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※この話は、拙作「坂道」の続きに当たりますが、この話が必ずしも続編とは限りません。


続・坂道
ふらっと 版

作:ふらっと





 麗らかな春のある日。僕はまたこの街に戻ってきた。
 戻ってきたってのは、正しくはないかも知れない。帰ってきたと言った方が正解だ。
 今日から、この街での新しい生活が始まる。
 新しい部屋と、新しい環境。そして、わかりあえる恋人。この街に戻ってきて、僕はその全てを手に入れたのだった。

「ちょ、ちょっと、これ、重いっ」

 階段の下から、由香里が悲鳴を上げる。馬鹿だなぁ。だから、手伝わなくていいって言ったのに。
 今日、僕は大学に通うための一人暮らしの準備として、引っ越しをしている。
 住むところは、もう決まっていた。この街に帰ってきて早々に手に入れた僕の彼女、由香里の両親が大家をしているアパートだ。
 男の一人暮らし。荷物はそう多くはない。テレビにビデオ、ゲームにパソコン、それに洗濯機と電子レンジと冷蔵庫。あれ? 結構あるな。
 まぁ、ほとんどは引っ越し屋さんに任せちゃったんだけどね。それらの物は、すでに部屋の中に収まっている。
 今日はもっと小さな物。実家から持ってきたCDや、本。それに、服もちょっとだけ。春物だけ。夏物が必要になるのはまだしばらく先だ。そんな物は必要になったらまた実家に取りに帰ればいい。
 とにかく、僕は自分で車を走らせ、実家から荷物を運んできたのだった。運転免許は18歳になると同時にさっさと取ってしまったが、受験が近かったためにほとんど車を走らせたことがなかったから、実家からここまでの3時間少々のドライブはかなり緊張したけどね。
 そして、車を飛ばしてきた僕を待っていてくれたのは、他ならぬ由香里だった。
 4年間誰とも連絡を取っていなかったこの街で、僕を覚えていてくれていた数少ない人物の一人。他に誰が覚えていてくれているか、まだ確認していないけど。
 そして──僕のことをわかってくれる、僕と同じ立場にいる、唯一の人物。
 僕の──大切な、彼女。

「ちょっとっ、早く来てっ」

 はいはい。今行きますって。
 悲鳴じみた彼女の呼び声を受け、僕は階下を見下ろす。由香里は、大きな段ボール箱と格闘していた。あの中って、確かCDなんかを入れてたんだっけ。重いよなぁ、そりゃ。
 慌てて階段を下り、由香里の元へ。
 彼女は未だ、段ボールを抱えたままふらふらとしていた。

「危ないだろっ。もっと軽いのにしとけよ」
「だって、こんなに重いと思わなかったんだもん」

 由香里の抱える段ボールを奪い取る。全く、自分の腕力と相談してから物を持てって。

「じゃ、あたしはこっちを……」

 由香里は改めて一回り小さな段ボールに手を伸ばす。厳重に封印されたそれは──ま、いいか。でも、それも重いと思うぞ。
 やはり少々辛いらしい。必死になって抱え込みながら、一足先に由香里は階段を上り始める。後ろに続けて、僕。
 ジーンズに包まれた小さなお尻に目を奪われながら、階段を上る。右に、左に。1歩ごとに揺れるお尻を見てしまうのは、男という生き物の性と言うものだろうか?
 と、不意に。
 左右に揺れるだけだったお尻が、後ろに──僕の顔目掛けて、迫ってくる。
 !?

「きゃ、嘘っっ、助けてっっっっ」

 再び上がった泣き出しそうな声に、思わず視線を上に向けると、大きく傾いた由香里の姿。え?
 妙にゆっくりと、スローモーションの映像を見るかのように、由香里の身体が僕に向かって倒れてくるのがわかる。やっぱり重かったんだ。バランスを崩したな──って、そんなことを悠長に考えている場合じゃない。
 考えている場合じゃないんだけど、かと言ってどうこうすることができるわけでもない。そのまま由香里は僕の身体を巻き込みながら倒れ込み──。
 金属製の階段だ。もの凄い音がしたと思う。でも、僕はその音を聞くことはなかった。
 由香里の後頭部が眼前に迫った直後。腕が塞がっていた僕は彼女の身体を支えることすらできず、そのまま2人で階段を転げ落ちた。
 くっ。痛い……。
 頭を打ったらしい。なんか、意識が……。こりゃ、まずいかも………………。

 僕はそのまま、気を失ったらしい。



 僕と由香里には、二人だけの秘密がある。
 4年前まで、僕の心は由香里の中にあり、今由香里と名乗っている人物の心は僕──健史の中にあったのだ。
 そう。僕は生まれてから14年間、由香里だったのだ。
 4年前、幼い恋人同士だった僕たちは、ふとしたことからお互いの心と身体が入れ替わり、僕たちは立場を変えての生活を余儀なくされたのだった。
 慣れない身体。慣れない家族。慣れない友達。そして、慣れない生活。
 それらのストレスもあっただろう。僕たちはいつしかお互いを避けるようになり、僕の引っ越しを境に全く会わなくなっていた。
 再会したのは、つい1週間も前のこと。
 突然の再会と、告白。再び二人でやり直そうという、固い決意。
 僕たちは元通りに恋人通しに戻り、お互いの立場は違うものの、やっと4年前のスタートラインに立つことができたはずだった──。



「ちょっと、ねぇ、起きてよ」

 野太い男の声。誰だ? なんだよ。何で人の頬を叩くんだよ?
 朦朧としていた意識が戻り始める。目を開くと、僕の顔を覗き込む──僕の顔。
 いや、僕はここにいる。僕じゃない? 健史? なんで?
 まだ完全にはっきりと意識を取り戻しているわけではないらしい。軽く頭を振ると、頬に髪の毛が当たるのに気付く。髪の毛? 僕の髪は短いはず。この感触は、まるで4年前に由香里だった頃──髪が長かった頃に感じた感触? なんで?
 次第に覚醒が進み、僕は男に支えられたまま起きあがり、改めて自分の身体を見下ろす。
 華奢な体つきに黄色いトレーナー。そしてそれを持ち上げる、二つの膨らみ。
 ──まさか?
 胸に手を当てる。4年間ご無沙汰だった、柔らかな感触。そして僕自身の胸が、僕の手によってつぶされていることがわかる。
 ──まさか。そんな。なんで?

「あたしたち──また、入れ替わっちゃったみたい……」

 男が、健史が呟くのが、やけに遠く聞こえた。



 もしもこの世に神様なんてものがいたなら、よっぽどそいつは意地悪で、気まぐれで、悪戯好きで、人の迷惑を顧みない奴なんだろう。
 折角『健史』として生きていく──『由香里』と共に、正直に向き合っていく決意をしたその矢先に。
 元に戻ることを強く願った、4年前のあの時ではなく、今になって二人の身体を再び入れ替えるなんて──。



「正確には、元に戻ったって言うべきなんだろうな」

 呟く僕の声は、高く──それだけでも、由香里に戻ったことがはっきりと実感できる。

「そんな……どうしよう?」
「どうしようもこうしようも……。とにかく、これを片づけてからだろ」

 段ボールが壊れ、辺りに散らばったCDの山。幸い、由香里の抱えていた段ボールは、厳重な封印の甲斐もあってひしゃげただけに留まっている。しかし、運ぶ物はそれだけではない。まだまだ運び込まなければいけないものが山ほどある。

「うん……。そうだね……」

 健史は力無く頷く。とりあえず、明るいウチにこの状況を片づけないことには『健史』には寝る場所もないのだ。



 お互いに元の身体に戸惑いながらの後片づけ。当初の予定では昼過ぎには終わるはずだったのだが、なんとか形が整ったのは日が暮れた頃だった。

「道、わかる?」
「僕を誰だと思ってるんだ? オリジナルの由香里だぞ」

 せっかくの一人暮らしだったんだけどなぁ。
 『由香里』になった僕が、このアパートに寝泊まりするわけにはいかない。わかってはいるんだけど、僕は未練がましく自分の物になるはずだった部屋を見回す。
 話し合うまでもなく、僕たちがどうすればいいのかは、2人とも経験上知っている。
 僕が『由香里』に。由香里が『健史』に。見た目がそうである以上、再び元の生活に戻るのが自然だ。

「じゃ、よろしくね。言っておくけど、あんまりおかしな事しないでよ? 4年前みたいにお母さんたちを心配させたくないから」

 4年前──初めて入れ替わった頃、何をしでかしたんだか。考えたくないけど、わかるような気がする。僕だって、健史の両親には相当心配をかけたはずだ。口に出しては言われなかったけど、息子が突然女々しくなったんだ。心配をかけまいと、必死に男の子らしく振る舞った僕。きっと4年前、由香里の家でも似たような──全く逆の事が起こっていたに違いない。

「大丈夫だって。家では女の子らしくしてるよ」

 できないはずはない。僕は、確かに女の子だったのだから。



 玄関をそっと開けると、懐かしい間取りが僕を出迎えてくれた。
 小さく「ただいま」と呟く。そして同時に、もっと小さい声で「おかえり」と。
 おかえり、由香里。おかえり、自分。
 帰ってきたんだなと、妙な感慨にふける。そう、僕はやっとこの家に、由香里として帰ってきたんだ。
 入れ替わってしまったあの日から、夢にまで見たこの時。センチな気分になってしまうのは、仕方ないことだろう。

「あら、お帰りなさい。遅かったのね。終わったの?」

 お母さんが台所から声を掛けてくれる。

「うん、ちょっと手間取っちゃって」

 今朝までの『由香里』のふりをして、お母さんに答える。なるべく、由香里っぽく。女の子っぽく。「僕」なんて言っちゃいけない。わかっているけど、疲れるな、妙に。
 僕じゃない『由香里』は、どんな風にお母さんと接していたんだろう?
 どんな風に喋っていたんだろう?
 もうちょっとよく話を聞いてくれば良かったかな。
 だいたい、何を話したら良いんだろう? そもそも『由香里』は僕らのことを、家族になんて説明していたんだろう?
 友達? 昔のクラスメイト? それとも、恋人として言ってあったんだろうか?
 まさかね。内気な女の子になっていた『由香里』が、いきなりそこまでうち明けていたとは思えない。

「そうそう。ね、由香里? 明日、暇?」
「ん? 何?」
「暇だったら、洋服買いに行かない?」

 はい? 何でいきなり?

「そんな服ばっかり着ていたら、健史君に嫌われちゃうわよ?」
「え!? な、なんで!? 健史って……」
「あら、もう呼び捨てにしてるの?」

 ちょっと待て。なんでお母さんが僕と健史の仲を気にしている? まさか、僕たちが付き合い始めたことを知っているのか?
 僕の困惑した顔を見て、お母さんは言った。

「気付いていないとでも思ってたの? 最近の由香里、恋する乙女の目をしていたじゃない。健史君が帰ってきて、嬉しかったんでしょ? どうなの? 告白はしたの?」

 あちゃ。『由香里』の奴、バレバレじゃないか。なんだよ、その、「恋する乙女の目」ってやつは。

 お母さんと2言3言会話を交わし、早々に切り上げてしまった。ホントはもっと話したいんだけど、どうにも勝手が掴めない。お母さんは、僕が4年ぶりに家に帰ってきたとは想像もしていないだろう。なにせ、『由香里』は毎日家にいたのだ。どうやっても感動の再会にはならない。
 そう。お母さんは、由香里の中身が今朝とは別人になっていることには全く気付いていない。そっか。そうやって『由香里』と話をしていたんだね。中学生だった『あたし』に対するものと、さほど変わらない──と思う。ずいぶん前のことだから、自信がないけど。
 何だろう? ちょっとだけ違和感を感じる。



 夕飯を済ませ、自分の部屋に戻った。
 4年ぶりに食べた、お母さんの作ったご飯はやっぱりおいしかったし、お腹いっぱいになるまで食べたけど、どこか物足りない。
 小さなお茶碗一杯だけだもんな。こんなんで足りるのかな? まぁ、これでお腹がいっぱいになるんだから、燃費が良いって言えるのかも知れない。
 4年ぶりの自分の部屋。少しためらいがちに中にはいると──。
 何だ、これ。
 部屋のレイアウト自体は変わっていない。きれいに掃除された清潔そうな部屋は、18歳の女の子らしい物と言える。ドアの左手に勉強机。その隣に本棚。窓際のベッド。ベッドの脇には小物入れ。タンスなんかの位置もそのまんま。模様替えはしなかったらしい。
 問題は──部屋のそこかしこにおかれた、ぬいぐるみ達。
 キティちゃんにスヌーピー、ドラえもんやら、なんだこれ、わけわからない──犬? こっちには、ウルトラマン──なのか? 奇妙にデフォルメされたぬいぐるみの数々は、僕には元になったキャラクター達の判別が付かない。
 ベッドに腰掛けると、ひときわ大きな──全長1メートルくらいはありそうな、不細工な顔をしたカエルのぬいぐるみが僕を迎えてくれた。たれ目でたらこ唇という強烈な顔をしたカエルは、愛嬌はあるけれど趣味が良いとは言えないぞ。
 そりゃ、僕だって4年前はぬいぐるみくらいは持っていたさ。女の子だったんだからな。でも、いくらなんでもこんなには持っていなかったぞ。ざっと見ただけで、20個は増えている。これ、みーんな昨日までの『由香里』、つまり、今の『健史』が入った由香里が集めたってことだろうな。

 と、その時。
 部屋の隅に投げ捨てておいたハンドバックの中から、電子音が響いた。この曲は……トトロ? 携帯か?
 バックから携帯を出すと、予想通りに着信していた。表示を見ると、どこかで見覚えがある電話番号。出て良いのかな? 少し悩み、すぐにその番号が僕の──健史のアパートの電話番号であることに気付いた。なんだ。悩む必要はなかったな。

「もしもし」
『健史だけど……』

 電話の向こうの健史の声は、少し小さかった。

『そっちはどう?』
「あ、うん。ご飯食べて、部屋で落ち着いていたとこ」
『いいなぁ。この部屋、何にもないんだもん。あたしはコンビニご飯だったよ。そっちの夕ご飯、何だった?」
「えっと、肉じゃがと焼き魚。おいしかったよ」
『お母さん達、気付かなかった? 変なこと言ってないよね?』
「大丈夫だと思うけど……一回、自分のこと『僕』って言っちゃった」
「気を付けてよ。お母さん、すっごく心配するから」

 とりとめのない会話をしばらく続けているうちに、電話の向こうの声は段々と大きくなっていった。どうやら心細くて声も小さくなっていたようだ。仕方ないよな。今の健史の心は、完全に女の子になってるんだから。突然降って湧いた、慣れない身体での一人暮らし。それも、1日目の夜。不安になるのも無理はない。

『それで、これからどうするの?』
「あ、風呂にでも入ってさっさと寝るよ。明日は朝からそっちに行くから。え……と」
『え!? お風呂? 入るの?』
「うん。ほこりっぽくなっちゃってるからね。汗くらいは流したいし」
『それは……そうだろうけど……』

 驚いた声の健史。? 何だろう?
 部屋を見渡す。多分、タンスの中かな?

「パジャマ、どこにあるの? 前と変わってない?」
『前はどこにおいていたっけ? んっと、タンスの下から3番目。下着は一番上に入ってるから。バスタオルは……わかるよね?』

 うん。それはわかる。窓際にちゃんとかかっている。タンスの引き出しを開け、パジャマを取り出す。片手で電話を持ち、片手でタンスを開けるのは結構難しかったが、何とかなった。レモンイエローのパジャマを引っ張り出すと、今度は一番上を開けて──。

「うわっ」
『何? どうしたの』
「いや、大丈夫。何でもない」

 突然目に飛び込んだ、小さくたたまれた色とりどりの下着の山に、思わず声を上げてしまった。パステルグリーンのブラの紐を摘み、引っ張り出してみる。うわ、大きなカップ。今の由香里──僕のムネって、こんなに大きいんだ。自分の身体ながら、いまいち実感が湧かないけど。んっと、でも、これは今はいらない──よな、多分。そのまんま丸めて押し込み、代わりにショーツだけ取り出す。
 そんなことをしていたら、電話の向こうの健史がいぶかしんだようだ。

『黙っちゃって、どうしたの? 何か変なこと、あるの?』
「い、いや。何でもない」

 まさかブラのカップのサイズを見極めようとしていたなんて言うわけにはいかない。風呂あがりにそれを付けるのかどうかなんてことも、聞くわけにはいかないよな。

『これからお風呂、入るんだよね?』
「うん。そうだけど? どしたの? さっきから」
『あのさ、あんまり、その……見ないでね?』

 見るって何を──? 聞こうとして、その対象が何であるかを察する。
 あのな。元々僕の身体なんだぞ。見るも見ないも──。

『あと、あんまり触ったりもしないで。お願い』
「──努力するよ」

 由香里の身体は僕の物だけど、4年間は健史の物だったんだ。今でも意識の上では『由香里』である健史にとっては、見られたり触られたりするのは恥ずかしいんだろう。

「そっちもあんまり触ったりするなよな」
『触わんないよっ、あんなのっっ。気持ち悪い』

 気持ち悪いってなぁ。元々、お前の持ち物だぞ。まったく。

「とにかく、遅くなっちゃうから切るよ。じゃ、また、明日」
『あ、あの、体重計にも乗らないでねっ。それと、髪は──』

 まだまだ続きそうな電話を、一方的に切る。怒るかな? ま、いいか。髪の洗い方なんて、僕を誰だと思ってるんだ。元々はこの髪を大事にしていたのは、僕なんだぞ。
 あんまり見るなって、そりゃ、無理だ。僕だって4年ぶりの自分の身体がどうなってるか、興味くらいはあるぞ。あくまで、興味。男としてのスケベ心じゃないぞ。

 そう思っていたのだが──。

 4年間、男の子として、男の子の中で生活していた僕の心は、思っていた以上に男の子になっていたらしい。
 だいたい、この身体も悪いんだ。4年前の由香里は、もっと可愛くって、もっと子供っぽくって。少なくとも、こんなんじゃなかったぞ。
 こんなに──女らしくて。綺麗で。眩しくて。

 結局──。
 僕は、自分の身体を直視することができず──ほとんど天井を見上げながらシャワーだけ済ませ、さっさと風呂から逃げ出すように上がってしまった。
 ふぅ。慣れるまでは大変だぞ、こりゃ。



 翌日。僕は朝早くから車を走らせていた。
 お父さん──健史のお父さんの車。引っ越しの荷物を運ぶのに借りただけなので、翌日には返すと約束していたのだった。
 健史は助手席で寝息を立てている。全く。免許を持っているのは、キミなんだぞ。
 教習所に通って運転免許を取ったけど、現在は無免許の僕と、免許を持ってはいるけどハンドルを握ったこともない健史。どっちが運転するかはかなり迷ったけど、結局僕が運転することになった。まぁ、検問でもやっていなければバレることもないだろうし。
 車を返すには僕が運転しなきゃいけないし、キーを返すには健史が行かなきゃいけない。見知らぬ女の子が車の鍵を持って現れたら、健史の両親がなんて思うやら。かくして、2人きりのドライブとなったんだけど──こら、寝るな。僕まで眠くなるじゃないか。

 実家から少し離れた駐車場に車を入れ、尚も眠り続ける健史を揺すり起こす。ここから先は、健史の仕事。実家に帰って、キーを返す。僕が行くんじゃ、おかしな話になっちゃうから。

「じゃ、久しぶりにお父さん達に会ってきなよ。ボロ出さないようにな」
「出さないってば」

 どうだか。4年ぶりの両親との再会。僕でさえグッと来るものがあったんだ。未だ女の子っぽいところのある『健史』では、信用できるわけがない。

「由香里はどうするの? ちょっと時間がかかるかも知れないし……」
「心配するなって。僕はここに住んでたんだよ? 暇潰しの方法ならいくらでも知ってるさ」

 そうだな。うん、決めた。

「あそこに林があるだろ? あれを越えたところにいるから」
「え? 大丈夫かな? すぐわかる?」
「うん。ちょっと開けたところだから。それに、多分誰もいないしね」

 誰もいない方が都合がいい。この街での知り合いに出会ったりして、話しかけられたりでもしたら──僕の方がボロを出しかねない。
 軽く健史に手を振り、宣言通りに林の奥に向かう。木立がやがて分かれると、そこには一面の砂浜。
 うん。やっぱり誰もいないな。当たり前か。暖かくなってきたとは言っても、まだ4月の潮風は少し肌寒い。僕は砂浜の上へと歩み出ると、潮風を受けるように両手を広げた。
 途端、強い風にスカートが広がる。うわっっ。慌てて抑えて、誰かに見られてはいないかと周りを気にするが──馬鹿だな、誰もいないってわかってたのに。
 それに、ダメだな。こんな時、由香里なら「うわっ」じゃなくて「きゃっ」だろう。って、そんなことはどうでもいいか。
 そのまま、する事もなく波打ち際に沿って歩く。スカートをはいてきたのは失敗だった。少しでも慣れておこうと思ったんだけど、この格好じゃ砂浜に座り込むわけにいかない。僕の体力がどの位あるか見当も付かないから、ずっと歩き回って疲れるのも馬鹿だし。困ったな。
 今頃、健史は両親との再会を済ませているだろうか? 4年ぶりの、肉親との再会。泣きださなけりゃいいんだけど。
 健史のお父さんは、大企業に勤める課長さん。残業が多いけど、息子に理解のある良い父親だ。一方お母さんは専業主婦。優しくて、結構料理も上手い。一人息子を可愛がる、良い両親だ──と、思う。
 でも、ね。
 4年前──僕が健史になったばかりの頃、彼らは明らかに様子がおかしい僕のことに、全く気付かなかった。いや、気付かなかったというのはおかしいな。気付いてはいたけど、「反抗期だろう」「思春期だから」と一言で済ませていた。
 おかしいよな。中身が全くの別人になっていたのに。
 活発で明るい息子が、内気で女々しくなったというのに。
 一番息子のことを良く知っているはずの実の両親も、健史の周りにいた友人達も、全く僕たちのことには気付かず、僕が中に入っている健史を、健史そのものとして疑いもしなかった。
 多分、由香里の方もそうなんだろう。どれだけ中身が変わっても、結局外見が全て。僕のことを僕として見てくれていたのは、由香里の中に入っていた健史だけ、と言うことになる。

 そっか。

 昨日の違和感の理由が、なんとなくわかったような気がする。
 今の僕の──由香里の両親は、僕のことを18年間育ててきた娘だと思っている。
 4年間、男の子が娘のふりをしていることにも気付かず。
 そして今、実の娘がその「娘のふりをしている男の子」の真似をしているなど、考えもしないだろう。
 当たり前と言えば当たり前だけど、やっぱりちょっと……寂しい……かな?
 まずい。
 なんか、センチな気分に浸ってきてしまった。女の子に戻ったせいだろうか? 感受性が強くなっているような──大きく伸びをして、すーはーと深呼吸。涙を強引に押さえ込む。

「なにやってんの?」

 突然、後ろから男の子の声。僕の良く知っている──妙に安心できる、男の子にしては少し高い声。

「うん、ちょっと──」

 そのまま、振り向かずに答える。今振り向いたら、涙ぐんでいるのがバレてしまう。

「郷愁に浸ってた」
「なにそれ? 変なの」

 うん、大丈夫。落ち着いた。

「早かったね。感動の再開は済んだの?」
「感動って言うか……向こうにしてみれば、1日会わなかっただけでしょ? さっさと出て来ちゃった。それに──」

 言葉の続きが気になったが、健史はそれっきり口をつぐんでしまった。
 それに。
 4年ぶりで、会話が続かない?
 変なことを口走っちゃいそうになる?
 照れくさくて、長居できない?
 それとも──。
 健史も、僕と同じ寂しさを、ある種の苛立ちを感じているのだろうか?
 振り向いて表情を確かめてみるが、何も話さない彼の顔からは、何も読みとることができない。

「綺麗な海。ね、ここ、泳げるの?」
「もちろん。夏になると、見渡す限りに海の家が建ってさ、僕も良く泳ぎに来たんだ。あ〜あ、残念だよなぁ」
「何が?」
「ホントは今年、サーフィンをやってみようかと思ってたんだ。でも、由香里って運動音痴だからなぁ」

 コレはホント。興味あったんだよね。

「ひっど〜い。ま、キミの運動神経なら、やんない方が無難だろうけど」

 健史こそ、それはひどい言い草なんじゃないか? とろくなったのは、キミのせいでもあるんだぞ。

「それを言ったら、今年の夏は、あたしもやってみたいことがあったんだ。ね、夏になったら、ここに来てお互いにやろうとしていたことをやってみない?」
「いいけど……何をやろうとしていたんだ?」

 運動全般が苦手な由香里が、あえて海でやろうとしていたこと? 甲羅干し? スイカ割り? 何だろう? 見当も付かない。

「えっとね。ビキニにチャレンジしてみようかと思ってたんだ」

 ビ、ビキニ!?

「ちょ、ちょっと待って。お互いにってことは、健史がサーフィンやって、僕がビキニを──?」
「うん。結構自信あるんだけどな」
「い、いや、由香里にはもうちょっとおとなしめの水着の方が似合うよ。うん」

 思わずしどろもどろになる。僕がビキニ? 冗談じゃない。
 そりゃ、嫌いじゃないよ。この海でも、ビキニのお姉さんを見て、胸がときめいたこともあった。女の子が着る水着としては、結構好きだ──と思う。
 でも、それは男の目で見ていたからであって、見ている分にはただって言うか、自分が着るなんて想像したくもない。4年前──中学生までしか女の子をやっていなかったんだ。ワンピースの水着以外、着たこともないし着ることを考えたこともないぞ。

「そっかなぁ。ね、今度試着しに行こうよ。奢るからさ」

 奢るってね。出所はお父さん達からの仕送りだろ? まぁ、僕にとっても実の親みたいなものなんだけど。4年間息子として過ごしたんだ。水着くらい買って貰っても、罰は当たらないだろう。
 そうだな──。

「健史がビキニタイプの海パンはくなら、僕も考えてみるよ」

 僕の言葉に、ちょっと健史は嫌そうな顔をした。でも、それも一瞬。

「いいけど……そんなの、見たいの?」

 ごめんなさい。見たくありません。僕が悪かったです。



 夏になったら、か。夏までには、僕も女の子に慣れることができるだろうか? 女の子らしく、可愛く水着を着こなすことができるだろうか?
 全開入れ替わったとき──『由香里』から『健史』になったとき、新しい身体に慣れるまで、1年以上もかかった。
 今度は『由香里』になりきれるまで、どのくらいかかるのだろう?
 自信はないけど、前回みたいに後悔するようなことだけは避けたい。
 健史と一緒にいれば、それは叶えられるのだろうか?





 人間の順応力とは、僕が思っていた以上に高いものらしい。元に戻って3日も経つ頃には、普通に生活する分には必要以上に戸惑うこともなくなっていた。
 僕だって元々は女の子だったんだ。勝手を掴めば何とかなるもんだ。
 とは言っても、必要程度にはドキドキすることもあったし、不意に家族を相手に男言葉が出かかってしまうことはあったけど。

 昼は花屋のバイト。花は昔好きだったけど、名前なんて知りもしない。それでも何とかこなせるのは、単純にお客が少ないおかげ。助かるんだけど、首にならないかな?
 バイトをこなすうちに、この身体の使い勝手もなんとなくわかってきた。思った以上に力がないため、小さなバケツでも両手で持つ。水を扱ったあと、すぐにハンドクリームを使わないと手がぼろぼろになる。同様に、1日でも髪の手入れを怠ると枝毛が増える。
 ──面倒くさい事ばっかりだ。女の子ってこんなんだったっけ?

 そして、夜。今度は、お勉強。
 勉強と言っても、学校の勉強なんかじゃない。由香里が行くことになっている短大は、付属の高校からの持ち上がり。言っちゃ悪いが、レベルはそんなに高くはない。理系だった僕にとって、保育科というのは未知の領域だが、周りに付いていけないとは思わない。
 問題は、由香里の友達も一緒に持ち上がってくるって事。
 当然の事ながら、由香里の高校時代の友達なんて、僕は一人も知らない。そんなわけで、卒業アルバムと睨めっこしながら必死に顔と名前を一致させようと努力しているんだけど──。
 わかるわけがない。
 高校生だった『由香里』が、どんな友達と、どんな風に遊んで、どんな会話を交わしていたか。
 どんな物がが好きで、どんな生活をして、どんな風に笑っていたのか。
 考えてみたら、僕は『由香里』のことを何一つ知らなかったんだな。
 今まで彼氏を作らなかったと言うのは聞いたけど。

 由香里になりきろうとすればするほど、不安になる。
 僕は由香里としてやっていけるのだろうか? この卒業アルバムにいる女の子たちと、女の子として付き合うことができるのだろうか?
 今のところは友達と会うことはない。携帯電話が鳴ったこともあったけど、全部無視した。僕が彼女たちの知らない存在であることがバレるのが怖かったから。
 でも、明日。
 明日はとうとう入学式を迎える。これ以上、逃げられない。健史に相談しようにも、彼は彼で「お勉強」を必死にこなしている。まぁ、あいつの場合は対人関係ではなく、今まで放ったらかしにしていた数学や物理を勉強し直すのが大変みたいだけど。

 会いに行ってみるかな?

 友達関係を聞いておく必要がある。あいつの勉強も、僕なら手助けできるだろう。
 あんまり夜中に出歩くわけにはいかないからな。時計を見ると、午後8時。感心できる時間ではないが、そんなに遅いってわけでもない。僕は両親に渋い顔をされながらも、あまり遅くならないことを約束した上で、健史のアパートへと向かった。



「なにしに来たのよ?」

 開口一番。しかめっ面の健史。あれ? なんでこんなに不機嫌なんだ?

「いや、その……なにか困ったこと、ないかと思って……」
「困ってるわよっっ。ちょうど良いわ。ちょっと上がって」

 言われなくても上がる気だったけど……。健史の怒っている理由がわからず、女言葉に戻ってしまっている彼に多少の気持ちの悪さを感じながら、僕は部屋に上がる。
 そして──なんとなくわかった。健史の不機嫌の理由。
 部屋の中央に、封印の解かれた段ボール。引っ越しの時、『由香里』が運ぼうとしてバランスを崩したやつだ。その中身は──。
 まぁ、誰にでも悪友ってヤツはいるもので。男子高校生だった僕にも、当然の如くそう言った友人はいた。一人暮らしを始めると言った僕に、餞別代わりにそいつが贈ってくれたものは──。
 若い男性がこよなく愛す、雑誌とビデオ──と言えば、わかるかな?

「なによ、これ?」

 健史の口から出てくる、ドスの利いたおかま言葉が、妙に怖い。

「いや、これは……その……」
「言えるワケないわよね。全く。あなたがそんなにスケベになってるなんて思いもしなかったわ。最低。信じられない」
「だから、これは僕のじゃなくって……」
「あなたのじゃないのに、なんでここにあるのよ? しかも、大事そうに箱にしまい込んで」
「貰ったんだよ! 実家に置いておけないから、持ってきただけ! 別に大事にしていたんじゃ……」
「わざわざ貰って、実家から持ってきたんだ。ふぅん。どうせ、あたしのこともこんな目でみていたんでしょ? 変態」
「いや、だから……」

 いかん。泥沼だ。

「最低! 信じらんない! なにが『オリジナルの由香里』よっ。中身はスケベな男の子だったんじゃない! 今だってその身体をそんな目で見ているんでしょ? そんな男に由香里の身体が使われているなんて……」

 尚もがなり続ける健史。完全に……ヒステリー状態だ。まずい。こっちの言うことなど、聞いてくれそうにもない。
 いや、そりゃね。そんな目で見なかったとは……言い切ることはできない。仕方ないだろ? 僕にとって由香里は、理想の女の子なんだから。こういうのもナルシストと言うのかな?

「なんか言いなさいよっ。反論できないの!? やっぱりそうなんだ……。やだよ。やめてよ。あたしの──由香里の身体がそんな風に見られているなんて……」

 彼の声は次第に涙声になり、かすれていく。
 彼の気持ちもわからなくはない。──でも、なんでそこまで言われなきゃいけないんだ?
 元々は僕の身体だぞ。やましいことは何もしていないぞ。ろくに確認もしていないくせに、ここまで悪し様に言うか?
 止まらない彼の罵詈雑言を聞き流している内に、段々腹が立ってきた。
 だから、言った。──言ってしまった。

「どんな風に見ようと僕の勝手だろっ。僕の身体を僕が使って何が悪いんだ!? そもそも、そんな風に思うってコトは、お前だって心当たりがあるんだろ? 4年前、初めて由香里になったとき、どんなことをしたんだ!?」

 違う。

「いいよ、言わなくても。僕だって男の考えていることはだいたいわかるつもりだ。4年間、周りは男だらけだったからな。今更女の子になったつもりで、僕のことばかり非難するのは勝手なんじゃないか!?」

 違う。

「好きで由香里に戻ったんじゃないんだ。僕は、男としてやりたいことがいろいろとあったんだ。4年間、その為に努力していたんだ。それなのに、受験が終わった頃になって良いところだけ持ってかれて──それで、僕が喜んでいると思ってるのか!?」

 違う。そんなことを言いたいんじゃない。
 僕の反論を予想していなかったのだろう。目の前に立ちつくす健史の目には、いつしか涙が浮かんでいた。まるで、女の子のように。
 僕の心が健史のまま──男の心を引きずっているのと同様、彼もまだ、女の子の心を引きずっているのだろう。それだけ、この身体を大事にしていてくれたのだろう。だからこその、罵声。僕にはわかっているはず。

「自慢じゃないけどな。それなりのレベルの大学に入ったんだぞ。どれだけ勉強したと思う? 全部、健史として──男として生きるつもりだったから、そのためだったんだ。今更おいしいところだけ持って行って。それなのに、僕がどういう生活をしていたのか知りもしないくせに、文句ばかり言って!!」

 違うのに。
 なんで僕の口から出る言葉は、僕が言いたい言葉じゃないんだ?

「今更女の子に戻って、どうしろっていうんだ!? スカートはいて、化粧して!? 冗談じゃない。保育学部? なんでそんなところに行かなきゃいけないんだ!? 僕に女の子なんて、できるわけないじゃないか! 今更──必死になって男の子に慣れてきたのに──」

 そう。僕の心は、こんなにも男の子になっている。そのはず。
 なのに。なんで僕の目からも、涙がこぼれているんだ?

「ゆかり……ちゃん?」
「変態? 最低? 何も知らないで、そんなこと言うなんて……そっちこそ最低じゃないか!」

 違う。最低なのは、やっぱり僕。
 僕も完全にヒステリーだ。
 僕こそ、彼が4年間どんな思いでいたのか、知りもしないくせに。
 涙は止まらない。くそっ。女みたいに。女なのか? そんなことは関係ない。
 言葉も止まらない。そんなことが言いたいんじゃないのに。謝りたいのに。感謝したいのに。

「ゆかり……ちゃん……」

 くそっ。違う。僕が、彼を慰めなければいけないんだ。
 なんで……彼が僕の肩を抱く? 健史の心は女の子で、僕の心こそが男だ。なんで涙を流し続けるのが僕で、優しく抱きしめるのが健史なんだ?
 でも。
 ついこの間まで自分だった腕に抱きしめられて、心が落ち着いてきているのは事実。まぎれもなく。
 望まないのに口を突いて出ていた言葉が、止まる。代わりに漏れるのは、嗚咽。

「ごめん……。あたし、よく考えもしないで……。自分のことばっかり……」

 違う。僕が、悪い。全面的に。
 言いたい言葉は、やはり出ない。身体だけでなく、心までも慣れ親しんだ物でなくなったみたいだ。
 由香里に戻って、丸三日。もしかしたら、身体の影響を思ったよりも強く受けているのかも知れない。そうでなければ、僕が女の子みたいに泣いているなんて、あり得ない。
 僕を抱く健史の力が、一層強くなる。少し痛い。少しは加減を考えろ。けど……悪くない。
 さっきまで言い争いをしていたのが、馬鹿みたいだ。そもそも、なんで言い争いをしていたんだっけ? 僕がスケベだから?

「大丈夫。由香里は、ちゃんと由香里だから。あた──僕も、ちゃんと健史になるから。上手く言えないけど──大丈夫だから。だから、ゴメン」

 違うってば。でも、まぁ、いいか。気持ちいいから。女の子って、こんな特権もあるんだ。
 大好きな人に抱きしめられているだけで、幸せになれる。うん。いいね。

 繰り返し耳元で囁かれる、『大丈夫』。押しあてられた彼の胸から聞こえてくる、鼓動。僕の鼓動も、彼に伝わっているのだろうか?
 はは。僕、雰囲気に流されている。わかってはいるけど、心地よい。
 だから、答える。

「ゴメン」

 大丈夫に対して、ゴメンはないだろ。日本語として、間違っているぞ。でも、いいんだ。一言だけでも、言わないよりはずっと気持ちが伝わると思うから。
 そっと目を閉じてみる。今まで聞こえなかった、彼の息づかいまで聞こえてくるような気がする。健史も、同じくらい僕のことを感じているのだろうか?
 うん。大丈夫。僕たち二人なら、こうしていれば必ず解り合える。そんな気がする。……騙されてるかな?

 心地よい時間は、永遠に続くように思えた──。





 あれ?
 おかしい。
 ふと我に返ると、僕は誰かを抱きしめていた。
 両腕に伝わる、柔らかい感触。健史ではない。彼はこんなに柔らかくない。今の僕よりも小柄な──女の子?
 あれ?
 そっと目を開くと、僕のことをやっぱり見返してきている、良く知っている顔。僕? いや、由香里……?

「元に……戻った?」

 事態を把握できないらしく、きょとんとした顔で僕を見続けている、由香里。思わずほっぺたをつねる。──もちろん、由香里の。
 痛くない。

「ちょっと、痛いっ。やめてよっ」
「あ。ゴメン」

 慌ててほっぺたから指を離す。僕ではない由香里が痛がっている──と言うことは、夢ではないのか?
 僕と由香里が、同時に疑問を口にする。

「なんで?」





「正確には、また入れ替わったって言うべきなんだろうな」

 しばしの確認作業──細かいことは言いたくない──の後、お互いの身体が再び入れ替わっていることがはっきりとわかると、次に襲ってくる難題は──。

「ちょっとっ、今、何時!?」
「えっと、11時過ぎくらい……かな?」
「え……? お父さん達、あたしがここにいること……?」
「うん。知ってる」

 由香里の顔が青ざめる。あちゃ。怒られるかな? 家を出るときも、お父さん達あんまり言い顔しなかったもんな。

「あたし、帰るっ。明日、また来るからっ。ソレ、ちゃんと始末しておいてよっっ」

 散乱している本やビデオを一瞥すると、立ち上がり、そのまま走り去っていってしまった。お〜い、明日から学校だからな〜。忘れるなよ〜。ちゃんと覚えているかな?





 結局、その後は入れ替わりが起こることもなく、何が引き金となって僕たちの心が交換されるのかはわからないままだった。
 だが、一つだけ思うことがある。
 もしかしたら、僕たちが幸せに包まれて、新たな一歩を歩き出そうとするとき、入れ替わりが起こるのではないだろうか?
 証拠は何もない。ただの仮説。でも、案外当たりなのかも知れない。だとすると、本当に神様って奴は悪戯好きなのだろう。
 新たな一歩を歩き出すとき。つまり、一番重要な局面でこんな悪さをするのだから。

 季節が次々と僕たちの間を走り抜けていく。
 夏には再びあの海に行った。もちろん、由香里はビキニ。約束だからな。僕もビキニパンツをはかされ、由香里以上に恥ずかしい思いをすることになった。余計なことは言うもんじゃないな。
 1年経ち、2年経ち。短大生だった由香里は夢を叶えて保母さんになり。4年後、僕は大学に残る決意をした。
 留年じゃないぞ。大学院への進学だ。社会に出るのが遅れる分、由香里にも遅れを取ることになるけど、何よりも研究が面白くなってしまったんだから仕方ない。由香里も反対しなかったし。
 反対はしなかったんだけど……。





「はぁ」

 鏡の中で由香里がため息をつく。真っ白なウェディングドレスに身を包んだ彼女は、贔屓目無しに美しい。憂鬱そうな顔をしていなければ。

「なんて顔してるのよ?」
「そんなこと言ったって……」

 後ろから声をかけてくるのは、健史。鏡の中の僕は、由香里。

「なんでそんなに平気でいられるんだ?」
「だって、こうなるってわかってたもん」

 ?

「あなたの仮説が当たってたってことじゃない? それとも、幸せじゃないの?」

 照れもしないで恥ずかしいことを口にするなぁ。健史は絶対にそんなことは言わないぞ。
 そう。僕たちは、また入れ替わってしまったのだった。それも、よりによって結婚式の直前に。
 最悪のタイミングだ。初めて関係を持ったときでも、その後いろいろあったときでも、ご両親に挨拶に行くときでも、仮説通りだったらいくらでもチャンスはあったろうに。

「今度はいつまで由香里なんだろう?」
「多分……その子が出てくるときじゃないかな……」

 そう言って健史は、視線を少し落とす。その先には、僕の──由香里の、ドレスに包まれたお腹。
 まだ、目立たない。それ用のドレスも借りているし。でも……。
 そっと手を触れると、確かに大きくなってきていることがわかる、お腹。
 そう。学生の身分でありながら、こんな式を挙げることになってしまった理由──要するに、できちゃったのだ。
 この中に一人の存在が宿っていると思うと、不思議だ。僕のお腹の中に、ねぇ。
 
「ってことは、僕が産むの!? ……最悪」
「最悪って何よ? 女として人生最良の瞬間じゃないの」
「だって……痛いんだろ?」

 はぁ。ホント、最悪。男として、父親としての責任を果たそうとしたら、母親としての責任を押しつけられるとは──。それも、悪いところだけ。

「できることなら、あたしが産みたかったわよ。良いところだけ持ってくなんて、ずるいなぁ」
「……次は任せるよ」
「そうして。約束だからね」

 約束、ね。いつ入れ替わるのか、僕たち自身にわかるわけじゃないんだから、次もどうなるかわかったもんじゃないけど。
 
「さてと。じゃ、行きましょうか。お嫁さん♪」
「はいはい。しっかりとリードしてくれよ、お婿様」

 これまで上手くやってきたんだ。なるようになるだろう。



「汝、奥山健史。あなたは渡瀬由香里と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかなときも、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり、堅く節操を守ることを誓いますか?」

 荘厳な雰囲気のチャペル。参列者は、親族を始めとする極少数。お金が無いからね。でも、見守っていてくれる人たちがいるだけでも、心強く、そして気恥ずかしい。

「は、はい。誓います」

 はは。どもってやんの。緊張してるな、健史の奴。いや、まだ健史と呼ばれてもピンと来ないのかも。

「汝、渡瀬由香里。あなたは奥山健史と結婚し、その健やかなときも、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり、堅く節操を守ることを誓いますか?」

 それは違うよ、神父さん。僕は、健史を愛するんじゃない。健史と由香里。二人の名前や姿に、欠片も意味なんて無い。僕たちにとって重要なのは、お互いの存在。それだけ。
 僕は健史を愛する。でも、由香里も愛する。今は僕が由香里だから、自分を愛するってことになるな。でも、ナルシストというわけじゃない。自分が好きだから、それ以上にお互いのことが好きになれる。それが、僕らの関係。
 でも、この場で細かいことを言っても始まらない。

 ──違いますって言ったら、どうなるんだろうか?

 ちょっとだけ悪戯心を刺激されながら、僕は答える。子供たち相手に張り上げているせいで良く通るようになった、透き通った声で。僕たちの両親にしっかりと聞こえるように。

「はい。誓います」






あとがき

 お目汚しでした。読んでいて恥ずかしくなる作品、続編です(笑)。
 えっと、この作品とよっすぃーさんの作品、全く同じキャラクターを使用しております。
 そう。拙作「坂道」の2人です。
 詳しいことは、私の方を先に読んでくださった方にとってはネタバレになってしまうため、ここでは申し上げませんが、ほとんど打ち合わせもしないままに互いに「続編」を作ったらどうなるか? と提案してみましたところ、このような運びとなりました。
 いや、書き手が変われば、ストーリーも変わる物です。

 元は私の生み出した2人ですが、私のストーリーが正しい歩みと言うわけではありません。
 よっすぃーさんのバージョンの2人と、私のバージョンの2人。進む道は異なりますが、どちらも立派に自分の進むべき、長い「坂道」を選んでいます。
 無論、どちらでもない、全く違う2人もいるかも知れません。……書きませんけどね(笑)。

 最後に。
 私の我が儘に付き合ってくださり、作品を1本仕上げてくださったよっすぃーさんに。そして、作品を掲載してくださった文庫運営委員の方々に。そして、読んでくださった全ての方々に感謝したいと思います。
 ありがとうございました。



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