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野良猫放浪記

                     地駆鴉



 江戸の世……いまだ、人が物の怪の存在を認める時代。

 すでに日は昇りきり、人々がせわしなく行き来する路地を照らす。そこに立ち並ぶ長屋の中に、一人の旅人が帰ってきていた。

「お静が片付けてくれたのでござるか?」

 たらい型の三度笠をかぶって玄関に立っている男が、家の中にいる若い女に聞いた。男は紺色の着物を着て、どこか遊び人のような、飄々とした雰囲気を漂わせていた。

「ええ、みつきさんが旅をしているあいだ、毎日お掃除しておりました」

 しずとよばれた女は、玄関に下りながら男に答えた。その足取りは奥床しくも、軽やかなものだ。

「それは……よいのでござるが……その……」

 男は気まずさを顔に出して、歯切れの悪い言葉で静に聞いた。
 三度笠をばつ悪く脱ぐこのみつきと呼ばれた男は、天才符術士とうたわれ、物の怪退治をなりわいとしている。正しくは、名を水月みつきといった。
 この水月、十九と言う年齢で、すでに祝言を誓った女がいた。他でもない、ここにいる静と、だ。

「なんでしょう?」

 静はとぼけた顔で水月を見やった。隣に立って問われたものの、それ以上言葉を続けることができず、水月はただ苦笑いを浮かべた。
 水月の言おうとすることを知ってか知らずか、水月が黙っているのを見て、静はかまう素振りも見せずに外に出ていった。

「お店の仕事をしてまいります。夕時には、また来ます」

 最後にそう言うと、静は玄関の戸を閉めた。弾むような足音が、徐々に小さくなっていく。水月は足音が消えたのを確かめると、着物のそでに両方の手を互いに差し入れた。水月の考えごとをする時などの癖だ。

「布団の下に敷いてあった……春画本はどこにやったでござるか? なんて……聞けるわけないでござるな……」

 首を傾げながら一人呟く。これが、水月という男である。


第一話

路の捨て猫


 水月は家の中に入って、ただ一つある棚の中を探していた。

「やはり……捨てられてしまったか……」

 そう呟く水月の声は、この青年にしては珍しく焦りを見せたものだった。
 やがてひとしきり探し終わると、執着するものが吹っ切れたのか、玄関へと向きなおった。

『しょうがない、春画本はあきらめるか。いいかげん腹も減った』

 執着する物……春画本への未練を断ち切った水月の次の行動は、腹を満たすことだった。
 玄関に置いておいた三度笠を頭にかぶり、再び外へと出た。高く昇った日の光が、水月の三度笠に降りそそぐ。無邪気な子供達が走りまわる小さな路地を抜け、大通りへと出た。うなじで束ねられた長く伸びた黒髪を揺らしながら、水月は活気の喧騒の中を通り、一件の建物の中に入った。店先には、”そばどころあずま”と書かれた板が立てかけられていた。


「いらっしゃい……あら、水月さん」

 入るなり、静の姿が目に入った。
 一瞬、春画本のことを聞こうかと思ったが、その度胸は水月には無かった。食事の注文だけをつけて、適当に机の横の長椅子に座り、三度笠を横に置いた。

「お酒でも持って来ましょうか?」

 笑顔の静が優しい声で聞いてきた。その声が聞こえてか、わずかにいた客の視線が集まった。

「いや、いいでござる」

 そう言って水月も笑顔をかえした。酒が嫌いというわけでも、昼間から酒を飲むことにさして抵抗があるわけでもない。ただ、酒を飲む気になるほど金銭に余裕は無いのだ。
 水月の注文を受けた静は、せわしなく店の奥へと入っていった。
 注文の品が来るまでのわずかな時間に、客の一人の見覚えのある中年男が話しかけてきた。

「よう水月坊、いよいよ祝言だな」

 男は水月の正面に座ると、自分の持ってきたとっくりと杯を机の上に置いた。

「平次殿、ひさかたぶりでござる」

 水月がそう言った時、ちょうど静が注文のざるそばを持ってきた。静かに机の上にざるそばを置くと、静は上機嫌をあらわすような足取りで店の奥へと戻っていった。
 平次は静が去るのを見届けて、杯にとっくりから酒をそそいでいた。

「去年からずーっとあれだ。坊も罪作りじゃねぇか」

 平次は酒を飲みほしながら、すでに真っ赤になった顔を水月に向けた。その顔に懐かしさを覚えながら、水月はそばを口に運び、大して噛みもせずに飲みこんだ。

「ありがたいことでござる。一年も……待っていてくれたでござる」

 そばの後味を口に残しながら、水月は静とのことを思い出した。
 四年前、まだ師のもとを離れて間もない、旅をはじめたばかりのころ。諸国漫遊の道中、腹を空かしていた水月に白米のおにぎりを差しだしてくれたのが縁となり、以後、なにかといえばこの町に立ち寄った。そしてついに去年、祝言の約束を取りつけ、水月は最後の修行とばかりに、この一年、各地で物の怪退治をおこなってきた。その旅も昨日で終わり、明後日には祝言をひかえていた。
 そこまで考えた水月の思考は、別の考えへと続いた。
 祝言を迎えれば、職が物の怪退治だけでは頼りが無い。この町に居つくことになった水月が、まずやらなければならないのは、新たな職を探すことであった。しかし、生来ののんきな性格のせいか、一向に良い考えは浮かんでこなかった。

『焦って心を乱してもしょうがない。今は目の前のそばを食べきることだけ考えよう』

 悩まないのが、水月である。
 そばをすすりこんで、素早く飲みこむ。それを見計らってか、平次が再び話しかけてきた。

「で、この一年、旅はどうだった?」

 空になったとっくりを揺らしながら、平次はだらしなく机にひじをついていた。平次の口から出た酒の匂いを含んだ息が、水月の鼻をついた。

「特に問題は無かったでござる。物の怪も、僕が食いぶちに困るほどおとなしいものでござった」

 そこまでしゃべってから、再びそばを口に運んだ。飲みこんでから、水月は話を続けた。

「ただ、腹が減るのと雷にうたれることだけは厄介でござった。お静からもらったこの三度笠も、雨や陽光はしのげても、落雷だけはしのげなかったでござる」

 水月のその言葉を聞いて、平次は苦笑していた。

「めちゃくちゃを言うやつだ。古今東西、雷さんにうたれて平気なもんなんざあ、妖怪かおめぇぐれぇなもんよ」

 平次の言葉を聞きながら、水月は最後のそばを口に入れた。

「ほぉ、術士様は、雷にうたれても平気なのでございますか?」

 水月がちょうどそばを食い終えた時、いつのまにか机の横に立っていた男が、水月に向かって話しかけてきた。
 その男の着物は黒く、水月と同じく長く伸びた漆黒の髪は、束ねられることもなく振り乱されていた。およそまともな神経を持ちあわせていれば、この黒い着物の男をいぶかしく思いもしただろう。だが、水月はそうではなかった。

「お師様の話では、僕の体には無意識に結界が張られているそうでござる。ゆえ、雷にあっても怪我も無く、着物や笠にこげめもつかないでくれるでござる」

 男にいささかのんきな笑顔をかえし、箸を置きながら水月は答えた。そして、一拍を置いたのち、こうつけ加えた。

「もっとも、その雷も僕が無意識に呼んでいるそうでござるが」

「それは災難でございましょう」

 苦笑いを浮かべた水月に、男はそう言った。
 男が先ほどからたたえている静かな笑顔に、水月の心にやや警戒心が生まれたが、それをおもてに出すのは失礼だと感じた。

「いや、まったくでござる。……ところでぬし殿は?」

 わずかな警戒心がおもてに出てしまったのか、気がつくとそう聞いていた。

「これは失礼をしました。水月様ですね?」

 男は相変わらず机の横に立っている。

「そうでござるが……なにか用があるでござるか?」

 そう聞き返す水月の正面では、平次がいびきをかきはじめていた。話をしない間に眠ってしまったようだ。その平次を見やりながら、水月は男の言葉を待った。

「いろいろとお話をお聞きしたく、訪ねてまいりました。特に……世と時をうつる術など……」

「――!」

 男の言葉を聞いて、水月はやや動揺した。
 符術の師より教えられたものの、使ってはならぬとされた禁術、世と時をうつる術。水月の知る限りでは、その術を知っているのは師と自分だけだった。
 自分の知らない同門の者……少なくとも、師を知っている。水月はそう納得した。

「承知したでござる。しかしここではそのような話はしにくい。僕の家に場をうつすでござる」

 男は水月の言葉にうなずいた。
 それを確認するなり、勘定を払って三度笠を頭に乗せ、平次のいびきを背に男と共に店をあとにした。


 外に出ると、日の光は先ほどのような眩しいものではなくなって、やわらかな光を大通りに与えていた。
 いくぶん活気がなくなってはいるものの、いまだ人の多い通りを、男を背に連れ、静かに歩いた。
 そして、長屋のある路地に入ると、水月の耳に子供の泣き声がとびこんできた。見ると、年のころ十といった少女が、うずくまって腕から血を流して泣いていた。おそらくは転んですりむいたのだろう。怪我をした少女の隣では、少年が困惑したようすで立っていた。

「どうしたでござるか?」

 水月が近づいて声をかけても、少女は泣きやまず、少年はなにも言わず、少女と水月を交互に見やるだけだった。
 水月は一息ついたのち、着物のたもとをさぐって、一枚の長方形の紙切れを取り出し、少女の前にかがみこんだ。

「血返」

 水月がそう呟くと、手に持った紙に絵とも字ともつかぬ不可思議な模様が浮かび上がった。

「在れ」

 今度はそう呟くと、わずかな音とともに紙が弾けとんだ。そして、少女の傷が光り輝いたかと思うと、すぐに光は少女の傷とともに消えていった。
 それに気づいた少女は、血だけが残る腕を見たのち、水月を不思議そうに見つめてきた。
 水月はそれに笑顔とうなずきで答えると、ゆっくりと立ち上がった。すると、少年が水月のそばに来て、手に持った風車を差しだした。

「あんがと……これ……」

「二人とも、これからは気をつけるでござるよ」

 笑顔で風車を受け取りながら、水月はそう言った。
 再び水月の家に向かって歩みはじめた二人の耳は、少年が少女に謝る声をかすかに拾っていた。

「見事でございました」

 しばらく歩いてから、男がそんなことを言った。

「この術は、お師様が編みだした術。僕はただ習っただけでござる」

 答えてから風車に、ふう、と息を吹いた。からからと音を立てて風車は回った。

「水月様のお師匠様が……?」

 男は水月の後ろから、静かに問いかけてきた。振り返らずに、朱に染まりつつある空を見上げながら、水月は歩み続けた。

「この術だけではないでござる。僕が教えられたやおよろずの術は、全てお師様が編みだしたものでござる」

 水月の言葉を聞いた男は、「そうですか」とだけ言うと、押し黙って歩み続けた。
 男からの質問で、水月は師とのことを思い出した。
 親兄弟のことなど、なに一つ憶えていない自分が、物心ついた時にはすでにそばにいた師……。四年前にそのもとを離れてからは、一度も会っていない。今はどうしているのか……。
 そんなことを考えていると、不意に今日は昔のことをよく思い出す日だと思った。
 祝言が近い、旅も終わり身を固めるとなれば、気ままなころをなつかしむものなのだろう。水月はそう考えた。
 ほどなくして、二人は水月の家についた。


「き……れいでござろう? なかなか」

 三度笠を玄関に置き、男を招き入れた水月は、危うく、汚い家……と言いそうになった。静が片づけてくれたのだから、汚いはずがない。
 灯はともさずに、薄暗い部屋に二人は座った。

「水月という名を聞いた時は、お名前から女のかただと思っていましたが……なかなかどうして……男前でございます」

 最初に口を開いたのは、黒い着物を着た男だった。肌以外が漆黒で覆われた男は、薄暗い部屋にとけこむようだった。

「いやはや、恐れいるでござる。名無しであった僕に、お師様が名づけてくれたでござる。そういえば、まだ名前をお聞きしてなかったでござるが……」

 そう言いながら、わずかでも憶えがある者だろうか、と考えていた。

「よこしまなるおに……と書いて、じゃくにございます」

 男……邪鬼はそう言った。
 まがまがしい名前……という考えは水月にも浮かぶものではあるが、邪鬼から発せられる”気”は、人のものであった。ゆえに、なにか事情があっての名なのだろう、と考えた。疑うことを故意にしないのが、水月の人に好かれるところであり、欠点でもあった。

「水月様は……世と時をうつる術……お使いになれるのでございますか?」

 ゆっくりと、だがはっきりと邪鬼は聞いてきた。
 この男がなにを考えてこのようなことを聞くのかは水月にはよくわからなかったが、この問いに答えるだけならば問題は無いと考えた。

「使ったことは無いでござるが、おそらくは……。しかし、なぜそのようなことを?」

 水月は時とともに暗くなる家の中を見つめた。そろそろ灯をともすべきだろうか?

「そうですか、それを聞いて安心しました。私がこのようなことを聞くのは、興を計画しておりますゆえ……でございます」

「興?」

 水月の問いに対して邪鬼の答えた言葉は、およそ水月の予想していたものではなかった。おそらくは、術を教えてくれ、だの、使ってみせてくれ、という理由だろう、と考えていた。

「そのお話はまたのちほど……。それにしても、私は水月様のお噂を聞いた時、それは驚きました」

 水月が聞き返したにもかかわらず、邪鬼はいとも簡単に話題を変えた。邪鬼は続けた。

「先ほども言いました通り、私は水月様を女のかただと思っていました。このような世で、女のかたが一人旅をするなど大したものだ、と……」

 邪鬼がなにかを考えてこのようなことを語っているのか、それともただの談話として語っているのか、水月は量りかねていた。
 知らずのうちに、着物のそでに両の手を差し入れていた。

「おなごの一人旅とは、あまり聞いたことはないでござるな」

 水月は軽く笑いながら邪鬼に言葉を返した。

「そうですね……水月様、この世の中でもっとも旅をしにくい者とは、どのような者でしょう?」

 突然の邪鬼の問いに、水月はしばし考えた。そでに手を入れたまま、首を傾げる。

「そう……でござるな」

 問いの答えもであるが、水月はなぜ邪鬼がこのような問いかけをするのか考えていた。
 やがて、水月の答えを待たずに邪鬼が口を開いた。

「年若い少女……それに加えて、人に受け入れられぬ姿……しかし時として、色に狂った賊をひきつける姿の者……この世を旅した水月様とは正反対の者が、もっとも旅をしにくい者ではないでしょうか?」

 とうとうと語る黒い着物の男は、深くなっていく闇の中で、静かに水月を見すえてきた。
 それを見た水月は、はたと灯をともすことを思いついた。その時、ふと手に持っている風車に気づいた。

「そうでござろうが、邪鬼殿、なぜそのようなことを?」

 いい加減たまりかねた水月は、暗闇の邪鬼に向かって問いかけた。手に持った風車を、どうしようかと考えながら。

「いえ……私はそのような旅人を知っているのです……」

 風車を片付けるべく立ち上がった水月にかまわず、邪鬼は静かにそう言った。

「少女の旅人……でござるか?」

 水月は立ち上がったまま邪鬼に聞いた。おそらくはこのことが本題なのだろう、と。
 邪鬼の言葉を待ちながら、風車を置こうと棚へと歩いた。

「ええ……年は十四がほど……見目愛しく、髪の長い少女にございます。ちょうど……水月様のおぐしと同じく……」

 そう言って邪鬼は、隣を通った水月の髪を一本抜き取った。
 これにはさすがの水月も驚いたが、怒るほどのことではないと考え、棚に向かった。

「その少女……異形の者にございますが、生まれついてのものではありません。術でそのように生まれ変わったのでございます……」

「術?」

 棚の前に立ち、水月は聞いた。

「その者は結界を張っていたのですが、髪を奪われまして……さしもの結界も、おぐしを使った術は防げなかったのでございます……」

 邪鬼の言葉がそこまで聞こえたかと思うと、前にした棚が見る間にせり上がってきた。
 いや、棚がせり上がっていたのではなかった。

『これは……!?』

「その者が生まれ変わりましたのは……ところはここ……時は今にございます」



 朱に染まりきった道を、静は穏やかに、だが懸命に歩いていた。

『水月さんのことだから、今日の食事はあれだけで終わらせるのでしょうね……』

 静は水月のことがよくわかっていた。水月が貧乏をして、ろくに食をとる金も無いことを。
 そうして水月の食を心配する静の手には、おにぎりを包んだ笹の葉が乗っていた。水月の好物の、白米のおにぎりである。
 朱より暗くなりつつある空を見て、静は歩みを速めた。そして水月の家を見つけると、家の前に男が倒れているのを見た。長く伸びた黒髪を地面に広げ、うつ伏せに倒れている男を。
 その男は黒かった。

「もし、どうなされました?」

 その落ちついた声は、静が気丈な精神の持ち主であることを物語っていた。静は水月とつきあう中で、多少のことでは驚きはしなくなっていた。
 だが、その黒い着物の男が口にした言葉は、静を激しく動揺させた。男はこう言った。

「……水月様とお話をしていましたところに、物の怪が入ってまいりました……。その物の怪、たぐいまれな妖術を使って、今まさに水月様を食らっております……力及ばぬ私は、辛くも逃げおおせたのですが……」

 男の口調は弱々しくも、はっきりとしたものだった。
 静は、この男が店から水月と共に出ていったのを見ていた。だからこそ、この男の言うことが狂言ではないと思え、水月の家に飛びこむこともできたのである。ただ、事実が男の言う通りであるとは、信じていなかったが。
 そんな静に、男は最後にこう言った。

「……その物の怪、人の記憶を食らい、また大変愛しい容貌をしています……どうか、まどわされぬようお気をつけください……」

 人知れず静かな笑みをこぼした男の横には、静の取り落としたおにぎりが転がっていた。



 水月は自分の体に起こったことを、必死で理解しようとしていた。
 背はいかほど縮んだのだろうか? 見下ろしていた棚を見上げなければならないほどか?
 体格はどうであろうか? 着ている着物が意味をなさないほどか?
 体自体はどうか? 男のものではないのではないか? 慣れた耳の他に、慣れぬ耳の感覚が頭の上にあるのではないか? また、背中の尻のあたりに、およそありえぬ感覚があるのではないか?
 水月のそれらすべての考えは、疑問であり確信であった。
 もはや水月は生まれ変わっていた。
 先ほどまでと同じく長く伸びた髪は、打って変わってなめらかな光沢を放ち、その色はあざやかな銀に若干の青が混ざった青銀であった。背丈はおよそ十寸(約30cm)ほど縮んでおり、男をあらわすものはいっさい無く、股間やわずかにふくらんだ胸は、ただひたすら女をあらわしていた。さらに頭には人の耳とは別に、ふさふさと、髪と同じく青銀の毛を生やした、三、四つ目の耳が、まごうかたなき猫の耳があった。また、尻には猫とおぼしき、同じく青銀の尻尾が生えていた。犬歯が猫のようにとがってもいた。そしてその目は藍色の瞳を持ち、大きく優しげな形をし、人の少女のものであった。
 まさに水月は、年は十を過ぎて四年がほどの、異形なれど非常に愛しい少女となっていた。
 それを知った水月の困惑はすさまじいものであったが、わずかに残った平静な心が、邪鬼のあとを追うべく水月を玄関へと歩ませた。だが、わらじを履くよりも先に、慌てたようすで女が飛びこんできた。

「お静……?」

 女を……静を見た水月が声を発すると、穏やかに小鈴が鳴ったような声が、かすかに聞こえた。
 自分の声が変わっているということは気づいてしまうことではあるが、それに困惑できるほどの余裕は今の水月には無かった。ただ、その、うら若い瞳で静を見つめるだけしかできなかった。
 静の顔はおだやかなものではなかった。

「お前が物の怪……。水月さんをどこへやった……」

 はっきりと怒気をおびた静の声が、水月の心に突き刺さった。
 認めたくない自分の変化が、間違いではないことを静に示されている、と。

「お静……僕が……水月でござる……」

 哀しみをたたえたうら若い瞳を、静が残酷ににらみつけてくる。
 それでも、水月は静に会ったことで不思議と安心もしていた。
 水月は静の動きを待って立ち続けた。わかってくれる、というかすかな望みを信じて。

「その着物……その口振り……あのかたの言う通り……水月さんを……水月さんの記憶を……食らったのか……!」

 だが、うつつは夢ほど甘くはない。
 静は明らかに正気を失っていた。
 しかし、水月はあきらめなかった。静を信じるからこそ、この場から逃げださずにいることができた。

「お静、そうじゃないでござる。それはその男の狂言、僕はその邪鬼という男の術でこのようになったでござる」

 信じる心は、水月を異様なほどに落ちつかせた。
 静は顔をゆるめ、おだやかな目で水月を見やってきたが、それは一瞬のことだった。
 一筋の涙をこぼしたかと思うと、すぐに眉根を寄せて水月をにらんできた。

「なにを……! 私とて、術士の妻となる女。お前の発する”気”は、水月さんの”気”とは似ても似つかぬ妖しのもの!」

 この言葉を聞いても、水月はその場に立ち続けた。先ほどまでと同じに、信じて待ったのではない。静の言葉を信じられぬ気持ちが、水月をその場に立ちすくませた。
 やがて静は土間のかまどの横から、さびにまみれた包丁を取りだし、ゆっくりと、うつむいて水月の前に歩みよってきた。
 途端、水月に包丁が振り下ろされた。とっさに水月は、そのか細いなめらかな腕で自分の体をかばった。
 わずかな痛みはあるものの、今なお結界が守っていた水月の腕には、傷の一つもついていなかった。

「この! 水月さんを! 水月さんを……!」

 見苦しいまでに涙にまみれている静は、何度も水月を斬りつけてくる。だが、水月の体にはあとさえつかない。
 水月は逃げだした。外に向かって、ふるえた体で。
 途中、なぜかはわからない、なぜかはわからないが、玄関に置いておいた三度笠を小さな手で拾い取っていた。そして、わらじも履かずに外へと飛び出た。
 あとには、力無く座りこんでむせび泣く静と、床に転がった風車。そして、水月のこぼした一粒の涙が残された。


「邪鬼! 出てくるにゃ……!?」

 闇となった外に出て叫んだ途端、無意識にこっけいな言葉がでた。
 あまりにもふざけた自分の口調が、水月をいらだたせた。

「そのようにお呼びせずとも、ここにおります……」

 声は上からだった。見上げると、宙に浮いた邪鬼が見下ろしてきているのが、かすかに見えた。
 邪鬼から感じとれる”気”は、もはや人のものではなく、明らかに神仙のたぐいのものであった。

「なぜこのようなことをするにゃ!? ……く!?」

 またも、水月の言葉はふざけたものであった。

「落ちつきなさいまし……心おだやかならざれば、そのような猫のような口振りになります……」

 邪鬼は宙に浮いたまま言った。
 その言葉で、水月の怒りはおさえがたいものとなった。水月は大きな着物のたもとをたぐり、長方形の紙……符を取りだした。

「天雷……在れ!」

 水月が符をかざすと、符が破れとぶと同時に激しい雷が発生した。
 だが、そのほとんどは水月のもとへと落ち、邪鬼へと向かったのはほんのわずかだった。
 そのわずかな雷も、邪鬼の前で球形の壁をつたうように消滅した。

「これは……!?」

 結界に守られた水月は、驚きを口に出した。

「水月様、これよりかくれんぼをいたしましょう……」

 邪鬼は水月の驚きをよそに、宙より話をはじめた。
 水月は立ちすくみ、話を聞いた。

「私が隠れますのは……あまたの世……悠久の時のいずこかにございます……」

 語りながら邪鬼は、ふうわりと黒い着物を揺らし、地に降りてきた。

「水月様は世と時をうつる術を使い……私を探してくださいませ……」

 静かに残酷に語る邪鬼を目の前にして、水月は動けずにいた。
 今まで水月はこれほどの危機に、相手に遭ったことはなかった。水月は恐怖していた。

「なぜ……なぜこのような……」

 ふざけた言葉が出ないよう、口を開くのがやっとだった。

「先ほども言いました通り、これは興……年へて死ぬることのない私の戯れ事にございます……」

 なにも言うことができない。口に出そうとしても、それをためらった。
 邪鬼はそんな水月に背を向け、離れながら話した。

「水月様は私と同じく老いることも、時がきて死ぬることもございません……。ただ、怪我や病では死んでしまうでしょうが、結界に守られた水月様には無用の心配でしょう……」

 水月は黙って、闇に消えゆく邪鬼を見続けた。

「この旅路……苦しいものとなるかも知れません……愉快なものとなるかも知れません……時に、術が思うとおりにいかないこともあるでしょう……。とりあえず……この他の決まりごとはこのあとにしましょう……三百年のちのこの世……そこでお待ちしております……」

 やがて邪鬼は気配と共に消えた。
 残された水月が、どれほどの間立ちすくんでいただろうか?
 気づいた時には、あたりは漆黒の闇と静寂につつまれていた。
 やがて水月は思いつくことがあり、たもとをたぐって符を取りだした。

「男化……在れ」

 呟くと、符は破れとんだ。だが、水月の体にはみじんの変化もなかった。
 それからしばらくして、水月のほおを何度目かの涙が通ったあと、水月は手に持っていた三度笠を頭にかぶり、もう一枚符を取りだすと、暗闇に隠れた自分の家を見すえた。

「お静……しばしの別れでござる」

 闇の中、少女の哀しげな瞳が月のわずかな光を映した。

「時越門、在れ」



 この夜、一人の符術士が消え、一人の男と一人の少女が、この時代より去った。




あとがき

 今回の話は、文庫の自分の話では初めて、最初から続けることを考えている話です。とりあえず次の話までが序章で、話が無軌道に乗るのが三話からの予定です。よければお付き合いください。この話とは関係ありませんが、ジャージレッド様のHPにある話もよろしくお願いします。あからさまな宣伝でした。それでは、最後まで読んでくださってありがとうございます。


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