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「天使のお仕事 第10話」



 「ふ……ふわあぁ〜……」
 大きく伸びをして、ベッドの上に起き上がる。
 「え……っと……」
 一瞬、ここがどこで今の自分がどういう状況におかれているか、考えないとわからないような気がする。
 早川伊織としての生活にもそれなりに慣れてきたはずの進藤伊織だが、それでもなんだか寝起きの時に考え込んでしまうことがあるのだった。
 もちろん、慣れきってしまってはいけない。
 伊織の頭を「このまま一生女の子」という考えが掠め、
 「それでも悪くないかな♪」
 などと浮かれた気分が頭か身体のどこかでくすくす笑っているような感じがして、……
 「いっ、いかんいかんっ!! それじゃ早川さんとは永遠に結ばれないじゃないかっ!!」
 頭をふるふるっと振ってよからぬ考えを振り払うのだった。
 「脳内お天気天使」パラレルの四回目の失敗になるか、
 ―それって天上界ぜんぶ合わせても五回目なんだけど―
 それとも晴れて男に戻れるか、それはひとえに伊織の「お仕事」
 ―この町の人々に『ささやかな幸せを与える』という、なんだか抽象的なお仕事だけど―
 にかかっている。
 ところが、パラレルの持ってくる「お仕事」は、華代ちゃんも真っ青、というほど不条理っていうかわけわかんないっていうか、とにかく伊織にとっては思い出すだけでも頭痛がしてきそうなものばっかりなのだ。
 「ああ、もうっ……本当に頭痛がしてきた」
 伊織が額に手を当てて、痛みを押さえていると、ベッドの足元のあたりがもぞもぞ動いた。
 「おはよー」
 この部屋のもう一人、じゃなくてもう一匹の住人、パラレルの助手のシリアルが、羽根布団から顔を覗かせると、大きなあくびをしてから、じっと伊織を見据える。
 「伊織、このところ、寝起きが悪そうだな。『触角』の立ち方にも元気がないぞ」
 伊織は慌てて頭に手をやって、ばつが悪そうに呟く。
 「これは直らないのっ」
 シリアルは苦笑するように鼻先にしわを寄せ、それからふと窓のほうに視線を移した。
 「……さて。」
 伊織も同じほうを見る。
 「……そろそろ、だね」

 きらきらきらきら……―――

 窓から射す朝の日の光がきらめくように、金色の光の粒が窓際に舞い始めた。
 「おはようございまぁ〜〜〜〜〜〜すっ♪」
 起き抜けにはちょっと耳障りなほどきらびやかな声とともに、白い衣装に金髪、白い翼をゆるやかにはためかせて、パラレル登場。




――少年少女文庫100万Hit記念作品――

原作 100万Hit記念作品製作委員会

第10話担当 会津里花


第10話 「間違いだらけの(?)選び」


 「きっとこいつには『寝起き』とか『低血糖』とかいう言葉は他人事なんだろうな……」
 頭痛のもとが目の前に現れたことで、いっそう頭痛が激しくなってきたような気がする。
 「さあっ、今日もお仕事ですわよ〜♪ 昨日は駅前の自転車整理でしたけれど、今日はでございますね〜、公園のゴミ箱周辺をお掃除するんでございますのよ〜♪」
 いつのまにか「シ○バー人材派遣」みたいになってる(^^;。
 もちろん、そういう「お仕事」だけなら、人の役にも立つし、パラレルがどこからそういう仕事を引き受けてくるのかが大きな疑問だけど、やれば終わるのだからまだいい。
 けれど問題は、そういう「お仕事」の最中に、必ず何か伊織にとって「災害」としか思えないようなことが起きることだ。
 第9話までにさんざんそういう目に遭っているので、今さら何を、という気もしないではない。
 それにしても、いっこうに学習できていないような……。

 昨日だって、並んでいる自転車が倒れてきて、伊織は自転車と自転車の間に挟まれて身動きできなくなってしまった。
 じたばたしていたら、なんだかそれが面白かったらしく、小さな子どもたちが何人か近寄ってきた。
 「あー、お姉ちゃん、ヘンー」「何してるのー?」
 「だ、だめよっ、危ないからこっちに来ちゃダメっ!」
 自分でも思いがけなく大きな声が出てしまい、もっと目立ってしまった。
 恥ずかしくて真っ赤になってうつむいていたら、どこかのおばさんの声が飛んできた。
 「あっちゃん、こんなところにいたの?」
 (あっちゃん? 誰だ、それ)
 顔を上げると、エプロンをした保母さんらしい女性が、小さな子どもたちの中でいちばん幼そうな男の子のほうに駆けてくるところだった。
 「ああ、よかったー。この子、他の幼稚園の子たちにまぎれて、うちの保育園のお散歩からはぐれちゃっていたんですよー」
 男の子は幸せそうに「せんせいー」と言いながら保母さんにしがみついた。
 ついでに伊織も「ネズミ捕り」みたいになった自転車の間から救い出してもらったのだった。

§

 どうやら、それで「ささやかな幸せ」がひとつ、達成されたことになるらしい。
 「でも、それじゃあこっちの身体がもたないよぉ〜〜〜っ」
 「これも、試練ですわぁ〜♪ 『ささやかな幸せ』を積み重ねれば、ちゃんと、元に戻れ……!」
 にこやかに語るパラレルの笑顔か固まった。
 「? どうした?」
 伊織が聞くと、パラレルはなおも数秒間固まっていたが、俄かに元気を取り戻した。
 「大丈夫ですわよ〜っ♪ 天界に問い合わせれば点数だってわかるし♪」
 「ちょ、ちょっと待てっ。なんだその『点数』って?」
 「あら〜♪ そんなこともわからないんでございますの〜? イオちゃんが元に戻るために必要な点数に決まってるじゃあ、あ〜りませんかあ♪」
 「なぜここで吉○になるかなあ」
 シリアルがもう一度伸びをしながら呟いた。
 突然ネタ元が変わってしまうパラレルの口調には慣れっこだが、突っ込み好きのシリアルとしては言わずにいられないのだ。
 伊織はベッドから立ち上がり、パラレルに詰め寄る。
 「っていうことは、パラレルはその点数を把握してないってことか?」
 「え〜? なんでそれがわかったのでございますか〜♪」
 「↑二つ前のセリフ、よく見ろ……」
 「パラレルに辻褄の合うセリフを要求してもムダだと思うけどな」
 シリアルが横を向いてぼそっと呟く。伊織、再びベッドにどさっとへたり込む。

§

 いつものように、朝食。だけど、伊織はなんだか食欲がなさそうだ。
 「どうしたの、伊織ちゃん? お腹、痛いの?」
 真須美が尋ねる。
 「いえ、ちょっと頭が痛くて」
 「気功師の先生のところに寄っていったほうがいいんじゃないのか」
 守衛氏が心配そうに覗き込むが、伊織にしてみればこれ以上この世界にどっぷりつかってしまうのは避けたいような気がして、つい
 「あっ、でも、大丈夫ですよ、ホラ」
 といって無理に箸を進めようとしてしまうのだった。
 「無理しなくてもいいからね、あたしもついてるから」
 隣で真織が微笑んでくれる。これだけでも十分すぎるぐらい幸せなはずだったが、大きな代償があった。
 今の立場では、絶対に告白できないのだ。
 その思いからか、せっかく真織が微笑んでくれるのに、伊織はその笑顔をまともに見ることができないのだった。

 と、そこへ、突然電話の着信音が鳴り響いた。
 「珍しいわね、朝から」
 と言いながら、たまたまいちばん電話に近い真織が受話器を取り上げる。
 「もしもし、早川ですけど。……はあっ? え、ええ、ご無沙汰しております……」

 他のみんながいったい誰なんだろう、ときょとんとしている中、真織は戸惑い顔のまま受話器を置いた。
 「誰からだったんだ?」と守衛氏。「替わればよかっただろう?」
 「それが……」真織はいったん言葉を切ってみんなを見回した。
 「隣町に住んでいるおじさんなんだけど……
 (よく会っているはずなのに、どんな人だったっけ……?)」
 「なんだ、重衛(しげちか)のことか。あいつも……
 む? あいつ、この前いつ、ここに顔出したんだったかな? ……」
 守衛氏も戸惑い顔になった。
 「何言ってるのよ、よく来るじゃないですか……(と思うけど)……」
 真須美もだんだん、落ち着かない表情になってしまった。
 三人三様に、「重衛」という親戚のことをよく覚えていないことを、なんとか取り繕おうとして、ぎくしゃくとした会話になってしまう。

 あとの二人というか一人と一匹というか、伊織とシリアルは、元から知らないので、なんとも言いようがない。
 伊織は「へのへのもへじ」状態になった三人の顔を見ているうちに、何が起きているのかわかってきた。
 出かける支度はもう、ぴしっとできていて、ヘアクリップもしっかり留めてある。
 それに向かって話しかけるつもりで、伊織は心に念じた。
 「パラレル! パラレル!」
 「は〜〜ひ♪」
 パラレルも何か食事中だったらしい。口をもごもごさせて返事をした。
 パラレルがものを食べているところなんて誰も見たことないのだが。
 「登場人物が一人、おかしなことになっているみたいだぞ!」
 「ごっくん♪ は〜い、な〜んのことでございましょ〜かあ?」
 「シードの力で、おれがこの世界にいることは受け入れられるようになってるんだろう?」
 「ええ、そのとおりでございますわよ〜♪」
 「もしも同じようなことがこの世界で他にも起きていたら?」
 それに対するパラレルの答えは、……聞くんじゃなかった……案の定、能天気そのものだった。
 「あ〜ら、そんなはず、ありませんでございますわよぉ〜♪ わたくし以外に、こ〜んな試練を課される天使が、いるわけがな〜いじゃございませんか〜♪」
 カチャン、コロコロ……
 「どうしたの、伊織ちゃん?」
 「オズの魔法使い」に出てくる案山子みたいになって箸をとり落とした伊織の顔を、真織はさっきよりも心配そうに覗き込んだ。
 「な、なんでもないの……ただ、世の中には不思議なことがいろいろあるんだな、って思い出しただけ……」
 「あんまり調子が悪ければ、学校、休んでいいからね」
 真須美が重ねて言う。
 「あ、いいです、行けます、だいじょうぶ」
 しかし、後から思い返すと、こんなにみんなから「学校休んだほうがいい」と言われるのは、「虫の知らせ」だったのではないだろうか。
 耳元ではパラレルが何かまだ言っているが、伊織はもうかまわないことにして、ごはんを口へ運んだ。



 校門の前のあたりで、伊織と真織は不意に声をかけられた。
 「久しぶりだね、真織。さっきは急に電話をして……」
 「あっ――」
 真織がびっくりしたように立ち止まる。
 「?」
 伊織は一瞬、なんだろう、と思ったが、すぐに思い当たった。
 そうか、こいつが正体不明の「重衛」か。
 普段着も作務衣(さむえ)を着込んでいる守衛氏を見慣れているからか、はたまた守衛氏を「真織のお父さん」という立場で見ているからか、目の前の「重衛」氏は守衛氏よりもずっと若く見える。
 シャープな感じのする黒系のスーツを着ているが、どうやらスポーツで鍛えているらしく、スーツの下に筋肉隆々とした肉体が隠れているのがわかる。
 顔立ちも精悍で、褐色に日焼けしている。
 ちょっと松○○治かな、という印象だ。

 「……お久しぶりです……」
 真織が、ちょっと困ったような顔で返事をする。
 伊織には、真織の表情の意味がよくわかるような気がした。
 この人は、この世界にいてはいけないのだ。
 なぜそんなことがわかるのかといえば、……
 伊織だって、自分自身が男でない女の子の伊織としてこの世界に存在することに、何度同じような顔をしたことだろう。
 自分であっても自分以外の他人であっても、「存在そのものの違和感」に対して人は同じ表情をするものなのか。
 伊織はもちろん、頭でそんな理屈をこねこねしたのではない。
 でも、わかってしまったのだった。
 ここ数ヶ月間の経験から、真織の感じる違和感が。
 伊織は真織を守らなくてはいけない、と思った。

 それで、自分のほうから重衛氏に尋ねた。
 「えっと、あたし、真織のいとこの伊織です。お会いするのは初めてですよね?」
 すると、重衛氏は、ぱっと顔を輝かせたのだった―この表情は予想外だった―。
 「ああ、そうか、君が伊織『君』か! こんなにすぐに会えるとは」
 「え? え?」
 「第3話でサッカー部のマネージャーをやっただろう。あの様子をたまたま見たんだよ」
 こらこら、その「第3話」ってなんだっ。
 「このところ不義理をしてしまって兄さんには申し訳なかったが、私は最近、女子サッカー部の監督をしていてね」
 「は、はい」
 伊織はうなづくので精一杯だった。
 「君のサッカーセンスは『女の子離れしている』、と思ってね。
 ああ、そういう言い方は差別になってしまうのかな。
 でも、正直な感想として、君みたいにセンスのいい子がいれば、うちのチームも引き締まって活気づくに違いない、と思うんだよ。
 どうだね、豊急女子FCに参加してくれないか」
 「……」

 固まるほかに、何ができただろうか。
 きっと、男の伊織でも、反応は同じだっただろう。
 いきなり、いくらいとこのおじさん―っていうことは自分にとっても「おじ」にあたる―といっても会ったことのない人に「サッカー部に入ってくれ」なんて、勧誘を受ければ。
 「あ、ああ、ごめんごめん、話が急だから、あっけにとられちゃったんだね」
 重衛氏は慌てたような顔をして、両手で「待った」のかたちを作った。
 「今はまだ、サッカー部のマネージャーをやっているんだろう?
 だったら、それとの両立のこともあるし、ゆっくり考えてくれればいいからね」
 「……」
 なおも固まったままの伊織を見て、重衛氏は「仕方ないか」というようにため息をつくと
 「じゃあ、悪かったね、登校前の時間を割かせてしまって」
 と言い、くるっと後ろを振り向くとその場を去っていってしまった。

 伊織と真織は顔を見合わせた。
 真織の瞳が、心なしかいたずらっぽっく輝いている。
 伊織も同感だった。
 「ぷっ!」
 二人同時に噴き出してしまった。
 おなかをよじって笑いながら、苦しそうに伊織が言った。
 「くくく…… ね、言ってもいい?」
 「ウンウン、いいよ」
 「あのおじさん、キザー!!」
 「そ、そうなのよ、いつもああいう感じなのよー!!」
 と、伊織の笑いがぴたりと止まってしまった。
 「……いつも?」
 「そう、そうなのよー……」
 まだ笑い転げていた真織だったが、伊織がもう笑っていないのに気づいて息を整えた。
 「どうしたの?」
 「あっ、ううん、何でもないの」
 しかし、伊織は不思議でならなかった。
 ”あの人はぜったい、おれと同じように何かの力で『設定』を変えられているに違いない……”

§

 昼休み。いつものように「屋上ミーティング」のために上がっていくと、先に来ていた「進藤伊織(=パラレル)」が、あの天使の微笑みに加えて、胸の前で「かわいく」手を振っていた。
 瑞樹も苦笑している。
 男の顔でやられる「天使の微笑み」だけでも十分気持ち悪いのに、その上「男だったらまずやらないようなしぐさ」で手まで振っているのにげんなりしている伊織にパラレルが言ったのは
 「ほら♪ 今朝お伝えしたとおりだったでございますでしょう?」
 という、ある意味勝ち誇ったようにも聞こえるせりふだった。
 伊織は「そんなの聞いてない」というのもばつが悪くて、つい黙ってしまった。
 けれどもパラレルは、そんなことにはおかまいなしというように、
 「だ・い・じょぉ〜ぶっ♪ イオちゃんなら、きっと重衛さまを幸せにしてあげることができますでございますわあ♪」
 と、満面の笑みを浮かべてヒーリング。
 瑞樹が聞いた。
 「で、要点だけ言うと、伊織はけっきょく何をやればいいわけ?」
 「一言でまとめるのはちょっと難しゅうございますわあ♪ あれはまだ、ムーの里もアトランティスの里もまだ、人がたくさんいて、それはそれは豊かに栄えていた頃のことで……」
 「いっ、いい、いいから、おれが何をやればいいのかだけ教えてくれっ」
 伊織は強い日差しの中なのに、肌寒さを感じてさえぎった。
 パラレルの微笑のボルテージが上がる。
 「はぁい♪ つまりは、豊急女子FCに参加してくだされば、それでけっこうなんでございますですのよ〜♪」
 「……ちゃんと要約できるじゃないか」
 いつものように、いつのまにかどこからか上がってきたシリアルがぼそっとつぶやく。

 何はともあれ、伊織の今度の「お仕事」は、あの重衛氏のもとで女子サッカーチームに入部することだったのだ。
 伊織は思い切って聞いてみた。
 「あの『重衛』さんって、本当は何者なんだ?」
 「ああ、あの方はでございますね〜、『衛子おばさま』ですわあ〜♪」
 「へっ?」
 「真織さんにとってはおばさま、御神職の妹さんにあたる方でございますですのよ〜♪」
 「おれ以外にそういう人はいない、って、朝言ったじゃないか!」
 伊織は思わず、男の自分の姿をしたパラレルに詰め寄った。
 「ええ、でも、イオちゃんの鋭いご意見に従って、もう一度デバッグしてみたのでございますのよ♪」
 「鋭いって、おい……」
 そのまま伊織は絶句する。
 「デバッグ?」
 瑞樹が代わりにたずねる。
 「そう♪ シードの力で世界が変わるとき、わずかに世界ぜんたいの設定に歪みが発生するんでございますですのよ♪ わたくし、一生懸命デバッグしたのですけれど、見落としがあったようでございますね〜」
 「ま、またかよ……」
 伊織と瑞樹はそろってため息をつく。
 「そりゃあもう。だって、デバッグはぜんぶ、手作業ですからね〜♪ 5万3千件まではできたけれど、衛子さまのぶんは間に合いませんでした〜♪」
 「自動的に検索して置換、とかできなかったのか?」と伊織。
 「あら〜、それは無理ですわぁ〜♪ 人には一人一人、個性というものがありますからね〜♪」
 「そ、そういうものなのか……??」
 二人は今度は、さっきと違ったニュアンスのため息をついた。
 もしかして、天使って、とっても大変なことなのかも……で、でも。
 「今から設定を直すことはできないのか?」
 「残念ですけれど、もう無理ですわ〜♪ イオちゃんと関わりを持ってしまいましたからね〜♪ それに、」
 パラレルは珍しい言葉の切り方をした。
 「『重衛』さまは、イオちゃんが本当は進藤伊織だっていうこと、ご存知ですからね〜♪」
 「なーんだ、そっかー。それじゃあ仕方がな……えええっ!!??
 「イオちゃんのお仕事はですね〜、女子サッカーのプレイを通して、重衛さまの『誤解を解く』ということなんでございますですのよ〜♪」
 サッカーで……「誤解を解く」っていうことは、「確かに女の子だ」って思わせる、っていうことか?
 確か第1話第2話で、伊織が「男」だということを知っているのはパラレル、シリアル、それに瑞樹だけだった、っていうことになっていたはずだぞ?!
 伊織のこめかみのあたりを、冷たい風がさーっと吹きすぎたような気がした。
 「それ……」
 じっとパラレルを見据える伊織の視線が鋭い。
 「もしかして……」
 パラレルは定番の微笑のまま。
 「お仕事じゃなくて、デバッグの尻拭いじゃないのか……?」
 パラレルの微笑が、僅かに翳ったようだった――が、へこたれるようなお天気天使ではない。
 「あらまぁ〜♪ 男の子がそんな細かいこと、気にしてはいけませんでございますわぁ〜♪」
 「あの……今は女の子なんだけど……」
 「それにですね〜、バグが拡大すると何が起きるか、さしものわたくしにも想像がつきませんでございますわ〜♪」
 一瞬、伊織の目の前に大スペクタクルSFXコンピュータグラフィックスが……

 「それにしても、女の子に混じってサッカーやるなんて、なんだかやりにくそうだなー」
 ふともらした伊織に、瑞樹が突っ込んだ。
 「女の子のパワーを知らない、伊織らしいせりふだな……」
 「うっ、うるさいなっ、Jリーグだって欠かさずに見てるんだからな!」
 「だからー、その程度だろ?」
 瑞樹はひょいと伊織の片腕をねじ上げた。
 「いてててて! 何すんだよー」
 「これが伊織の今の実力」
 「おまえみたいな乱暴な女、いくら女子サッカーでもいないよ!」
 「まっ、せいぜいがんばれよっ」
 瑞樹はぽんっと伊織の肩を叩いた。

§

 で、けっきょく、次の日曜日。
 ショート丈のスパッツにハイソックス、ビッグサイズのTシャツ、という姿。
 これは、高校のサッカー部でマネージャーを始めたときと同じ格好だが、今回は「仮入部」ということで、伊織が逗留している早川神社のある町からは豊急線で駅二つ離れた、市営グランドに来ていたのだった。
 なぜか、真織がいっしょに来ている。
 戸川先生の一件(第6話参照)以来、伊織と真織はよく、二人で豊急の電車に乗って、天ヶ丘市の中心街へ遊びに出かけるようになった。
 伊織にしてみれば、これこそ「デート」なのだが、真織にはそういうつもりがあるのか、ないのか……ふつう、「ない」だろう。
 だって、女同士だから。
 それはともかく、割と二人で行動することが多くなってきていて、その流れで今日もなんとなく、真織は伊織について来ていたのだった。
 伊織が着替えてグラウンドに出ると、真織は観客席に座って練習を眺めることにした。
 「伊織ちゃーん、がんばってねー」
 手を振る真織に向かって、伊織は右手の親指をくっと立ててみせた。
 もちろん、ヘアクリップに変換されたその身ごなしは、「かっこいい」というよりも「かわいい」というべきものだが。

§

 伊織は、考えるともなしに考えていた。
 ”『誤解を解く』なんていうけれど、サッカーだったら女の子らしさなんて関係ないよ。
 真織さんも見ているし、男・伊織のセンスでちょっと活躍しちゃおうかな〜”
 実はこんな発想をしてしまうのが、いちばん伊織らしいのだが。
 でもちょっと甘いんじゃないか伊織〜。
 ”んっ?”
 どこからか瑞樹の声が聞こえたような気がして、伊織はグランドをきょろきょろ見回した。
 けれど、今日は瑞樹は応援団で野球場へでかけているのだから、ここにいるはずがなかった。

§

 「やあ」
 重衛氏が現れた。
 伊織は「余計なことを聞かなければよかった」と後悔していた。
 この「重衛おじさん」は、本当は「おばさん」だったはずの人なのだ。
 男性としては、そこそこ「かっこいい」ほうだと思う。
 けれど、伊織には、「もしかしたら心の中は『おばさん』なのかもしれない」と思えて、とてもじゃないけどそのまま「かっこいいおじさん」とは思えないのだった。
 もしかしたらこの人は、自分と同じようにシードの作用で違った姿、違った立場になってしまった、ということで「親近感」のようなものを感じているのかもしれない。
 似たような感情は、伊織にもあるのかもしれなかった。
 でも、はっきり言って、「認めたくない親近感」ほどたちの悪いものはない。
 ”だ、だめだ、おれ、この人、苦手……”
 ふだんはそんなに人に対して苦手意識を持つことはない伊織だが―女の子に告白できない、という点を除けば―、重衛氏に対してだけはどうにもならなかった。

 部員たちが集まってきた。
 伊織は、耳の後ろにいつものヘアクリップを留めている。
 もちろん、「女の子らしくする」のが目的だが、……サッカーするのに、それどころじゃないんじゃないのか。
 その点でも、伊織はぜんぜん自信がなかった。
 「今日、仮入部として来てもらった、早川伊織さんだ。よろしくな」
 《うぃーっす》《よろしくね》
 そこにいる部員は、ぜんぶで10人だった。
 休んでいる者がいるのか、それともそれでぜんぶなのかは聞いていなかったが、ぎりぎりのところでやっているのは、伊織にもなんとなくわかった。
 みんな好意的な雰囲気のようだった。
 女の子たちは、サッカー用のユニフォーム―今は練習着だけど―を着ていると、全体的に「いかにも女の子」という感じがしなくなる。
 中には何人か、明らかに「女らしくしない」ことを求めている雰囲気の子もいる。
 ”本当に、このクリップしてていいんだろうか……”
 「よ、よろしくお願いします……」

§

 この日のメニューは、言ってみれば伊織の「入部テスト」みたいなものだった。
 パスやドリブルぐらいなら、高校のサッカー部でマネージャーやりながら、なんとなくボールに触っているからだいじょうぶだろう。
 もともと男の運動神経を「知っている」んだし、スポーツ全般が好きだから、まあ何とかなるだろう。
 と。
 たかをくくっていたのが大間違い。
 パス。
 「――すかっ」
 ”あり?”
 ドリブル。
 「ころころころ〜〜」
 ”なんで足元でキープしたいボールが、自分より先に勝手な方に転がっていっちゃうわけー??”

<解説しようッ!
確かに伊織の運動神経は、「男の体」のときに培われたものを参考にしているッ!
が、しかし、現実に動かしている体は「女の子の体」なのだッ!
サイズも力も、おのずと差があるッ!
ヘアクリップは、それを瞬時に計算して、伊織が体を動かすときに違和感なく動かせるように、ずれを補正するための信号を、伊織の知覚・運動神経に送りつづけているのだッ!
ふだんの動作は「男のときと同じように」などと意識したりはしないのでスムーズに動くッ!
しかし、今の伊織は「男のときみたいに体が動かせればだいじょうぶ」と思い込んでいるため、ヘアクリップの補正を受け入れることができずにいるのだッ!
これでは動きがちぐはぐ、ばらばらになってしまうのも仕方ない……!! って、おい>

 「ずでえっ……!!」
 とうとう伊織は、ボールが脚にからんでしまい、前のめりに思いっきり転んでしまった。
 倒れた自分の姿が、カエルみたいに横に広がってしまっているのが、伊織の脳裏にまざまざと浮かぶ。
 女の子になってから、……そりゃ「お仕事」には何かとぶざまな姿がつきものだったけど……
 こんなにかっこわるい姿をさらしたことはなかっただろう。
 しかも、しかも……!
 ”うううっ、真織さん……!!”
 真織は伊織が転んだのを見て、つい笑ってしまっている。
 ちょうど口元に手を当てるところを、伊織ははっきりと目撃してしまった。
 決して悪気はないのだろうけれど……それって、傷つくぞ……。

 「だいじょうぶ?」
 まわりの部員が近づいてくる。
 ”ああ〜、お願いだから、騒ぎを大きくしないでくれえ〜っ!”
 と思うものの、伊織の表現はみんなに向かって痛々しい笑顔を見せるくらいにしかならない。

 「だいじょうぶか?」
 重衛氏も伊織のほうに近づいてくる。

 ”――え。”

 伊織の胸が、急に「ドキン」と鳴ったのは、転んで怪我でもしたのだろうか。
 違う。
 重衛氏が気遣わしげな顔をしてこちらに近寄ってくる、その姿を見たせいなのだ。
 ”な、……なんなんだ〜〜〜?!
 この『ドキン』っていうのはあ〜〜?!”
 部員たちが重衛氏に道をあける。
 その姿を見ていると、かなりの部員が
 「監督、かっこいいー!!」
 と思っているのが手にとるようにわかる。
 だって、今の伊織の気持ちもそれに近いのが、何よりも伊織自身、わかってしまったから。
 ”ぐああ〜〜っ、そうじゃない、そうじゃないんだあ〜〜〜っ!!
 おれはこんなおじさん、なんとも思ってないぞお〜〜〜っ!!”

 どうやら、重衛氏の笑顔には、女の子を虜にするフェロモンのような働きがあるらしい。

§

 ――そんなこんなで日も暮れて。
 「まあ、初日だし、こんなもんだな。まだチームにも馴染んでないし」
 重衛氏のフェロモンの笑顔に、伊織の気持ちは動揺してしまう。
 ”だあ〜〜っ、こっちを向くなぁ〜っ!”
 と、本心は心底拒絶しているつもりなのに、ヘアクリップに変換された伊織の表現は、ほんの少し重衛氏から顔をそむけてうつむく程度にしかならない。
 これでは「恥じらい」にしかならない。
 でも、人の気持ちはもしかしたら「かたちから入る」ところがあるのかもしれない。
 うっかりすると、本気で「重衛氏にあこがれる女子高校生」になりかねないような気がして、伊織はまるでトイレをがまんするかのように、自分の気持ちをコントロールしようとしなければならなかった。
 一日中こんな感じだったので、もう本当に、へとへとになっていた。

 自分の気持ちにすっかり振り回されていた伊織には、その次に重衛氏が伊織の耳元で小声で言った言葉は思いもかけないものだった。
 「今の君が置かれている状況は、ストレスも大きいだろう。でも、しっかり『お仕事』をこなしていけば、『いつかは男に戻れる』からね」
 ”え……? この人、何を言っているんだ……?”
 一瞬、重衛氏の言葉の意味が伊織にはよくわからなかった。

 「このチームでプレイしていれば、ストレス発散にも少しは役に立つだろう?」
 じわりじわりと、わかってきた。

 直前まで、ついどぎまぎしてしまうほど素敵な存在と思えていた重衛氏が、一転、悪魔のように見えてきた。

 ”この人は、おれの正体を知っているんだ”
 伊織は、顔が首まで真っ赤になっていくのを感じた。

 「ああ、心配することはないからね。誰にも言ったりしないから」

 ”この人は、おれがどんな気持ちで何を考えているかもわかってしまうんだ……”
 必ずしもそうとは限らないのに、伊織の気持ちはどんどん高ぶっていった。

 練習が終わったのを見て、それまで観客席にいた真織がグラウンドに降りてきた。
 そうして、にこやかに言った。
 「伊織ちゃん、いきいきしていたよー。
 サッカー、似合うと思うよ、伊織ちゃんに」

 ――それは、あくまで励ましの言葉だったのだけれど。
 ――伊織だって、それはわかっているつもりだったのだけれど。

 「もう、決まりだね」
 と重衛氏。
 「来週からは、正規部員として来てもらえるね? ―伊織『君』」

 もう、がまんできなかった。

 「あーっ、もうやだーーーっ!!」
 言うが早いか、伊織はヘアクリップを髪の毛からひっぺがした。

 「ぶちっ!!!」

 髪の毛が切れる音……だけではない。他に、頭の中で何かもう一つ、切れたような音がした。
 気のせいとか「キレた」ときの擬音表現とかではない。
 本当に頭の中で「今までつながっていた何かの線が切れた」音だった。
 その音が少し気にはなったけれど、伊織にとってはそれどころではなかった。
 「おれ、もう、帰る!! いーかげんにしてくれっ!!」
 ヘアクリップを外しているのだから、当然、挙動が男っぽくなってしまっているのだが、本人はそんなことにはもう構いもせず、いかり肩になり、どすどすと足音を立ててグラウンドを出ていった。
 「ちょ、ちょっと、待ってよぉ!」
 慌てて真織も追いかけた。

 髪の毛が無理に引き抜かれると、少しの間は痛いものだけれど、じきに治ってしまう。
 しかし、今の伊織の頭の中では、何か修復しがたい痛みがいつまでも残っているようだった……

 翌朝。
 「うー……」
 いつもの数倍も寝起きの悪い顔で布団から顔を出した伊織を、シリアルが心配そうに眺めていた。
 聞こえるはずもないのに、どこからか「雨の日と月曜日は」という曲が聞こえてきているようだったが、伊織は残念ながら曲名を知らなかった。
 知っていれば、「今の自分にぴったりだ」と思っただろう。

§

 確かに、昨夜は寝つきが悪かった……
 久しぶりに、サッカーを「ちゃんと」やったのだから、それまであまり使わなかった脚の筋肉が突っ張っていたが、それもお風呂に入ってよくほぐし、さらに守衛氏の「マッサージ」で(^^; 心地よい疲労感に代わっている。
 体はちゃんと「眠いよ〜」と言っていた。

 でも。
 目をつぶると、どうしても、今日の出来事が思い出されてしまう。
 伊織は珍しく、いっぺんにいろんな感情に捕らえられて混乱していた。
 ”重衛の、ばかやろぉ〜〜っ!!”
 という怒り。
 ”真織さんの前で、なんてみっともないことをしてしまったんだ……”
 という後悔。
 これは、怒ってグラウンドを飛び出してしまったことに対して。
 でも、くよくよしているうちに自分でも気づいてしまったことがあった。
 ”おれ、もうだいぶ、この体に馴染んでしまっている……”
 本当に男に戻れるのかどうか。
 不安に駆られると、それがいちばん眠りを妨げるのだった。

§

 のそのそとベッドから這い出すと、伊織はまるで半世紀ぐらい年をとったみたいに億劫そうに着替え始めた。
 ほぼ着替えも終わり、ちらっと姿見を見る。
 「あ〜あ、何の因果でこんな格好に……」
 鏡に映った自分のスカートのところが目に入ると、さすがに自分の装いが女の子のものだということが気になる。
 「ま、いいや」
 なんだか自分がいつもより頼りないような気がしながら、伊織はヘアクリップを髪に留めようとした。
 「あ、昨日の……」
 無理にひっぺがしたので、ヘアクリップには髪の毛が二、三本、絡みついてしまっていた。
 それをいらいらと抜き取って捨てると、伊織はヘアクリップを装着した。

 ”――すうっ……”

 という装着感とともに、身体感覚が女の子にフィットし……ていない?!
 「あれ?」
 接続が悪いのかな、と、伊織は一度外して、もう一度留めてみた。
 ……
 だめだ。
 「あれ? あれれれ?」
 何度か同じような動作を繰り返してみたが、身体の中を何かが通り抜けていくような「あの」感覚は、いっこうにやって来ないのだった。
 「ということは……」
 伊織が我を忘れて呟く独り言を、シリアルが引き取った。
 「伊織、男の感覚のままでその格好してなくちゃならないんだ」
 その言葉で緊張の糸が切れたかのように、姿見の前に崩れ落ちる伊織であった……

 「おはよー♪」
 真織は伊織がとんでもない違和感に責められているとも知らずに声をかけた。
 「あっ、お、おはよう」
 落ち着きがないというかぎくしゃくしているというか、妙な身体の動かし方をして伊織は返事をした。
 「もう落ち着いた? ……って聞くべきじゃなさそうね……」
 「あっ、いいや、もうだいじょうぶだ、よ」
 口調もばらばらになっている。
  「まったく、重衛さん、……重衛おじさんも、おかしいよねー」
 相槌を打つ真織も、しかし「重衛」という名前にどことなく違和感があるらしく、「さん」と「おじさん」を付け直したりしている。
 ”そうじゃないっ。あれは「おばさん」だっ”
 言いたい気持ちは、今は抑えるしかない。
 「も、もういいん、いいのよ」
 ”またかよー……”
 男の意識で女の子の「身体感覚」に耐えるのは、正直言って懲りているのに。

 あの後現れたパラレルに、どうやらヘアクリップがとうとう壊れてしまったらしい、と告げると、パラレルは(案の定!)にこやかな笑顔を固まらせて言った。
 「まあ〜、壊れることなんて、あるはずなかったのに〜♪」
 「だって、これ、機械だろ?」
 「天界製ですから〜♪」
 「まさか、スペアがない、とか言わないよな?」
 「天界でもたった一つしかないんですのよ♪」
 パラレルは、天使の微笑みを浮かべた。
 この笑顔に何度騙されたことか……ああ、でも、気持ちが、和んでしまう。
 「だって、わたくしのお手製ですからね〜♪」
 このとき、シリアルの目には、伊織の全身がまるで灰でできているように見えたという。
 「修理には、そうですね〜、地上界で一週間ほどになりますかしら〜? それまで〜、大変かとは思いますけれど〜、 どうかご自分の意志でがんばってくださいましね〜♪」

§

 ヘアクリップなしの生活。
 第8話で、もう懲りているのに……。
 改めて考えてみると、ヘアクリップをつけていないときでも、伊織の体は「女の子」のままなのだ。
 動かし方がどんなに男のときのように戻ってしまっても、実際に動くのは「女の子の体」なのだ。
 男のようにあぐらをかく。
 腋を開いてご飯を食べる。
 床に置いてあるものをまたぐ。
 ヘアクリップをつけないでいる以上、男の身ごなしになってしまうのは無理もない。
 でも、あぐらをかいても、広い骨盤のせいか、なんとなくお尻が後ろに  出っ張っているみたいだ。
 腋は開いても、お箸を持つ指先のかたちはすらっとしたままだ。
 歩幅が狭くなっているので、ものをまたごうとするとすぐつっかかってしまう――だから、知らず知らずのうちに「またぐ」という動作じたい、しないように気をつけていた。

§

 ベッドの中。
 「このまま一生、女の子……」
 頭か体のどこか、というより、あちこちで
 「それも悪くないかな〜♪」
 というささやき声が、まるで伊織をからかうようにくすくす笑いしている……

 ”「パラレルワールド」っていうけれど、もしかしたら本当は、自分は初めっから女の子で、「元は男だ」と思うほうが単なる思い込みじゃないのか?
 ……でも、それじゃあ、パラレルやシリアルの存在は?
 ……―ううっ、あいつらのほうが、よっぽど非現実的じゃないか!”

 まるで模造紙に大きく書いて目の前にでかでかと貼り出すように、そんな思いが伊織の前に立ち塞がってしまったようだった。

 ”で、でも、じゃあ、なんでこんなに女の子の体に違和感があるんだ?
 ふつうにしていると、男の動きになっちゃうんだ?”
 
 ということは男だからだ、と思おうとしたが、夢の中で目の前のお菓子にどうしても一歩近づいて触れることができないのと同じように、どうしても確信が持てない。

 ”ち、ちがう、ちがう、おれは、おれは、……”

 「おれはオトコだぁ―――――っ!!」

 とうとう叫んでしまって、はっとした。
 早川家の人たちに聞こえたら、どうするつもりだ?!
 (もっとも、後で真寿美に
 「お芝居でも始めるの? わたしも高校生の頃は宝○に凝ったわぁ〜♪
 『君のためなら死ねる』って、知ってる?」
 と言われただけだったのだが)

 でも、はっとした気持ちの後ろから、堰を切って流れ出すように、伊織の脳裏に「男としての自分の人生」についての記憶が溢れ出してきた。

 ――小学校の頃、友達がマウンテンバイクを買ってもらってるのを見て、自分も買ってもらって乗れるようになり、何人かで町内をぐるぐる走りまわったこと――
 ――中学生の頃、Jリーグにあこがれて、好きな選手のチームのユニフォームをかたどったシャツを買い、家では毎日着ていたこと――
 ――……――
 ――……――

 ”そうだ、この記憶はおれのものだ……
 誰が何と言おうと、おれは男なんだ……”

 そう思うと、少し気が楽になってきたみたいだった。

 いつしか、伊織はゆったりとした、優しい闇の中へと沈んでいった……

 どんよりとした曇り空の下の、サッカー場。
 ”あれ? もう来ないつもりだったのに?”
 伊織はどうも合点がいかない。
 重衛「おじさん」と、その後ろにはチームの女の子たちが、伊織の目の前に立ちはだかっているようだ。
 「伊織『君』、君は男だったんだね?」
 「な、何を言うんですかあっ。ワタシは女ですよぉっ」
 必死で言い逃れようとする伊織。
 でも、女の子の口調を変に意識してしまい、すっかりわざとらしくなってしまっている。
 「でもね、君は体が女の子の体なんだから、女の子として生きていくしかないんだよ」
 重衛氏の言葉に、「うんうん」とうなずく部員たち。
 「で、でも……」
 伊織が言い淀むと、重衛氏はいかにも「わかっているよ」という「優しげ」な顔をして言葉を引き取った。
 「君は自分が男だ、という自覚を失いたくはないのだろう?」
 「は、……はいっ」
 思わず肯定してしまう伊織。
 部員たちが口々に言い始めた。
 「新米の伊織ちゃんが男の子だっていうのなら、いきなり監督にひいきされてるのも、私達、許せるかも」
 「サッカーチームにいたことはなかったんでしょう? 聞いちゃったよ」
 こ、これって、つるし上げじゃないか。
 よく見ると、部員の中に、女の子モードの芹沢、藤本、それに瑞樹と真織までいる。
 それにしても、第4話第5話では瑞樹と真織は男の子だったのに、今度は番外編と同じように、その二人も含めて、なんで全員が女の子のほうに偏っているんだろう?
 ……ああ、そうか、ここは「女子サッカーチーム」だから、か。

 重衛氏は、あくまで優しげな笑顔を崩さずに告げた。
 「伊織『君』、君が男としての自覚を失いたくないのなら、それに見合った『しるし』を身に付けてもらわないとな」
 「……」
 「体のかたちを変えることは未成年では許されていないから」
 どっからそんな話が出てくるんだっ。
 「服装で表すことにしよう。
 だが、チームのユニフォームを一人だけ着けないわけにもいかないから……」
 「……」
 「下着で表そう」
 「はあぁっ?!」
 「伊織『君』、そういうわけで、次の練習までにトランクスを買ってくるようにしてくれ。
 それを着けていれば、君は男子更衣室で着替えることが許される」
 「な、なんでそんな……」
 別に男子更衣室で着替えたいとは思わない、と言おうとしたが、口が思うように動かない。

 なんだか変だ。
 全てがちょっとずつ、筋が通っていないような気がする。

 でも、どうやらその場では、伊織はトランクスを買ってくることを引き受けてしまったのだ。
 なんだか夢でも見ているような気持ちで、……場面は変わって。

§

 そこは、天が丘高校の制服も手がけている、けれどもあんまり大きくない洋品店だった。
 伊織自身、中学も近くだったし、この店で買い物をしたことが、二、三度はある。
 「いらっしゃいー…… あらー、伊織ちゃんじゃないの、久しぶりねー」
 どうやら、店のおばちゃんの「設定」は、男・進藤伊織のいた世界と同じくらい、女・早川伊織を知っている、ということになっているらしい。
 伊織はさっさと男子下着売り場に入っていくと、いちばん手に取りやすいところにあったトランクスを、サイズも見ずにぱっと掴むと、さっさとレジのところに行った。
 「おばちゃん、これちょうだい!」
 伊織はもう、やけくそだったのだ。
 どうせ恥をかくなら、思いっきりかいてしまえ、という気持ちになっていた。
 なぜか、そのとき、「知らないところならいい」という「恥は掻き捨て」の気持ちにはならず、どういうわけか、ちょっと懐かしい感じのするこのお店にしよう、と思ったのだった。
 確か、いちばん最近入ったのは中学生の頃だった……

 店をご主人と二人でやっている、気のよさそうなおばちゃんは、ちょっと驚いたような顔をした。
 が、その次の瞬間、にっこり微笑んだ。
 「……はい♪」
 「はあああああああっっっっ……」
 伊織、安堵のため息をつき――
 「ね、おばちゃん、いいの?」
 まだ少し訝しい気がして訊いてしまった。
 「え? 何が?」
 「な、何がって、その、えっと……」
 伊織の様子を見ていたおばちゃんは、合点が行ったというようにまた微笑んだ。
 「あ〜あ、そうか。聞いてほしいような使い道なの?」
 「へっ???」
 真っ赤になっている伊織に、おばちゃんは軽くウィンクした。
 「贈り物でしょ? 最近、そういう子、よくいるのよねー♪」
 伊織がレジの下に崩れ落ちているのを不思議そうに眺めるおばちゃん。

 それでもどうにか包んでもらって支払いも済ませ、店を出て行く伊織の後ろから、おばちゃんがダメ押しの一言を告げた。
 「進藤クンによろしくねー♪ お幸せにねー♪」
 その直後、伊織が橋の上で顔を楕円形にゆがめて両手を頬に当てている姿を見た者がいたとかいなかったとか(by ム○ク)。

 後から思えば、なんだかパラレルにそっくりなおばちゃんであった。

§

 「うう〜〜ん……」
 気が付くと、伊織はベッドの中にいた。
 「あれっ?」
 確か自分はトランクスを買ったはず……と思ったが、それがつい今しがただったのと考え合わせると、
 「なーんだ、夢かあ……」
 
 頭がぽーっとしている。
 ”もうおれ、限界かもしれない……”
 そんなことを考えながら、着替えようと思ってチェストの引き出しを開けると。
 「あーっ!」
 伊織はまたびっくりしてしまった。
 ブラやパンティと並んで、下着を入れる引出しには、本当にトランクスが何枚か並んでいるのだ。
 「な、なんで、こういうことになってるんだ……?」
 ところが、びっくりするようなことに気が付いたはずなのに、伊織の意識は、またしてもぼんやりしだした。
 「おれ、まだ睡眠が足りないのかなー……」
 頭の片隅にそんな思いが浮かんで消えるうちに、伊織の意識は三たびどこかへ飛んでいってしまったようだった。

 「……り……おり……伊織ちゃん!!」
 伊織が目を覚ますと、真織の顔が目の前にあった。
 さっきまで「男に戻る」だの「トランクス」だの、変な夢ばっかり見てしまったせいか、「男の自分」と真織が同じ部屋にいて、しかも真織は自分の体に覆いかぶさるようにしているのが、思いっきりどぎまぎしてしまう。

 「な、何ですかっ、真織さん?!」
 とっくに卒業したはずの、「告白できっこない口調」が一瞬とび出てしまう。
 「何言ってるの! もう遅刻しちゃうよっ!」
 時計を見ると、もう7時40分。
 今すぐ起きても間に合うかどうか、という時刻になってしまった。
 慌てて着替えて、伊織は朝食もろくにとらずに神社を飛び出す羽目になってしまった。
 「行ってきまーーす!!」
 付き合って待っていてくれた真織と一緒に駆け出す。

§

 学校まで全速力ダッシュしたのだから頭はすっきりしてもよさそうなのに、ギリギリセーフで教室に駆け込んで息を整えていると、伊織はまた、鼻の奥のほうから眠気が蘇ってくるのを感じていた。
 ”おっかしいなあ……そんなに疲れているのかなあ……”
 何度もあくびをかみ殺していたが、古文の教師には何度かにらまれてしまった。

§

 金曜日の三時間目は体育だった。
 せっかく夏なんだから、第8話みたいに水泳の授業だったら、このお話にも読者がより楽しめるような要素が盛り込めたのだろうけれど、残念ながら今日は体育館で器械体操だった。
 眠気はあるものの、熱があるような感じはしないし、頭が少し痛いけれど、それも眠気のせいだろう。
 ”あ〜あ、なんだか乗り気がしないなあ”
 そんなことを思いながら、更衣室へ。
 ―男子更衣室?―
 この体で男子更衣室なんて、とんでもないっ。
 当然、女子更衣室へ。

 ぼおっとしながら着替えを始めると、左隣のロッカーを使っている子が伊織のほうをじっと見ているのに着がついた。
 ”な……なんだよっ”
 すると、右隣の真織が叫んだ。
 「い……伊織ちゃん!」
 「……え?」
 「と……トランクス!」
 「へっ?」
 伊織は、左右の視線をたどって下を向いた。
 ……
 「と……トランクスぅ?!」
 ”なぜにおれがトランクスを?!”
 つい叫んでしまった声を聞いて、みんなの視線が伊織に集中する。
 伊織は、頬、耳、目の周り、と次々に熱くなっていくのを感じた。
 しまいには、耳の付け根から首まで、かーっと熱くなっていくのがわかった。
 周りのみんなも、声を失っている。
 
 伊織はなぜか、のろのろとスカートをはきなおした。
 それから、やにわに両手を肩のすぐ前で握り締め、その肩をすくめて一言
 「やだっ!」
 と小さく叫ぶと、更衣室を飛び出していってしまった。
 「い、伊織ちゃん、いったい……」
 その場のみんなが再び動き出すのに、あと1分30秒は必要だった。

§

 どこをどう通ったのか、ぜんぜん覚えていなかった。
 いつのまにか、伊織は屋上の貯水タンクにもたれて、ぼ〜っと空を眺めていた。

 「あ……」

 急に気が付いた。
 いったん目を覚ましたときにチェストを見たらトランクスがいっぱい入っていたのは、あれだけは夢じゃなかったのだ。
 それに続けて、「なぜチェストにトランクス?」とかいうことを、もっと考えなくちゃいけないのかもしれなかった。
 でも、今はそれ以上考える気にはなれなかった。

 初夏の風が、耳元をくすぐっていく。
 さっきはあんなに熱くなってしまった耳や首筋も、今はすっかりおさまっている。

 この、体の感覚は、「女の子」のものなのだ。
 今の伊織は、女の子の体に閉じ込められた男の子なのだ。

 別に、それだから「おれってかわいそう」とか、思ったわけではなかった。
 なのに、どうしてか、伊織の目からはいつしか涙があふれていた。
 後から後からあふれる涙と嗚咽に、伊織は身をまかせることしかできなかった。

 なぜ悲しいか、なんてことはどうでもよくなってしまっていた。

 この涙で自分が浄化されるのかもしれない、そんなふうに感じていたのかもしれない。
 でも、決して「穢れているから浄化されなければ」などと思っていたわけでもなかった。

 もしかしたら、初夏の風のせいかもしれなかった。 

§

 「あ、いたいた」
 貯水タンクのところまで登ってくるのは、パラレルと瑞樹ぐらいしかいなかった。
 パラレル―男の伊織の姿をしている―は、ふだんはそれほど瑞樹と行動をともにしない。
 今は、瑞樹が一人でやってきたのだった。
 「伊織のことだから、こんなところでべそかいているかもしれない、って思ったら、やっぱりな」
 「う、うるさいっ」
 ぐずっ、と鼻をすすりながら、伊織はちょっとすねた。
 そむけた伊織の顔を、瑞樹が覗き込むようにした。
 「見るなよっ」
 伊織は涙と鼻水でぐしゅぐしゅになった顔を見られたくなくて、また顔をそむけようとしたが、ちらっと見えた瑞樹の表情が思いがけなく心配そうなのに気が付いて、瑞樹のほうへ向き直った。

 真顔の瑞樹と、ちょっとびっくりした顔の伊織が向き合う。

 「あたしも『男女』って言われるけど――」
 低い声でいいかけてから、瑞樹はちょっとためらった。

 それから、急に口調を変えて明るく言った。
 「あたしね、五歳になるまでお兄ちゃんがいたんだ」
 伊織には初めて聞く話だった。
 進藤伊織と笹島瑞樹は「幼馴染みの腐れ縁」みたいなつきあいだが、実際には小学校に上がってから知り合ったのだった。
 「小学校六年生だったから、六、七歳離れてたんだよな。
 どっちかといえば、伊織みたいなタイプだったなあ……」
 瑞樹の口から「伊織」という名前が出て、こんなに「どきっ」としたことはなかった。

 「五歳になるまでって?」
 気持ちを元に引き戻したくて、伊織は一つ前の瑞樹の言葉に拘った。
 「ああ、交通事故で死んじゃったんだよ。あたしの目の前でね」

 いつも強気に見える瑞樹に、そんなところがあったなんて、と伊織は思った。
 けれど、瑞樹は別に、悲しそうな顔をしているわけではない。
 「自動車に跳ね飛ばされて、倒れたときに手の先があたしのほうを向いたんだ。
 そしたら、お兄ちゃんの気持ちがあたしの中にすうっと入ってきたんだ」
 瑞樹はさばさばとした口調で続けた。
 「それ以来、あたしはこうさ。
 あの時、お兄ちゃんは自分の分まであたしに生きろって言ってたような気がする。
 別にそのことに縛られているとは思わないけれど、あのときから、あたしはお兄ちゃんのものの見方や感じ方がわかるようになっちゃったんだ」
 それから、瑞樹は半歩、伊織に近づいた。
 「あたしはこれでいい」
 瑞樹は腰に手を当てて、顔を伊織にぐっと近づけた。
 「でも、伊織、あんたはどうなんだ?」

 ぐさあっ。

 瑞樹はこんなことを言うやつだったのだろうか。
 少なくとも、今までのお話の中ではこんなことを言うタイプではなかった。
 「今、そんなことを言う必要、ない、だろ……」
 せっかくおさまりかけた涙が、またあふれてきてしまった。
 すると。

 すっ。

 瑞樹が、伊織の肩に腕を回したのだ。
 瑞樹のほうが、今の伊織よりも少し背が高い。
 それで、伊織の耳のあたりが、ちょうど瑞樹の肩に乗っかる格好になった。
 瑞樹は伊織の頭を自分の肩にぐいっと押し付けた。

 「あっ……」

 伊織が小さく声をあげるのにおかまいなく、瑞樹はそのまま伊織の髪の毛をくしゃくしゃっと掻き回す。
 「な、何をする……」
 伊織はちょっと抵抗した。

 それでも、瑞樹はぶっきらぼうに伊織の頭を自分の肩に押し付けた。
 伊織の耳に瑞樹の肩がかぶさって、瑞樹の体の中の音が聞こえてきそうだ。
 瑞樹の体温が伊織に流れ込んで来たような気がした。
 その温かさは、まるで伊織の心の中でまだ凍りつかせたまま残っていた何かを、すっかり解かしてしまうかのようだった。

 伊織はもう、なんにも言えなくなった。
 ただ瑞樹の肩にすがって泣いた。

§

 結局、体育の授業はさぼったことになってしまった。
 それに、仕方ないのだろうが、「早川伊織が男物のトランクスをはいた」という噂がたち、縮めて「トラ女」というありがたくないあだ名を頂戴してしまった伊織だった。
 こんなに恥ずかしい目に遭ったのは、第7話以来のことだった。

 なお、この事件をきっかけにして、クラスの「ジェンダーフリー化」が進み、ずっと思いを打ち明けられなかったレズの子が、好きな女の子にとうとう告白した、ということがあったようで、それはそれで一つの「お仕事」になっていたらしい。
 でも、そんなこと、伊織には気付いている余裕なんかなかった。

 家に帰ってきてようやく、伊織はおかしいと気がつきながらそれっきりにしていたことを考える気になった。
 チェストにはもともと、男物の下着なんか一枚も入ってはいなかったはずなのだ。
 それなのに、なぜか、どう見ても男物のトランクスが、三、四枚、しっかりたたんで入っているのだ。

 パラレルに聞いてみようと思ったが、ここ数日間、全く姿を見ない。
 きっと、壊れたヘアクリップを修理しているのだろう(手作業で!!)。
 シリアルが何かわかるかも、と思って、昼寝をしているところを起こして聞いてみた。
 「さあねえ……」
 丸くなったまま、首だけ持ち上げて大きくあくびをすると、シリアルは少し耳をそばだてて考える顔になった。
 そうして、考えながら言った。
 「一つだけ言えることがあるね。
 シードの力は大きいけれど、伊織の『願い』の力も、もしかしたら伊織が思っているよりも大きいのかもしれないね」
 そうして、目を細めながら頭を下げ、再び寝る体制に入りながら付け加えた。
 「コントロールできるかどうかが問題だけれどね……」

§

 その日の夜。

 コン、コン。
 真寿美が伊織の部屋の扉をノックした。
 「伊織ちゃん、電話よー」
 「電話」と聞いてぎくっとする伊織。
 でも、 そんなの、まだ序の口だった。
 「『衛子おばさん』から、あなたにって」
 「えっ、誰?」
 伊織は思わず聞き返してしまった。
 「だから、ほら、豊急女子FCの監督の」
 「はいっ????」
 伊織にはなんのことかさっぱりわからなかった。
 ”『重衛』じゃなかったのか??”
 
 伊織がおっかなびっくりで受話器を取ると、電話の向こうからは、はきはきした女性の声が聞こえてきた。
 「ああ、伊織『ちゃん』?
 あれから、どう?
 サッカー、続けたいと思わない?
 この前は、ちょっと嫌な思いをさせちゃったよね。
 いきなりパス、シュート、ドリブル、ぜんぶやらせちゃったもんね。
 でも、自己流だけれど、伊織ちゃん、やっぱりセンスあるわよー、ぜったい!」
 「……」
 伊織は何も答えられずにいた。
 「まだ気にしてるのかなー。
 でもね、わたしの目には、あなたが本当は思いっきり体を動かしたい、って思っているように見えたのよ。
 毎週日曜日に市営グランドで練習やっているからさ、よかったらまた,気軽においでよ!」
 伊織があいまいなあいづちしかうたないのは気にもせず、言うだけ言うと電話は切れた。

 でも、伊織には、なんだかそれが小気味良い感じに思えた。

§

 「……な、何、これ??」
 伊織は周りじゅうを花に囲まれているのに気がついて目が覚めた。
 薄紫色の小さな花が穂のようについた花だ。
 
 慌ててがばっと起き上がってもっと周りを見回してみると……

 自分のすぐ周りは一面に薄紫色だけれど、もう少し離れたところには黄色い花でびっしり埋まったところがある。
 ……まるで、決まった色の巨大な絨毯が何枚も敷き詰めてあるように見える、そこは一面のお花畑だった。

 「な、なんで、おれ、こんなところに……?」
 いるんだよ、という言葉を伊織は飲み込んだ。
 ”また夢オチかよ”
 その後に「この作者、他に能がないのか」という言葉を続けると、まだ何か、もっと恥ずかしい目に遭わされるのでは、と用心して、頭に思い浮かべかけた言葉をかき消すように頭を振る。
 ”それにしても、こんなところで何があるんだろう……?”
 と、きょろきょろしてみても、とにかく一面のお花畑以外は何も見えない。

 ――きれい。

 夢の都合の良いところは、そこに青空が似合うような気がしたら、後から青空が現われてくれることだ。
 抜けるように真っ青な空の下の、薄紫色、黄色、真っ赤な色、ピンク、水色、……色とりどりの鮮やかなお花畑は、見ている伊織が「男か、女か」に関係なく、とにかく「きれい」だった。
 伊織自身、そんなことはもう頭から離れてしまって、ただそのお花畑に見とれていた……

§

 そんなにすがすがしい夢を見ることもできて、翌朝の伊織はさぞかしすっきりした気分で目覚めることができるかと思ったら……

 「来ちゃった……」

 お話の都合で今までいちいち触れては来なかったが、高校2年生の健康な女の子の体を持っている伊織には、もうきっちり確立した周期をもった「あいつ」が「必ずやってくる!」のだった。
 汚れたショーツを水洗いしながら、伊織はふと思った。

 ”トランクスじゃなくてよかった”

 重なっていたら、ちょっとここに書けるようなお話ではなくなってしまっていたかも。
 周期は確立しているものの、伊織自身の人生の中で、生理を経験するのはまだ3度目のことだ。
 女の子の体の面倒くささに、どうしても馴染めない気持ちが強くなってしまうからかもしれない。
 少しずつ強くなっていく下腹の鈍い痛みが、よけいに重く感じてしまうのだった。
 ”余計な言葉は飲み込んでるのに〜〜……”

§

 そうしてまた、日曜日がやってきた。
 衛子おばさんからの申し出があったものの、今日はとてもじゃないけれどサッカーの練習になんか、行けはしない。
 あれからもう一度、中身をよくチェックしたチェストの中から見つけた、ピンクの木綿のネグリジェを着たまま、「憂鬱な2日目」を迎えた伊織だった。

 とっても久しぶりに、パラレル登場。
 ほとんど毎日会っていて、ある意味「家族の一員」みたいな感覚さえ芽生えていたので、ほんの数日会わなかっただけでも、なんだか懐かしいような気がする。

 「ようやく直りましたでございますですのよぉ〜♪」
 パラレルがヘアクリップを差し出す。
 「や、やっと……」
 伊織はまるで、生き別れになっていた母と十数年ぶりで再会したみたいに、震える手でそれを受け取った。
 「ああ、この感触……
 ふつうの髪飾りにしては隙間にLEDや液晶がチカチカ光っていて、それでいてちっとも重たくない……
 やっとこれで、おれの安心の素が戻ってきたんだー……」
 伊織はさっそく、受け取ったヘアクリップを髪に留めてみる。

 ”――すうっ……”

 体の中を何かが通り抜ける感覚。
 それとともに、伊織の気持ちと体は、見事にフィットして、伊織の考えることはごくごく自然に女の子らしく表現されるようになった。
 知らず知らず、伊織は心もち背筋をしゃんと伸ばした。
 いろいろと問題はあるものの、女の子の身体感覚を受け入れて、「自分の体」という一体感を持つことができる、ということ。
 それは、今の伊織にとっては大きな落ち着きをもたらすものであることに、違いはない。
 もちろん、それで生理痛が少しでも和らぐわけではなかった。
 伊織の自意識の根底にある「自我」が変わっているわけでもない。
 それでも、「自分の体」ということを実感できるのとできないのとでは、大きな違いがあるものだ。

 「ね、一つ聞いてもいい……?」
 伊織がパラレルに、おずおずと聞く。
 「このクリップ、どこが壊れていたの?」
 パラレルは我が意を得た、とばかりにしゃべり始めた。
 「まあっ、よくぞ聞いてくれたでございますですわね〜♪
 わたくしの緻密な観察と細心の注意で、ようやくわかったのでございますですわぁ〜♪
 ここの金具に、」
 急に「金具」というやさしい言葉がでてきて、「あらっ」とこけそうになる伊織。
 「髪の毛がまだ、残っていたのでございますですのよ〜♪」

 「〜〜〜〜〜〜〜〜#!!」

 危うく、伊織はまたしてもヘアクリップを引きちぎってしまうところだったが、かろうじて踏みとどまった。
 一瞬、「今は女の子の感覚を信じて過ごすしかない」という思いが、体中を駆け抜けたようだった。

 伊織は頬を膨らませてくるっ、とパラレルに背中を向けた。
 「もぉっ!!」
 でも、パラレルは相変わらず能天気に
 「あら〜、ちょっと曲がっていますですわよ〜♪」
 と、ちょうど自分のほうを向いたヘアクリップを直してくれた。

 そのとき、ちらっと見えた。
 パラレルの指先に、細かいささくれがいっぱいできているのを。
 伊織の心の水面に、水滴が一滴、

 ポチャーーン……――

 と落ちて、きれいな波紋の輪を広げていくような気がした。

 「はい、できましたですわよ〜♪」
 パラレルが伊織の肩をぽん、とたたく。
 伊織は素直に
 「ありがとう」
 と言った。

§

 「ところで、」
 伊織は気になっていることをもう少し、聞きたかった。
 「こないだパラレルが言ってた『点数』のことだけど、……確かめてくれた?」
 するとパラレルは悪びれもせずに答えた。
 「ああ、忘れておりましたわ〜♪
 クリップ直しで夜なべして♪」
 ここでなぜかパラレルは、「縫い物」のしぐさをする。
 「そ、それ、なんか違わない?」
 コケながら、伊織、必死で突っ込む。
 「気持ちの表現でございますわあ〜♪」
 うう〜ん、ああ言えばこう言う……(-_-;
 思わずため息のもれる伊織。
 「はあ〜…… それから、『重衛おじさん』、ちゃんと『衛子おばさん』に戻ってたけど、あたしはもう気にしなくていいの?」
 「ああ、それはですねえ〜、奇跡が起きたのでございますですのよ〜♪
 わたくしがなんとかしてもう一度デバッグできないかと衛子さまの設定を開いていたらでございますね〜、急にデバッグが完了してしまったのでございますのよ〜♪」
 いかにも「実は機械音痴なのでは?」と思わせるセリフだ。
 「じゃあ、そのときにトランクスも……?」
 「え……?」
 パラレルの笑顔がフリーズした。
 「……知らないの……?」
 パラレルの額に、大きな水滴が一滴、光った。
 「それはですねえ〜、ありがちなことなのでございますですのよ〜♪
 シードはときたま、暴走しますですからね〜(^^;」
 ……ここだけ文末の記号が違うぞ。
 「それで大陸が消滅したりするからね……」
 シリアルが耳を立てて言う。
 でも、よく見ると、いささか毛も逆立っている。
 
 ……ぞぞっ。
 「そういうことって、防げないの……?」
 とーっっても悪い予感がしながら、伊織が聞く。
 すると、パラレルは元の笑顔に戻って言った。

 「それはでございますですね〜、イオちゃん次第なのでございますですのよ〜♪」

 深いため息をつく伊織であった……

第10話 おわり / 第11話へつづく


第11話☆予告

やれやれ……あ、どうも。シリアルです。

瑞樹ちゃんの言葉、気になりますよね……

それに、芹沢と瑞樹ちゃん、あれからけっきょく進展はないんでしょうか。

読者の皆さんから、そういうお便りが多数寄せられています。

そんな疑問にお答えする、次回

第11話「ワルキューレの心」

えっ、ついに「シードの力」の秘密も……?

あっ、それは言っちゃいけないんですよね、まだ。

お楽しみに


『天使のお仕事 ――The Angelic Calling 』第10話、いかがでしたでしょうか?
 受難続きの伊織ちゃんですけれど、彼女のいえ彼の精神はもつのでしょうか?

それにしても、私のお話はいつも「萌える」要素がほとんどないですよねー。
 それに、今回は他の登場人物もほとんどちゃんと出てこず、ほとんど伊織の「一人芝居」になっちゃったし。

 でも、たまにはこういうお話もアリかなー、ということで。
 まあ、私が楽しみながら書けたから、それでいいのかな、と♪ (,_'☆\ バキ

このお話に最後まで懲りずに(?!)おつきあいいただけました皆さま、本当にありがとうございました。m(__)m
 いつかどこかで、またお目にかかれれば、きっと私はとっても嬉しいことでしょう。

 それまで みなさま ごきげんよう♪

里花


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