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奇術
作:八重洲二世



 夏も終わりだというのに、じりじりと強い陽射しが照りつけるような日。
 とぎれがちに消え入る蝉の声を聞きながら、じっとりと汗ばんだ肌を拭う。
 そんな日には、思い出さずにはいられないのです。
 あのときの出来事を……。
 これからお話ししようとする私の体験談は、あまりにも奇っ怪で、読者諸氏の中には貧乏書生の妄想の産物と思われる方もおられましょう。ですが、これは本当に起こったことなのです。白日夢の類にしては、あまりにも生々しすぎる感覚がいまでも私の躰に刻み込まれているのです。ああそれでも、分裂症の患者は決まって自らは正常であると思いこんでいるという話を聞いたことがあります。あるいは、あれは全て、鬱屈とした日常が私に見させたひとときの幻だったのかもしれません。いまとなっては、私にとっても確かなことは何一つ言えないのです。夢であったとも、うつつであったとも……。私はただ、ありのままを(或いは、そうだと思いこんでいる事柄を)、記すこととします。それが現実の出来事であったのか、はたまたねじくれた空想力の産物であったのか。その判断は読者諸氏に仰ぎたいと思うのです。

 なんて、陽射しだろう。
 そう、口に出してつぶやいたことを覚えています。
 うだるような暑さでした。まるで日付がひと月近く逆戻りしてしまったようでした。ただ弱々しい蝉の声だけが正しく季節を告げていました。
 私は、物理学に関する洋書(それは統計熱学を扱った専門的なテクストでした)を小脇に抱え、道を歩いておりました。書生仲間に借り受けていた本を返すため、彼の下宿を訪れる約束になっていたのです。
 昼日中だというのに、通りにはほかに人影が見当たりませんでした。そのせいでしょうか。自分の息づかいと足音が奇妙に拡大されて聞こえました。ときならぬ強烈な陽射しにやられたせいだったのでしょうか。不意にくらり、ときて私はあわてて足を止めました。
 そのとき、はじめて気づきました。
 いつのまにか、私は見知らぬ通りを歩いていたのです。
 やはり暑さで、ぼうっとしていたのでしょう。道を折れるのが通り一つ分早かったか遅かったか、そんなところだろうと見当をつけました。道を戻るのも億劫だったので、私はそのまま道を進んでいきました。おおまかな方角は間違っていないと思ったからです。
 さらに幾つも知らない路地を折れ曲がり、薄暗い裏路地をくぐりぬけました。どこかでラッパの音色が響いていました。突然、ぽっかりと目の前がひらけました。そこには、木造の芝居小屋が建っていました。いくぶん古びた芝居小屋ですが、小屋と言ってしまうのは憚られるほどしっかりとした作りです。芝居小屋の前では、どこの国のものとも分からないよれよれの軍隊服を着た小男がラッパを吹いていました。古式な軍隊が使いそうな信号ラッパみたいでした。小男の仕草はどこか滑稽です。わざとぎくしゃくしたり、つまずきそうになってみたりしています。顔を白く塗りたくったりはしていませんが、男は道化師だったのです。道化師が、ラッパを吹いて客寄せをしていたのです。ラッパは陽気なマーチを奏でているのに、その音色はどこかもの悲しくそして歪んで聞こえました。
 私は、額に浮き出ていた汗をさっと拭いました。
 すると、道化師は私を見ました。ラッパを脇にはさみ、無言で私に頭を下げるのです。そして、道化師は無言のまま芝居小屋の入り口を指し示しました。
 私はためらいもなく、小屋に足を踏み入れてました。そのときの私には、そうすることが自然なように思われたのです。友人との約束を忘れたわけではなかったのですが、別に一刻を急ぐこともないと思い、小屋の中でどんな興行が始まっているのか見ていこうという気になったのでした。入り口脇に座っている男に見物料を払い、薄暗い客席に進みました。
 上演されていたのは、奇術のショーでした。
 舞台の上では、初老の男が、お決まりの鳩を使った奇術を披露しているところでした。空っぽの筈の手の中から、二羽三羽と鳩を取り出してみせるのです。
 客席は八分の入りといったところで、ぽつりぽつりと空席がありました。そのうちの一つに私は腰を落ち着けました。
 男の奇術は見事な腕前でした。鳩を取り出すのも消してしまうのも、自由自在なのです。それどころか、男がえいと気合いをかけただけで生きて動いていた鳩が人形に変わったりもしました。目を凝らして見ていたのに、どんなトリックが用いられていたものやら皆目見当がつきません。こんな場末の芝居小屋には勿体ないほどの見せ物でした。
 しばらくすると、もっと大がかりな奇術が始まりました。人間大砲の奇術です。体にぴったりとした軽業師のような舞台衣装に身を包んだ若い娘が舞台袖から颯爽と現れました。風采の上がらない白髪まじりの奇術師と並ぶと、彼女の若さと器量の良さは一層強調されるようです。そこへ張りぼての大砲が運び込まれます。同時に舞台の反対側に大きな木箱が用意されました。
「さて、お立ち会い。これなる美女を大砲の筒にこめ、ずどんと撃ちだし……皆様の目にも止まらぬほどの超高速にてあちらの木箱に打ち込めて御覧に入れましょう。うまく行きましたら、御慰み……」
 奇術師の前口上が終わるやいなや、舞台が暗転し、スポットライトが娘ひとりを照らし出しました。娘は観客に一礼し、自ら大砲の筒に潜り込みます。この類の奇術の種は、たいがい舞台の下に秘密の通路が通っていて、大砲の中から木箱まで自由に行き来できるようになっているとか、そのようなものです。以前に目にした瞬間移動術なる奇術も同様の仕掛けを私は見破ったことがあります。ところが、舞台の上に出ている木箱には短い脚がついていてわずかに舞台床から浮いているのです。これでは、お馴染みのトリックは使えないわけです。私は固唾をのんで舞台を見守りました。
 奇術師が「えい」と叫びざま紐を引くと、大砲が火を吹きました。芝居小屋の中にずどん、と重い音が響き渡りました。かすかに火薬の匂いが客席にまで届きました。
「あまりの超高速のため、美女は針ほどの穴をあけただけで、こちらの箱に移ったのでございます。おや、お疑いのむきも少なからずおられるようだ。それでは、論より証拠……」
 三つのスポットライトが、木箱の上に集まります。再び、奇術師が「えい」と叫ぶや、自然と木箱の前面がぱたんと手前に倒れ、中から先ほどの娘が姿を現したのです。奇術師と娘がそろって、頭を下げてみせると、客席は大いに沸き、拍手喝采に包まれました。ふだんは、皮肉っぽく小理屈をこねてばかりの私ですが、このときばかりは熱心に拍手を送ったものです。
 ようやく拍手がなりやむのと前後して、大砲と木箱は運び去られ、かわって棺桶を立てたような黒塗りの箱が二つ、運びこまれました。小道具として、奇術師はテーブルの上に薄いギロチンの刃のような刃物を何枚か取り出しました。いったい、それで何を始めようというのでしょうか。私は興味津々で見守りました。と、奇術師は虚空からつかみとるようにして、鳩を一羽掌の上に出現させました。それを、ばっと客席に向かって抛るのです。
「次の奇術は、お客様方のどなたかに御協力をお願いいたします。この鳩の選んだお客様には、ぜひとも舞台に上がっていただきますよう、お願い申しあげます」
 はばたくことに慣れていないものか、鳩は不器用にばたばたと飛びます。次に、思いもかけないことが起きました。鳩は客席を半ばまで横切って飛んだ後、力尽きたように、なんと私の肩の上にとまったのです。私はびっくりして、鳩と舞台上の奇術師とを交互に見やりました。
「そちらのお客様。よろしいでしょうか?」
 私は、うなずいて立ち上がりました。
 名状しがたい高揚感のために、そのときの私はほとんど躊躇いを感じませんでした。せっかく見事な出し物が続いているのに、私のせいでだんどりが狂うようなことがあっては勿体ないという気持ちもありました。例の娘が舞台から身軽に飛び降りて、私の席までやってきました。軽業師風の娘に、手を引かれて、私は舞台上にあげられてしまったのです。これから何が起きるのかと緊張しながら、私は客席を見下ろし、あるいは左右をきょろきょろと眺めたりしていたように思います。奇術師が口上を述べます。
「さて、これからお目にかけますは、世界広しといえども二つとない不思議きわまる大奇術だ。さあさ、お立ち会い。まずは、こちらのお客様に、この箱の中に立っていただきます」
 口上に合わせて、助手の娘が黒塗りの箱に手をかけました。箱の前面がドアのように蝶番で開く仕組みになっていました。娘に促されて、私は客席の方を向いたまま背中から箱に入りました。縦にした棺桶に躰を入れるようなものです。いくぶん、窮屈でしたが、躰がすっぽりと収まりました。その途端、ばたんと箱の扉が外から閉められました。当然のことながら、何も見えなくなります。突然のことに、私はうろたえました。それを察したというわけでもないのでしょうが、ちょうど目の高さに設けられていた小窓がさっと引き開けられました。これで、私は箱の中からある程度、外の様子を眺めることができるようになったのです。小窓からのぞくと、もう一つの箱に娘が自ら入っていくところでした。そのために、黒塗りの箱が二つ、用意されていたというわけです。
 やおら、奇術師はテーブルに置かれていた板状の刃物を一枚、手につかみました。五、六〇糎四方はあるような金属板です。随分と重量があるに違いありません。それが偽物の刃でないことは、間近で見ている私にはすぐ分かりました。底光りする鋼は鋭利に研ぎ澄まされています。正直言って、ぞっとしました。身動きがならない状態でいるときに、すぐそばで刃物が扱われていれば誰でも肝が縮む思いがするのではないでしょうか。
 奇術師は、刃を横にして、私の目の前に近づいてきます。私は一生懸命、自らに、これは見せ物なのだからと言い聞かせました。刃がぴたりと箱の前面に押し当てられました。刃の横幅は、箱とちょうど同じになるよう作られていました。それはちょうど、私の頸のあたりの位置です。「えい」と例の短い気合いを発し、奇術師はぐっと刃を押し込みました。すると、なんということでしょう。刃はいとも簡単に、ずぶずぶと箱に吸い込まれたのです。ということは、中にいる私は、刃によって頸から上と下に両断されたことになります。もちろん、実際には痛みなど感じませんでした。どういうトリックによってか、刃が私の身体を避けるようになっていたのでしょう。それにしても、凄まじい奇術です。観客も、固唾をのんで成り行きを見守っているようでした。客席がひととき、水を打ったように静かになりました。奇術師は、次にもう一枚の刃を、箱の下の方にあてがいました。今度は、私の膝のあたりです。またもや「えい」の掛け声で刃はずぶずぶと根本まで箱にめりこみます。箱の小窓から覗いている私は刃が押し込まれる瞬間、思わず目を閉ざしていました。ですが、無論のこと、なんともありません。奇術師はその場にかがむと、私の膝から下にあたる部分だけ、箱の蓋を開きました。刃がその高さで水平に箱を切断しているので(少なくとも外見的には)そんな芸当ができるわけです。私は奇術師の意図をくんで、少し脚を動かしてみせました。とたんに、客席がざわざわとしました。「どういう仕組みになってるんだ」という声も聞こえてきました。何を隠そう一番それを不思議に思っていたのは、箱の中に入っていた当の私だったのです。狭い箱に押し込められて身動きもならず、箱の中であの刃がどうなっているのか確かめることすらできないのです。
 改めて蓋を閉じると、奇術師は私の腹のあたりに、三枚目の刃を押し込みました。これで私は、黒塗りの箱ごと、頭、胸、腰、脚の四つの部品に寸断されてしまったことになります。奇術師は上から順々に、戸棚を開けるように箱の蓋を開いては、私の身体の各部分を客に見せていきました。生きているバラバラ死体、といった趣向でしょうか。次に、奇術師は新たに三枚の刃を取り出し、助手の娘が入っている箱にも同じ操作を施したのです。私は覗き窓から一部始終を見ていました。まったく不思議な光景でした。巨大な剃刀にも似た刃物がぐいぐいと箱に食い込んでいきます。ある意味で凄惨な見せ物です。これが奇術でなければ、箱の中で彼女のやわらかな肉体は無惨に切断されていることでしょう。
 奇術師は刃を使い果たしたところで、演技がかった仕草で額の汗を拭いました。反応をうかがうように、客席を眺め回します。それから、この奇術師は私の方へ近づいてきました。覗き窓から奇術師の白髪まじりの頭が間近に見えました。奇術師は、私の入っている箱に両手をかけました。箱は四つの小箱に分断されています。そのうち、上から三つ目の小箱に手をかけたのです。ちょうど私の腰のあたり相当する位置です。奇術師は、ぐいと腕に力をこめました。「あっ」。思わず短い叫びをもらしてしまいました。小箱が、後ろにずれたのです。奇術師が両手で押すと、さらに小箱は外側へ押し出されていきました。一体全体どうしてそんなことが可能なのでしょう。私の体は本当に四つの部分に断ち切られているのでしょうか。そんなありえない想像が頭をかすめました。私の当惑などおかまいなしに、奇術師は小箱を押し出していきます。私はまるで自分がだるま落としの玩具になったような気分を味わいました。ついに、ごとん、という音が重々しく響きました。私の腰が入っているはずの小箱が、全く切り離されて床に転がったのです。なんという猟奇的な趣向でしょう。なによりも不思議なことに、真ん中の小箱が完全に押し出されてしまったのにもかかわらず、箱の上半分はそのまま宙にとどまっているのです。奇術師は、一番上の小箱の蓋を開け放ちました。私の首から上が観客にさらされます。観客はどよめきました。バラバラにされた箱の中で私の首が生きて動いているのですから、当然といえば当然の反応です。私は精一杯頭を突き出して、箱の外側から様子を覗きました。外からはどんな風に見えているか、知りたかったのです。私の目に映ったのは、まったくもって物理法則を無視したあり得ない光景でした。黒塗りの箱の途中がぽっかりと、抜け落ちているのです。それはつまり、箱に入っていた私の腰から股にかけても消えてしまったということを意味します。箱の切断面が四角く口を開けているはずなのに、実際には切断面はつるりとした表面の黒塗りの箱の一部と化していました。まるで最初から四つの小さな箱が縦に積み重ねられていだけだというように。
 次に奇術師は、娘の入っている箱に向き直り、やはり腰のあたりの位置に手をかけました。今度は押し出すのではなく、逆に引っ張る動作です。奇術師は、巧妙極まるトリックによって、娘の下半身が入っているはずの小箱を抜き取ってしまいました。抜き取った小箱をどうするのかと見ていると、奇術師は思いもかけぬことをはじめました。彼は小箱を私の箱の空白部分に埋め込んだのです。小箱はぴったりと空白部分に収まりました。部品をすげ替えるように、娘の体の一部を入れた小箱が、私の胴と脚の間に埋め込まれてしまったのです。そこで奇術師はいましがた埋め込んだばかりの小箱の扉を開きました。ああ、なんという信じ難い、夢幻的な光景でしょうか。そこには、私の体ではなく、間違えようもなく女性の肉体の一部があったのです。女の腿がわずかにくねるように動いていました。しなやかな曲線を描く脚の付け根が、私の胴の下にあるのです。そのうち、もぞもぞと腿を動かしているのが私自身であるような気さえしてきました。それは錯覚にちがいないのです。私の感覚がペテンにかけられているのに違いないのです。自分の体のあるべき部位に他人の体が見えるものだから、つい自分で動かしているような気がしてしまうのでしょう。ですが真っ白な色をした両の腿が擦れ合うなめらかな感触さえ確かに感じたと思ったのです。そうこうするうちに、ぱたんと蓋が閉められ、娘の肉体は覆い隠されてしまいました。奇術師は続けて、膝の下、そして胸を、すげ替えてしまったのです。私の首の下に、美しい娘の体がくっついているのでしょうか。
 箱の蓋が閉じられ、覗き窓さえ外から閉じられました。この上、どうするというのでしょう。私は奇妙に高ぶった気持ちのまま、見守り続けました。奇術師は、私の首の入った一番上の小箱をぐい、と押しました。ついに、私の首から上さえも、娘のものにすげ替えてしまおうというのでしょう。ぐい、ぐい。容赦なく力を加えて、箱を押していきます。ごとり、とひときわ重い音がして、箱は舞台の上に転がりました。そのころには、客はみな気をのまれてしわぶきひとつあげる者とておりません。奇術師は、私の首を落としてしまったのです。一部始終を私は見守っていました。そう、見守っていたのです。私の首を入れた箱が落ちて転がる一部始終を。でも、だとしたら、それを見ていた私はどこにいたのでしょう。だしぬけに目の前が真っ暗になりました。闇に包まれたまま、一瞬の浮遊感をおぼえました。次に、小さな振動と擦過音が感じられました。そのはずみでか、ほんの少し覗き窓が開いて──ということは、私はまだ箱の中にいるということです──外が見えるようになりました。いよいよショーはクライマックスなのです。しゃあっと音がして、奇術師は例の薄い刃を引き抜きました。一枚、二枚、三枚。首、腹、膝の高さから刃が引き抜かれました。するとどうでしょう。バラバラにされていたはずの箱がもと通り、一つの縦長型をした黒塗りの箱に復しているのです。奇術師は勿体をつけた動作で、箱の扉に手をかけました。
 かちゃり。
 扉が開け放たれました。
 私は、息苦しさから解放され、箱の外へと踏み出しました。途端に、客席は途方もないどよめきに包まれました。箱の扉の内側がいつのまにか鏡張りになっていました。そのおかげで、私はこの大奇術の結末を知ることができました。まさしく、奇術師は全てをすげ替えてしまったのです。私の脚も胴も胸もそして首も。全てが、あの娘の体になっていました。私は、私の肉体をまるごとすげ替えられてしまったのです。もはや、「私」という言葉遣いが正しいのかも怪しく思われました。目の前に手を持ってきても、それは私の手ではなく彼女の手なのです。奇術でこんなことが可能なのでしょうか。私は観客と共に幻覚を見せられているだけなのでしょうか。私の頭は混乱するばかりでした。そのとき、客席からは満場割れんばかりの拍手が巻き起こりました。それを私はどこか現実の外のことのように聞いておりました。
 奇術師が私に向かって手招きをいたしました。
 求められるまま、私は彼の前に立ちました。ほかに何ができたでしょう。私の手足は、いえ、首も肩も何もかもが、細くて色白な娘のものに変わっているのです。突如として、私は自らを女だ、と意識しました。体の線を隠さない軽業師風の動きやすい衣装の下に、女の裸身が存在していることを強く意識したのです。その裸身が自らのものであると、私の心が受け入れたのです。無意識の裡に両手で乳房のふくらみを隠すようにしていました。観客の視線が恥ずかしかったのです。大勢の前に倒錯した女装姿を晒しているような、そんな当惑がありました。それだけではありません。私の心の一部は、女として、自らの肉体を大勢の人間に見られることに恥ずかしさを感じていました。そして、その恥ずかしさは、若くて美しい娘の肉体を持つことの誇らしさと裏表の感情でした。心の奥深いところで蠢く怪しい感情が確かに在ったのです。
「さて、ここからは、美女を思うがまま、自在に操る催眠術をお目にかけましょう」
 奇術師は、そう言って私の顔の前に手を近づけました。
 ぱちん、ぱちんと指を鳴らします。小刻みに位置を動かしながら、顔のまわりを旋回するように、ぱちんぱちん、と指を鳴らしていきます。その音と動きが幾度も繰り返されるうちに、私の心が細い糸で幾重にも絡められ縛られてしまった心持ちがしてきました。
「さあ次に手を打ったとき、お前は、直立不動のままうごけなくなるよ」
 耳元で奇術師がそう囁きました。そして、彼は私の眉間に指を突き立てました。その指をつつ、と下へ向けて動かしていきます。鼻の隆起をなぞり、唇を横切り、指は下に降りていきます。顎を過ぎ、なめらかな喉を通過し、胸を、腹を、指は伝っていきます。指が内腿に滑り降りたとき、私は小さく息を漏らしていました。私と奇術師にしか聞こえないほどの微かな吐息でした。包み隠さず白状するならば、このとき私は少なからず淫靡な感覚の虜となっていたのです。指がついに足元に到達すると、奇術師は立ち上がりぱちん、と手を打ちました。すると、最前の言葉通り、私はそれだけで身じろぎ一つできなくなってしまいました。棒を呑んだように、という言葉がありますが、まさしく全身を棒で貫かれたように私は直立していました。その私の背中を支えながら、ゆっくりと奇術師は私を横にしました。定規のように真っ直ぐ伸びたまま、私の体は倒されました。
「目を閉じなさい」
 途端に瞼をささえることができなくなりました。
「私が十数えたら、お前は眠りに落ちるよ。ふかあい眠りに落ちるよ」
 ひとつ、ふたつ、みっつ……。奇術師がゆっくりと数えていきます。
 ……ここのつ、とお。
 ぽっかりと口を開けた奈落に吸い込まれるように、意識が遠のいていきました。意識が途切れる寸前、世界の全てが変容したように、世界が現実感を喪失しつつあるように感じました。客席のざわめきやじりじりという電灯の音がぐんにゃりと歪んだようでした。そこで私の記憶はぷつりと切れているのです。

 次に気づいたとき、私は何もない空き地に立っていました。もちろん、私の姿は普段とかわるところなどありませんでした。ただ、容赦のない陽射しのせいで、べっとりと汗ばんでいました。遠くで、あの軍隊ラッパの音を聞いたような気がしました。けれど、それは空耳だったのかもしれません。私はようやく我に返ると、日陰を探して歩き出しました。もうそこは、見覚えのある通りでした。いつのまにか、友人に返すはずの本をなくしていました。そのことで、私は友人からこっぴどく怒られ、安くはない洋書を買って返すはめになりました。
 その後、私は幾度も、あの芝居小屋を探そうとしました。けれど、あのときどの路地を通ったものか一つも思い出せないのです。暇を見つけては、あちこちの路地を覗いてみたりしたのですが、ついに芝居小屋をもう一度見つけることは出来ませんでした。またたとえ見つけたとしても今ではあの奇術師の一座は今頃どこか遠い土地で巡業していることでしょう。
 もし私が精神科医に相談をしたならば、きっと重度の妄想症を言い渡されるのでしょう。全ては夢だったと解釈するのが最も常識的な選択だということも分かっているのです。それでも、一つだけ不思議なことがあります。あのときから、私の首と腹と膝の三カ所には、いまだに消えない赤く細い筋が、蚯蚓腫れのようにして残っているのです……。
 夏も終わりだというのに妙に陽射しが強く照りつける、そんな日には、一人で通りを歩いていると、どこからかあのラッパの音が微かに聞こえてくるのです。それは決まって空耳なのですが、そうと分かっていてもそのたびに私はあの一座を探して日が暮れるまで汗だくになって歩き通してしまうのです。






後書き:


 久々に文庫に作品を書こうと思い立ち、リハビリも兼ねて短編を書いてみることにしました。物語の舞台は、一応、昭和初期の東京をモデルにしてますけど、時代を特定できる要素は敢えて排除しました。それとこういう作品でありがちな旧字体表記は、うっとうしいだけなのでやっていません。しかし、まぁ……。短い時間ででっちあげたことをさっ引いても、相当な駄作になってしまって、実はコレを公開するのにはかなり抵抗がありました。ただ、掲載しないと次作を載せられるのはいつになるか分からないので、仕方なく……ということです。一応、その、作品の狙いとしては、読者のイマジネーションに委ねるところの大きい、そんな話にしよう、ということがありました。どうも最近の若い子(?)は美少女コミックの性転ものばかり読んでいて、安易に「萌える」作品に走りがちだぞ、と。それはそれでいいんですけど、でも萌えない(色気のない)話を強引に想像力で膨らませて行間に自分の見たいビジュアルを見出すというか、そんな読み方をするタイプの話もいいなぁと個人的に思うわけです。今回の話は相当エロティックなものを書いたつもりなんですが、字面を追っているだけでは全然エロっぽくないと思います。イマジネーションをフル稼働させて自分なりの肉付けをしながら読むのがこの話の正しい読み方です。……とはいえ、駄作なんでそこまでして読むこともないんですけど。

 次は、もっと明るくて軽いノリの作品を書いてみたいですね。学園モノで甘酸っぱい仮性半陰陽ネタなんてのもいいかも。この文庫ってなぜか仮性半陰陽ネタが出てませんしね。(『コンチェルトをもう一度』が相当するかもしれませんけど)。なにか、リクエストがあったら教えて下さい。



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