔を上げた。
 
 風呂から出てきた雄が素直に用意された下着とパジャマを着てくれるかどうか、用意した母親は心配だった。今日の反応から見れば当然イヤがりそうなものである。それこそヴェル用に用意した雄のパジャマだった方を着てきそうだ。だが、その心配は杞憂に終わった。風呂場から母親達のいる居間へやってきた雄はしっかりと母親の用意したパジャマをその風呂上がりで髪から全身をしっとりと風呂上がり独特の艶やかな魅力を得た体に着ていたのだ。
 母親が「下着も着たの?」と嬉しそうに聞くと、雄は意識ここにあらずと言う感じで「うん…」と気のない返事を返す。その元気のなさにさすがの母親も心配し、今日はからかいすぎたかな?と反省の意を含みつつ、「大丈夫?」と聞く。しかし雄はその言葉が全く耳に入っていないようで愚妹とTVゲームで遊んでいるヴェルに向くと「ヴェル…ちゃんと…ちゃんといつかは戻れるんだな?」と、強い哀願の感情と、微かな怒りの感情と、かなり疲れを含んだ言葉で言う。「う、うん…」とその雄の雰囲気に押され、ヴェルはとって返したような返事をする。その返事に「そうか…」とだけ安堵したようで次の言葉に「もう寝る…おやすみ。」とボソッと言うと、さっさと自室に戻っていてしまった。
 三人は雄のいなくなった後ろ姿を呆然としばらく眺めていた。そして、三人は顔を見合わせると、「明日からはからかいは程々に。」と、揃って誓いをたてた。
 
 日曜日、朝──
 昨日の夜はかなり気が重たかったが、一晩寝たせいか、雄はその日の寝起きはやたらスッキリしていた。雄本人はよく分からないが、思うにある程度、心の表面部分だけではなく、深い部分でも踏ん切りがついたせいかもしれない。
 それが顕著に現れたのが、朝食の時に母親がいきなり「今日、デパート行くのやめる?」と、深刻な面もちで言い出したときに「なんで?」と、返事が出来てしまったくらいだ。 そうなると、母親達の朝からかかりの悪かったエンジンも下手な制御をはずれ、バンバンにとばす。出かける間際の着替えの時、もっと女物でも良いから男らしいものを!という妥協案を主張する雄に対して、スカートや見て分かる女物を着せようとする女性陣と、それを一歩間を置いてケラケラ笑っているヴェルという構図が朝から元気に展開されていた。
 結局──
 土曜日に購入したばかりの後ろに深いスリットの入ったロングスカート(これは母親達の勝利)と、カラーのカジュアルなYシャツに薄いベスト、(これは雄の勝利)底は浅いがブーツのようなものまではかされ、(母親たちの勝利だが、連れ回せるようにチョイスしたつもりのようだ)これが慣れない雄には動きにくいこと、歩きにくいことこの上ない。(最終的に雄の服装はバランスが良く、色は落ちつめでかなりセンスの良い。これが口ゲンカのすえ、ジャンケンで上から決まったとは思えない)その上、薄い化粧までほどこされると、(三本勝負して母親たちの2本連取であっさり決まる。)もう生けるS級至極最上の宝石だった。例え容姿的に目立つヴェルが同伴してなくとも、十二分に好意と羨望の視線を集めることが出来るだろう。
 デパート帰り際──
 と、そんな自覚がない雄は帰り際、最後のデパートを回ったところで買い忘れたものがあり、一度デパートへ戻ると、急に母親が言い出したのだ。すぐに必要と言うわけではないらしいが今の内に買っておきたいとの事だった。結構重く、大きいものでその荷物持ちとしてヴェルが同行は強制、興味本位なのだろう愚妹も行くと言いだし、そのデパートの前で待つと言った雄だけが取り残される形となってしまった。
 ビルのコンクリートの巨大な柱に寄り掛かり、いつか来るのだろう待ち人を待ち、入り口を見つめている美少女。チラチラと腕の内側に付けてある腕時計を見ている姿が愛らしく、待ちくたびれた様子もうかがえるその表情も愛おしい…万人が予想するに
 ――待ち人来らず=世の男たちにとって今世紀最大のナンパのチャンスだ。
 ちなみに雄にとって待ちくたびれたわけじゃなく、ただ単に連れ回されて疲れているだけ。腕時計はたまたま内側に回っているのを面倒くさくて直していないだけで、それをそわそわ見ていたのはさして時間も経っていないのに疲れからか「遅い!」と内心イライラし始めていただけである。
 だが、雄の知らないところで、雄の知らないヤツによる静かなる決闘は始まっていた。そして、「ねえ、君、可愛いね〜今さ、暇かな?美味しい喫茶店知ってるんだけど、一緒に行かない?君と話したいんだよね。」と、先陣を切って容姿から口調からいかにもナンパ野郎という風体の男が少女に声をかける。
 その言葉に少女は露骨に顔を歪め、「あっち行け!」と言って男に背を向け、取り付く島もなく突っぱねた。しかし、男も諦めが悪く、その少女の正面に回り込むとまた口説き始める。少女はその男が何と言おうと男言葉のキツイ口調で叩き返す。何度かその押し問答が繰り返されると、その男は、いくら美少女でも何度もけなされて我慢の限界がきたのか、その少女の手首を強引に掴み、無理矢理にでも連れて行こうとする。しかし、それは少女が抵抗する前に払われた。別の男が少女とそのナンパ野郎の間に割り込み、そのナンパ野郎の手を払ったのだ。その一見、一流大学に通っていそうなマジメ系の美青年はそのナンパ野郎に向かって自分が待ち人だと自称し、その男を払いのける。ナンパ野郎がケンカを起こしそうな姿勢になるが、そこまでバカでもなかった。周りの目を気にしてだろう、罵詈雑言を吐き捨てながら、狩りで捕らえた獲物を横取りされた獣のように去っていく。そして、それを見送った新たな男はいかにも姫様を助けた騎士のような清々しい笑顔で「大丈夫かい?」と、少女に尋ねてきた。
 言うなれば運命的な出会いとでも言えるだろう。
 しかし、現実は甘くない。
 その言葉に対して雄は身も毛もよだった。女性になって注意力が増したのか、微妙な男の表情の変化からこの先の予定とホテルまで行こうとしてる下心がありありと理解できたためだ。雄も下手なテレビとマンガの影響か、心まで初な少女になった自分と、その男と喫茶店の窓際の席で恥ずかしながら楽しく会話している姿と、頬を赤らめた自分は頭を男の胸に寄り掛からせ、その肩を抱かれ、ホテルに入っていくところを妄想してしまう。その妄想をレッドゾーン一歩手前のベッドイン寸前で無理矢理うち消すと、背筋に今までの人生で味わった事もない悪寒が走り、嫌悪感が越後百万石の大名行列と共にやってきて、頭の中ではお前はバカか?、こいつはバカか?を始め、男に対する文句と罵倒が最大ボリュームで連呼されていた。
 だが、雄はそれらの暴走を驚異的な自制心で押さえ込み、「大丈夫です」としおらしい返事を返す。それに対してそのキザ男は「良かった」と笑顔を付けて返してきた。その男の笑顔は女を口説く決めての一つなのだろう。しかし、雄にとって、それだけでも胃に数え切れないくらいの穴が開きそうだった。全くの逆効果としか言いようがない。雄は内心、こんな易い手で手に引っかかり、恋に落ちる女たちが哀れでしょうがなかった。
 しかし、雄はミジンコほど助けられたという恩と、チョモランマ級の暇つぶしのため、男がペラペラと話し始めたのを上の空だが聞いてやっていた。そのため雄は内容などろくすっぽ覚えてはいないが、ほとんどは自分がどんな凄いことが出来るだとか、どれくらい金持ちだとか、家柄はどうだとか、今までどんな賞を取ったとか自慢話ばかりしていた気がする。
 十数分、聞き流していてもいたものの、男の方は立ち話もそろそろ終わりにして、雄をどっかに連れ回したいようで言葉強に喫茶店かどこかに入ろうと言い始めた。この辺になるとさっきの男と一緒である。それで雄も我慢の限界が来た。心の隅に潜んでいた感謝という名のミジンコをぷちっと潰すと、「うるさい、邪魔。」と男を睨み言い放つ。それに男は美少女に強気でそう言われ、妙な迫力にたじろぐ。男は二の句が繋げなくなり、雄がもう一度「だから邪魔。どっか行け。それとも日本語分からないのか?」と言う。雄のその言葉、イライラしている分かなり言葉が悪辣だ。
 その言葉でやっと意識が復帰した男は、一瞬にして顔を真っ赤にして、怒りに顔を歪める。深くプライドを傷つけられたようだ。こういうのを「恐慌に陥った」と言うんだろうな、と雄は以外に冷静な判断をしていた。
 しかし事態は雄が感じていたよりもかなり悪い。この男、さっきの自分中心の自慢話の内容と、雄が言ったことに対する反応から見て、雄が今言ったように冷たくあしらわれたことがまるでない典型的なおぼっちゃまと考えられる。それから推測するに自分を無視すること、自分を軽く見積もられることに慣れておらず、世の中は自分中心で何でも自分のワガママや願いは通るという、利己主義がかなり強いと推測できる。大抵の場合、このような人物はヒステリックを起こしやすい人物ではないだろうか。
 雄は突き放す言葉を言った後、一度も目も、姿勢も合わせようとせず、完全無視の体勢が露骨だった。しかし、それが男の怒りをさらに呼んでしまった。
 空気を覚まさせる――そんな感じの頬を叩く乾いた音がする。その発生源は男の手と、雄の頬。
 雄は軽くよろめき、慣れない服装であったため、バランスがうまくとれずそのまま倒れてしまう。雄には何が起こったのか分からないでおり、頬を抑え、俯いたまま惚けている。ただ頬を殴られたことは伝わる痛みで良く理解できた。
 握り拳で殴っていないだけこの男を誉めてやるべきだろうか。
 周囲の反応は一瞬にして静まりかえり、聞こえるのは街の雑踏のみ、誰も彼もが自分たちの話題を止め、音の発生源に興味を示し、振り向く。雄と男は一瞬にして注目の的だ。
 惚けたままだが、雄はゆっくりと顔を持ち上げ、殴った男へと視線をやる。雄を見下ろす凶暴で醜悪な魔獣がそこにいた。今にも雄を捕食しようとしている怒りにかられた魔獣。雄は心の奥底から沸き上がる純粋な恐怖にかられていた。しかし、皮肉なことにそれが雄の生存本能をも揺り動かし、正気へと戻させる。それと同時――男がその怒りと本能に任せ、ゆっくりと手を伸ばしてきた。それに気付いた雄は最大限の勇気を振り絞り、その手を打ち据え、払う。そして震える足を叱咤し、転びそうになりながらも立ち上がった。目線を少しでも男と対等に持っていく。
「寄るな!」
 男に向かい全力で叫ぶ。だが、今の男にそんな言葉が届くはずもない。雄にさらに拒絶された男は細かく震え、その手に握り拳を作った。それを迷いもせず振り上げる。雄は今の服装ではうまく動けず、それを避けることも叶わない。殴られるという覚悟は全然ないが、来ると分かっているため反射的に歯を食いしばり、強く目を瞑った。
──
――待てども何もおこらない。
 すると、目を瞑り状況を把握できない雄に対して「お嬢ちゃん、もう目を開けても大丈夫だぜ。」と殴ろうとしたとは別の男の声で言われる。その声、やたら気楽だ。雄は大丈夫だと言われてもまだ警戒を解かず、用心しながらゆっくりとその目を開ける。開けた目の先には雄を殴りかかろうとした男の腕が別の男によってその腕を捻り上げられていた。
 雄とその殴ろうとした男の手を捻っている男と目が合った。
 男は一言で言うとお気楽そうなヤツだ。だが、秀麗な顔立ちにしっかりした柳眉、愛嬌のある瞳、明るいキャラのトップ男性アイドルと言う感じか。だが内々から自分に対する絶対の自信がその雰囲気に隠れるように感じられる。その超美青年と言える面に本当に無邪気な笑みを浮かべていた。
「みなさ〜ん、この男がこちらのお嬢さんを無理矢理連れ去ろうとしたんです〜。助けて下さい〜。」
 それだけ聞けば冗談を言ってるような口調だが、事の顛末を見ていた観衆たちはその宣伝に即座に動く。男性でがたいの良い人たちは雄を殴ろうとしたヤツを取り押さえるのに加わり、その男は完全に地面に押さえ付けられている。主に女性たちが雄の回りに集まり、頬のことを心配したり、他にケガはないだとか、優しい言葉で気を遣ってくれる。雄は急な展開に困惑しつつも、訪ねられることには何とか答えていた。
 そしてしばらくして誰が呼んだのか警察官までやってくる。それと同時に母親達ものこの頃デパートから出てきた。事の顛末を知った母親はひどく心配した様子だったが、恭子とヴェルは「モテるね〜」と、ケラケラ笑っており、雄は怒鳴ってやろうかと思ったが、ヴェルはともかくとしてこれが恭子なりの慰め方だと無理矢理納得して、我慢した。
 結局、母親と現状を見ていた人々を交えて警察官と話し合った結果、この沙汰は立件しないことになり、男の処遇は交番まで連行され、厳重注意されることとなった。一件落着したところで母親と雄は警察官をはじめ、周囲の人達に頭を下げ、お礼周りをする。その中で雄はお礼をしている群衆に例の無邪気に笑っていた男性を無意識だが捜していた。ただ一度無邪気な笑顔を見ただけで、顔もろくに覚えていない。だが顔を見たら思い出す自信が雄にはあった。
 大体お礼周りをし終えた頃「いない…」雄はボソッとそう言う。
 母親が何かを探しているようにキョロキョロする雄を訝しみ、「どうしたの?」そう聞いてくる。
「ん、何でもない」と、探すのを諦め、雄は何事もなかったことにして、そう返事した。
そして──
 男が警察官に軽く説教され、大人しくなったところで引きずられるように歩き出す。肩を落とし、顔を隠すように俯いている。まるで最初に会ったのとは別人だった。
 雄は一度その男の方を向く。そして男も何かに気づいたのか雄の方を振り向く。
 目が合う。
 瞬間──男が叫び声を上げた。
 大人しくなったところで警察官も気が弛んでいたのだろう、男は急に暴れ出し力ずくで警察官の戒めを解く。怒り狂った眼で雄を睨み、凶暴な雄叫びを上げ、突進してくる。母親がそれに気づき、雄を覆い庇う。不意をつかれた警察官は反転し、必死に男を追う。その男にまだ気を許していなかったヴェルが咄嗟に動き、捉えようと手を伸ばした。
 怒り狂った男は狂気に満ちた腕を真っ直ぐ雄にのばす。母親の腕の中からでもそれがハッキリと見える。
 しかし、その手は雄に触れることはなかった。男は雄に届く寸でのところで飛びついたヴェルに足を捕まれ、引き倒される。そしてその上から警察官が馬乗りになった。それでもなお暴れる男は喚き叫び、暴れる。警察官は手錠を取りだし、男の腕を後ろにねじ曲げ、ガチャリとはめた。それでも男から狂気の色は消えない。
 この男、怒りで回りが見えていない。見えているのはその対象である雄だけだ。
「ぐちゃぐちゃ犯してやる!殺してやる!貴様も生き地獄に落としてやる!僕をバカにしたヤツは誰だろうと不幸になるんだ!!今さら謝ろうとも許すものか!!全部貴様のせいだ!!!」
 男は怒りに顔を醜く歪め、雄に抱いた醜く禍々しい憎悪を言葉にし目一杯はき出した。
 その瞬間、雄を抱く母親の力が痛いほどに強まり、小刻みに震えている。雄からでは母親の顔は確認できない。しかし、恐怖に怯えていることは考えるまでもなかった。この時、雄の中に初めて男に対する怒りが湧き起こる。確かに罵倒され、怖いと思った。だが雄は精神的には男性だ。「犯される」と言われても現実味がなさ過ぎた。逆に一方的に非難され、プライドが許さなかったこともある。だが何よりも母親に心配かけまいとする心が強かった。自分のせいで――と言う罪悪感もそこにあった。それらが競合し、雄の中で火山の噴火のように爆発する。
「お前のようなクズに許しを請うほど落ちぶれてねぇよ!」
 誰もが唖然としそうな啖呵を切り、母親の腕を押しのけ、ずいっと前に出ると男を睨みつけたのだった。
 
夕食――
 あれから男に対して啖呵を切った雄に母親は一切口をきいてくれなかった。雄は何度も「ごめん」と謝っても渋い顔をしてそっぽを向いてしまうのだ。それは夕食の時でさえそうだった。ヴェルも恭子も母親の険悪な雰囲気を察してか食事中全く話をせず黙々と食べている。雄は母親に無視されているのがこたえているのか、食が細い。
 ヴェルと恭子はその雰囲気に耐えかね、早々に食事を終わらせると、連れ立って今に消えていく、二人でTVゲームかテレビでも見るのだろう。
 食卓には食事をする雄と母親だけが残される。雄はチラチラと母親の方を盗み見るが、母親は一貫して無表情だ。雄はどう声をかけて言い分からず、既に「ごめん」と謝るにもきっかけが掴めないでいた。どうしようかと考えあぐねていた時、「雄…」とおもむろに母親から声が掛かる。その声は弱々しくもあり、だが逆に力強かった。
「昼間、何であんなこと言ったの?」
 言葉端が震えている。「え…あ…」と雄は返答に窮す。本人にも何であんな事を言ったのか的を射るような答えを持ち合わせていない。強いて言うならその場の感情に任せた――だ。
 しかし、面と向かって母親にそんなことを言うわけにもいかず、代替の言葉を探していると、先に母親から声が発せられる。
「お母さんがどんな思いだったのか…分かっていたんでしょ?」
 雄はその腕に抱かれ、母親の恐怖が痛いほど分かっていたから、今、雄の心をきつく締め上げる。
「ごめん…なさい…」
 雄にはそう答えるしか術を持たない。合わせる顔をも持たない。言い訳など以ての外だった。
「二度と、あんな事はしないでちょうだい…。誰のためでもないあなた自身のために。」
 強い口調だが、儚くも悲かった。
 
ベッドの上で――
 夕食中、何よりも厳しい説教を受け、半ば放心状態で風呂に入り、昨日に続き早々と居間を辞すると自室に入る。そしてベッドへ直行し、ぽふっと倒れ込む。
 何かを考えようと思ったが思いつかない。だが――
 はたと思い出す。
 昨日は精神的なダメージが大きすぎて完璧に忘れていたが、まだ星を見ていない。昨日から昼間のことを思い返していた雄はその事を完璧に忘れていた。思いついたら気になって仕方がない。気分転換も兼ねて雄は上着を羽織り、まずは自分の部屋のベランダに出た。
 季節の変わり目で前回よりかはずっと暖かく、上着も必要ないくらいだ。しかし、風が少しあり体感温度は低めかもしれない。雄はビュッと吹く風になびく髪をかき上げ、押さえ付けながらベランダの柵のところまで移動する。
 柵に乗り上がろうとするが、身長が低くなったのと平均筋力が落ちたことが原因だろう、柵にうまくあがれない。何度目かの挑戦で体を持ち上げることは成功したが、バランスを崩し、危うく外に転落しそうになった。そこで食事の時に聞いた母親の言葉が思い出される。これ以上母親に心配をかけるのも気が引ける。この日、雄は屋根の上に上がることを諦め、ベランダの窓を閉じ、そこに寄り掛かって空を見上げた。一点の雲もなく、星見には良い夜であったが、家の屋根が邪魔をし、満天の星空というわけではなかった。
 何も語らない星たちが儚く力強く輝いている。その星たちに自分の手を重ね合わせ、女性になり細く綺麗な自分の手を眺めた。そうすると星たちが少女の美しさに嫉妬している気さえする。そして雄は思う、滑稽だなと。
 不意に「お嬢さん、ご機嫌かい?」と、ベランダの外から声が掛かる。最近、良く聞くおちゃらけた声だ。その声に反応して、雄の中の不機嫌を司る虫が騒ぎ出す。ムスッと声で「誰かのせいで今、不機嫌になった。」と言い返す。「それは残念。美しい満天の星空なのに。」そう言って、ヴェルがベランダの外からゆっくりと降りてくる。その背には純白に輝く翼。その翼をゆっくりとはためかせた。
 天使だった――
 雄は不覚にもぽかんと見とれていた。この満天の星空の夜にあってヴェルの持つ光り輝く純白の翼はあまりにも美しく、幻想的で夢のようである。今のヴェルの威厳ならばどんな画家も絵の題材として欲しがることだろう。いや、題材とするならばヴェル一人だけではない、美しい少女とヴェルが二人が出会っているこの瞬間だ。
 雄は見とれてしまっていた自分に気付くと、恥ずかしいのか頬を赤らめ、こほんと咳払いをしてから「お前、本当に天使だったんだな」と、今さらながら確認する。「まさか信じてなかった?」ヴェルはいつもの調子でそう笑っている。「ああ、堕天使って言った方が似合ってそうだ。」鼻で笑いながらズバッと雄が言い切り、「うー、ひどい。」と、非難の言葉を口にするが、笑っている。雄もクスクスと笑う。
 ひとしきり笑い合うと、「昼間はありがとうな。」雄は男を引き倒し、止めることに貢献したヴェルにはお礼を言ってないことを思い出したのだ。「え?あ、ああ、転ばしたこと?」と、確認をしてくるヴェルに雄は頷く。「いやいや、柄にもないね。」さっきまでの威厳はどこへやら気恥ずかしいのか浮かんだままあぐら体勢になり、後頭部をぽりぽりとかく。これでは出会った時の威厳のない姿そのままである。
 その姿に雄はブッと吹きだし、声を出して笑う。「う、何がおかしい!?」と抗議するあたり自分の不釣り合いな不格好が分かってないらしい。「あははは…ぷかぷか浮いていていてもあぐらの恰好をしているのが可笑しいんだって。」雄は指をさして指摘してやる。ヴェルが怪訝顔をして自分のあぐらを見てみるが、何とも思わないようだ。首を傾げていた。
 それを雄はニヤニヤ眺めているつもりだが、他人が見たら恋する天使の反応を嬉しそうに楽しんでいる可愛い少女だ。「何がヘンなのさ?」と、自分の身辺を一通り調べ終わったヴェルは眉根を寄せ、表情がちょっと怒っている。「まあ、いいじゃん。そんなこと。」と、雄はこの話題は終わりという感じで手をパタパタさせる。ヴェルは抗議の声をあげようとするが「なあ、人一人抱えて飛べるか?」その前に雄の言葉に遮られ、雄の質問にヴェルは興味を引いたらしく、しばし黙考――
「大丈夫と思う。」と、自信なさげのセリフだが、OKの返事を返した。雄はそのセリフに小さくガッツポーズをすると、嬉々として「俺を屋根まで運べ。」と命令口調で言う。ヴェルは文句の一つでも言いたげだったが、溜め息一つついて気持ちを落ち着かせたようで、文句も言わず翼をはばたかせベランダの柵までのろのろとやってくる。
 雄は立ち上がり、柵のところまで来るとヴェルに向かって手を伸ばす。ヴェルや嫌そうながらその手をそっと掴む。そして一気に引き上げると、雄に今まで感じたことのないような浮遊感が生まれ、優しい力場が雄を包んだ。「やっぱり翼をバタバタさせて飛ぶわけじゃないんだな。天使って。」と、はばたかなくても浮かんでいたヴェルを見ているくせに雄は自分がそれを体感しないとイマイチ信じていなかった。「何見てたの?全く…天使はね、法術で力場を作って飛んでるの」ふてくされ気味で説明をするヴェル。
 それを見て、雄はふてくされているヴェルが面白いのかまた苦笑し、それに対し「む〜」とヴェルは半眼になって睨む。「落とすよ?」かなりマジ気味のヴェルはそう言う。それを察してか雄は「悪い悪い」と笑顔で誤魔化しながら謝った。しかしヴェルはまだ怪訝顔をしているが、女神のような微笑みに何も言えなくなってしまったらしく、ぷいっとあさって方向を向いてしまう。実のところその笑顔が可愛いく、顔を紅くしてしまいました、など本人に言えるはずもない。ヴェルはその気持ちを誤魔化そうとしたいのか、雄に予告なしに屋根を通り越し、ごわっと急上昇する。「うわっ」と雄が小さい悲鳴を上げた。
 どれくらい上昇しただろうか、ヴェルのざっとした見積もりでは3,40階くらいのビル並みには上昇したつもりだった。当然それくらいの高度まで上昇すれば同等のビルは別にしても、たかだか2,3階くらいの高さしか持たない住宅群はミニチュアのように小さく、眼下に整然と並んでいる。
 突然の急上昇で雄は少し目を回したらしく、意識がとんでしまっていた。ヴェルがちょいちょいとつついてやると、すぐに正気に戻る。そしてヴェルは指先を下に向け、下を見るように促すなり「わっわっわっ!ちょっとっ!?」とかなり動揺している。さすがに足場なし高所に突然連れて行かれれば高所恐怖になるのも無理のないことだ。
 雄もそれに見事にはまると半恐慌状態に陥り、掴んでいたヴェルの手を必死にたぐり寄せ、腕、方と順々に掴む。結局ヴェルの首に両腕を回し、結びつけ、「はっ!?」そこにちょうど良くあった大きく広く暖かい場所に顔をうずめ、「やめっ!!?」きつく目をつむることで落ち着いたらしい。
 間違いなく抱きついたとはこのことだ。
 数秒間そのまま──
 かなり恥ずかしいのか、所在なげに目線を泳がしていたヴェルがすぐ目下にある少女の頭を仕方なさそうに見る。まだ恐怖を引きずっているらしくその少女はそのままだ。しかしヴェルがそう思ったのもつかの間「おい。」とヴェルの胸に顔を埋めている少女がそうヴェルに声をかける。「大丈夫なのか?」そう言いながら頭の動きが下を見ようか見まいか悩んでいるような動きだ。そろ〜とちょっとだけ動いてはまた元に戻るの繰り返し、ヴェルはその動きが妙で面白く、声を殺して笑ってしまう。それでも進歩しているのか、何度目かの挑戦で頭はヴェルの胸を抜け出すことに成功し、眼下を見たようで、その時だけ戻りがかなり早かった。
 怖いらしい。
 「高いところダメ?」と、笑いを押し殺しながらヴェルが胸の中の少女に聞く。「ダメだ。全然ダメだ。2階程度なら克服してるが、学校の屋上でも足がすくむ。」少女はウソをついても仕方がないと思ったのか震える声で答える。ここまで怯えていれば自分がどんな恥ずかしい格好でヴェルにしがみついているか分かるわけがない。「じゃあ、下を見ずに上を見たら?」打開案をヴェルが提示する。
 その言葉に少女は光明を見たのか、ゆっくりとではあるが、顔を上げる。もちろんそうすると一番最初に目に入るものは──
「だーっ!!?」
 無意識だが雄は腹の底から叫んでいた。顔を上げた一番最初に目に入ったものはヴェルのにこやかな笑顔だ。それは雄にとって見たくないランキングでランクインしていてもおかしくない。
 一瞬にして自分が恥ずかしい格好でしがみついていたのがヴェルだと分かり、高所恐怖のことも頭からすっかり忘れ、顔とは言わず、全身から火が出そうなくらいの恥ずかしさがこみ上げてくる。雄はあっという間に大混乱状態だった。そうなってしまうと暴れでもしてヴェルから離れようとする。華奢な体を必死に動かし、細い腕や足を突き出して、とにかくヴェルとの接触を皆無にしようとした。だが、今、ヴェルから離れてしまうと「うわっ!?雄!暴れないで!マジで落ちるっ!!」その通り、一部でもヴェルと接触していることにより雄も空に浮かんでいられるのだ。それを断ち切ってしまえば当たり前の如く落ちる。ヴェルも落とすまいと必死に雄を引き留めるが、いかんせん雄の抵抗がひどく、かろうじて手首を掴み、皮一枚――かなり危険な状態だった。それもいつ振り払われるか分からない。「下見て!した!!」とヴェルは叫ぶ。半暴走気味の雄でもそれぐらいの言葉を聞く余裕があったのか、ふとした瞬間で下を向いてしまう。
 雄、硬直――
 毒をもって毒を征す――が効いたらしい。「え、ええ…あっ?あああっ!?」と、奇妙な悲鳴を上げ、自分の動きのベクトルを逆にし、前と同じようにヴェルに抱きつく。これほど効果が高いとはヴェルには予想外ではあったが、落ちるよりはマシだなと判断し、今度はある程度暴れられてもいいように腰に手を回し、もう一方の手で頭を自らの胸に押さえ付ける。言うなれば密着版抱き合っている恰好だ。
「雄、落ち着いて…ボクと手を握っているだけで落ちないから。でも無理に離れようとしちゃうとマジで落ちちゃうから気をつけて。」と、胸の中に収まり、ブルブルと震えている少女の耳元でそう言い聞かせる。それで多少は落ち着いたようだ。カクンカクンと首振り人形のように頷く。「じゃあ、ゆっくり離れるよ?」ヴェルはそう言うと、その少女の頭はブンブンブンと首振り人形のように横に首を振る。「でも、このままで良いの?」その言葉はまたヴェルに抱きついていることを思い出させ、少女の暴走を招きかねなかったが、今は高所恐怖というのが念頭に出ているし、ここにいるのはヴェルだけというのも分かっているはずだ。大丈夫だろうとヴェルは楽観していた。やや間があって少女はブンブンブンと首振り人形のように横に首を振る。「じゃあ、ゆっくりだ。まず、顔を離して。下を見ないようにね、上を見てるんだ。そうすれば怖くない。」優しい声音、泣く幼児を落ち着かせ、諭すような口調だ。少女は逡巡していたが、意を決したようでゆっくりとだがヴェルの胸から頭を離す。「そうそう…あ、下を見ないで。」顔を上げる前に下を見ようとした少女をヴェルはたしなめる。そう言われ少女はビクッとし、下を見たいという衝動を必死に堪えていた。「ゆっくり顔を上げて。」離した状態できつく目を瞑り、固まってしまっている少女にヴェルは上を向くように促す。「むう…」少女が困ったように唸る。しかし、困っていても仕方がない。目を瞑ったままだが、顔を上へと上げる。そして、数瞬もかからず少女の顔が真上を向く。
「もう目を開けても大丈夫だよ。」
 ヴェルの声が聞こえ、少女がゆっくりと瞳を開けた。
 
 
「わあ…」
 
 
 少女の瞳に広がる世界で一番美しい宝石――
 
 
 それは星たち――
 
 
 闇の夜の満天に散らばり、力強く輝く星たち――
 
 
 星を眺める少女とそれを見守る星たち――
 
 
 神は思う――
 
 
 あれこそ…この世で一番美しいもの――
  
 
 と――
 
 
 この日ことは一生忘れなかった──
 
 
第1部?──完──
 
雄(優) ヴェル
 
 
 
 朝、ノックをしている音で目が覚めた。
 でもだるい。
 起きないと。
 でも眠い。
 起きなきゃ…
 でも二度寝。
 と、雄は結論付け、布団をかぶり直す。その中でもぞもぞと動き、今、一番寝やすい体勢を探し、落ち着いたところで寝る。
「ぐう。」
 何か、部屋の外から声が聞こえるが、雄は一切無視で寝る。
「ぐう〜。」
 外の声が怒鳴り声に変わったが、現実逃避気味に頭からそれを追い出し、寝る。
 バタンッ
 今度は部屋のドアを無理矢理こじ開けたような音がし、雄は一抹の身の危険を感じつつも寝る。
「お、き、て〜っ!」
 雄の耳元で少女の甲高い声が最大声量で放射された。その声は一瞬にして鼓膜を強襲し、神経をばく進し、あっという間に脳を襲う。これにはさすがに寝られなかった。
「うるさい…」
 雄はのっそりと上半身を起き上がらせ、唸る。耳は耳鳴り、頭は頭痛で怒鳴り返す気力もないらしい。
「おきて。」
 年相応の可愛い顔して悪魔のような性格と性能を有する雄の妹──恭子が典型的なセーラー服を着て、にこやかにそう言った。
「寝かせろ…」
 雄はまさにばたんきゅ〜と言った感じでベッドに倒れ、枕の中に顔を埋める。
「ダメ。」
 にこやかに即答。
「学校行くんでしょ?」
 何か大切なことを言われたような気もしたが雄は聞かなかったことにする。と言うことで何を言ったか分からなかったので無視を決め込む。
「土曜日に高校の制服ちゃんと買ってきたんだよ?」
 恭子の嬉しそうな声。だが、雄には何を言ってるのかサッパリ分からないと思い込もうとする。
 無視を続けられ、恭子もカチンときたらしい。
「起きないと…」
 そう言って恭子は雄の耳元にごんよごにょと耳打ちをした。その効果は絶大で雄は飛び起きると恭子に向かって敬礼する。
「おはようございます!サーっ!」
 それを見て、恭子は出来るだけ偉そうにして満足そうにうなずく。対して雄はその美麗な顔を寝起きの顔から泣きそうな顔に入れ代えていた。
「まあ、お姉ちゃん、冗談はこの辺にしてさ。マジで起きないと遅刻だよ?」
「え、あ、まあ、そうだな…」
 雄の返事は何か歯切れが悪い。
「行きたくないのね…」
 妹にズバリ核心をつく。図星だけに雄は反論できず。
「何がイヤなの?」
 まるで何でもイヤイヤをする幼児に母親が怒っている言い方だ。
「…」
 雄、答えず。
「制服?鏡?髪の手入れ?それとも学校そのもの?」
「いや、そうじゃなくて…制服もまあ、いいや。鏡ももういい。髪の手入れも覚えた。学校も嫌いじゃないよ。」
 女になってしまい、昨日のようなことがあったため、面と向かって男友達と会う勇気がないとはさすがに言えない。
「じゃあ、なぁ〜に?」
 この時、雄が何故行きたくないかと言う理由を恭子は分かっており、それを踏まえて遊んでいると確信した。だから睨む。
「…人がせっかく相談に乗ってあげてるのに…睨むの?」
 雄が睨んでいることに気付かないわけがなく、言葉に憂いを込めて言っているのがかなりわざとらしい。
「どうだか。」
「なによそれ〜?しんじらんない。せっかく愛するお姉ちゃんのために協力してあげようと思ったのに〜。」
 拗ねて見せているが、これもかなりわざとらしい。とにかく一貫して目が笑っていた。「お前、目が笑ってるぞ。信用できないって。」
 指先で恭子のおでこをコツンとしてやる。
「いった〜い」
 さして痛くもないはずなのに恭子は大げさに言い、両手でおでこを押さえた。
「大げさ。」
「む〜っ」
 恭子は雄をずっと睨んでいるが、雄本人は全く気にしていない。ベッドから這い出ると、邪魔とばかりに恭子をどかし、う〜んっと大きく伸びる。脅されて起こされたが、寝起きは悪くない。むしろ良い方だった。
「恭子、着替えるから出てって欲しいんだけど?」
 振り返り、まだ睨んでいる恭子に苦笑混じりにそう言う。
「ヤダ」
 即答。
「だと思った。良いけどな。いつものことだし…はあ…」
 雄は諦めたような口調で言う。
 元々、川迫家では下着姿くらい家族なら見られようとも構わないと言う風潮があった。母親や恭子の下着姿で平然と廊下を歩き、雄が顔を紅くするだけだし、雄のトランクス姿を母親や恭子が見ようとも全く気にしないでいた。どちらかというと雄が気にし、母親と恭子が「それぐらいどうした」と言う感じである。
 そんなことだから雄も諦めモードであった。
 チラチラと恭子の方を確認するが、やっぱり出ていくつもりはないらしく、ベッドにぽふっと座ると、頭の天辺から足の指の先までジーッと睨み見ている。
「はあ…」
 再度溜め息、しかしそれで状況も変わるはずもない。雄は覚悟を決める。ずっとその存在を無視し続けていたが、壁かけのハンガーにかかっているブレザータイプの女子制服を手にとってバサッと恭子の隣、ベッドの上に放った。もう一度恭子の方を見てみるが、やっぱり睨んでいる。雄は恭子のしつこさに辟易しつつ、緩慢な動きでパジャマのボタンに手をかけた。
 雄は着替えるのに悪戦苦闘する。
 着方が分からなかったわけではない。恥ずかしかったわけでもない。何故かというと恭子が所々に妨害をかけてきたのだ。ワイシャツのボタンをはめていたらはめた所から恭子が外していき、スカートをはこうとしたら恭子に裾を掴まれ、ずり下ろされたり、ブレザーを着ようとしたら襟を掴まれて、後ろに引っ張られたりと、悪質きわまっており、途中からそれが楽しいらしくケラケラと笑いだしていた。 
 やられるごとに雄も怒ったが、服を着込むことで手一杯のため、手が出ない。その上、ひっとあんどうぇいで攻撃を仕掛けてくる恭子に反撃など出来ず、ホントに良い的である。
 結局、服を着るだけで10分近くの時間を要してしまっていた。
 
 その頃、ダイニングにて――
「おはよーございますー。」
 寝ぼけ眼を擦りつつ、何故かブレザータイプの男子制服を着込んだヴェルがのそのそとダイニングに入ってきた。天使の翼は既に消えている。
「おはよ、ヴェルちゃん。」
 朝食の準備を着々と整えている母親が挨拶を返す。
「朝ご飯は何ですか〜?」
「ご飯に鮭の塩焼き、お味噌汁よ〜。あ、おまけに海苔ね。」
 めちゃくちゃ純和風である。
「やった、バンザイご飯もの。」
 ちなみにヴェルは朝ご飯は和風派でそれもご飯がないと許せないタイプである。この金髪碧眼の小僧がだ。 
「遅いわね…」
 食卓の上に大体の食事を並べ終わった母親は廊下の方を見ながら首を傾げる。
「どうかしたんですか?」
「いやね、恭子に雄を起こしてって頼んだけど、遅いのよ。」
「ボクが様子見てきましょうか?」
「そうね、お願いするわ。」
「りょーかいしました。」
 ヴェルは朝ご飯にちょっと後ろ髪を引かれつつも、廊下へ出て、まずは二階への階段を上がる。
 すると突然――
 ガタンッ
 比較的堅いものが強く打ち付けられる音がする。
ガッガッタッタッタタタン!
 そう例えるならば一階におり、二階で机などを大量に動かしているそう言う騒音だ。
「…はあ…」
 気軽に見に行くと言ってしまった自分を今さらながら後悔し始めるヴェル。
バタンッ
 今度は扉が蹴り破られるような音。獣たちは解き放たれてしまったようだ。
「待てッ!恭子!!」
 素ならばよどみがなく、清楚感があり綺麗な声だが、憤怒が混ざっているらしく、清楚感がない怒鳴り声になってしまっている。
「や〜だよっ!!」
 こちらは声質に子供特有の遊びがかっており、幼さの残る声。
「逃げようかな…」
 ヴェルは即決すると、くるりと反転し、途中まで上った階段を下りようとする。
ドタドタドタドタドタッ
 その廊下を疾走する騒音は段々と大きくなり、ヴェルの方に近づいているようだ。ヴェルは身の危険を感じ、階段を下りる足を速める。
 だが、既にその判断は遅すぎたようだ。
「あっ!ヴェルめっけっ!!」
 ヴェルを指さし、大声でそう言い、一段飛ばしで階段を駆け下りてくるセーラー服を着た一人の可愛い少女――恭子だ。笑っているようだが、何か追いかけられている緊張感もその表情からうかがえる。 ヴェルがヤバイと思った時には、あっという間にヴェルに追いつき、さっとその後ろに隠れた。
 そして、そのすぐ後にこちらも足音を静めようともせず、ドタドタと降りてくるブレザーの女子制服を着た一人の少女――こちらが恭子の姉(?)の雄だ。その容姿は超一流の職人の手による造形から生まれたかのように美しく、美の天使を思わせるが、今は閻魔大王様を思い出させるかのように怒っていた。 
 ヴェルより二段上に仁王立ちになると、真っ直ぐとヴェルを見据えている。と言うかその後ろを睨んでいるのだが。
「出てこい。」
 ヴェルが「ハイ出てきます。」と返事してしまいそうなくらい迫力があった。
「イヤよん。」
 人を食ったのような返事はヴェルが言ったわけではないが、雄からその発言人の姿は見えないのでまるでヴェルが言ったかのように見えてしまう。怒りの矛先もヴェルの後ろに向いてるのだが、ヴェルはそんな気楽な気持ちにはなれなかった。とにかく雄から発せられる怒りのオーラが怖い。
「あの、朝から姉妹ゲンカは…」
 ヴェルは恐る恐るだが仲裁の言葉を口にする。
「はあっ!?誰が姉妹だって!?」
 一瞬にして雄の怒りのベクトルがヴェルに向く。姉妹という言葉が大変お気に召さなかったらしい。
「いえ、何でもないです…。」
 ヴェルは萎縮してしまい、もう仲裁どころではなかった。
「さて、今日こそ成敗してやる…腐れ外道妹…」
「ふふん、人の親切も受け取れない心狭き姉上にそんなこと言われる筋合いはないわよ。」
「それが信用ならないと言うんだ。人外魔境の大悪魔の化身妹…。」
「何言うの、その逆じゃない。幸福豊穣の大女神の生まれ変わり妹でしょ?」
 と言ってケラケラ笑っている。
「押し問答なんてやってられるかっ!」
 雄は我慢していたものを解放させると、ヴェルを押しのけ、恭子に掴みかかろうとする。
「きゃー、こわーいっ!」
 その手をサッと避けると、恭子は身軽な動きで階段を下りきった。続いて雄も後を追いかける。姉妹ゲンカのとばっちりから解放されたヴェルもそこにいても仕方がないので朝食をゲットするべくのっそりと動き始めた。
 
「あんた達、何やってるのっ!?」
 またもや大声。雄に通ずる声質だが、かなりどっしりした雰囲気を持っているため、雄の声と聞き間違えるほどではない。
 ヴェルまで来るのが遅く、しびれを切らしたのか、母親が廊下の中央で待ち構えており、ビックリした恭子が急停止するが、止まるより前に母親にガシッと捕らえられてしまう。
「ほわっ」
 恭子と母親は勢い余ってか、ダンスを踊るようにくるりと一回転するとまた正面に向き直り、バツが悪そうにしている雄と向き合った。
 恭子を胸に抱き、頭の上にあごを乗せ、娘になった元息子をしげしげと観察する。
「あら〜、似合うじゃない。」
 と、母親はさっきまでの叱り声はどこへやら、嬉しそうにそう言った。
 紺色を基調に所々に白いラインをアクセントに加えたブレザー、胸の紅いリボンが良く合う。スカートも青色系のチェック柄だ。これが雄が男の時でも通っていた京光(きょうみつ)高校の女子制服で、デザインに清楚で清潔感があると定評があった。そして、短い靴下を折ったり、膝上だがちょっと長めなスカートと雄の控えめな趣味が今の容姿と見事にマッチし、まさに純真無垢なお嬢様の一丁上がりである。ちょっと大きめのを買っていたので手が少し隠れているところがなおイカす。
 それはもう内と外が見事に調和した非の打ち所がない美少女である。
「そう思わないヴェルちゃん?」
「同感です。」
「う〜」 
 誉められているのだが雄にはどうもそう実感できない。女子制服の着心地が悪そうだ。「お姉ちゃん、キレイだよ〜」
「お前に言われても嬉しくない。」
 恭子にそう言われると、一瞬に顔をくわっとさせ、言い返す。
「つーか、何で貴様が俺の制服を着ているっ!?」
 おもむろに振り返り、ヴェルの服装にようやく気付いたようだ。ビシッと指さす。
「あら、あんたが寝てる時からずっと行ってるわよ。留学生として。制服買うのも勿体ないからあんたのを使ってもらってるの。」
 母親があっけらかんと言う。
「はぁっ?」
「だから学校に通ってるの。」
「入試は!?」
 京光高校は普通の上くらいのレベルはある。付け焼き刃で受かるような学校ではない。
「編入試験のこと?ヴェルちゃんはオール満点で余裕綽々だったよね。」
「はい、あんな子供だましみたいな問題なんて余裕ですよ。」
「カンニングしただろっ!?」
 その疑念に雄を挟んでヴェルと母親が肩を竦め、フッと嫌な笑いを浮かべる。言葉で言ってないが態度が「イヤねぇ〜、疑り深い人は…」と言っていた。
「お姉ちゃん、マジよ。だってあたし先週から途中まで一緒に行ってたもん。」
 いやに真剣な口調で恭子がそう言う。
「ぐぬ…」
 何かすごく釈然としないものを感じているが、事実だからそれは晴らしようもない。
「仲良く一緒に通ってね。」
 母親が満面の笑顔でそう言った。ヴェルと雄が並んで二人で歩く様はさぞかし良い絵になることだろう。
「い、いやだ…」
 迫真だ。
「さってと、こんなところで油売ってないでさっさと朝ご飯を食べる!本当に遅刻しちゃうわよ!」
『は〜い』
 恭子とヴェルは元気よく返事をするが、暗雲が待っている雄にはそれに返事を返す余裕もなかった。
 
 朝ご飯が終わった頃──
「ちょっと待てぃ。」
 雄は「ごちそうさま」と言うセリフの代わりにそんなことを言って乱暴に箸を置く。母親が顔をしかめ、恭子が何事かとほっぺたにご飯粒をつけ、目を丸くして雄を見る。ヴェルは朝から幸せそうであっちの世界に行き損ねていたるのを呼び戻された。
「食べ終わったらごちそうさまでしょ。」
 母親が言葉強に言う。こういう礼儀作法には結構うるさい。
「いや、あ、うん、ごめんなさい。って、今のところはどうでもいっ!!」
 たしなめられ素直に謝ってしまう雄だが、それですり替えられるような問題ではないらしく、気おとり直す。
「まずは確認する!」
 そう言ってヴェルを指さす。
「約1年で元に戻れるんだな!?」
 ヴェルしばし沈黙──
「誰が一年って言ったっけ?」
「お前が…」
「ボクは早くても一年って言っただけで…」
「はっ…?」
「一年で戻れる確率なんて小数点の後ろにいっぱいゼロがつくよ?」
「うそだぁーっ!!?」
 雄はそう叫ぶなり、その美麗な顔が不細工にデフォルメされたキャラのようにくちゃっと崩れる。そして椅子から飛び出し、ヴェルの脇に来ると、腕を横振りにしローリングソバットを放った。その容赦のない一撃は見事にヴェルののどに入り、椅子ごと後ろに吹っ飛ぶ。超重量級レスラーばりの威力だ。雄は放つことに体力と精神力を大量に消費したのか、荒く息をしている。
「あら、すごい。」
 母親は感心する。
「お姉ちゃんやる〜」
 恭子も同様。
「ふっ…さすがだな…じー…」
 と言ってヴェルはのどを押さえずに、殴られてもいないはずの頬をおさえ、のろのろと立ち上がる。その様子は最終ラウンドを迎えたボクサーのようだ。
「何がじーだ!!?てめ、さっきからウソ言ってるだろ!?何だゼロって!?」
 呼吸を無理矢理落ち着け、雄はヴェルに向かって再度怒鳴る。
「全く…心が広くないと困りますね…お母さん…」
 ヴェルが雄から視線をはずし、やれやれと言った感じで泣き真似をいつの間にか始めている母親にそう憂いを語る。
「ううう…わたしが全部悪いのっ!?この子だけはぁっ!!」
 わざと過ぎるし、場面も全然合ってないし、何と言っても話がかみ合ってない。
「お母さんっ!先立つ不幸をお許しくださいっ!!恭子は幸せでしたっ…!!!」
 などと恭子まで絡んでくる。ポピュラーすぎてインパクトは弱いが、毒が強い。
「またそのパターンかっ!?恭子まで!」
『ううううう…』
 三人が三人とも雄に哀れむような悲しむような演技かかった泣く声と視線を送り、それらの瞳を一望した雄は頭痛と胃痛がかなり酷くなった。
「もういい…俺が悪かった…詳しいことを教えてくれ…」
 ズキズキと痛む頭痛と、キリキリと痛む胃痛に怒る気力も萎えたらしい。椅子にもたれかかり、そう呻く。
「そう、じゃあ、順を追って説明するね。まず一年で戻れる確率は0.000とあとゼロが20個以上続くくらいの確率。まあ、50%くらいで2,30年って所じゃないの?」
 あっという間に復活しているヴェルがそう言う。
「何でそんな数字になる…?」
 雄はかなりショックなようだ。少し顔が青くなっている。
「人間の尺度と天使の尺度を一緒にされても…それに地上って天使にとって劣悪な環境だから力も浪費しやすいの。」
「何とかならないのか?」
「前にもそんなこと言ってたねぇ〜、それから考えたんだけど、一つ方法がないわけでもない。この方法なら運が良ければ明日にでも元に戻れるよ。」
 もったいぶるようにヴェルが言う。各々の反応として母親と恭子は女性推進派であるため、あからさま不満顔だが、雄は虚をつかれたように目を見開いている。
「どんな方法だ!?」
 雄が身を乗り出し、問いつめる。
「神の落とし火を拾うこと。」
 その答えに一同の頭に疑問符が浮かぶ。
「神の落とし火って…?」
 代表で雄がそう質問する。
「うん?神の落とし火って言うのは神が力を行使した時に残る残りカスみたいなものなんだけど、神様って桁外れに力があるからその残りカスだけでも僕ら天使達の力を全快まで回復させることが出来るの。これって結構長い間残っててね、その細かいのをちまちま回収しているだけでも違うと思うよ。これなら一年って言うのも無理じゃないかも…時間が経つと散逸しちゃうから新鮮で巨大なのを拾えれば明日でも出来る。」
 と、長々と説明する。
「その神の落とし火って言うのは結構落ちているものなのか?」
 雄の目に輝きが戻っており、嬉しいのか声が上擦っていた。
「あ、いや、神様は行動が不規則だから地道に探せば結構見つかると思う。それに少量の神の落とし火って昔から何だか幸せなると神様が現れたとか、そういう伝説が残ってる場所には大体あるし。」
「そうか…ふふふはははは…そうか、そうか。」
「お姉ちゃん、怖い…」
 ヘンな笑いを上げる雄にマジメにびびっている恭子。
「で、スッキリしたところで本題だ。何故女の恰好で学校に行く必要があるんだ?戸籍とか証明書とかは全部性別が男になってるはずだろう。」
 実際のところ、雄はこれをネタに学校くらいは男の恰好をして行こうと画策していたりする。
「あ、それならヴェルちゃんが魔法だか何だか知らないけど書き換えてくれるって言うから任せてあるけど?」
「はあ?魔法?」
「ええ、法術ですよ。神の落とし火の収穫が昨日ありましたしね、ポンッと一発。書類の部分は全部女性になってますよ。ついでに『雄』じゃ名前がおかしいと思ったんで『優』に代えるというおまけ付きで。」
「やっぱり合わせた方が何かと便利よね〜。」
 そう言って喜んで拍手している母親。
「おめでと〜お姉ちゃん〜」
 恭子も同様。
「あほかああああああああああああっ!!!?」
 エヴァ○ゲリオンばりの暴走――
 暴れる暴れる。
 大いに暴れる。
 これでもかってくらいに暴れる。
 ええい、おまけってくらいで暴れる。
 そんな中、悲鳴は聞こえないが、笑い声に似た悲鳴なら聞こえてくる。
 
 雄が我を失い暴れること十数分──
 ヴェルと恭子はどさくさに紛れて学校に行ってしまったらしい、姿はない。いるのは雄と母親だけ。
「片づけてね。」
 と、力つき、倒れていた雄に凍り付いた笑顔で母親はぐちゃぐちゃになっている食卓を指さしそう言った。
「えっと遅刻しちゃう…」
「朝のホームルーム遅れようが、一限目遅れようがこの際どうでも良いわ。片づけてから学校に行ってね。」
 凍り付いた笑顔に燃えるような怒気がこもっている。かなり怖い。
「…はい。」
 雄にはそう答えるしかなかった。
 
 片づけること十数分──
「完全に一限目は遅刻ね。」
 母親がほうきでフローリングの床を掃きながら、掛け時計を見て、どうでもいいという感じの軽い口調でそう言う。ぞうきんでテーブルを拭いている雄もちらりと時計を確認すると、既に一限目の半ばくらいの時間だ。
「誰のせいかしら?」
 母親は雄の方を一瞥もせずに言って、ちりとりにゴミを集め、捨てる。
「さて、これで終わりね。雄は?」
 雄もぞうきんについたゴミを払い、流しでじゃぶじゃぶと洗っていた。
「これで終わりです…。」
 反省しているのか、雄は元気のない声でそう答えた。
「そう。じゃあ、あとはやっておくから学校に行きなさい。」
 黙々と片づけをしている雄を見て、母親はため息を一つつき、さっきまでの張りつめた貌をほぐし、仕方なさそうにそう免罪を出す。
「え、あ、うん。」
 雄は突然赦しを出され、驚きもしたが、ホッとしているようだ。トコトコと鞄を取りに行き、鞄を持ってくるとそのまま玄関で戸棚から新品の革靴を取りだしはく。
「いってらっしゃい。雄、がんばってね。」
 雄の行動を見越してか、母親が玄関までやってきて、トントンと床に靴のつま先を叩き、靴の履き心地を確かめている雄に微笑んで言った。
  「え、ああ、いってきます。」
 雄は気恥ずかしいような、何か戸惑うものを感じながらも固いが笑みを浮かべて言い、玄関を出た。

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