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生きる事は時代とともにあり……のつづき

ヤマダ


 僕はあのあとすぐに寝た。とても小さな事を考えながら。
 僕は天井にある隙間から吹き込む風と星の光を感じながら、ある決意をした。

「過去なる過去を振り返るな、過去なる未来を見つめなおせ」

 僕は言葉に出して小さく宣誓した。そしてもう一度、「過去なる過去を振り返るな、過去なる未来を見つめなおせ」

 さっきより大きく、しっかりとそういった。目前にある不安を明確に受け入れるために、プーリさんがユダヤ人でないことを願いながら。
 僕は眠った。夢をみないほど深く静かに……。

 

孤独な人間はこの世で最も強い   イプセン

 

 僕は目を覚ました。寝返ったときに胸に何かが当たったからだ。僕は無意識のまま胸元に手を入れて円柱型の木の筒をひっぱりだした。無理に起こされた神経的な苛立ちのなか、手に持っている木の筒を顔のすぐそばまでよせて、いったい何が当たったのか確かめようとした。しかし慣れない目とはっきりとしない記憶のせいで、なんなのかがさっぱりわからない。頭にきて木の筒を振り回していると、スルッと手を抜けて頭の上に降ってきた。

 こんっ。コロコロ、カタッ。僕の頭にぶつかり毛布を転がりベッドから落ちたようだった。容赦なく頭にぶつかってくれたおかげですべてを思い出した。この筒はプーリさんが渡してくれたものだということ、そして女になって1933年のドイツにいるということ。

 やっぱり目がさめたらすべてが夢でした、というおちにはならなかったか……。僕はベッドに座り転がっている筒を手探りで拾い上げた。僕は薄暗い部屋の中、手から受ける筒の感触のみが僕の感覚だった。壁や天井の隙間から星の光がまだのぞいていた。時計はないが4時ぐらいだと思った。

 両手で筒を回しながら頭のなかを整理した。そうしているうちに筒を回すことに集中し始めて、必死で回しまくった。するとだんだん筒のはじが緩み始めて スポンッ とはずれた。勢いあまってまた筒が手をすり抜けた。宙に舞った筒がまた頭に降ってくるかと思ったが、降ってきたのは一枚の紙だった。

 いや紙というには硬すぎたかもしれない。しかし紙であることはまちがいなかった。いそいで紙をつかみ取り見た。

 見えない……。何か文字が書き込んであるようだったが、かすかな星の光では見えるはずがなかった。

 暴れたせいでうっとうしく乱れた髪を適当に直して、立ち上がった。外に出ればここよりは明るいと思ったからだ。すこし手を伸ばして壁をさがした。せまい部屋なので2、3歩、歩けば壁にぶつかった。

 そのあと壁づたいに歩いていき、ドアノブを探した。難なくみつかりドアを開いた。目の前にあるのは星の光さえない、完璧な闇の廊下である。その闇が僕を止めようとしているかのように感じられた。この紙にはとっても恐ろしい事が書いてあるような気がした。僕はベッドに戻ろうかと思った。しかし僕の心にはあの言葉が浮かんできて、僕を止めた。

「僕の決意はかたいぞ、過去なる未来など恐れない」僕は闇の中に突っ込んだ。壁に全体重をかけ、慎重に1歩ずつ1歩ずつ……

 4歩目のことだった。壁に力を入れすぎていたせいか、急に壁がぬけたみたいで僕はつんのめった。手がついたので顔面衝突はさけられたが、このとき自分の体の軽さを知った。両手に全体重がかかったというのに重さを感じることはなかった。本当にじゃまな髪を払いのけ立ち上がった。乱れた服装が気になったので軽くなおしておいた。一息ついたところで僕が壊した壁を確かめることにした。プーリさんにはさんざんお世話になって、そのうえ今夜、僕を泊めてくれた。それなのに壁をぶちやぶって返すなんて……声にならないため息をついた。

 ところが僕のぶちやぶったのはただのドアだった。それにどこも壊れていなかった。なんともいえぬ安心感のなか、丁寧にドアをしめた。そしてこの部屋を見渡した。廊下より星の光が入ってくるからか、目が慣れてきたからか、とにかくよく見ることができた。

 とても狭い部屋だった。たとえるなら僕の家のトイレぐらい狭かった。すぐ目の前には一見豪華そうなドアがあった。ノブや装飾、近くによって触ってみると材質や強度までが普通のドアとは違うのがわかった。

 そうか……ここは玄関だったのだ。日本のように靴が置いていないのでまったくわからなかった。まあ、僕は外に出たかったのだから丁度よかったわけだ。

 ドアが内開きなのには違和感を感じたが、鍵もかかってなく、すんなりと開いてくれた。星の光が流れ込んできて、暗さのなかに明るさをつくった。そのとき僕の後方に妙な気配を感じた。人間の気配ではないもっと不思議な何かを、微かにできた僕の影の先っぽから感じられた。恐ろしくはなかった、小さな期待をもって僕は振り向いた。

 

人生は芸術を模倣する      オスカー・ワイルド

 

 一枚の絵があった。10号ほどのキャンバスがそのまま壁につるされていた。油彩画だった。かすかに油の匂いがしていた。星に照らされたその絵はとってもいやな感じがした。この絵はそう、あの街によくにていた。あの臭く、汚れきった街に……。

 真っ黒く、窓一つない巨大な羊羹のような建物がキャンバスの中心におかれており、その壁を大量の人間が無重力空間のように2本足でのぼっていく。こんな絵だった。僕はしばらくこの絵の世界にいた。この絵は僕に対して一方的な感情の伝達をおこなった。初めてだった、ここまで絵に引き込まれたのは。どんなに他人が天才と呼んでいる画家よりも僕はこの絵を描いた人物に会いたかった。キャンバスの左端には下手な筆記体で「ハンス」と書かれていた。

 僕はかすかに赤みがかり澄み渡った星空の下へ出た。肌に突き刺さるような冷たさがあった。しかし昨日のような風は吹いていなかった。静かだった。こんなに静かな夜を僕は感じたことがあっただろうか。どこにいたってエンジン音がして、電気の光が監視している……それが僕にとってはあたりまえだった。なんとなく不思議だ。僕の心がこの風景に懐かしさを感じていた。

 僕の左手に握られている紙を広げた。紙は太陽を待っていた花のように僕の手で開いた。そして紙は星の光をあふれるほど受けていた。紙には細かい文字で、この話のようにぐちゃぐちゃと、はじからはじまで書きこんであった。日ごろから本などを読まない僕にとってはとてもつらかった。しかもこの文字は、僕が今しゃべっている言葉とは違い、アラビア文字とハングル文字をたして2でわったような文字だった。

 不思議に読めないことはなかったが、まるで英語の長文を日本語に訳しているような感じだった。わからない単語もいくつかあったが、全体的な意味はつかめた。

 書き出しはこうだった。「わたしは主、あなたの神あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」

 こんな感じで長々と続いていく。つまり宗教の教えやしきたりをこの紙に書いて筒にいれた、てことだ。

 神を信じる人には大切な物かもしれないが、僕にとってはただの紙だ。それになんの宗教だかさっぱりわからない。たった一つ気になるのは文章の最後に2,3行あけて書いてある「エレミヤ」という単語だ。なんとなく固有名詞だということはわかった。しかし人名か地名か、それとも何かの神の名か……。まったく予想がつかなかった。

 そのとき建物と空がまるで黒い紙を切り抜いたように明暗にわかれ、空には太陽が誇らしげに頭をのぞかせていた。初日の出のように感じられた。もともと形のない初日の出に対して僕は宣言しよう。68年前の初めての太陽よ、僕の一日は今から始まる……と。

 

それでも地球は動いている      ガリレオ

 

 僕は寒くなってきたので駆け足で家に戻った。闇の廊下は太陽の光で輝いていた。そのとき後ろのドアが開き、プーリさんがでてきた。プーリさんの服装をみても、顔をみても今まで寝ていたとは思えなかった。そしてひどく疲れているようだった。昨日はいきいきしてみえた顔がまるで昆布のようだった。でも僕がいることに気づくと、

「もう起きたのかい、やっぱり良く眠れなかったかね」

 昨日と同じ笑顔で、そう僕にいった。プーリさんは僕に似ていると思った。いや、人間が生きるということはこういうことなのだ。生きて、また命をつなぐことだけを目的としている動物とは違い、本当の心を隠して生きる人間。プーリさんとはなにも隠さずに語り合えるようになりたいと、僕がはじめて思った瞬間だった。

「ちょっとどいてくれるかい」

 僕はあわてて端によった。プーリさんは僕のわきを抜けていった。プーリさんの顔が見えなくなって、茶色い髪の後ろ姿になった。何も感情を伝えられない後ろ姿から、僕はプーリさんを見た。何か言いたくて、でも何を言ったらいいのか、僕にはわからなかった。

「プーリさん」

 ドアを押しているプーリさんを呼び止めた、プーリさんはスポンジのような顔をして振り返った。

「あの、一つだけ思い出したことがあるんです」僕がこういったとき、プーリさんの表情が一瞬くずれたのがわかった。こういったことがかえって、プーリさんを心配させてしまったかもしれないと思った。でも僕の口は止まらなかった。手にある紙を強く握り、あの単語が僕の新たな夜明けにふさわしいことを信じながら。

「自分の名前は……エレミヤです」

 プーリさんの顔がさっき以上にくずれたのがわかった。やっぱりこの名前はまずかったか。そうとしか考えられなかった。あの最後の単語は名前ではなかった……でも僕はこの単語をこの時代で生きる名前に選んだのだ。たとえほかにどんな意味をもっていたとしても、これは僕の名前だ。

 プーリさんの口がうごいた。「エレミヤ……いい名前じゃないか、じゃあ改めてよろしく、エレミヤ」

 プーリさんは僕の前に右手をさしだした。

「こちらこそよろしく、プーリさん」僕の右手とプーリさんの右手が一つになった。今、僕の一日が始まった。

 僕が男だったとき、親の家事を手伝ったことがあっただろうか。いつも部活や塾がいそがしくて……いや、いそがしがっていて、手伝いなんかしたことはなかった。しかしここではそうはいかない。僕に今できることは体を動かすことだけなのだ。戻れるか、戻れないかではなく、今ある未来のために、僕は頑張らなければ……。

 そんなこんなで僕は朝食までの時間を動き回った。なにかすることを探してきては走り回り、やりかたがわからなければプーリさんにきいた。まず自分の寝た部屋を掃除して、また水をくんできて、食器を運んで並べたところで朝食になった。プーリさんはエプロンで手をふきながら台所から出てきた。食器の並べられた机の前に立っている僕の向かい側にきて、エプロンをぬいだ。それを棚にかけると、「食事のまえのお祈りとか、きまり、とかは覚えてる」と僕に話しかけてきた。

 僕は激しく首を横にふった。

「そうか……じゃあまず食べるまえには、私みたいに椅子の右側に立って……」

 僕は自分が立っているのが左側なのに気がついて慌てて右へ移動した。

「そう。で、このままお祈りをする。今はまだいいけど、できるだけ早く覚えること。で、終わりに手をこうやるから、これは真似して」

 僕はプーリさんのやったように手を動かしてみた。鼻先にある手を4分の4拍子の指揮のように動かす。これをやっていると2年の合唱コンクールで指揮をやったことを思い出す。

 「おまえ、歌うより指揮をやった方がまだましだ」とあの気にくわない音楽の先生が言ったせいで、僕は指揮をやるはめになった。僕はいつも合唱の練習の時、前に立って手をふっていた。無理やりやらされた指揮なので、嫌々やっていると、ピアノの女子が怒る、先生が怒鳴る、合唱コンクール反対派の連中が騒ぎ立てるで、そのうち僕のことなんかどうでもよくなって、僕は乱闘の様子を指揮台の上から見下ろしていた。

「……エレミヤ、エレミヤ!」

 プーリさんの声で僕は現実にもどり、あわてて指揮する手を止めた。

「まあ、変だけどそのうちなんとかなるでしょ。食べ終わったあとにも同じ事をするからね、あとは……食事中に話をしないこと。細かく言うときりがないからこのくらいにしましょうか」

 プーリさんはポンと手をたたき、服装をなおした。数秒の沈黙のあとプーリさんがわけのわからない言葉を話し始めた。まるで葬式のときに、お経を聞いているような気分だった。そういえば明日……いや今日はだれか親戚の三回忌だったはずだ。人はいつか死ぬものだ。寿命で死ぬ人もいれば病気で死ぬものも、殺される人もいる、そして消えてしまうことも……。

 2001年の僕、大口 正彦は死んでしまったのだろうか。例の4分の4拍子をして、プーリさんのお祈りは終わった。二人は席につき食べ始めた。とても量が少ないので一口ずつ、味わって食べた。それに、何か変なことをしないように食べる順や食べ方などをプーリさんの真似をした。

 こんなふうに食べていても、まったく食べた気がしなかった。5分ほどたって、プーリさんは食べ終わった。それに続くように僕もフォークを置いた。こんどは座ったままで、お祈りがはじまった。始めの祈りよりずっと短く、10秒か20秒ぐらいで、また手を振って終わった。プーリさんは椅子から立ちあがり、手早く僕の皿を回収した。

「これから大事な話をするから、そこに座っていてくれる?」

 皿を持ちながらそう言ったプーリさんの顔は、とても真剣だった。

 僕はベッドの毛布の中から、紐をさがした。どうして今日はやけに髪が気になるのかと考えていたら、紐で結んでいないことに気がついた。たぶん寝ているときに外れてしまったのだろう。紐は枕の下にはさまっていた。

 たしかに紐はあった。しかしどうやってこれを髪に結べばいいのやら。髪を引っ張ると痛いし、見えないし、折り紙で鶴一匹折れない僕には不可能だった。僕の頭にはあの鏡台があった。鏡を見れば、いくらぶきっちょな僕でも結べるだろう。しかしそれには問題があった。ずっと目をそらしてきた問題が……。

 僕は女なのだ。時代のことで頭を使っていたが、このことを忘れたことはなかった。男も女も人間だ、物を食べ、物を考え、動いて、死ぬ、ただ神が男と女には別々の役割を与えた。そのせいでそれぞれの生活に微妙な変化があらわれた。動物界なんかいい例だ。孔雀やカブトムシなんかオスとメスじゃあまったく違う。はるか昔のヴェロキラプトルにだってオスにはとさかがあったそうじゃないか。みじんこやミドリムシだってあんな小さいのに……いや、ミドリムシは単細胞生物だから、性がないはずだ。僕も細胞分裂で生まれたかった。はぁ、ミドリムシにまであこがれてしまうとは……。

 僕は鏡台の椅子に座った。しばらく鏡にかけられた布とにらみあっていたが、ばかばかしくなってそれをめくった。

 彼女と逢うのは2回目か……。髪が垂れているので昨日とはちょっと違う僕がいた。結んでいるよりこっちのほうがいいと思ったが、自分のこととなれば話は別だ。後ろ髪を束にしてつかんで、紐を通した。やっぱり鏡も同じ事をしていた。

「きみは僕で、僕はきみなのかい」

 鏡の向こう側にいる少女に触れようとしながらそう言った。僕は彼女の顔を見ながら、彼女に触れることはできなかった。その代わり、自分の手をつかんだ。細くて長い綺麗な指だった。でもその手はあれていて、彼女の生活の苦しさがうかがえた。震える右手と左手をしっかりとつかんだ。一つになった震えを必死に押さえつけた。押さえて、押さえて、押さえつけた。泣きたい気持ちも、叫びたい気持ちも、みんなみんな押さえつけた。僕は立ちあがり、ベッドのそばに落ちている木の筒を拾い上げた。そして胸元からあの紙を出して、元あったとおりに丸めて筒につめた。きつく蓋をしめて、また胸元にしまった。

 この筒は「メツァー」といい、ユダヤ教徒の家のドアにとりつけておくそうだ。さっきプーリさんがそう言っていた。そのあと、「これをあなたが持っているということは……ここからは私の推測だけど……」

 プーリさんはそう言ったあと、しばらく黙っていた。

「……つまり、家も、家族も、失ってしまった……ということになると思うの」

 プーリさんはまた黙ってしまった。僕は、ありもしない家族や家を失ったと言われたことよりも、まったく違うことにショクをうけていた。それは……。

 プーリさんの口が開いた。「私が前の大戦で夫と子供を失って、住んでいた街も家もみんななくなった時、あなたと同じようにメツァーをもってここへやってきてね……。つまりあなたがメツァーを持っているということは、あなたは家の最後の命かもしれない」

 プーリさんはしっかりと僕の目を見ていた。あの筒がここまでプーリさんを悩ませていたとは思ってもいなかった。でも今の僕はそれどころではなかった。もっと深く恐ろしい事実を知ってしまったのだから。プーリさんは両手をポンと机においたあと、笑いながら僕にいった。そう、あのいつもの笑顔で……。

「ごめんなさいね……勝手なことを言って、自分で思い出すよりは先に伝えておいたほうがいいかと思ったから……記憶が戻るまでここにいていいからさ……もし私の言ったとおりだったとしても……ここにいていいから」

 プーリさんは机に置いた腕に力をいれて立ちあがった。

「プーリさん……ありがとう……。少し……少しの間ベッドにいていいですか」

 僕はゆっくり考える時間がほしかった。僕とプーリさんがユダヤ教徒であることについて……僕がユダヤ人であることについて……。プーリさんはやさしい笑顔で顔を縦にふった。

 

日は昇り また沈む 時うつる よろこび悲しみをのせて流れ行く      屋根の上のバイオリン弾きより

 

 僕はベッドでしばらくの間寝ていた。まったく時間を忘れて、ただ目を瞑っていた。まぶたの裏には、ただ闇があるだけだと思っていた。しかしそこには無限に広がる想像の世界があった。いつものようにいつもの僕が、自分の部屋のベッドで寝ている。僕の頭には、いままでの生活が走馬灯のように浮かんできた。僕がもっとも嫌っていた、夢も希望もない、ただ時間だけが過ぎていく生活。僕がもっとも軽蔑していた環境。その生活に戻りたくて、そんな環境にあこがれて、なぜかとても懐かしくて……。

 しかしみんな想像にすぎない、みんなただの現実逃避にすぎない……。いいじゃないか、現実逃避だって。こんな恐ろしい世界から一目散に逃げてやる、それでいいのだ。最近の奴らなんかみんなそうだ、僕だって……。

 僕が目を覚ましたのは、太陽が降り始めた時だった。昼食は食べずプーリさんとも、ほとんど口をきかなかった。ただなにかをしながら夜がくるのをまっていた。太陽が沈み始めたころ、僕は一枚の紙と鉛筆を借りた。紙に文章を書きながら、僕がここに来てから一日が経ったのか……と思った。

 たった一日で僕はこの世界に耐えられなくなった……僕は必死に首を振った。今僕は、ここから逃げ出すことしか考えられないようにしていた。自分を正当化して、なんとか夜までのりきろうとしていた。僕は書き上げた紙をベッドの上にそっと置いた。

 夜がきた。僕は、なんでもいいから食べたほうがいい、というプーリさんの声を断り、ただ鏡台の椅子に座っていた。僕は闇につつまれ、あたりが静まるのを待った。何かドアを閉めるような音を最後にして、カタツムリの心拍音が聞こえそうなほど静かな世界がやってきた。

 しばらく僕はそこにいた。一時間くらい、いたような気がした。実際には15分ほどだったかもしれない。僕は立ちあがり、昨夜と同じように、壁に手をつけて、ゆっくりと歩いていった。心のなかにあるもやもやが、僕の足取りを重くさせた。玄関には昨日と同じ、あの絵が飾ってあった。

「僕はこの世界に、この薄汚れた世界に帰るために、すべてを捨てるのか……」僕は絵から視点を離し、そして外に目を向けた。思いきって足に力を込めた。

 ダッ。走り出した。髪が流れ、景色が流れた。足に絡まる長いスカートのせいで何度も転びそうになった。でも僕は走ることをやめなかった。僕は息が切れて、頭の中が真っ白になっても止まらなかった。ここまでくるともう、走っているとは言えない。ただ死に物狂いで、あえいでいるとしか思えない。足と手と、頭がぐちゃぐちゃになり、雑草のうえに倒れこんだ。僕は息を吸って吐き出した。咳き込んで、頭がガンガン響いた。草の匂いも、一面に広がる星空も、どこを走ってきたかも、みんな僕にはわからなかった。ただ生きるために呼吸をしていた。僕は右手を強くにぎり、なんどもなんども地面に打ち付けた。「くそ……くそ……」

 汗にまみれて、目から何かが流れ落ちた。

 あたりは静まりただ涼しいだけである。僕は手を枕にして、雑草の布団に寝転がっていた。ここは民家から少し離れた丘の上だった。月のない方向に顔を向けると、かすかに光のある家がいくつか見えた。月のある方向に顔をむけると、どこまでも地平線の彼方まで、畑がつづいていた。この季節ではなにも植えるものもなく土があるだけだった。

 そうか……ここは農村だったのか。と思いながら地平線を眺めていると、一つの光が現れた。電気のような白い光ではなく、炎のように赤い光だ。それがかなりのスピードで、こちらへ向かってきた。何かと思って身を起こしてみると、光はもうここから500mぐらいのところにいた。光の正体はランプで、自転車のさきに括り付けてあることまでわかった。

 この自転車は、液体が揺れる音や木とガラスがぶつかる音が、ガチャガチャ、ぷちゃぷちゃとパレードをしていた。それもかなりの大荷物で荷物の重さに揺られながら、ぐにょぐにょと走っていた。乗っている奴の顔はわからなかったが、そばによるにつれて油の匂いがしてきた。向こうは草原にできている獣道をはしってきたが、光が僕にとどくところまでくると、草のなかに立っている僕を見つけたようで、自転車を止めて、前についているランプをはずして僕のほうへ向けた。

 そのとき相手の顔が、うっすらと赤い炎のなかに見えた。昨日の夕方、プーリさんと話をしていた、はっきりとしない野菜売りの少年だった。向こうも顔が見えたのか、「わあっ」と悲鳴を上げたあと、ランプを持っている手を離し退いた。

 宙を舞うランプ。少年は慌てて手を出したが、「あちっ」と落下するランプに触れてまた叫んだ。ランプに力を加えたせいで、僕のほうへ飛んできて、ぼすっ、と草むらに着地した。僕は光のもれる草陰からランプの取っ手をつかんで持ち上げた。光を少年の方へむけると、少年はヤケドしたと思われる右手を冷ましていた。

 僕はすぐそばまでよって「はい、これ」と言った。少年は、ほんの一瞬僕の顔を見たかと思うとすぐうつむいて、僕の手から奪うようにしてランプをとった。礼の一つでもいえよ、と思ったのはつかの間、一気に自転車に向けて走り出した。流れる光と、影になった少年が急に止まった。そして僕に背を向けたまま、「もし君が、電気のあふれる街から来たのなら、本当の闇の恐ろしさを知らない。……なんで君がここにいるのか知らないけど、早くベイスさんのところへ帰ったほうがいい」と言った。

 話の流れから、ベイスさんはプーリさんだとわかったが、あまりにも以外な台詞に僕はおどろいていた。その間に彼は、ランプを取り付けなおして、自転車に乗ろうとしていた。僕は1歩ずつ前に進みながら自分の口からも意外な台詞がでてきた。

「君の言うとおり、僕は電気のあふれる街から来た。四方八方海にかこまれた、汚れきった大地『日本』から、僕は来た」

 こう言い終わったときは、少年の目の前に来て、自転車の道をふさいでいた。なぜこのようなことを言ったのか自分でもわからなかった。ただその場の流れから、ついつい話してしまったのだから。

 少年は自転車にまたがったまま、僕と目が合うとそらし、また合うとそらしながら、こう言った。「うん……電気のあふれる街が汚れきった大地だっていうのは……正しい……。自分も……そう思う。だけど……その……そこをさ……」

 ここで口ごもってしまい、手で何かを合図していた。つまり、そこをどけと言いたいわけだ。素直にどけばいいのに、また変な台詞をいってしまった。

「じゃあ、君がどうしてここにいるのか教えて、そうしたらどくから」

 こいつがなんでここにいるかなんて、どうでもいいではないか。僕はなにをきいているのだ。少年は困ったような顔をしながら、後ろの荷物をちらちら見ていた。

「これ……この絵の道具を……この道、ずっと行くと街があるから、そこで買ってきた。それだけだ」

 とても早口でそう言うと、どいてほしそうな顔をしながら僕を見た。それでも僕はどかずに、またまた変なことを言った。

「君、絵を描くんなら、ハンス、ていう絵描きを知ってる?」

 確かに、玄関に飾ってあった絵については知りたかった。しかしこの状況では「ハンス」という固有名詞も、あの絵のことも、まったく頭にはなかった。もちろん無意識の部分には、あの絵が深く刻まれているはずだが……。

 そのとき突然、ランプの炎が消えた。赤く染まっていた少年の顔は闇に沈んでいった。

「ハンス……という絵描きは知っている。でも……そいつの絵は嫌いだ」

「僕は好きだけど」

 連鎖的にこの言葉が出た。芸術はきわめて自由で幅広いものだ。だから感動も創作も、自己中心的で、自己満足なものになる。だからこの言葉が僕の口からでたのだ。彼に対する反発ではなく、一つの自己主張として。

 僕は少年に道をゆずった。ガタガタ、ゴトゴト、音をたてながら前へ進んでいった。自転車の後部のかごに山積みにされた荷物にむかって僕は叫んだ。「僕の名前はエレミヤ。君の名前は?」

 自転車は大きく傾き、草の中へ突っ込んだ。そのあと弧を描きながら、やっとのことで元の道へ戻ると、少年は叫んだ。

My name is Kamiru

 下手な発音だった。でも僕にとって、そんなことはどうでもよかった。ただその言葉に深く心を動かされていたのだから。

 僕はいつのまにか、ベッドの前に立っていた。毛布の上に置いてある紙をつかんだ。この紙には、「これ以上、迷惑をかけるわけにはいきません。本当にありがとうございました」と書いたはずだが、闇の中では読めなかった。

 いや、読もうとも思わなかった。ただ自分が情けなくて情けなくて、しょうがなかった。思いきって破こうとしたが、やはり手を止め、紙を丁寧にたたんで鏡台の引出しにしまった。

To be continued?

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